道徳的動物日記

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「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について

 エルスターの「酸っぱい葡萄」については論文の方の感想は先日に記事にしたわけだが、オンラインで一部公開されている単著の方の「訳者あとがき」も参考になる。今回はこの「訳者あとがき」の方を読んでの雑感*1

 分析的マルクス主義者でもあるエルスターによる「バイアス」論、そして階級的地位・階級的利益のために形成されるバイアスである「イデオロギー」論を受けての訳者の議論を引用する。

 

…一九七九年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党が、労働者にとって有利とは思えない政策を掲げていたにもかかわらず、労働者階級の支持を得て政権に就いたことが重大な転機となった。このことは、抑圧された労働者の「階級意識」(=イデオロギー)が労働者自身のためのものとはならない可能性を示すものであり、それゆえ改めて階級意識がいかにして形成されるかの研究の必要性が生じた。

 …(略)…そしてこの論点は現代のわれわれにとっても重要な問題を提起している。二〇一六年は世界の民主主義にとって激動の年であった。この年の前半を通じて行われたアメリカ大統領選の各党の候補者選挙において、その過激な発言で多くの非難を呼んでいたドナルド・トランプ氏が、大方の予想に反して共和党候補としての指名を得ることとなった。そして秋には大統領に選ばれたことは周知の通りである。また少し戻って六月には、イギリスで行われたEUからの離脱をめぐる国民投票において、これまた大方の予想に反して離脱派が過半数を獲得した(いわゆるブレグジット)。これらの選挙における大きな衝撃の一つは、アメリカ・イギリスといった先進国における市民が、保守的かつ排外的な態度を是認したことであった。
 …(略)…このような事態に接して、われわれは(おそらくエルスターが八〇年代のヨーロッパにおいてそうしたように)次のように問わざるをえない。はたしてこの労働者たちは本当に、彼ら自身にとって最善の利益となる選択をなしたのだろうか? あるいはなさなかった(なせなかった)としたら、それはなぜなのか? 

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 アメリカでのトランプ当選やイギリスにおけるブレクジットについての議論は、日本でも散々になされた。
 また、国内に目を向ければ、大阪における「維新の会」への強烈な支持意識や最近ならNHKから国民を守る党の躍進、また安倍首相による長期政権が存続していることなどについて、有権者の「非合理性」が取り沙汰されることがある。
 つまり、有権者にとって利益を与えないことが明らかなように思われる投票行為をなぜ行ったり、自分たちに利益を与えないことが明らかであるような政党や政治家をなぜ支持するのか、ということについての議論だ。

 このような議論は、基本的には有権者の行動や意識を「非合理的」なものと見なしたうえで、ではなぜそのような非合理な行動をしたり非合理な意識が形成されるに至ったか、ということが分析されることになる。そして、多くの場合には「ポピュリズム」などの説明要因が持ち出されることになる。

 

 ところで、有権者の行動や意識をあえて「合理的」なものと論じることで、「非合理的」だと見なす議論に大して反論が行われることも多い。
 この場合の「合理的」が意味するところには、いくつかのバリエーションがある。

 

 まずは、ふつうの意味での「合理性」を主張する議論…つまり、有権者の行動は実のところは経済的・社会的に合理的な行動である、という議論だ。
 このような議論が行われる場合は、「トランプ当選(なりブレクジットなり維新支持なり)は、有権者に不利益を与えるものだ」という前提自体が崩される。「ヒラリーが当選していた方が労働者階級にとってはより経済的の困窮する羽目になっていたのであり、労働者階級はそれを理解して冷静に判断を下したのだ」といった議論がなされることになる。この場合は、有権者の行動を「非合理的」と解釈する側も「合理的」と解釈する側も、同じ土俵で物事を論じることになるのだ。そのため、「では実際にはトランプとヒラリーのどちらがより労働者に経済的利益を与えている政策を提案していたのか?」など、議論の焦点はデータの解釈の正確性についてなどに移行することになる。この場合は、どっちの主張が正しくてどっちの主張が誤っているかということは同一の尺度で測れることになるので、生産的な議論を行える余地がある。

 

 だが、有権者の行動や意識は経済的・社会的などの表面のレベルでは「不合理」であることを認めつつも、より深層的なレベルでは「合理的」である、とする主張が行われることもある。
 この場合は、有権者の心理や実存やアイデンティティに立ち入った解釈が行われたうえで、彼らの行動は合理的だと論じられることになる。
 また、近年の英語圏では生物学や進化論を持ち出して有権者の行動を分析する議論も流行しつつある。このブログでも、そのテの議論をいくつか訳して紹介してきた*2
 この場合、「合理性」は経済的利益などは別のステージにおいて解釈されることになる。たとえば、トランプに投票することは有権者にとって進化的適応に沿った行為である、ということが論じられるのだ。
 有権者の行動は経済的に「不合理」だとする主張に対して、このように別次元でとらえれば「合理的」だと主張することは、うまくいけば前者の蒙を啓いたり視野を広げたりすることになって、生産的な議論につながる可能性もあるだろう。しかし、実際には、有権者の行動を分析するうえで「経済的合理性」と「その他の合理性」のどちらがより重要か、どちらの指標がより優れているか、という不毛な立場争いのようになることも多い。

 その場合、議論は水掛け論に終始してしまうのがだいたいのオチだ。

 

 ところで、このように「合理性」の指標をめぐって争いが起きるのは、なにも有権者の投票行動に関する分析に限らない。
 企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。
 だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。
 こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。
 また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

 

