道徳的動物日記

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読書メモ:『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

 

 

 

 翻訳の出版当時から気になっていたのだが(著者の前著の『脳は楽観的に考える』もそれなりに印象深かった)、図書館での予約数がハンパなく、一年半経ってようやく借りれることになった。

 しかし、期待していたほどにはおもしろくない。もうすこし社会的な要素や倫理的な要素が含まれているかと思ったのだけれど、あくまで心理学的な話が続くだけ。どちらかというと、ビジネスやマーケティングの場面に応用することを期待して読まれている本だ。『影響力の武器』とか『人を動かす』とかのあたりと同じような立ち位置にいるのかもしれない。もう返却してしまったので引用とかはできないのだけれど、まあ、本の趣旨はHONZの紹介で充分だし、具体的な研究結果とか「人を動かすテクニック」を知りたいなら本を買って読めばよろしい。

 

honz.jp

読書メモ:『真実の終わり』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 以前にも紹介したんだけれど、改めて再読。しかしまあやっぱりあんまり中身がある本ではないような気がする。著者は文芸批評家であるんだけれど、文芸批評らしく皮肉や比喩や気の利いた表現が散りばめられているので、冗長になり論旨がボケているのだ。もうこのタイプの文章そのものがどっかに捨てられてしまってもいいだろうと思うんだけど、文章や本が好きな人に限って「文芸批評」風味の文章にメロメロになっちゃうんだから世話がない。

 以下は個人的に興味のあるところのメモ。

 

さらに皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。これらの学派は何十年間も左派およびトランプとその仲間が軽蔑する極めて名門とされる学会と結びついてきた。学者によるこうしたしばしば深遠な議論を、なぜ我々が気にしなければならないのか?トランプが、デリダボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ(仮にその名前を聞いたことくらいはあったとしても)。世の中に流布している漠然としたニヒリズムのすべてが、ポストモダニズムの思想家のせいだとは到底いえない。しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。悪名高いオルタナ右翼トロール陰謀論者のマイク・セルノビッチでさえ、『ニューヨーカー』誌による二〇一六年のインタビューで、ポストモダニズムを引き合いに出した。「ほら、私は大学でポストモダンの理論を読んだんだ。何もかもが物語であるならば、主流な物語に対する他の物語が必要じゃないか」。彼は付け足した。「私がラカンを読むような人間には見えないだろう?」

(p.35 - 36)

 

大学キャンパスでも個人的な証言が流行りだした。客観的真実という概念が支持を失い、伝統的な研究によって収集された経験的証拠に疑いの眼差しが向けられるようになったのだ。学界の執筆者は、自身の「立ち位置」に関する断り書きから学術論文を始めるようになった。人種、宗教、ジェンダー、背景、個人的経験が、分析に貢献したり、それを歪曲したり、裏付けたりするかもしれない。一九九四年、アダム・ベグレーは『リングワ・フランカ』誌で、新しい「わたし批評」の提案者の中には、本格的な学問的自伝を書く者も現れたと記した。彼によれば自伝的傾向は六〇年代にまで遡って初期のフェミニスト意識向上グループから始まり、しばしば「多文化主義と連携して拡大した。マイノリティとしての経験はたいてい一人称単数視点で語られる。ゲイ研究や性的なマイノリティの理論についても同様だ」。

(p.57)

 

すべての真実が不完全(および個人の視点の結果)だというポストモダニズムの主張は、ある出来事を理解したり表象したりするうえで数多くの正当な方法があるという、関連する議論に繋がった。それは、より平等主義的な議論を促し、過去に権利を剥奪されていた者たちの声が聞こえるようにもなった。しかし同時に、侮蔑的な、または反証済みの理論の擁護に、そして同等に扱うことのできないものを同等に扱おうとする者たちによって悪用されてきた。例えば万物創造説の推進者は学校で進化論と並行して「インテリジェント・デザイン」を教えるよう求めた。ある者は「両方とも教えるべきだ」と言い、他の者は「論争について教えよ」と主張した。

(p.59)

 

実のところ、脱構築主義とは非常にニヒルである。注意深く証拠を収集し吟味することで入手可能な最良の真実を突き止めようとするジャーナリストや歴史家の試みが、空虚であるとほのめかしている。また理性は時代遅れの価値である、言語とはコミュニケーションのツールではなく、絶えず自らを混乱させる当てにならないインターフェースだと示唆している。脱構築主義の支持者たちは、著者の意図がテキストに意味を与えると信じておらず(それは読者や視聴者など受け手次第だと彼は考える)、多くのポストモダン主義者は個人責任という概念が過大評価されているとまで言う。学者のクリストファー・バトラーの言葉を借りるならば、それは「内在する経済的構造の役割よりも、個人的自律の重要性を優先させる、遥かに小説風でブルジョワ的な信念」を奨励する。

(p.131 - 132)

 

現代文化をめぐる長文エッセイを通じて(デイヴィッド・フォスター・)ウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「いまだに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後継者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼トロールに作用されることになる。

(…中略…)

