道徳的動物日記

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狩猟にまつわる倫理的問題

 

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 ↑ 倫理学者のゲイリー・ヴァーナーの論文「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を要約した上記の記事など、このブログでは英語圏倫理学者が狩猟について書いた文章を要約したり翻訳したりした記事をこれまでにもいくつか公開してきた*1。今回の記事では、反・種差別的な動物倫理学の立場から狩猟について言えることを、ヴァーナーの記事などを参考にしながら簡単にまとめてみよう。

 

 ヴァーナーは狩猟という行為をその目的に応じて「セラピー的狩猟」「生存のための狩猟」「スポーツ・ハンティング」という三つのカテゴリに分けている*2。「セラピー的狩猟」は自然界の動物の個体数を調節して生態系や生物多様性などを守ることを目的とする狩猟であり、「生存のための狩猟」は食料確保など人間が生きるために必要とされる狩猟のことだ。「スポーツ・ハンティング」は自然保護を目的ともしなければ生きるために必要とされない狩猟のことであり、ヴァーナーの定義では宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟もこのカテゴリに含まれる。

 

 とりあえず「生存のための狩猟」は置いておいて、他の2つのカテゴリの狩猟について考えよう。一般的な人々が持つ常識や道徳観念、また種差別を批判しないタイプの倫理学などにおいては、「セラピー的狩猟」に対する批判はほとんどないように思える。いわゆる「スポーツ・ハンティング」には眉をひそめるとしても宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟は認める、という人も多いだろう。そのような価値判断の背景には「生態系や生物多様性には価値がある」「宗教的な儀式や文化的慣習には価値がある」という前提があると考えられる。狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることも、生物多様性や文化的慣習を守るという目的のためには許容される、ということだ。

 しかし、種差別を批判するタイプの倫理学においては、狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることそれ自体が重大な道徳的問題として扱われる。反種差別的な観点からすれば、宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟はほとんど例外なく認められないだろう。宗教や文化を理由として人間を殺害したり傷付けたりすることが認められないと考えるのであれば、宗教や文化を理由として動物を殺害したり傷付けたりすることも認められない、と考えなければ種差別であるからだ。

 セラピー的狩猟に関しては、やや扱いが難しくなる。狩猟による自然保全を行わなかったために生態系が乱れてしまい、結果的により多くの動物が飢餓などにあい苦痛を感じたりしながら死んでしまう、という可能性があるからだ。カント的な義務論で考えれば、将来の悲惨を防ぐために狩猟を行うことは目的のための手段として動物を扱うことになるから認められない、ということになるだろう。一方で、功利主義の理論で考えれば、将来に大多数の動物に生じる悲惨を防ぐために現在の少数の動物を殺害するという行為は認められる可能性がある。…ただし、いずれにしても「生態系」や「生物多様性」それ自体に価値があるとは判断されない、という点がポイントだ。まず考慮されるべきは人間や動物の利益であって、生態系や生物多様性には間接的な価値しか認められないのである*3

 

 いわゆる「動物倫理」は環境倫理学のサブカテゴリーとして扱われがちである。しかし、生態系や生物多様性に本質的な価値を認める一方で種差別は否定しない、という「自然保全」中心的なスタンスをとる環境倫理学者も多い。また、生態系や生物多様性に本質的な価値を認めず、かといって動物たちの利益も考慮しない、良く言えば「プラグマティズム」で悪く言えば「人間中心的」な主張をする環境倫理学者も多々いる。そのため、動物倫理学的な考えと環境倫理学的な考えは必ずしも一致しないのだ。

 倫理学者だけでなく、実際に自然保全を行う人たちの間でも、自然保全中心的か人間中心的か反種差別的か、というバリエーションなりグラデーションなりは存在すると思われる。

 

 結局のところ、重要なのは「何のために狩猟を行うか」という目的と、そのための手段としてどこまでの行為を認めたりどれほどのコストを支払うか、というところだ。…たとえば、ある場所の生態系の手段を守る方法として「金銭的コストがかからない狩猟」と「金銭的コストや人間側の負担などがかかるが、動物を殺害せずに済む手段」という両方の手段が存在する時である。おそらく、現在の社会ではほとんどの場合で前者の手段が採用されるだろう。しかし、それはこの社会に種差別が浸透し過ぎた結果なのであり、本来なら人間側に相当のコストや負担がかかっても避けられることが可能な場合には狩猟は回避すべきである、と考えることもできるだろう。狩猟が避けられない場合としても、殺害する動物の数をより減らしたり動物に与える苦痛をより減らすための努力は欠かせない、と考えられる。

 このことは「生存のための狩猟」に対しても当てはまる。たとえば、菜食主義への反論として「野菜や穀物を栽培するための農業においても害獣駆除は不可欠だ」という議論が持ち出されることが多い。しかし、ある程度の害獣駆除は不可欠だとしても、回避できる駆除まで行なっていないか、駆除の方法は適切か、といったことは常に問われ続けるべきである。

 

 

 

*1:たとえば、以下の二つの記事

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*2:ある狩猟行為はこれら三つのカテゴリのどれか一つにしか収まらない、というわけではなく、ある狩猟行為がセラピー的狩猟であると同時にスポーツ・ハンティングでもある、という場合もあり得る

*3:この記事でも同様の議論がされている。

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文系インテリが進歩や科学を嫌う理由(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その4】)

 

 前回前々回前々々回の続き。

 

 これまでは『現代の啓蒙(Enlightment Wars)』に寄せられた具体的な批判に答えてきたピンカーだが、記事の後半では「『現代の啓蒙』はなぜ一部の人々をここまで猛烈に怒らたのか?」という疑問を呈して、自らそれに答えようとする。

 