 なにかについての「合理性」を考えるということは、それが経済的合理性や短期的な合理性であっても、捉えがたく難しいものだ。そして、実存的合理性なり進化的合理性なり、あるいは長期的な合理性というものは、さらに捉えがたくなる。
 自分が理解できないことや気にくわないことについて「非合理だ」とすぐに断定してしまうことはつつしむべきだが、自分が擁護したいと思っていることについて「合理的だ」と主張してしまうのも同じ穴のムジナなのだ。合理性について語るときも、もうすこしニュアンスに富んだ議論をしたいものである。

*1:ほんとうなら単著の方の『酸っぱい葡萄』も改めて借りて参照したいところなのだが、あいにく、現在の私が利用できる範囲にある図書館では『酸っぱい葡萄』や「双書現代倫理学」シリーズが所蔵されていない。こういう時には、大学に所属しておらず大学図書館が気軽に利用できないことのつらみを感じてしまう。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

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パターナリズムとしての「勤労の権利」

www.orangeitems.com

 

↑ 上記の記事でなされている主張を引用しよう。

 

 働かないというのは、社会から切り離されることに等しいと思います。社会で生きていたら誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになります。住居も保証され何でも買っていい、旅行も行き放題。学校に行くも良し。しかしきっと、世の中の役に立って社会から尊敬されたいという欲が満たされないに違いありません。

 

 この主張は、私が先日に書いた記事で引用した、小浜逸郎による「ベーシックインカムよりもジョブ・ギャランティー」論に相似したものだ*1

 

 …ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

 

 私から見ると、上記のブログ記事の著者と小浜氏は同じ問題を抱えている。

 それは、「自分は単純労働をする側ではない」「自分はJGPで仕事を与えられる側ではない」という自己認識を抱きながら、「単純労働をする側の人たち」という「他人」の人生や幸福について云々する、という傲慢さだ。

 そのため、先日の記事で書いた小浜氏に対するコメントも今回のブログ記事に対するコメントも、基本的には同じようなものになる。

 つまり、「社会から尊敬されたいという欲」が存在することは認めるとして、“現代の社会で行われている単純労働が、それに従事してる人たちの「社会から尊敬されたいという欲」を満たすものだと本気で思っているのか?”ということだ。

 

 もちろん、単純労働の種類やそれに従事している人の人柄によっては、単純労働を行うことで「社会から尊敬されたいという欲」が満たされることもあるかもしれない。
 しかし、大学院を卒業してから2年以上「TVゲームのデバッグのアルバイト」という単純労働を続けていた身から言わせてもらうと、私が単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせることはなかった。
 ついでに言うと、多少複雑な労働をしている現在になっても、「社会から尊敬されたいという欲」を労働を通じて満たせることはない。

 むしろ、利益や数字を追求することに伴う諸々の行為によって社会を毀損しているという感覚を抱くことがあるくらいだ。職場における空辣な人間関係も、働いていない時よりも「社会から切り離されている」という感覚を強化してしまう。
 私が「社会から尊敬されたいという欲」を満たせるのは、たとえばゆっくり集中できる時間を設けて読書や勉強を行ったり物事について考えて、その結果をこうやってアウトプットすることだ。そして、この作業は労働から解放された余暇の時間で行うしかない。

 つまり、もしベーシックインカムが実現して労働から解放されたとしたら、読書や勉強と執筆に集中できる時間がさらに増すことで、単純に考えれば、私は現在よりもさらに「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができる。

 一方で、たとえベーシックインカムが実現できる社会状況になっても、「誰かの役に立っていないときっと空虚な気持ちになるはずだ」とか「人間的自由の獲得の条件」とかを心配してくれる人々のお節介によりいまだに労働をしなければならない羽目になるとすれば、私は今まで通り労働の余暇にしか「社会から尊敬されたいという欲」を満たすことができないことになる。そんなの、大きなお世話と言うほかない。

 

 何も私が特殊というわけではない。デバッグのバイトをしていた時の同僚との会話などを思い出すと、彼らの多くも自分がいま従事している単純労働によって「社会から尊敬されたいという欲」を満たせているとは考えていなかったようだ。
 これも先日の記事で言及していることだが、アダム・スミスも指摘しているように、単純労働というものを続けることは人間の知力や精神力、気概を著しく奪うものである。
 そして、労働によって時間と気力が奪われることは、身近な家族や友人から広く「社会」まで、様々な「他者」との有意義で充実した関係を結ぶ機会も奪うことになるのだ。

 

 また、以下の引用部分にも、上記のブログの議論の歪さがあらわれているように思える。

 

お金持ちがツイッターYoutubeで、今日もアレコレやっているのは、あれも「働く」の一部です。結局は何らかのお金が彼らに還流していきます。

 

 

 たしかに、金銭や利益を目的としてYouTubeSNSで活動している人もいるだろう。

 一方で、そうでない人もいる。特にYouTubeで活動している人は、その大半は金銭や利益よりも「趣味」や「自己実現」を主な目的としているはずだ。
 そして、ベーシックインカムで余暇の時間が増えるということは、金持ちでない多くの人にも趣味や自己実現に費やせられる時間や気力がもたらされることである。SNSYouTubeでのアウトプットに成功している人たちは、金銭や利益を得ていないとしても「社会から尊敬されたいという欲」は満たせるだろうし、社会から切り離されてる感覚も抱かないことだろう。
 もちろん、趣味や自己実現の活動やアウトプットを行う場所をネットに限定する必要はない。街中の公共空間での活動を行い、それによって社会とつながることで充実感を抱ける人もいるだろう。
 つまり、もしベーシックインカムが実現可能な状況になれば、「勤労の権利」という概念を固持する必要はなくなるのだ。
 必要なのは「働く、という概念をもっと拡張していくこと。」ではない。生き方や人・社会との関係の結び方についての多様なあり方を認めることである。

