道徳的動物日記

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ミソジニー論客たちのエコーチェンバー

 

 

 

 

 大して話題になっている問題でもないが、つい気になってしまってTwitterで言及してしまったので、ブログのほうでも考えを残しておく。

 

togetter.com

 

 上記のTogetterにもまとめられているように、2月25日から、山内雁琳 (@ganrim_)が北村紗衣の単著『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている「歴史修正主義」に関する記述について批判を行うツイートをしている。

 Togetterには載っていないが、発端は、高橋雄一郎弁護士による以下のツイート。

 

 

 このツイートをみた雁琳が、「北村も差出人の一人である「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかではネガティブな意味で"歴史修正主義"が用いられているのに、北村の著書のなかでは"歴史修正主義"は価値中立的な言葉とされていることはおかしい」、という旨の批判を行なった。

 

 

 

 そして、御田寺圭による「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのでは」という憶測に同調して、雁琳は「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います」と言い切った。

 御田寺や雁琳のアカウントをフォローしている人たちも彼らに同調して、「北村は「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかに呉座勇一が「歴史修正主義に同調していた」という記述が含まれていたことをマズいと思って、オープンレターの記述の瑕疵を取り繕うために、自身の著作のなかに「歴史修正主義は価値中立的な用語である」という記載を含めた」といったストーリーができあがっていたのである*1

 

 

 

 しかし、このストーリーは憶測に基づくものでしかないし、憶測に基づいた批判は不当な言いがかりでしかない。

 

 わたしは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』を手元に持っていないが、北村自身が、該当の箇所の画像を挙げていた(著者本人が公開していた画像なので、問題ないと判断したうえで、転載する)。

 

 

 

 

 

 この文章における本題は、あくまで歴史フィクションを形容する際に用いられる「リヴィジョニスト」である。

「リヴィジョニスト」という単語が「リヴィジョニズム(修正主義)」に由来することを記載するだけでは、現在の日本における一般的な意味での「歴史修正主義」はホロコースト否定論などのネガティブな意味を持つことを知っている読者の誤解を招きかねない。したがって、本来の意味での歴史修正主義は「健全な歴史学の営みを指す言葉」であることを説明したうえで、「リヴィジョニスト」は一般的な意味(ネガティブな意味)での「歴史修正主義」ではなく歴史学における本来の意味(ポジティブな意味)での「(歴史)修正主義」のほうに由来することを示して、読者が「リヴィジョニスト」という単語について正確に理解できるように促している……と、わたしには読める。

 北村の文章の流れはごく自然であり、悪意や裏の意図などを見出せるようなものではない。もしわたしが映画やその他のフィクションの研究者であって、「リヴィジョニスト」について一般の読者に説明する文章を書くときにも、やはり北村と同じような文章になるだろう。現代の日本では「歴史修正主義」は一般的にはネガティブな意味を持っているからこそ、読者の誤解を防いで正確な理解を促すためには、歴史学における「(歴史)修正主義」はポジティヴな意味を持っていることの説明は不可欠であると判断するからだ。

 

 ここで示したわたしの「読み方」は、うがった読み方や特殊な読み方ではなく、ごく普通のものであるだろう。たとえば、小田川大典(@odg1967)も同じような読み方をしているようだ。

 

 

 

 

 この小田川のコメントに対して、雁琳は以下のように反論している。

 

 

 

 しかし、北村本人も書いているように、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収められている該当の章(節?)「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出は2018年(『ユリイカ』)であり、2021年4月に公開された「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターより3年も「前」に執筆されている。

 

 

 

www.seidosha.co.jp

 

 

ユリイカ』に公開されていたバージョンの後に『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収録されたバージョンでも手が入っておらず、「歴史修正主義」に関する記述に変更が行われていなかったなら、その時点で「『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』における歴史修正主義に関する記述はオープンレターの瑕疵を取り繕うためのものだ」という雁琳(や御田寺)の批判は誤りであることが証明されるだろう。

 

 そして、仮に「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』の出版された2022年であったとしても、やはり、雁琳(や御田寺)の批判は言いがかりでしかないと思える。

