道徳的動物日記

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学問的営みを蝕む批判理論

 

 

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

 

 

 

 イギリスの教育学者のジョアンナ・ウィリアムズ(Joanna Williams)という人による本『Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge(同調圧力の時代における学問の自由:知識への恐怖に対抗する)』を軽く読んだので、この本の内容についての短めの著者インタビューを訳して紹介しよう。

 この本は、英語圏の大学において、不愉快であったり暴力的なイメージを排除しようとする「トリガー警告」や些細な言動をも暴力と見なして排除しようとする「マイクロ・アグレッション」、またイスラエルの学者などを学会などに呼ぶことはパレスチナの弾圧につながるという理由でイスラエルの学者を排除するBDS運動など、諸々のポリティカル・コレクトネス的な概念に基づいた運動が蔓延して学問の自由が軽視されている現状について分析している本なのだが、その一因として著者のウィリアムズが指摘しているのが人文系や社会科学系の学部における批判理論(クリティカル・セオリー)の浸透である。

 マルクス主義ポストモダン思想などとも関連している批判理論は「どのような学問的議論にも背景には様々なイデオロギーや権力関係などが潜んでいるのであり、客観的で普遍的な学問的議論など存在しない」という考えを大学にもたらし、競合する学問的議論を付き合わせて真実を探求するという学問的営みの価値を人々に疑問視させるようになった。結果として、「どんな学問的議論も所詮はイデオロギーなんだったら、学問の自由なんて大して重要ではない。それよりも人権とか人々が傷付かないようにすることのほうが重要だ」という発想や「学問的議論も権力関係の反映なんだとすれば、主流派の議論はマジョリティの権力が反映されてマジョリティにとって都合の良いものになっている筈であり、自分たちマイノリティは自分たちにとって都合の良い議論をでっちあげてそれに対抗しよう」という発想がもたらされたのであって、事実に基づいた正確な議論であってもそれが暴力や差別につながると見なされたら禁止される一方で、ジェンダー学などマイノリティの側に立った議論であると称すればどんなにデタラメな議論であっても容認される、という風潮ができあがった…みたいなことが論じられている本である。

 

quillette.com

 

 (前略。著者や本の内容について軽く紹介している部分。)

 

 インタビューにて、ウィリアムスは彼女が学問の自由のモデルとして提唱する「アイデアの自由市場(marketplace of ideas)」について論じた。つまり、最も議論の余地があり、論争を呼ぶような、そして非難されるような意見であっても、その意見が人々に公開される場所だということだ。

 

「ある特定の問題は大学において議論の対象とするべきでない、という考えは私には実に奇妙に思えます。大学こそが、自由でしっかりした議論を行うのに最もふさわしい場所であるべきなのですから。だからと言って、全てのアイデアは等しく正当であるとか、全てのアイデアは大学のカリキュラムで等しく扱われるべきであるなどと考えている訳ではありません。しかし、学生たちが挑戦的だと見なすであろう知識や考え方、あるいは学生たちを不快にさえしてしまうかもしれない知識や考え方を学生たちに提起することは、大学に属する者の義務であると私は考えます。そのような知識や考え方に接触することこそが、学問を学ぶということなのですから!」

 

 アイデアの自由市場モデルは、学者たちが「既存の権威に挑戦し、どちらの主張が真実であるかを競わせる」ことを行うためには学問の自由は必要不可欠である、という考え方に基づいている。しかし、大学の目的とされるものは変わってしまったように思われる。大学は、全てのアイデアが自由市場における競争に参加することが認められた場所から、社会的・経済的・政治的な目標を達成するための道具へと変わってしまったのだ。大学の目的が変化したことの結果について、ウィリアムズは以下のように論じる。

 

「政府の大臣たちにとっては、学問の自由を守る理由はあまりありません。学問の自由を守る責任は大学の教員たちに課せられていますが、学問の自由を[訳注:差別につながるからとかマイノリティにとって不利な制度であるからという理由で]問題視することが主流になり、学問の自由はエリートたちが自分たちの利益を追求するための手段に過ぎないとする見方のために、大学の教員たちは学問の自由を守ることができなくなっているのです。」

 

 また、(学問の自由を守る責任を課せられている筈である)大学の教授たちの多くが、学生たちによる検閲(censorship)運動が活発化することを助長している、とウィリアムズは示唆している。その理由は、そのような大学教授の多くが社会的現実の主観的な性質を強調しており社会的現実は主に言語の使用によって構築されるのだと論じていることにある、とウィリアムズは指摘する。

 

 「多くの場合、言語は現実を構築する力の全てを担っているのだと学生は教えられます。言葉は人を傷付けることができる、と学ぶのです。言語は私たちを狼狽させたり心を動かしたり感情を刺激したりするレトリックであるのを超えて身体的な危害や本当の暴力を実際に引き起こすこともできるのだ、と教えられるのです。」

 

  実際、そのような見方や考え方は多くの大学に存在しており、イギリスの学生たちによる検閲文化を活性化させて、学問の自由を侵食している。ウィリアムズは、批判理論(クリティカル・セオリー)がいかに学生たちの偏狭さと検閲文化を助長しているかということについて特に懸念を抱いているようだ。

 

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」

 

 インタビューの結論として、大学における知的な多様性を増させてアイデアの自由市場へと復帰することをウィリアムズは呼びかけた。アイデアの自由市場は、きっと、自分たちが支持しない考え方に対峙することへと学者たちとその学生たちに挑ませるだろう。このことは、自分たちが支持しない考え方や非難すべきであるように思える考え方をも守るという意志を学者たちに求める。非難されるような考え方を検閲したとしても、その考え方を立ち去らせたり、打ち負かしたりすることはできない。開かれた議論と討論こそが、それを可能にするのだ。

 

 

 

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IQ・経済・民主主義

 

Hive Mind: How Your Nation's IQ Matters So Much More Than Your Own

Hive Mind: How Your Nation's IQ Matters So Much More Than Your Own

 

 

 以前に読んだ、経済学者ギャレット・ジョーンズの著書『Hive Mind: How Your Nation’s IQ Matters So Much More Than Your Own(蜂の巣マインド:なぜあなたの国全体のIQはあなた自身のIQよりもずっと重要なのか)』の中でも、特に面白かった第7章「知識のある有権者と、選良政治の問題(Informed Voter and the Questions of Epistocracy)」について軽く紹介しよう。尚、『蜂の巣マインド』の内容全般については経済学者タイラー・コーエンの書評記事を別のところで訳して紹介している。

 

『蜂の巣マインド』は「個人間のIQの差は個人間の収入の差とは関連していないが、国家間における国民全体の平均IQの差は国家間の豊かさの差と関連している」という現象の存在を明らかにして、それが何故かを解き明かそうとする本である。IQが高い人は忍耐強く計画的なので財産の貯蓄率が高くなること、賢こさは協力を容易にするので生産性を高くすること、人々の平均IQが高い国では有権者も政治家も忍耐強く計画的になるので短期的な利益に惑わされない長期的な政治経済計画を実行しやすく政治腐敗も起こりにくいこと、などなどが指摘されている。また、「国民の平均IQが高い国と低い国との違いは何か」「どうすれば平均IQが上げられるか」ということについても論じられており、IQの遺伝差という問題にも触れられながらも、人々の健康状態や環境を改善する様々な政策を実施したり教育制度を拡充したりすれば国民の平均IQを上げることは可能である(そして、IQと経済成長が関連しているとすれば貧しい発展途上国では国民の平均IQを上げることは必須の課題となる)、と論じられている。

 

 7章で指摘されているのは、民主主義国家では教育を受けた賢い有権者が多ければ多いほど経済学の知見に基づいた市場志向的な政策が実施されやすくなる(そのために経済が発展しやすくなる)、ということだ。…経済学に限らず、一般的に、ある学問分野における専門的な考え方は素人の直感的な考え方とは相反することが多い。ジョーンズが例に挙げているのは、毒物学における「危険は投与量にあり(the danger is in the dosage)」という知見だ。放射能にせよ鉛にせよダイオキシンにせよ、ある物質が危険であるかどうかはその摂取量に関わってくるのであって、それに触れ過ぎたなら危険である一方でごく僅かな量であれば無害である。だが、専門家でない一般人には危険度は量や程度によって変わってくるという考え方は直感的に理解しがたく、危険とされた物質には一切近づきたくなくその物質を排除したいと思いがちである。その結果、過剰で非合理的な規制が実施されてしまい様々な活動が非効率的で非生産的なものとなる…というのはよくあることだ。しかし、専門家ではない一般人の間にも、より多くの教育を受けた一般人にはより専門家的な思考に近づく、という傾向が存在する。より多くの教育を受けた一般人は科学的な研究結果にも同意するようになるし、ある物質の危険さは1か0かの問題ではなく程度問題であるということを理解するようになるのだ。