 

 上記のブログ記事の問題点の一つは、著者が「働くこと」、もっと言えば「金を稼ぐこと」を重要視し過ぎており、そうでない生き方に対する想像力が足りないことにある(金を稼ぐことを重要視しているタイプの人でなければ、SNSYouTubeを「お金の還流」に直結させることはないはずだ)。

 

 もう一つの問題点は、これは小浜氏にも共通していることだが、一見すると「単純労働する側の人たち」に寄り添っているような風を装っているが、実際には彼らについて浅薄で単純な捉え方をしており、彼らの自律能力やケイパビリティについて過小評価していることにある。
 露悪的に言ってしまえば、「単純労働をして過ごしているような連中なんか、金を与えて時間的余裕が出ても、どうせロクな過ごし方をしないだろう。それならば、適当な仕事を与えて社会とつながる場を用意してやった方が、彼らのためになるというものだ」と考えているんじゃないか?ということだ。
 日本には昔から「小人閑居して不善をなす」という諺もあることだし、ベーシックインカムの副作用を危惧する必要性もたしかにあるかもしれない。しかし、そのような危惧自体が傲慢でパターナリスティックなものであることは、否定できない。

 せめて、寄り添う風を装うのではなく、自分のパターナリズムを堂々と認めたうえで議論を展開してくれた方がまだマシというものだ。

*1:小浜氏の記事:

38news.jp

私の記事:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:エルスターの「酸っぱい葡萄」

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 ↑ 上記の本に収録されているヤン・エルスターの「酸っぱい葡萄:功利主義と、欲求の源泉」を読んだのでメモを残す。実は以前にもエルスターの単著の方の『酸っぱい葡萄』を図書館で借りていた*1。だが、内容が難しくて途中の読むのを諦めてしまった。今回も途中から体調不良になったこともあって、ちゃんと理解できているかどうかは自信がない。でもまあせっかく読んだので備忘録的にメモを残すことにした。

 

・いちばん面白く思えたのは、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別をしているところ。これに関しては、訳者による単著の方の「あとがき」から引用する。

 

適応的選好形成とは、大まかに言えば、実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうことである。…(略)…

 適応的選好形成の最重要の特質は、そこにおいては「自律」と「厚生」が衝突するということにある。というのも、適応的な選好は、実行可能性によって非意図的な形で形成されたという点で非自律的な選好であるが、実行可能性に応じた選好を持つことによってその人が達成する厚生は高まっているからである。したがって、適応からの解放が生じた場合には、自律は高まるが厚生は下がってしまうかもしれない。このトレード・オフが重要なポイントである。
 エルスターは本書において、適応的選好形成と「計画的性格形成」との区別を重視する。計画的性格形成においても適応的選好形成と同様に、選択肢集合に応じた選好の変形が生じ、それによって厚生が上昇している。しかし計画的性格形成の場合には、その変形が自律的なものとみなされうるので、倫理学的に問題はない。

あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル

 

 

 論文のなかで、エルスターは計画的性格形成を「ストア派仏教徒、あるいはスピノザ派の哲学者」が擁護する「欲求の意図的な変形」としている(p.310)。なんでこれが面白く思えたかというと、私自身が最近はストア派に関する本をちらほら読んでいて、まさに自分自身の欲求を意図的に変形しようと思っているところだからだ*2ストア派を持ち出さなくても、計画的性格形成は生活の知恵として、多くの人々が意識的に行なっていることかもしれない。一方で、適応的選好形成も多かれ少なかれ多くの人々に生じていることだろう。適応的選好形成と計画的性格形成との区別をきちんと付けようとすることや、それと同時に「適応的選好形成と計画的性格形成との区別を付けることはなかなか難しい」と認識することは、たしかに重要であるように思われる。

 また、産業革命などによる社会の生産性が上がって人々の生活レベルが向上したことで人々が物事に対して抱く欲求も増えてしまい、むしろ生活レベルが上がる以前よりも欲求不満が増してしまったのだとすれば、人々の構成水準は上がったと言えるのか?…という、経済学や心理学でもよく注目される問題についても検討されている。

 

・この論文の議論のポイントは、功利主義理論は「正義の理論あるいは社会選択の理論」として適切であるのか?ということであり、適応的選好形成の問題をふまえると功利主義は「行動の指針であるべき」と「特定のケースにおいて我々の倫理的直感を大きく裏切るということがない」という二つの基準を満たしていないからダメ、という結論になる(p.325-326)。厳密に言うと、序数的な功利主義は前者の基準をもたさず、基数的な功利主義は後者の基準を満たさないということだ。*3

 そして、正義の理論や社会選択の理論には「後方視アプローチ」、すなわち「過去についての情報」を取得して「現実の選好の歴史を調べること」の重要性が強調される(p.331-332)。

 私としては、そもそも「行動の指針」と「直観」の両方を満たす社会的な規範理論がほんとうにあり得るのか、という疑問がある。このような批判に対する功利主義側からのよくある反論は「直観というものは育った社会の文化や進化的適応に影響されてしまうそもそも恣意的なものであり、規範理論の是非の判断に直感を持ち出すこと自体が間違っている」という、直観の重要性自体を否定してしまう論法だろう。しかし、そのような反論はエルスターも想定していて、「…私は正義の理論がどうしたらまるっきり直観抜きでやっていくことができるのかわからない」と返している(p.326)。このエルスターの返答もまっとうなものだろう。とはいえ、直観に適する社会的な規範理論は往々にして「行動の指針」としては曖昧で役に立たないものになってしまうことも否めない。