ポストモダニズムからしたたり落ちた遺産は「風刺、シニシズム、度を越したアンニュイ、あらゆる権威に対する不信、行動に対するあらゆる制御への不信、診断し嘲笑うだけでなく救済するという願望の代わりに、皮肉な不快感の診断を下す酷い傾向だ。こうしたものが既に文化に浸透していることを理解しなければならない。我々の言語となってしまった」とウォレスは主張した。「ポストモダン的皮肉は我々の環境となった」。我々が泳ぐ水そのものなのである。

(p.132 - 133)

 

近況報告(ネットに文章を書くことについての雑感)

・単著の準備をすすめており、11月か12月には出版できそうだ。

 昨年の夏に現代ビジネスに初めて署名記事を発表した時点から「批評家」を肩書きにしており、すでに「自分は作家だ」という意識はあるんだけれど、単著があるとないとでは気の持ちようがだいぶ変わってくる。

 

・署名記事を発表して、著作も出版するとなると、文章を書くときの意識や目的も変わってくる。

 このブログは金儲けを目的としておらず*1、読んだ本を紹介したり海外の議論を紹介したり自分の意見を展開することを通じて読者に知識や洞察を提供して啓蒙することを第一の目的とはしているのだが、まあ好き勝手に書いたり雑感やイライラを吐き出したりするだけなこともある。

 署名記事や本となると、そういうわけにはいかない。そこには金銭が発生しているし、出版社のWEBサイトや書店の棚や流通などの公共的なものの力を借りることになる。そうなると、責任というものを意識せざるをえない。だから、「読者に価値を提供する」という目標も明確になる。

 

・ブログ記事なら、気に入らない本や言論を紹介した挙句に批判したり揚げ足を取ったりするだけで済ますことができる。それが無意味だというわけでもない(「間違っている」「有害である」と自分が本気で思っているなら、それが世の中に浸透することを防ぐために、反対の言論を発信することには意義があるだろう)。

 しかし、それだけでは読者に価値を提供しているとは言い難い。なにかを批判する際には、対案を提示したり生産的な方向に進むための道筋を提示したりすることをセットにしないと、価値のある文章にすることは困難だろう。

 

・とはいえ、わたしもあまり他人のことをとやかく言えるわけでもないんだけれど、学問や社会に関する難しい話題に関してブログやSNSに文章を書くタイプの人のなかには、他人に対する批判や揚げ足取りに終始している人が多い。

 そして、そういう人の多くは、自分以外の人たちも他人について批判や揚げ足取りに終始することを望むのである。

 

・たとえばわたしに対してもそのような期待(批判や揚げ足取りをしつづけること)を抱いている人がいるようであり、わたしがその期待を裏切ると、勝手に心外して文句を書き込んだりする。

 

・ネットには、「自分と他人は違った問題意識を抱いている」ということや「自分と他人には違った目標がある」ということを理解したり想像したりする能力に欠けている人がかなり多い。

 とくにわたしの場合は複数のテーマについて文章を書いているので、たとえば動物倫理の話題についてなにかを書けば「そんなことよりフェミニズムを批判してくれ」と言われたり、ポリティカル・コレクトネスについてなにかを書けば「そんなものより哲学についての文章を書いてほしい」と言われたりするのだ。希望されるだけなら別にいいんだけれど、わたしがその希望を満たさないと勝手に失望して、「変節した」「日和った」と決めつけて文句や悪口を書き込む、というのはさすがに勘弁してほしい。

 

・諸々のトピックについて、わたしは自分なりに共通するテーマを見出している場合もあるし、複数のテーマについて同時に考えて別々の場所でそれぞれに文章を書くこともある。いずれにせよそれはわたしのプロジェクトなのであり、「他人には他人のプロジェクトがある」ということくらい、まともな大人なら理解しておいてほしいものだ。

 

・この問題は、知名度の低い一般人的なアカウントに限らず、いわゆる「ネット論客」の人たちにも生じがちだ。

 アカデミックな世界に属さないアマチュアであるネット論客(や読書人)の問題点のひとつは、自分が抱いている問題意識や自分が重要だと思っているテーマや分析枠組みについて外部から意見を受けて相対化される機会がなく、自分のプロジェクトが絶対的なものだと思ってしまうことだ。そのため、自分の問題意識に反していたり自分とは異なる視点や方法から物事を分析している人に対して、過剰に批判的になったり攻撃的になったりしがちである。

 ……もちろんわたしも「ネット論客」のひとりなので、こうなるリスクは常にある。もって他山の石として気を付けていきたいものだなと思う(「もう手遅れだ」と言ってくる人もいるかもしれないけど)。

 

・上述したようなことがあり、そしてオリンピックの開会式を皮切りにしてますます激化しているキャンセル・カルチャーにもうんざりさせられて、わたしはTwitterというものにとことん嫌気が差してしまった。

 

・とはいえ、自分の書いた記事や著作を宣伝するためには、Twitterは不可欠に等しい(とくにわたしが書くような文章はTwitterのようなところでウケるやつだから)。それに、嫌気が差して辞めたくなっても辞められないのが、Twitterというものである。