 ピンカーが挙げる理由の一つは、文芸批評家に代表される文系インテリたちのスノビズムだ。多くの文芸インテリはニーチェ的なロマンチシズムを抱く傾向があり、歴史的・芸術的な偉業(訳注:すごい文芸作品とか芸術作品など)だけを本物の価値があるものだとして褒めそやして、子供の死亡率や栄養状態や識字率の改善など、数字で明白に示されるような物事には興味を抱かない。

 1959年、物理学者でもあり小説家でもあったC.P.スノーが著書『二つの文化と科学革命』のなかで自然科学の発展が途上国の人々の苦痛を減少させる可能性を強調したとき、文芸評論家のF・R・リーヴィスはスノーを攻撃した。人間らしく生きるためには偉大な文学が必要なのだ、というのがリーヴィスの言い分であった。ピンカー自身も、「人類の最良の日は未来にあるのか?」という論題でディベートをした時に哲学者のアラン・ド・ボンから同様の論法で批判されたことがある*1。ド・ボンの出身国であるスイスは健康や幸福や教育や繁栄や平和などのいずれの点においてもで世界最高クラスの国ではあるが、それらの物事は国民がプルーストの著作の真価を理解してよく味わえることを保証するものではないのでスイスは他の国から羨望されるに値しない、というのがド・ボンの主張だったのだ。

 このような文芸主義は、人々の状態を改善するためにエンジニアやビジネスマンや公務員たちが行なっている卑俗な仕事をあざ笑ってしまいがちだ。ビジネスマンや公務員たちは近代的・資本主義的な制度の枠組みのなかで労働しており、数々の点で人類の状態を向上させてきた実績からも近代的・資本主義的な制度の価値は立証されているはずだ。しかし、多くのインテリたちは「批判理論」や「ラディカルな否定」や「疑いの解釈学」的なスタンスをとって、現代の西洋は堕落していると見なす。具体的にどのようなものでは定かでないがとにかく現在とはまったく違った形の社会制度が西洋的なものに取って代わらなければならない、と彼らは主張するのである。

 自然科学と人文科学は「知識の統合」という啓蒙主義的な理念に従いやがて「第三の文化」に統合されるだろう、とスノーは論じたが、リーヴィスはこの主張にも憤慨した。昔から今に至るまで、人文学と自然科学を架橋しようとする試みは人文学者の怒りを買ってきたのだ。理系と文系の知識を統合するための学際的な会合が開催されても、自然科学者が「視覚についての神経科学が芸術についての理解をもたらす可能性」とか「量的研究が音楽の普遍性についての理解をもたらす可能性」とかを提案すると、人文学者たちは怒り出してしまう。そして、ナチスを相手にするかのような勢いで、低俗な還元主義者のレッテルを自然科学者に貼るのだ。『現代の啓蒙』も歴史学政治学や哲学による分析を量的研究や認知科学進化心理学の知見でさらに豊かにしようと試みた本だが、主に文系インテリからの轟々たる非難にさらされることになった。

 

 精神医学者のスコット・アレクサンダーのエッセイでは、人々の思考形式を二種類に分けることで、現代の政治的争いが分析されている。一方の人々は「誤りの理論」で思考しており(Mistake theorists)、彼らは科学や工学や医学のように政治を扱う。現在の社会に生じている問題を病気のようにとらえて、人々は「最も正確な診断や、処方箋は何であるか」をめぐって論争している、と考えるのだ。ある人々の診断や処方箋は適切なものであるとしても、別の人々は的外れな診断をしてしまい、何ら効果がなかったり副作用の多すぎる処方箋を提案しているかもしれない。しかし、互いの診断や処方箋を分析しあって問題を指摘し合うことで、やがては適切な診断や処方箋が採択されることが見込めるだろう。…他方の人々は「争いの理論」で思考しており(Conflict theorists)、彼らは政治を戦争のように扱う。政治とはそれぞれの利害を持つ別々の立場の人々による恒久的な争いである、と見なしているのだ。エリートをさらに豊かにするものとして国家を機能させるか、それとも人民を助けるものとして機能させるか、その決定権をめぐる争いである。

 現代の世界では様々な論点において妥協の余地のない対立が発生している。議論や言論の自由の価値、人種差別主義の性質とは何か、民主主義の長所と短所、テクノクラティックな解決策と革命的な解決策のどちらが望ましいか、知的な分析と道徳的な情熱のどちらが望ましいか、などなどの論点だ。これらの対立の原因は「誤りの理論」と「争いの理論」の思考形式の違いで説明できる、とアレクサンダーは論じている。

『現代の啓蒙』は「誤りの理論」に基づいて書かれたものであるし、「進歩とは知識の適用である」という理念こそが啓蒙主義の本質である、とも論じている*2。しかし、「争いの理論」においては、知識による進歩なんてエリートたちの特権をさらに強めるための言い訳に過ぎなくなる。進歩とは、権力争いによってしか生じないものとされているのだ。

「誤りの理論」で考える人と「争いの理論」で考える人が妥協するのは、ひどく難しい。誤りの理論では互いの目標が一致していると見なされて、「君の診断や処方箋にはこのような点で問題がある」と批判し合うことで、より正確な診断や適切な処方箋についての合意や妥協が目指される。しかし、何事もメタレベルな権力争いで考えようとする争いの理論においては、そもそも合意や妥協は必要とされない。自分とは異なる立場の人々の主張を理解しようとしたり、相手と文脈や用語を共有すること自体が、敗北を意味してしまうからだ。

 

 

*1:日本語では、ディベートを書籍化した本の内容をshorebirdさんが要約した記事が読める。

*2:余談だが、ジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』 では、「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という信念自体が自然科学を発展させて、ひいては近代経済を生み出すことになった、ということが論じられていた。