 個人的には、最近は「正義の理論あるいは社会選択の理論」としての倫理学理論よりも、より個人的な選択なり実存的な問題なりを考えるための理論としての倫理学理論に興味が移っているところだ。そして、「適応的選好形成」と「計画的性格形成」の区別の問題や欲求不満の問題は、ミクロな倫理学理論においても色々と重要になってきそうなところだ。たとえば、職場における昇進と欲求不満の関係に関する以下の一文なんかはある種の人々の図星を付いているかもしれない。

…欲求不満が生じるのは、昇進が十分にありふれていて、そして十分に普遍的な根拠をもって決定され、したがって適応的選好からの解放と私が呼ぶところのものが起こる時である…

(p.312)

 

「酸っぱい葡萄」における議論を個人単位の倫理に活かすとすれば、たとえば「このことを欲求することは自分を不幸にするだけだから、このことに対する欲求は捨てよう」と自分が下した判断が、ほんとうに自律的・積極的に下した判断なのか、それとも環境や状況的な要因からしぶしぶ下した判断なのか、という点の区別を意識する習慣を身に付けるようにする、などになるだろうか。

*1:

 

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

酸っぱい葡萄: 合理性の転覆について (双書現代倫理学)

 

 

*2:

読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』 - 道徳的動物日記 や

ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』) - 道徳的動物日記 など。

*3:序数と基数については以下の通り。

効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを実数値として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を数値として表すことは出来ないが順序付けは可能であるとする

効用 - Wikipedia

読書メモ:『AI時代の労働の哲学』

 

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

AI時代の労働の哲学 (講談社選書メチエ)

 

 

 人工知能と労働の哲学、といえば「人工知能が発達してシンギュラリティを起こして人間を凌駕する存在になる」ことを前提として、そこから「社会の生産性がすごくなるので人間は働かなくて良くなりみんなが好きなことをして生きていけるようになる」的な楽観論か「仕事を人工知能に代替されることない一握りのエリート階層の人間と、仕事を奪われて失業してしまう大多数の底辺階層の人間とに分かれてしまう」的な悲観論のどっちかを唱える、というのがありがちだ。流行りのベーシックインカムなんかも、前者の場合には人間が好きなことをして生きていけるのを保証するというポジティブなイメージで描かれるが、後者の場合は底辺階層の人間たちが最低限の生活を過ごせるようにするためにお情けで与えられるものというネガティブなイメージで描かれてしまう。

 しかし、この本ではシンギュラリティがどうこうとか「人間による労働が消滅する」みたいな大風呂敷は広げられない。あくまでこれまでの社会の中で起こってきた技術革新や機械化の延長にあるものとしてAIの発展を捉えて、スミスやマルクスやロックやリカードなどの経済学の古典を紐解きながら「労働」や「雇用」や「資本」や「疎外」といった基本的な単語が何を意味するのかということについて地道に再確認しつつ、これまでに起こってきた機械化とこれから起こるAI化の共通点と相違点を考えていく…という、地に足の着いた論じ方がなされている。

 とはいえ、本の後半では人工知能の発展がもたらす「人/物」の二分法の解体や倫理観の変化、これまでに以上に経済活動の高次な側面に参入するようになった人工知能がもはや「人間」として我々の前にたちあらわれる…といったSF的な部分もある未来予想図も展開されている。

 

「労働の哲学」の本ではあるが、前半は概念整理の思想史、後半は抽象的な未来予想図がメインであり、たとえば『働くことの哲学』のように一般的な労働者が自分の経験と照らし合わせながら実感を持って読めるようなタイプの本ではないし、未来予想図についても豊富な具体例を示してくれる『大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』のようにわかりやすくはない。たとえば、私自身としては最近は特に「疎外」概念に関心を持っているのだが、この本の第4章「機械、AIと疎外」で展開されている疎外や「物神性」「物象化」などに関する議論は、思想史的な概念整理としての正確性はともかく、納得感みたいなものはほとんど抱けなかった。

 

 ところで、この147〜149ページでは、カント主義や功利主義が実体的な「人間」概念を取りこぼしたことに対する20世紀終盤におけるアリストテレス的な徳倫理の復活、それの副作用としての「あからさまに人間を序列付ける発想の密輸入」(p.148)が指摘されている。たしかに、近年の英語圏倫理学・哲学や、哲学的知見をふまえたタイプの心理学や社会学の本なんかを読んでいると、古代哲学的な「徳」概念が注目されていることはありありと見て取れる。…一方で、日本では、普段の会話とかネットとかにあらわれる一般の人々の意見を見てみると「徳」概念に関する意識なんて全くなくて、「AIで生産性が上昇してその成果が再分配されてみんなが働かずにラクに生きていけるならそれがベストだ」的な、世俗的な意味での「功利主義」的人間観にとどまっている人が大半であるように思われる*1

「人間でありさえすればいい」とする「人/物」の二分法に、「人間というためにはこうであらなければならない/こうであれば人間である」という条件がもたらされることで、人でない物に人間性が付与される一方で条件を満たさない人の人間性が剥奪されていく、というのがこの本で危惧されている未来図である。しかし、ヤケクソで投げやり的に自ら「人間」であることを捨て去って、「俺は物でいいや」と諦念して満足してしまう人たちも一定層はいそうなところである、と思った。