 同じことは経済や政治に関する知識についても当てはまる。人々はより多く教育を受ければ受けるほど「大半の国民は所得税と給与税のうちどちらを多く払っているか」「昨年度の国庫の赤字は幾らか」という問題や経済政策に関する基本的な事実の問題について正解しやすくなるし、各政党や政治家に関する事実も把握するようになる。それぞれの政治家や政党がどんな公約を主張していて実際には何をしたか、ということも賢い人ほど記憶するようになるので、賢い国民が増えれば増えるほど政治家は説明責任を重視せざるを得なくなって政治腐敗を防ぎやすくなる。また、需要と供給の原則や比較優位の原則など、直感的な思考とは反する経済学の原則についても、より多くの教育を受けた人/よりIQが高い人ほどそれらの原則を理解しやすくなって経済学者のように考えることが可能となるのだ。ジョーンズが引用しているのは『選挙の経済学』を著したブライアン・カプランの研究であるが、カプランの研究によると、年収や社会階層や政治イデオロギーといった因子をふまえたうえでデータを調整しても、「より教育を受けた人は、より経済学者のように思考するようになる」という傾向が存在するそうだ。カプランは有権者たちに存在する合理的無知様々なバイアスのために民主主義には誤った経済政策を選びやすくなるという問題点が含まれていることを指摘しているのだが、同時に、教育によって無知やバイアスを修正することが可能であるとも指摘しているのである。

 専門家たちの抽象的な原則を理解できるようになること以外にも、教育やIQは様々な美徳を人々にもたらす。人には自分の立場や意見やイデオロギーにとって都合の良いデータを重視して都合の悪いデータを無視したり曲解したりする傾向はあるが、よりIQの高い人ほど、自分にとって都合の悪いデータであっても無視せずに正確に理解できるようになる。また、より多くの教育を受けた人ほど投票に行きやすい。そして、よりIQが高い人ほど、よりリベラルになり、よりジェンダーの平等を支持するようになり、そして人種差別にはより反対するようになる。ジョーンズは様々な国での研究をまとめたうえで、IQの高さは社会における寛容と市場における自由を志向するタイプのリベラリズムの傾向と関連している、と結論付けている。…そして、民主主義国家であれば、国民がより教育を受けてIQがより高くなるほど寛容で反差別的な社会政策が採用されやすくなり、経済学の抽象的な原則をふまえた合理的な経済政策が採用されやすくなる、ということになるのだ。

 

  …このような議論をしていると必然的に浮かんでくるのが、選良政治の可能性だ。つまり、ある国の国民の平均IQがいくら高くなったり教育制度がいくら拡充したとしても、その国の中には相対的により賢く知識のある人とそうでない人がいるのであり、そして賢く知識のある人はより合理的で倫理的な政策を選ぶ傾向があるとすれば、賢く知識のある人だけに選挙権を与えた方がいいのではないか、という発想だ。ジョーンズは『蜂の巣マインド』の中では選良政治に関しては是とも否とも書いておらず、選良政治を擁護する倫理学者のジェイソン・ブレナンの議論を紹介したうえで「道徳に関する議論は倫理学者たちに任せよう」と中立的に締めている。

 人々には政治に参加する権利が本来的に備わっているのであり参政権は普遍的に保証されるべきである、という一般的な考え方からすると、選良政治という発想はおかしなものに聞こえるかもしれない。しかし、政府というものは人々の人生に重大な影響をもたらすものであることをふまえると、自分が暮らす国の政府がある程度以上に合理的で知識のある人々によって選ばれることが保証されるという権利(つまり、非合理的で知識のない人によって選ばれた政府の下で暮らさずに済む、という権利)もたしかに存在するのかもしれない。その場合、「普遍的な参政権」と「知識のある人々によって選ばれた政府の下で暮らす権利」の間にはトレードオフがはたらく、ということになる。

 ブレナンは『Libertarianism: What Everyone Needs to Know』という本のなかでも民主主義や参政権の問題について軽く触れているのだが、カプランが指摘したような「合理的無知」の問題などを指摘したうえで、民主主義は他の政治体制よりかはマシな結果をもたらしてきたとはいえ愚かな有権者によって愚かな選択が成される可能性は依然として存在していることをふまえれば、民主主義であっても政府の規模や政府が口を出す範囲は小さくあるべきだ、と論じている。リバタリアニズムを主張するブレナンは人々の経済的自由や市民的自由は保障されるべきであると強調するが、参政権のような政治的自由に関しては話が違う、とも指摘している。なぜなら、政治参加して政府を選ぶことは自分にとってだけの問題でなく、その選ばれた政府の下には他の人々も暮らすことをふまえると、政治的自由や参政権というものは必然的に他人に対して力を発揮するものであるからだ。愚行権はそれによって傷付いたり損をするのが当の本人だけであるなら認められるかもしれないが、愚かな投票をするということは自分だけでなく他人に対して迷惑をかけたり傷を付けたりすることに繋がるかもしれないという可能性を考えると、たしかに参政権というものは自明で普遍的な権利では無いという主張にも一理はあるかもしれない。

 

 

Libertarianism: What Everyone Needs to Know (What Everyone Needs to Know (Paperback))

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普通選挙権は倫理的に認められるか?

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の4月に倫理学者のジョセフ・ボーウェン(Joseph Bowen)が公開した記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

「選挙権を認められるべき人々とは誰だろうか?」 by ジョセフ・ボーウェン

 

 あなたが思い付けるなんらかの事件(どれだけ些細な事件であってもよい)について、陪審員たちが判決に達したと仮定してみよう。そして、その陪審員たちに関する以下の事実が明らかになったとも仮定しよう。

 

1:無知な陪審員。その陪審員は裁判に対して全く注意を払わず、被告についてどう考えるかと聞かれた時には、有罪であると恣意的に決め付けた。

2:非合理的な陪審員。その陪審員は裁判に対して多少は注意を払ったが、裁判とは関係のない理由…希望的観測や奇妙な陰謀論など…に基づいて結論を下した。

3:道徳的に不当な陪審員。その陪審員は、偏見に基づいて被告は有罪であると決め付けた(被告はルーマニア人だから有罪だ、など)。

 

 上記のいずれのケースでも、陪審員たちは権限と正当性を欠くはずだ(裁判は、おそらく再審となるだろう)。ある陪審員の決定は、財産や自由、そして生命を剥奪することによって、人々の人生に対して重大な影響を与える可能性がある(その影響の範囲は、被告本人だけとは限らない)。上記の三人の陪審員が違反したと見なすことができる原則は、以下のようなものだ。

 

適正原則(Competence Principle):不適正または道徳的に不当な審議機関の決定の結果、もしくは不適正または道徳的に不当な方法で下された決定の結果に基づいた強制力と脅迫力によって、市民たちの生命・自由・財産を奪うこと、または市民たちの人生の展望を変えることは、不当である。(Brennan, 2011,704)

 

 適正原則に違反している以上、上記の三人の陪審員が下したような決定を政府が故意に被告に強制することは不当である。それぞれのケースについて裁判官が「しかし、陪審員たちの大半は適正な仕方で結論を下した」と言ったとしても、それでは充分ではない。「陪審員全体のうちの99%は適正な方法で結論を下した」としても一緒だ。どちらにしても、被告は「この特定の陪審員は適正な方法で結論を下さなかった。だから、彼の決断が審議の結果に影響を与えるべきではない」と主張することができる。適正原則に対する違反がどこかで生じていたとすれば、下された結論もその結論を下した人も、正当性や資格が取り上げられるべきだ。その際、適正原則は誰が権限を持つべきかということについては一切言及していない。むしろ、適正原則は、誰が権限を持つべきでないかということを示す原則なのだ(このことを、反-権限条項と呼ぼう)。

