道徳的動物日記

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肉食は"自然"で"必要"か?

honz.jp

 この記事についているブコメなどの反応を見てみると、社会心理学者のメラニー・ジョイ(Melanie Joy)が『Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows: An Introduciton to Carnism(肉食主義へのイントロダクション:なぜ私たちは犬を愛し、豚を食べて、牛の革を着るか)』という本で論じている、「肉食を正当化する3つのNの心理」というものがよく表れているように思える。つまり、普段肉を食べている人が「(肉食は動物に苦痛を与えたり地球温暖などの環境問題を悪化させたり健康に悪かったりするのに)なぜ肉を食べ続けるのか」と問われたときに、多くの人は「肉を食べることは自然である(Natural)」「肉を食べることは普通である(Normal)」「肉を食べることは必要である(Necessary)」と答える、というものだ*1

  倫理学者のアンドリュー・グリップ(Andrew Gripp)という人が書いた以下の記事から、ジョイの議論について要約して紹介している部分を引用翻訳して紹介してみよう。

 

areomagazine.com

「肉を食べることを正当化する際にまず挙げられるのが、肉を食べることは実際問題として必要であるという議論だ。しかし、今日の世界に暮らす人々の多くにとっては…特に工業化が進んだ西洋に暮らす人にとっては、肉を食べることは選択肢の一つに過ぎない。近所の食料品店を訪れてみれば、野菜食という選択肢が豊富に存在していることを確かめられるだろう。西洋の人々の多くがベジタブル・バーガーを無視してチキンカツレツを食べていることは、それが必須だからという訳ではなく、選択の結果なのである。 

 動物を殺して食べることは短期間の生存のためには必要でないとしても、長期間にわたって健康と福利を保つためには必要である、と論じる人がいるかもしれない。結局のところ、ベジタリアンたちは[健康に生きるために必要であるとして、保健機関などから]推奨されている量のプロテインや鉄分やオメガ3脂肪酸やビタミンB12を、どうやって摂取しているというのか?…しかしながら、ベジタリアンたちはこれらの栄養素の推奨量を摂取することが可能であるし多くの場合に実際に摂取している、ということは栄養学の研究によって示されている。注意深いベジタリアンが、(仮に、肉を食べる人よりも更に健康になれないとしても)平均的な肉を食べる人と同じくらい健康になれないという理由は存在しないのだ。

 肉を食べることを正当化する第二の理由は、肉を食べることは自然である、というものだ。自然界の動物はお互いを食い合っているのだから、なぜ人間たちが…言うまでもなく、人間も動物なのであるのだから…他の動物を食べてはいけないというのだ?しかし、この正当化は、教科書に書かれているような"自然主義の誤謬"や"自然さへの訴え"の典型例だ。ある物事が自然界で頻繁に起こるということは、その物事が道徳的であるということを意味しない。レイプや乳幼児殺しは動物たちの世界では頻繁に起こるが、そのような"自然な"行動を人間も真似するべきだ、と論じる人はごく僅かだろう。

 だが、肉を食べることは生物種としての私たちにとって必要不可欠な要素である、と論じる人もいるかもしれない。確かに、科学的研究は、初期の人類は肉を消費したことによって高密度で複雑な神経を備えた脳を発達させてきた、ということを示している。

 しかし、進化史における発達にとって肉食が不可欠であったことは、今日の私たちもなんらかの身体的または道徳的な理由で肉を食べ続けることを義務付けられている、ということを意味しない。肉食が進化的なアドバンテージであった理由の一つは、私たちの祖先は肉を咀嚼することでサツマイモやジャガイモや人参のような根菜を咀嚼するのに比べてエネルギーと時間の消費量を少なくすることができたからだ。先史時代の[人間同士や人間と動物とが生存のために争いあう]ホッブズ的な環境においては時間とエネルギーは貴重な資源であったし、それらの消費量を抑えることが生存能力を向上させたことには疑いもない。だが、先史時代とはまったく違った環境である今日では([野菜を食べやすくする]ミキサーやいつでも食べられるプロテイン・バーなどを含む環境である)、肉を食べることにはもはや過去にあったような適応上のアドバンテージは存在しない。簡単に言うと、生物種としての私たちの存続はもはや肉食には依存していないのだ。

 肉を食べることの正当化としてよく挙げられる理由の三番目が、肉を食べることは普通である、というものだ。しかし、これも、誤った推論に基づく議論である。「衆人に訴える論証(argumentum ad populum)」と呼ばれる議論では、広く一般に受け入れられていること(または、広く一般に拒否されていること)に訴えるのだが、ある物事が真実であるか真実でないか・道徳的であるか非道徳的であるかということと"広く一般に受け入れられていること"には何も関係がない。

 この論法のおかしさは、様々な社会において"普通である"と考えられている物事のバリエーションの豊富さを理解すれば明白になる。たとえば、中国では一年に一千万匹から二千万匹の犬が食べられている一方で、アメリカでは犬は家族のように扱われている。また、アメリカでは毎年に数百万頭の牛が殺されているが、インドではたった一頭でも牛を殺してしまった人は犯罪者となってしまい、近年ではヒンドゥーナショナリストの自警団のターゲットにされてしまう。これらの事態から導き出される論理的な結論とは、慣習や習慣に基づいて肉食を擁護するためには、道徳的相対主義と文化相対主義に同意することが要求されるということだ…そして、この二つの相対主義は、近年の学問界から登場した概念の中でももっとも滑稽で最も危険なものであるのだ。」

 

 上記の「3つのN」の他にも、本邦で肉食を正当化する際によく持ち出される議論が「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」とか「植物も動物も同じ生命であるのだから、生命を奪うという点では菜食も肉食も同じだ」というものだろうか。しかし、実際問題の科学的見地からして「植物が苦痛を感じる」という可能性はほんとんどないということ、そして倫理的ベジタリアニズムの議論の多くは肉食が「動物の生命を奪うこと」ではなく「動物に苦痛を与えること」を問題視していることを考えると、これらの議論も倫理的ベジタリアニズムに対する反論になっているとは言えない*2

 また本邦の議論でよく目につくのは、先日にTwitterで取り上げた この記事のように、ベジタリアニズムに対する藁人形論法、あるいは特殊な議論・反論をしやすい議論だけを取り上げて反論するというタイプのものだ。たしかに、健康法としてのベジタリアニズムの中には「人間の本来の食生活は菜食である。肉食は健康に害しかなく、菜食主義は健康に良いことばかりである」という旨の主張をする議論も散見されるし、それは事実問題として誤っているだろう。だが、上述したように、「人間は肉を食べなければ生きていけない」というのは虚偽の主張であるし、「人間が現在のように進化できたことは肉食のおかげだ」という主張は真ではあるとしてもそれだけでは倫理的ベジタリアニズムへの反論や肉食の正当化にはなっていない。