「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いについて

gendai.ismedia.jp

 

 ↑ この記事についたブクマなどの反応を見ての雑感。

 

 記事に対する賛否は半々であり、記事で指摘されているニワトリの劣悪な飼育状況に対する懸念を表明する声や改善を求める声もある一方で、記事の著者がアニマルライツセンターの代表であることから、記事自体の信ぴょう性を疑う声があるようだ。
 しかし、私には、「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という物言いは、かなり奇妙で不合理なもののように思える。

 

 アニマルライツセンターは畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の改善や撤廃を求めて運動する団体である。そのことから「畜産業を批判する団体だから、畜産業の問題点をことさらに強調するために、特殊な事例を一般的な事例であるかのようにして針小棒大に騒ぎ立てるなど、印象操作や偏向が存在しているはずだ」という風な推測がはたらいているのかもしれない。
 だが、記事で指摘されているニワトリの飼育制度の問題点は、国内・国外問わず動物の福祉に関心がある人たちの間では以前から指摘され続けてきたことだ。おそらく、特殊事例を一般化して紹介しているわけではないだろう。


 そして、私が気になるのは「アニマルライツセンターの言うことだから信用できない」という反応をしている人たちは、では“誰”の言うことなら信用するのか、ということである。

 

 もしかしたら、「畜産業の内部にいる人の言うことなら信用できる」とでも思っているのかもしれない。
 だが、私から言わせれば、畜産業の内部にいる人からの主張の方が「ごくまれな、動物の福祉に配慮されている良質な飼育状況の事例」を「一般的な事例」であるかのように印象操作される恐れが高い。
 畜産業の内部にいる人としては動物の福祉よりも業界の利益を優先することに経済合理性があり、飼育制度への規制や消費者からの悪影響を避けるインセンティブがあるからだ。
 畜産業に限らない一般論として、ある業界における何らかの制度の問題点が注目されたときには、その業界の当事者の言うことばかりを真に受けるのは賢明な行為ではない。業界の内部にいるということは、要するに利益や生活のためにその業界を擁護するという動機が存在するということだ。業界の内部にいる人は、その業界の事情に関する経験や知識は外部の人よりもあるだろうが、その人の言っていることが正確であるという保証はないのだ(意図的な印象操作ばかりでなく、認知的不協和のために業界の問題点を理解することができなくなっている、という場合も多々あるだろう)。

 その業界の内部で被害を受けてきた人たちや義憤にかられた人たちによる「内部告発」の場合には、その業界全体の利益に逆らう動機が生じるから、話はまた別だ。
 だが、言うまでもなく、畜産場に閉じ込められた動物たちには内部告発を行うことは不可能だ。
 だとすれば、動物たちの置かれている状況の問題点を誰が指摘するのか?

 業界の外にいて、業界の監視・改善(・廃止)を目的とする、アニマルライツセンターのような団体に代表されるような社会運動家たちしかいないだろう。
(もちろん、研究者やジャーナリスト、普通の個人などが業界の問題について調査を行って問題点を発表する、ということもある。しかし、調査することにも発表することにも、時間や金銭などのコスト、また精神的な負担がかかるものだ。継続的な調査と発表は、やはり、団体でなければ行えないものだろう。)

 

 特に日本では社会運動団体というものは不審がられて軽視されがちであり、また、業界やその内部にいる人たちの発表は鵜呑みにする傾向があるように思われる。だが、それは、浅薄な現場主義としか言えない。

 とはいえ、たとえばステマだったりブラック労働の問題だったりであれば、多くの人が業界を批判している。

 

 動物の問題に限って「アニマルライツセンターの言うことだから信じない」的な反応が目立つようになるのは、やはり、認知的不協和が原因だろう。つまり、自分が消費している食物が生産される現場がこれほどまでにひどいということを直視したくない、また直視してしまった結果として生じた罪悪感を解消したいために、「問題点を指摘する側に何らかの問題があるから、この問題は直視しなくてよい」という風に自分を納得させる心理が働いているのだと思われる。
 こういう人たちにもメッセージが届くように「伝え方を変える」なり「イメージを良くする」なりも、社会運動団体に求められることではあるかもしれない。
 だが、それはそれとして、彼らの主張がかなり不合理であることをこうやって指摘しておくことも必要であるだろう。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

キムリッカによる動物の権利論(読書メモ:『人と動物の政治共同体 - 「動物の権利」の政治理論』)

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 この本は院生時代に原著を読んでおり、邦訳が出版されたときにもその感想を数年前にこのブログで書いているが、その時の感想はすこし辛口なものになってしまっていた。改めて再読したことを契機に、今回はより好意的な感想を書くことにする*1

 

・この本を再読した直接のきっかけは、著者の片割れであるウィル・キムリッカが執筆した『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』を読んだことである*2。キムリッカはリベラリズムの社会において多文化主義を実行する方法について長年考えてきた理論家として名高い。また、『多文化主義のゆくえ』を読んだところ、理論だけでなく実際の政治や政策にも関わっているようだ。多文化主義には、リベラリズムを内側から蝕む病原菌だとか近代的な人権意識を破壊する爆薬だとかいう汚名が着せられることも稀ではない。近年では特にヨーロッパにおけるイスラム系の移民との関係で、多文化主義に対する反動的な理論が盛ん担っているようだ。しかし、キムリッカは、それらの危惧の多くは非現実的な想定に基づいた極端なものであり、リベラリズムの理論も多文化主義の理論も正確に把握していない藁人形論法である、ということを淡々と示すのである。

