道徳的動物日記

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読書メモ:『AI時代の労働の哲学』

 

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

 

 

 人工知能と労働の哲学、といえば「人工知能が発達してシンギュラリティを起こして人間を凌駕する存在になる」ことを前提として、そこから「社会の生産性がすごくなるので人間は働かなくて良くなりみんなが好きなことをして生きていけるようになる」的な楽観論か「仕事を人工知能に代替されることない一握りのエリート階層の人間と、仕事を奪われて失業してしまう大多数の底辺階層の人間とに分かれてしまう」的な悲観論のどっちかを唱える、というのがありがちだ。流行りのベーシックインカムなんかも、前者の場合には人間が好きなことをして生きていけるのを保証するというポジティブなイメージで描かれるが、後者の場合は底辺階層の人間たちが最低限の生活を過ごせるようにするためにお情けで与えられるものというネガティブなイメージで描かれてしまう。

 しかし、この本ではシンギュラリティがどうこうとか「人間による労働が消滅する」みたいな大風呂敷は広げられない。あくまでこれまでの社会の中で起こってきた技術革新や機械化の延長にあるものとしてAIの発展を捉えて、スミスやマルクスやロックやリカードなどの経済学の古典を紐解きながら「労働」や「雇用」や「資本」や「疎外」といった基本的な単語が何を意味するのかということについて地道に再確認しつつ、これまでに起こってきた機械化とこれから起こるAI化の共通点と相違点を考えていく…という、地に足の着いた論じ方がなされている。

 とはいえ、本の後半では人工知能の発展がもたらす「人/物」の二分法の解体や倫理観の変化、これまでに以上に経済活動の高次な側面に参入するようになった人工知能がもはや「人間」として我々の前にたちあらわれる…といったSF的な部分もある未来予想図も展開されている。

 

「労働の哲学」の本ではあるが、前半は概念整理の思想史、後半は抽象的な未来予想図がメインであり、たとえば『働くことの哲学』のように一般的な労働者が自分の経験と照らし合わせながら実感を持って読めるようなタイプの本ではないし、未来予想図についても豊富な具体例を示してくれる『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』のようにわかりやすくはない。たとえば、私自身としては最近は特に「疎外」概念に関心を持っているのだが、この本の第4章「機械、AIと疎外」で展開されている疎外や「物神性」「物象化」などに関する議論は、思想史的な概念整理としての正確性はともかく、納得感みたいなものはほとんど抱けなかった。

 

 ところで、この147〜149ページでは、カント主義や功利主義が実体的な「人間」概念を取りこぼしたことに対する20世紀終盤におけるアリストテレス的な徳倫理の復活、それの副作用としての「あからさまに人間を序列付ける発想の密輸入」(p.148)が指摘されている。たしかに、近年の英語圏倫理学・哲学や、哲学的知見をふまえたタイプの心理学や社会学の本なんかを読んでいると、古代哲学的な「徳」概念が注目されていることはありありと見て取れる。…一方で、日本では、普段の会話とかネットとかにあらわれる一般の人々の意見を見てみると「徳」概念に関する意識なんて全くなくて、「AIで生産性が上昇してその成果が再分配されてみんなが働かずにラクに生きていけるならそれがベストだ」的な、世俗的な意味での「功利主義」的人間観にとどまっている人が大半であるように思われる*1

「人間でありさえすればいい」とする「人/物」の二分法に、「人間というためにはこうであらなければならない/こうであれば人間である」という条件がもたらされることで、人でない物に人間性が付与される一方で条件を満たさない人の人間性が剥奪されていく、というのがこの本で危惧されている未来図である。しかし、ヤケクソで投げやり的に自ら「人間」であることを捨て去って、「俺は物でいいや」と諦念して満足してしまう人たちも一定層はいそうなところである、と思った。

「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いについて

gendai.ismedia.jp

 

 ↑ この記事についたブクマなどの反応を見ての雑感。

 

 記事に対する賛否は半々であり、記事で指摘されているニワトリの劣悪な飼育状況に対する懸念を表明する声や改善を求める声もある一方で、記事の著者がアニマルライツセンターの代表であることから、記事自体の信ぴょう性を疑う声があるようだ。
 しかし、私には、「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いは、かなり奇妙で不合理なもののように思える。

 

 アニマルライツセンターは畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の改善や撤廃を求めて運動する団体である。そのことから「畜産業を批判する団体だから、畜産業の問題点をことさらに強調するために、特殊な事例を一般的な事例であるかのようにして針小棒大に騒ぎ立てるなど、印象操作や偏向が存在しているはずだ」という風な推測がはたらいているのかもしれない。
 だが、記事で指摘されているニワトリの飼育制度の問題点は、国内・国外問わず動物の福祉に関心がある人たちの間では以前から指摘され続けてきたことだ。おそらく、特殊事例を一般化して紹介しているわけではないだろう。


 そして、私が気になるのは「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という反応をしている人たちは、では“誰”の言うことなら信用するのか、ということである。

 