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ピンカーによるニーチェ批判、AIとかスマホとかは理性の敵なのか(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その3】)

 前々回前回の続き。

 

批判その7啓蒙主義(科学的な理性)は、その産物である人工知能ソーシャルメディアによって葬り去られてしまうだろう。

 

ピンカーの反論:メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書いた時代なら、そのような物語は魅力的なものだっただろう。しかし、電気によって復活する人間の死体と同じく、人間に取って代わる人工知能とはSF的なファンタジーに過ぎない。人工知能脅威論は誤りであり、メディアは過剰な不安を煽っているということは、私の他にも多くの論者が指摘している。ロドニー・ブルックス「AIの未来予測に関する7つの大罪」で論じているように、新しい技術があらわれた時には人々はその技術をまるで魔法のように何でもできるものだと考えてしまい、その技術の限界を正確に認識することができないのだ。

 ヘンリー・キッシンジャー2018年の記事で「インターネットを利用している人は情報を扱うことばかりに気を取られて、その情報の意味を文脈化したり概念化したりすることができなくなる」と書いた。インターネットを使わずに年鑑で物事を調べている人がそうでない人よりも情報の意味を文脈化したり概念化したりすることに長けているかどうかは怪しいものだ。どうすればインターネットが現代の世界を人々が王権神授説を信じていたり異教徒を焼いたりしていた啓蒙主義以前の時代へと逆戻りさせるのか、キッシンジャーは全く説明できていない。

 人工知能アルゴリズムは人間の言語では理解不能であり、時には根拠が全く理解できないような判断を示すため、意思決定をAIに任せることは合理的に正当化された説明や政策という考えを時代遅れのものにするだろう、とキッシンジャーは予測する。しかし、ディープラーニングとはインプットしたデータから効率よくアウトプットするメカニズムに過ぎない*1。実のところ、キッシンジャーのような人が恐怖を抱く「ディープラーニングがアウトプットをする判断根拠には、人間には理解できない部分がある」という点こそが、ディープラーニングの弱点なのだ。AIとは道具に過ぎないものであり、今後AIがより発達して「知能」に近いものとなるとしても、アウトプットの判断根拠を明らかにしてより人間の常識に沿った穏当な判断をする方向に進化することにだろう。

 ソーシャルメディアも、民主主義を破壊したり若い世代を蝕んでいるなどと非難される。しかし、メディアが根拠不明の情報や剽窃陰謀論を助長させて不毛な荒地を作り出すのは今に始まったことではなく、印刷メディアが登場した時代から起こっていたことだ。そして、メディアが撒き散らす嘘に対抗できるのはメディアによって真実を発信することである。嘘とはそれを信じる人がいなくなれば消滅するものであるが、真実とは誰かが信じなくても存在し続けるものであるため、結局は嘘ではなく真実の方が残ってきた。ソーシャル・メディアの時代はまだ始まったばかりなのであり、これからも嘘ばかりが流通し続けたり民主主義が毀損され続けると考える理由はない。フェイクニュースの影響力は過大評価されており、実際には2016年の大統領選にすら大した影響を与えなかったのである。

 スマートフォンへの非難についても、広い視野で捉えてみよう(↓本とか雑誌とかウォークマンとか、どの時代でも何らかのメディアが非難を受けていた、という漫画)。

 

https://i2.wp.com/d24fkeqntp1r7r.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/11064031/Screen-Shot-2019-01-10-at-10.40.03-PM.png?resize=704%2C254&ssl=1

 

 スマートフォンが最近の若者を不幸にしているという証拠はない。むしろ、使い過ぎない限りは若者の精神的健康にポジティブな影響を与えている可能性もあるのだ。

 

批判その8:なぜニーチェに対してそこまで厳しいのだ?

 

ピンカーの反論:私が『現代の啓蒙』のなかでニーチェのことを手ひどく扱ったことは、私の予想を遥かに上回る反響を呼んだ。

 ニーチェの著作は「人道主義の反対とは何か?」ということへの答えを示すものだ。ニーチェは、最大多数の人々の幸福を増加させて苦痛を減少させるべきだという考え方をユダヤ-キリスト教的な「奴隷道徳」であると見なし、偉大な業績によって人間という種を引き上げる英雄と天才たちによる究極善にとって邪魔にしかならない、と論じた。『現代の啓蒙』では、ニーチェの愛すべき名言をたっぷりと引用させてもらった。「高次の人間による、大衆に対する戦争の布告」とか「衰退しつつある人種の絶滅」とか「退化しており寄生的な存在を容赦なく駆除することを含む、人類のより高次な繁殖」などなどだ。古くはファシストナチスやボルジェビキから、現代のオルタナ右翼や白人至上主義者に至るまで、彼らがニーチェを好んできたことは偶然ではないのだ。そして、驚くほど多くの芸術家や知識人たちや、どんな世代にもいるニーチェのファンたちも、彼のことを先端的でクールだと見なしている。

『現代の啓蒙』のなかでニーチェをこき下ろしたのには理由がある。多くの著作家たちは、ニーチェの登場は啓蒙主義が神の存在を否定したことの必然的な結果であり、啓蒙主義的な人道主義者であるためにはニーチェ主義者にならなければならない、と主張してきた。しかし、人道主義ニーチェ主義との間には、神の存在を否定していること以外に共通点はない。ニーチェ人道主義者を一緒にしている人の一部は、単純に無知な人である。彼らは神の存在を前提とした道徳に頭を支配されてしまったので、神の存在を前提せずに道徳を築く方法について理解することができなくなっているのだ。より賢い人でも、ジョン・グレイのように科学や民主主義などの現代的な理念に我慢できなくなって、連想ゲーム的にニーチェと結びつけることで啓蒙主義を貶めようとする人がいる。

