道徳的動物日記

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ファストフードとゲームは依存を悪化させて健康と時間を奪う(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑥)

 

 

啓蒙思想2.0』の主なテーマは「非合理化する政治」であるが、現代社会では、政治に限らずわたしたちの「生活」全般が、非合理なものとなっている。

 

 これまでの記事でも述べてきた通り、わたしたちには様々な非合理的なバイアスや心理的な傾向と衝動が備わっていることを前提としたうえで、それらのバイアスや衝動が原因で起きる可能性のある問題を事前に回避してわたしたちの生活の質を向上させるためにこそ、「文明」が存在する。人間そのものは非合理であるかもしれないが、様々な制度や取り決まりのおかげで、長期的な観点からみて自分にとって得になる合理的な選択へと促されるように、わたしたちが生活する環境が整えられているのだ。

 通常、生物にとって「環境」とはどうしようもないものであり、生存と繁殖を左右するプレッシャーを一方的に与えてくるものだ。しかし、人間は、まず集団的に環境をコントロールすることで、個人にとって環境を友好的なものへと改造する力を持つのである。

 しかし、資本主義的な消費社会では、もはや環境はわたしたちにとって友好的なものであるとは限らない。むしろ、文明は、ある点では自然状態よりもさらに個人にとって敵対的な環境を生み出してしまう。

 

現代社会の不自然な特徴の多くはーー私たちの自然な問題解決ヒューリスティックを混乱させ、まずい決定へと導く特徴はーーまさにそれが私たちを誤った方向へ進ませる傾向のために開発され、普及してきている。ここから生じる認知の失敗は、偶然の産物ではなく主目的なのだ。

(p.195)

 

 ヒースが具体例としてあげるのは、「洗濯洗剤」のキャップだ。洗剤のキャップは、一回の洗濯に必要なぶんよりもずっと多くの洗剤が入るようになっており、適量を示す目盛りはわざと見づらくされて、さらに液体の量に関する錯覚を起こさせるために幅を伸ばして高さを低くした形状に作られている。これにより、洗濯をするときには、よっぽど注意深い人でないと、ほぼ必然的に必要以上の量の洗剤を投入してしまうことになるのだ。ではなぜ洗剤を作る会社が消費者に対してそんな仕打ちをしてくるかというと、もちろん、洗剤の消費量を増やして利益を稼ぐためである。

 ……これはアメリカやカナダの話であり、もしかしたら日本の洗剤のキャップはそんな悪意のある設計にはなっていないかもしれない。しかし、どこぞのコンビニの弁当とか、どこぞのコンビニのサンドイッチとか、どこぞのお菓子とか、実際よりも多くの量が入っているかのようにわたしたちを「錯覚」させることを意図して開発されている商品は日本にもごまんとある。

 ヒースは、このような商品は「人を愚かにするという課題に絶妙に適合した人工物」であるとして、ディセプラー(欺くもの)と表現している。

 

こうしたディセプターのすべてに共通するのは、直感的な問題解決ヒューリスティックを失敗させることだが、そのことは本来の目的から外れてはいない。これらはまさしく意思決定力を損なう手だてだからこそ成功したデザインとなっている。

(p.197 - 198)

 

 現代社会では、環境の「逆適応」が人為的に引き起こされているともいえる。

 

 

(アンディ・)クラークはこのように、私たちの性質や行動習性に反応して周囲のものが進化する過程を表現するのに、逆適応という言葉を使っている。私たちが自己複製するために環境の要素に依存しているのと同様に、環境の要素のなかには自己複製するために私たちに依存しているものもある。このように、いつしか環境に対処するように体と脳が適応するのみならず、環境のほうでも人間に対処するよう、さまざまにーー全体としても細かな面でもーー適応しているのだ。この種の逆適応は人間のためになるものもあるが、そうでないものが多い。

(p.200)

 

 自然界で起こる逆適応の代表的な例は、「人間に食べられやすくなるために、果実がどんどん甘く、無毒で、色鮮やかになっていく」というものだ。そうしなければ、他の果実との競争に負けて、人間に食べられなくなって種を撒くことができなくなってしまうからだ。

 人間の文化のなかでは、言語や物語や歌などにも逆適応がはたらいている。ある言語は他の言語に比べて使用されやすくなるように、ある物語は他の物語に比べて記憶されて語られやすくなるように、人間の性質にあわせて「進化」する。果実のあいだで競争がはたらいているのと同じように、言語や物語や歌のあいだでも競争がはたらいてきた。そして、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンも、他の料理との競争のなかでわたしたちの普遍的な味覚を適切に刺激するように「進化」してきたからこそ、生き延びてきた。ファストフードやチェーン店の食事は逆適応の産物であるのだ。

 Twitterの「バズるレシピ」ではごま油やチーズやめんつゆが過剰に使われがちであり、ほかの食材を使った繊細な味付けの料理はなかなかバズらないのも、Twitterのレシピがバズるかどうかはまさに「競争」の産物であるからだろう。ネット民は「サイゼリアが成功した理由」をあれこれと語りたがるが、「安くて味が濃い料理は、競争で有利になる」という大前提を忘れてはならない。

 

だから周囲の世界を、特に構築された環境の諸要素を見るとき、もとからこうなのだと、私たちの生活の背景にすぎないと思ってはならない。それは逆に私たちに合わせて絶えず変化し適応している。このことは重要な問題を提起する。文化のなかで作動する逆適応の過程は、人間の意思決定の質にとって、より有益な環境か、より有害な環境か、どちらを生み出しそうであろうか?

(p.203)

 

 現代社会の問題のひとつは、大量の「依存性物質」に対処しなければならないことだ。歴史上、たいていの社会は、対処する必要のある依存性物質はひとつかふたつであった(ヨーロッパにはタバコがなく、アメリカ大陸にはアルコールがなくて、アジアの人は主にアヘンを吸っていた)。しかし、近代以降の国際貿易によって、どこの国でもタバコとアルコールの両方(とアヘンやコカインなどの麻薬)がお店に並ぶようになった。技術の発展は、メタンフェタミンを用いた覚醒剤アルカロイドを用いたオピオイド鎮痛剤などの新たな依存物質を量産することを可能にした。

 食べ物やギャンブルも、わたしたちを「依存」へと向かわせるように進化している。スナック菓子は、その味付けだけでなく形状までもが、ひとくち食べたときの辛味や甘味などの刺激を最大化する代わりに後味を味気なくすることで「もっと食べたい」と思わせることを目的として創造されている。そして、コンビニやスーパーでレジの前にミニサイズのお菓子が並べられていることも、ほんとうは欲しくもないものに対してつい「買ってもいいかな」とわたしたちの思わせるための環境的な戦略だ。

 ギャンブルでも、パチンコやスロットマシンを見ればわかるように、ギャンブラーの射幸心を煽るためにありとあらゆるテクノロジーが費やされている。さらに、カジノやパチンコ店では、照明や音楽や絨毯を工夫して、無料の飲食物を提供して、窓や時計を店内に置かないことで、環境そのものが「ギャンブルを止める」という選択を妨害するように設計されている。

 インターネットで表示される広告には性的な画像や生理的不快感を催す画像、下品な文字列や低俗なストーリーが溢れているが、それだって、そういう広告のほうがそうでない広告よりクリックされてきたという「自然淘汰」の産物である。また、電子メールやFacebookのメッセージ機能には中毒性があることは以前から指摘されてきたのであり、携帯電話でネットが使えるようになってから人々のメッセージ依存はさらに悪化した。Twitterのプラットフォームはメッセージ依存を最大化させることに特化している。ビデオゲームは「進化」をつづけてきたが、それが意味するところは、わたしたちのゲーム依存が悪化させられつづけて時間が奪われつづけてきたということである。そして、スマホでゲームができるようになったことにより、電車のなかでもトイレのなかでも人は本や漫画を読んだりする代わりにゲームをするようになってしまった。そして、インターネット依存やゲーム依存は、睡眠時間を奪うことで、わたしたちの健康を直接的に害しているのだ。

 

分けて考えれば、これらの流行はどれも害のない楽しみだと主張することはたやすい。しかし事実上すべてが罠であり、人間心理の弱みにつけ入るように設計された環境を組み立てることが個人に与える、グローバルな影響を認識することは必要だ。私たちは自分の創造する環境がしだいに身体的に心地よくなるのは当然だと思いがちだが、こうした環境は絶えず心理的有害になりつつあることに充分な懸念を呼び起こせていない。世界が正気をなくしたーーいや、もっと控えめに言えば、現代社会全般で理性が低下したーーと考える理由を探っているならば、理論の要素は手元にそろっている。私たち人間は正しい論理思考をするために環境に大きく依存しているが、環境はつねに進化し、人間の不合理性につけ込むような文化遺物に味方する逆適応の過程を経ている。だから時とともに、私たちはますます努力しなければならない。直感的な問題解決策はだんだん不適切になっていくからだ。そして失敗するヒューリスティックを抑えるのに必要な認知資源は元来不足しているから、私たちはいよいよ遅れをとることになる。