 菜食主義に反論する議論の多くには、ベジタリアンを感情的・非論理的・非科学的などと批判・揶揄する論調が含まれている。しかし、菜食主義に反対する議論の方が科学的見地を無視していたり論理に誤りを含んでいることも多いし、その際には肉食という自分自身の食習慣を肯定したいがために明白な事実や自分の議論の論理上の問題点に対して盲目になってしまうという認知の歪みが生じている…つまり感情的になっている、ということも多いだろう。メラニー・ジョイの本はそういう点を指摘している訳である。

 

 

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*1:以前に紹介したジョイの議論を発展させた研究では、「肉を食べることは美味しい(Nice)」という4つ目のNが、多くの人が挙げる理由として付け加えられている。

*2:「動物の生命を奪うことで動物が未来について抱いている欲求や選好、動物が生命を奪われなかった場合に感じていた筈の幸福が奪われる」ことを問題視する議論もあるが、いずれにせよ植物が欲求や選好や幸福を感じているという可能性はほとんどないので、やはり動物の生命を奪うことと植物の生命を奪うことが等しい問題であるとは言えないだろう。

原罪としての"男性特権"

tocana.jp

 

 上述の記事は最近話題になった「ジェンダー学版ソーカル事件」というべき事件についての紹介記事だが、この事件を起こした数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)が昨年にネット上で公開していた記事が興味深かったので、軽く紹介しようと思う。

 

 

www.allthink.com

 

 記事のタイトルは「特権:左派にとっての原罪(Privilege: The Left's Original Sin)」。近年、英語圏の左派の社会運動界隈や学問界隈では"白人特権"や"男性特権"など、マジョリティである人々が持つとされる"特権(Privilege)"についての議論が盛んになっているのだが、この"特権"という概念の問題点について指摘する記事である。

 それぞれ無神論に関する著作を出している無神論者であるリンゼイボグホシアンは、近年の左派の社会運動やアイデンティティ・ポリティクスはもはや宗教じみていることを指摘する。宗教における「原罪」とは人間が生まれながらに持っており逃れることは不可能であるとされるものだが、左派の社会運動における"特権"という概念も「原罪」と同様の機能を果たしている。

 

 健常者、[性的指向が]ストレート、自分を男性と[性的に]自認する白人男性として生まれておきながら、[そのような属性に生まれるという]この自分が意図したわけでは全くない状況に置かれていることについて深い謝罪の気持ちを抱いていないことほど、重大な罪はない。

 

"特権"という概念の下では、ある人が白人であったり男性であったりすることそれ自体が、非白人や女性に対する差別や抑圧に加担して社会に害をもたらす罪であるとみなされる。宗教が「神-天使-聖人-その他の人間」というヒエラルキーを想定するように、アイデンティティを重視する左派の理論も現在の社会に生きる人々の間には「男性-女性」「白人-非白人」といったヒエラルキーが存在していると想定する(ジェンダー学を始めとした左派的な学問理論も、そのようなヒエラルキーが存在するという主張を後押ししようとする)。そして、非白人や女性は「白人や男性は特権を持っているのなら、特権を持っていない私たちは彼らに不当に権利を奪われて攻撃されているということになるはずだ。ならば、彼らを特権の座から引き摺り下ろしてやらなければならない」という風な認識を抱いて、白人や男性に対して敵対的な感情を抱いたり実際に攻撃するようになる。原罪に対しては「罪を憎んで人を憎まず」という態度をとることができるものだが、"特権"という概念は特権を持つとされる人を憎むように仕向けてしまうようだ。

 しかし、左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

 

sanfranpost.com

 

 上記の記事は右派系のコラムニストのトム・ティコッタ(Tom Ciccotta)によるものだが、この記事でも、先述のリンゼイとボグホシアンの記事が引用されながら"特権"概念とアイデンティティ・ポリティクスの問題点について論じられている。ティコッタが指摘しているのは、アイデンティティに基づいた"特権"のヒエラルキーが存在するという世界観は、たとえば「裕福な家に生まれついて良い大学に進学できた黒人女性が、労働者階級の貧しい白人男性に対して"自分の特権を自覚せよ(check your privilege)"と非難する」といった倒錯した状況をもたらす、ということだ。また、「現在の社会は家父長制であり、男性は特権を持っていて常に加害者であり女性は常に被害者だ」といったフェミニズムの主張では、暴力犯罪の被害者の大半は男性であること、男性の自殺率は女性よりもずっと高いこと、戦争や職場での事故で死ぬ人も大半が男性であること、同じ犯罪でも男性の方が裁判で罪が重くなりやすいこと、などなどの男性が受けている様々な差別や不利な側面が無視されることになる。人種差別にしても、たとえばアファーマティブ・アクションのために白人は大学への入学や就職が黒人よりも不利であったりする。

 人種や性別だけでなく階級や豊かさといったものを含んだ、それぞれの個人が持っている特権の総体(net priviledge)を見るのならともかく、特定のアイデンティティばかりに注目してしまうと「相対的に人より多く特権があるおかげで豊かに暮らせる白人男性もいればそうでない白人男性もいるし、性暴力の被害者となる女性もいればそうでない女性もいるし、差別を受けて苦しむ黒人男性もいればそうでない黒人男性もいる」という当たり前の事実が見えなくなってしまう。そして、"特権"がほんとうに存在するのかということについての議論を後回しにして、白人や男性ならばどんな人であっても"特権"を持っているのであり持たない人に対する加害者であると前提して非難する昨今の社会運動や一部の左派学問は、やっぱり差別的であり宗教的である、という風にティコッタは論じている。

 

wedge.ismedia.jp

 

 人種に関する議論は日本では取り上げられることは総体的に少ないように思われるが、リンゼイやボグホシアンやティコッタが問題視するような"男性特権"論は、本邦でもたまに目にする。たとえば、上述のインタビューのなかで社会学者の平山亮は以下のように論じている。

 

 男性学では、男性はフルタイム労働に従事し家族を養う稼ぎ手としての役割を果たさなくてはならず、そうしたプレッシャーに常に晒されているとよく指摘されます。女性が社会から「女らしさ」を要請されるのと同じく、男性も社会からそうした役割を要請されていると。つまり、男女ともに社会から「男らしさ」「女らしさ」のプレッシャーを受けているという意味では同じ「被害者」である、という主張を男性学のなかによく見かけます。

 この主張が欺瞞であることは、これを社会階級の問題に置き換えてみれば明らかです。たとえば、生まれながらにして裕福で、教育機会にも恵まれ、安定した収入源を持っている人と、それらすべてを奪われており、常に生活不安に苛まれている人にわかれた格差社会を考えてみてください。もし前者の人々が「私も『富める者』として生きていくためのプレッシャーを社会から受けている。だから、この格差社会の中では私も被害者なんだ」と主張したら、ほとんどの人は頭に来ますよね。

 男性もまた「被害者」である、という主張には、これに似たところがあります。人口全体で見れば、教育機会でも就労機会でも女性の方が不利益を被っているのは、統計的な事実です。そもそも就労役割と結びついた「男らしさ」は、経済基盤を確立させよ、というプレッシャーなのに対し、家族の世話を最優先にせよ、という「女らしさ」のプレッシャーは、逆に就労を断念させるために働きます。生きるための経済基盤を築くのに安定した就労は不可欠ですから、どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らかでしょう。