 もしかしたら、「畜産業の内部にいる人の言うことなら信用できる」とでも思っているのかもしれない。
 だが、私から言わせれば、畜産業の内部にいる人からの主張の方が「ごくまれな、動物の福祉に配慮されている良質な飼育状況の事例」を「一般的な事例」であるかのように印象操作される恐れが高い。
 畜産業の内部にいる人としては動物の福祉よりも業界の利益を優先することに経済合理性があり、飼育制度への規制や消費者からの悪影響を避けるインセンティブがあるからだ。
 畜産業に限らない一般論として、ある業界における何らかの制度の問題点が注目されたときには、その業界の当事者の言うことばかりを真に受けるのは賢明な行為ではない。業界の内部にいるということは、要するに利益や生活のためにその業界を擁護するという動機が存在するということだ。業界の内部にいる人は、その業界の事情に関する経験や知識は外部の人よりもあるだろうが、その人の言っていることが正確であるという保証はないのだ(意図的な印象操作ばかりでなく、認知的不協和のために業界の問題点を理解することができなくなっている、という場合も多々あるだろう)。

 その業界の内部で被害を受けてきた人たちや義憤にかられた人たちによる「内部告発」の場合には、その業界全体の利益に逆らう動機が生じるから、話はまた別だ。
 だが、言うまでもなく、畜産場に閉じ込められた動物たちには内部告発を行うことは不可能だ。
 だとすれば、動物たちの置かれている状況の問題点を誰が指摘するのか?

 業界の外にいて、業界の監視・改善(・廃止)を目的とする、アニマルライツセンターのような団体に代表されるような社会運動家たちしかいないだろう。
(もちろん、研究者やジャーナリスト、普通の個人などが業界の問題について調査を行って問題点を発表する、ということもある。しかし、調査することにも発表することにも、時間や金銭などのコスト、また精神的な負担がかかるものだ。継続的な調査と発表は、やはり、団体でなければ行えないものだろう。)

 

 特に日本では社会運動団体というものは不審がられて軽視されがちであり、また、業界やその内部にいる人たちの発表は鵜呑みにする傾向があるように思われる。だが、それは、浅薄な現場主義としか言えない。

 とはいえ、たとえばステマだったりブラック労働の問題だったりであれば、多くの人が業界を批判している。

 

 動物の問題に限って「アニマルライツセンターの言うことだから信じない」的な反応が目立つようになるのは、やはり、認知的不協和が原因だろう。つまり、自分が消費している食物が生産される現場がこれほどまでにひどいということを直視したくない、また直視してしまった結果として生じた罪悪感を解消したいために、「問題点を指摘する側に何らかの問題があるから、この問題は直視しなくてよい」という風に自分を納得させる心理が働いているのだと思われる。
 こういう人たちにもメッセージが届くように「伝え方を変える」なり「イメージを良くする」なりも、社会運動団体に求められることではあるかもしれない。
 だが、それはそれとして、彼らの主張がかなり不合理であることをこうやって指摘しておくことも必要であるだろう。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

キムリッカによる動物の権利論(読書メモ:『人と動物の政治共同体 - 「動物の権利」の政治理論』)

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 この本は院生時代に原著を読んでおり、邦訳が出版されたときにもその感想を数年前にこのブログで書いているが、その時の感想はすこし辛口なものになってしまっていた。改めて再読したことを契機に、今回はより好意的な感想を書くことにする*1

 

・この本を再読した直接のきっかけは、著者の片割れであるウィル・キムリッカが執筆した『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』を読んだことである*2。キムリッカはリベラリズムの社会において多文化主義を実行する方法について長年考えてきた理論家として名高い。また、『多文化主義のゆくえ』を読んだところ、理論だけでなく実際の政治や政策にも関わっているようだ。多文化主義には、リベラリズムを内側から蝕む病原菌だとか近代的な人権意識を破壊する爆薬だとかいう汚名が着せられることも稀ではない。近年では特にヨーロッパにおけるイスラム系の移民との関係で、多文化主義に対する反動的な理論が盛ん担っているようだ。しかし、キムリッカは、それらの危惧の多くは非現実的な想定に基づいた極端なものであり、リベラリズムの理論も多文化主義の理論も正確に把握していない藁人形論法である、ということを淡々と示すのである。

 …と、多文化主義を擁護するキムリッカではあるが、『多文化主義のゆくえ』やその前著の『土着語の政治』を読んでみると、予想以上にキムリッカは多文化主義に対する制限を加えていることもわかる。つまり、多文化主義といえどもあくまで前提には「人権」や「自由主義」や「民主主義」という近代的な規範が存在しているのであり、マイノリティ文化が認められるのも人権やリベラリズムの制約の範囲内だ。文化的コミュニティという単位に対してある種の自治権や政治の場において代表される権利などは認められたりするのだが、その文化コミュニティ内における個人の人権を侵害したり自由を抑圧することは、いくら「文化」という言い訳を並べても許されない。多文化主義は、文化相対主義とは程遠いのである。

 そして、人間の権利が多文化主義を制約するという構造は、そのまま、動物の権利が多文化主義を制約するという構造につながる。このブログではこれまでにもキムリッカとドナルドソンによる「多文化主義と動物の権利についての議論」や「先住民の権利と動物の権利についての議論」を紹介してきた。これらの議論においても、マイノリティの文化や先住民の文化は基本的には尊重されるべきであるとされているが、それでも人間の権利を侵害することが許されないのと同様に、動物の権利を侵害することは許されないとされているのである。