(p.211 - 212)

 

  いちおう、依存にはセルフコントロールという対抗策がある。しかし、依存性物質の数がますます増えていき、依存させるテクニックがどんどん巧妙になっていく現代社会では、個人のセルフコントロールはあまりに無力だ。どう考ても、現状に責任があるのは個人を依存させようとしてくる諸々の商品の環境の側にあり、標的にされている個人の側ではない。

 

anond.hatelabo.jp

 

togetter.com

 

 ソーシャルゲームにおける「ガチャ」のシステムは、射幸心を煽って依存させて不必要な高額の消費を誘導するという点で、パチンコやギャンブルと同等の悪質さを持つものだ。しかし、パチンカーが「パチンコ道」を語りたがったりギャンブラーがギャンブルを「文化」だと言い張りたがったりするのと同じように、オタクやゲーマーはゲームというものが「人を依存させて、時間を奪う」ことに特化して設計されていることをなかなか認めたがらず、自分たちが金と時間を浪費している物事は「価値」のあるものだと思い込もうとする。そのために、「ガチャ」で自己破産してしまった人が出るような事例でも、「問題なのはゲームの側ではなく、自己破産してしまった個人の側にある」と自己責任論を唱えて、ゲームを擁護しようとするのだ。

 ……わたしからすれば、「ガチャ」なんて百害あって一利なしなものに決まっているし、「ガチャ」に手を出したことのない良識のある大人たちの大半もわたしに同意するだろう。逆に言えば、いちどでも「ガチャ」に手を出してしまったことのある人は、自分が有害で悪質な環境に操作されて愚かな行為をしてしまったことを認めたくないから、認知的不協和を避けてアイデンティティを維持するために、「ガチャ」を擁護せざるを得なくなる。

 そして、「ガチャ」やゲームに限らず、有害であったり無益であったりするはずの物事を高尚で有益な文化であるかのように装ってそれらを正当化することは、様々な場面で見かける。おもしろサイトやエンタメ系のブログでしょうもないWebライターやブロガーがゲームやファストフードの提灯記事をせっせと書くこともこの有害な環境を構築するのに一役買っているし、もしかしたら、ゲーム会社やファストフード会社は全て見越したうえで「文化」を人工的に作り上げているのかもしれない。でも、それは有害なのであり、わたしたちの貴重な時間と健康(とお金)を奪っていることを、見逃してはならないのだ。

 

左派が「共感」に訴えられない理由(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑤)

 

 

啓蒙思想2.0』では、政治や言論をめぐるアメリカの状況がとにかく「不合理」なものとなっていることが、繰り返し指摘されている。ヒースは、現在における「不合理」を招いた責任は基本的に右派の側にあることを、繰り返し指摘している。右派は大衆の「常識」と「感情」にばかり訴えて、「理性」や「議論」をあからさまに軽視するようになった。このために、右派は「文明」の基本が人間の感情的な本能やバイアスを制度によって抑制したり調整したりすることにある点も忘れてしまい、アメリカの社会に破壊的な影響を与え続けている。

 このような右派の「戦略」に対抗するため、左派の側からも、大衆の感情に訴えるための「戦略」を実施すべきだという意見が出るようになっている。しかし、『啓蒙思想2.0』の第10章「放火には放火を」では、左派が右派と同じ土俵に乗って大衆の「感情」に訴えても効果は期待できないことが論じられている。

 根本的に、左派的な考え方とは「理性」を前提とするものであり、それはどうごまかしても「感情」とは矛盾するものであるからだ。

 

 たとえば、認知言語学者のジョージ・レイコフは、左派も右派と同じように大衆の「共感」に訴えるために、なにかの問題について議論する際にはフレーミングを工夫すればいい、と主張する。しかし、その戦術は成功しない、というのがヒースの見立てだ。

 たとえば、銃規制という問題に対して、銃を持つ権利を支持する右派は「もし銃が違法なら、銃を持つのは犯罪者だけ」というスローガンを用いることで、大衆の感情を効果的に操作してきた。このスローガンは、まず銃を持つ人を「犯罪者」と「そうでない人」に区別したうえで、大多数である後者の部族意識や報復衝動を煽っている。

 これに対して、銃規制を主張する側には、訴えられる対象となる「感情」がほとんどない。「子供が誤って自分を撃ってしまう事件」や「強盗が家の主人を当人の銃で打つ事件」などの特殊な事例を持ち出すことはできるが、特殊な事例であるためにその効果は限られている。銃乱射事件による大量の犠牲者のことを想起させても、銃が規制されていないドイツやノルウェーの事件のことを指摘されて、「銃を規制していてもいなくても乱射事件は起こるのだから、自衛のために銃を所有する権利を認めたほうがいい」と反論される*1。つまり、エピソードに対して別のエピソードを持ってこられて相殺されるのだ。ドイツやノルウェーの殺人率はアメリカに比べてきわめて低いし、銃乱射事件の発生頻度も全く異なるはずだが、エピソードによって感情に訴えようとしているときに「確率」は無力だ。同じく、「銃を所持する人が少なくなることで、警官が危険を感じで市民に発砲する事件が起きる可能性が少なくなる」ことを説得しようとしても、感情的にはピンとこない「確率」が登場することになる。

 

共感は、不随意で、自然に引き起こされ、視覚刺激によって最も強烈に呼び覚まされることからも明らかなように、直感的で不合理な反応だ。なぜ人間がこの反応をするかには明快な進化的理由がある。親の子孫への投資を動機づけるためだ。しかし、このために共感は、悪名高くも範囲が限られている。だから子供、家族、友達、たまに見知らぬ人の順に、その苦しみが強く感じられる。これまた悪名高い特徴だが、共感は、対象を自己と同一化することによってのみ、引き起こされる。だからこそ映画には感情移入できる主役が必要だし、人は大量殺人の統計よりも個人的な苦しみの物語に対してずっと感情的に反応するのである。

(p.319)

 

 銃社会の問題は、「あちらが銃を持って悪いことをしようとするなら、こちらも銃を持って身を守る」という選択が連鎖して、市民の間で「軍拡競争」の事態が起こってしまうことだ。この問題を解決するためには、市民が①自己の利益ばかりを考えるの抑制して、②「自分が銃を捨てたら相手も銃を捨てる」ということが実現すると信じられて、③捨てた後にもし暴力の被害にあったり重犯罪が起こったりしたとしても報復や自衛のために銃を買い戻すことをしない、という三段階の条件を満たすことが求められる。市民間の自発的な合意だけで、そんな事態が成立する見込みは皆無である。だから、市民よりも上位の存在が「相互武装解除」を強制すること、つまり政府による銃規制が不可欠になるのだ。……銃規制を支持する議論の背景には、市民たちに生じるインセンティブや利害の対立を分析したうえで政府の必要性を認識する、このような理路がある。しかし、この理路を、「共感を抱かせるエピソード」のかたちにして表現することはほぼ不可能だ。

 そして、銃規制の問題に限らず、左派の主張とは、個人が持っているインセンティブや感情から生じる問題を解決するために、自己利益の追求や感情にしたがった行動を規制や制度によって抑制させたりコントロールしたりする、というものだ。これは「文明」の基本ともなる考え方であるが、感情には反している。左派の主張は、心で感じるのではなく、頭で納得してしもらうしかない。

 

このような限界を考えると、進歩派がその政治課題を共感に訴えることで実行できるというのは、どれくらい現実的なことなのだろう。リベラルな考えに共感がそれほど大きな役割を果たすというのも明白なことではない。人身保護のような個人の権利まで含めたリベラリズムの基本原理は、共感をよりどころとしている、とレイコフは主張する。よりによって、まずい例を選んだものだ。アメリカで犯罪を告発された個人の権利は、それこそ国民の大多数の直感に反するという理由で、しじゅう攻撃にあっているからだ。この法的保護にはたしかに合理的な基礎があるが、共感に基づいているかどうかは明らかでない。告発された犯罪者の権利を納得できるものにする唯一の方法は、その人物が有罪か無罪かわからないこと、そして実際に罪を犯していたとしても、それはまだ知りえないということを理解することだ。これは理性だけに築くことができる仮説構成体である。多くの人が、レイプ魔や人殺しを弁護するなんてと被告側弁護士を軽蔑する。これを正すには、ちょっと微妙な言い回しを使って、実際にはレイプや殺人の告発を受けた人の弁護をしているだけであることを指摘するしかない。当然、レイプや殺人の告発を受けた人を弁護すれば、結果的に、現実にレイプや殺人を犯した者を弁護することにもなりうる。だが肝心なのは、その人物が有罪だとは事前にはわからないことだ。レイプ犯や殺人犯が誰なのかわかっているなら、裁判をする必要はないのだから。