 たとえば会社の出勤時や昼休みや退勤時、あるいは食事したりネットフリックスを見たりしている最中になにかふとつぶやきたくなったらそれを止めるには意志力が必要とされる。

 

・現時点では、作家としての宣伝や他の人が書いたものの紹介、自分の意見や価値観や人間性にはっきり関わっていて「これは今後も残しておきたいな」というツイートは作家としてのアカウントでつぶやいて、ふとした思いつきや冗談などはプライベートのアカウントで消して24時間以内に消す、という運用にしている。

 これはかなり不自然で二度手間な運用なんだけれど、Twitterというものがわたしたちの自然な心理機能や報酬回路をハックしてロクでもない方向に導くものだから、これくらい不自然にしてようやくまともに運営できるものだと思うようになってきた。

 

・ところで数カ月前から恋人ができていて、それはめでたいことなんだけれど*2、平日に会社に出勤して休日に恋人と会って合間に執筆作業もすすめるとなれば、読書をすることはなかなか困難だ。特にここ二カ月はほとんど読書ができておらず、なんとかしたいなと思いつつ、なんとかできずに日々を過ごしている。なんとかしたい。本が売れたらいいな。

 

*1:とはいえ、ほしいものリストからなにか買ってくれるのは大歓迎だ。

https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/2QDYPAMP3K2WJ?ref_=wl_share

*2:めでたいのでなにか買ってほしい。https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/2QDYPAMP3K2WJ?ref_=wl_share

「男性のセルフケア」論についての雑感

 

gendai.ismedia.jp

 

 なんとなく上記の記事を眺めていたら色々とひっかかるところがあり、以前からのわたしの問題意識や関心とも関連している内容でもあるので、思うところをメモしていく*1

 

現代社会における「男らしさ」は多様化していますが、それでも「男は仕事」という価値観はいまだ根強くあります。

私が最初にそれを実感したのは、就職活動で苦労していたときです。内定がないときは自分が一人前ではないように感じていました。何も悪いことをしていないのに、平日にぶらついていて他人の目が気になったこともあります。働き始めてからも、有給休暇を取るのは気まずいし、ちょっとした体調不良で休むのは気が引けるし、「売り上げを上げるのが格好いいのかな」と感じたこともあります。

これに適応しすぎると「休むのが下手で、遊び方を知らない」大人になるのでしょう。真面目な男性ほどセルフケアが下手なのは、一生懸命周囲に合わせようとするからだと思います。つまり、男らしさと資本主義は結びついているのですね。

 

 わたしは男性だけれど、有給休暇もガンガン取るし、ちょっとした体調不良ですぐに休んでいる。それができるのは、「どうせいつか専業の物書きだか翻訳家だかになってやるし」と願望しながら、会社員として出世することを最初から諦めているからだ。

 一方で、女性であっても、会社員としてキャリアを積んで出世することを志向している若い人たちはそう簡単には休まない。安易に休んだら自分の持ち分の仕事が滞るし、査定にも響く可能性があるためだ。わたしの知り合いにはバリキャリの女性もいたが、彼女は常に一生懸命周囲に合わせようとしていて、それゆえに自分の体調を考慮せずに無理をしてしまっていた。休日もよく仕事のことを考えていたし、遊びに専心することもできていなかったように思える。

 他方、パートや派遣社員として働いている既婚女性たちは、自分の体調不良にせよ家庭内の事情にせよ、さまざまな理由から気軽に休む。それは彼女たちにとってキャリアが最優先ではないからであるし(家庭のほうが優先順位が高いのだろう)、会社のほうもそのことを承知したうえで、そういうポジションとして彼女たちを採用しているからである。そして、数は少ないけれど、同様のポジションの男性もいる。

 

 また、わたしは男性であるが、内定がなかったときに平日にぶらついていても他人の目が気になることはなかった。

 そして、わたしの周りの幾人かの女性の話を聞くと、彼女たちは、就職活動で苦労して内定がとれなかった時期にはコンプレックスやプレッシャーに苛まれていたようである。

 これは当たり前のはなしだ。ふつう、現代の大学生にとって、内定がとれないまま大学を卒業してしまうのはヤバいことだからである。新卒採用を逃すとキャリアの選択肢はぐっと狭まるし、大学を出たのに正職にも就けないと親に対して申し訳が立たない。内定が取れないあいだは将来への不安は甚大なものとなるし、周りの学生たちが自分よりも先に就職していったら、コンプレックスも強くなる。

 それは、男子学生であろうが女子学生であろうが、まったく変わりない。例外は、就職しなくてもなにも問題にならないほど家が裕福な学生か、自暴自棄になって開き直っている学生だけであろう。

 さらにいうと、体調不良で休むことや有給休暇を取ることに対する申し訳なさにせよ、内定が取れなかった時期のプレッシャーとコンプレックスにせよ、わたしの周りでは男性よりも女性のほうが強かった。単に、わたしの周りの男性には不真面目な人が多くて、女性には真面目なひとのほうが多い、というだけであるかもしれないが(しかし、男性は女性よりも不真面目であり、女性は男性よりも真面目であるというのは、ごく一般的な傾向でもある)。

 