 だが、ニーチェは自分の文学的才能を駆使して「大半の人間の生命には価値がない」と主張し続けた。人道主義とは正反対の主張だ。人道主義とは、神の存在とニーチェ主義の両方を否定することなのである。

 複数の批評家たちが「ピンカーはニーチェのジョークを理解できいない」と憤慨した。人種を絶滅させることについての文章や女性嫌悪的な文章を書いていたとき、ニーチェは本気でそのようなことを主張していたのではなく、単に皮肉やフィクションを書いていたり他の時代や地域の人々の考え方を再現しようとしていただけなのだ、と批評家たちは主張する。批評家たちに言わせると、ニーチェの文章はそもそも論理的なものではなく個人的で箴言的で矛盾と謎だらけなものなのであり、ピンカーにはニーチェの文章を批判する権利はないそうだ。

 しかし、ナチスオルタナ右翼ニーチェのことを誤解していると言い張るニーチェの擁護者ですら、ニーチェレイシストファシストに好まれる一因がニーチェ自身にあることを認めている。ニーチェのようにファンの多い著作家が「劣った人種は絶滅させろ」と何度も何度も書き続けていたとしたら、深読みをしない読者たちが「劣った人種は絶滅させるべきだ」と考えるようになっても不思議はないだろう。ニーチェ反ユダヤ主義者に対して批判的であったという事実も、哲学者のケリー・ロスが示したようにニーチェが人種差別主義者でありユダヤ人も非難していたということをふまえれば、擁護にならない(ロスは『現代の啓蒙』におけるニーチェの扱いを批評家から擁護してくれて、むしろ私のニーチェの扱い方はあれでも甘過ぎる、と指摘した)。

 私はニーチェ研究者ではないが、反啓蒙主義的であり反人道主義的な思想家として私がニーチェを扱ったことは、バートランド・ラッセルを含む複数の哲学者たちや思想史学者たちの研究に基づいている。そして、『現代の啓蒙』の出版後に公開された、ニーチェ研究者である法哲学者のブライアン・ライトナーのエッセイも、私のニーチェの扱いが正しいことを裏付けるものであった。ニーチェが超人性を優先するがために道徳的平等を否定したことを、ライトナーは明言しているのだ。

 

*1:原文ではディープラーニングやAIの仕組みについてもっと長文で詳しく説明されているが、技術的な説明で要約するのが面倒なのでカットしてしまった

悲観主義はなぜ賢そうに聞こえるのか?

 

 経済コラムニストのモーガン・ハウゼル(Morgan Housel)が、英語版のモトリー・フール(投資に関するニュース・メディア)に2016年に投稿した記事を要約して簡単に紹介。

 

www.fool.com

 

 経済史学者のディアドラ・マクロスキーは「何故だかわからないが、人々は"世の中が悪くなっている"という主張を聞きたがる」と書いた。世の中がより良くなり続けることを示す数々の記録にも関わらず、悲観主義は楽観主義よりも普及しているし、悲観主義の方が賢く聞こえてしまう。悲観主義者は、楽観主義者たちよりも知的に高尚だと見なされ続けてきたのだ。J・S・ミルも「他の人が絶望している時に希望を感じている人よりも、他の人が希望を感じている時に絶望している人の方が尊敬される」と150年前に書いている。経済について楽観的な見通しを主張する人よりも経済破綻を主張する人の方がメディアでウケやすいし、同じ本の書評でもネガティブな書評を書いた人の方がポジティブな書評を書いた人よりも賢く思われる。

 なぜ悲観主義者の方が賢く見えるのか?ダニエル・カーネマンが論じたように、人々に損失回避バイアスが備わっていることも、理由の一つだ。しかし、著者(ハウゼル)が観察して発見した、他の理由も記してみよう。

 

1:楽観主義はリスクに対して脆弱であるように見えるので、相対的に悲観主義の方が賢く見える。…だが、実際には、楽観主義者は目先のネガティブな出来事に備えたうえで長期的な視野をふまえてポジティブに考えていることが多い。一方で、悲観主義者にとっては、ある一つの悪い出来事が起こればそれが世界の終わりに感じられる。楽観主義者と悲観主義者の違いは、時間の捉え方や忍耐力の違いであることが多いのだ。

 

2:悲観主義は「全ての物事がうまくいっているわけではない」ことを示すため、自分の個人的な問題に言い訳を与えてくれる。自分の問題は自分のコントロールできないところで起こるネガティブな物事のせいだ、と考えられると安心感を抱けるので、我々は悲観主義に惹かれるのだ。

 

3:悲観主義は行動を求めるが、楽観主義は「現状のままでよい」ということを示す。悲観主義的な記事は「現状は悪いから改善のために行動が必要だ」ということが書かれているため、内容に関わらず、楽観主義的な記事よりも注目を惹きやすいのだ。

 

4:楽観主義はセールスマンの売り文句のように聞こえるが、悲観主義は自分のことを助けてくれる人の言葉のように聞こえる。そして、多くの場面でこれは事実である。だが、特に金や政治など人々が感情的になる話題に関しては、しばしば悲観主義も売り文句となることが多い。

 

 

5:悲観主義は、市場がどれほど確実に適応しているかを考慮に入れず、現在の傾向からのみ推定する。分析が合理的であることは確かなので、人々を脅かすような悲観主義な警告も、合理的に聞こえるのだ。

 

 

 記事の最後の段落で「悲観主義者の悲観論は不安定でこれから変化が起こる物事を予測する指標になる、悲観論が唱えられているところにこそ楽観的に追求すべきチャンスが転がっている」ということを書いている。

 

 

 

 

精神病や自殺者の数は世界的に増えている?トランプやブレクジットは啓蒙主義が終わった証拠?(スティーブン・ピンカー「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その2】)

 前回の記事の続き。ほんとは前半と後半の2つに分けるつもりだったがしんどいので3つに分けることにした(4つになるかも)。

 

批判その5:トランプやブレクジット、権威主義ポピュリズムの隆興はどう説明する?それらは、啓蒙主義の時代が終わり進歩が逆行していることを意味しているのではないのか?