多文化主義のゆくえ』では動物の権利に関する話題が触れられることはほぼ無いが、理論の根本に権利主義やリベラリズムがあるという点は『多文化主義のゆくえ』でも『人と動物の政治共同体』でも一貫しているのだ。そういうことに気付いた次第である。

 

・『人と動物の政治共同体』を貫く問題意識は、ピーター・シンガーに代表されるような功利主義にせよトム・レーガンやゲイリー・フランシオーンに代表されるような権利論にせよ、これまでの動物倫理のアプローチでは人間社会で行われている家畜や実験動物などに対する大規模な虐待や搾取と、そのような不正義な状況からの動物たちを解放するために現状で人間が動物たちに行なっている諸々の行為を「禁止」するという、ネガティブで消極的な考え方ばかりが展開されていたということである。

 つまり、功利主義や権利論のアプローチでは我々の身近に存在するペット動物や街中の野生動物に対してどう接してどのような形の関係を築けばいいのか、ということに対して満足のいく回答が得られることが少ないし、そもそも既存の理論ではそのような問題は関心の外に置かれがちだったのである。家畜や実験動物の置かれている状況の不正さに比べるとペットや街中の野生動物の問題は緊急性が低い、という問題意識もあったのだろう。

 そのため、「人間のせいで不正義な状態に置かれている動物たちは解放するべきであるが、それ以上は積極的な介入をするべきではない」とか「ペット動物という制度も動物を人間に従属させるという点では根本的に不正義であり、ゆくゆくは無くすべきである」などという、何かを禁止することばかりな結論になりがちだったとされているのである。

 著者ら(ドナルドソンとキムリッカ)はこの状況を問題視して、より「積極的」な規範を提唱しようとする。つまり、家畜やペット動物に対して私たちはどんな対応をする義務があってどのように適切な関係を築いてくべきか、ということや、自然の中の野生動物たちと街中の野生動物たちと人間社会との関係はどのようにあるべきか、ということだ。そして、ペットや家畜に対しては「市民権(シティズンシップ)」認めて野生動物には「主権」や「デニズンシップ」を認めるというアプローチによって、著者らは「積極的な規範」に形を与えようとする。

 

 

・第二章では「動物の道徳的地位」について論じられてはいるが、動物の「権利」や「人格」が何を意味するのかということについて、倫理学的に詰めることはあまりされていない。
 倫理学において動物の道徳的地位を扱うとなると、「そもそもなぜ動物(や人間)には道徳的地位が認められるのか」というところから話を始めなければならないし、それに関連して、境界事例の人間との比較や動物の種ごとの認知能力による配慮の必要性の多寡の比較衡量など、人によっては拒否感も抱くような厳しい話題に触れる必要がどうしても出てくる。
 しかし、著者らは「そもそも論」にはあまり触れずに、動物の道徳的地位とそれに伴う政治的権利をさっくりと認めてしまう。
ここは倫理学と政治哲学の違いといえるかもしれない。つまり、政治哲学においても基本的人権の話がされることはあるとはいえ、政治的権利や民主主義やより具体的なテーマについて話をするときに毎回毎回「そもそもなぜ人間には権利が認められるのか…」というところから話を始めていたら本題にたどり着くまで時間がかかり過ぎるというところだ。
 また、「現在の社会の状況や歴史的経緯から、わざわざ証明するまでもなく、基本的人権やシティズンシップの必要性は認められている」という風な手付きで話を始める傾向も政治哲学にはあるようだ。そして、この本でも、そういう政治哲学の作法を著者らは引き継いでいるといえる。
 ここら辺は私としては物足りないところだが、まあ良し悪しかもしれない。

 

・動物の道徳的地位について理論的に詰めたり、具体的にどのような道徳的配慮が必要かということについて科学的知見を用いて分析される代わりに、自然やペットの観察に基づいた文章や動物と人間との触れ合いに関するエピソードを中心とした、ある意味では情緒的な議論がなされている。
 これも良し悪しだろう。改めて読み返して思ったのは、情緒的なエピソードには理論にはないエピソード特有の説得力というものが備わっていることは確かだ。
 また、シンガーの『動物の解放』にせよフランシオーンの『動物の権利入門』にせよ、現在の社会で動物が置かれている悲惨な状態を書き連ねられると読み物としての魅力が減り、その本を再読しながらじっくり考える気が起きなくなる、という点は確かにある。
 人間と動物との関係について理論的にばっかりではなく質的なエピソードに基づいて考えたい、という需要は多くの読者にあるだろう。そして、質的なエピソードに基づいた議論は人類学なりポストモダン哲学の本ですでに展開されている。しかし、それらの本ではそもそも動物の道徳的地位や動物に対する社会正義が認められていない(むしろ、積極的に否定されている)ことが多いので、動物を思考の題材としながらも、動物たちにどう接するべきかという規範は論じられないことが多い。
 そういう点では、著者らの目論見通り、「積極的」で「ポジティブ」な動物倫理の議論を描くことに成功しているといえる。
 この成功の理由の一つは、著者ら自身が犬を飼っている「動物好き」であり、自分たちがペットを飼ってきた経験が問題意識の出発点になっているからだと察せられる。逆に、シンガーらの議論にポジティブさや面白みが欠けるのは、彼の問題意識の出発点は左派的な社会正義にあるからなのだろう。