 …と、多文化主義を擁護するキムリッカではあるが、『多文化主義のゆくえ』やその前著の『土着語の政治』を読んでみると、予想以上にキムリッカは多文化主義に対する制限を加えていることもわかる。つまり、多文化主義といえどもあくまで前提には「人権」や「自由主義」や「民主主義」という近代的な規範が存在しているのであり、マイノリティ文化が認められるのも人権やリベラリズムの制約の範囲内だ。文化的コミュニティという単位に対してある種の自治権や政治の場において代表される権利などは認められたりするのだが、その文化コミュニティ内における個人の人権を侵害したり自由を抑圧することは、いくら「文化」という言い訳を並べても許されない。多文化主義は、文化相対主義とは程遠いのである。

 そして、人間の権利が多文化主義を制約するという構造は、そのまま、動物の権利が多文化主義を制約するという構造につながる。このブログではこれまでにもキムリッカとドナルドソンによる「多文化主義と動物の権利についての議論」や「先住民の権利と動物の権利についての議論」を紹介してきた。これらの議論においても、マイノリティの文化や先住民の文化は基本的には尊重されるべきであるとされているが、それでも人間の権利を侵害することが許されないのと同様に、動物の権利を侵害することは許されないとされているのである。

多文化主義のゆくえ』では動物の権利に関する話題が触れられることはほぼ無いが、理論の根本に権利主義やリベラリズムがあるという点は『多文化主義のゆくえ』でも『人と動物の政治共同体』でも一貫しているのだ。そういうことに気付いた次第である。

 

・『人と動物の政治共同体』を貫く問題意識は、ピーター・シンガーに代表されるような功利主義にせよトム・レーガンやゲイリー・フランシオーンに代表されるような権利論にせよ、これまでの動物倫理のアプローチでは人間社会で行われている家畜や実験動物などに対する大規模な虐待や搾取と、そのような不正義な状況からの動物たちを解放するために現状で人間が動物たちに行なっている諸々の行為を「禁止」するという、ネガティブで消極的な考え方ばかりが展開されていたということである。

 つまり、功利主義や権利論のアプローチでは我々の身近に存在するペット動物や街中の野生動物に対してどう接してどのような形の関係を築けばいいのか、ということに対して満足のいく回答が得られることが少ないし、そもそも既存の理論ではそのような問題は関心の外に置かれがちだったのである。家畜や実験動物の置かれている状況の不正さに比べるとペットや街中の野生動物の問題は緊急性が低い、という問題意識もあったのだろう。

 そのため、「人間のせいで不正義な状態に置かれている動物たちは解放するべきであるが、それ以上は積極的な介入をするべきではない」とか「ペット動物という制度も動物を人間に従属させるという点では根本的に不正義であり、ゆくゆくは無くすべきである」などという、何かを禁止することばかりな結論になりがちだったとされているのである。

 著者ら(ドナルドソンとキムリッカ)はこの状況を問題視して、より「積極的」な規範を提唱しようとする。つまり、家畜やペット動物に対して私たちはどんな対応をする義務があってどのように適切な関係を築いてくべきか、ということや、自然の中の野生動物たちと街中の野生動物たちと人間社会との関係はどのようにあるべきか、ということだ。そして、ペットや家畜に対しては「市民権(シティズンシップ)」認めて野生動物には「主権」や「デニズンシップ」を認めるというアプローチによって、著者らは「積極的な規範」に形を与えようとする。

 

 

・第二章では「動物の道徳的地位」について論じられてはいるが、動物の「権利」や「人格」が何を意味するのかということについて、倫理学的に詰めることはあまりされていない。
 倫理学において動物の道徳的地位を扱うとなると、「そもそもなぜ動物(や人間)には道徳的地位が認められるのか」というところから話を始めなければならないし、それに関連して、境界事例の人間との比較や動物の種ごとの認知能力による配慮の必要性の多寡の比較衡量など、人によっては拒否感も抱くような厳しい話題に触れる必要がどうしても出てくる。
 しかし、著者らは「そもそも論」にはあまり触れずに、動物の道徳的地位とそれに伴う政治的権利をさっくりと認めてしまう。
ここは倫理学と政治哲学の違いといえるかもしれない。つまり、政治哲学においても基本的人権の話がされることはあるとはいえ、政治的権利や民主主義やより具体的なテーマについて話をするときに毎回毎回「そもそもなぜ人間には権利が認められるのか…」というところから話を始めていたら本題にたどり着くまで時間がかかり過ぎるというところだ。
 また、「現在の社会の状況や歴史的経緯から、わざわざ証明するまでもなく、基本的人権やシティズンシップの必要性は認められている」という風な手付きで話を始める傾向も政治哲学にはあるようだ。そして、この本でも、そういう政治哲学の作法を著者らは引き継いでいるといえる。
 ここら辺は私としては物足りないところだが、まあ良し悪しかもしれない。

 