 

ピンカーの反論啓蒙主義の理念(理性の行使や科学的自然主義、世界的な人道主義や民主主義的制度など)は、人間が直感的に理解できるものでは全くない。人々は、動機付けられた認識や呪術的思考や部族主義や権威主義や過去へのノスタルジアへと、ついつい引き戻されてしまいがちである。啓蒙主義は常に勝利してきたわけではなく、ロマン主義ナショナリズムなどの反啓蒙主義的なイデオロギーからの反発にさらされてきた。2010年代の権威主義ポピュリズムも、反啓蒙主義的なイデオロギーの一派に連なるものである。トランプのイデオロギーは単に感情的なものではなく、自分たちの主張は反啓蒙主義的な思想家たちに連なるものである、とトランプのブレインたちは誇らしげにも認めているのだ。現代のように社会的な変動が多い時代では、特に「自分は尊敬されておらず世間から取り残されてしまっている」と感じる層の人々を、反啓蒙主義的な思想は惹きつけるのである。

 報道の自由や司法制度を貶めたり、外国人を悪魔化したり地球温暖化対策を交代させたり核軍拡競争を復活させようとしたりと、トランプ大統領の諸々の行いは進歩を信じる人々にショックを与えた。 しかし、広い視野で見てみると、ポピュリズムは決して多数派の賛成を得ている訳ではない。アメリカ人の半数以上は常にトランプを否定し続けてきたし、ヨーロッパでもナショナリスト的な政党は多数の投票を得られている訳ではない。ポピュリズムへの支持は日に日に減り続けている。トランプ就任やブレクジットの結果は、ポピュリズムの理論は実践してみると上手くいかない、という教訓を支持者たちに与えることになった。結局のところ、国内の民主主義的な手続きや国際協力が機能してない限りは現代の諸々の問題には対処できない、ということが改めて明らかになったのだ。

 トランプや他の反動的な指導者たちが深刻なダメージをもたらしたとしても、世界全体を見れば、2018年の間にも世の中は良くなっていった。グローバリズムや科学や人権の理念などが持つ力は既に世界全体に行き渡っており、一部の国々で反動が起きたからといって一朝一夕に覆るものではないのだ。2018年に起こった進歩の例を以下に示そう(温室効果ガスの排出量を削減する方法が新たに46個発見された、自然保護区域の拡大が19ヶ所で起こった、ジカウィルスをほぼ消滅に追い込んだなど健康に関する改善が24種類起こった、貧困の削減のマイルストーンとなる出来事が6つ、女性の権利の向上が11つ…などなど具体例が延々と続く)*1

 

批判その6:最も先進的でリベラルな社会では、絶望や憂鬱や孤独や精神病や自殺が流行している。このことについてはどう説明するつもりだ?

 

ピンカーの反論:そもそも、「人々はどんどん不幸になっている」いう発想が誤りだ。マックス・ローザーたちの記事が示すように、人々には「(自分は不幸ではないが、)最近の社会では、自分以外の人々は不幸になっている」と考えがちなバイアスが存在するのである。

 実のところ、先進的でリベラルな社会は世界の中でも最も幸福な場所である。世界幸福度ランキングによると、北欧諸国やスイスやオランダやカナダなど、とりわけリベラルで先進的な国ほど幸福度が高くなっている。世間的なイメージとは異なり、ブータンはさして幸福な国ではない。そして、調査に対して「自分は幸福である」と答える人々の数は、先進国でも後進国でも上昇している。

 保健指標評価研究所の調査によると、一般的なイメージとは裏腹に、各国における鬱病や依存症や精神病を患っている人々の割合は、どの国でも26年前からほとんど変わっていない。自殺率だって世界中のほとんどの国で下がっている。アメリカは例外であり、1999年以降は自殺率が上がり続けているのだが、それでも20世紀の前半に比べたら低い。「自殺率が高くなっている」という主張こそが、ごく近年のごく一部の国での現象にしか注目しないチェリーピッキングである。 そして、世界的な自殺率の減少の一因として、「女性の権利が向上し、女性が自由に行動できるようになったこと」が複数の論者から指摘されている。デュルケーム的な「伝統的な農村社会では自殺率が減り、現代的な都市社会では自殺率が増える」という発想には見直しが必要なのだ。現代の社会には自由ゆえに生じる諸々の問題があるとはいっても、自由がなかった過去の社会に起こっていたずっと大きな問題を見過ごすのは誤りなのである。

 

 

 

 

 

 

*1:手前味噌だが、以下の記事でも最近に起こった進歩が羅列されているのでよかったら参考にしてほしい。

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「啓蒙をめぐる戦争」(『Enlightment Now』への批判に対するスティーブン・ピンカーの応答)【その1】

 

 2018年の初頭に出版されたスティーブン・ピンカーの新著『Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (現代の啓蒙:理性、科学、人道主義、進歩を擁護する)』は、多くの批判にさらされてきた。タイトルの通り合理主義や科学を擁護して、非合理的な考え方や信仰を批判するこの著作は、特に文系のインテリの気に障ったようだ。ピンカーが「啓蒙」を人々の生命を助けたり社会を豊かにしたり個人を道徳的にさせたりするものとして称える一方で、批判者たちは啓蒙主義レイシズム帝国主義・人々の生存に対する脅威・孤独や自殺の原因として非難する、というのが主な構図である。また、批判者たちは「人類は進歩しており、世界の状態は良くなり続けている」というピンカーの主張を「データをチェリーピッキングして作り上げた幻想だ」とみなし、啓蒙主義トランプ大統領に代表されるような権威主義ポピュリズムソーシャルメディア人工知能に取って代わられる旧世代の遺物だ…と冷笑する。