 

・この本のキモの一つは、障害者や子どもの政治参加やシティズンシップについて蓄積されてきた議論を動物の権利に関する議論に応用しているところだ。
 実際、「一般的な成人が持つほどの意思伝達能力や規範を遵守する能力があるわけではないが、全くないわけでもなく一定程度の能力は存在する」という点では、たしかに動物の立場は障害者や子どもの立場と相似している。
 そして、アメリカや日本などの先進国では公衆衛生や安全性などの理由によって社会の様々な場から動物の存在が排除されがちであるが、障害者や子どもの排除が差別であり不正であるのと同じ理由で、これも差別や不正とされることになる。
 たとえば日本では「飲食店は動物を店内で飼うべきではない」「野良猫は不潔で迷惑だから排除したい」という主張には正当性があるように思えて批判しづらいが、動物のシティズンシップという概念を導入することで、このような主張を批判することが可能になるのだ。
 動物が公共空間に溶け込んでいるヨーロッパの事例の紹介や、動物が排除されている場にあえて動物をあらわせさせる「市民的不服従」的な事例の紹介は、まさに障害者運動とオーバーラップしていてなかなか興味深い。また、障害学や社会学の知見などを参照しながら、動物の「主体性」を認めないことや動物が劣って依存的だと見なすことの心理的・社会的な悪影響も論じられている。
 そして、「市民」であるペットや家畜動物たちにも社会のルールを理解して従うことが求められる(もちろん人間ほどではないが)、というのも面白いところだ。
 実際に動物たちが様々な規範(動物の群れ内における規範と、人間や他の動物たちと共存するコミュニティ内における規範の両方)を理解するという実例も示されている。日本ではまだ馴染みの薄いファーム・サンクチュアリなどの場における活き活きとした動物の行動に関する、未邦訳の文献も多く引用されている。動物行動学の読み物として楽しめる側面もあると言えるだろう。

 

・「動物倫理といえば功利主義パーソン論」というイメージは強く、「動物倫理は動物への道徳的配慮を能力でランク付けして、私たちと動物の間にある複雑な関係を考慮しない空理空論だ」という批判は未だに根強い。しかし、『人と動物の政治共同体』では、動物と人間との多様な関係性について様々な実例を示さながら考察される一方で、そのような豊かな関係を築いて保つためには動物に対する正義と権利の概念が不可欠であることを論証してくれる。「人と動物の豊かな関係」的なテーマについての議論の多くが動物に対する義務や規範をおざなりにして人間にとっての「いいとこ取り」に終始していることをふまえても、この本は広く読まれるべきだろう。

*1:この本の著者はスー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの二人であり、いくらキムリッカの方が有名だからといって「キムリッカの本」と表記することは、本来は間違っている。「ドナルドソンとキムリッカの本」と表記するべきである。しかし、今回のこの記事ではキムリッカの単著である『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』などに触れたうえで『人と動物の政治共同体』の感想を書くことになるので、記事のタイトルにはあえてキムリッカの名前のみを表記することにした

*2: 

多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘(サピエンティア)
 

 

「負の性欲」論についての雑感

gendai.ismedia.jp

 

↑ この記事に関する雑感。

 

・この記事では「負の性欲」という概念がさも画期的な発明であるかのように大げさな言葉で説明されているが、実のところ「負の性欲」が指し示す現象はこれまでにも俗流の男女論や恋愛心理学で散々言われてきたものだ。
 つまり、「男は加点方式、女は減点方式」というアレだ。この言葉でググれば俗流の男女論や恋愛アドバイスを提示しているWEBページがいくらでも見つかるし、上記の記事と同じように進化論を持ち出してこの理論を補強しようと試みるページもいくらかある。
 そして、一般論やステレオタイプが往々にしてそうであるように、大方の男女の行動や価値評価については「男は加点方式、女は減点方式」は当てはまる部分があるかもしれない。さらに、それらの行動や価値観の背景には進化的な影響もある程度は存在するだろう。
 しかし、当然のことながら、すべての男女にこのステレオタイプが当てはまるわけではない。個々人の恋愛における価値評価や行動は実際にはもっと多様でニュアンスに富んだものだろう。一般論はあくまで一般論に過ぎないのだ。
 とはいえ、「男は加点方式、女は減点方式」という一般論は、例えばモテようと思っていたり好きな女性がいたりする男性にとって実践的に役に立つという面はある。要するに、「女性は些細な点で男性に対する好意を失ったり恋愛の対象にしなくなったりするという傾向があるらしいから、女性や気になる人の前で粗相をしないように気を付けよう」という風に、具体的な行動のアドバイスに結び付けることができるのだ。
 ある男性が「粗相をしないように気を付けよう」と決心するぶんには誰にも迷惑をかけることがないし、それが実際に恋愛の成功だったり良好な男女関係に結び付くのだとしたら、男女双方にとって好ましいことだと言えるだろう。

