道徳的動物日記

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ケイパビリティとしての恋愛・結婚(読書メモ:『女性と人間開発 潜在能力アプローチ』)

 

 

 

 ヌスバウムによるケイパビリティ(潜在能力)アプローチの説明は、下記の通り。

 

ケイパビリティ・アプローチが問う中心的課題は、「バサンティ(引用註:とあるインド人女性)はどれほど満足しているか」ではなく、「彼女はどれほどの資源を自由に使えるか」でもない。そうではなくて、「バサンティは実際に何をすることができ、どのような状態になれるか」である。政治目的のために、人の生活において中心的な重要性を持つと考えられる機能の作業上のリストに立脚して、「その人にとってそれは実現可能かどうか」を問う。その人が行ったことから得られる満足について問うだけではなく、その人が何をするのか、何をできる立場にいるのか(彼女の機会や自由は何か)についても問わなければならない。そして、その人が利用可能な資源について問うだけではなく、バサンティが十分に人間らしい生き方ができるようにそれらの資源が役に立っているのかどうかを問わなければならない。

 

いまや私たちはこれらの問いに対する答えをいくつか見つけたので、このアプローチを二つの方法で応用してみよう。第一に、他の人と比較しながらバサンティの生活の質を評価するために、特定の核心的領域におけるケイパビリティを用いるということである。地域や階級や国家のレベルにおける生活の質の差を見るために様々な人々の生活に関するデータを集計していくとき、誰が最も貧しく、誰が十分な生活をしているかを定義し、その比較を行うのは常に中心的ケイパビリティに関してである。第二に、人間のケイパビリティの核心的領域において、公共政策が公正であるための必要条件は、すべての人に対してケイパビリティの一定の基本的水準を保障することである。もし人々が、これらの核心的領域において最低水準を満たしていないとすれば、それは、たとえ他の面ではうまくいっていたとしても、不公平で悲劇的な状況と見なされるべきであり、緊急な配慮が必要である。

 

このアプローチの背景には二つの直観的な考え方がある。第一は、特定の機能は、それを達成しているかいないかによってその人が人間らしい生活をしているか否かが分かるという意味で、人間の生活の中で中心的位置を占めているということである。第二に、マルクスアリストテレス哲学の中に見出したことだが、単に動物的な方法ではなく、真に人間的な方法でこれらの機能を満たすことには大事な意味があるということである。人の生活があまりにも貧しくて、人間の尊厳に値せず、人間らしい力を発揮することもできず、動物のような生活であるという状況に私たちはしばしば出会う。マルクスの例では、飢えている人は十分に人間的な方法で食べ物を食べることができないということであり、これによってマルクスが言おうとしたのは、実践理性や社会性を持った生き方であろうと私は考える。人は単に生き延びるために食料を得ているだけであれば、食べるという行為は社会的理性的要素の多くを伴っていない。しかし、たとえ適切な教育や、娯楽や自己表現のための余暇や、他の人々との貴重な交際によって人間としての感覚が磨かれていないとしても、人間の感覚は単に動物のレベルでも働きうるとも論じている。マルクスはおそらく認めないだろうが、私たちはさらに表現や連帯の自由や信仰の自由といったいくつかの項目もこのリストに加えるべきだろう。その核心的概念は、「群れをなす」動物のように人生が受身的に形作られ、世の中に流されて生きていくのではなく、他の人々と協力しあい互いに助け合いながら自分自身の生活を築いていく、尊厳を持った自由な存在としての人間である。真に人間らしい生き方とは、一貫して実践理性と社会性という人間らしい力によって形作られるものである。

 

(p.84 - 86)

 

 引用文にもあるとおり、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチはアリストテレス的なものだ(「ユーダイモニア=繁栄・開花(Flourishing)」の考えに基づいている)*1。また、「人間の主張な力には物質的な支えが必要」(p.87)であるという認識も、アリストテレスマルクスから得られたものだ。そして、彼女によると、ケイパビリティ・アプローチは「ひとりひとりが価値を持つ者として、そして目的として扱われる」(p.87)という点でカント主義的なものである。

『女性と人間開発』という本の目的は、インドを主とする非西洋諸国(発展途上国)における女性差別について、「その国や文化に口は出せない」「その地方の慣習だから仕方がない」といった相対主義的な批判を棄却して「どこの国や地方のものであっても女性差別は問題である」と論じて是正の必要性を主張することである。このことから、ヌスバウムがケイパビリティ・アプローチを提唱する目的のひとつが、「普遍的な価値の擁護」となる。ケイパビリティが保証されることは、西洋やアメリカなどの特定の社会に限定されず、すべての国や地方の人間にとって必要なことだと彼女は主張するのだ。

 

 ヌスバウムによる、ケイパビリティのリストは以下の通り*2

 

  1. 生命
  2. 身体的健康
  3. 身体的保全
  4. 感覚・想像力・思考
  5. 感情
  6. 実践理性
  7. 連帯
  8. 自然との共生
  9. 遊び
  10. 環境のコントロール (政治的環境と物質的環境に分かれる)

 

 また、ケイパビリティを保障するといっても、全ての人が全てのケイパビリティを達成することまでは期待されない。

 

私のリストの項目には、ジョン・ロールズが「自然的財」と呼んだもの、すなわち、「その獲得に運が重要な役割を果たす財」が含まれる。政府は全ての人々を健康にし、情緒的な安定をもたらすことはできない。なぜなら、こうした状態は持って生まれたものや運に左右されたりするからである。これらの領域で政府が目指すべきは、これらのケイパビリティの社会的基礎を提供することである。つまり、ケイパビリティ・アプローチは、初期時点での資源や権力の差によってもたらされる格差を埋め合わせるように努力すべきであると主張する。しかし、それでも社会が確実に与えることができるのは良い生活の社会的基礎であって、良い生活そのものではない。女性の情緒的な健全性について考えてみよう。政府は全ての女性を情緒的に健全な状態にすることができるわけではない。しかし、情緒的な健全さに寄与するために、家族法や強姦防止法や治安といった分野で適切な政策を採ることによってきわめて多くのことができる。似たようなことは、全ての自然的財についても当てはまる。ある人たちは、私たちには制御できない要因によって十分なケイパビリティを達成できないでいるかもしれない。生活の質の相対的尺度としてケイパビリティを用いるとき、私たちは観察された差異についてその理由を問われなければならない。国家間あるいはグループ間の健康の差は、公共政策によって取り除くことのできる要素もあれば、そうでないものもある。もし人々がこれらのケイパビリティの十分な社会的基礎を与えられたならば、基本的政治原理はその役割を果たしたことになる…

(p.96)

 

  また、重要なのはケイパビリティの基礎が保障されることであり、個々人は自分の意思で一部のケイパビリティを達成しないことを選択するのは認められる。社会は人々が飢餓に苦しまないようにするべきであるが個人が断食するのは自由であるし、個人が禁欲するのは自由であるが女性器切除などによってセックスの機会(と禁欲を選択する機会)を奪うことは不正である、ということだ(p.103)。

 ……とはいえ、ケイパビリティ・アプローチは通常のリベラリズムに比べてパターナリズム的(温情主義的)であったり、パーフェクショニズム的(完成主義的)であったりはすることはたしかだ。ケイパビリティのリストとは、要するに、「(ほとんど)どんな人についても、これらが満たされるほうが、そうでないよりも善い」という物事を具体的に指定するものであるからだ。

 ヌスバウムは「温情主義だ」という批判に反論しながらも、以下のようにも論じている。

 

「温情主義からの議論」が示しているのは、他人の自由が同じように護られる限り、人が価値あるものと認めることを追求する自由を認めるような普遍的規範を私たちは志向すべきだということである。それは、すべての普遍的規範を拒絶せよというのではなく、自由だけではなく、自由を実現するために決定的に必要な様々な経済的エンパワーメントをも含む普遍的規範を構築することが正しいということを示している。

(p.65)

 

 さて……わたしは、すこし前から、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチと「ポジティブ心理学」との接点を考えるようになった*3

 なにしろ、マーティン・セリグマンやジョナサン・ハイトが行っているようなポジティブ心理学の議論では、ヌスバウムと同じようにアリストテレスのユーダイモニア論が参照されている。ポジティブ心理学でも「"人間らしい"生き方をすることが、その人のとっての幸福につながる」ということが主張されるし、幸福(や徳)について国や文化の垣根を超えた普遍的な基準が提示される。とくにハイトの『しあわせ仮説』は、完成主義的な価値観を主張する著作だと読むことができるだろう。

 そして、ポジティブ心理学やその他の幸福に関する心理学的な議論では、恋愛結婚が個人の人生に対してプラスの影響を与えることが示される場合も多い。

 通常の(ロールズ的な)リベラリズムであれば、「個人が恋愛したり結婚したりすることについて、社会は支援するべきだ」と主張することは困難であるだろう。だが、ケイパビリティ・アプローチなら、恋愛(交際)することや結婚することも「人間らしい生活」を過ごすためには欠かせないものだとして、それが達成される「社会的基礎」を保証することを要求することが正当化できるかもしれない。

 

 ヌスバウムのリストのなかで、恋愛や結婚に関わりそうなものは、下記の三つ(強調部分はわたしによるもの)。

 

(3)身体的保全*4 自由に移動できること。主権者として扱われる身体的境界を持つこと。つまり性的暴力、子どもに対する性的虐待家庭内暴力を含む暴力の恐れがないこと。性的満足の機会および生殖に関する事項の選択の機会を持つこと。

(p.93)

 

(5)感情 自分自身の回りの物や人に対して愛情を持てること。私たちを愛し世話してくれる人々を愛せること。そのような人がいなくなることを嘆くことができること。一般に、愛せること、嘆けること、切望や感謝や正当な怒りを経験できること。極度の恐怖や不安によって、あるいは虐待や無視がトラウマとなって人の感情的発達が妨げられることがないこと(このケイパビリティを擁護することは、その発達にとって決定的に重要である人と人との様々な交わりを擁護することを意味している)。