 先に書いたように、「歴史修正主義」に関する北村の文章は「リヴィジョニスト」について説明するという文脈をふまえるとごく自然なものだ。まともな人であるなら、該当の箇所に「オープンレターでの記述の瑕疵を取り繕うためのものだ」という「悪意」や「陰謀」を見出すことはしない。

 言うまでもなく、北村はオープンレターの差出人の一人である以前に、フェミニズムや映画批評などを研究する大学教授准教授[訂正]である。余程の証拠がない限り、一般の読者に向けてフェミニズム(映画)批評を解説する本を執筆するときに、オープンレターに関する問題を彼女が意識していたり著書のなかに取り込んでいたりすると解釈する必然性はないだろう。

 北村の記述について御田寺が「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのではと訝しんでしま」ったり、雁琳が「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います。」と同調したりするのは、彼らの認知のほうが歪んでいるからだ。彼らは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている内容やフェミニズム批評・映画批評一般に対して興味を持っていないだろうし、彼らが北村に対して関心を抱くのは「オープンレター」や「呉座との裁判」「雁琳との裁判」などに関連している事柄のみについてである。そのため、彼らは北村の言動をすべて「オープンレター」や「裁判」に紐づけて解釈してしまうし、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』にもオープンレターや裁判に関連した悪意や陰謀を見出して、不当な言いがかりを付けることになったのだ。

 

 この種類の不当な言いがかりを付ける行為は、今回に北村に対してなされたものでなく、これまでにも雁琳や御田寺をはじめとするミソジニー論客たちが多くの人々に対して繰り返し行ってきたものである。

 その背景には、相手を批判することで公衆の評価を貶めたり相手を消耗させたりしたいという悪意もあるだろうし、文章を正確に読む能力がなかったり自分の認知の歪みを自覚できなかったりするという知的な面での問題もあるのだろう。

 とはいえ、今回の経緯を見てみると……とくに御田寺の「訝り」に対して雁琳が「断言」するというやり取りを見ると……同じような主張を行ったり問題意識を抱いていたりしており、「敵」となる相手を同じくしている人たち同士が陥る、エコーチェンバー現象の典型例であるようにも思える。自分ひとりであれば自分の批判は憶測でしかなく根拠がないことに気が付けたり、自分の認知が過剰に悪意や陰謀を見出すように歪んでいることを薄々察したりできるかもしれないが、「仲間」同士で引用RTを行いながら「敵」を声高に批判する行為を繰り返していくと自分の誤りに気が付けなくなり、他人からすれば話の通じる相手でなくなって、本人としても後に退くことができなくなってしまうのである。

 こうはならないように、もって他山の石とするべきであるだろう。

 

 ちなみに……雁琳や御田寺をRT・引用RTしながら北村に対する批判に同調するアカウントのなかには、自身でも積極的に意見を発する論客的なアカウントもいれば(池内恵など)、論客というほどでもない一般人的なアカウントもいた。

 また、今回の北村に対する不当な言いがかりを招いた最大の原因は、当初の高橋雄一郎弁護士によるツイートであるように思える。彼の引用には該当の箇所の本題である「リヴィジョニスト」に関する言及が一切なく、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』で北村が「歴史修正主義」について言及した経緯や文脈がまったくわからない。雁琳が行ったような誤解を意図的に誘発するための投稿だったのではないか、とすら思いたくなる(これはわたしの憶測でしかないけれど)。

 そして、今回の事態を見て思ったのは、雁琳や御田寺による北村に対する批判について「不当な言いがかりだな」「分が悪い批判だな」と思ったり判断したりしていながらも積極的に指摘することはせずに遠まきにしてスルーしながら、過去や将来の別の場面では雁琳や御田寺に同調したり賛同の意を表明したりするような人が…「論客」である人もそうでない人も含めて…多数存在しているのではないか、ということ。

 最近にわたしが問題に思っているのは、ミソジニー論客に準ずる存在として、「ミソジニー論客と同じように弱者男性や"フェミニズムリベラリズムが救わない弱者"に関する問題に関心を抱いていて、ミソジニー論客と同じようにフェミニストやリベラルのことを不快に思っていたりキャンセルカルチャーを問題視したりしているが、ミソジニー論客による個人への中傷・攻撃に直接的に同調したり便乗したりすることはなく、しかし自分の口でミソジニー論客に対する批判を行うこともせず、個人攻撃への同調にならない範囲でミソジニー論客とコミュニケーションしたり対談などを行ったりする」というタイプの論客が、けっこうな数、存在しているということ。このような人に対しては以前も軽蔑の念を表明している*2。また、今回における雁琳のような「暴走」を止めることもせずに放置しているという点では、ある面では、ミソジニー論客よりもさらに卑劣な存在であるとも思える。