 だが、同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
 むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
 このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

 ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
 しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 ネットが登場する前から雑誌やラジオの場などで無責任な男性文化人や男性芸能人による「男女論」や「恋愛相談」があったことは事実であり、その多くはステレオタイプミソジニーに基づいたものであったことも確かである。
 しかし、文化人や芸能人による男女論や恋愛相談は本人たちの実際の人生経験や恋愛経験に基づいたものであり、すくなくとも実践的で生産的なものではある。影響を受けるにしても、ネット知識人による机上の空論よりかは、実際の経験に基づいたものの方がマシだろう。

 

・「負の性欲」論には進化論的暴露論証につきものの問題点も備わっている。

 つまり、適用可能な範囲が広すぎるうえに反証可能性がないということだ。

「負の性欲」論にかかれば、女性による男性の言動に対する批判は、それがどんなにもっともなものであるとしても「それは負の性欲に過ぎない」と言って切り捨ててしまうことができる。それに対して女性が反論してもまた「それも負の性欲に過ぎない」と、無限に言うことができるだろう。
 しかし、当然のことながら、女性が男性の言動を批判する時には、ほとんどの場合は「拒否権の行使」や「キモい」という感情の言い換え以上の動機や論理があるはずだ。たとえば、「10代や20代の女性と結婚したい」と言い放つ40代男性に対する批判は、個々の女性が持つ人格を考慮せずに年齢のみで人を判断しようとすることの非倫理性に対する批判で有り得るのだし、決して「キモい」という感情の言い換えだけではない。

 実質的には、「負の性欲」論は女性による性被害の告発や恋愛・婚姻の自由を求める主張などを、すべて封殺してしまうことになるのだ。
 反証可能性がない議論という点では、社会構築主義的なジェンダー論による「男性の特権」や「有害な男らしさ」などの概念を用いた男性非難と変わらない。非難の対象が男性から女性になり、用いる理論が社会構築論から進化論になっただけで、鏡合わせのようなものだ。

 

・相手に対して「拒否権を行使」することが、女性からの男性に対する(性欲に基づいた)行為として限定されている点も気になるところである。
 というのも、多くの場合において、女性から「拒否権を行使」される男性は、同性からも「拒否権を行使」されているからである。

 

 単に「キモい」とだけ言って切り捨てる行為の大半は正当化できるものではなく、各種の外見的特徴や身体・精神・発達の障害や病気を持った人に対する差別につながるものであり、加害行為であることは認めたとしよう。
 しかし、「拒否権を行使」することの内実は、実際にはもっと多様なものなのだ。

 

 たとえば、身だしなみを整えず服装にも無頓着な人は、異性からだけでなく同性からも「拒否権を行使」されてしまうことがある。
 また、音を立てながら咀嚼するなど食事のマナーがなっていない人、他人の話を聞かずに割って入って自分の話ばかりをしたがる人、相手が言葉の裏に込めたニュアンスや感情を読み取ろうとせず言葉通りの解釈だけをしようとする人……などなどな人は、異性から拒否されてモテないだけでなく、同性から拒否されて友達もいなくなるリスクも抱えているだろう。
 なぜかというと、人と会う前に身だしなみを整えないことや、食事や会話の場におけるマナーを守ることを怠るということは、自分の目の前にいる相手に敬意を払って尊重するという行いを欠くことであるからだ。他人のことをナメた、自己中心的な人間であると言うこともできる。
 相手に対して礼を示して相手を尊重するという努力を行うことは、モテや恋愛にも必須とされるだけでなく、人間関係において当たり前に要請されることだ。
「拒否権を行使された」ことを加害だと騒ぐ前に、自分が他人に対して礼を失するという「加害」を行っていないかどうか、振り返ってみるのも大事だろう。

 

 そして、拒否権は礼を欠いた人にだけでなく、倫理を欠いた人にも行使されることがある。
 ある人が非倫理的な言葉を放ったり非倫理的な行為をした場合には、その人は該当の言葉や行為について批判されることがあるだろう。だが、批判をしてもらえるだけ、まだ甘いといえる。多くの場合では、相手のことを非倫理的な人間だと判断した人はその相手に対して嫌悪を抱き、何も言わずにその相手との関係やコミュニケーションを断ちたくなるものだからだ。
 たとえば、私は上述の記事の著者について、倫理的な理由から強い拒否感を抱いており「拒否権を行使」したいと思っている。自分の金儲けや承認欲求のために空理空論を弄んで社会の分断を促す、非倫理的な行為を行っている人間だと判断しているからだ。
 言うまでもなく、私がこの著者に対して「拒否権を行使」したところで、それは私の性欲とは関係がない。
 そして、女性のなかにも、私と同じようにこの著者のことを非倫理的な人間だと判断して、倫理的な理由から「拒否権を行使」したいと思う人はいるだろう。
 だが、「負の性欲」論にかかれば倫理的な理由からの拒否権の行使も性欲に回収されてしまう……すくなくとも、「負の性欲」に由来する拒否権の行使とそうでない理由による拒否権の行使とを区別する手立ては、まったく用意されていないように思われる。
 やはり、このようなデタラメでご都合主義的な理論は相手にする価値も無い、と言うしかないだろう。