 私がここで拝借している素晴らしい研究を行ったジェイソン・ブレナン(Jason Brennan)は、適正原則は陪審員たちだけに適用されるのではなく、選挙権にも適用されるべきだと論じている。政府は、陪審員と同じように、人々の人生に重大な影響を与える。ブレナンが例に挙げているのは、悪質な金融政策を実行して景気後退を恐慌にまで悪化させる政府、または費用のかかる破壊的で非人道的な戦争をもたらすような決定をする政府である。

 選挙権を持つということは、ある程度の政治的権力(どんなに小さなものであったとしても)がそれぞれに市民に与えられるということだ。そして、その政治的権力は当人自身に対してだけ発揮されるのではなく、他の人に対しても発揮される。先に挙げた陪審員の例と同様に、有権者たちも、間違った理由に基づいて間違った結論を下す可能性がある。以下の三人の有権者について考えてみよう。

 

1:無知な有権者。その有権者は選挙に対して全く注意を払わず、投票を求められた時には、特定の立候補者や政党を恣意的に選んだ。

2:非合理的な有権者。その有権者は選挙に対して多少は注意を払ったが、選挙とは関係のない理由…希望的観測や、真偽が定かでない社会科学の様々な仮説など…に基づいて投票する候補者を決めた。

3:道徳的に不当な有権者。その有権者は、偏見に基づいて投票する候補者を決めた(その候補者が白人だから支持する、など)。

 

 私はブレナンに同意する。 彼らがこのように適正でない仕方で投票を行う限り、上記の三人の有権者たちは、私の人生に重大な影響を与える政府を選択することが認められるべきでない。ブレナンは以下のように書いている。「他の有権者たちを含めて、私に対して権力を発揮する人々は、それを適正で道徳的に正当な仕方で行うべきだ。そうでなければ、正義の問題として、彼らは政治的権力を持つことから除外されるべきであるし、投票する権利も持つべきではないのだ」(Brennan 2011, 704)。ブレナンは、選挙権を制限することによる選良政治(epistocracy)を擁護している。つまり、知識と適正がある人々による政治だ。事実、適正がないという理由で子どもたちは投票から除外されているという事実をふまえれば、現代の民主政治はある程度までは選良政治であるの(非常に弱い程度の選良政治ではあるが)。

 ここまでの議論では、普遍的選挙権は適正原則に違反するために不当である、ということが主張されてきた。しかし、選挙権の制限そのものは不当ではないのか?ある部分では、より選良政治的な投票システムが妥当であるかどうかは、どのような人物が適正に欠けるかということついて私たちがいかに判断するかということにかかってくる。これは、議論の出発点としても良さそうだ(ただし、その前に、可能な限り多くの人々が投票できる方が良いと私は考えている、とは言わせてもらおう…不適正さの問題は残るとはいえ)。

 適正原則を満たすための最も妥当な方法…すなわち、実際問題としてコストがかかり過ぎたり非現実的であったりしない方法…とは、運転免許試験に類似した、有権者試験である。ブレナンが提案する暫定案によると、一般的な社会科学に関する問題と選挙の立候補者に関する基礎的な知識が有権者試験で問われることになる。私自身が最も妥当だと考えているバージョンの有権者試験について、かなり大雑把にではあるが示してみよう。有権者になりたいと望む人々は、その選挙において行われている議論を自分が理解できていることや、どの立候補者がどの公約を主張しているかを答えることが可能である、ということを示さなければならない(試験の問題用紙には、各政党の公約の最低1バージョンが、適度な文字数の範囲内で書かれている。また、各選挙区それぞれの問題用紙には、選挙区ごとの立候補者たちの主張内容も含まれている)。本質的には、それは理解度確認テストとなるだろう。立候補に関する知識よりも社会科学的な知識を問うことの方が難しい問題となるだろう、と私は考えている。たとえば、立候補者たちの主張の妥当性を正確に判断することが有権者に可能であるかどうかを測定する方法を発案するのは、非常に難しいであろう(特に、社会科学や経済に関連した問題である場合には)。とはいえ、線引きをすること自体は可能であるように思われる…たとえば、移民はイギリスに経済的な利益をもたらすということは何度も何度も証明されてきた(参考文献欄にてリンクしている記事を参照せよ)。だが、多くの有権者たちは逆に考えている。このような場合には、ファクト・チェックを行う用紙が役に立つことだろう。この事例はメディアや表現に関する問題にも関わってくるが、そもそもそれらの問題自体が複雑なものだ。  

 では、このような試験に対する反論にはどのようなものがあるだろうか?ここが議論の出発点だ!適正原則の他にも、権力を分配するうえで要求されるかもしれない別の原則がある(この原則は、デビッド・エストランド(David Estlund)の著書『民主政治の権限(Democratic Authority)』にて示されている)。    

 

適切な受容可能性の原則(Qualified Acceptability Requirement):権力の分配を正当化する根拠は、いかなるものであっても、全ての適切な視点から受容できるものでなければならない。

 

 有権者試験のなかで、適切な受容可能性の原則を満たすことができるバージョンは存在するだろうか?まず、特定の人々が適正原則を満たせられないのは背景に存在する社会-経済的な不正義の結果である可能性がある、というもっともな理由で有権者試験に反論することはできるだろう。たとえば、貧しくて教育をあまり受けられなかったことや、選挙で問題となっていることを学習するには余暇が足りないために適正原則を満たせられない、などの可能性が考えられるということだ。この反論は、選挙権を持つ人は自分が属する社会グループの利益になるように投票するはずだ、という前提を必ずしも含んでいない。単に、社会-経済的不正義が理由となって特定のグループの市民が投票をできないことは不当であるかもしれない、ということだ。この反論に対しては、各総選挙の前には公休日を設けることで有権者が教育を受けるための時間を確保する、という提案を行うことができるだろう。また、選挙や政治について知識を得たいと望む人のために、夜間や週末に講義を開講することもできるかもしれない。別の反論は(先の反論と全く関連がないわけでもないのだが)、エストランドが人口統計的反論と呼ぶものだ。有権者試験によって選挙権を得られた人々の集団には、彼らの認識に問題を及ばせる性質…たとえば、特定のバイアスなど…が不均衡に存在しているかもしれないために、選挙権を制限することでもたらされる選良政治的な利益が相殺されてしまうかもしれない。第三の懸念は、有権者試験そのものが既存の政府が権力を維持するための道具として使われてしまう可能性だ。たとえそのリスクが僅かであるとしても、この懸念に基づいた反論は妥当であると認めることができるかもしれない。

 この記事の制限のために、上記の反論やそれらに対する再反論について、私の意見を詳しく述べることはできない。むしろ、私の目的は、議論の余地はないと多くの人が考えているであろう信念に対して異議を申し立てることにある(ジェイソン・ブレナンの驚くべき論文に感謝する)。結びとして、適正原則を満たすために…あるいは、少なくともブレナンが論じている不正義を相殺するために…選挙権を制限するよりも先に実行することのできる処置が存在するかもしれない、と示唆しておこう。たとえば、報道機関に対して疑問を呈することはできるだろうし、政治に関する我々の不適正さと無関心に対する報道機関の責任を問うこともできるだろう。

 

参考文献・リンク:

Jason Brennan (2011). ‘The Rights to a Competent Electorate’, The Philosophical Quarterly, 61/25, pp. 700-24.

David Estlund (2009). Democratic Authority (Princeton University Press).