 要点は、「男らしさと資本主義は結びついている」かどうかはまったく定かではない、ということだ。

 キャリアを志向する人は自分の社会的な立ち位置や評価を気にするだろうし、出世のためにセルフケアを犠牲にする傾向があるだろう。そして、この社会に性役割分業の規範が根強いことは事実であるし、キャリアを志向する男性の割合はキャリアを志向する女性の割合よりも高いことは確実である。

 だが、キャリアを志向しない男性もいれば、キャリアを志向する女性もごまんといる。結局のところ、ここで言えるのは、「会社員らしさと資本主義は結びついている」ということでしかないはずだ(しかしこれはほとんど自明なことだ)。

 

管見の限り、男性のセルフケアで多いのは「サウナ・筋トレ・禁酒」。一言で言うと「痛気持ちいい」ものが好き。鈍くてかたい、男性的身体をぶっ壊すもの。サウナはやっぱり交互浴。筋トレなんて文字通り筋肉破壊です。禁酒・禁煙もまたある種の修行めいています。

まず第一に、スキンケアは気持ちいい。化粧水を肌に含ませると、自分の肌がいかに乾燥していたかを実感します。

第二に、これまで美容なんてしたことがなかったので、効果が出るのが早い。私の場合、肌荒れが激減しました。。第三に、普段から美容をしている人たちが色んなことを教えてくれるので、コミュニケーションが豊かになる。妻はもちろん、同僚と化粧品の話題で盛り上がることさえあり、「おすすめアイテム」の情報がどんどん入ってきます。

 

 わたしはエクササイズと筋トレの中間にある運動を頻繁に行っている。ステッパーを踏みながら4kgの軽いダンベルを両手に持って腕を上下させるという運動だ。それなりに汗はかくし、腿や腕に多少の筋肉はつくが、シックスパックになったりすることはまずない。プロテインも摂取していないし。

 化粧水は数ヶ月前に恋人に勧められて使うようになった。たしかに、肌に水分を含ませることは気持ちいい。また、わたしの友人も同じように恋人ができてからその勧めで化粧水を使用するようになったので、たしかに男性というジェンダーにとって化粧水(や乳液)を使用したスキンケアは「盲点」ではあるとはいえるだろう。

 とはいえ、「サウナ・筋トレ・禁酒」によるセルフケアを「非」として化粧水などによるセルフケアを「是」とするのは、かなりご都合主義的でミスリーディングだ。サウナに関してはわたしは苦手なのでやっていないが、先述したように筋トレに類するエクササイズはしているし、禁酒も定期的に実行している。そして、これらを実行する際に、「痛気持ちいい」と思ったり「男性的身体をぶっ壊す」という感覚を得ることは、まったくない。

 エクササイズをして汗をかいたり痩せたりすれば顔のむくみが取れるし、禁酒を続けて睡眠時間を改善すれば肌の調子は劇的によくなる。化粧水という短期的な対処療法よりも、その効果は強い。筋トレをして酒も飲まずにぐっすり長時間睡眠をとった日の朝は、化粧水なんかメじゃないくらいにお肌がピチピチになる。

 つまり、目的が一緒で、手段が異なるというだけなのだ。とはいえ、「どんな手段を選択するか」ということについては興味関心や知識と情報量の問題もあるし、時間と費用などのコストとそれに対するパフォーマンスの評価に関する個人差の問題もあるだろう。そして、知識や情報量にはジェンダー差があることは、たしかに認めざるをえない。

 ただし、、ひとりの貧乏人として言わせてもらうと、別の箇所で「資本主義」を批判する風の文言を入れておきながら、化粧水や乳液などはコストのかかる「商品」であることが無視されているのは不誠実である。「おすすめアイテム」の情報を交換することも、様々な商品を購入して試すということが前提されているだろう。それってめちゃくちゃ資本主義的な営みじゃない?単なるスキンケアを超えた「メイク」となれば、その資本主義性はなおさら増すことだろう。なにしろ化粧品ってお金がかかるものだから*2

 

もちろん、男社会の構造そのものは、まだまだ強いです。個人レベルで「男は仕事」という価値観に抵抗しようとしても限界があります。始まりは「デキるビジネスマンのバレない時短メイク」でもいいと思うのです。いまだ強力な男社会の建前に「こう言えば通るかな」という方便も駆使しつつ、ちゃっかり自分の世話もする。その積み重ねの先に、セルフケア上手な男が増えていけば、男性だけではなく、あらゆる人にとってもう少し生きるのが楽な世の中になるのではないでしょうか

 

 さて、セルフケアをするなら、もちろんタバコは絶対に吸わないほうがいいだろう。タバコはお肌の天敵であり、健康にもまったくよくない。同様に、できるだけダイエットを継続して、肥満は避けるべきだ。肥満の健康リスクは甚大なものであるし、もちろん見た目も悪くなる(美容を語るならルッキズムを避けることは欺瞞というものだ)。