 

 

仕事と倫理

magazine-k.jp

 

 この記事を読んで思ったことや、さいきん考え続けていることを書きなぐる。ただし、内容自体は上記の記事とはあまり関係ナシ。

 

 上記の記事の後半では本の流通の問題や書店・本の存続そのものについての危惧が語られているが、それはおいておいて、前半で触れられている「アイヒマン問題」について思ったこと。
 一般的には書店員は本が好きな人であるはずだし、本が好きな人はそれだけ物事について考えるのが好きな人であり(そうでない人もいるが)、本を通じて多様な観点に触れて感性も養っているだろうから(ぜんぜん養えていない人もいるけれど)、人種差別や性差別などの問題には敏感であるだろう(本から全く何も学ばずに鈍感なままの人も多々いるが)。
 記事のなかでは書店員(や出版業界の人々)が"自ら思考することを放棄し、与えられた課題を唯々諾々とこなすだけの「作業員」となって"しまうことの問題が論じられているが、おそらく、思考を放棄せずに現在の書店や出版業界の惨状を苦々しく思いながら働いている書店員もいるはずだ。
 しかし、思考を放棄しなかったところで、現場の書店員なんて所詮は業界や企業の末端にいる存在だ。現状を改善するためにできることは限られているだろうし、何もできない立場にいる人も多いだろう。
 そういうわけで、思考の有無に関わらず、書店員として働いている以上(または、出版業界に関わっている以上)は多かれ少なかれ「アイヒマン」化するといえるかもしれない。

 

 そして、仕事を通じて「アイヒマン」化するのは書店員に限らない。
 たとえば、ジャーナリズムやマスコミ、映像メディアやWebメディアなどの仕事には大なり小なり出版業や書店に似たところがある。
 つまり、それらのメディアのなかでも良質な物であれば、人々の知見を広げたり社会の様々な問題に気付かせたり深い思考にいざなって批判精神を身に付けさせたり人権意識を高めたりなどなどの善い影響を人々に与えることができる。それらのメディアに仕事として関わりたいと思っている人々も、良質な物による善い影響を受けた経験がきっかけとなることが多いだろうし、そのような人たちの考え方や価値観についても人権意識や批判精神が高い傾向にあると思われる。
 しかし、ほとんどのメディアにおいては良質な物はごくわずかであり、大半の物はクズだ。人権意識を高めるどころか他者の人権を積極的に毀損するものであったり、人を深い思考にいざなうどころか思考停止に誘導して白痴化させるものであったりする。
 能力があったり運がよかったりすればメディア業界に身を置きながらも良質なものを作る側にまわれるかもしれないが、ほとんどの人はクズを作る側にまわらざるをえないものだろう。
 そのような状況に置かれた場合、人権意識や批判精神などを保つことは認知的不協和を招いてしまい、むしろ精神的なストレスにしかならない。
 そのために積極的に思考を放棄したり、あるいは露悪的にシニシズムに傾倒したりしてアイヒマン化せざるをえない、という状況があるかもしれない。

 

 書店会社やメディア会社などに従業員として働いてしまうから会社の要請によってアイヒマン化してしまうのであり、独立したクリエイターとして活動するなら自分の倫理観を保ち「やるべきではないことはやらない」「悪には加担しない」という選択することもできるから、アイヒマン化することは避けられるかもしれない。
 だが、独立したクリエイターでいつづけるためには積極的に仕事を取って金を稼ぎ続けなければならない。そのため、クリエイターは会社員以上に非倫理的になりえる。
 クライアントである企業の要請にしたがってステルスマーケティングなどの非倫理的行為に協力するクリエイターもいれば、大衆の歓心を買うために差別を扇動したり社会を分断したりするコンテンツを積極的に作成して拡散するクリエイターもいたりする。
 ステマや差別扇動などは極端だとしても、つまらない映画や美味しくもないコンビニの新製品を大げさに美化して宣伝する漫画や記事を書いたりする漫画家やライターがいたり、一冊の本を成立させるために自分でも本気で信じてはいない理論をなんにでもあてはめる批評家がいたりする。これらだって嘘を付いているという点では非倫理的だ。すくなくとも私はこういう人たちに徳性や品性は感じない。

 結局のところ、受動的に「アイヒマン」化するか、能動的に悪を創造して世間にまき散らすかの違いでしかないかもしれない。 

 

 しかし、こんなことを言い続けていたら働いたり金を稼いだりすることがすべて非倫理的だということになってしまうし、働かなくてすんだり金を稼ぐことに必死にならないでよい上流階級とか資産家の息子だけが倫理的であり続けられる、という結論になってしまう。だが、この結論もどう考えてもおかしいだろう。「働かなくていい」というポジションに付いている時点で不平等な社会制度に加担しているから倫理的でない、などとも言えるが、それ以前に、仕事や労働をする時点で倫理や徳からは離れてしまうという議論はあまりに不毛だ。というわけで、個々人の人が自分の持ち場で(金を稼いだり生活を継続することとのバランスをとりながら)精一杯に倫理的行為を実現したり徳性や品性を失わないようにがんばる、という結論しかないかもしれない。