 しかし、ピンカーの方も批判されっぱなしではいられない。『Enligtment Now』の出版から一年経った段階で、それまでに寄せられた数ある批判に対して再反論を行った…というのが今回紹介する記事。訳しての紹介ではなく、要約して紹介する*1

 

 なお、なにしろ長い記事なので、二分割して紹介することにした。今回は前半の四つの批判とそれに対するピンカーの応答を紹介しよう。

 

quillette.com

 

批判その1:ピンカーは18世紀の啓蒙主義をはき違えている。啓蒙主義には様々な種類があり、科学的な人道主義者もいたが、信仰に基づいて人道主義を実践していた人もいたし、啓蒙主義者の一部はレイシストだった。科学的人道主義だけを啓蒙主義者とみなして宗教的人道主義啓蒙主義者と見なさい、マルクス啓蒙主義者に含めないなど、ピンカーは自分の主張に都合よく「啓蒙」を定義している。

 

ピンカーの反論:「啓蒙主義とは"実際には"どのようなものであったか」、というタイプの批判は的外れだ。『Enlightment Now』の副題は「理性、科学、人道主義、進歩を擁護する」であって、「18世紀の思想家たちを擁護する」ではない。啓蒙主義者の中にレイシスト帝国主義者反ユダヤ主義者がいたことは『Enlightment Now』の中でも言及している。啓蒙主義というものは数え切れないほど多くの人々が的外れな主張も行いながらも徐々に作り上げられていってものであって、「誰が啓蒙主義者であり、誰が啓蒙主義者でなかったか」なんて答えようがないことだ。

 私が「Enlightment(啓蒙/啓蒙主義)」という言葉をタイトルに選んだのは、私が擁護しようとする理念(世俗的人道主義、リベラルなコスモポリタニズム、開かれた社会など)を包括する言葉であるからだ。つまり、「人類の福祉を向上させるために、理性と科学を用いる」という意味を持つ現代語として、「Enlightment」という単語を用いている。『Enlightment Now』は思想史の本ではないので、18世紀当時の人々が「Enlightment」という言葉をどういう意味で使っていたかは本のテーマとは関係ない。

 

批判その2啓蒙主義レイシズム奴隷制帝国主義、ジェノサイドを生み出したのであり、賛辞に値するものではない。

 

ピンカーの反論:私が『暴力の人類史』で示してきたように、レイシズムやジェノサイドなどは啓蒙主義が登場する前から存在してきたのであり、啓蒙主義がそれらを生み出したのではない。むしろ、啓蒙主義は「レイシズムやジェノサイドなどは道徳的に間違っている」という考えを生み出したのだ。

 レイシズム古代ギリシャの思想家の著作にも見受けられるし、帝国は紀元前2300年にも存在している*2。もちろん、奴隷制古代ローマの時代からあった。そして、キリストもブッダムハンマドソクラテスも、奴隷制が間違っているとは言わなかった。しかし、啓蒙主義によって初めて人々は「人類は平等であり、人々を不平等に扱う帝国主義奴隷制は間違っている」という考えを抱くようになり、帝国主義奴隷制に対する反対運動を行うようになったのだ。

 19世紀後半から科学的レイシズムや民族的ナショナリズムが登場したのは確かだが、「啓蒙主義は、その後に登場した物事全てに責任を負う」という主張は誤りだ。むしろ、科学的レイシズムや民族的ナショナリズムの原因は19世紀に登場した反・啓蒙主義ロマン主義、進化論の誤った解釈などにある。

 帝国主義などと同じように虐殺をもたらした全体主義共産主義に関しては、確かにルソーの思想は源流の一つにはなっているが、ルソーは科学や理性を否定した。共産主義は非科学的な思想であり、科学と理性を重視する啓蒙主義とは相容れないものである*3

 

批判その3:ピンカーは「世の中は何事につけて良くなっているから心配するのは止めよう」と言うが、なぜそんなことが言えるのだ?海洋プラスチック問題・オピオイド中毒・学校での銃乱射・アメリカで逮捕者が多すぎる問題・ソーシャルメディアトランプ大統領などの問題についてはどうするつもりだ?

 

ピンカーの反論:『暴力の人類史』でも論じたように、「進歩」とは直感に反する概念であり、人々は進歩について理解していない。「楽観主義者は進歩を肯定して、悲観主義者は進歩を否定する。進歩しているかしていないかという問題は、定義や答えがあるものではなく、物の見方次第だ」と考える人が多いが、それは違う。ハンス・ロスリングが『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』で論じているように、実際のデータを見れば世の中が進歩しているということは明確なのであり、進歩を否定する人は悲観主義者ではなく単に無知なだけである。

 とはいえ、進歩とは「全ての物事が良くなっている」と言うことではない。進歩とは「完璧な状態」ではなく「より良い状態」のことだ」。進歩とは奇跡ではなく、問題をひとつひとつ解決することでもたらされるものである。ある問題を解決することが、別の問題を生み出すこともある。しかし、過去に比べて現在の方が人類の状態が改善されているのであれば、やはり進歩は現実に存在していると言える。

 世界はより良くなっているからといって、現に今の世界で苦しんでいる人のことを無視してはいけない、という主張はもっともだ。だが現在の問題に対する解決策には、「進歩」に対する考え方が関わってくる。もし「いま問題が残っているのだから、これまでに人類が行ってきた努力なんて無駄だったんだ」と考えてしまったら、現在の問題に向き合う気も無くなってしまうだろう。進歩をきちんと認められる人なら、現在の問題に対しても建設的な向き合い方ができる。