 でも、こうなると、「喫煙者とデブは自己管理能力がないとされて、アメリカでは出世できない」というクリシェに一直線である。よく考えてみると、自己管理とセルフケアの区別を付けることは困難だ。しかし、自己管理と表現したとたんに、「あらゆる人にとってもう少し生きるのが楽な世の中」とは真逆のイメージになる。フーコーとかなんとかの現代思想家を持ち出さなくても、自己管理と現代資本主義が切っても離せないものであることは、いまでは常識になっている。

 実のところ、会社や上司のほうだって、求めているのは「有給を取ったり体調不良で休んだりしない男性社員」ではなく「適度な頻度とタイミングで有給を取ってくれて、壊れたり倒れたりすることのないように自己管理できる、男性社員か女性社員」であるはずだ。どれくらいの頻度で休まれるのが望ましいかは業種や職種によって異なってくるだろう(営業なら頑丈なほうがいいし、WEB部門なら定期的に休む代わりに出社時にパフォーマンスを発揮することのほうが重要である、などなど)。資本主義の上澄みにいる「デキるビジネスマン」であればあるほど、男性であっても女性であっても、セルフケアという名の自己管理能力に長けているはずである。

 べつにそれは悪いことでもなんでもない。わたしは貧乏人だけれど資本主義が悪いものだと思っていない。しかし、たとえば資本主義と性別役割分業とか家父長制社会とかを結び付けてまとめて打倒したいタイプの論者にとっては、不都合な事態となるかもしれない*3

 

 ……というわけで、これはこの記事に限らないジェンダー論全般に対する一般的な批判だけれど、「男らしさ」やジェンダー規範を持ち出す前にいろいろと考えることはあるはずだ。

 たとえば、すべてではなくともかなり多くの事象が、「個人と組織にとってのそれぞれの合理性」という観点から分析して論じることができるのである(これこそが、「経済学的思考」の基本だ)。

 

 

 

*1:とはいえ、今回のブログの意図は、該当の記事を叩いたり批判したりすることではない。わたしも同じ媒体に寄稿した経験があるからわかるのだが、基本的にネット雑誌媒体というものは字数制限が厳しく、言いたいことを正確に伝えたり、複雑な議論を展開したりするのが難しいものだ。だから、あまりに厳密な内容を求めることは「ないものねだり」であるし、それを理解しておきながら強く批判するのはフェアではない。

*2:その点、ダンベルはいちど買えば半永久的に使えるし、ステッパーだって安物であっても一年から数年は持ってくれる。また、禁酒をして、酒の代わりにハーブティーを飲むことは、リラックス効果のみならず出費の節約という観点でも優れている。

*3:この記事の著者がそういうタイプの論者である、とはは思わない。

ネットリンチと「非難」の問題

 

 

 

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』から引用する*1

 

最初に何人かが「ジャスティン・サッコは悪人だ」と意見を述べた。その何人かに対して即座に称賛の声があがった。かのローザ・パークス(訳註:バスに白人席と黒人席があった時代に、運転手に注意されても白人に席を譲らなかった黒人女性)のように、差別に敢然と立ち向かった人として扱われたのだ。すぐに「称賛」というフィードバックがあったことで、称賛された側はそのままの行動を継続する決断を下した。

(p.480)

 

「称賛」というキーワードは、ネットリンチやキャンセル・カルチャーが起こる理由を理解するうえで重要なポイントになるように思える。

 

 インターネットの世界では忘れがちだが、わたしたちが生きる日常の世界では、「非難」とは必ずしも褒められる行為ではない。

 どんな集団であっても、手や足を動かして何かをしている人や、グループやチームのリーダとなってみんなをまとめる人のほうが、他人を非難ばかりしている人よりも価値があるとされる。非難という行為は何かを生み出せることもできなければ、物事を前に進められることもないからだ。

 ここにおいては、非難者のクレームの内容が正確であったり、非難される人が実際に非難に値する行為や言動をしたかどうかということは別問題だ。日常世界の道徳とは法律ではない。原因や理由があったとしても、ただちに告発や制裁が行われるようには運営されていないのである。

 ひとつの理由は、些細なことによる非難がいちいち認められて制裁がくだされていたら、生産性や効率性といったものが全く失われてしまうからである。

 もうひとつの理由は、「万人の万人による闘争」という状況を防ぐために、「お互いさま」という観点が必要とされることだ。人間とは実に独善的な存在だ。「他人の目のなかのおが屑は見えても、自分の目のなかの丸太は見えない」という状態こそが、道徳心理のデフォルトである。大概の場合、非難をする人は、相手の罪や問題を実際よりも過大に評価している。そして、自分の側にもなにかしらの欠点や落ち度があったり、別の場面や将来の場面では自分も非難されるような行為や言動をしている可能性について、考えをめぐらせない。したがって、非難する人の告発をそのまま認めずに、なあなあに済ませたり「手打ち」が行なわれたりされることは、非難する人のためでもあるのだ。

 また、非難によって相手に制裁を与えようとすることは、手段は間接的であれど「加害行為」であることには違いない。だから、非難行為に暗黙のリスクが課されているのは、正しいことだ。たとえば、日常世界では、非難の内容が間違っていたり勘違いであったり過剰であったりした場合には、非難された側ではなく非難した側が評判を下げて白い目で見られることになるだろう。その事態を避けるために、非難をしようとしている人は、非難の内容が正当であるかどうかについて冷静に考えることになる。考えた結果「やっぱり自分にも落ち度があるかもしれない」「これくらいのことで非難するのは時間や労力の無駄だ」と判断して非難を取り下げるのならそれでもよいし、覚悟を決めて非難を実行するならそれでもよい。