(p.93)

 

(7) 連帯

A  他の人々と一緒に、そしてそれらの人々のために生きることができること。他の人々を受け入れ、関心を示すことができること。様々な形の社会的な交わりに参加できること。他の人の立場を想像でき、その立場に同情できること。正義と友情の双方に対するケイパビリティを持てること(このケイパビリティを擁護することは、様々な形の協力関係を形成し育てていく制度を擁護することであり、集会と政治的発言の自由を擁護することを意味する)。

(p.94)

 

 ……とはいえ、おそらく、「恋愛関係を築けることや結婚できることもケイパビリティだ」と主張することに対して、ヌスバウムは渋い顔をすると思う。

『女性と人間開発』はフェミニズムの本であり、第4章の「愛・ケア・尊厳」では家族の内側における女性差別や女性への暴力が取り上げられて、ロールズなどの論者が家族の問題について取り上げなかったことが批判される。フェミニズムの議論でよくあるように、男性の学者たちが「家族(のなかで行われる女性のケア)を評価してこなかったこと」と「家族の内部に存在する女性差別を無視してきたこと」が同時に批判されるのだ。

 この章のなかで、ヌスバウムは愛やケアの価値について肯定的に論じてはいる。しかし、ロマンチック・ラブ的な恋愛観や家族観に関しては、普遍的なものではなく近代西洋に固有のものとして退けられる。「…インド全国のヒンドゥー寡婦に関する広範囲な研究は、ほとんどすべての寡婦が再婚する意思を示さず、多くの者が男との生活を終えて喜んでいることを示している」(p. 307)。そして、インドや南アジアの女性がロマンチックな男女関係の代わりに「女性たちの相互支援のためのグループ」を築いて維持することにエネルギーを注いでいることを指摘したうえで、以下のように主張するのだ。

 

家族にはたった一つの形しかないという意味で自然発生的であるとは言えないことが明らかだとすると、特定の家族形態が必然で不可避だとは言えないことも明らかだろう。多様な家族形態が見られることから、西洋の核家族のみが生物学的傾向に基づく形態などとは言えそうにない。そのような生物学的傾向は時間とともに多くの異なった形で現れてくる。独立した規範的考察を行わずに、特定の家族形態が「女性らしさの領域や機能に属する」正しく適切な形態であるとする根拠はさらに薄弱である。

 

(p.309)

 

 だが、この主張には反論できるかもしれない。

 まず、異常で特異なのは西洋のロマンチック・ラブ・イデオロギーではなく、インドのほうである可能性は指摘すべきだろう。なにしろ、(すくなくとも1990年代以前の)インドが女性差別的な社会であり、家庭のなかでも男尊女卑が蔓延していることは、『女性と人間開発』の一冊にわたって示されている。逆に言えば、インドが女性差別的な社会でなければ、ヒンドゥー寡婦たちも男との生活を終えたことを喜ぶのではなく悲しんでいたかもしれない。

 そして、人間がロマンティック・ラブを願望することには生得的な面があること、一夫一妻制の家族形態が他に比べて"自然"なものであることは、人類学や進化心理学や生物学の文献でも示されていることではあるのだ*5

 実際、日本のように男女平等が(インドのような国と比べれば)すすんだ国では、男女ともに恋愛や結婚を求めている人が多く、「人間らしい生活」にそれらが欠かせないと考えている人も多い。

 それは理想化された願望とは限らず、実際に恋愛や結婚を経験している人が「以前に比べて人間らしい生活を過ごせているなあ」と思うことや、恋愛や結婚が破局してしまった人が「以前に比べて人間らしい生活じゃなくなってしまったな」と考えることもあるだろう。すくなくともわたしはそうだし、他にもそういう人はいる。

 もちろん、アロマンティックの人をはじめとして恋愛に興味がない人や恋愛を重視しない人もいれば、モノガミーを求めない人もいるし、恋愛に興味はあっても結婚に興味はない人もいる。とはいえ、「それを求めない人もいる」というのは他のケイパビリティの大半に当てはまることだ。

 そして、例外的な人については「興味はないんだったら追求しなくていいよ」と容認しつつ、そのケイパビリティを求める大半の人を支援する(「社会的基礎を提供する」)ために公的に資源を投入することを正当化できること、正義論風に言えば特定の「善の構想」を優遇できることこそが、ケイパビリティ・アプローチの特徴であるはずだ。

 

 ……もっとも、ケイパビリティ・アプローチであっても、「ひとりひとりは目的として扱われる」。恋愛や結婚をケイパビリティとして認めたとしても、それが他のケイパビリティと異なるのは、達成されるためには特定の相手が自由意志に基づいて了解することが必要になるということだ(「連帯」は不特定多数のだれかが了解したり何らかの集団に加わることで達成できるだろう、「自然との共生」には動物と関わることも含まれるが、大半の犬や多くの猫は自発的に人間と関わってくれる)。他のケイパビリティと比べて、公金などの資源を投入してナントカできる程度がかなり限られているのである。

 というわけで、「社会的基礎を提供する」といっても、せいぜいのところ街コンや婚活支援のようなものにしかならないかもしれない。それは現状の社会でも多かれ少なかれ行われていることだ。

 ほかにも、男性も女性のどちらも多数派は恋愛や結婚を求めているとしても、それらを求めていない少数派の割合には男女差があるだろう(恋愛を求めていない女性の数は、恋愛を求めていない男性の数よりも多いように思われる)。その場合、片方の性別を優遇することになってしまう危険性はあるだろう。

 

 このように問題は多々あるし実効性にも乏しいのだけれど、恋愛や結婚をケイパビリティに含めることができれば、すくなくとも、「恋愛したい」「結婚したい」という要求や願望に正当性を認めることはできる。

 そして、だれかが恋愛できなかったり結婚できなかったりするせいで苦しむことを、「不公平で悲劇的な状況と見なされるべき」と言えるようにはなるのだ。

 

 余談だが、「結婚したほうがそうでないよりも幸福になりやすい」ということに限らず、ポジティブ心理学ではリベラル的というよりも保守的に分類される見解が提出されることが多い。きっと、「人間らしさ」を重視する議論や完成主義的な議論は、順当にいけば保守的なところに落ち着くものだろう。

 むしろ、ヌスバウムが「人間らしさ」を強調しながらも一部の保守的な見解を排除していることについて、リベラリストフェミニストであることと両立させるために不都合な要素についてあえて目を瞑っている、という疑惑を抱けるかもしれない。「人間らしさ」について論じているのに生物学や進化論の文献をあまり参照しない(『女性と人間開発』だけでなくそれ以降の著作でも)のも気になるところだ。それは政治哲学の世界でやっていったりフェミニストとしてまともな主張をしていくためには必要なことかもしれないけれど、そういう束縛から解放されている心理学者たちのほうがより真を突いた見解を提出することができる、という可能性もあるかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:「現在のもの」という但書はされているが、2000年刊行の『女性と人間開発』と2011年刊行の『正義のフロンティア』とで、その内容はほぼ変わっていない(訳者が違うので訳語が異なっていたりはするけど)。たぶん2022年の時点でもヌスバウムは同じリストを挙げているだろう。

*3:といってもさほどオリジナリティのある発想ではなく、ググってみると、心理学や教育学などの観点から両者の接点について論じた論文はいくつかあるようだ。

*4:英語ではBodily Integrity

ja.wikipedia.org

*5:この議論の詳細は以下の本の第9章「ロマンティック・ラブを擁護する」に書いている。

 

 

「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)

 

 

 

 昨日に引き続き、キムリッカの『現代政治理論』から気になったところを引用。第5章「マルクス主義」から。

 

マルクス主義による批判の核心は、むしろ法的共同体の理念それ自体にたいする反論である。多くのマルクス主義者の考えでは、正義は社会制度の第一の徳性などではなく、真に善き共同体には必要のないものである。正義は、我々が「正義の状況」ーー正義の原理によってしか解決しえないような対立を引き起こすーーにある時にしか相応しくない。通例、正義の状況には二つの主たる特徴があると言われる。目標が対立していることと、物質的資源が限られていることである。目標が一致せず、資源が希少である場合、人々は対立する要求を出さざるをえない。しかし、人々の目標の対立を取り除くか、あるいは資源の希少性を取り除くことができるならば、法的平等論は必要なくなるであろうし、それがなくても巧くやっていけるであろう、というのである(Buchanan,Lukese)。

 

マルクス主義者のなかには、共産主義が克服しようとしている正義の状況とは、善の構想同士が対立している状況である、と論じる者もいる。彼らは家族を法的ではない制度ーーそこでは利害が一致しており、正しい義務や個人的利得の計算に基づいてではなく、愛に基づいて他者のニーズに自発的に応答するーーの実例と受けとっている(Buchanan)。共同体全体の利害が一致し、愛情によって結ばれるならば、正義など必要なくなるであろう。なぜならば、自らを権利の担い手と考えるならば、「自らを人間同士の対立ーーそこでは権利を主張することが避けられず、要求しているものが当然私のものであると「弁護する」ことが避けられないーーの潜在的な当事者であると見なす」(Buchanan)ことになるからである。しかし、愛や一致した利益に基づいて相互のニーズを満たすのであれば、権利のような概念が現れる余地などなくなるであろう、と。

 