British public wrong about nearly everything, survey shows | The Independent

UK gains £20bn from European migrants, UCL economists reveal | UK news | The Guardian

Too few voters understand immigrants’ role in UK recovery | UK news | The Guardian

Shouting about the economic benefits of migration isn't the way to persuade people - Telegraph

 

 

Against Democracy

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カント的な動物倫理の議論:クリスティン・コースガードのインタビュー記事

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 オックスフォードのPractical Ethicsブログから、2015年の4月に公開された、カント的な立場の倫理学を主張する倫理学クリスティン・コースガード(Christine Korsgaard)にEmilian Mihailovというルーマニア(?)の倫理学者が動物倫理についてインタビューした記事を訳して紹介。

 何度か書いているが倫理学において動物倫理の議論を切り開いたのはベンサムを代表とする功利主義者であるし、現在でも動物倫理といえば『動物の解放』を著したピーター・シンガーが代表的であるために「動物の道徳的地位を主張する議論は功利主義だ」→「功利主義を否定すれば動物の道徳的地位も否定できる」とか「日本人には功利主義は受け入れられないので動物の道徳的地位を主張する議論も受け入れられない」などと主張されるのが散見されるのだが、功利主義とはライバル関係にあるカント主義や権利論などの倫理学理論においても、動物の道徳的地位を主張する議論は盛んに提唱されているのである。なので現代でカント的な倫理学を主張する倫理学者としてもかなり有名で代表的であろう論者のコースガードの主張を紹介することにした。ただし、このインタビューだとどこがどうカント的なのか分かりづらいのかもしれないので、詳細が気になった人は以下の記事なども参考にしてほしい。

 

thepointmag.com

 

 

 

Q:なぜ動物には人間と同様の道徳的地位が認められるべきなのですか?

 

A:人間が自分たちの道徳的地位を主張する根拠は何なのか、自分自身に問うて考えてみてください。道徳的地位の問題について理解するためには、ある物事が誰かにとって善い(good-for-someone)それだけで善い(just plain good)かということと関連させて考えるのが最良の方法であると私は思います。ある物事はそれだけで善いと私たちが言う時(良い教師・良いナイフ・良い人のように"良いxx"という評価的な意味合いではなく、ある人生の終わり方が善いとかある事態の状況は善い、などと言う意味合いでの"善い"という言葉を使うとき)、その物事には追求したり実現したりする価値がある、と私たちは言っているのです。つまり、その物事をもたらす理由が存在している、ということです。さて、私たちの多くは、様々な物事が自分たち自身や自分の愛する人々にとって善いとも考えており、(その物事が他人にとっては悪いものだという場合を除けば)その物事をもたらして実現させる理由は存在する、と考えます。つまり、自分たち(や自分が気にかける人々)にとって善い物事は、それが他人(や自分が気にかける人々)にとって善い物事と衝突をしない限りは、ただそれだけで善い、と私たちは主張するということを意味しています。しかし、なぜでしょう?なぜ、ある物事は自分(や誰か)にとって善いという事実はその物事をもたらす理由になる、と私は考えなければいけないのでしょうか?このことについて、それを裏付ける更なる理由はないと私は考えます。ある物事が私にとって善いということだけを理由にして、私はその物事をそれだけで善いことだと見なすのです。私にとって善い物事について私がこのように主張するとき、私は自分はカントが「目的(end-in-itself)」と呼んだ存在であると主張しているのです…あるいは、少なくとも私の主張の一側面にはこのような主張が含まれています。しかし、もちろん、自分が自分であるからという理由で自分は「目的」なのだ、と主張する訳ではありません。ただ単に、物事が自分にとって善くもなり得れば悪くもなり得る存在に自分が属しているということが、自分は「目的」であると主張する理由になるのです。つまり、私が自分にとっての目的を追求するとき、実質的には、以下のように表すことができる原則に私はコミットしているのです。「物事が自分にとって善くもなり得れば悪くもなり得る存在である誰かにとって善い物事は、それが他人にとって悪い物事でない限りは、善い物事である」。動物はこの原則の対象に該当します。ある物事が私たちにとって善くもなり得れば悪くもなり得るのと同様に、物事は動物にとっても善くもなり得れば悪くもなり得るのです。彼らにとっての善は、私たちにとっての善と同様に問題となるのです。

 

Q:どのような考え方や偏見が、動物への公正な扱いを実現することから私たちを遠ざけるのでしょうか?

 

A:正確にはそれは哲学的な質問とは言えないので、私の答えはやや推測的なものとなります。自分たち自身が動物であるということを認めることと動物を正しく扱うこととの間には関連がある、と私は考えます。あるレベルでは全ての人が人間は動物の一種であるということを認めているとはいえ、人間は動物であるという考えには人々が直視するのが難しい側面がまだ存在していると思います。他の場面では私にとって最も偉大な哲学のヒーローであるイマヌエル・カントも、もし人間が宗教を持っていなかったら、人間は「世界における他の全ての動物たち」と同じ運命を辿る…自分たちが受けてきた苦痛への救済が何もない死を迎えるということを認めなければならなくなる、と書いています。そのような運命を恐れるために、人々は自分たちの動物的な側面から目を背けようとします。宗教を信じない人々すらも、ある意味では人間は宇宙に愛された存在であるという考え方に固執するのです。

 とはいえ、考え方や偏見だけが私たちを進歩から遠ざけているのではないと思います。人々にとって実践するのが最も難しい変革とは、毎日の生活において不快感や損失を引き起こすような種類の変革です。多くの人々にとっては、一生に渡って好きな食べ物や快感を諦めることを決断するよりも、いまから革命に参加して戦うことを決断する方がまだ簡単でしょう。それに類似した問題が社会レベルでも存在します。動物を使用すること(そして虐待すること)は私たちの生活や組織を支えるインフラに根深く組み込まれているので、それを変えることは困難なのです。

 

Q:自分が広場(アゴラ)で一般人たちに話しかけているソクラテスであると仮定してみてください。一般人たちを困惑させるために、一人の人間の生命は一匹の犬の生命よりも価値があるという主張に対してどのような疑問を投げかけますか?

 

A:まず、物事はそれが誰かにとって善い(または、善くなり得る)場合にしか価値を持たない、ということを彼らに理解させようとするでしょう。次に、一人の人間の生命は一匹の動物の生命よりも価値があるとして、その価値は誰にとっての価値なのか、ということを彼らにたずねます。私たちは自分たちに対して他の動物に対してよりも高い価値を見出すかもしれませんが、それは依怙贔屓でありここで問題となっていることとは関係がないでしょう。結局のところ、私は自分の友達や家族(そして、おそらく自分自身)に対して知らない他人に対してよりも高い価値を見出していますが、だからと言って自分の友達や家族は実際に他の人々よりも重要な存在であると結論することはないですし、たとえば自分の家族を助けるために侵襲的な生体実験を他人に対して行うということもしません。彼や彼女が持つ自身の生命とその生命の質は全ての動物たちにとって重要なのであり、異なる種類の動物たちの間に重要さや価値のランキングがあるということはないのです。

 一人の人間の生命か一匹の犬の生命かを選択しなければならない状況にいるとすれば…一般的な例だと、火事で燃えている家からどちらか片方しか救えないという場合であり、他に関連してくる要素は存在しないという状況ですが…人間は犬に比べて死んだ時により多くのものを失うからという考えに基づいて、人間を救うことを選択するかもしれません(それが唯一の理由であると主張しているわけではありません)。人間には、実行中の計画や、満たすことができなかったら後悔するような責任や、それを経験することをいつも心待ちにしており経験できなかった場合には残念に思うような喜びなどが存在するかもしれないからです。しかし、このことは、人間の生命は犬の生命よりも重要であると判断している訳ではないことに注意していください。人生において計画したり楽しみにしていたことを完了する機会は、犬にとっては不可能な仕方で人間にとって重要になる、という判断なのです。私たちがこのように考える時、私たちは人間にとって重要なことと犬にとって重要なこととの両方を考慮の対象に入れているのです。

 

Q:動物には尊厳があるため、動物が人間にとっての目的のための手段としてのみに扱われることはあってはならない、という主張に含まれる最も実践的な結論とはなんでしょうか?

 

A:この主張に含まれている最も実践的な結論は明白です。工場畜産では、人間が肉をもっと安く食べられるようにするためだけに、莫大な量の苦痛と拘束が動物たちに強制されています。この慣習は終わらせるべきです。工場畜産を正当化する理由は存在しません。同様に、たとえ私たちは動物実験から有益なことを学べるとしても、侵襲的で苦痛に満ちておりまた死をもたらすような動物実験は終わらせるべきです。工場畜産や動物実験などは、動物を人間の目的のための手段としてのみ扱っている事例としてもかなり明白なものですが、「目的」である存在を手段としてのみ扱うことは決して行ってはならないとカントは主張しました。このような行為は私たちが人間のことを動物よりも重要な存在であるかのように扱うから行えることなのですが、先に述べたように、人間は動物よりも重要な存在であるという主張は全く通用しないと私は考えています

 

Q:どの慣習を変革するべきかということを判断するうえで、貧困や発展途上国の問題はどの程度まで重視するべきでしょうか?