 覚悟を決めたうえで、その非難の内容が客観的にみても正当であった場合には、それは称賛に値する行為と認められるかもしれない。

 

 しかし、言うまでもなく、SNSでだれかを非難するときには「覚悟」は必要とされない。そもそも、SNSにおける非難は身内に対してではなく縁もゆかりもない人に対しておこなわれることが大半だ。そして、その非難の様子を眺めているオーディエンスたちのほうも、非難している人とも非難されている人とも関係のない部外者である。

 このような状況では、日常世界の道徳におけるバランス機能は消失してしまうようだ。

 おそらく、大概の場合において、オーディエンスの大半は非難者に対して「文句ばっかりつければいいってもんじゃねえだろ」「そう言うお前のほうは他人を非難できるほど立派な人間なのかよ」などなどとネガティブな心証を抱いている。しかし、そのネガティブな心証をわざわざ表明して本人に伝える人はごくわずかだ。ふつうの人々は、自分と関係ない人たち同士の揉め事についていちいち口を出したりコメントをしたりしないものなのである。

 だけれど、ふつうでない人々が、口を出したりコメントをしたりする。したがって、SNSで非難をした人は、自分と同じ属性やイデオロギーを持つ人の非難行為や"弱者"による非難行為を目にしたらほぼ自動的に賛同するタイプの人々による「称賛」を受けとれることになるのだ。

「称賛」という報酬に酔ってしまったせいか、だれかを非難することでしか自分の価値や徳を示せなくなっていて、非難を通じてしか社会にコミットメントできなくなっている人は、SNSの至るところにあらわれている。

 でも、だれかの発言や行動をあげつらって批判する文章を140字以内で書き込むことは、どう考えても、ローザ・パークスの行動とはまったく別物だ。そこにはリスクがなく、覚悟も必要とされない。信念だってほとんど存在しないだろう。

 

 まとめてしまうと、インターネットやSNSでは、「非難」という行為に対するコストが少な過ぎて、報酬が多過ぎる。これが、ネットリンチやキャンセル・カルチャーがいつまで経ってもなくならず、今後も増加し続ける理由だ。

「キャンセル・カルチャーには弊害があるかもしれないが、これまではいじめやセクハラの被害者は黙って耐え忍んでいて加害者がのうのうと生きていた状況が不正なのであり、キャンセル・カルチャーによってその状況が是正されるのならそれはよいことだ」と言った種類の擁護意見はよく目にする。わたしもちょっと前までは「たしかにそういう面もあるな」と思っていたが、いまではほとんど賛同できなくなっている。

 まず、キャンセル・カルチャーやネットリンチが発生した時点で、対立の構図は「被害者:加害者」から「集団:個人」に移行する点は看過されるべきではない。そこで弱者となるのは、いじめをしていたりセクハラをしていたりした人である。さらに、社会的制裁とは法廷でないから弁護士がつかないし、そもそも裁判官も存在しない。いるのは検察官だけだ。先述したように、日常道徳というバランサーや調節弁も失われている。…この状況の不正さはちょっと異常なものだ。

 そして、「非難」に覚悟が必要とされなくなって、だれもがお手軽に他人を非難できて、他人を非難したらチヤホヤされて気分が良くなれるような世の中は、あまりにみっともなさすぎる。結局のところ、非難はおこなわないほうがよい行為であり、どうしてもという場合に仕方なくしかおこなうべきでない、というくらいに位置付けられているがちょうどいいのだ。わたしたちが自分の徳を示して人から認められようと思うなら、他人を非難するのではなく、自分で価値を創造したり、他人を支援したりするべきなのである。

 

 余談だけど、先の引用部分の引き続き。

 

ジャスティン・サッコの「事件」が起きてからすぐ後、私は友人のジャーナリストと話をした。その人は、ジョーク好きで、際どい、少しわいせつなことをよく言う人だ、その考え方は「穏当」という言葉からはほど遠い。彼は「もうインターネットに何かを書くことはしない」と言っていた。

SNSって何だか、とても用心して歩かなくちゃいけない場所になっちょね。いつ、何の理由で怒り出すかわからない。心の平衡を失った親にいつも見張られているみたいで、とにかく、何が原因で攻撃されるかわからないから、怖いよ」彼はそう言う。

名前を出さないでほしいと言われたので、ここに彼の名前は書かない。名前が出て、また何か騒ぎの原因になるのが嫌だという。

彼も私も協調性がない方の人間である。そう認めざるを得ない。だが今は、協調性があり、体制に順応する人にばかり居心地の良い、極端に保守的な世界ができつつあるように思う。「私は普通ですよ」「これが普通なんですよ」と皆が終始言っている。

普通とそうでないものの間に境界線を引き、普通の外にいる人たちを除外して、世界を分断するーーそんな時代になりつつあるのではないだろうか。

(p.481 - 482)

 

 ここで提示されている問題は、ジェフリー・ミラーによる「ニューロダイバーシティ」論とも関係しているだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

文芸時評って意味あるの?