 最近、女性差別に対して男性差別を訴える声も出てきました。しかし、ここで考えてほしいのは、女性差別の訴えは「男性中心社会」に対する告発であるということです。これに対し、男性差別が「女性中心社会」だから起こっているかといえば、そんなはずはありません。なぜなら、これまで社会で女性が、男性ほどに社会における意思決定権を握ったことはないからです。決定権を有する地位のほとんどをいまだに男性が占めている社会で、男性が不利益を被っているとすれば、それは女性のせいなどではなく、社会の意思決定をしてきた男性たちのせいでしょう。

 

 たとえば、先述したように男性の自殺率は女性よりも高いこと、その自殺率の高さの一因として「男らしさ」や社会的地位・収入へのプレッシャーが指摘されていることをふまえれば、「どちらのプレッシャーが生存を難しくさせるかは明らか」とは安易に言えないはずだ。女性差別が「男性中心社会』(=家父長制)のために起こっているという議論についても、そもそも家父長制とは誰かが人為的に構築したものというよりも人間の生物学的な特徴に沿って進化してきたものであること、そして現在の社会に適応できず不利益を被る男性もいればうまく適応して利益を得る女性もいることを考えると、何でもかんでも「社会の意思決定をしてきた男性たちのせい」にすることはできないだろう。

 インタビューの別の部分では「男性学がメディアに出てきたことで、そうした男性としての役割に対し異議申し立てや愚痴をこぼすことが出来るようになった」ことにすら平山は批判的であるが、こういうのも、男性には女性にはない"特権"を持っているという現在を想定して罪深い存在である男性には自己批判や懺悔しか許されないとする、不毛で非生産的なアイデンティティ・ポリティクスの一種であるように思える。

  

スローガンとしての「インターセクショナリティ」

 インターセクショナリティ(Intersectionality)という概念については以前にも批判的な記事を訳したのだが、英語圏の学者たちのTwitterなどを見ているといまだによく出てくるので、ちょっと追加で記事を紹介してみることにした。

 

www.insidehighered.com

 

 この記事の題名は「インターセクショナリティの概念は変異しており崩壊している(The concept of intersectionality is mutating and becoming corrupted)」で、英米文学者のケイリー・ネルソン(Cary Nelson)という人が書いたもの。ネルソンはイスラエルに対するアカデミック・ボイコット運動反対する文章を集めた論集を編集しているようであり、イスラエルに対するボイコット運動(BDS)を支持するジュディス・バトラーを批判するかなり長文の記事を公開している*1。ここで紹介する記事も反イスラエル運動に絡んだ内容だ。

 ネルソンによると、「インターセクショナリティ」という概念は1960年代や70年代から学問において使われてきたもので、ジェンダー・人種・階級が交差(intersect)する立場にある黒人女性は(性差別と人種差別や階級差別との)二重の差別を受けている、ということを理解するのに有用な概念であったそうだ。当時は「白人女性も黒人女性も、女性差別を受けているという点では一緒だろう」ということで、学問において女性のアイデンティティや女性の受ける差別などを分析する上では女性たちの間の人種や社会的状況の違いがあまり考慮されてこなかったのが、「インターセクショナリティ」という概念の登場によって分析を深めることができるようになった…ということらしい。

 だが、近年において「インターセクショナリティ」という概念は政治的に用いられるようになり、過去のものとは全く別物になった、とネルソンは論じる。例に挙げられているのは、2014年にミズーリ州ファーガソンで黒人青年が白人警官に射殺された事件イスラエル-パレスチナ問題とを結び付けて、「ファーガソンからガザへ」「ファーガソンからガザへと正義を」というスローガンの下で行われた運動だ。「一つの社会内における不正義、差別のシステム、抑圧、支配は交差している」と前提するインターセクショナリティ理論は、人種や階級やジェンダーなどの差別問題を理解することについては現在でも有用であるし、異なる社会間で起こっている差別問題を比較するうえでも役に立つ、とネルソンは認める。しかし、ファーガソンパレスチナの問題が"交差している"という主張は全く怪しい、とネルソンは指摘する。一国内で起こっている不正義は結び付いているという主張に比べて、地球上の異なる場所の異なる政治体制で異なる文脈で起こっている差別問題が結び付いているという主張は、ずっと多くの説明が必要となるからだ。実際にはファーガソンパレスチナの問題の結びつきは政治的なマニフェストのなかにしか存在しておらず、インターセクショナリティという概念は陰謀論のように機能している、とネルソンは論じる。もはやインターセクショナリティという概念は分析のために用いられるのではなく、異なる政治的目標を都合良く結び付けるための戦略として用いられているのである。

 インターセクショナリティが理論からスローガンへと変貌したことを示す例として、ネルソンは『自由とは絶えざる戦い(Freedon Is a Constant Struggle)』を著した学者兼活動家のアンジェラ・デヴィビス(Angela Davis)や哲学者のコーネル・ウェスト(Cornel West)の文章を挙げている。デイヴィスにせよウェストにせよ、インターセクショナリティとは「自由のための戦い」や「暴力、白人の特権、家父長制、政府の力、資本主義市場、帝国主義的な政策などのダイナミクス」への反対へと人々を突き動かすための概念だと論じているのだ。しかし、理論でなくスローガンになってしまったために、「異なる時間に異なる場所で起こった二つの差別の間には、本当に繋がりがあるのか」ということが検証されることはなくなってしまい、「二つの問題は繋がっている」という前提に疑問を投げかけることも許されなくなってしまったのである。学者でもあるデイヴィスが政治的スローガンとしてのインターセクショナリティを学問や教育の場で濫用していることを、ネルソンは懸念する。現在起こっている問題を分析して正確な知識や理解を得るよりも、その問題に関する特定の政治的立場にコミットすることの方が優先されてしまうからだ。

 現在のアメリカに黒人差別が残っているのは事実であるが、実際問題として、パレスチナの問題に関わることでアメリカの黒人差別について理解が深まったりその問題が解決する筈がないだろう、と記事の後半でネルソンは指摘している。また、記事の冒頭ではアメリカ女性学会(National Women’s Studies Association)がインターセクショナリティを理由にして2015年にイスラエルに対するアカデミック・ボイコットを決議したことについて取り上げて、アラブの女性が晒されている暴力について無視して「中東にはアメリカと同程度のジェンダーの平等がある」という虚偽の判断をアメリカ女性学会が行ったことについて批判している。…「全ての抑圧は交差している」とアメリカ女性学会は主張したが、ある問題に対して他の問題よりもずっと交差している問題というが明らかに存在するだろう(たとえば、パレスチナ問題よりもアラブ圏の女性差別問題の方が、アメリカの女性差別問題とはまだしも関連性が高いだろう)というのがネルソンの言い分であるようだ。

 