私が別のところで論じたように、マルクスは、利害が一致し愛情によって統合された共同体というビジョンなど信奉していなかった。マルクスにとって、共産主義的関係が敵対と無縁であるといっても、それは「個人的敵対という意味ではなく、個々人の社会的生活条件から生じる敵対という意味である」(Marx and Engels)。実際には、正義の状況を「目的が一致する」ように解決するのは、マルクス主義的な理想であるよりも、コミュニタリアニズム的な理想である。さらに言えば、それが、正義の状況にたいする解決策でありうるのかどうかも疑わしい。というのは、一連の目標を共有したとしても、依然として個人的利害の対立が残るかもしれないからである(たとえば、二人の音楽愛好者が一枚のオペラのチケットを欲しがっている場合)。また、個人的利害の対立がない場合でさえ、どのようにして共有されたプロジェクトを達成するか、そのプロジェクトはどれくらい支援する価値があるか、という点では一致しないかもしれない。あなたも私も、音楽鑑賞は善き人生に欠かせないものであり、音楽を支援するために自分の時間や金銭を費やすべきだと考えているかもしれない。しかしあなたは、たとえ質が下がることになったとしても、なるべく多くの人々が楽しめるように音楽を支援すべきである、と望むかもしれない。けれども私は、たとえ鑑賞しえない人々がでることになったとしても、最高水準の音楽を支援したいと思うかもしれない。資源が希少であるかぎり、どの音楽のプロジェクトにどれだけの支援をすべきか、という点で一致することはないであろう。たとえ目的が共有されたとしても、手段や優先順位も共有されないかぎり、希少な資源の使い道をめぐる対立は取り除かれないであろう。しかし、同一の目的を同一の理由で同一の程度共有しているのは、同一の人物以外にはありえない。ここで、対立する目的は、「矯正」されたり克服されたりする必要のある「問題」として捉えられるのがよいかどうか、という疑問が起こらざるをえない。おそらく対立は、それ自体としては価値あるものではないであろう。しかし、そうした対立を不可避に引き起こす目的の多様性のほうは、価値あるものであるかもしれない。

正義の状況にたいするもう一つの解決策は、物質的希少性を取り除くことである。

…(中略)…

マルクスは、物質的豊かさ(アバンダンス)が必要不可欠であると強調した。希少性のせいで対立が解決不可能になると考えたからである。生産力が最高度に発達することは、「〔共産主義の〕絶対的に必要な実践的前提である。なぜならば、それがなければ欠乏が広まるだけであり、貧困とともに必需品のための闘争と、旧来のあらゆる汚れた商売とが再生産されざるをえないであろうからである」(Marx and Engels)。おそらく、マルクスが物質的豊かさの可能性についてあまりにも楽観的であったのは、希少性の社会的影響についてあまりにも悲観的であったためなのであろう(Cohen)。

 

(p.250 - 252)

 

だが、正義は、捨て去られるべき矯正的徳性と見なされるのがよいのであろうか。マルク主義者によれば、正義は対立を調停するのに役立つとはいえ、対立を引き起こす傾向もあるし、少なくとも社交性を自然に表現させにくくする傾向がある。それゆえ正義は、今のところは必要悪であるとしても、物質的豊かさという条件の下では高次の共同体にとっての障害物になるであろう。人々が相互に愛に基づいて自発的に行動できるのであれば、そのほうが、自分たちを正当な権原の担い手と見なすよりも望ましい、というのである。

(p.253)

 

ロールズが正義の優位を主張しているといっても、それは「さまざまな利益への正当な権利要求を極限にまで押し進めるかどうか、また押し進めるべきかどうか、に関する」(Baker)主張ではない。正義の優位は、個々人が一定の利益を主張できるようにすると同様に、そうした利益を愛する人々と分かち合えるようにもする。寛大で愛する人々は、正当な権原でもって寛大であり愛するであろう。正義の優位は、そうした行動を抑止するどころか、可能にするのである。正義が除外するのは愛や愛情ではなく、不正ーー他者の正当な権原を否定することによって、その人々の善が別の人々の善に従属することーーなのである(Baker)。もちろん不正は、真の愛や愛情とは反対のものである。

(p.254)

 

 わたしはマルクス主義に詳しいわけではないのでたいしたことは言えないけれど、キムリッカがマルクス主義者(やコミュニタリアン)のものとして示している考え方……人々の利害対立を調停するはずの「正義」や「権利」はむしろ対立を前面化するように促すものであるために解決策とはならず、「愛」(と「物質的豊かさ」)によって利害対立そのものを無くすことが真の解決策である、という考え方は、近頃の日本でもよく目にするものではある。

 たとえば、自由主義系で資本主義全面肯定派の経済学者である柿埜真吾は、マルクス主義系の論者である斎藤幸平の主張について以下のように論じている。

 

脱成長コミュニズムがもたらすのも、他人とは違う独創的発想が迫害され、個人の自由が抑圧される社会である。斎藤氏によれば、脱成長コミュニズムは「使用価値経済」だという。「使用価値経済」の下では、主要資源が共同体に管理され、「使用価値」がないものは禁じられる。例えば、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタント投資銀行も不要である」(斎藤,2020,303頁)。ブランド化や使用価値がない製品も認めないという。

 

だが、問題は一体誰がその「使用価値」を決めるのかである。市場経済では、使用価値があるかないかを決めるのは一人一人の消費者だが、社会主義経済では、何に価値があり何に価値がないかを決めるのは政府や共同体の命令と強制である。斎藤氏の言葉からも、脱成長コミュニズムの下では、職業選択の自由言論の自由も存在しないのは明白である。

 

「似たような商品が必要以上に溢れている」(斎藤,2020,256頁)とか、様々な職業が「不要」だと断言する斎藤氏に拍手喝采する読者は、何が使用価値で、何が必要か、自分が決める気でいるようだが、ある人にとって不要で下らないものは、他の人にとってはかけがえのないものである。脱成長コミュニズムは、特定の「使用価値」が全員に押し付けられ、あなたの大切なものが「不要」、「使用価値がない」と否定され、弾圧される社会である。

 

経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体主義社会を選ぶのか――『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 』(PHP新書)/柿埜真吾(著者) - SYNODOS

 

「一体誰がその価値を決めるのか」という問題は、デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ』論にも当てはまる。不必要で無駄な商品と仕事と、必要(エッセンシャル)である商品と仕事とを区別して、前者をなくして後者に資源なり労働力なりを集中すれば、経済成長がなくても「物質的豊かさ」の欠乏の問題に対処できるかもしれないし、職業間での利害の対立とか格差とかも解決できるかもしれない。……とはいえ、「必要な商品」や「無駄ではない仕事」とは何であるかという考えは人によって異なり、どれだけ議論を重ねても意見の違いは残り続けるであろう。

 どんな商品が必要かとか、どんな仕事に意義を見出すとかは、各人の「善の構想」に委ねられることである。それに対して外側から「こんな商品には価値がない、こんな職業はブルシットだ」とジャッジして捌いていこうとする主張は、独善的なものにならざるをえない。

 

 また、「愛が正義や権利に取って代わる真の解決策だ」式の発想は、近年の「ケア」を強調する規範理論を想定せざるをえない。ケアと愛情が並べて論じられることも多いし、利害が対立する個人同士の法的な共同体に対比するものとして「家族」が持ち出されることもケア論的だ。

 だが、このブログでも何度か書いてきたように、わたしは「ケアの倫理」的な発想にはかなり否定的である。もちろん、ケアが正義の代替になるとも思わない。ケア論が流行っているのも、「利害の対立の調停」という難しい問題からの逃避であるというくらいにしか思っていない。

 

『現代政治理論』を読んでいるときにふと思ったのだが、ロールズ的・リベラリズム的な意味での「正義」を論じる人たちは、その単語の互換とは裏腹に、「悪」を想定している感じが薄い。功利主義者も同様。「善に対する正の優越」や「最大多数の最大幸福」などの規範・目標は、人々が異なる善の構想を抱いていて利害の対立の調停はどんな社会でも必要とされ続けることを前提とした、ニュートラルなものであるからだ。

 それに比べると、マルクス主義コミュニタリアンフェミニストなどは特定の「善」に人々を結束させることで利害の対立を克服することを目標とするために、「共通善」や「ケア」などの支障となる人や物事を「悪」とみなして、容赦しない傾向にある。

 

 また、「善を優先するか、正を優先するか」というだけなら理論の違いでしかなく、倫理学や政治理論の教科書でも書かれているようなことではあるのだけれど、「善」を優先するタイプの理論はそれを唱えている人の事実認識や世界観にまで波及して効果があるようにも思える。

 たとえば、「現在に人々の間で利害の対立が発生して問題が生じているのは、人々が誤ったイデオロギーにしたがって行動したり思考したりしているからであり、そのイデオロギーを取り除ければ利害の対立の克服に近づくことができる」という主張はマルクス主義者やフェミニストだけでなくコミュニタリアンもおこなうものだ。「個人や法人はそれぞれの観点からそれぞれの利益を合理的に追求している」という標準的な経済学の発想も、三者三様に否定しようとする*1

 しかし、それは、自分たちの理論にとって問題となる「愛やケアや共通善では解決できない事柄がある」という事実から目を逸らしているだけであるのだ。

*1:

経済学において「合理性」とは、各主体が与えられた状況・制約条件を所与として自己の達成目標を最大限に達成している、というあくまで個人レベルの形式的なものである。このことは、個々人は手持ちの情報を最大限に活用して「合理的」に判断していても社会全体としてはそれが故に負のサイクルにはまっている、という世の中によくあることと全く整合的である(と同時に、「それで世の中うまく回ってるのだ」という結論を結果的に排除するものでもない。うまく回っていることもある)。

 

gendai.ismedia.jp

社会は「男性の幸福度の低さ」について配慮するべきか?