 

A:その質問について私が適切に答えられるかどうか、あまり自信がありません。私は先進国出身の哲学者であり、かなり保護された生活を過ごしていることは自覚しております。おそらく、動物に関する慣習を変革させようとする際に貧しい人々や発展途上国の人々に対して正確にはどのような影響が生じるのかを知るのに充分なほど、私は彼らの生活の状況を知っていないでしょう。肉食に基づいた食習慣よりもベジタリアンの食習慣の方がより多くの人々により安く食糧を行き渡らせられることは多くの研究で示されていますので、人々が食習慣をベジタリアンやビーガンに切り替えることは、大規模に生じている動物の苦痛を終わらせる方法であるだけでなく、最終的には発展途上国の人々にとっても利益になるだろうと考えます。しかし、もちろん、ビーガンになろうと全世界の人々が同時に決断したとしても、現在の食習慣からビーガンへと移行する際のコストというものは発生するでしょうし、そのコストは一部の人々に対して他の人々よりも重く生じることにもなるでしょう。重要なのは、動物を虐待することによって得られるものの代替品を見つけることは、貧しい人々にとってはより緊急の問題であるということです。動物を虐待することによって得られるものはもう使用するな、とただ彼らに命じるだけでは済まないのです。

 

Q:あなたの考える、動物の扱いに関する現在の慣習を変革するための現実的なアプローチとは何でしょうか?

 

A:何が現実的かということについて自分がそこまで知っているかどうか、あまり自信がありません。多くの人々が動物を食べることをすぐに止めるとは思っておりませんが、少なくとも先進国においては、多くの人々は工場畜産で育てられた動物よりも"人道的に"飼育された動物を食べることを望んでいるだろうとは思います。それを実行するのが非常に不便でない限り、食べる肉の量を減らすためにより多くのお金を払うことについても人々はやぶさかでないかもしれない、とも考えます。ですので、そこを出発点とすることができるでしょう。

 上述した意見は特に高潔な意見という訳でもありませんが、先にも言ったように、代替品を見つけることが鍵となります。動物を虐待することで私たちが行っている様々な物事を行うための別の方法が見つけられない限り、人々は動物を虐待することを止めないでしょう。たとえば、動物に対して科学実験を行っている人や軍事計画や軍事訓練の一環として動物を用いている人々の間で、自分たちが実験や軍事などに動物を使用することは代替案を探し求めるべきことであってやがては廃止されるべきことなのだと考える文化が成立してほしいと思います。これらの慣習に対する実行可能な代替案を発見することについて、何らかの形でインセンティブが付けることができれば特に良いと思います。実際、動物の権利や動物の福祉を守ろうとする団体の一部は、先述したようなことを実行することができる筈です。もちろん、私たちの動物の扱い方は深刻な不正であるということを人々が理解することは不可欠であると私は考えていますが、一方で、人々罪悪感や非難されているという気持ちを抱かせるよりも、代替案を発展させることの方が動物の扱いに関する進歩を達成するのに有効な方法であると思います。

 

 

 

義務とアイデンティティの倫理学―規範性の源泉

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「あなたが平等主義者なら、どうしてあなたは種差別主義者なのか?」 by カティア・ファリア

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の2月に倫理学者のカティア・ファリア(Catia Faria)が公開した記事を訳して紹介。

 

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「あなたが平等主義者なら、どうしてあなたは種差別主義者なのか?」 by カティア・ファリア

 

 慈善団体オックスファムの最近の報告によると、2016年には世界の中でも1%の最富裕層が残りの99%の人々よりも多くの財産を所有することになる見込みだ。多くの人にとって、個人間の不平等がいま存在していることやその不平等が悪化し続けることは深刻な懸念を抱かさせられる事態である。その理由は、平等は重要な問題であると私たちの多くが信じているからだ。つまり、ある物事の状態がどれだけ望ましいかということは価値がどれほど最大化するかということだけに依るのではなく、その価値がどれだけ平等に分配されるかということにもかかっている、と私たちの多くは考えているのだ。平等という概念の基本にあるのは、価値の受益者になり得る個々人に価値が平等に受益されないことを正当化する理由なんて存在しない、という考えだ。その「個々人」は、分配に用いられる単位…つまり、平等に享受されるべき特定の価値…として何を認めるかによって変わってくる。福利(well-being)についての平等主義を私たちが認めたとすれば、平等は自分自身の福利を持つことのできる全ての存在に適用されることになる。福利を得るためのリソースや機会こそが平等化されるべきだと私たちが考える場合には、平等はそれらのリソースや機会から利益を得ることができる全ての存在に適用されることになる。もちろん、平等主義という言葉の意味にも関わらず、対象となる存在に限定を設けて一部の存在だけを平等の対象にすることはできる。だが、その場合にはもはやそれは平等主義の主張ではなくなる。合計された福利は水曜日だけ最大化されるべきである、と主張する意見はもはや功利主義の一種とすら言えないのと同じことだ。

 上で述べた平等主義のいかなるバージョンであっても、価値が平等に分配されるべき個々人には、その本人の生が良くなったり悪くなったりする全ての存在が含まれている。そこには、全ての感覚ある存在が含まれている。そして人間以外の動物の多くには感覚があるため、個々人の間の不平等に関して私たちが抱く懸念は動物に対してまで拡大されるべきである。その存在が属する生物種を理由にして(つまり、単に人間でないからという理由で)、感覚ある動物の個体を平等の対象から除外することは不正である…それは、生物種主義に基づいた差別の一例なのだ。そのため、どんなバージョンであっても、正しい平等主義は生物種主義を拒否しなければならない。

 人間以外の動物たちの生は、(大多数の動物たちの福利はネガティブな状態にあるので)絶対的な尺度においても大半の人間と比較した場合においても悪い状況にあることをふまえると、平等主義が生物種主義を拒否することは非常に重要な結果をもたらす。まず、人間による搾取の犠牲となっている動物たちについて考えてみよう。これらの個体は、一生において感じられる可能性がある幸福のソースをほとんど全て剥奪されており、非常に苦痛な仕方で殺される運命にある。このような慣習に左右される動物たちの数は驚くべきものだ。食料業界だけを見てみても600億頭以上の陸上動物が犠牲になっているし、その数字には数兆の水棲動物の犠牲は含まれていない。さらに、自然界に暮らす動物に関しても、その数字を把握することは難しいとはいえ、大多数の野生動物が生きる状況は人間に搾取されている動物と少なくとも同じくらい(そして、おそらくそれ以上に)悪いのである。

 さて、大半の動物は大半の人間よりも悪い状況にあることをふまえれば、人間と動物たちとの間の不平等を減少させるために、現在人間に割かれているリソースの内のかなりの量が動物たちに移されるべきである、という主張が平等主義には含まれることになる。左派リバタリアニストのピーター・ヴァレンタインは平等主義に含まれるこの主張を「問題含みの結論」と認識しており、人間と動物の福利を同等に扱うことには直感に反するという性質があることを指摘している。その代わりに彼が提案するのは、平等な分配において用いる単位を、認識能力によって相対化された福利(ヴァレンタインはそれをfortune[幸福、繁栄、富などの意味]と名付けている)にするべきである、ということだ。つまり、高い認識能力を持った個体の福利が少し改善されることは低い認識能力を持った個体の福利が大幅に上昇することよりも望ましいことである、という主張だ。大半の人間は高い認識能力を授かっているので、人間がfortuneを得るためには動物が同程度のfortuneを得るために必要とするよりも多くのリソースが要求される、ということである。したがって、相対化されていない福利が平等に分配されるべきであるという主張に比べて、大半の人間から大半の動物へとリソースを移すことの理由はヴァレンタインの主張においては弱くなる。ヴァレンタインの主張は、要求過多による反論[demandingness objection]の明白な一例だ。この反論の根本にあるのは、動物たちの利益のためにかなりの犠牲を払うことを人間に要求することは道徳にはできない、という考えだ。