 …あまり付け加えることはないが私の雑感を書いてみると、「ある差別や不平等に反対するなら、論理的に、別の差別や不平等にも反対しなければならない」という規範に関する主張は真っ当であると思うが(例:「人種に基づいた差別に反対するなら、生物種に基づいた差別にも反対しなければならない」)、「ある差別や不平等は、別の差別や不平等と結び付いている」というのは規範ではなく事実に関する主張なので、そこで主張されている事実が本当に正しいかどうかは問われるべきだろうと思う。事実上の結び付きがないとしても論理的・倫理的にどちらの差別や不平等にも反対するべきだと主張することは可能であるし、根拠が怪しかったり明らかに虚偽な「結び付き」を主張するという傾向はよくわからない(ナオミ・クラインが気候問題とその他の社会問題を全く根拠なく無理矢理に結びつけていることはジョセフ・ヒースがあれこれやで指摘しているし、動物倫理の界隈でもたとえば動物の問題と障害者の問題とのインターセクショナリティを主張している人もいるのだが、これもスジが悪いと思う)。

 

 

 

 

監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体

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*1:イスラエルに対するアカデミック・ボイコット運動を批判する記事としては、以前にもあれこれやをこのブログで紹介している

民主主義を貶め右翼を蔓延させるポストモダニズム

 ネットサーフィンをしていたら見つけた、ヘレン・プラックローズ(Helen Pluckrose)という人文学者による、『How French “Intellectuals” Ruined the West: Postmodernism and Its Impact, Explained(フランス知識人はいかにして西洋を台無しにしたか:ポストモダニズムとその影響を解明する)』という記事について、軽く紹介しよう*1

 

areomagazine.com

 

 

 この記事の前半にて、著者のプラックローズは主にジャン=フランソワ・リオタールミシェル・フーコージャック・デリダの思想について、説明しながらポストモダニズムの思想に含まれる特徴について論じている。上記の論者に共通して挙げられるのが「すべての知識や認識は相対的で等価なものであり、科学的認識が他よりも客観的な認識であるとはいえない」「科学的で客観的な認識を是とする発想は近代主義的なものであり、西洋中心主義や男性中心主義が背景にあり、女性や非白人などの弱者に対する抑圧につながる」という相対主義及び反近代主義・反啓蒙主義である。そして、科学的・客観的な認識も個人的・主観的な認識も等価であると主張するポストモダニズムは「これまでは近代主義啓蒙主義によって貶められて抑圧されてきた弱者の認識を、むしろ科学的な認識や客観的な認識よりも優れたものとして扱おう」という発想をもたらす。このような科学的・客観的な認識への反対と主観的な認識の称賛が生み出すのは、学問や議論において事実やエビデンスを軽視して個人の意見や感情を好き勝手に主張すること(アンチ-エビデンス主義)であり、また発言者が属するアイデンティティを重視するアイデンティティ・ポリティクスであるのだ。

 ソーカル事件『知の欺瞞』で有名なようにポストモダニズムが反科学的な思想であるのは周知の話であるのでアンチ-エビデンス主義であるのも当然のことだが、アイデンティティ・ポリティクスとポストモダニズムとの関係はわかりづらいかもしれない。プラックローズがまず指摘しているのは、特にフーコーのような社会構築主義・文化構築主義の思想は人間に備わる主体性や自律を軽視して、人間は自分が属する階級や人種や性別などの立場や属性とそれに関わる権力関係に依存する存在である、という発想をもたらすということだ。このことは、不利であったり少数派である属性を持った人々はその人の自由意志に関わらず常に被害者であり抑圧される存在なのであり、そして有利であったり多数派である属性を持った人の行動にはその人の意思に関係なく必ずや権力が反映されておりそのような人は本質的に弱者を抑圧し加害する存在である、という主張につながる。また、客観的で普遍的な見方やエビデンスは存在せず、科学的手続きや民主主義的手続きを経たものであっても多数派の意見は少数派の意見と等価であるという考え方は「現在主流とされている意見や認識は多数派の利害や権力が反映されたものに過ぎないし、少数派である私がそれに従う理由はない。どんな意見や認識も等価なら、私は自分が属する少数派の利害に基づいて利害や認識を決めよう」という発想をもたらして、人々の間の意見の一致や建設的な落とし所を成立させることを不可能にして、民主主義の理念とは相反するような政治状況を生み出してしまうのだ。

 これに関連するのが、理性や合理的な思考や事実という概念を疑問視・軽視するポストモダニズムは人々の感情を過大評価する、ということだ。たとえば、あるテクストの意味はそのテクストを書いたり発言した者によって決められるのではなくそのテクストを見聞きした者が自由に決めることができる、とデリダは主張したが、このような主張は悪意のない些細な発言や物事ですらも攻撃であり差別行為であると見なす「マイクロアグレッション」の概念に関連している。また、スティーブン・ピンカーなど数多の論者が主張しているように、データを見れば現代は歴史上で人種差別や性差別や同性愛差別が最も少ない時代であることは明白であるのだが、反エビデンス主義を唱えるポストモダニズムでは事実に関わらず自分が信じたい情報だけを集めてそれを信じる確証バイアスという認知の歪みに対策することができないので、事実に基づかない非合理的な悲観主義を蔓延させてしまうことになる。そして、個人の経験や感情には客観的なデータと等価であるかそれ以上の価値があるという発想は、学問的議論においても個々人が自分の感情や経験に基づいて好き勝手に発言することを許容するという結果を生み出してしまう(いわゆる「じぶん学」の問題とも関連しているかもしれない。また、先日に紹介した教育学者のジョアンナ・ウィリアムズも、特にフェミニズムの業界においては理性的な討論よりも感情や経験の共有が重視されておりそれに異を唱える者は排除される傾向がある、と著書の中で論じている)。

 現状で是とされている物事を破壊し、多数派を否定して少数派を称賛するポストモダニズムの主張は一見するとラディカルで革命的なものに見えるが、現在では啓蒙主義を支持する多数派は 「人種差別や性差別は否定されるべきであるし、全ての人には平等な権利や自由が保証されるべきである」と考えていることを踏まえれば、ポストモダニストの行為は左派やリベラルではなく右翼を利することになるのは明白だ。近代的なものである以上は西洋中心主義的で男性中心的であり弱者の抑圧につながるはずだとして普遍的人権や自由民主主義などの規範を否定しながらも、それに代わる新たな規範をまともに提示することのできないポストモダニズムが真面目に実践されたとすれば、世の中はかなり悲惨なことになるだろう。また、昨今の欧米では左派の社会活動家が自分のアイデンティティや感情に基づいて他者の言論の自由や学問の自由を否定していること、活動家たちは異なる価値観の存在を許さない権威主義的でドグマ主義的な存在になっていることはよく指摘されるが、このような傾向もポストモダニズムによって助長されてきたのだとプラックローズは論じている。人文学や社会科学の諸々の学問分野においてもポストモダン理論を主張する人々は増殖しており、権威や真実を否定するはずのポストモダニズムが一つの権威と成り果てて他の思想や考え方を抑圧している、ともプラックローズは主張する。

 