 

 

 最近はキムリッカの『現代政治理論』をじっくりと読んでいたのだが、最終章の「フェミニズム」の章で、近頃の日本(のネット上)における議論にとっていろいろと示唆に富む箇所があったので、かなり長くなってしまうけど引用する。

 フェミニズム政治理論の一種である「ケアの倫理」アプローチに対する批判的なコメント、という文脈の文章であるが、政治や倫理一般にひろく当てはまる議論であるだろう。

 

 

なぜ正義を唱える理論家は、他者への責任を公正の要求に限定することが重要だと考えるのであろうか。仮に、主観的苦痛が常に道徳的な要求を呼び起こすとするならば、倫理的ケアにかかわる事柄として、私のあらゆる利益に注意を向けるよう他者に期待するのは正当である。しかし正義を唱える理論家にしてみれば、このように言うことは、自分自身の利益の一部については全責任を負わなければならない、という事実を見落としたものである。正義の視点によれば、公正にかかわる事柄として、自分の利益の一部に注意を向けるよう他者に期待するのは、たとえ他者自身の善の追求が制約されたとしても正当である。だが、自分の利益すべてに注意を向けるよう期待することは正当ではありえない。自分自身の責任の範囲内に属する利益が存在するからである。自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう。 

 

友人が必要としている場合、自分の時間や金銭を寛大に差しだすが、その支出にまったく無頓着である人物を思い浮かべてほしい。その人物は、(不必要に)しばしば援助を費用とするようになり、自分の無思慮の結果から救いだしてくれるよう他者に頼ることになる。この場合、彼が援助を期待するのは正当であろうか。われわれは、彼を本人の不注意から救いだす道徳的義務を感じるべきであろうか。主観的苦痛のアプローチからすれば、彼の苦痛に注意を払わないのは無責任である。主観的苦痛を感じているのであれば、たとえその苦痛が本人の無計画性や浪費によるものであったとしても、注意を払わなければならないからである。だが正義の倫理によれば、あらゆる苦痛から救ってくれるよう他者に期待するほうが無責任である。行動の責任は本人にあり、自分の不注意の代償を他者に支払わせようとするのは不道徳だからである。

 

以上のように見てみれば、主観的苦痛と客観的不公正との論争は真の論争である。この論争には、われわれ自身の福利にたいする責任について、決定的に異なる立場が存在するからである。ケアを唱える理論家に言わせれば、客観的不公正を重視するならば、道徳的責任の放棄を容認しかねない。というのも、客観的不公正に従えば、他者への責任が不公正の告発に限定されるため、他者の避けえた苦痛は見落とされるからである。正義を唱える理論家に言わせれば、主観的苦痛を重視するほうが道徳的責任の放棄を容認している。というのも、主観的苦痛を重視するならば、賢明さに欠ける者が自らの選択の代償を支払うという当然のことを否定し、責任を持って行動している者に不利益を被らせ、無責任な者に得をさせるからである。

 

したがって、ケアと正義との論争は、責任と権利との論争なのではない。それどころか責任は正義の倫理の中核にある。他者への要求が公正へと限定されるのは、他者が権利を有しているためではなく、私が責任を有しているためである。他者への責任とは、一つには、自分自身の願望や選択の代価として責任を引き受けることである。ロールズによれば、彼の理論は「自己の目標への責任を引き受ける能力に依拠している」(Rawls)。反対に、道徳的義務を客観的不公正ではなく主観的苦痛と結びつける者は、責任ある行為者という理念を否定しなければならない。「人々に自分の選好の責任を負わせ、できる限りのことを要求するのは、不正とはいわないまでも、理に適ってはいない」(Rawls)と言うべきである。ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない。「彼の洞察力や自己規律の欠如によってもたらされた結果から彼を救いだすために、人々の所有物を減らすべきだというのは、不公正と見なされる」(Rawls)。いかなる主観的苦痛にも援助の手をさしのべなければならないならば、自身の福利に責任を持ってきた者は、不注意であったり放埒であった無責任な者を助けるために、常に犠牲を強いられることになるだろう。これは不公正以外の何ものでもない。

 

主観的苦痛が常に道徳的な要求をもたらすという見解は、不公正なだけでなく、抑圧を隠蔽する可能性がある。主観的苦痛は期待と結びつき、不正な社会は不正な期待を生みだすからである。伝統的な婚姻関係を考えてみてほしい。この関係では「女性が男性に仕えるようには、男性は女性に仕えない」(Fyre)。男性は女性に、自分のニーズに対応してくれるよう期待するため、家事労働の分担を求められるたびに主観的苦痛を感じることになる。実際「搾取や抑圧の関係を変革しようとすれば、一部の者は何かを奪われざるをえない。彼らは慣れ親しんできた気配りや奉仕や快適さを奪われるかもしれない。そしていくらかの苦難や困難をケアの欠如と感じるかもしれない(Grimshaw)。抑圧者は、いかなる特権の喪失にも敏感であろう。逆に被抑圧者は、抑圧に主観的苦痛を感じないよう社会化されている場合が多い。すなわち被抑圧者は、獲得できないとわかっている物をあらかじめ望まないように選好を適応させているのである。

 

こうした適応的選好形成の形成過程が見出せる場合、道徳的な要求の根拠として主観的苦痛に焦点を合わせるならば、抑圧は常に見えにくくなってしまう。他方、正義の観点からすれば、抑圧者の主観的苦痛は不公正で利己的な期待から生じたものである以上、道徳的に何ら重要性を持たない。正義の要求は、人々の実際の期待によってではなく、正当な期待によって決定される。以上の理由によって、正義を唱える理論家は、客観的不公正が存在しない場合に主観的苦痛が道徳的重要性を持たないだけでなく、たとえ主観的苦痛をともなわない場合でも、たとえば人々が抑圧を受け入れるよう社会化されている場合でも、客観的不公正は非道徳である、と主張するのである(Harding)。この意味において、道徳的に妥当なケアや共同体は、正義に関する条件や判断を前提としている(Kohlberg)。

 

(p.588-591)

 

 ネット上などにおける「弱者男性論者」の主張のなかでも定番の論法のひとつが「男女の幸福度を調査すると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性のほうが幸福度が低い」という点を強調するものだ。類似した議論としては、「男性のほうが女性よりも自殺率が高い」という点を強調する場合もある。いずれにせよ、男性の幸福度の低さや自殺率の高さが、「男性は女性よりも差別されている」という主張や「男性は女性よりも公的な支援を必要としている」という主張の根拠とされる。

 しかし、引用した議論で示されているように、「幸福度の低さ(≒主観的苦痛)」が支援を要求する根拠になるとは限らない。男性が不幸になっているとしても、それは男性たちは(男女平等の社会で認められないという意味で)不当な期待やニーズを抱いているからかもしれないし、男性たちが無思慮な行動や生活をしてきた結果であるからかもしれない。

 一方で、女性の幸福度が高いからといって、女性が差別されていないとは限らない。女性は差別的な社会によって「適応的選好」を形成してきて、いろいろなものを無意識または意識的に諦めてきたから幸福度が高くなっているだけかもしれないからだ。

 

 このあたりの議論は一昔前から存在するものであり、反論も提出されている。

 たとえば、男女平等で自由な社会でもやはり多くの女性がキャリアよりも家庭を優先していることなどを理由にして、「差別的な社会に適応して形成された選好」と思われていたものの一部は、一般的な女性や多数派の女性が"自然に"抱いていた選好である、と論じることができるかもしれない。

 もちろん、男性の幸福度の低さや自殺率の高さは社会のせいである、と論じることもできるだろう(実際に弱者男性論の多くではそう論じられている)。男性はキャリアを積むために仕事をこなしたり商売を成功させるために市場で競争したりなどの経済活動をするように社会に(または女性に)強制されているから、不本意であったり本人に向いていなかったりしても長時間労働をしたりリスクをとったりせざるをえなく、そのために心身に負担がかかったり不安やプレッシャーに苛まれたりして、結果として幸福度が低くなったり自殺したりしている……かもしれない。

 

 とはいえ、すくなくとも、「男性の幸福度の低さ」という事実と「男性に対する公的な支援がなされるべきだ」や「男性は差別されている」という主張をつなげるためには、「男性の幸福度の低さ」の原因が社会にあること、つまり主観的苦痛であるだけでなく客観的不公正であることも示さなければいけない。そして、弱者男性論の主張では、しばしばこの過程が抜かされてしまっている印象がある。

 また、実際問題として、社会的なプレッシャーも男性たちの幸福度の低さの一因となっているだろうが、男性たちが無思慮な行動や自己破滅的な生き方をしやすかったり充たされる可能性の低い選好を抱きやすかったりするところも一因になっているだろう。自殺率の高さについては、男性の生物学的な傾向と、学校などの環境において男性たちが若い頃から身に付ける行動様式が原因であるとするトマス・ジョイナーの議論を、何度か紹介したことがある*1。「生物学的な傾向は男性たち自身が選んで身に付けたものではないので、男性たち自身に責任はない」と主張することも可能かもしれない。……しかし、「生物学的な傾向」から生じる不幸について、他の属性(女性)の人たちや"社会"が配慮する義務を負っているわけでもないだろう。行動様式についても、それを身に付けたのは環境のせいであり男性たち自身の意識的な選択によるものではなかったとしても、現実的な問題として、個人の行動様式を"社会"が介入して変えることは難しく、変えるかどうかは本人に委ねられている。

 その一方で、日本では女性のほうが男性より幸福度が高く自殺率が低いとしても、「日本では女性が差別されている」と言える論拠は大量にある。

 進学校や医学部などの受験における差別、ハラスメントや性犯罪の被害への遭いやすさ、夫婦別姓が認められていないこと(姓を変えるのは大半は女性の方なので実質的には女性差別)、などなど。ハラスメントや性犯罪については直接的な加害行為であり、倫理学的にも政治理論的にも、「加害行為は問題であって是正されるべきだ」と論じることは簡単だ。また、受験や姓(戸籍)などの制度に関する問題についても、単に女性が主観的苦痛を感じているだけでなく客観的不公正でもあると主張することは簡単なはずである。