 しかし、このような主張は、それが解決しようと目論んでいる問題よりもさらに大きな問題を引き起こすことになってしまうかもしれない。この主張が含んでいる結論は、動物と同程度の認識能力しか持たない人間に対しても当てはまってしまう。しかし、重度の認知障害を持った人にとっての利益が最良の認識能力を授かった人にとっての同様の利益よりも軽視される、ということは到底受け入れられないように思える。この点がなぜ受け入れられないかということは、ネガティブな福利について考慮してみると特に明白になる。福利がネガティブな状態にあることを私たちの計算の対象から外す理由は存在しない。実際には、認知障害を持った人の福利の状態は通常の人よりも低くなりがちであるのだから、彼らの利益を満たすことの必要性はより切迫していると考えられるべきであるのだ。

 さらに、ヴァレンタインの主張は、理性的な存在たちが持つ同様の利益は彼らが異なる程度の認識能力を持っていたとしても同等に数えられるべきである、ということを説明できない。もちろん、合理的な存在の福利のための閾値を設けて、その閾値を超えている場合には認識能力の程度が異なっているとしても全ての合理的な存在の福利が同等の重みを持つと見なされる、とすることは可能であるだろう。しかしながら、私が知る限り、そのような閾値を定めるための恣意的でない方法は未だ提示されたことがない。それに、そのような方法が本当に存在するかどうかも怪しいものだ。たとえば、道徳的な主体であるために必要とされる能力こそが閾値を設定する、と主張する人がいるかもしれない。そこには、道徳的主体である存在たちが持つ同様の利益は同等に数えられるべきであり、そして道徳的主体でない存在たちが持つ同様の利益よりも重視して数えられるべきである、という主張が含まれている。だが、閾値を設定した場合にはその主張を実行することはできない。結局のところ、道徳的主体であるために必要な能力というのもまた認識能力なのであり、それには程度差が存在するからだ。 閾値の座標として道徳的主体を指摘しても問題は解決されず、ただ問題が先延ばしにされるに過ぎない。したがって、ヴァレンタインの反論は強固な足場に基づいたものではないのだ。

 さらに付け加えると、要求過多による反論は、どんな道徳理論であっても私たちに対してかなりの要求を行う理論はその要求を行わない理論に比べて妥当性が低いことは当然である、という前提に依っていることが多い。しかし、倫理学においてある理論の要求の程度が低いことはその理論の美徳になる、となぜ見なさなければならないかは明らかではない。実際には、世界の状態はこれ程までに悲惨であるのだから、私たちに対して大きな犠牲を要求することはいかなる妥当な道徳理論にも含まれているべきなのだ。

 このことは、特に動物に関する問題においては真実だ。動物たちの福利の状態が非常に低いことをふまえると、(たとえば、ビーガンになることによって)動物たちに対して危害を加えることを防ぐだけでなく、彼らの福利の状態を私たちのそれと平等にするために積極的に動物たちに利益を与えることを、平等主義は要求するのだ。その対象は、生きる価値も無いような生を過ごしている、人間の支配下に置かれている動物たちと自然界たちに生きる動物たちとの両方である。結局、私たちに対して多大な要求を生じさせているのは平等主義そのものではない。可能なうちの最善のシナリオから現実の世界の状況があまりにもかけ離れているがために、平等主義は私たちに対してこのような要求をしなければならないのだ。

 

 

 

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「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

 本日はオックスフォードのPractical Ethicsブログから哲学者のジョシュア・シェパード(Joshua Shepherd)の記事を訳して紹介。注釈と参考文献は省いている(後日に付け足すかも)。記事内で取り上げられているジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)の『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』を一通り読んだのでついでにこの記事を訳してみることにしたのだが、特に後半は難しくて上手くいかなかったかもしれない。

 

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「意識と、死の悪さ」 by ジョシュア・シェパード

 

1:多くの人は、殺害が不正であることの少なくとも一部は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さに関係している、と考えている。その考えは正しい、と私も考えている。

 

2:多くの人は、死がもたらす危害 and / or 死に含まれる悪さは、主に将来の剥奪に関わっていると考えている。特に、将来には価値のある経験や価値のある状態が含まれているのであり、死は、これらの価値ある物事を経験するか他の方法で獲得することができる存在(entity)を奪うことになる。将来にはなぜ価値があるかということを説明する方法は様々であるとはいえ、この考えの基本は正しいと私も見なしている。

 

3:中絶は認められると考えている人にとって、将来の価値は一見すると厄介な問題であるように思える。胎児は価値のある将来を持っているように考えられるからだ。だとすれば、少なくとも、胎児を殺すことに反対する道徳的理由が存在することになる(ただし、その道徳的理由には反論できる可能性もある)*1

 

4:このような種類の推論に対する反論は、死の悪さに関する理論として大いに論じられてきた理論である、時間-利益相対説(time-relative interests account)に見出すことができる。時間利益相対説は、ある存在の将来の価値を割引するメカニズムを構築する。何らかの将来に価値があるという訳ではなく、その存在が心理的に繋がっているその存在の将来の一部に価値があるのだ。ある存在が自分の将来に対する心理的繋がり…記憶、進行中の行動や計画、価値の持続、性格特徴、などなどによってもたらされる心理的繋がり…を欠くにつれて、その存在の将来の価値が割り引かれるのである。

 胎児を殺すことの不正さについて時間利益相対説を適用してみると、以下のような論じられることになる。胎児は自分の将来に対する強い心理的繋がりを欠いている、と私たちは主張するかもしれない。その結果、胎児の死の悪さは急落して割り引かれるのであり、胎児を殺すことの不正さも同様に割り引かれるのである。

 

5:このような推論には、悲惨な結果をもたらす可能性が含まれている。多くの人々が指摘してきたように、胎児を殺すことの不正さの急落的な割引きは、乳幼児を殺すことの不正さに対しても同様に当てはまるように思える。胎児と乳幼児のどちらも、将来に対する心理的な繋がりを形成して維持するための多くの能力を欠いているからだ。実際、胎児も乳幼児もその将来が道徳的な問題となる存在である、という考えを考慮に入れることについて、時間利益相対説は問題を抱えているように見える。胎児と乳幼児は、将来を認識するために必要となる、洗練された心理能力を欠いているからだ。そうだとすれば、時間利益相対説は、道徳的な考慮における胎児の道徳的地位を全く貶めることで中絶を道徳的に認められることとするのであり、そのような方法で中絶を認めることは、乳幼児の道徳的地位をも全く貶めてしまうことになるのである。

 

6:[将来に対する心理的繋がりの]他にも道徳的重要さの源泉となる物事の存在を認めることによって、時間利益相対説を補完しようと試みることはできるかもしれない。その源泉として私が念頭に置いているのは、将来に関わる必要はないものであるが、その存在の現在の心理的生活の性質と構造である。ある存在が意識のある存在であると認められるのに充分に洗練された心理能力を持っているとすれば、その存在は道徳的重要さを追加して得られる、と主張することができるかもしれない。そして、この追加された道徳的重要さは、(少なくとも大半の状況において)その存在を殺害することを許可不可能とするのに充分であるかもしれない。

 この提案を認める必要はあるだろうか?この提案は、死の悪さに関する多くの議論における基本的な論点に対してある一つの重要な側面において反している、ということは注記しておく必要があるだろう。多くの議論では、死の悪さは、その存在に対してなされた危害を通じて発生するものであるとして扱われている。これは危害について考える方法として自然であるし、特に、多くの場合に行われるように議論が将来の価値という枠組みで考えられる場合にはそうだ。しかし、死の悪さについて他の方法で考えることも可能である。先述の提案によれば、死の悪さについて、偉大な芸術作品が破壊されることの悪さと類推して考えることができる。芸術作品の価値は時間を経ることで増すかもしれないし、その場合には、芸術作品を破壊することの危害は時間を経の経過と共に発生するかもしれない。しかし、偉大な芸術作品を破壊することが悪いことの理由の一つは、単に偉大な芸術作品が存在するということ自体に価値があるということであり、その芸術を存在しなくさせることは価値の含まれている器(locus)を存在しなくさせるということなのだ。意識のある心理生活(conscious mental life)を所持していることにも、芸術作品と同じような価値が存在しているかもしれない。意識のある心理生活を所持することは、価値の含まれている器であるということなのだ。