 自然科学の理論にも「ヨーロッパ中心主義」や「男性中心主義」を見出すポストモダニズムは、「西洋的な自然科学では物事を知るための様々な見方の一つに過ぎないし、科学にはマジョリティの権力が反映されていて少数派を抑圧する。科学ではない、新しい物事の知り方を打ち立てよう」という主張を生み出すことになる。例えば南アフリカでは進歩的な学生たちが「科学は植民地主義の産物であるから否定すべきだ」と主張して、魔術などを代替案として持ち出しているそうだ。もちろん、人々がいくら「新しい見方」を提唱したとしても自然現象や自然の原則に変化は生じない訳だが、自然科学の知識に対する人々の信頼が低下することは、反ワクチン運動や地球温暖化対策の遅れなどの事態を生じさせて人々や環境に対して深刻な危害をもたらすことになる。また、社会学文化人類学ジェンダー学などでは道徳や規範に関する相対主義だけでなく科学的知識や認識に関する相対主義までもが普及しており、その分野に関連しているはずの自然科学的な知識が無視されるか貶められるようになっている。史料に基づいて研究を行う歴史学者も、現在の倫理観による問題意識が研究に反映されていないと見なされれば「女性や人種マイノリティの無力さを考慮していない」「差別の問題を軽視している」などとポストモダニストから抗議されたりする。

 だが、ポストモダニズムの危険は文系学問や社会正義活動に限定されない。先述したように、客観的な認識は存在しないとして物事を好き勝手に解釈することを称賛するポストモダニズムの思考は、確証バイアスや動機付けられた推論など、人間の認識に生来的に備わっている問題を助長させてしまう傾向があるのだ。

 そして、ポストモダニズムによってもたらされた相対主義アイデンティティ・ポリティクスは、昨今では右翼によって利用されるようになった。そもそも右翼の思想というものは昔から反合理主義的で非科学的であり、人種や性別などの属性を重視するものであったのが、啓蒙主義近代主義はそのような発想を否定していた。だが、ポストモダニズムが科学や啓蒙を貶めたおかげで、右翼の主張が大手を振るうようになったのだ。著述家のケナン・マリク(Kenan Malik)は、「オルタナ真実」という概念を発明したのはドナルド・トランプやそれに連なる反動主義者たちではなく、真実は人や文化によって変わるという相対主義を唱えたフーコージャン・ボードリヤールといったポストモダニストたちである、と指摘している。『ポストモダニズムなんてこわくない(Who’s Afraid of Postmodernism?: Taking Derrida, Lyotard, and Foucault to Church)』を著したジェームズ・スミス(James Smith)も、「ポストモダニズムを真面目に実践しようとしたら、事実ではなく信仰に従わなければならない古代や中世の時代に逆戻りしなくてはならなくなる」と指摘して、ポストモダニズムと反動的・権威的な思想との共通点を論じている。

  記事の結びにて、ポストモダン左派の言説を排除して合理的なリベラリズムへと立ち戻ることを、プラックローズは左派たちに呼びかけている。人々を人種やジェンダーに基づいて判断したり評価したりするアイデンティティ・ポリティクスに対抗するためには、自由と平等を重視するリベラリズムの原則を一貫して支持することが求められる。右翼の勢いを止めるためには、彼らを「人種差別者」や「性差別主義者」と批判したり彼らの言動は暴力であると非難するだけでなく、右翼の支持の背景にある移民政策やグローバリズムの問題などについての解決策を理性的に見つけなければならない。現在の(欧米における)危機をもたらしているのは左派と右派の対立ではなく、理性と非合理性の対立、普遍的なリベラリズムと偏狭な部族主義との対立なのである。右翼とポストモダニストの主張する選択肢よりも、啓蒙主義と科学革命と近代に価値を見出す左派の選択肢こそが優れているということを示さなければならないのだ…というのがプラックローズの結論である。

 

 

 

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「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)

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*1:本当はもっと長い紹介記事を書いていたのだが、操作ミスのために3時間かけて4000字書いた文章が消えてしまったので、気力が尽きてこうして短い記事を書くことにした

学問的営みを蝕む批判理論

 

 

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge (Palgrave Critical University Studies)

 

 

 

 イギリスの教育学者のジョアンナ・ウィリアムズ(Joanna Williams)という人による本『Academic Freedom in an Age of Conformity: Confronting the Fear of Knowledge(同調圧力の時代における学問の自由:知識への恐怖に対抗する)』を軽く読んだので、この本の内容についての短めの著者インタビューを訳して紹介しよう。

 この本は、英語圏の大学において、不愉快であったり暴力的なイメージを排除しようとする「トリガー警告」や些細な言動をも暴力と見なして排除しようとする「マイクロ・アグレッション」、またイスラエルの学者などを学会などに呼ぶことはパレスチナの弾圧につながるという理由でイスラエルの学者を排除するBDS運動など、諸々のポリティカル・コレクトネス的な概念に基づいた運動が蔓延して学問の自由が軽視されている現状について分析している本なのだが、その一因として著者のウィリアムズが指摘しているのが人文系や社会科学系の学部における批判理論(クリティカル・セオリー)の浸透である。

 マルクス主義ポストモダン思想などとも関連している批判理論は「どのような学問的議論にも背景には様々なイデオロギーや権力関係などが潜んでいるのであり、客観的で普遍的な学問的議論など存在しない」という考えを大学にもたらし、競合する学問的議論を付き合わせて真実を探求するという学問的営みの価値を人々に疑問視させるようになった。結果として、「どんな学問的議論も所詮はイデオロギーなんだったら、学問の自由なんて大して重要ではない。それよりも人権とか人々が傷付かないようにすることのほうが重要だ」という発想や「学問的議論も権力関係の反映なんだとすれば、主流派の議論はマジョリティの権力が反映されてマジョリティにとって都合の良いものになっている筈であり、自分たちマイノリティは自分たちにとって都合の良い議論をでっちあげてそれに対抗しよう」という発想がもたらされたのであって、事実に基づいた正確な議論であってもそれが暴力や差別につながると見なされたら禁止される一方で、ジェンダー学などマイノリティの側に立った議論であると称すればどんなにデタラメな議論であっても容認される、という風潮ができあがった…みたいなことが論じられている本である。

 

quillette.com

 

 (前略。著者や本の内容について軽く紹介している部分。)

 

 インタビューにて、ウィリアムスは彼女が学問の自由のモデルとして提唱する「アイデアの自由市場(marketplace of ideas)」について論じた。つまり、最も議論の余地があり、論争を呼ぶような、そして非難されるような意見であっても、その意見が人々に公開される場所だということだ。

 

「ある特定の問題は大学において議論の対象とするべきでない、という考えは私には実に奇妙に思えます。大学こそが、自由でしっかりした議論を行うのに最もふさわしい場所であるべきなのですから。だからと言って、全てのアイデアは等しく正当であるとか、全てのアイデアは大学のカリキュラムで等しく扱われるべきであるなどと考えている訳ではありません。しかし、学生たちが挑戦的だと見なすであろう知識や考え方、あるいは学生たちを不快にさえしてしまうかもしれない知識や考え方を学生たちに提起することは、大学に属する者の義務であると私は考えます。そのような知識や考え方に接触することこそが、学問を学ぶということなのですから!」