これは微妙な点なので、レイコフは代わりに、リベラルは共感をかき立ててこの主張にもっと感情的な訴えを加えるべきだと示唆している。当然の反応として、共感って誰に対して?犯罪者?となる。たとえその非難をかわして、誤って告発された人への共感だと言い張っても、なおも単純明快で痛烈な保守のお決まりの非難が待っている。リベラルは犯罪被害者より被告のほうに多分に共感を抱いているというのだ。そのうえ不当に告発された当人も、たとえば軽犯罪者だったりして同情しがたい人物であることがしばしばだ。事件の捜査で警察を結論に飛びつかせ、捜査対象者を犯人と思い込ませるのとまったく同じ習性が、国民に、被告の窮状に同情させないようにしがちである。だから、レイコフの提言はたとえ理にかなっていても、有効な戦略になるかどうかは定かでない。

実際、犯罪を告発された人の法的保護をそれだけ入念にすべき理由の一つは、私たちを不正な有罪判決へ向かわせる認知バイアスがとても強いことだ。つまり、こうした保護を定める必要があるのは、まさに私たちの処罰に対する過度の熱意ゆえである。いろいろな犯罪で有罪にされた無実の人の例を見ると、検察官の動機は概してあれこれ入り混じっている。信念への固執(結論に飛びついて、その後はすべての事実を仮説に合わせにかかる)、確証バイアス(否定的要素を考えないせいで、自説の誤りを立証する証拠をわざわざ探すことをしない)、懲罰への熱意(しかるべき人物が罰を受けることを確実にすることより、犯罪で「誰かが罰を受ける」ことを確実にしたいと強く願う)。そのため私たちは、極度に人為的な「無罪推定」をはじめとして、これらのバイアスに対抗するための精緻な機構を備えている。

犯罪被告人の法的保護を直感的に了解できるような「フレーミング」をすることを不可能にしているのは、まさしくこれらのバイアスである。この法的保護の機能は、ともすると報復的、熱意過剰になりがちな犯罪への直感的反応に対抗し、抑制することだ。だから、この制度は本質的に、合理的な視点からしか説明して正当化することができない。この制度の唯一の機能は、司法制度が現実には正義まがいのものを与えるようになる可能性を抑えるために、直感を抑制することだ。同じことが銃規制にも当てはまる。結局のところ規制の支持は、重犯罪で生じた被害への本能的反応ではなく、集合行為問題の構造に対する認知的洞察に基づいていなければならない。

(p.320 - 322)

 

 レイコフが「フレーミング」でナントカできると思っているは、彼がそもそも「合理的」な思考というものを軽視しており、左派も右派のどちらとも直感に根ざしていると考えているからだ。これはレイコフに限らず、ジョナサン・ハイトなど、とくに心理学者の一部が抱きがちな考え方である。ハイトやレイコフは、合理的な推測から左派的な考え方が生まれるとは信じていない。しかし、ヒースは、ほとんどの問題において、合理的に考えることや左派的な立場を支持することにつながる、とみなしている。

 国家システム、市場経済、近代的な法秩序、道徳の「黄金率」(「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」)のいずれもが、理性に由来している。「自分と相手のどちらもが、互いに合意したルールに従うなら、互いの状況は良くなる」という合理的洞察に基づくものであるからだ。

 

 現代では、一般人ですら、「自分は妊娠中絶は不道徳だと思うけれど、しかし妊娠中絶は合法であるべきだ」といった風に法律と道徳を分離させた考え方ができるようになっている。だが、「常識」を主張する昨今の保守は、法律と道徳を一致させて社会のレベルを近代以前の原始的なものにまで退行させようとしている。

 そして、冒頭で述べたように、右派は「理性」に基づく民主主義的な制度を軽視して、「感情に訴えられるなら真実であるかどうかは関係ない」「論理的にまったくスジが通っていなくても、感情を刺激できたら勝ちだ」と言わんばかりにめちゃくちゃしてしまって、「議論」の土壌すらも破壊してしまった。そのために、左派は理性的な議論によって論敵やオーディエンスに訴えかける機会を奪われている。そして、左派の主張は右派のように「感情」に訴えかけられるものではない。つまり、左派は不利なゲームを強いられているのだ。

 この事態を解決する手段として、ヒースは『啓蒙思想2.0』の最終章で「スロー・ポリティクス」という概念を提示している。……とはいえ、それも理想論的なものだけれど。

 

 上述の議論はすべてアメリカを前提としたものだが、多かれ少なかれ、日本にも当てはまることだろう。具体的に書くとあれこれ言い訳や正当化をしてくる人が出てくるので書かないけれど。

 

 この記事で扱ったポイント(「合理的な考え」は「左派的な立場」を支持することに直結するということ)に関わるヒースの記事は、こちら。

 

econ101.jp

 

人種差別は「本能」ではない(『啓蒙思想2.0』読書メモ④)

 

 

 

 心理学者のジョナサン・ハイトは、『社会はなぜ右と左にわかれるか』などの著作や諸々の記事などで、人間には「部族主義」の本能(バイアス)が備わっていることを何度も強調している*1。他の点ではハイトの主張を批判している哲学者のジョセフ・ヒースや心理学者兼哲学者のジョシュア・グリーンですら、人間に「部族主義」の本能が備わっていることは認めている。

 そして、部族主義は、しばしば人種差別主義の原因となる。ただし、部族主義は必ずしも人種差別主義を引き起こすわけではない。部族主義それ自体は本能に根差したものであるが、部族主義が人種差別主義として表出されるかどうかは、状況や環境による。これが、『啓蒙思想2.0』の13章の前半でヒースが行っている議論のポイントだ。

 

 一部の心理学者は、実験の結果を用いながら、「わたしたちは他の人種に対する偏見を抱いている」ことを、ことさらに強調する。よく話題になるのが、「黒人の顔によるプライミング刺激」を示す「潜在連合テスト(IAT)」を用いた実験だ。

 

www.bbc.com

www.natureasia.com

 

 実際、わたしたちが他人と関わるときには、人種や性や年齢や身体的特徴に関して反射的で無意識的な「パターン認識」や「ステレオタイプ化」を行って相手のことをカテゴライズする、という点はヒースも認めている。ただし、ステレオタイプ化やカテゴライズ化自体は、ネガティブなものであるとは限らないとも指摘している。

 

「人種差別」という問題についてのヒースの主張の要旨は、以下のようなものだ。

 

…人種差別は生まれつきか教えこまれるものかという古くからの議論がある。疑いなく証明されてきたのは、人々が集団に分かれて内では連帯感を高め、外の人には敵対心を抱くのは、ほとんど生まれつきで、非常に変えにくい性質であることだ。たとえ互いにそっくりな人たちや、通常は地位やアイデンティティを示している標識を取り去った人たちを集めても、何らかの差異が認められ、競争に基づく比較がなされていく。そして理性は、このような分類には根拠がないと告げているかもしれないが、本能はこれに強い感情的な意味を付与することができる。このことは、人はたとえ生まれつきの人種差別主義者ではないとしても、生まれつきの自集団中心主義ではあるという見方を裏づけている。

これは悪い知らせだ。しかしよい知らせもある。内集団バイアスは生得的かつ心理的に強力である一方で、人が内集団と外集団を区別するときに注目する特徴は固定されていないらしいということだ。心理学者がくり返し発見してきたことだが、人間の集団成員性は非常に操作されやすく、当人たちも重要ではないと承知している特徴に呼び起こされがちである。「X」とか「W」とグループ名をつけるだけでも有効だ。集団的アイデンティティと区別を決定づけるのは、絶対的な意味で「重要」な特徴ではなく、どんな特徴であれ判断の時点で最も際立った特徴のようだ。