 

 つまり、多くの場合において、女性の感じている不幸は不公正不正義が原因で生じたものであると主張することは容易である。それに比べて、男性が感じている不幸が不公正や不正義が原因で生じたものであると主張することは難しい。難しいといっても、がんばれば、やはり不公正や不正義が原因で生じていると立証することができるかもしれない(わたしも、ある程度までだが、男性の不幸は不公正や不正義が一因であると考えている)。

 いずれにせよ、その「難しさ」は理解しなければならないだろう。

 

 政治理論や正義論に触れたついでに指摘しておくと、弱者男性論で言われがちな「女性の上昇婚志向」問題についても、少なくともリベラリズムでは、「収入の高い女性は自分よりも収入の低い男性と結婚すべきだ」と要請したり促したりすることは、不可能であるはずだ。

「どんな相手と結婚して、共に生活を過ごすか」ということは個々人に委ねられて個々人が追求すべき「善の構想」のひとつである*2。多くの女性が「年収の高い男性と結婚したい」と考えていて、多くの男性が「だれでもいいから女性と結婚したい」と考えていて、前者と後者とのミスマッチのために年収の低い男性が結婚できず、そのために不幸になったり苦しんだりするとしても、その状況を「不正義」と表現することはできないだろう。ただ個々人が善の構想を追求した結果、「一部の人たちの構想は叶ったが、別の人たちの構想は叶わなかった」という残念な状況であるというだけだ。

 ましてや、結婚できない男性たちの幸福度が低くなったことを配慮や補填などを女性たちに要求することはできない("社会"に要求できるかどうかも難しい)。大体の人は、そのような要求は理に適っていないと判断するはずだ。

 

リベラリズム批判」はもうずっと何十年も前から定番の主張であるが、『現代政治理論』を読んでいると、リベラリズムというのは理に適っていることを重視して、適正な要求と不適正な要求を区別するのに長けている理論であることに気付かされる。「無知のベール」に基づいて考えるロールズの議論も、必ずしもアメリカ的なものであったり西洋中心的なものでもないだろう。日本人であっても多くの人は「そりゃそうだ」とか「もっともだ」とうなずくような議論が展開されているように思える。

 キムリッカが「自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう」とか「ロールズは、われわれには責任能力が備わっていると考えている。彼の理論では、所得に見合った生活をし、正当に期待しうる所得に自らの将来の見通しを合わせるよう求められる。その結果、不注意で放埒な者が、責任を持って生活してきた者に、自分の無思慮の代償を支払ってくれるよう期待することなどできない」とか書いていることも、やはり重要だ。これらの箇所は、一般の人ならごく真っ当な主張と受け取るもののはずである。

 ……しかし、昨今では右も左も"自己責任論"批判に明け暮れて、責任という概念が解体されしきっているために、一部の文系アカデミアやネット上の議論では個人の責任について議論することすらもご法度になってしまっている*3

 とはいえ、「自己責任」がご法度になっているのはあくまで新書本とか雑誌とかTwitterとかはてブだけの世界であり、実際には、政治においても法律においても会社においても友人間や家族においても「自己責任」は存在しており、それに基づいて諸々の制度や規則が運用されていたり、人間関係が築かれたり互いを評価しあったりしている。責任抜きで社会や人間関係は存在できないのだ。

 福祉が削られるとか貧困者に対する同情が薄くなるとかで「自己責任社会」とか「ネオリベラリズム社会」とかが到来することはわたしも問題であると思うけれど、それに対抗するための方法とは、「責任」という概念を解体することではなく、むしろ「責任」という概念についてしっかり論じることで個人の責任の範囲内にあるものとそうでないものとの境界線をきっちりと引くことであるはずだ*4。まともな人たちの大半は昨今流行の極端な「自己責任論批判」には取り合いもしないだろうし、まともな人たちに取り合われない議論なんて存在意義がない。

 また、これは以前にも指摘したことであるが、弱者男性論は昨今のフェミニズムサヨクの議論の「ミラーリング」をしているがゆえに、論点や問題意識は重要であっても議論の内実は不毛なものになっていることが多い*5。理に適った有意義な議論を展開するためには、弱者男性論もリベラリズム(と自己責任論)の観点を取り入れるべきだろう。そして、同じことは、最近のフェミニズムにも当てはまるはずだ。

 

*1:

gendai.ismedia.jp

*2:

plaza.umin.ac.jp

plaza.umin.ac.jp

*3:サンデルも『実力も運のうち』のなかで「正当な期待に対する資格」に関するロールズの議論や、"自己責任論"を批判している

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同様の主張は、山形浩生が18年前のイラク人質事件の当時に行なっている。

cruel.org

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

「弱いものいじめ」としてのキャンセル・カルチャー

s-scrap.com

 

 晶文社の連載で先日に書いた内容の続編的なものを書くために、キャンセル・カルチャーに関する洋書をいくつか取り寄せてもらって読んでいる。

 そのうちの一冊が『Cancel This Book: The Progressive Case Against Cancel Culture(本書をキャンセルせよ:進歩派によるキャンセル・カルチャーへの反論)』。

 

 

 

 

 著者のダン・コヴァリクは昔ながらの労働者支持の左翼。それはいいのだが、タイミングの悪いことにかなりの親ロシア派であって、『The Plot to Scapegoat Russia: How the CIA and the Deep State Have Conspired to Vilify Putin(ロシアをスケープゴートにする陰謀:プーチンを誹謗中傷するためにCIAとディープ・ステートはいかに共謀してきたか)』という本も出していたりする。この本のなかでもロシア擁護的な章も含まれているのだが、まあ本筋とは関係ないのでそこは気にしないでいいだろう。だが、それをさしおいても全体的に時評的・ジャーナリスティックな本ではあり、『アメリカン・マインドの甘やかし』のような理論的・学術的な分析がされているものではない(ので、さして面白くもない)。

 

 とはいえ、この本の第七章「大学における魔女狩り」はわたしの個人的な関心ともマッチしていて興味深く読めたし、重要な指摘もされていた。

 第七章のなかでは、アメリ言語学会(LSA)にスティーブン・ピンカーの除名を誓願するオープン・レターが出された事件についても触れられている(ちなみに著者はピンカーの歴史観などは支持していないそうだ)*1。結局のところ実際に除名されるまでは至らず、ピンカーの立場は守られて教授を続けられているが、それは「ピンカーに対する批判が不当である」と立証されたからではなく、たまたまピンカーがテニュアを持つ大学教授であったからに過ぎない(このことについてはピンカー自身も認めているらしい)。

 日本と同じく、アメリカのアカデミアでも、教授たちの大半は不安定で立場が弱く、大して稼げているわけでもない、非常勤のポジションにいる。彼らがキャンセル・カルチャーの対象になったら、ピンカーの場合とは違って、事なかれ主義で非難を恐れる大学によって簡単にクビを切られてしまう。キャンセル・カルチャーの多くは左派によるものであることをふまえると、労働者の味方をするべきであるはずの左派が立場の弱い労働者を積極的に攻撃していることになる、と著者は指摘するのだ。

 昨今のアメリカの大学の大半には「ダイバーシティ&インクルージョン」の部署があり、一定数の事務員が雇われているわけだが、このこと自体が「魔女狩り」を引きおこしているとも著者は指摘する。ダイバーシティ&インクルージョン部署の事務員には仕事をしていることを当局に示すプレッシャーがかかるので(そうしなければ部署の存在意義が立証できなくなるから)、なにも問題がなさそうな状況でも、なにか問題を見つけて対処しなければならない。結果として、些細な問題でも大ごとにしたり、証拠が不確かでも教員や学生を処罰したりするようになるのだ。

 また、オバーリン大学の学生たち(と大学当局)が町のパン屋を攻撃した事件のように、"Woke"な学生たちによる攻撃の対象は、非常勤講師に限らず、立場の弱い労働者に向かうことが多い*2。これも労働者を守るべき左派の立場からすれば矛盾しているし、それよりも資本主義的で搾取的な大学の労働環境に対する批判を優先するべきだ、といった主張を著者は展開している。

 

 ……先日の記事を書いたときには失念していて、この本を読んでいるときに思い出したが、キャンセル・カルチャーが「イヤ」に感じられる理由のひとつが、目的や意図がいかに善いものであったとしても「弱いものいじめ」として機能してしまう、という構図だ。

 キャンセル・カルチャーは「個人に対する批判・非難を公の場で行うことで、その個人が所属する組織やその個人が関わるメディアやイベントの運営などに対して、懲戒や解雇や契約破棄、または連載の打ち切りや登壇の取り消しなどのペナルティを該当の個人に課することを要求する行為」と表現することができる。

 すると、個人に対する批判や非難がもっともなものであるとしても、常勤職や正規職の労働者は法律や就業規則などが盾となって懲戒や解雇を逃れられるところが、非常勤や非正規の場合には守ってくれるものがないのでクビになったり契約を切られたりする場合がある。イベントの主催者や雑誌の編集部なども、権威や実績のある人については非難から守ろうとするかもしれないが、まだ若くて駆け出しの人だったらたやすく見捨てるかもしれない。もし仮にキャンセル・カルチャーが「悪人たち」に対抗して世の中を是正するための行動であったとしても、犠牲になるのは、悪人ではあるがそのなかでは相対的に「弱者」である人たちなのだ(そして、当然のことながら、キャンセル・カルチャーの対象になっている人たちがほんとうに「悪人たち」であるかどうかについても、個別の事例にはよるだろうがかなりの議論の余地がある)。