 

 アイデアの自由市場モデルは、学者たちが「既存の権威に挑戦し、どちらの主張が真実であるかを競わせる」ことを行うためには学問の自由は必要不可欠である、という考え方に基づいている。しかし、大学の目的とされるものは変わってしまったように思われる。大学は、全てのアイデアが自由市場における競争に参加することが認められた場所から、社会的・経済的・政治的な目標を達成するための道具へと変わってしまったのだ。大学の目的が変化したことの結果について、ウィリアムズは以下のように論じる。

 

「政府の大臣たちにとっては、学問の自由を守る理由はあまりありません。学問の自由を守る責任は大学の教員たちに課せられていますが、学問の自由を[訳注:差別につながるからとかマイノリティにとって不利な制度であるからという理由で]問題視することが主流になり、学問の自由はエリートたちが自分たちの利益を追求するための手段に過ぎないとする見方のために、大学の教員たちは学問の自由を守ることができなくなっているのです。」

 

 また、(学問の自由を守る責任を課せられている筈である)大学の教授たちの多くが、学生たちによる検閲(censorship)運動が活発化することを助長している、とウィリアムズは示唆している。その理由は、そのような大学教授の多くが社会的現実の主観的な性質を強調しており社会的現実は主に言語の使用によって構築されるのだと論じていることにある、とウィリアムズは指摘する。

 

 「多くの場合、言語は現実を構築する力の全てを担っているのだと学生は教えられます。言葉は人を傷付けることができる、と学ぶのです。言語は私たちを狼狽させたり心を動かしたり感情を刺激したりするレトリックであるのを超えて身体的な危害や本当の暴力を実際に引き起こすこともできるのだ、と教えられるのです。」

 

  実際、そのような見方や考え方は多くの大学に存在しており、イギリスの学生たちによる検閲文化を活性化させて、学問の自由を侵食している。ウィリアムズは、批判理論(クリティカル・セオリー)がいかに学生たちの偏狭さと検閲文化を助長しているかということについて特に懸念を抱いているようだ。

 

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」

 

 インタビューの結論として、大学における知的な多様性を増させてアイデアの自由市場へと復帰することをウィリアムズは呼びかけた。アイデアの自由市場は、きっと、自分たちが支持しない考え方に対峙することへと学者たちとその学生たちに挑ませるだろう。このことは、自分たちが支持しない考え方や非難すべきであるように思える考え方をも守るという意志を学者たちに求める。非難されるような考え方を検閲したとしても、その考え方を立ち去らせたり、打ち負かしたりすることはできない。開かれた議論と討論こそが、それを可能にするのだ。

 

 

 

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IQ・経済・民主主義

 

Hive Mind: How Your Nation's IQ Matters So Much More Than Your Own

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 以前に読んだ、経済学者ギャレット・ジョーンズの著書『Hive Mind: How Your Nation’s IQ Matters So Much More Than Your Own(蜂の巣マインド:なぜあなたの国全体のIQはあなた自身のIQよりもずっと重要なのか)』の中でも、特に面白かった第7章「知識のある有権者と、選良政治の問題(Informed Voter and the Questions of Epistocracy)」について軽く紹介しよう。尚、『蜂の巣マインド』の内容全般については経済学者タイラー・コーエンの書評記事を別のところで訳して紹介している。

 

『蜂の巣マインド』は「個人間のIQの差は個人間の収入の差とは関連していないが、国家間における国民全体の平均IQの差は国家間の豊かさの差と関連している」という現象の存在を明らかにして、それが何故かを解き明かそうとする本である。IQが高い人は忍耐強く計画的なので財産の貯蓄率が高くなること、賢こさは協力を容易にするので生産性を高くすること、人々の平均IQが高い国では有権者も政治家も忍耐強く計画的になるので短期的な利益に惑わされない長期的な政治経済計画を実行しやすく政治腐敗も起こりにくいこと、などなどが指摘されている。また、「国民の平均IQが高い国と低い国との違いは何か」「どうすれば平均IQが上げられるか」ということについても論じられており、IQの遺伝差という問題にも触れられながらも、人々の健康状態や環境を改善する様々な政策を実施したり教育制度を拡充したりすれば国民の平均IQを上げることは可能である(そして、IQと経済成長が関連しているとすれば貧しい発展途上国では国民の平均IQを上げることは必須の課題となる)、と論じられている。

 

 7章で指摘されているのは、民主主義国家では教育を受けた賢い有権者が多ければ多いほど経済学の知見に基づいた市場志向的な政策が実施されやすくなる(そのために経済が発展しやすくなる)、ということだ。…経済学に限らず、一般的に、ある学問分野における専門的な考え方は素人の直感的な考え方とは相反することが多い。ジョーンズが例に挙げているのは、毒物学における「危険は投与量にあり(the danger is in the dosage)」という知見だ。放射能にせよ鉛にせよダイオキシンにせよ、ある物質が危険であるかどうかはその摂取量に関わってくるのであって、それに触れ過ぎたなら危険である一方でごく僅かな量であれば無害である。だが、専門家でない一般人には危険度は量や程度によって変わってくるという考え方は直感的に理解しがたく、危険とされた物質には一切近づきたくなくその物質を排除したいと思いがちである。その結果、過剰で非合理的な規制が実施されてしまい様々な活動が非効率的で非生産的なものとなる…というのはよくあることだ。しかし、専門家ではない一般人の間にも、より多くの教育を受けた一般人にはより専門家的な思考に近づく、という傾向が存在する。より多くの教育を受けた一般人は科学的な研究結果にも同意するようになるし、ある物質の危険さは1か0かの問題ではなく程度問題であるということを理解するようになるのだ。

 同じことは経済や政治に関する知識についても当てはまる。人々はより多く教育を受ければ受けるほど「大半の国民は所得税と給与税のうちどちらを多く払っているか」「昨年度の国庫の赤字は幾らか」という問題や経済政策に関する基本的な事実の問題について正解しやすくなるし、各政党や政治家に関する事実も把握するようになる。それぞれの政治家や政党がどんな公約を主張していて実際には何をしたか、ということも賢い人ほど記憶するようになるので、賢い国民が増えれば増えるほど政治家は説明責任を重視せざるを得なくなって政治腐敗を防ぎやすくなる。また、需要と供給の原則や比較優位の原則など、直感的な思考とは反する経済学の原則についても、より多くの教育を受けた人/よりIQが高い人ほどそれらの原則を理解しやすくなって経済学者のように考えることが可能となるのだ。ジョーンズが引用しているのは『選挙の経済学』を著したブライアン・カプランの研究であるが、カプランの研究によると、年収や社会階層や政治イデオロギーといった因子をふまえたうえでデータを調整しても、「より教育を受けた人は、より経済学者のように思考するようになる」という傾向が存在するそうだ。カプランは有権者たちに存在する合理的無知様々なバイアスのために民主主義には誤った経済政策を選びやすくなるという問題点が含まれていることを指摘しているのだが、同時に、教育によって無知やバイアスを修正することが可能であるとも指摘しているのである。