このことは、内集団バイアスの強さにもかかわらず、人は生まれつき人種差別主義ではないと示唆している。進化論の視点から見れば当然のことだ。地理的に遠くに住む人々との交流はなかったから、進化的適応の環境には異人種というものは存在しなかった。人が人種差別に陥るのは、集団が形成されて人種が際立つことによってである。ほかのアイデンティティの基準が与えられたならば(例・カブズのファンか、ホワイトソックスのファンか)、もはや人種差別主義ではなくなるだろう。話す言葉が違うなど、どんな場合にも無視しがたい際は、もとより際立っている。しかし人種の違いはこの種のことではない。だから人種の違いから転じて、ほかの区別を与えてやるだけで、内集団の連帯システムをだますことは可能になる。

(p.382 - 383)

 

ここの人種の心理学に関する非常に鋭い洞察がある。重視されるのは個人間の差異より、私たちが意味を与えるために選ぶ差異なのだ。これは人種についてのよい知らせである。問題を克服するための最良の方法は、ひたすら人種から気をそらすことかもしれない。人の気を引くものがほかになければ、人種を区別する身体的特徴が重視されるが、これは、そうした特徴から顕著性(salience)を除くことによって抑えられる。他者をグループ分けして、外集団に属する人たちに反感を抱くのをやめることは、おそらくどうしてもできない。だが、たとえこの人間心理の基本的特徴は変えられなくても、人々が互いに分類しあう方法が社会的にさほど有害ではなくなるように環境を操作することで、有効な回避策をとることができる。たとえば、肌の色のような遺伝的特質には目を向けさせずに、髪型のように自由に決められて象徴的な特徴に集中するよう促せばよい。髪型の利点は、たやすく変えられるので個人の区別にとって永続的な不利益にならないことである。

(p.385)

 

 ヒースによると、アメリカで「人種の統合」に成功している二つの組織が、「軍隊」と「スポーツチーム」である。これらの組織は、組織に対する排他的な忠誠心を構成員に要請することで、組織の内部では同じ集団の仲間であるという連帯感を醸成しているからだ。

 また、別の箇所では、ナショナリズムとは部族主義バイアスを狩猟採集民時代の小さな部族よりも大きな集団で機能させるための「トリック」や「装置」のようなものであるとヒースは論じている。ナショナリズムでは排他性が前提とされるが、それゆえに数百万人や数千万人や数億人もの国民が「一つの集団」にまとめられて連帯感を抱き、協力しあって、経済や諸々の社会制度が機能するようになる。狩猟採集民の集団の規模はせいぜい数十人から数百人であったことを考えると、これは驚くべきトリックであるのだ。

 

 人種や肌の色は決定的な差異ではないこと、それよりも「話す言葉」のほうがカテゴライズの指標とされやすいことは、日本で暮らす白人としての経験からも、実感をもって理解できる。日本における外資系の企業や外国人の集まるバーでは、白人・黒人・アジア人であっても英語が母語なら「外国人組」となり、「日本人組」から分離されやすい。そして、母語が日本語であり英語のスピーキングがヘタクソなわたしは、「日本人組」に入れられることになる。

 また、欧米人はしばしば日本の「部落差別」を不思議に思う。人種も国籍も一緒なのに、生まれた地域によって差別されるということは、欧米人には理解しがたいのだ。同様に、黄色人種として人種が共通しているはずの東アジアの国々がいずこ同士も仲が悪いことについても、不思議だと思われることが多い。しかし、人種が差別の「指標」となるのは普遍的な現象ではなく、逆に言えば欧米での黒人差別も日本における部落差別や在日コリアン差別も、根本にある「原因」や「性質」は同じものであると考えることができるのだ(もちろん、それらの差別が成立していった具体的な歴史的経緯や、差別のあらわれ方や制度のされ方はまったく違うのだろうけれど)。

 ちなみに、進化心理学者のジェリー・コインは、「人種」というカテゴリは社会構築的なものではなく生物学的に実在するカテゴリであると指摘しながらも、「人類の下位グループの分離はあまりにも最近に起こったことであるので、 "身体的な" 差異が進化するには明らかに充分な時間だったとしても、それよりも広大な遺伝的差異が進化するほどの時間はなかっただろう」と論じている*2。「反・ポリコレ」な議論を唱える人は隙あらば「人種差別という本能」や「(知的能力などに関する)人種間の生物学的な差異」などを主張しようとするが、「そもそも人類は"異人種"と出会うことがない環境に適応してきた」という距離的な事実と、「人種間で大きな遺伝的差異が生じるほどには、人種差の歴史は古いものではない」という時間的な事実を忘れるべきではないのだ*3

 

この視点から見ると、アメリカの真の問題はむしろ人種差別主義というより人種意識である(実際、他国人にとって、アメリカの異文化間関係で最も抑圧的な特徴は、国民性が人種差別的というのではなく、人種についてひっきりなしに考えたり話したりすることだ。階級についてひっきりなしに考えたり話したりするイギリス人の性癖よりずっとひどい)。しかも、このアメリカ文化の特徴は、白人も黒人も、保守もリベラルも、誰もが関与して関与して関与して維持強化されていく巨大な陰謀の様相を呈している。これは、この問題について進歩的な立場をとるアメリカ人のほとんどが、人種差別は直接に克服されねばならないと、それは人種的差異に対する感受性と意識を高めることでしか達成できないと考えているからだ。進歩的な黒人の政治運動の多くは、旧来の「肌の色で違いのない」社会という理想を拒絶し、ポジティブな黒人のアイデンティティを認識し支持するように強く求めて、同じことをした。これでは意図せずして人種差別を再生産するはめになる。たとえ本来の意図が、ポジティブな集団アイデンティティの創出であったとしても、最大の影響は、集団アイデンティティの基準として人種を際立たせていることで、これがまた人種のネガティブな評価の元になるのである。

(p.386)

 

  上記の箇所は、2016年のトランプの当選以降にすっかり盛んとなった「アイデンティティ・ポリティクス批判」の先駆け的な議論といえるだろう*4

 そして、これは以前にも指摘したが、現在の日本のインターネットでは「オタク」と「フェミニスト」によるアイデンティティ対立が見受けられる。……というより、「オタク」の側が「オタクという集団フェミニストという集団に戦争をしかけられている」というストーリーを構築することで、一方的に対立の構図を作っているというところが実情に近いだろう*5。あるいは、「理系」対「文系」というアイデンティティ闘争の構図も、くだらなくて他愛もないであると思いきや、けっこうな怒りや憎しみを煽っているようだ(これも、「理系」の側からほとんど一方的に対立の構図を描いているフシがある)。アメリカにおける人種のアイデンティティ・ポリティクスのような「善意」や「大義」もなければ、ナショナリズムのような「実益」もないという点で、この種類のアイデンティティ対立は不毛なものであるとしか言いようがないだろう。

 

 今回まとめた論点ついて、ヒースがより掘り下げて論じている記事はこちら。

 

econ101.jp

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:「人種というカテゴリは社会的構築物である」という「ポリコレ」側の主張が「反・ポリコレ」を刺激している、というところもあるだろうけれど

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:わたしが見たところ、フェミニスト表現規制などについて賛成したり要請したりすることはあるし、「男性という集団に対する、女性という集団」というアイデンティティ対立の構図をフェミニストが描くこともあるが、「オタク集団に対する、フェミニスト集団」という構図をフェミニストの側が描くことはほとんどない。

「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感

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 先ほどの記事の続き的な内容。先ほどの記事ではオープンレターが持つ「効果」や「意図」について論じたが、こちらでは、オープンレターに書かれている内容自体について思うところを書いてみる。

 

このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。

 しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。

 

「キャンセル・カルチャー」批判派であるわたしとしては、やはり、上記の部分にいちばん反応してしまう。たとえば、"「キャンセル・カルチャー」なるもの"という書き振りからは、言外に「キャンセル・カルチャーなんてものは存在しないか、あってもたいしたことがないものであるし、それについて警鐘を鳴らしていたり懸念していたりするやつは的外れであったりロクでもなかったりするんだ」というメッセージを感じなくもない。穿ち過ぎかもしれないけれど。

 いずれにせよ、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」と主張する、後段の部分のほうが問題だ。

「差別的な文化」の存在によって女性をはじめとするマイノリティは不当な非難や中傷を受けやすく、そのためにメディアやSNSなどでも発言を委縮させられやすくて、学問的議論に参加するためのハードルも上げられている、というのは、その通りだと思う。とはいえ、それは、公的な場で発言することや学問的な議論へ参入することについての障壁がマジョリティよりも(不当に)高くされているということであって、発言の場が奪われていたり議論に参入することが不可能になっていたりしているということではない。