 

批判その4:「世の中は良くなっている」と主張しているために用いられているデータは、どれもチェリーピッキングしたものだろう。

 

ピンカーの反論:チェリーピッキングではなく、あらゆるチェリーを集めた結果が、人類の進歩を示しているのだ。進歩の指標として、暴力や戦争や犯罪の減少・各種の差別の減少・経済・健康・教育など、思いつく限りのありとあらゆる項目のデータを収集したが、どの項目でも「世の中は良くなっている」ということが示されている。データの元も、研究者の論文や、国や国連などの機関が発表している統計など、様々だ。収集可能なデータの都合上、アメリカやイギリスに関する統計が多くなっていることは確かだが、この二カ国は先進国のなかでは進歩が遅れている方の国だから、私の主張にとって都合が良いデータの集め方とはいえない。

 単語の定義を変えることで進歩を否定することはできるかもしれない…例えば、「貧困」の閾値を下げることで「貧困が減った」という主張を否定することはできるかもしれないが、その手段でも「世の中が悪くなっている」と主張することはできない。

 そして、私だけでなく、ハンス・ロスリングをはじめとした数多くの人々が、「世の中は良くなっている」ことを示す本を『Enlightment Now』の後に出版している。 

 チェリーピッキングとして非難されるべきなのは、むしろ、読者の悲観的バイアスを増長させるためのセンショーナルな記事ばかりを発表するジャーナリストたちの方だ。戦争や飢餓や暴政の歴史にばかり注目して平和や飽食や調和の歴史に注目しない、歴史学者たちにも責任がある。

 環境問題に関しては、確かに、この250年間では地球環境は悪くなった。しかし、最近の10年間では世界各国で自然環境がみるみるうちに改善している。地球環境に対する最大の脅威である地球人口地球人口の増加率も、1962年をピークにして減少し続けている。

 二酸化炭素の問題については『Enlightment Now』の中で論じているが、生物多様性や水資源の問題など、他にも心配な環境問題が残っていることは確かだ。しかし、私の狙いはすべての環境問題の状態を要約することではなく、主流派の環境運動家や環境ジャーナリズムによる運命論的な主張に対して反論することにあったのだ*4

 

 

*1:あらかじめ断っておくと、私自身はまだ『Enlightment Now』を読んでいない。仕事の都合で500ページ以上もある洋書を読む時間が取れないし、ピンカーの著作ならそのうち翻訳されるだろう、というのが主な理由。また、紹介文や書評を見ていると内容やテーマが同じピンカーの『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』、日本でも話題になっているハンス・ロズリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』などと同工異曲で大同小異な代物に思えてきてわざわざ原著で読む気が起きない、というのもある。なお、『暴力人類史』や『道徳の孤』に関しては以下の記事などで紹介している。

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:アッカド帝国のこと。

*3:ナチスなどの全体主義啓蒙主義を結びつけるタイプの批判に関しては、手前味噌だが、私の記事も参照してほしい。

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*4:環境問題に対するピンカーのスタンスはこちらを参照。

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家父長制・弱者男性・フェミニズム

 

 以前に訳して紹介したポーラ・ライト(Paula Wright)のブログの記事を読みながら、だらだらと考えたこと*1

 

porlawright.com

 

「改良された"家父長制"を擁護する」というこの記事では、家父長制とは単一の種類しかないものではなく、悪性の家父長制もあれば良性の家父長制もある、とされている。そして、悪性の家父長制は大半の男性と女性にとって害をもたらすが、現代の欧米社会に存在する家父長制は改良されたものであり悪性の家父長制から人々を守る役割を果たしている良性の制度だ、ということが論じられている。

 

 具体例として挙げられるのが、結婚制度の違いだ。悪性の家父長制では一夫多妻制が採用される。争いに勝利した強者は多数の妻を手に入れられる一方、敗北した弱者は妻を手に入れられなくなるので、男性間の争いが激しくなる(イスラム教のような神権政治の社会が、その実例である)。他方で、良性の家父長制のもとでは一夫一妻制が採用されるため、男性間の争いはぐっと少なくなる。一夫一妻制のもとでも姦通などが起こる場合があるとはいえ、一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない、ということが原理的にはなくなるわけだから、男性たちはもはや互いを敵同士と見なす必要がなくなる。男性たち同士が協力できるようになることで社会が平和になって生産制も上がって豊かになるし、一夫多妻制の時に比べて女性も自由に活動できるようになる…という訳だ。

 ポーラ・ライトの主張のポイントは、家父長制を「男性という性別が女性という性別を支配・抑圧するために作り上げた制度」や「強者男性が他の男性と女性を支配・抑圧するために作り上げた制度」とは見なさないことである。彼女は、家父長制を「進化のメカニズムにおける適応度(自分の子孫を残すこと)を巡る争いが産む、自然発生的なシステム」という風に捉えている。適応度争いの環境が変わることで家父長制が悪性のものから良性のものに転じることもあるだろうが、何れにせよ家父長制は環境が生み出すものであり、特定の性別なり階層なりが自分の利益のために生み出すものではない。男性間の適応度争いと同じく、女性間の適応度争いも家父長制を生み出す原因となっている。そして、通常の考え方では家父長制は男性に利益を与えて女性を抑圧するものと見なされるが、たとえば悪性の家父長制は女性以上に男性にとって危険なものである、とライトは論じる*2

 