 これは、キャンセル・カルチャーが手続き的正義やデュー・プロセスなどの「法」ではなく、示威や権力や人数やレトリックを利用して圧力を加えたり風潮を作り出したりする「政治」によって世の中を改善・是正する行動である以上は、必然的に起こる事態である。……もしかしたら「法」が無力であり「政治」によって是正されることが必要な事態というのも世の中にはあるかもしれないが、キャンセル・カルチャーが行われている事例の大半は、そういう事態ではないように思える。

 

 関連してさらに「イヤ」なところを挙げると、圧力を加えたり風潮を作り出したりしておきながらも、対象にした個人が所属する組織などが懲戒したり解雇したりの処分をすると「責任主体は批判をしたわたしたちではなく、批判を受けて処分をした組織のほうにある」とほっかむりするところだ。

 厄介なのは、形式的には、たしかにその主張は真であるかもしれないことだ。それでも、そういう主張が「責任逃れ」であるということも、大半の人には常識的に判断できることである。理屈がどうであれ、ふつう、目の前でそんな主張をしている人がいたら大体の人は呆れてしまうし、「こいつらとは関わりたくないな」と思うようになるだろう。

 

「非モテ」は「モテないからつらい」、ではない?(読書メモ:『「非モテ」からはじめる男性学』)

 

 

 第一章で提示される、本書のねらいは以下の通り。

 

……登場してから二〇年以上もの間、「非モテ」論は主にネットを中心として議論と考察が繰り返されてきた。その蓄積に敬意を払うと同時に、私は「非モテ」論が限界に立たされているとも感じている。それは、これまで見てきた「非モテ」論の多くが「モテない」こと、つまり恋人がいないことや女性から好意を向けられないことが問題の核心であるという前提に立っているという点にある。

(…中略…)

果たして本当に「非モテ」男性はモテないから苦しいのだろうか。時に暴力にまで走ってしまうほどの苦悩の説明を「モテない」という状況にだけ求めてしまっていいのだろうか。本書で問おうとするのはここである。

ところで杉田[俊介]は『非モテの品格』の中で、性愛的挫折がトラウマのように残り続ける原因として、非正規雇用の問題や男性がケアから疎外されている現象が背景にあることを指摘している。また、本田[透]は恋人のいない苦痛を中心的に論じているが、婉曲的に経済格差やルッキズム(外見や容姿に基づく差別)の問題を示唆している。

つまり、この「モテない」という声を上げる個人の苦悩は、実は恋人がいないという状態や挫折に限らず、あらゆる事象が絡み合って生起しているのではないか。「非モテ」という問題はただ表層として現れただけであって、その奥深くには、男性をめぐるさまざまな問題体系が潜んでいるのではないか。「モテない→苦しい」という単純な因果論から抜け出すためには、多様な角度から「非モテ」男性の世界を分析する必要がある。

本書では、以上の仮説を念頭に置きつつ、「非モテ」男性が抱く苦悩に着目した「非モテ」論の再構築を試みる。そのために、既存の言説に縛られることなく「非モテ」に悩む男性たちの生の語りに焦点を当てながら、苦悩の内実や、苦悩の背景にある複雑なメカニズムを見つめていこうと思う。

(p.29 -31)

 

 本書では、著者の西井が主催する「ぼくらの非モテ研究会」に参加している「非モテ」たちへのインタビューに基づきながら、非モテの人たちが感じている「苦悩」について分析したり表現したりすることが試みられる。

 だが、引用した文章に書かれているように、西井は"「モテない→苦しい」という単純な因果論"を用いることをよしとしない。

 結果として本著で提示されるのは、非モテ男性のつらさは男性集団からの「からかい」や「排除」を受けることやそれによって自分に「非モテ」というラベルを貼ることに起因する、という理論だ。

 

第三章では、「非モテ」男性が男性集団内で追い詰められ、そして自分で自分を追い詰めていく過程を描いた。<集団内の中心メンバー>から、<からかい>や<緩い排除>を受けて周縁化される「非モテ」男性は、被害を受けているにもかかわらず、彼らとの親密な関係性を維持するために、自ら<いじられ役>を引き受けていく。また、<男らしさの達成>をしようとしても、中心メンバーは別の要素を見つけてからかい続けるために、「非モテ」男性はいつまでも「自分は一人前の人間ではないのではないか」という<未達の感覚>と<疎外感>を抱き続けることになる。このゆるい排除と<仲間入りの焦燥>という絶え間ない往還の果てに、「非モテ」男性は自分自身を否定的な存在として見出す<自己レイべリング>に至る。

(…中略…)

以上の分析を通じて、男性たちに苦悩をもたらす「非モテ」とは、「からかいや緩い排除を通じて未達の感覚や疎外感を抱き、孤立化した男性が、メディアや世間の風潮などの影響を受けながら女性に執着するようになり、その行為の罪悪感と否定された挫折からさらなる自己否定を深めてく一連のプロセス」として描き出すことが可能となった。「モテない」という一要素だけで「非モテ」男性の苦悩はもたらされているわけではない。

(p.165 - 168)

 

 さて、ここに引用した理論には、説得力があるだろうか?

 すくなくとも、わたしにはほとんど説得力が感じられない。

Amazonレビューや西井へのインタビュー記事についたはてなブックマークなどを見ると、説得力を感じている人もいるようだ*1。だが、非モテ(弱者男性)として有名な「すもも」氏のように、非モテのなかにも西井の理論に対して違和感を抱いている人は多いようである。

 

 

 

 

 わたしが違和感を抱いているのは、本著のなかでは「男性集団からの周縁化」が非モテのつらさの一因ではなく主因であるかのように論じられているところだ。

 これが一因として論じられているのなら、まだ受け入れられる。たしかに、高校生や大学生の男子集団においては(コミュニティによっては社会人になってからも)、性体験の有無や彼女の有無をネタにしていじりあったりからかいあったりすることは定番の光景である。そのなかで一部の男子がそのいじりやからかいを真に受けたり傷付けたりして悩んだり拗らせたりすることも、よくある事態だろう。わたし自身もいじったりいじられたり、からかったりからかわれたりしてきた経験がある。みんなから童貞いじりされていた人が、その場ではおどけて受け答えしていたが、「実はかなり傷付いていた」と後から打ち明けることもあったものだ。

 しかし、西井の著書や、他の社会学ジェンダー論の本を読んでいると、人間というものの苦悩や幸福はなにからなにまで人の目によってつくられているかのように錯覚させられそうになる。

 

 たとえば、本書の序盤でも触れられている伝統的な「ホモソーシャル」理論によると、男性が女性を求めることは「男性集団で一人前と認められるため」であるからとされる。たしかに、そういうところもあるだろう。男子学生のグループでは他の連中よりも先に彼女を作った男が「格上」と見なされる場合はあるだろうし、社会人になっても配偶者の有無が「有能さ」や「まともさ」の指標として機能させられることもあるだろう。

 だが、ホモソーシャルに属していようが属してなかろうが、男性集団から周縁化させられていようが周縁化させられていなかろうが、大半の男は女を欲求する。これはもう生物学的・人類学的な事実だとしか言いようがない(ので、「そうでない事例もある」とか「欲求が生得的なものだとは証明できない」といった反論は相手にしない)。

 そして、欲求が充たされないとき、わたしたちは多かれ少なかれつらさを感じるものだ。

 欲求とは「食欲」や「性欲」などのシンプルなものだけでなく、社会関係に紐づくものもあることは重要だ。たとえばわたしたちは人の輪に所属することを欲求するし、他人から指図されるのはなく指図する側にまわることを欲求する。だから、孤独であったり、「底辺」であったりすると、つらさを感じる。

 そして、ヘテロセクシュアルの男性であれば、セックスとコミュニケーション関係との両方の面で、女性のパートナーを獲得して保持することを欲求するものだ。だから、彼女や配偶者がいない人は、そうでない人に比べると、パートナーの獲得・保持に関する欲求が充たされないことによるつらさを感じている。それは、腹が減っている人や孤独な人や底辺の人が、それぞれに対応する欲求が充たされないことでそうでない人よりもつらさを感じているのと同じことだ。もちろん欲求の多寡には個人差があるだろうが、それが充たされないと大小に応じてそれぞれのつらさが生じることには変わらない。

 

 わたしは人生において恋人がいる時期を何度か経験してきているので、本書に出てくるような「非モテ」ではない。とはいえ、もちろん、わたしにだって恋人がいなかった時期もある。

 そして、わたしが「恋人がいないこと」によるつらさをもっとも強く感じていたのは大学院を卒業した後に数年間フリーターをやっていた時期だ。同時に、この時期は、学生であったそれまでの時期とは違い「ホモソーシャル」に所属していない時期でもあった。アルバイト先の人たちとはそれなりに親しくしていたが、学生時代の友人関係のようには親密な関係を築いていたわけではないし、恋人の有無とかセックスに関する話題が出ることもほとんどなかった。

 その時期に親密に関わってよく喋りあっていた相手としては、高校からの友人と大学からの友人がひとりずついたけれど、前者は童貞の非モテであり後者もこの時期には彼女がいなかった。ついでに言うと、両者ともその時期はニートであった(後者は途中から同じバイト先で働き始めてフリーターになったけれど)。

 ポイントとなるのは、この時期のわたしには、自分に恋人がいないことについて比較対象となる相手もなければ、気になる「人の目」もなく、からかってきて周縁化してくる相手もなかったということだ。

 だが、それでも、恋人がいないことはつらかった。それは、同時期にニート/フリーターであった私の友人たちも同じことだ。

「フリーターやニートになる前の大学時代まではホモソーシャルに所属していたので、その時に周縁化された経験や内面化した価値観が、その後にも影響を与えて、つらさを生じさせた」という解釈も、しようと思えばできるかもしれない。しかし、それはわたしの実感にまったくそぐわない。「恋人がいなくて寂しいなあ」とか「ハグとかセックスとかしたいなあ」とか「一緒にデートする相手が欲しいなあ」とか思うときに、若い頃にやったりやられたりしたいじりやからかいとかを思い出したりするわけじゃないのだ。恋人がいないから充たされない欲求と、その欲求が充たされないつらさは、わたしの内側から生じていた。恋人がいないことによって生じている問題や、その状況が恒常化した非モテになることで生じる問題の原因とは、内在しているものであるのだ。