 一方で、キャンセル・カルチャー(やノー・プラットフォーミング)の目的は、キャンセル行為によって対象の発言の場を奪うこと、すくなくとも公的な場や権威を持つ場において発言する機会をなくそうとすることにある。究極的には、「問題ある発言」をする人物を議論の場から排除することが、キャンセル・カルチャーの目指すところだ。

 もちろん、マイノリティの発言障壁が高くされていることも、「問題ある発言」をする人物がキャンセルされそうになることも、どちらも問題だ。しかし、問題の性質はかなり異なる。だから、「差別を受ける側であるマイノリティは、最初からキャンセルされている状況にある」というのは、本質からズレた、不用意なレトリックでしかない。

 そして、「問題ある発言」をする人物をキャンセルすればマイノリティの発言障壁が低くなるということでも、もちろんない。しかし、上記に引用した部分は、「マイノリティの発言障壁を低くすること」と「問題ある発言をする人物に発言の場が与えられること」がまるでゼロサムゲームであるかのような印象を与える文章になっているように思える。

 

 ちなみに、「マイノリティは最初からキャンセルされている」的な問題意識については、わたしも現代ビジネスに掲載した下記の文章のなかで触れている(4ページ目と5ページ目)。それでも言論の自由や自由な討論は重要であり保障されるべきだ、というのがわたしの主張だけれど。

 

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日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。

 

要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

 

 これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた*1。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

 しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

 もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 だから、「ネット上のコミュニケーション様式」と「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」の両方が問題であるとしながらも、呼びかけの対象を「研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人」に限定して、「中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない」や「距離を取る」などの内輪における間接的な制裁を提言しているところは、陰湿であると同時に逃げ腰でもある。

 わたしが見たところ、事件の原因の大部分は「アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化」ではなく「ネット上のコミュニケーション様式」のほうにある。呉座氏はたまたまアカデミシャンであったが、ほかの業界の男性であっても、パーソナリティの欠陥や思慮の浅さが原因となって「ネット上のコミュニケーション様式」に疑問を抱くことができずに「からかい」や「遊び」のつもりで差別的言動や誹謗中傷を繰り返す、というのはいくらでも起こり得る(起こっている)事態だ。だから、解決すべきは「ネット上のコミュニケーション様式」のほうであるし、そのためにはもっと堂々としていて表立った議論などの手段が必要であるように思えるのだ。

 

 ……とはいえ、現実問題として、弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ。だから、彼らのことを名指ししたり表立って議論したりすることで結果的に彼らの注目度を上げて「商売」に加担することになってしまう、という危惧は理解できる。

 しかし、その代わりとして、商人ではなくアカデミシャンであるがゆえに言動に責任や誠実さが求められる、つまり逆説的に地位や立場が弱い状況にあった呉座氏だけがオープンレターにおいて明示的に批判されてしまう(その結果として職が奪われかねない状況に陥っている)という、いわば「生贄」にされるという顛末になってしまったことも否定できない。これはこれで、不公平さや不誠実さが存在するように思える。

 

「犬笛」としてのオープンレター

 

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女性差別的な文化を脱するため」のオープンレターはもう半年以上前に発表されたものだけれど、このオープンレターで取り上げられている呉座勇一氏が日文研から「停職一か月」や「準教授取り消し」の処分を受けたこと、そしてその処置が不当であるとして呉座氏が日文研を提訴したことを受けて、ふたたび話題となっている。

 

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 わたしは、「キャンセル・カルチャー」の問題については、このブログだけでなく講談社現代ビジネスにも記事を書きながら、何度も取り上げてきた*1。だから、発表された当初からこのオープンレターやその背景にある事件には関心を抱いてきた。しかし、このブログでは取り上げてこなかった。まず背景にある事件がかなりややこしい構造となっているうえに事実関係を把握するのも困難であること(散発的な誹謗中傷が鍵付きのTwitterアカウントでなされていたことが一因だ)、そして、このオープンレターには問題点や批判されるべき点があると思いながらも理解できる点や共感できる点も多々あるという、曖昧で両義的な感情を抱いてきたからだ。

 しかしまあ最近の流れを受けて以前よりもさらにモヤモヤするところが出てきたので、思うところを書き出しておこう。

 

 呉座氏による提訴は先日になされたばかりであり、言うまでもなくその結果はまだ出ていないのだが、提訴されたことを受けて「呉座氏になされた処分はやはり不当だったのではないか」という声が高まっている。そして、オープンレターが出されたことが処分の一因(や根本的な要因)になっていると考えている人たちが、オープンレターの発起人たちや賛同者たちに対する批判をおこないはじめている。

 その批判に対して、オープンレターの発起人たちのなかには「オープンレターのなかでは呉座氏に対する処分は求めておらず、日文研が呉座氏に対して不当な処分を下したとしてもそれはオープンレターによる批判とは何ら関係がないし、オープンレターの発起人や賛同者が責任をもつことではない」といった反論をおこなっている人たちがいる。

 

 わたしとしては、どちらの意見にも共感できるところがある。

 まず、原則論として、「だれかを批判することと、批判された人が所属する組織からどんな処分を下されるかは関係がなく、批判者が処分に関する責任をとる必要はない」というのはその通りだ。「お前が批判したアイツが会社からクビにされたから、お前が責任をとれ」という理屈が通じるなら、「批判」という行為のリスクが高まり過ぎて、だれかにどんな問題があったりだれかがどんな悪いことをしていたりしても、だれもそれを批判することができなくなってしまう。そんな社会はあまりに不健全だし、危うい。

 

 しかし、個人による批判ではなく、約20名の発起人と約1300名もの賛同者によるオープンレターともなると、話は異なってくるようにも思える。20名や1300名という「数」は、「批判」以外の性質をオープンレターに与えるはずだ。「こんなに数多くの人間が呉座氏の言動を問題だと思っているんだぞ」「”研究・教育・言論・メディアにかかわる多くの方”が、呉座氏のことを批判しているんだぞ」という「空気」が生成されることは避けられない。

 オープンレターのなかでは、「呉座氏はアカデミアから排除されるべきだ」「呉座氏にアカデミックな地位を与えるべきでないし、教職の立場につけるべきでもない」といったことは主張されていない。しかし、Twitterを見てみると、研究・教育・言論・メディアにかかわる人たちの一部には、単に呉座氏の言動を批判するにとどまらず呉座氏がアカデミアにとどまることを疑問視したり教職につくべきでないと主張したりしている人もいた(呉座氏の名前や該当の事件が直接言及されることもあれば、間接的に示されることもあった)。そのなかにはオープンレターの賛同者もいた。

 呉座氏に対する批判が勢いづいて、苛烈な処分を求める声が出るようになった背景には、オープンレターが発表されたことが確実に関わっているだろう。そして、「約1300人が賛同しているオープンレターに書かれている、呉座氏に対する批判」と「オープンレターの外側における、呉座氏に対する苛烈な処分を求める声」は一緒くたになって、「研究・教育・言論・メディアにかかわる大量の人間が呉座氏に対する処分を求めている」という、ひとつの「空気」を作っていったように思える。そして、その「空気」が、日文研による呉座氏に対する処分に影響していた可能性はかなり高そうだ。

 

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 考えてみれば、このSNS社会で「大量の”業界”人による賛同の署名が付与された公開声明」がどのように機能して、どのような効果をもたらすかということは、ほとんど自明であるかもしれない。

 とくに、オープンレターのなかでは「キャンセル・カルチャー」という単語が(否定的な文脈で)登場していることは重要だ。アメリ言語学会でスティーブン・ピンカーに対してオープンレターが提出されたことに代表されるように、海外のキャンセル・カルチャーではオープンレターを用いることは定番になっている(ピンカーに対するオープンレターでは彼をアカデミック・フェローの立場から除名することが明示的に要求されていた、というポイントはあるけれど)。そして、オープンレターの発起人のなかには、海外のキャンセル・カルチャーの状況について知っている人もいるだろう。つまり、「海外ではオープンレターがどのように用いられてきて、どのような効果を持ってきたか」という知識をもったうえで、あえて呉座氏に対するオープンレターを作成したとも考えられる。

 そうだとすれば、オープンレターはいわゆる「犬笛」として機能してしまったかもしれない。オープンレターのなかでは「呉座氏に対する苛烈な処分」は要求されていないが、大量の署名付きのオープンレターを公開することによって「呉座氏に対しては強く批判してもいい」とみんなに思わせて、苛烈な処分という結果につながる。そして、その結果は、オープンレターの発起人たちが多かれ少なかれ予測していたことであるかもしれない。

 

 オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 そもそも論として、約20人による共同作成ではなくて、個人としての意見を書けばよかったのではないだろうか。

 また、オープンレターの賛同者たちも、研究・教育・言論・メディアにかかわる人間であるなら、自分の肩書で自分の意見を表明する機会や立場にも自分の意見を文章にする能力にも、ふつうの人たち以上に恵まれているはずだ。Twitterとかではなく雑誌や  Webメディアや個人のブログなどで、個人が自分の責任でそれぞれに、呉座氏に対する批判なりアカデミアにおける「女性差別的な文化」なりへの批判を展開すればよかったと思う。なにかを批判するなら、自分の名前と自分の意見を明示して自分で責任をもつくらいのことは、最低限求められるのではないだろうか?「批判」が「処分」につながってしまうおそれがあるような事態ならなおさらだ。

 

反合理主義としてのフェミニズム(『啓蒙思想2.0』読書メモ③)

 

 

 ジョセフ・ヒースはカナダ人であるけれど、『啓蒙思想2.0』における彼の問題意識は、ティーパーティーに代表されるように近年のアメリカで不合理で反動的な右派の運動が盛んになっていることだ(原著は2014年なのでトランプの当選以前である。そのため、『啓蒙思想2.0』ではまず「保守」と対峙したうえで、伝統的な保守思想の利点も認めつつ現代における問題点を指摘しながら、「理性」の必要性を改めて提唱する、という流れで議論がすすむ。つまり、『啓蒙思想2.0』では、最終的には左派的・リベラリズム的な主張が支持されることになるのだ。

 とはいえ、ヒースは左派の反合理主義に対しても容赦がない。第8章「ワインと血を滴らせて」で行われている議論は数年前にもこのブログでちょっと取り上げたが、改めて紹介しよう*1

 

 この章の冒頭では、まず、保守派の女性であるサラ・ペイリンによるリベラルに対する難癖が紹介される。そして、ヒースはペイリンを批判したうえで、返す刀で左派の問題点も指摘するのだ。

 

その一方で、アメリカの左派がこの種のテクニックを批判しはじめ、論理の一貫性と合理的な議論を求めているのは、ちょっとおかしなことだ。なにせ二〇世紀で最も容赦ない「理性」批判は、進歩派とされる人たちから出ていたのだから。反合理主義は一九六〇年代カウンターカルチャーのとてつもなく強力な潮流であったし、今日に至るまで左派に、特にフェミニズム環境保護運動に、強大な影響を及ぼしつづけている。いろいろな意味で現在の右派の非合理主義は、左派の戦略を盗んだ結果にすぎない。右派に「真実っぽさ」ができるより前に、左派には「正気じゃなさ(flakiness)」があった。六〇年代の特徴となった独特の知的スタイルだ。どちらも、何が真実なのかを判定するために証拠や影響を吟味するのでなく、真実と感じられることを信じるものである。

(p.245)

 

 思想としては、合理性に対する批判者は右派でありつづけた(ヒューム、バーク、ニーチェ ニーチェ*2ハイデガー)。その一方で、啓蒙思想から共産主義まで、左派は理性と進歩は調和するものと考えていた。この構図が崩れたのは、ナチスの台頭、第二次世界大戦、そして核爆弾を背景とした冷戦の経験によるものだ。組織的で効率的なホロコーストは「理性」が原因であるように思えるし、火炎放射器化学兵器原子爆弾などの殺戮兵器は科学技術の賜物だ。

 

これら二つの害悪に共通していたことは、それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたことだ。非人道的行為に奉仕する科学という構図は、啓蒙思想と、理性の進歩は人類の改良と切り離せないという啓蒙思想の見方の威信にとって大きな打撃だった。これらの新しい害悪は、理性と科学が世界の善と悪の闘争のなかでせいぜいがところ中立の立場であることを示したようだ*3。そして理性が元来、進歩の力というわけではないことを示したのは確かだった。合理性はもっと道具のように、いい目的でも悪い目的でも利用されうる手段と見なされるようになった。

いっそう厄介なのは、理性は中立ではなく、実はこれら大きな害悪の原因だったのだと主張する声だった。第二次世界大戦での破壊は、人間の生命と価値への根本的な敵意をもって科学技術の進歩が到達した絶頂であるとされた。このことは想像に難くない。科学的方法には客観性と、研究者が感情を排すことが求められるのは、よく知られている。科学実験もまた、徹底した条件の操作を伴う。自然を扱うときには、それもけっこうだが、人間が相手となると問題をはらんでくる。「客観的になること」は「人をモノ扱いすること」だととられやすいし、感情の排除は人間の苦しみへの無関心になりかねないし、操作は支配と管理という形をとりがちだ。

(p.249-250)

 

 科学の「客観性」が含む問題に対する懐疑は、科学の「客観性」そのものに対する懐疑に直結した。かくして、左派は、科学・技術・官僚制・資本主義などの諸々を害悪だとみなしたうえで、その害悪は西洋的な合理性によってもたらされている、と主張するようになったのである。テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』を嚆矢として、セオドア・ローザックはテクノクラシーを批判して、ヘルベルト・マルクーゼは「解放と自由」を重視した方向づけによりまったく新しいタイプの科学と知識を生み出すことを主張したのである。

 定番のパターンは、まず科学的で経済的で工場的っぽい「技術的合理性」を批判したうえで、愛情に満ちていて美しい「ナントカ合理性」を称える、というのが定番のパターンだ。しかし、ヒースによると、「ナントカ合理性」はいずれも直感的でヒューリスティックな思考に基づくものであり、形を変えた反合理主義に過ぎない。

 そして、ナントカ合理性という名の反合理主義がとりわけ多く影響した分野が、一旧六〇年代以降の現代的なフェミニズム運動なのである。 

 

…客観化し、感情に動かされず、技術的合理性はもともと男性的なものであると考えて、内包的で、相互に影響しあい、思いやり深い、もう一つの女性的な合理性とつい対比させたくなることは確かだ。言うまでもなく、この特徴づけは性差によるいくつもの伝統的な固定観念に織りこまれている。女性はどうしてか男性より合理性に欠け、感情的であるという示唆は、何世紀にもわたって女性を教育、雇用、公的生活全般から排除するための大義名分として確立されていた。初期のフェミニストはこの特徴づけに抵抗することで、女性の抑圧と闘おうとした。彼女たちはおおむね正統な啓蒙合理主義を奉じていた。

(…中略…)

この旧式のフェミニズムの中心をなす特徴は、女性を男性と隔たらせたのは生物学上の性質ならぬ文化だと主張することで、性差による固定観念を打ち破ろうとしたことだ。もちろん、(メアリ・)ウルストンクラフトがこれ(『女性の権利の擁護』)を書いていた時代には、人類の「獣」への優位は偉大なことで、「理性」はめざすべき理想だと誰もが信じていた。女性はただゲームに参加したかっただけだ。けれども、理性という理想が、だんだん勇気を吹きこむものでなくなるにつれ、理性と直感の類型的な対比を維持しつつ、直感のほうを持ち上げたくなる誘惑が強まった。男には男の考え方があり、女の考え方は違うということではなかろうか。男の流儀がわけもなく重んじられてきたのは、男がことを取り仕切っていたからにすぎない。女は男の流儀をまねていては、対等な相手としてゲームに参加することは決してできない。対等になるためには、女性自身の流儀を有効と認めるよう要求するしかない。そのうえ、男の流儀は「技術的合理性」に伴って、さんざんくり返されてきた苦しみーーその最たるものは戦争だがーーの元凶なのだから、女の流儀が有効となれば世界はもっとよくなるかもしれない。

(p.253 - 255)

 

 

「女性的な考え方」を重視するタイプのフェミニズムとしてヒースが挙げているのは、神学者であり哲学者でもあるメアリ・デイリーだ。他方でわたしが思い出すのは、このブログでも散々に批判してきた、「ケアの倫理」を提唱するフェミニスト倫理学者たちである*4

 デイリーの思想にせよケアの倫理にせよ、明示的な言語を介した合理的な問題解決システム(理性)よりも、直感とヒューリスティックによる問題解決を重視することになってしまう。これは、解決しようとする問題が複雑であればあるほど、惨憺たる結果をもたらすことになる。感情だけでは複雑な問題を解決することができなかったからこそ、理性は進化してきたからだ。

 また、フェミニズム思想では、だれの意見が正しかったりより優れていたりするかを議論を戦わせることによって判断する、学問における「対抗主義」が「男性的」なモノだとして否定されることがある。その結果、フェミニストは自分たちの確証バイアスを抑止することが難しくなってしまった。自分の意見に含まれる問題を発見する最も有効な手段とは「他のひとに問題を探させて、反証させる」ことであり、これは古代ギリシアの時代から学問の根本にある営みなのだが、フェミニズムはそれを否定してしまったわけだ。