 

 

 

切り抜きメモ:ミルの「功利主義」の「満足した馬鹿であるより不満足なソクラテス」論

 

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

 

 

 ミルの「功利主義」に書かれている文章でいちばん有名なものといえば、やっぱりコレ。

 

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。 そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、 それは彼らがこの問題について自分たち側しか知らないからにすぎない。 この比較の相手方は、両方の側を知っている。

 

 関連して、私が今回「功利主義」を読んで妙に記憶に残ったのは以下の部分だ。

 

…しばしば人間は性格の弱さゆえに価値が低いと分かっていながら手近にある善を撰び取る。これは、二つの身体的快楽のうちから一方を選ぶときと同じように、身体的快楽と精神的快楽のどちらかを選ぶときにも起きることである。人間は健康がより重大な善であることを十分に認識していながら、肉欲にふけって健康を害することがある。さらに、若い頃にあらゆる高貴なものに対しての熱意をもっていた人の多くが年齢を重ねるにつれて怠惰で利己的な状態に陥っているという反論がなされるかもしれない。かし、このようなごくありふれた変化を経験する人が高次の快楽よりも低次のものを自発的に選びとっているとは私には思えない。もっぱら低次のものに傾倒するようになる前にすでに高次のものに身を委ねることができなくなっているように私には思える。高貴な感情を働かせる力は多くの点で弱々しい植物のようなものであり、不利な作用によってだけでなく、養分が不足しただけでも簡単に枯れてしまう。大部分の青年にとって、人生のその時々についてきた職業やそれによって関わることになる社会がこの高等な能力を発揮し続けるのに不向きならばこの力は弱ってしまう。人々は知的な趣味を失うことによって高い意欲も失ってしまう。というのは、彼らはそれらに耽る時間も機会も持てなくなるからである。彼らが低次の快楽に耽るのは、よく考えた上でそれらを選び取っているからではなく、彼らがそれらしか得ることができないか、あるいはそれらを享受する能力しか持っていないからである。

(p.270)

 

「質的功利主義」につながるミルのこの主張はエリート主義的だとして批判されがちだし、理論的な問題も多々指摘されている。
 特に現代は平等化と大衆化の時代であり、趣味や幸福に関するエリート主義的な見解はウケが悪い。他人の趣味について意見を言ったり、幸福に関して忠告をするだけでも反感を抱かれがちな時代になっているだろう。
 しかし、私としては、現代のメディアに溢れているような浅薄で短慮な幸福論や趣味論にはいい加減にうんざりしている。

 利益目的でメソッド式に粗製濫造されたアニメやYouTuberの動画を見るヒマがあれば作り手の信念やこだわりがこもった映画を見た方がいいし、レトルト食品や冷凍食品よりもすこし手間をかけて自分で作った料理を食べる方が美味しくて健康に良いし、ストロングゼロなんてゴミ箱に捨ててまともな酒を飲むべきである(できれば飲まないのが一番だが)。
 これらのことはミルだかソクラテスだかに言われるまでもなく、本来なら当たり前のことだ。
 しかし、現代は低賃金の時代であり、金を稼いでいるエリートですらオーバーワークをしている時代でもある。誰にとっても、金と気力と時間のどれかが、またはそのいずれもが足りないため、高尚な趣味を楽しむ余裕がない。
 それ自体は仕方がないことである。しかし、開き直って、YouTuberの動画やレトルトカレーストロングゼロに価値があるかのような言説がはびこっているのはよくない。
 それらの下等な趣味を楽しむ時にはせめて自分が愚者になっていることを自覚するべきだし、他人に薦めるべきではない。そして、可能であれば、余裕をもって高尚な趣味を楽しむことに努めるべきだろう。
 それが無理だとしても、下等な趣味を楽しまざるを得ない自分の置かれている状態が不当で誤っている、ということだけは忘れないでいるべきだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

社会運動の「戦略」の問題を指摘する人について

 

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ  ―フェミニズムとMeToo―

現代思想 2018年7月号 特集 性暴力=セクハラ ―フェミニズムとMeToo―

 

 

 ネットでは昔から社会運動が盛んだ。
 数年前までは、在特会などの団体や嫌韓・嫌中の運動に対抗する反レイシズム運動が特に目立っていたように思える。
 2011年の震災からしばらくの間は反原発運動も盛んであった。また、安倍政権に反対する運動も定期的に行われている。
 そして、最近で特に注目を浴びているのは#MeTooやKuTooなどのフェミニズム系の運動であるだろう。

 これらの主張はいずれも社会運動である以上、なんらかの理念や規範に基づいて、なんらかの主張や要求を行っている。
 基本的には、「平等」や「人権」などのすでに社会的に認められている規範を延長させることで新しい規範を提唱して、その新しい規範に基づいて、個々人の行動や社会の慣習や制度を変更させるような要求を行っているといえるだろう。