 これはごく常識的で当たり前の発想でもある。むしろ、個人の欲求ではなく、男性集団からなされた周縁化や排除などの外側に問題があるとすること(すくなくとも、問題の主因が外側にあるかのように論じること)のほうが、不自然でおかしいはずだ。

 西井が問題を外在化させている理由については、以下のように書かれている。

 

……何かしら問題が起きた時、それが起きたのは自分のせいだ、と考えることを「原因の内在化」といい、いや相手のせいだ、と考えることを「原因の外在化」という。前者の場合、問題を解決するには自分を変化させなければならないということになり、当事者は今の自分を否定することになってしまう。一方後者の場合、自分を苦しめずに済むが、他人や社会はすぐには変わってくれないので問題はなかなか解決されないままになる。

それに対し「問題の外在化」は問題の原因を問わない。個人の抱える問題を何かの原因に帰属させるのではなく、問題そのものを個人から切り離して、一つの現象として捉えるのである。またその際、現象に名前をつける作業が重要となる。

(…中略…)

個人の中に問題があると見なすのではなく、距離を置いて眺めることで、問題を生起させているメカニズムや、問題が個人に与えている影響などを整理して考えることができる。そうして、問題に対して自分ができることと、できないことの見通しもたってくる。

(…中略…)

さて、ここまでのことを「非モテ」の議論に当てはめてみる。「非モテ」という苦悩の原因を内在化させた場合、それは第一章で確認した「ラベリングとしての非モテ」のように、自分の身体や性格の特徴や傾向が苦悩をもたらしているという説明になる。もしかしたらそのせいで、過度な劣等感に苦しむことになるかもしれない。

一方、「女をあてがえ」論のように自分の苦しさをもたらすのは女のせいだ、と決めつける論理は「原因の外在化」と言えるだろう。当然ながら女性の意思を無視してパートナーシップを結ぶなど不可能であり人権侵害的な論理なので、なんの展望も見込めない。

その点、この「問題の外在化」という手法を応用すれば、自身の苦悩の原因を特定の説明に還元してしまうという危険性を回避しながら、「非モテ」の苦悩の背景や、発生のメカニズムを細かく探れるのではないか。

以上のような「問題の外在化」(当事者研究)の実践の蓄積と思考をもとに、私は「非モテ」男性同士が主体的に自己を探る共同研究の場を立ち上げた。

(p.37 - 39)

 

 率直に言うと、わたしには、西井の言う「問題の外在化」とは「問題のごまかし」でしかないように思える。

 西井が「原因の内在化」および「原因の外在化」を否定しているのは、「それらは正確な原因でないから」といった事実に基づく理由ではなく、「それらがよくない結果や結論をもたらすから」という規範に基づいた理由であることに注意してほしい。

 たとえば、ある人が非モテであることの原因はその人の「身体や性格の特徴や傾向」にあることが事実だと仮定しよう(というか、実際問題として、多くの非モテの原因はそこにあるでしょう)。たしかに、その事実を当人に突きつけたら、当人は「劣等感に苦しむことになる」だろう。そして、事実を突きつけたところで当人がそれを改善することが不可能であるという場合には、無用に当人を苦しめるだけというだけになる。だから、当人には事実を伝えないということも、規範的な選択としては全然アリだ。むしろ、「問題の原因はあなた自身ではなく、男性集団から排除を受けたことにあるんですよ」と言ってあげるほうが、当人としては気休めになってよいかもしれない。……でも、事実は事実であり、劣等感に苦しませることを避けるために別の原因を強調したところで、その事実が消えるわけではない。

 あるいは、ある人が非モテであることの原因は、女性側の選択にも原因があるかもしれない(かもしれないじゃなくて、原理的に、女性側の選択は、ある人が非モテである/恋人がいないという状況を構成する一因である)。そして、西井が危惧しているように、「女性側にも原因がある」という指摘は「女性側にも責任がある」という発想に飛躍して「女をあてがえ」論に結びつきがちではある。でも、それは、原因(事実に関する問題)を責任(規範に関する問題)に飛躍させて論じる人が短絡的で間違っているというだけの話だ。それはそれとして、女性側には責任はなくても原因があることが事実だとすれば、その事実にはごまかさずに目を向けるべきだ。

 あるいは、どちらも事実ではなく、非モテの苦悩の主因はほんとうに「男性集団からの周縁化」などにあるかもしれない。しかし、それを主張するためには、一般的な通念や自然な発想からして「主因である可能性が高そうだ」と思われる他の原因(男性の身体や性格に関する特徴、女性の選択など)が、実際には主因ではないということを示す必要がある。わたしが読んで判断した限り、『「非モテ」からはじめる男性学』ではそのような作業が充分になされていない。

 とはいえ、これは西井の論じ方とか書き方とかが特に悪いというよりも、ジェンダー論や社会学一般に、そして近頃のサヨク的言説一般に見受けられる傾向だ。つまり、「自己責任論はダメだ」「女性に原因があると示してはいけない」といった一連の規範があらかじめ定められており、その規範に抵触する可能性のある事実について明言することも避けながら、許されている範囲内で議論を展開する。こういう議論は、間違っているとか正しいとか以前に、わたしにとってはまったく面白くない。

 それでも、問題について細かく・複雑に・繊細に分析することで、これまで見過ごされていたなにかしらの原因が発見されて、それに応じた新しい対策も考案できるなら、そういう議論にも意味や価値はあるだろう。とはいえ、「問題の繊細で複雑な分析」と「問題のごまかし」の境目は曖昧なものだけれど。

 

 また、一般的な「男性集団」を悪しきものとして描き、それに対比するかたちで「ぼくらの非モテ研究会」を良いものとして描く傾向も散見される。どちらかといえば一般的な「男性集団」のほうに所属しつづけてきたわたしとしては、これはあまり愉快ではない(というか、イラッとする)。

 

……「非モテ」男性はこれまで所属した男性集団の中で些細な傷つきを蓄積しながら疎外感を抱いてきた。そこは構成員同士でお互いにまなざしを向け合う閉鎖的な空間であった。しかし、ボランティアを始めたり、学校の外に目を向けたりすることで偶然たどり着いた新しいコミュニティで、これまでとは違う他者との関わり方に遭遇する。語りや活動が否定されずに受け入れられ、その語りや活動そのものによってつながること。この関係性がもとになったコミュニティの中で、「非モテ」男性の苦悩は和らいでいく。

(…中略…)

非モテ男性が「仲間入り」しようとした集団は人間に序列をつくる競争関係にあり、そこに身を置き続ける限り、男たちは常にお互いを見比べて劣等感と疎外感にさらされるか、もしくは他者を貶める危険性を孕む。しかしここで語られた同じ方向を向きながら共有体験を重ねる仲間関係は、彼らの苦しさを解放し、新たな対人関係のあり方を開く。

(p.160 - 161)

 

 実際のところは、一般的な男性集団であっても、みんながみんな互いに貶めたり劣等感を抱きあったりするものではない。競争的な男性同士でも互いに序列を作るとは限らず、「あいつはこれができてすごいし、おれはこれができてすごい」と言った感じに互いの良さを見つけ合う関係性に落ち着くこともある。互いに競争することで切磋琢磨しあって成長しあうことのメリットも否定できない。いじりあったりからかいあったりすることにすら、それについていける人であれば「楽しさ」を感じられるものだ。

 そのような男性同士の自然な人間関係(≒友情関係)を否定して、代わりに、疎外されたものが「語りあう」ために集まった人工的なアジールのような関係性が持ち上げられることには、わたしにはどうしても違和感が残る。

 

 とはいえ、「男性同士のケア」が流行っている昨今では、『「非モテ」からはじめる男性学』で描かれている非モテ同士の関係性は、ウケが良くて好意的に評価されるんだろうことは想像に難くない。

 昨今の日本における男性学では、澁谷知美や江原由美子などによる「男はつらいよ男性学」批判を想定しながら、「男性特権が実在する」や「女性のほうが男性よりも社会的に抑圧されたり周縁化された集団である」といった前提を真として、女性の受けている差別や抑圧について幾度も触れながら、隙間を縫うようなかたちで「男性のつらさ」を語らなければならない*2。西井はこの作業を上手に完遂しており、澁谷からも太鼓判をもらうことができている*3

非モテの苦悩を「男性集団からの周縁化」に着地させることは、たしかに、フェミニズム的には百点満点の回答にはなっているだろう。主流派の男性集団(そしてその集団を構成する個々の一般男性たち)を「悪い」ことにしてしまえば、そこから漏れている男性たちの「辛さ」を語ることは、フェミニズムでも許容されるからだ。

 だからこそ、わたしは、女性読者たちのほうにチラチラと目配せしてお許しを伺いながら書かれているかのような言い訳がましさを『「非モテ」からはじめる男性学』に感じてしまうのだ。同じことは、ここ数年に出版されたその他のニューウェーブ男性学の本たちに対しても感じているけれど。

 

*1:

b.hatena.ne.jp

*2:たとえば、この本の直前に読んだ『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』もそうだった。

 

 

*3:

「ハッピーエンド」を唱える議論には警戒せよ(『資本主義が嫌いな人のための経済学』読書メモ①)

 

 

 

 まずは「エピローグ」から引用。

 