 専門家たちの抽象的な原則を理解できるようになること以外にも、教育やIQは様々な美徳を人々にもたらす。人には自分の立場や意見やイデオロギーにとって都合の良いデータを重視して都合の悪いデータを無視したり曲解したりする傾向はあるが、よりIQの高い人ほど、自分にとって都合の悪いデータであっても無視せずに正確に理解できるようになる。また、より多くの教育を受けた人ほど投票に行きやすい。そして、よりIQが高い人ほど、よりリベラルになり、よりジェンダーの平等を支持するようになり、そして人種差別にはより反対するようになる。ジョーンズは様々な国での研究をまとめたうえで、IQの高さは社会における寛容と市場における自由を志向するタイプのリベラリズムの傾向と関連している、と結論付けている。…そして、民主主義国家であれば、国民がより教育を受けてIQがより高くなるほど寛容で反差別的な社会政策が採用されやすくなり、経済学の抽象的な原則をふまえた合理的な経済政策が採用されやすくなる、ということになるのだ。

 

  …このような議論をしていると必然的に浮かんでくるのが、選良政治の可能性だ。つまり、ある国の国民の平均IQがいくら高くなったり教育制度がいくら拡充したとしても、その国の中には相対的により賢く知識のある人とそうでない人がいるのであり、そして賢く知識のある人はより合理的で倫理的な政策を選ぶ傾向があるとすれば、賢く知識のある人だけに選挙権を与えた方がいいのではないか、という発想だ。ジョーンズは『蜂の巣マインド』の中では選良政治に関しては是とも否とも書いておらず、選良政治を擁護する倫理学者のジェイソン・ブレナンの議論を紹介したうえで「道徳に関する議論は倫理学者たちに任せよう」と中立的に締めている。

 人々には政治に参加する権利が本来的に備わっているのであり参政権は普遍的に保証されるべきである、という一般的な考え方からすると、選良政治という発想はおかしなものに聞こえるかもしれない。しかし、政府というものは人々の人生に重大な影響をもたらすものであることをふまえると、自分が暮らす国の政府がある程度以上に合理的で知識のある人々によって選ばれることが保証されるという権利(つまり、非合理的で知識のない人によって選ばれた政府の下で暮らさずに済む、という権利)もたしかに存在するのかもしれない。その場合、「普遍的な参政権」と「知識のある人々によって選ばれた政府の下で暮らす権利」の間にはトレードオフがはたらく、ということになる。

 ブレナンは『Libertarianism: What Everyone Needs to Know』という本のなかでも民主主義や参政権の問題について軽く触れているのだが、カプランが指摘したような「合理的無知」の問題などを指摘したうえで、民主主義は他の政治体制よりかはマシな結果をもたらしてきたとはいえ愚かな有権者によって愚かな選択が成される可能性は依然として存在していることをふまえれば、民主主義であっても政府の規模や政府が口を出す範囲は小さくあるべきだ、と論じている。リバタリアニズムを主張するブレナンは人々の経済的自由や市民的自由は保障されるべきであると強調するが、参政権のような政治的自由に関しては話が違う、とも指摘している。なぜなら、政治参加して政府を選ぶことは自分にとってだけの問題でなく、その選ばれた政府の下には他の人々も暮らすことをふまえると、政治的自由や参政権というものは必然的に他人に対して力を発揮するものであるからだ。愚行権はそれによって傷付いたり損をするのが当の本人だけであるなら認められるかもしれないが、愚かな投票をするということは自分だけでなく他人に対して迷惑をかけたり傷を付けたりすることに繋がるかもしれないという可能性を考えると、たしかに参政権というものは自明で普遍的な権利では無いという主張にも一理はあるかもしれない。

 

 

Libertarianism: What Everyone Needs to Know (What Everyone Needs to Know (Paperback))

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普通選挙権は倫理的に認められるか?

 

 オックスフォードのPractical Ethicsブログに、2015年の4月に倫理学者のジョセフ・ボーウェン(Joseph Bowen)が公開した記事を訳して紹介。

 

blog.practicalethics.ox.ac.uk

 

「選挙権を認められるべき人々とは誰だろうか?」 by ジョセフ・ボーウェン

 

 あなたが思い付けるなんらかの事件(どれだけ些細な事件であってもよい)について、陪審員たちが判決に達したと仮定してみよう。そして、その陪審員たちに関する以下の事実が明らかになったとも仮定しよう。

 

1:無知な陪審員。その陪審員は裁判に対して全く注意を払わず、被告についてどう考えるかと聞かれた時には、有罪であると恣意的に決め付けた。

2:非合理的な陪審員。その陪審員は裁判に対して多少は注意を払ったが、裁判とは関係のない理由…希望的観測や奇妙な陰謀論など…に基づいて結論を下した。

3:道徳的に不当な陪審員。その陪審員は、偏見に基づいて被告は有罪であると決め付けた(被告はルーマニア人だから有罪だ、など)。

 

 上記のいずれのケースでも、陪審員たちは権限と正当性を欠くはずだ(裁判は、おそらく再審となるだろう)。ある陪審員の決定は、財産や自由、そして生命を剥奪することによって、人々の人生に対して重大な影響を与える可能性がある(その影響の範囲は、被告本人だけとは限らない)。上記の三人の陪審員が違反したと見なすことができる原則は、以下のようなものだ。

 

適正原則(Competence Principle):不適正または道徳的に不当な審議機関の決定の結果、もしくは不適正または道徳的に不当な方法で下された決定の結果に基づいた強制力と脅迫力によって、市民たちの生命・自由・財産を奪うこと、または市民たちの人生の展望を変えることは、不当である。(Brennan, 2011,704)

 

 適正原則に違反している以上、上記の三人の陪審員が下したような決定を政府が故意に被告に強制することは不当である。それぞれのケースについて裁判官が「しかし、陪審員たちの大半は適正な仕方で結論を下した」と言ったとしても、それでは充分ではない。「陪審員全体のうちの99%は適正な方法で結論を下した」としても一緒だ。どちらにしても、被告は「この特定の陪審員は適正な方法で結論を下さなかった。だから、彼の決断が審議の結果に影響を与えるべきではない」と主張することができる。適正原則に対する違反がどこかで生じていたとすれば、下された結論もその結論を下した人も、正当性や資格が取り上げられるべきだ。その際、適正原則は誰が権限を持つべきかということについては一切言及していない。むしろ、適正原則は、誰が権限を持つべきでないかということを示す原則なのだ(このことを、反-権限条項と呼ぼう)。

 私がここで拝借している素晴らしい研究を行ったジェイソン・ブレナン(Jason Brennan)は、適正原則は陪審員たちだけに適用されるのではなく、選挙権にも適用されるべきだと論じている。政府は、陪審員と同じように、人々の人生に重大な影響を与える。ブレナンが例に挙げているのは、悪質な金融政策を実行して景気後退を恐慌にまで悪化させる政府、または費用のかかる破壊的で非人道的な戦争をもたらすような決定をする政府である。