 ネット上では、これらの社会運動について様々な人が何らかのコメントをしている。
 そして、はてブTwitterなどのSNSにおける個人のコメントにおいては、独特の特徴が存在するように思われる。
 それは、運動の提唱している規範や主張などについて直接取り上げたコメントではなく、運動の「戦略」について云々するコメントの方が目立ち、かつ人気を得やすいという特徴だ。

 

 私が念頭に置いているのは、たとえばMeTooやkutooに関して言えば、以下のような言説である。 

「日本でのMeToo(KuToo)運動は、運動の火付け役だった○○○氏の言動に問題があり、支持者たちもそれを批判できなかったために、大衆の支持を広く得ることができずに失敗してしまった(失敗するであろう)」

 MeTooやKuTooに関する話題のはてブを見てみるといつもこういうタイプのコメントが何個かあって、一定数のスターを稼いでいる。
 同じく、TwitterでもこういうタイプのコメントはRTやFavを稼ぎやすい。
 しかし、そのようなコメントやそれにスターやFavを付けている人を見ると、私はいつも「嫌らしいなあ」という感情を抱いてしまうのである。

 このタイプのコメントが私には嫌らしく思えるのは、運動の主張自体の当否を戦略の当否にすり替えている感じがするからである。
 先述したように、大半の社会運動は、「平等」や「人権」など我々の社会で既に共通理解を得ている規範から出発して、その規範を延長させた新しい規範を主張したり、我々個々人の行動や社会慣習や政治制度などを改善するように具体的な要求を行ったりする。
 もしその要求が不当であると考えたり、主張されている新しい規範を認める理由がないと考えるのであれば、それに対して反論を行えばよい。
 しかし、実際には、反論を行うことは難しい場合が多いだろう。というのも、大概の社会運動はすでに私たちが受け入れている「人権」や「平等」などの規範から出発している以上、その主張は無難なものであり、多くの人にとって妥当に思われるような主張を行っていることが多いからだ。
 たとえばMeToo運動に関しては女性に対する性暴力を表立って擁護する人はなかなかいないし、KuToo運動に関しても、女性にだけヒールを履かせるよう強制することを正当化する議論ができる人はほとんどいないだろう。
 だから、運動の理念や主張に対して直接的に反論が行われることはあまりないし、そのような反論が他の人にウケることもあまりないのである。
(萌え絵反対運動であったり動物の権利運動であったりなど、既存の規範とはやや距離が離れており論証の必要性が増すようなタイプの社会運動に関しては、反論の余地も大きくなる。そして、そのような運動に対しては、実際に理念や主張に対して直接の反論を試みようとする人が増える印象がある。)

 そして、運動の戦略上の問題点や「失敗」を指摘する人であっても、「この運動の理念や主張には賛同するが、だからこそ指摘しておかねばならない…」という風な前置きする人もいる。
 そのような人の中には本心から運動の理念に賛同していて、善意で戦略面の問題を指摘しようとする人もいるだろう。
 しかし、戦略の問題を指摘する人の大半は、運動の理念や主張については実のところ反感を抱いている…と私は邪推する。
 つまり、運動の主張や要求に対して「嫌だなあ」とか「ウザいなあ」などのネガティブな気持ちを抱いていて、なんとかして運動にケチをつけたいが理念や主張面での反論はできないので、戦略上の問題をあげつらっているということだ。
 
 本来は戦略上の正しさと理念面での正しさは別物であり、仮に戦略面では全く成功していない運動であっても、理念が正しいかどうかの判断は別途に行える。
 つまり、周りの誰も賛同しないように見える運動であったとしても、その運動の言っていることが正しいかどうか個々人で考えて判断することができるし、またそうするべきなのだ。
 さらに言えば、運動が戦略的に成功しているかどうかを外部から判断することはかなり難しい。はてブでは否定的な反応ばかりでもネットの別の領域では賛同を得ているかもしれないし、ネットでは批判されてばかりの運動が現実世界では成功を収めているという可能性もあるのだ。
 理念や主張に関する判断は規範の問題なので論理の範囲内で行うことができるが、戦略に関する判断は事実に関する事柄なので、客観的な証拠やデータがないと本来は判断できないものなのである。
 しかし、その指摘の正確さに関係なく、戦略上の問題点を指摘することには、「運動の理念や主張自体に反論が行われた」という誤った印象を与える効果があるようだ。
 ついでに言うと、戦略上の指摘をすることには、指摘している人が運動を行っているよりも賢く客観的に見えて、一段上の立場にいるような印象を与える…そんな効果もあるかもしれない。
 実際、物事について戦略などのメタ的な次元で考えようとすることは、賢い印象を他人に与えたいと思っている人にとっては基本的な仕草であるだろう。
 
 …このようなことをつらつらと考えていると、やっぱり結論としては「嫌らしいなあ」という感想しか私には湧かないのだ。
 もちろん、上記の私の分析はすべて邪推のうがちすぎであって、まったくの的外れかもしれない。私の分析自体がメタ的なものになっていて嫌らしいと言われたら反論の仕様はないし、あるいは自分の心を他人に投影しているだけかもしれない。