 

 わざわざブログ記事にするほどの内容でもないんだけれど、しばらくTwitterに書き込むことはお休みすることにしたので、こっちに書く。

 

togetter.com

 

 この件が話題なので、朝日新聞にログインして、問題の文芸時評を読んでみた。

 

www.asahi.com

 

 読んでみて思ったのだが、こんな文章から読者が何かしらの知見なり洞察なりが得られるとはとうてい思えない。


 たまたま今月に発売されることになった小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』にかこつけて、たまたま今月に雑誌とかに掲載された作品群のなかから「ケア」について関りがあったりなかったりする作品を連想ゲーム的にいくつか取り上げて紹介しているだけ。それも数本の作品を取り上げているうえに枕や結びの文章も含まれているので、「ケアの倫理」やその背景にあるフェミニズム的発想にかこつけながら1800字強という字数のなかで個々の作品についてあらすじも紹介しつつ批評を行う、というのはどう考えても無理がある。

 今回に限ったことではなく、同じ評者の過去の文芸時評も、「有害な男らしさ」論とかサンデルのメリトクラシー論とかのフェミニズムに関連があったりリベラルっぽかったりする流行りのキーワードにかこつけつつ複数の作品について浅く紹介する、というのが基本になっているようだ。

 

book.asahi.com

 

 こんなもので、作品についての新しい見方を提示したり価値づけをおこなったりする"批評"が成立しているとはとてもいえない。

 

theeigadiary.hatenablog.com

 

 

 とはいえ、この問題は評者が批評家としてとりわけ浅薄であったり無能であったりするということではなく、文芸時評というフォーマットのほうに起因しているように思える。


 ほかの新聞社の文芸時評もついでに確認したところ、いずれも、1000字~2000字の字数のなかで、流行りのキーワードなり昨今の社会情勢と絡ませながら、(多くの場合に)複数の作品について評する、という形式になっているようだ。……こんなの、どう考えても無理がある。作品について"批評"するどころか、"紹介"することだって満足にできやしない。こんな条件のなかで無理に"批評"っぽいことをしようとしたら、作品に対する客観的でフェアな姿勢が失われて、冒頭のTogetterのような問題が起こることもむべなるかなという感じだ。かといって"紹介"に徹するとしても、この字数だと読者に「面白そうだ、読んでみよう」と思わせることすら難しいだろう。

 

 Twitterでは作家側に対する同情の声が多く、評者に対しては批判的な声が多い。しかし、文芸界に関わっているらしい「業界人」の人たちのなかには評者を擁護している声のほうが目立つ。
 ……だが、わたしには、そもそも「文芸時評」というフォーマット自体が、擁護に値しないように思える。「業界人」たちの思惑をなんとなく察すると、「そもそも文学が目立たなくなったり売れなくなったりする昨今では、たとえ字数が足りないとしても全国紙に文芸時評の欄が存在するだけで御の字だ」ということかもしれない。しかし、こんなクオリティの文章が全国紙に掲載されることで、読者たちに「批評ってこんな程度のものなんだな」とか「文学とかフィクションとかについて語るときってこういう風にしとけばいいんだな」と思わせるようになるという点では、無意味であるどころか有害ですらあるはずだ。

 

 

「進化政治学」はそんなにおかしいのか?

www.asahi.com

 

note.com

 

 広島大学伊藤隆太氏の発言が差別的であるとして問題視されており、それにあわせて、彼の研究分野である「進化政治学」も批判の対象となっている。

 わたしの目から見ても伊藤氏の発言のうちのいくつかは差別的であり、解雇まで求めることが妥当であるかどうかはともかくとして、批判は免れないものだと思う*1

 しかし、Twitterなどでは、伊藤氏の差別発言が問題であるからと言って、彼の研究している学問分野までもが安直にレッテルを貼られて否定される、という風潮が散見される。それも、ほかの分野の学者たちがレッテル貼りや否定の先鋒に立っているようで、かなり嘆かわしい事態だ。

 

 たとえば、シノドスに掲載されたオピニオン記事と、それに対する反応のひとつが、下記のようなものである。

 

synodos.jp

 

 

 

  わたしの目から見ても、Twitter上での伊藤氏の発言はたしかに「俗流進化論」っぽいものではある*2。しかし、上述のオピニオン記事を読む限り、「進化政治学」の考え方自体はさほどおかしなものではないように思える。

 

進化政治学には三つの前提がある。第一に、人間の遺伝子は突然変異を通じた進化の所産であり、政策決定者の意思決定に影響を与えている。第二に、生存と繁殖が人間の究極的目的であり、これらの目的にかかわる問題を解決するために、自然淘汰(natural selection)と性淘汰(sexual selection)を通じて脳が進化した。第三に、現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらないため、今日の政治現象は進化的適応環境(environment of evolutionary adaptedness)――人間の心理メカニズムが形成された時代・場所、実質的には狩猟採集時代を意味する――の行動様式から説明される必要がある。