 ひとまず、ある存在が意識のある心理生活を持っていることは、その存在を殺害することを一応は(prima facie)許可不可能にすることに充分であると仮定してみよう。そうだとすれば、私たちは乳幼児の殺害に対して反対する強力な理由を維持することができるし、その理由は幅広い段階の胎児…意識を持つことができない胎児(たとえば、26週間よりも若い胎児など)…には当てはまらないということも維持することができる。そして、このような補完は、時間利益相対説の中心となる洞察…つまり、なぜ死が悪いこととなり得るのかということについての重要な仕方を時間利益相対説は捉えている…を維持しながら行うことができるのだ。

 

7:上述した提案は時間利益相対説の補完にはならず、むしろ時間利益相対説を拒否する理由になるのではないか、と懸念する人もいるかもしれない。そのような懸念は以下のように表すことができるだろう。意識のある心理生活を持っていることにどれほど価値があるかは不明瞭である。さて、意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを(少なくとも一応にも)許可不可能とするのに充分な資格ではないということなれば、乳幼児の殺害が(時間利益相対説に基づけば)許可される可能性に私たちは直面することになる。そして、もし意識を持つ存在であるということはその存在を殺すことを許可不可能とするのに充分な資格であるとすれば、その場合にはなぜ私たちは時間利益相対説を必要とするのだろうか?時間利益相対説は、死の危害の性質について説明できる唯一の理論であるようにはもはや思えないのだ。

 時間利益相対説の主張者たちは懸念を抱くべきだろうか?死の危害と殺害の不正さについて論じる人の一部には、まるで真実を明らかにするということはどの理論が正しいかということを発見することであるかのように、時間利益相対説を他の競合する理論と突き合わせる人がいる。弁証法によれば、ある問題に関して起こっている論争を調べるうえで、これは確かに有効な方法である。しかし、弁証法的な有効さにはそれ自体に限界があることは認識されるべきだ。死の危害と殺害の不正さに関連する、考慮されるべき全ての事項を発見して解明することが私たちの目標であるとすれば、死は幅広い様々な仕方で悪いこととなり得るという考えから議論を始める方が良いかもしれないし、その様々な仕方を明らかにして、殺害の不正さに関する考慮においてそれらの死の悪さの仕方がいかに関わってくるかということを明らかにすることを目指すべきかもしれない。

 

8:さて、先述の提案を受け入れられるのに充分なほど明白なものにするという課題は、まだ残っている。再びその提案を記しておこう:ある存在が意識を持っているということはその存在を殺すことを一応は許可不可能とするのに充分であり、意識のある心理生活を持っていることの価値は、その意識的な存在が持っているかもしれない価値のある将来とは無関係に理解することが可能である。

 この提案には直観的な妥当性がある、と私は思う。しかし、この提案を私たちが受け入れるべきであるかどうかについては私は確信がない。なぜなら、この提案を明確にして詳細に検討することには、かなりの議論が必要となるからだ。

 多くの場合、中絶に反対する人々は、少なくとも妊娠後期の胎児の中絶は不正であると論じる。そのような胎児には意識があるからだ。(このような議論は多くの場合には胎児が苦痛を感じる能力を持っているということに結びつけられているが、しかしながら、私がここで起こっている提案はそのような主張とは異なっている)。実際、このような種類の主張は、時間利益相対説の最も代表的な論者であるジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)が行っている主張とほんの僅かにしか異ならない、と主張することはできるかもしれない。マクマーンの『Ethics of Killing(殺すことの倫理学)』における殺害の不正さについての二段階説(two-tiered account)によると、人格(person)である存在を殺すことの不正さは人格ではない存在を殺すことの不正さとは根本的に異なっている。人格ではない存在を殺すことの不正さは価値のある将来を剥奪するということにしか関わっていない一方で、人格である存在を殺すことの不正さには人格である存在に対して尊敬を払うことへの要求が関わってくるのだ*2。マクマーンによると、この要求の根拠にあるのは、特定の種類の心理学的能力である。「具体的には…人格を動物から区別する、特定の高度な心理的能力の所持である」(p.243)。すると、私がここで記している提案とマクマーンの主張との違いの一つは、提案の方では"存在が意識のある心理生活を持っていること"を尊敬を要求する程の道徳的重要性を持つ要素であると強調する一方で、マクマーンの主張ではそれよりももっと高度な心理的能力を求めていることにある。

 なぜ、より高度な心理能力ではなく、意識のある心理生活を持っていることを優先して強調するのか?この疑問に対して答えることに含まれる問題はかなり複雑である。多くの論点を整理することが必要とされる。

 ある部分では、ここで言及されている意識というものが何であるのかが不明瞭であることが、問題の原因となっている。自己意識について言及しているのか、アクセス意識について言及しているのか、あるいは現象的意識について言及しているのか、少なくともこれら三つの可能性が存在しているのだ。これらのいずれもが意識の形として道徳的な重要性があるものとして提案されてきたのであり、それぞれの意識が持っている道徳的重要性はどのように違うかということは現在でも不明瞭だ。さらに、少なくとも自己意識とアクセス意識に関しては、その意識自体に程度差があると一般的に考えられている。より多くのアクセス意識を持ったり、より高度な形の自己意識を持つことが可能であるのだ。では、なぜある段階の意識を他の段階よりも優先しなければならないのだろうか?

 ひとたび区別を付けたとしても、同様の問題が現象的意識に関しても発生することになる。現象的意識は、意識の状態を決定可能なものと、それら決定可能なものの決定要因となる様々な仕方とに分けることができる。現象的な意識状態は、様々な方法で、関連している決定可能なものの決定要因となる可能性を持っている。現象的意識は、複雑な現象なのだ。様々な様相の知覚状態や認識状態、エージェント的な状態が現象的意識には含まれているのであり、それらは、おそらく、それらの状態を持つ存在の心理生活の豊かさと複雑さを増すであろう。現象的意識には道徳的重要性があると私たちが主張するとき、実際には私たちは何を主張しているのだろうか?いかなる現象的意識の所持にも重要性があると主張しているのかもしれないし、それとも、一部の種類の現象的意識を所持していることに重要性があると主張しているのかもしれない。それに、意識それだけではある存在に道徳的重要性を与えることはできないのであり、その意識は一定程度以上に複雑でなければならないという可能性もある。意識のある心理生活のなかでもどのような形のものが道徳的に重要なものであって、そしてそれが重要である理由は何であるのか?

 さらなる難点は、意識を持つことに道徳的地位を帰属させることの理論的な結果に関わっている。先述した提案がもたらす可能性のある結論のなかでも最も明白なものとして、意識のある心理生活…または、少なくとも乳幼児の持つ心理生活に含まれている程度の豊かさと複雑さを含んでいるような心理生活…にこれほどまでに多くの道徳的重要性を認めてしまうと、あまりにも多くの動物たちにも道徳的重要性を認めざるをえないことになる、ということについて懸念する人がいるかもしれない。その懸念は筋の通ったものだ。意識の道徳的重要性について十分に論じるためには、人間以外の動物たちについても検討に入れなければならないからだ。しかし、ここで私が主張しているのは、ある存在が意識のある心理生活を持っていることはその存在を殺すことを一応は許可不可能にする、ということだけであるということは記しておく価値があるだろう。もしかしたら、一部の状況あるいは多くの状況においては、人間以外の動物を殺すことを支持する正当な理由が存在しているかもしれない。つまり、私たちが人間の乳幼児(や、場合によっては妊娠後期の胎児)に対して敬意を払う必要がある理由と同様の理由が一部の動物に対しても存在しているとしても、そのことは、乳幼児や動物たち対して行う行為に関する他の理由が持っている影響を排除することはできないということだ。あるいは、多くの動物を殺害することに対して反対する理由は、多くの人々が考えているよりも強く存在しているかもしれない。あるいは、動物を殺害することを正当化するためには、多くの人々が考えているよりも強い理由が必要とされるかもしれない。そして、このことは私が行っている提案にとって弱点になるのではなく、むしろ私の提案の強みとなるものであるかもしれない。もちろん、そのような理由が本当に存在しているかどうかは未解決の問題であるのだが。

 

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*1:訳注:「中絶は胎児の将来を剥奪するから不正である」という趣旨の主張の代表として、ドン・マーキス, 1989, 「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」が挙げられている。

 

妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理

 

 

*2:

 

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)

 

 

ある生物種が絶滅することの何が問題なのか?