・動物の道徳的地位について理論的に詰めたり、具体的にどのような道徳的配慮が必要かということについて科学的知見を用いて分析される代わりに、自然やペットの観察に基づいた文章や動物と人間との触れ合いに関するエピソードを中心とした、ある意味では情緒的な議論がなされている。
 これも良し悪しだろう。改めて読み返して思ったのは、情緒的なエピソードには理論にはないエピソード特有の説得力というものが備わっていることは確かだ。
 また、シンガーの『動物の解放』にせよフランシオーンの『動物の権利入門』にせよ、現在の社会で動物が置かれている悲惨な状態を書き連ねられると読み物としての魅力が減り、その本を再読しながらじっくり考える気が起きなくなる、という点は確かにある。
 人間と動物との関係について理論的にばっかりではなく質的なエピソードに基づいて考えたい、という需要は多くの読者にあるだろう。そして、質的なエピソードに基づいた議論は人類学なりポストモダン哲学の本ですでに展開されている。しかし、それらの本ではそもそも動物の道徳的地位や動物に対する社会正義が認められていない(むしろ、積極的に否定されている)ことが多いので、動物を思考の題材としながらも、動物たちにどう接するべきかという規範は論じられないことが多い。
 そういう点では、著者らの目論見通り、「積極的」で「ポジティブ」な動物倫理の議論を描くことに成功しているといえる。
 この成功の理由の一つは、著者ら自身が犬を飼っている「動物好き」であり、自分たちがペットを飼ってきた経験が問題意識の出発点になっているからだと察せられる。逆に、シンガーらの議論にポジティブさや面白みが欠けるのは、彼の問題意識の出発点は左派的な社会正義にあるからなのだろう。

 

・この本のキモの一つは、障害者や子どもの政治参加やシティズンシップについて蓄積されてきた議論を動物の権利に関する議論に応用しているところだ。
 実際、「一般的な成人が持つほどの意思伝達能力や規範を遵守する能力があるわけではないが、全くないわけでもなく一定程度の能力は存在する」という点では、たしかに動物の立場は障害者や子どもの立場と相似している。
 そして、アメリカや日本などの先進国では公衆衛生や安全性などの理由によって社会の様々な場から動物の存在が排除されがちであるが、障害者や子どもの排除が差別であり不正であるのと同じ理由で、これも差別や不正とされることになる。
 たとえば日本では「飲食店は動物を店内で飼うべきではない」「野良猫は不潔で迷惑だから排除したい」という主張には正当性があるように思えて批判しづらいが、動物のシティズンシップという概念を導入することで、このような主張を批判することが可能になるのだ。
 動物が公共空間に溶け込んでいるヨーロッパの事例の紹介や、動物が排除されている場にあえて動物をあらわせさせる「市民的不服従」的な事例の紹介は、まさに障害者運動とオーバーラップしていてなかなか興味深い。また、障害学や社会学の知見などを参照しながら、動物の「主体性」を認めないことや動物が劣って依存的だと見なすことの心理的・社会的な悪影響も論じられている。
 そして、「市民」であるペットや家畜動物たちにも社会のルールを理解して従うことが求められる(もちろん人間ほどではないが)、というのも面白いところだ。
 実際に動物たちが様々な規範(動物の群れ内における規範と、人間や他の動物たちと共存するコミュニティ内における規範の両方)を理解するという実例も示されている。日本ではまだ馴染みの薄いファーム・サンクチュアリなどの場における活き活きとした動物の行動に関する、未邦訳の文献も多く引用されている。動物行動学の読み物として楽しめる側面もあると言えるだろう。

 

・「動物倫理といえば功利主義パーソン論」というイメージは強く、「動物倫理は動物への道徳的配慮を能力でランク付けして、私たちと動物の間にある複雑な関係を考慮しない空理空論だ」という批判は未だに根強い。しかし、『人と動物の政治共同体』では、動物と人間との多様な関係性について様々な実例を示さながら考察される一方で、そのような豊かな関係を築いて保つためには動物に対する正義と権利の概念が不可欠であることを論証してくれる。「人と動物の豊かな関係」的なテーマについての議論の多くが動物に対する義務や規範をおざなりにして人間にとっての「いいとこ取り」に終始していることをふまえても、この本は広く読まれるべきだろう。

*1:この本の著者はスー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの二人であり、いくらキムリッカの方が有名だからといって「キムリッカの本」と表記することは、本来は間違っている。「ドナルドソンとキムリッカの本」と表記するべきである。しかし、今回のこの記事ではキムリッカの単著である『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』などに触れたうえで『人と動物の政治共同体』の感想を書くことになるので、記事のタイトルにはあえてキムリッカの名前のみを表記することにした

*2: 

多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘(サピエンティア)
 

 

「負の性欲」論についての雑感

gendai.ismedia.jp

 

↑ この記事に関する雑感。

 

・この記事では「負の性欲」という概念がさも画期的な発明であるかのように大げさな言葉で説明されているが、実のところ「負の性欲」が指し示す現象はこれまでにも俗流の男女論や恋愛心理学で散々言われてきたものだ。
 つまり、「男は加点方式、女は減点方式」というアレだ。この言葉でググれば俗流の男女論や恋愛アドバイスを提示しているWEBページがいくらでも見つかるし、上記の記事と同じように進化論を持ち出してこの理論を補強しようと試みるページもいくらかある。
 そして、一般論やステレオタイプが往々にしてそうであるように、大方の男女の行動や価値評価については「男は加点方式、女は減点方式」は当てはまる部分があるかもしれない。さらに、それらの行動や価値観の背景には進化的な影響もある程度は存在するだろう。
 しかし、当然のことながら、すべての男女にこのステレオタイプが当てはまるわけではない。個々人の恋愛における価値評価や行動は実際にはもっと多様でニュアンスに富んだものだろう。一般論はあくまで一般論に過ぎないのだ。
 とはいえ、「男は加点方式、女は減点方式」という一般論は、例えばモテようと思っていたり好きな女性がいたりする男性にとって実践的に役に立つという面はある。要するに、「女性は些細な点で男性に対する好意を失ったり恋愛の対象にしなくなったりするという傾向があるらしいから、女性や気になる人の前で粗相をしないように気を付けよう」という風に、具体的な行動のアドバイスに結び付けることができるのだ。
 ある男性が「粗相をしないように気を付けよう」と決心するぶんには誰にも迷惑をかけることがないし、それが実際に恋愛の成功だったり良好な男女関係に結び付くのだとしたら、男女双方にとって好ましいことだと言えるだろう。