 

社会批判にはつねに陰謀論に堕す危険がある。脳の奥で「なぜこんなことを信じなきゃいけない?」と疑う声なしには、一線を越えるのはほとんど防ぎようがない。そうして、フェミニストは「男中心の社会」の隠された権力と、それが女性の体を支配し、心をプログラム化する能力について論じることに途方もない時間を費やすはめに陥ってしまった。あとから振り返ってみれば、こうしたことはほとんど純然たる陰謀論の理論立てだとすんなり分類することができる。たとえば、ポルノグラフィーを女性への抑圧の土台として論じることに費やした時間とエネルギーを思うと、仰天ものである。インターネットの対等によって一般男性が飛躍的にポルノフラフィーを手に入れやすくなったとはいえ、女性への抑圧の増大は実証されていない(それと同時にレイプ発生は減少してた)ことで、これらの時間と労力はすべて無意味になってしまった。

(p.257)

 

 現代でも、「女性が哲学を専攻しない理由」として「哲学の戦闘的・競争的な議論の風習が女性には受け入れられないのではないか」と言われることが多い。概念工学とフェミニスト哲学で有名なサリー・ハスランガーも、哲学という分野は闘争的(combative)で判断的(judgmental)で超-男性的(hyper-masculine)であると論じており、(英語圏の代表的な哲学分野である)分析哲学では「penetrating」や「seminal」や「rigorous」といった男性的な単語が用いられやすいと指摘していたそうだ*5。また、「ミソジニー」という単語を概念工学したことで有名なフェミニスト哲学者のケイト・マンも、その議論は諸々の紹介を読む限りかなり陰謀論的な風味があるようだ*6

 

 反合理主義に傾倒したフェミニズムに生じたもうひとつの問題が急進化である。フェミニストが改革しようとする対象は法律や法規制などの公的なものに限らず、個人の私的な洗濯や行動も含まれる(男性に家事をやらせる、結婚している女性が夫に経済的に依存しないようにさせる、理系・技術職に進む女性の数を増やす、など)。私的で個人的な領域に変化を起こすことは、公的な制度の領域で変化を起こすことよりもずっと難しく、できるとしても時間がかかる。とくに家庭や家族に関することでラディカルな変革を起こすのは難しいし、逆戻りも生じてしまう。

 

批判者のなかには、これに対しプラグマティズムに舵を切って、法律より文化を変えるほうが難しいとか、昔ながらの男女間の取り決めには真価を認められていなかった利点があったなどと結論づける向きもあった。ところが、正反対の方向に進んだ批判者たちもいた。「急進的な」社会批判を展開しながら社会を大きく変革できなかったことで、もともとの批判に急進性が足りなかったと結論づけたのだ。合理性批判に関しては、自らの誤りは、技術的理性を批判できると考えながら、同時にテクノクラシーで使われているその同じ概念を存続させてしまったことにあった、と多くの人が結論した。本当にものごとを変えるには、人々の意識を根本から改革するには、抑圧された人間の理想と抱負を表明する新しい概念を、つまり新しい言葉を生み出すことが必要なのだ。

(p.257)

 

 「新しい概念や言葉を生み出せば、社会も変わる」といったポストモダニズム的な考えを主張するフェミニストの例としてヒースが挙げるのは、またしてもメアリ・デイリーである。とはいえ、デイリーが活躍したのは1960年代〜1970年代であるが、「言葉が変われば世界も変わる」的な考え方はいまでも現役であるだろう*7

 また、問題の改善が難航していたり時間がかかったりして埒が明かないのを見てヤキモキしたり我慢できなくなったりした学者が、「いつまで経っても問題が解決しないのは背景にある理論が間違っているからで、既存の理論を考え直して正しい理論を打ち立てたら問題も解決されるはずだ」と言わんばかりになるのは、フェミニズム以外の場面でも起こることだ。しかし、実際の政治や経済や社会で起こっている問題の大概は、理論がなんであろうと改善には時間がかかってしまうものなのである。

 

 勘違いされがちなので確認しておくと、この章でヒースが論じているのは、「女性やフェミニストは(男性と比べて)感情的だからダメなのだ」という主張ではない。むしろ、男女には視覚や記憶に関する認知には差があっても、論理的思考能力に男女の差はない、とヒースは強調している。論理的思考とは言語という公的なものを媒介にしているうえ、道具や環境など脳の外側で存続するものであるため、男女で脳に性差があったとしてもそれは論理的思考とは関係ないのである。それなのに女性の感情性を強調してしまう(非合理主義的なタイプの)フェミニズムの問題点を、ヒースは指摘しているわけである。

 

 第8章では、環境保護運動や反ワクチン運動、オープンスクールでおこなわれる「進歩的教育」などの反合理主義の問題も指摘されている。

 この章におけるヒースの結論は以下の通り。

 

もはや明らかなのは、私たちの文化はなりゆきに任せていたら、どんどん合理性から離れていってしまうことだ。合理性を保つには意識的な自覚、介入、指導が必要になる。しかし、これを達成する可能性が最も高い支持者たち、すなわち精神の力で人類を向上させることに関心を持つ進歩的左派たちは、比類ない深さの自己喪失の危機に陥っていた。…

(p.270)

 

とはいえ、左派の反合理主義がこれまで害をなしてきたが、そろそろ終息を迎えそうである。なぜなら左派はどのような形にせよ、つねに進歩という考えにコミットしてきたのであり、進歩は必ずや理性の行使にかかっているのだから。現代の社会経済問題のほとんどは、解決のためには創意も集団行動も求められる複雑なものだ。自分の勘に従っているだけでは、何も起こらない。集合行為問題を解決するには、合理的な洞察が求められる。もっと言えば、このような問題を解決する段になれば、最も重要な制度は国家である。だから、左派の政治と、政府への支持と、理性を用いて人間の条件を改善するという約束のあいだには、必然とも言うべき繋がりが存在する。

(p.270 - 271)

 

*1:

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*2:ブコメでイヤミ書かれたから修正

*3:スティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーとちがい、ヒースはあくまで理性や科学を「中立」としているところは重要だ。たとえば、「それが振り向けられるもっと大きな目的には明らかに注意が払われないまま、本質的に技術上の問題を解決するため莫大な量の人類の創意が注がれたこと」は、現代でも工場式畜産にはいまだ当てはまっている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

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*6:

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flipoutcircuits.blogspot.com

*7:

davitrice.hatenadiary.jp

「批判理論の問題点は、昨今に行われているようなアイデンティティ・ポリティックスを補強してしまい、検閲を行うことに知的な正当化を与えてしまう政治的傾向をもたらすということです。批判理論は、全ての知識は本質的に政治的であり権力関係に還元することができる、と教えます。そうすると、学生たちとっては、自分自身のアイデンティティ・グループの外からもたらされる知識を学ぶ意味は非常に少なくなります。また、言葉とイメージが現実を構築する力の全てを担っており、言葉とイメージを変えることは世界の実際の有り様にも影響を与える、と批判理論は教えます。このことは、ある特定の言葉や画像を禁止することで世の中を良くすることができる、という反民主主義的で非現実的な考えを学生たちに教えることになります。」

 

対等願望、優越願望、承認欲求、民主主義

 

 

 フランシス・フクヤマの『IDENTITY:尊厳の欲求と憤りの政治』はこのブログでも何度か扱ったが、あまり高く評価してきたわけではなかった*1。しかし、ポリティカル・コレクトネスを考えるうえではアイデンティティ・ポリティクスの問題は避けて通れないので、改めて真面目に読み直すことにした。

 読みはじめて、とくに惹かれたのは以下の箇所だ。

 

(引用註:『歴史の終わり』に対する批判に対して)こうした批判のほとんどは、単純な誤解に基づいたものだった。わたしは「歴史」という言葉をヘーゲルマルクス主義的な意味で用いていたーーすなわち「発展」や「近代化」とも呼ばれる過程、人間の制度の長期的な進化の物語を指す言葉として使っていたのである。「終わり(end)」という言葉も、「終焉」という意味ではなく、「目標」や「目的」という意味で使っていた。カール・マルクス共産主義ユートピアが歴史の終わり(目的地)になると示唆したが、わたしが論じたのは、そのヘーゲル版、つまり発展が行き着く先は市場経済と結びついた自由主義国家だという考えがより妥当と思われるということだったのだ。