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の8月に倫理学者のカティア・ファリア(Catia Faria)が公開した記事を訳して紹介。

 

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「生物種の絶滅を悪いこととする理由は(もしそんな理由が存在するとすれば)何であるか?」 by カティア・ファリア

 

 歴史を通じて、やがては絶滅する運命の生物種が数えきれないほど誕生してきた。自然的な過程によって起こった絶滅にせよ人間の手によって起こった絶滅にせよ、絶滅は悪いことであり、絶滅を防いだり場合によっては絶滅しかけている生物種を回復させるための自然保全が行われるべきである、ということには環境科学者も一般大衆も同意をしているように思われる。多くの場合、自然保全のリソースは、生態系から長らく失われていた絶滅危惧種を再導入するために費やされる。別の場合には、外来種の登場によって脅威に晒されている在来種(人間の手によって導入されたのではなく、ある特定の自然環境に昔から存在している生物種のことだ)を守るために、政府は外来種を根絶させるという対処法を実施する。存続が危険に晒されている生物種が絶滅することを防ぐという目的のみに専念する組織はいくつも存在している。しかし、生物種の絶滅を防ぐために行われるこれらの行為は、かなりの議論の余地がある前提に依存しているのだ。

 

 時には、以下のように主張される:

 

(1)生物種の絶滅は本質的に悪いことである

 

 この主張においては、生物種は誰かにとっての(person-affecting)価値ではない非人称的な(impersonal)本質的価値を持っている、と考えられている。本質的価値という概念の背景にあるのは、ある物事が存在することは、それが誰かに"とって"善かったり悪かったりするということがなくても、善いことや悪いことで有り得る、という考えだ。ある人々は、生物種はこのような本質的価値がある種類の物事であると主張する。ある生物種が絶滅するということは代替不可能な価値の消失が起こるということであり、その生物種が絶滅することによって世界は以前よりも悪い場所になる、と彼らは論じるのだ。つまり、世界に含まれる価値の総量が減少するということだ。これこそが、ある生物種が絶滅することは悪いことであるという主張の意味なのであり、その悪さが誰かにとっての悪さでないとしても絶滅は悪いことなのである。尚、この議論における"誰か"は、人間であるか動物であるかにかかわらず、自分自身の福祉(well-beig, 幸福)を持つことができる存在の全てを指している。上述してきたような本質的価値が生物種には含まれ得るとすれば、私たちは生物種を保全するための非人称的な理由を持つ、ということになる。生物種は高い本質的価値を持つという主張は妥当である、と仮定してみよう。すると、生物種の保全と回復という目標に熱心に取り組むことは、それが他の個体に対して多くの犠牲を負わせることであったとしても、生物種を守るという目的それ自体のために行われるべきだ、ということになる。

 しかしながら、この主張を推奨した場合に人間の利益に対して生じるであろう結果について考えてみれば、この主張の問題点が明白に理解できるだろう。たとえば、ヨーロッパライオンはかつてイベリア半島からギリシャカフカスまで、ヨーロッパ中に幅広く存在していた。そして、ヨーロッパライオンが人間を直接攻撃することや家畜を食べることによって生じる人間に対する悪影響を防ぐため、西暦80年頃〜100年頃にかけて人間はヨーロッパライオンを絶滅に追い込んだ。だが、上述した主張によると、ヨーロッパライオンの絶滅は人間にとっては善いことであったということに関わらず、非人称的な価値の消失が伴っていたためにヨーロッパライオンの絶滅は別の面では悪いことであったということになる。

 この場合、二つの可能性が存在する。生物種の持つ本質的価値は人間の福利よりも重要であるか、そうではないかだ。前者の場合、ヨーロッパの動物相にヨーロッパライオンを再導入することが私たちに実行可能になったとすれば、それが人間の福利に対して実に多大な悪影響をもたらすとしても、私たちはそれを行うことについての止むを得ない強制的な理由を持つということになる。大半の人にとっては、このような主張はとても受け入れられないだろう。では、ヨーロッパライオンを再導入することについての非人称的で本質的な理由があるとしても、人間の福利を考慮することでもたらされる様々な理由はそれを上回る、ということにしてみよう。このような弱いバージョンの主張ですらも、奇怪な結論をもたらす可能性がある。生物種は本質的価値を持つとすれば、私たちはヨーロッパライオンが絶滅したことについて嘆く理由があるということになる。さらに、その行為が感覚ある存在に対して何ら良い影響を与えないとしても、私たちは様々な生物種を再導入することについての止むを得ない強制的な理由を持つことになる、という様々な事態が有り得るということになるだろう。…結局、生物種は非人称的な価値を持つという主張にはほとんど根拠が無いのだ。

 

 生物種の保全に関して訴えられるもう一つの主張は、以下のようなものだ。

 

(2)生物種の絶滅は、感覚ある存在に危害をもたらすので、悪いことである

 

  この主張は二通りに解釈することができる。第一の主張は、ある生物種の絶滅はその生物種の各個体に危害をもたらすので悪いことである、ということだ。しかし、絶滅は個体に対して影響を及ばさないので、この第一の主張が正しいということはほぼ有り得ない。感覚ある個体が生命を失うという危害を受けることは、その個体の死によってもたらされるのであり、その個体が属する生物種の絶滅によってもたらされる訳ではない。その生物種の最後の個体が死ぬことはその生物種の絶滅をもたらすが、絶滅が死をもたらすのではないのだ。したがって、ある生物種の絶滅は悪いことであるとしても、その生物種に属する個体の誰かに危害を与えるから悪いということは有り得ない。さらに付け加えると、死は動物に対して個々に危害をもたらす。ある個体にとってその個体の死がもたらす悪さは、ある特定の生物種に属する個体の数とは無関係にもたらされるのだ。ある生物種において最後に残った個体が死ぬとしても、その最後の個体が死によって受ける危害は、それ以前に死んできた数百万の個体が各々の死によって受けてきた危害を何ら上回りはしないのである。

 第二の主張によると、ある生物種の絶滅は生態系のバランスに悪影響をもたらし、それによって絶滅する種とは異なる生物種に属する個体に対して危害をもたらすので、悪いことである。無論、この主張は、生態系のバランスは動物たちにとっての福利の源泉であるということを仮定している。しかし、この仮定は事実からは程遠い。以前に論じたように、現存する生態系は、そこに存在する大半の動物たちにとっては強烈な不幸の源泉となっているのだ。個体群動態のデータは、大多数の野生動物たちが従う繁殖戦略のために、個々の野生動物が置かれている平均的な状況は実質的には大規模な絶滅が起こっている場合と変わりがない、ということを示している。ある生物種は、その生物種に属する全ての個体が死んだ場合に絶滅する。多くの場合、絶滅する生物種に属する個体の全員がとてつもない苦痛に満ちた死を経験する。この状況はその生物種が存続する場合と実に似通っているのであり、生物種が存続するということはその種に属する個体が幸福であるということを意味していないのであり、むしろ存続する生物種に属する個体の多くは苦痛に満ちており悲惨な死で終わる短い生を過ごしているのだ。

(2)の主張をもっともらしくさせているのは、感覚ある存在に対してどのような事態が起きるかこそが重要である、という前提だ。しかし、この前提には、生物種が絶滅することを防ぐことはそれ自体のために追求されるべきことではない、という意味が含まれている。絶滅を防ぐための対策は、感覚ある個体たちに対して多大な危害を負わせるという犠牲を含んでいる場合には、正当化されない。さらに、ある個体が絶滅危惧種に属していないとしても、その事実によってその個体の生命の重要性が減少するということにはならない。このことを認めれば、政府によって行われているものにせよ民間組織に行われているものにせよ、現在実施されている環境マネジメントの方法に対して大々的な変化がもたらされるべきだということになる。もはや、全ての条件を考慮してみると野生に生きる動物たちに対して危害をもたらすような自然介入は、環境マネジメントにおいて行われるべきではないのだ。

 

 

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