 選挙権を持つということは、ある程度の政治的権力(どんなに小さなものであったとしても)がそれぞれに市民に与えられるということだ。そして、その政治的権力は当人自身に対してだけ発揮されるのではなく、他の人に対しても発揮される。先に挙げた陪審員の例と同様に、有権者たちも、間違った理由に基づいて間違った結論を下す可能性がある。以下の三人の有権者について考えてみよう。

 

1:無知な有権者。その有権者は選挙に対して全く注意を払わず、投票を求められた時には、特定の立候補者や政党を恣意的に選んだ。

2:非合理的な有権者。その有権者は選挙に対して多少は注意を払ったが、選挙とは関係のない理由…希望的観測や、真偽が定かでない社会科学の様々な仮説など…に基づいて投票する候補者を決めた。

3:道徳的に不当な有権者。その有権者は、偏見に基づいて投票する候補者を決めた(その候補者が白人だから支持する、など)。

 

 私はブレナンに同意する。 彼らがこのように適正でない仕方で投票を行う限り、上記の三人の有権者たちは、私の人生に重大な影響を与える政府を選択することが認められるべきでない。ブレナンは以下のように書いている。「他の有権者たちを含めて、私に対して権力を発揮する人々は、それを適正で道徳的に正当な仕方で行うべきだ。そうでなければ、正義の問題として、彼らは政治的権力を持つことから除外されるべきであるし、投票する権利も持つべきではないのだ」(Brennan 2011, 704)。ブレナンは、選挙権を制限することによる選良政治(epistocracy)を擁護している。つまり、知識と適正がある人々による政治だ。事実、適正がないという理由で子どもたちは投票から除外されているという事実をふまえれば、現代の民主政治はある程度までは選良政治であるの(非常に弱い程度の選良政治ではあるが)。

 ここまでの議論では、普遍的選挙権は適正原則に違反するために不当である、ということが主張されてきた。しかし、選挙権の制限そのものは不当ではないのか?ある部分では、より選良政治的な投票システムが妥当であるかどうかは、どのような人物が適正に欠けるかということついて私たちがいかに判断するかということにかかってくる。これは、議論の出発点としても良さそうだ(ただし、その前に、可能な限り多くの人々が投票できる方が良いと私は考えている、とは言わせてもらおう…不適正さの問題は残るとはいえ)。

 適正原則を満たすための最も妥当な方法…すなわち、実際問題としてコストがかかり過ぎたり非現実的であったりしない方法…とは、運転免許試験に類似した、有権者試験である。ブレナンが提案する暫定案によると、一般的な社会科学に関する問題と選挙の立候補者に関する基礎的な知識が有権者試験で問われることになる。私自身が最も妥当だと考えているバージョンの有権者試験について、かなり大雑把にではあるが示してみよう。有権者になりたいと望む人々は、その選挙において行われている議論を自分が理解できていることや、どの立候補者がどの公約を主張しているかを答えることが可能である、ということを示さなければならない(試験の問題用紙には、各政党の公約の最低1バージョンが、適度な文字数の範囲内で書かれている。また、各選挙区それぞれの問題用紙には、選挙区ごとの立候補者たちの主張内容も含まれている)。本質的には、それは理解度確認テストとなるだろう。立候補に関する知識よりも社会科学的な知識を問うことの方が難しい問題となるだろう、と私は考えている。たとえば、立候補者たちの主張の妥当性を正確に判断することが有権者に可能であるかどうかを測定する方法を発案するのは、非常に難しいであろう(特に、社会科学や経済に関連した問題である場合には)。とはいえ、線引きをすること自体は可能であるように思われる…たとえば、移民はイギリスに経済的な利益をもたらすということは何度も何度も証明されてきた(参考文献欄にてリンクしている記事を参照せよ)。だが、多くの有権者たちは逆に考えている。このような場合には、ファクト・チェックを行う用紙が役に立つことだろう。この事例はメディアや表現に関する問題にも関わってくるが、そもそもそれらの問題自体が複雑なものだ。  

 では、このような試験に対する反論にはどのようなものがあるだろうか?ここが議論の出発点だ!適正原則の他にも、権力を分配するうえで要求されるかもしれない別の原則がある(この原則は、デビッド・エストランド(David Estlund)の著書『民主政治の権限(Democratic Authority)』にて示されている)。    

 

適切な受容可能性の原則(Qualified Acceptability Requirement):権力の分配を正当化する根拠は、いかなるものであっても、全ての適切な視点から受容できるものでなければならない。

 

 有権者試験のなかで、適切な受容可能性の原則を満たすことができるバージョンは存在するだろうか?まず、特定の人々が適正原則を満たせられないのは背景に存在する社会-経済的な不正義の結果である可能性がある、というもっともな理由で有権者試験に反論することはできるだろう。たとえば、貧しくて教育をあまり受けられなかったことや、選挙で問題となっていることを学習するには余暇が足りないために適正原則を満たせられない、などの可能性が考えられるということだ。この反論は、選挙権を持つ人は自分が属する社会グループの利益になるように投票するはずだ、という前提を必ずしも含んでいない。単に、社会-経済的不正義が理由となって特定のグループの市民が投票をできないことは不当であるかもしれない、ということだ。この反論に対しては、各総選挙の前には公休日を設けることで有権者が教育を受けるための時間を確保する、という提案を行うことができるだろう。また、選挙や政治について知識を得たいと望む人のために、夜間や週末に講義を開講することもできるかもしれない。別の反論は(先の反論と全く関連がないわけでもないのだが)、エストランドが人口統計的反論と呼ぶものだ。有権者試験によって選挙権を得られた人々の集団には、彼らの認識に問題を及ばせる性質…たとえば、特定のバイアスなど…が不均衡に存在しているかもしれないために、選挙権を制限することでもたらされる選良政治的な利益が相殺されてしまうかもしれない。第三の懸念は、有権者試験そのものが既存の政府が権力を維持するための道具として使われてしまう可能性だ。たとえそのリスクが僅かであるとしても、この懸念に基づいた反論は妥当であると認めることができるかもしれない。

 この記事の制限のために、上記の反論やそれらに対する再反論について、私の意見を詳しく述べることはできない。むしろ、私の目的は、議論の余地はないと多くの人が考えているであろう信念に対して異議を申し立てることにある(ジェイソン・ブレナンの驚くべき論文に感謝する)。結びとして、適正原則を満たすために…あるいは、少なくともブレナンが論じている不正義を相殺するために…選挙権を制限するよりも先に実行することのできる処置が存在するかもしれない、と示唆しておこう。たとえば、報道機関に対して疑問を呈することはできるだろうし、政治に関する我々の不適正さと無関心に対する報道機関の責任を問うこともできるだろう。

 

参考文献・リンク:

Jason Brennan (2011). ‘The Rights to a Competent Electorate’, The Philosophical Quarterly, 61/25, pp. 700-24.

David Estlund (2009). Democratic Authority (Princeton University Press).

British public wrong about nearly everything, survey shows | The Independent

UK gains £20bn from European migrants, UCL economists reveal | UK news | The Guardian

Too few voters understand immigrants’ role in UK recovery | UK news | The Guardian

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