 だが、同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
 むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
 このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

 ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
 しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 ネットが登場する前から雑誌やラジオの場などで無責任な男性文化人や男性芸能人による「男女論」や「恋愛相談」があったことは事実であり、その多くはステレオタイプミソジニーに基づいたものであったことも確かである。
 しかし、文化人や芸能人による男女論や恋愛相談は本人たちの実際の人生経験や恋愛経験に基づいたものであり、すくなくとも実践的で生産的なものではある。影響を受けるにしても、ネット知識人による机上の空論よりかは、実際の経験に基づいたものの方がマシだろう。

 

・「負の性欲」論には進化論的暴露論証につきものの問題点も備わっている。

 つまり、適用可能な範囲が広すぎるうえに反証可能性がないということだ。

「負の性欲」論にかかれば、女性による男性の言動に対する批判は、それがどんなにもっともなものであるとしても「それは負の性欲に過ぎない」と言って切り捨ててしまうことができる。それに対して女性が反論してもまた「それも負の性欲に過ぎない」と、無限に言うことができるだろう。
 しかし、当然のことながら、女性が男性の言動を批判する時には、ほとんどの場合は「拒否権の行使」や「キモい」という感情の言い換え以上の動機や論理があるはずだ。たとえば、「10代や20代の女性と結婚したい」と言い放つ40代男性に対する批判は、個々の女性が持つ人格を考慮せずに年齢のみで人を判断しようとすることの非倫理性に対する批判で有り得るのだし、決して「キモい」という感情の言い換えだけではない。

 実質的には、「負の性欲」論は女性による性被害の告発や恋愛・婚姻の自由を求める主張などを、すべて封殺してしまうことになるのだ。
 反証可能性がない議論という点では、社会構築主義的なジェンダー論による「男性の特権」や「有害な男らしさ」などの概念を用いた男性非難と変わらない。非難の対象が男性から女性になり、用いる理論が社会構築論から進化論になっただけで、鏡合わせのようなものだ。

 

・相手に対して「拒否権を行使」することが、女性からの男性に対する(性欲に基づいた)行為として限定されている点も気になるところである。
 というのも、多くの場合において、女性から「拒否権を行使」される男性は、同性からも「拒否権を行使」されているからである。

 

 単に「キモい」とだけ言って切り捨てる行為の大半は正当化できるものではなく、各種の外見的特徴や身体・精神・発達の障害や病気を持った人に対する差別につながるものであり、加害行為であることは認めたとしよう。
 しかし、「拒否権を行使」することの内実は、実際にはもっと多様なものなのだ。

 

 たとえば、身だしなみを整えず服装にも無頓着な人は、異性からだけでなく同性からも「拒否権を行使」されてしまうことがある。
 また、音を立てながら咀嚼するなど食事のマナーがなっていない人、他人の話を聞かずに割って入って自分の話ばかりをしたがる人、相手が言葉の裏に込めたニュアンスや感情を読み取ろうとせず言葉通りの解釈だけをしようとする人……などなどな人は、異性から拒否されてモテないだけでなく、同性から拒否されて友達もいなくなるリスクも抱えているだろう。
 なぜかというと、人と会う前に身だしなみを整えないことや、食事や会話の場におけるマナーを守ることを怠るということは、自分の目の前にいる相手に敬意を払って尊重するという行いを欠くことであるからだ。他人のことをナメた、自己中心的な人間であると言うこともできる。
 相手に対して礼を示して相手を尊重するという努力を行うことは、モテや恋愛にも必須とされるだけでなく、人間関係において当たり前に要請されることだ。
「拒否権を行使された」ことを加害だと騒ぐ前に、自分が他人に対して礼を失するという「加害」を行っていないかどうか、振り返ってみるのも大事だろう。

 

 そして、拒否権は礼を欠いた人にだけでなく、倫理を欠いた人にも行使されることがある。
 ある人が非倫理的な言葉を放ったり非倫理的な行為をした場合には、その人は該当の言葉や行為について批判されることがあるだろう。だが、批判をしてもらえるだけ、まだ甘いといえる。多くの場合では、相手のことを非倫理的な人間だと判断した人はその相手に対して嫌悪を抱き、何も言わずにその相手との関係やコミュニケーションを断ちたくなるものだからだ。
 たとえば、私は上述の記事の著者について、倫理的な理由から強い拒否感を抱いており「拒否権を行使」したいと思っている。自分の金儲けや承認欲求のために空理空論を弄んで社会の分断を促す、非倫理的な行為を行っている人間だと判断しているからだ。
 言うまでもなく、私がこの著者に対して「拒否権を行使」したところで、それは私の性欲とは関係がない。
 そして、女性のなかにも、私と同じようにこの著者のことを非倫理的な人間だと判断して、倫理的な理由から「拒否権を行使」したいと思う人はいるだろう。
 だが、「負の性欲」論にかかれば倫理的な理由からの拒否権の行使も性欲に回収されてしまう……すくなくとも、「負の性欲」に由来する拒否権の行使とそうでない理由による拒否権の行使とを区別する手立ては、まったく用意されていないように思われる。
 やはり、このようなデタラメでご都合主義的な理論は相手にする価値も無い、と言うしかないだろう。