 …ライトの議論には賛否あるだろうが、彼女はかなり重要なことを言っている、と私は思う。「フェミニズムは生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視している」ということは散々言われているし、フェミニストの側としては「聞き飽きた」という感じだろうが、特にネット上でのフェミニズム関係の文章とかミームとかを目にするとやっぱり生物学的な側面は無視されていることが多いし、「総体としての男性という性別が、総体としての女性という性別を抑圧している」という発想に固執している感が強い。

 また、近年のネット界隈で盛んな「弱者男性論」も、フェミニズムが生物学的性差や適応度争いなどの進化的な要素を無視していることに対する反動として生じたことは否めないだろう。格差社会の現在では「一人の男性が多数の女性を独占して数人の男性が女性を手に入れられない」という悪性の方の家父長制の状態が復活してきており、弱者男性は家父長制の被害者となっていると言えるが、「家父長制は男性が女性を抑圧するために作り上げる制度だ」という風に言われて批判されると、自分が損を被っている制度の責任を自分が負わされることになるのでたまったものじゃない、という感じになる訳だ。

 私としては、特に以下のことがポイントとなると思う。

 

・「ある状態の社会制度なり社会環境のもとでは、女性だけでなく男性もなんらかの被害や苦しみを負う場合がある」

 

 上記のことはごく当たり前の主張であるが、一部のフェミニズムの間には上記の主張すらを否定しようとする雰囲気がある。

 たとえば、フェミニズムと対になる主義主張として「男性学」というものがある。フェミニズムが女性の被る辛さや苦しみに寄り添い、女性であるために生じる被害を訴えるのと同じように、男性学も男性の被る辛さや苦しみに寄り添い男性あるために生じる被害を訴える…という風になってもいいようなものだが、実際には「男性としてのつらさ」を主張すること自体が非難されるような風潮がある。たとえば、以前にもこのブログで取り上げた社会学者の平山亮はまさに「男性としてのつらさ」を強調する男性学を批判しており、そのために(通常の「男性学者」よりも)フェミニストからのウケがよく好意的に取り上げられている感がある*3

 

・「女性の行動や傾向には社会的要因だけでなく生物学的要因も関わっている」

 

 弱者男性論者の間では「女性の上方婚志向」を強く非難するのが定番であり、「女性は収入が増えても自分より収入が上の男性としか結婚しようとしないから、女性の収入は低く抑えた方が丸く収まる」というような極論が飛び出したりする。ここまでくると言い過ぎだが、しかし、適応度の観点から考えても女性は収入・立場が安定した男性を選びたがる傾向が存在することは否めないし、そのような女性の傾向や行動が社会制度なり社会状態なりの成立に関わっていることは確かだろう。フェミニストの側は弱者男性に対して「女性が安定した結婚を求めるのは、女性一人で生きるのは収入などの面から不安定過ぎるからだ」という風に反論するし、それはそれでもっともな意見だが、しかし弱者男性論者が言うように「収入や立場が安定している女性であっても、より収入が高い男性と結婚したがる傾向がある」ということもまた事実だ。そして女性の上方婚志向に生物学的要因がある程度以上は関わっていることも事実だろう。事実からどのような解決策なり規範的主張を導くかは別として、まずは事実を事実として認めないことには議論にならないし、だから極端な反論が飛び出してくるんじゃないかという気がする。

 

 ・「ある社会の制度なり文化なりは、男性の傾向や行動だけでなく、女性の傾向や行動も関わって成り立つ」

 

 就職や収入や昇進などのキャリア的な事柄に関しても、デートや家庭生活や育児などのプライベートな事柄に関しても、性差別的と指摘される制度や文化は数多く存在している。しかし、そのような性差別的な制度なり文化なりも、大多数の男性や女性における一般的な傾向や一般的な選択が積み重なった結果として成立した、ということが多いだろう。通常の社会状態における一般的な男女にとっては合理的な制度や文化が、通常とは異なる行動や選択をしたがる男女にとっては差別的なものとなったり、社会状態の方が変化したおかげで大多数にとって非合理なものとなったりする。…抽象的な書き方になってしまったが、ともかくこうやって自然発生的な制度や文化を捉える発想は必要であるだろうし、ある性差別的な制度なり文化なりの責任をいつもいつも男性という性別に帰そうとするのはやっぱり的外れだろう。

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*1:以前の記事はこちら。

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*2:関係ある話題として、以前の記事で訳した、適応度に関するライトの文章を引用しておこう。

そして、ここに今日のフェミニズムにとっての困難が存在する。ヘテロセクシャルの男性と女性がお互いに惹かれ合う理由は、お互いのステレオタイプ的(stereotypical)な性的特徴に他ならない。実際には、それらの性的特徴はステレオタイプ的なのではなく、原型的(archetypal)なのだ。人間は有性生殖生物である。数百万年かけた性淘汰の過程によって、男性と女性はお互いの身体と心理を形作ってきた。そして、私たちは適応度地形として文化を創造した。ここで動いている力学は単純だ。権力と資源を持った男性を女性が求めるために、男性は権力と資源を求める。

女性が我が儘な金目当ての誘惑者であるとか、男性の審美眼が浅はかであるという理由ではない。また、性的二形性や労働の性別分業は、家父長制によって押し付けられる暴政ではない。他の動物と比べて際立って無力な乳幼児や先例が無いほど長い幼年期を持つ生物種である人間にとっての、エレガントで実際的な解決策なのだ。性別・チームワーク・強固な一雌一雄関係の間で働く力学は、生物種としての成功をもたらす基盤の一つである。その中核は、子孫の生存だ(私たちが子供を持つことを選択するかしないかは関係ない)。片方の性だけについて考えていたり、私たちが協力して子孫を残すように進化してきたことを踏まえずに考えていても、性別を理解することはできない。そして、私たちが人類であり続ける限り、このメカニズムは存在し続けるのだ。

*3:以前に書いた記事。

 

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平山に対するフェミニストの反応