(…中略…)

ただ、わたしを批判する人たちの論点には、ほかにもずれている点があった。彼らは、はじめの論文のタイトルにクエスチョンマークがあるのに気づいておらず、書籍『歴史の終わり』の終盤、ニーチェの「最後の人間」に焦点を当てた数章を読んでもいなかったからだ。

論文と本のどちらでも、わたしはナショナリズムも宗教も世界政治の精力として姿を消すことはないと書いた。どちらもすぐに消えないのは、現代の自由民主主義諸国が「テューモス(thymos)」の問題を完全には解決していないからだというのが、当時のわたしの主張だった。テューモスとは、尊厳の承認を渇望する心の働きである。「アイソサミア(isothymia=対等願望)」はほかと平等な存在として尊敬されたいという要求(=demand)を、また「メガロサミア(megalothymia=優越願望)」はほかより優れた存在と認められたいという欲求(=desire)を意味する。現代の自由民主主義諸国は、最低限の尊厳を平等に認めると約束し、おおむねその約束に従って行動しており、それは個人の権利、法の支配、参政権として具体化されている。しかし、民主主義国に暮らす人が実際に平等な尊敬を得られる保証はない。とりわけ、社会の周縁に追いやられてきた歴史を持つ集団の人々は、尊敬を得るのがむずかしい。国全体が尊敬されていないと感じて人々が攻撃的なナショナリズムへ向かうこともあれば、信仰を持つ人たちが自分たちの宗教が軽んじられていると感じることもある。したがって、アイソアミアは今後も平等な承認への要求を駆り立てるだろう。この要求が完全に満たされるときが来るとは考えにくい。

もうひとつの大きな問題がメガロサミアである。自由民主主義諸国は、かなり首尾よく平和と繁栄をもたらしてきた(最近は以前ほどではなくなってきたが)。これらの豊かで安全な社会に暮らすのは、ニーチェの言う「最後の人間」、「胸郭のない人間」であり、こういった人間はものを消費することで得られる満足感を飽くことなく追い続けるが、自分の核に何かがあるわけではなく、自分が目指したり、そのために自分を犠牲にしたりする高い次元の目標や理想を持たない。そしてこのような生き方は、すべての人間を満足させはしない。メガロサミアはほかから抜きん出ることを目指す。大きなリスクを冒し、とてつもない闘いに加わって、目覚ましい成果をあげることを求める。そうすることで、ほかの人よりも自分のほうが優れていると周囲から認められるからだ。これは、リンカーンチャーチルネルソン・マンデラのようなヒーローを生むこともあるが、カエサルヒトラー毛沢東のように、国を独裁と不幸へ導く圧政者を生むこともある。

(p.12-14、強調は引用者によるもの)

 

ヘーゲルによると、人間の歴史は承認をめぐる闘争によって動かされてきた。ヘーゲルが論じたのは、承認欲求に対する唯一の合理的な解決策は、すべての人の尊厳を認める普遍的な承認だということである。普遍的な承認はこれまで、国、宗教、セクト、人種、民族、ジェンダーに基づいた不完全な承認や、ほかより優れた存在として認められたい個人によって実現を阻まれてきた。いま民主主義諸国では「アイデンティティの政治」が盛り上がりを見せており、普遍的な承認がおおいに脅かされている。すべての人間があまねく尊厳を持つと理解する道をふたたび模索しなければ、人間同士の争いが終わることはないだろう。

(p.17)

 

 フクヤマの主張は、(アメリカ)社会の"分断"を嘆いたり、大衆の"尊厳"を重視するものであるという点では、マイケル・サンデルに近いところがある。実際、コミュニタリアンであるサンデルも「アイデンティティの政治」はよく思っていないようだ。

 しかし、人間には対等願望や承認欲求だけでなく優越願望も存在している、ということを重視している点で、フクヤマはサンデルの一歩先を行っているように思える。サンデルによるメリトクラシー批判がおおむね正しいものだと認めても、勝者に「謙虚さ」を身に付けることを求めたり「共通善」によって問題を解決しようとする彼の提案が現実味のない綺麗事であったのは、サンデルは人間に備わる欲求や願望やインセンティブを軽視しているからだ*2。わたしはサンデルの主張を「ルサンチマン道徳」と評したけれど、おそらく彼に足りないのは、ニーチェ的な視点である。

 

 フクヤマが『歴史の終わり』の頃から心理的な要素を重視していたことはかなり重要だ*3。そして、『政治の起源』と『政治の衰退』では、人類学や進化心理学の知見も取り入れられることになるし、経済学的な視点もさらに重要視される*4。『アイデンティティ』においても、たとえばサンデルが無視している「誇り」という感情の存在が、生物学を経由して論じられている*5サンデルの議論はメリトクラシーなどの「社会規範」が人々の動機や意識を形成していることを前提としているトップダウンなものであったのだが、フクヤマの議論はボトムアップなものであるのだ。

 

 フクヤマによると、中世以前の貴族制の社会が民主主義に移行したことは、アイソアミアがメガロサミアミアに取って代わったことを示している。とはいえ、民主主義の社会でもメガロサミアが消えてなくなることはない。さまざまな属性の集団は、平等な承認を要求するだけでは飽き足らず、自集団の優越性をも認めさせようとする。また、民主主義社会であっても、ある種の活動はほかの活動よりも必然的に大きな尊敬の対象となる。公共の利益のために奉仕する警察官や兵士、卓越した芸術家は尊敬されるものであり、彼らが何らかの意味で他の人よりも優れているということは否定しようがないのだ。

 

 ところで、自由民主主義の普遍性を主張するフクヤマの議論といえば、「いつまで経っても民主主義は欧米諸国とアジアの一部にしか根付いていない」とか「中東などでの民主化運動は失敗して権威主義体制に戻ってしまった」とか「民主主義国家の住民ですら中国のような非民主主義国家に憧れるようになっている」とかいった諸々の事実や風潮が「反証」となって論破されてオワコンになった、という風に扱われることが多い。

 しかし、人間にはテューモスとアイソサミアが普遍的に備わっているために、どこの国であっても民主主義(とそれを通じた"対等な扱い")を希求する人は多かれ少なかれ存在する、という観点はやはり重要だ。最近の事例でいえば、アフガニスタンからアメリカが撤退してタリバンが支配するようになっても、現地の人々の多く…とくに女性たちがタリバンの撤退と民主主義の復活を求めている*6。言うまでもなく、テューモスもアイソサミアも、男性だけでなく女性にも備わっているからだ。

 フクヤマによると、「アイデンティティの政治」は、経済的利益ではなく尊厳をめぐる政治である。同性婚を求める運動にせよ、#MeToo運動にせよ、それは経済や生存に関する利益も絡んでいるが、根本的には尊厳の問題である。

 日本においては、一部の保守主義者・イスラム主義者・アンチフェミニストなどは、タリバンによるアフガン支配を、手を叩いて喜びながら歓迎しているようである。しかし、フクヤマの議論はある種の反動主義だけでなく文化相対主義ポストモダニズムに対する処方箋にもなるのだ。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。

だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズムファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ。

『歴史の終わり』はトランプの出現を予期していた? - 道徳的動物日記

 

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

…ルソーはいくつかの重要な点で間違っていた。まず、初期の人間は根本的に個人主義的だったという考えは正しくない。これが間違っていたといえるのは、第一に、社会化される前の人間がいたという考古学的・人類学的な証拠がないからであり、第二に、現生人類の先祖にあたる霊長類もきわめて社会的だったことが、ほぼ確実にわかっているからである。現存する霊長類は、複雑な社会構造とそれを支えるのに必要な感情機能を、はっきりと備えている。社会の進化のどこかの段階で誇りが現れたというルソーの考えは奇妙だと言わざるをえない。というのも、人間に内在するそうした感情が、外からの刺激に反応して自然に現れるのはどのような仕組みによってなのかという疑問が生じるからだ。もし誇りが社会的に構築されたものであれば、幼い子どもはそれを経験するよう何らかのかたちで訓練されなければならないはずだが、われわれの子どもたちはそんな訓練を受けてはいない。現在では、誇りと自尊心は脳内の神経伝達物質セロトニンのレベルと関係していることが知られており、チンパンジーはボスの地位につくとセロトニンのレベルが上がることもわかっている。どうやら、現生人類が互いに比較しなかったり、社会的承認を得たときに誇りを感じなかったりした時期はなさそうだ。この点において、プラトンのほうがルソーよりも人間の本性をよく理解していたといえる。

(p.58-59)

*6:

news.yahoo.co.jp