若かりしころの私は、社会正義の問題など簡単だと考えていた。世界には二種類の人間がーー根っから利己的な人間と、もっと寛大で思いやりのある人間がいるように思われた。世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうように仕組んだせいなのだ。したがって、この問題の解決法は、もっと思いやりをもつように人々を説得することだ。それがダメなら、思いやりのある人が政治権力を手にできると保証することだ。そのうえ、例の「見えざる手」のレトリックのせいで、資本主義とは、利己的な人間が自分の利益を増やすためにこしらえたシステムであり、右派の政党がこの作戦にイデオロギーの隠れみのを与えるために存在しているのは明白だと私には思えた。だから反資本主義は、率直な道徳的要請のような気がした。政府は善、市場は悪なのだ。

私も年をとったから思うのだが、この見方には誤りが多すぎて、どこから挙げていったらいいのか迷ってしまうほどだ。…

(p.346)

 

世界が複雑だからこそ、私は経済に関する謬見の手引きとして、この本を書くことにした。謬見というのは厳密には、真なる前提から誤った結論へ導く主張にすぎない。だが謬見は単なる間違いではなくて、最初に耳にしたときには正しいように聞こえる。実際のところ、誤謬をはらんだ推論がなぜ無効なのかを見分けるには、かなりの洞察力が必要になる。

謬見がとりわけ経済学の分野で根深いのは、人は複雑なものごとをよく理解できないからである。私たちはすべてのものが他のすべてに依存している事実を無視する。人が環境の変化に応じて行動を変えることを忘れる。すぐでなくても長期的には帳尻を合わせねばならないこと(消費と生産とか、輸入と輸出とか)があるという事実を見落とす。複雑な状況に対処するために単純な議論を提示する。右派はというと、市場が最高最善の世界を、実践的に達成しうる最良の世界をもたらすと、私たちに信じさせようとする。競争は普遍的な万能薬として提示され、競争市場などが組織されると望むのは、ばかげていることが自明のときも試乗という「解決法」が推奨される。政府の「非効率」は実証的な証拠に訴えるのではなく、想像上の根本原理(「政府がしていることだから非効率にちがいない」)にもとづいて非難される。普通の人たちが互恵的リスク共同管理のしくみから切り離されたり、自分の首を絞めるような行動をするのを看過されたり。すべては個人の自由と自己責任のためなのだ。しかるに左派は、経済に認められるどんな「不公平」でも、取引が行われる条件を直接修正するように命令を下すなり、法律を改正するなりすれば解決できると、私たちに信じさせようとする。家賃が高すぎる?安くさせろ。産業汚染がある?汚染を止めさせろ。給料が足りない?もっと払わせろ。民が貧しい?金を与えろ。いや、もっといいのは政府にすっかり任せることだ。強欲な営利目的の民間部門と折り合わないといけない煩わしさは抜きで、そのまま正しいことをできるのだから。

手っとり早い解決法はあるか?ない。だから本書は、ハッピーエンドとはいかないのだ。世界で憎まれ、疑念をもたれている資本主義だが、もっといいものを見つけるのがひどく困難であることは証明されてきた。これまでに得られたのはせいぜい、いくつかの改善点と、ほかにどんな改善ができそうかを考えるための知的ツール一式ぐらいだ。そこにこそ現代経済学の価値がある。

(p.348 - 349)

 

『資本主義が嫌いな人のための経済学』は、経済学の専門家ではなく哲学者であるジョセフ・ヒースが、右派と左派それぞれが経済に関して抱きがちな「誤謬」の問題を指摘して、彼らの考え方のどこがどのように間違っているかを丁寧に解説する本である。経済学の考え方や概念について、数式やグラフを用いずに、言葉と論理によって説明されている。

 ……こういう風に紹介すると「わかりやすい経済学入門」的な本であるように思えてしまうかもしれないが、ヒースの論理は明晰であるのに、『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでは実に抽象的で掴みどころのない議論が頻発する。おそらく、それは経済学というもの自体に含まれる抽象性や複雑さというものを、単純化したり捨象したりすることなく伝えようとしているからだ。そのために正直で誠実な本ではあるし、文章そのものは決して読みづらくもないのだが、そこで議論されている内容を「理解」することはなかなか難しい。わたしは『資本主義が嫌いな人のための経済学』を読んだのは今回が三回目であり、赤ペンと定規を手にして線を引きながら時間をかけて読んだのだが、それでも自分がちゃんと理解したかどうかには一抹の不安が残っている。専門の哲学者や経済学者にとってすら難しさがあると思う。

 

 とはいえ、その「難しさ」自体が、経済というものの本質であるかもしれない。『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでもとりわけ明確なメッセージが、エピローグでも書かれている通りに「ハッピーエンドはない」ということだ。

 右派はインセンティブや自由競争で全てが解決すると豪語して、左派は賃金や価格を政府が操作して再分配や平等を促進すれば苦しむ人がいなくなると唱えるが、どちらの主張もあまりに単純であり、実行しようとしたら様々な予想外の事態や弊害が生じて当初の目論見とはかけ離れた結果が訪れることが、難しく込み入った論理によって示されている。経済というものが「あちらを立てればこちらが立たず」であること、そしてどんな問題にも単純な解決方法はないということについては、かなりの説得力を持って伝わってくるのだ。

 

 とはいえ、ヒースも指摘している通り、人は単純な議論を求めるし、ハッピーエンドを望む。経済に関する爽快な解決策や素敵な理想論がまわりくどい議論によって棄却されて、地味で漸進的な対策しか提言されない本なんて、ほとんどの人はわざわざ読みたがらない。

 たとえば、ライターのブレイディみかこのような「サッチャーにはエンパシーがなかったから彼女は労働者階級に冷淡で残酷な新自由主義政策を実施した」的な物言いは、「思いやりのある人が政治家になれば世の中は良くなる」といった単純な世界観に基づいたものであるだろう。また、「世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうように仕組んだせいなのだ」的な発想は、ちょうどこのブログを書いている途中で目にした、下記の記事における社会学者の酒井隆史の発言にもありありと示されている。

 

50年ぐらい前(1960年代)には、ほとんど働かないですむような世界を多くの人たちがもとめはじめた時代がありました。そして経済学者の予想した通り、客観的にも、可能性としては、その実現は遠いものではなくなっていました。

ところが、世界を支配している人々からすると、それが実現するということは、人々が、じぶんたちの手を逃れ、勝手気ままに世界をつくりはじめることにほかなりません。そうすると、じぶんたちは支配する力も富も失ってしまうことになります。

そこでかれらは、あの手この手を考えます。

そのなかのひとつが、人々のなかに長いあいだ根づいている仕事についての考え方を活用し、あたらしい装いで流布させることでした。

gendai.ismedia.jp

 

 上記の人たちは「左派」であるが、もちろん、「右派」の人たちも現在進行形で謬見を撒き散らしている。

 ただし、知識人にせよネット論客にせよ、日本の「右派」や「保守」のなかでは「新自由主義(市場主義/競争主義)」は、知的なトレンドとしては必ずしも主流派でなくなっていることは素人目にも明らかだ。むしろ、「中流の家庭」や「底辺の労働者」、あるいは「ふつうの日本人」や「家庭の大黒柱」に寄り添っている風な温情的なメッセージと、「経世済民」的な道徳主義のほうが目立っている。彼らが提言するのは、たとえば「財政出動すれば不況はなくなる」とか、「移民を受け入れずグローバリズムも拒絶することで、労働者を守って日本経済を立て直すことができる」とか、あるいは「男性の所得を上げることで出生率は解決して、ついでに経済もよくなる」とかいった主張だ。

 これはずるい言い方になるが、わたしは経済学は門外漢であるし、とくにマクロ経済学はさっぱりわからない(正直言って興味もほとんどない)ので、彼らの主張のどこがどのように誤謬であるかということを自分の力で具体的に指摘して論じることはできない。……とはいえ、「左派」に負けず劣らずに現代日本の「右派」たちの主張も九割方が「謬見」であるだろうということは、察知できる。なんと言っても、彼らの主張は「ここをこうすることで、この重大な問題が解決する」といった単純なものでしかない。彼らの主張が訴えかけるのはわたしたちの論理的思考にではなく、「労働者やふつうの人が蔑ろにされるいまの世の中は許せない」といった類の道徳感情と、自分たちの悩みや苦しみが一挙に解決されるハッピーエンドへの願望にであるのだ。……そういった類いの議論にはほぼ必ずどこかに間違いが含まれており、そして経済学的においてはひとつの間違いでも全体を多く狂わせて、当初の予想とはまったく異なる結果がもたらされることになる。

 そのような議論は警戒するにこしたことがない。とくに、自分の価値観や主義主張とマッチしている議論や、自分の気持ちに寄り添ってくれそうな議論こそが、おそらく最も危険なものであるだろう。

拙著『21世紀の道徳』が発売しました

 

 

 

 拙著『21世紀の道徳:学問、功利主義ジェンダー、幸福を考える』都内の書店では昨日から購入できたみたいだけれど、正式な発売日は本日です。ぜひ書店などで購入してください。

 また、講談社現代ビジネス誌にPR記事を掲載しております。

 

gendai.ismedia.jp

 

 

『21世紀の道徳』では、心理学の知見に基づきながら哲学者たちの議論の「審査」をおこなった。

 

心理学の知見から倫理学の議論を審査した結果、『21世紀の道徳』では、規範と価値のそれぞれについて、政治的には相反する立場を支持することになった。規範に関しては、感情よりも理性を優先するリベラルな主張が望ましい

 

昨今ではSNSの影響により、常識に反する議論ばかりを見聞して、幸福になりやすい生き方がわからなくなっている人もいるかもしれない。『21世紀の道徳』のなかでわたしがあえて「保守的」な価値論を説いたのは、そうした若者たちに思想の「解毒剤」を提供するためだ。