 

 要するに、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどには、狩猟採集民時代の環境に適応するための性淘汰や自然淘汰に適応するための進化的な経緯が、現代になっても影響している。そして、「人間の意思決定や行動や認知とはどのようなものであるか」とうことは、政治にも関連している。だから、政治について進化の観点から説明をしたり、進化的に備わった人間の諸々の特徴や傾向を前提として政策を考案することには意義がある、……という主張である。

 オピニオン記事のなかでは、スティーブン・ピンカーの「暴力の衰退」説が参照されており、「戦争とは人間の本性(human nature)に根差したものである」というトマス・ホッブズ的な人間観・戦争観が支持されている。この人間観については進化心理学者や文化人類学者の間でも異論があることは留意されるべきだろう……とはいえ、有力な見解であることも間違いないとは思うが*3

 重要なのは、このオピニオン記事のなかでは「自然主義的誤謬」は犯されていないということだ。つまり、「人間の本性はこうであるから、その本性に基づいて、このような政策を実現するべきだ」とは論じられていない。むしろ、人間の本性を抑制するために「教育や国際制度といった環境の整備が不可欠」であることや「負の因果効果を環境的要因で相殺する必要がある」ことが主張されている。ここでは、「人間の本性」には規範的な意味は与えられていない。あくまで、より望ましい政策を考慮するための「変数」のひとつとして扱われているだけだ。

 そして、人間の意思決定や心理や行動の特徴や傾向や認知バイアスなどなどを具体的な政策提言に結びつける議論は、進化政治学に限らない。たとえば行動経済学の本でも、「なぜ人間は損得や利益について合理的な判断ができないのか?」ということをそもそもから説明する場合には進化論が持ち出されることが多い。そして、人間の認知バイアスなどを分析したうえで、それに対処する方法としての「ナッジ」が提案されて、個人や家庭内での習慣や企業でのキャンペーンのみならず公的なもののデザイン設計などの政策レベルでも「ナッジ」を導入することが提案されるのだ。

 では、行動経済学は、社会ダーウィニズムや、あるいは優生思想につながるのか?わたしはつながらないと思う。同様に、進化政治学も、社会ダーウィニズムや優生思想にはつながらないだろう。最適者生存の理論が"規範的に"正しいとする自然主義的誤謬もなければ、「特定の人種や特定の遺伝的特徴を持った人は、そうでない人よりも望ましい」という主張も含まれていないからだ。人間一般に自然的に備わっている傾向に関する議論と、人種や遺伝的特徴の優劣に関する議論には、かなりの乖離がある。

 

 今回の件では、進化政治学のみならず進化心理学一般に対しても、「社会ダーウィニズム」や「優生思想」などのレッテルを貼っている人たちが散見される。学者も含めて、こういう人たちのほとんどは、おそらくなにも考えていない。ただ、進化論っぽいことを批判する際には社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出すのが「定番」になっているから、今回もいつも通り社会ダーウィニズムや優生思想を持ち出しているだけなのだ。

 

 また、この種の議論で毎回出てくるのは、「でも、進化論は実際に悪用されてきた歴史があるのだから、進化論に基づいた主張をする人は(ほかの理論に基づいた主張をする人に比べて)悪用されたり誤解されたりしないように、とりわけ気を付けるべきだ」という主張だ。この主張には一理あるかもしれないが、とはいえ、どんな主張も誤解されて悪用される危険性をはらむところ進化論だけがことさらに槍玉にあげられるのはおかしい、とは言いたくなる。

 また、わたし自身がこれまでブログや他のところで書いてきた記事でも、自然主義的誤謬に関する注意や「統計的な平均値の話である」という但し書きをこまめに入れてきたが、それを丸々無視されて、優生思想だとか生物学的決定論だとかなんとか批判されてきた経緯がある。実際のところ、そのような批判をしている人にとっては、「進化論の悪用」に対する危惧は方便に過ぎず、とにかく進化論や生物学に基づいた議論そのものを否定することが目的であるのだろう。だから、「進化論の悪用」を問題視している人の批判を毎回受け入れていると、ゴールポストがどんどん移動させられて最終的に何も言えなくなる可能性が高いのだ。

 

 

*1:署名キャンペーンの記事のなかで引用されているものについては、たとえば「道徳的に劣っている中国人をまともに相手にする必要はない」という文章は、差別的であると判断して差支えがないように思える。apjという方がnote記事でこの発言を擁護しているが、この擁護にはやや無理があって苦しい。

note.com

一方で、書名キャンペーンで「セクシズム」だと批判されているフェミニズム批判発言は、apj氏が書かれている通り「フェミニズムに対する単なる異論あるいは反論に過ぎない」。他の多くの発言も、不用意で雑であるとは思うが、差別であるとは断定できない、あるいは、きわめて狭い範囲での社会学や社会運動界隈での用法でしか「差別」と判断されない発言であるだろう。

*2:「社会ダーウィニズム」とまで言えるかどうかは微妙なところだ。

*3:

econ101.jp

davitrice.hatenadiary.jp