 とはいえ……実際のところ、誰かが不当な言いがかりを付けられているとして、その言いがかりが不当であることを詳細に指摘・立証したうえで言いがかりを付けている人を批判するという行為は、(この記事を書くだけで2時間以上かかったように)時間も手間もかかるし、気力も必要となる(発信するよりも訂正することのほうが労力がかかるというのが、デマが有害である所以だ)。だから、「あいつがあんなことを言っているんだから、お仲間であるお前にはあいつのことを批判する義務がある」といった主張はさすがに不当であるのだろう。

 でも、自分が卑劣でみっともない存在になっていないかどうか、いちど自分の胸に手を当てて考えてみてほしいとは思う。

 

*1:

https://archive.md/VeL1b

このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。

 

オープンレターにおいて「歴史修正主義」に言及されているのはこの段落のみ。

わたしには、この文章は「呉座氏は歴史修正主義に同調していた」と主張するものであるようにも読めるし、そうでないものであるようにも読める。「非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも〜」の「それ」は、直前の文における「歴史修正主義」を指すものであるようにも、その前の文における「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指すものであるようにも、どちらにも読めるからだ。おそらく、執筆者としては、後者を指すつもりで書いたのだと思う。

 ……だとしたら悪文ではあるけど。また、こういう場合に「このような意図で書きました」と説明できる単一の著者がいないというのが、責任の所存が曖昧になるオープンレターという形式の問題点でもあると思う。

 

【以下、2/28に追記】

 

id:pikixのブックマークコメントで、訴訟における原告(オープンレター差出人の側)の主張について書かれている、呉座勇一本人のブログ記事内の記載を指摘された(該当の記事については以前にわたし自身も読んでいたはずだが、記事の存在について失念して確認するのを忘れてしまった)。

 

ygoza.hatenablog.com

…原告らは、歴史修正主義についての記載は、3件の投稿と6件の「いいね」を前提とした論評であり、投稿・「いいね」が真実であるから問題ないと主張しています。また、原告らは、歴史修正主義という言葉を「歴史に関する定説や通説を再検討し、新たな解釈を示すこと」として中立的に使用する場合もあるので、必ずしも私の社会的評価を下げないとも主張しています。

裁判における原告の主張はたしかに無理筋であるということには、わたしも同意する。

また、原告の主張を見ると、先に引用したオープンレター内の文章における「それ」が「歴史修正主義」を指すものであることは、差出人も意図しているようだ。

……というわけで、ブコメでもTwitterでも多々突っ込まれてしまったけれど、「それ」は「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指しているのではないか、というわたしの読み方が間違っていたことについては認めます。

【追記おわり】

*2: 

というか、御田寺の行っているような「からかい」行為を許容しないというくらいの良心は、わたしに限らず、誰にでも持っていてほしいものだ。御田寺やその取り巻きの「からかい」行為を見て見ぬ振りをしながら、「御田寺の言論にも耳を傾けるべきところがある」としたり顔で言っている人々に対しては、いじめに参加している人に対して抱くのと同じような軽蔑の気持ちをわたしは抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『現代思想入門』

 

 

 大学生から大学院一年生の頃までのわたしはいっちょまえに「哲学」や「思想」に対する興味を抱いており、哲学書そのものにチャレンジすることはほとんどなかったが、様々な入門書は読み漁っていた。現代思想については難波江和英と内田樹による『現代思想のパフォーマンス』でなされていた紹介をもっとも印象深く覚えており、次点が内田樹の『寝ながら学べる構造主義』や竹田青嗣の『現代思想の冒険』。個別の思想家についてはちくま新書の『〜入門』やNHK出版の『シリーズ 哲学のエッセンス』を読んでいたが、とくに後者についてはあれだけ何冊も読んだのに一ミリも記憶が残っていない。そして、修士論文を書くために英語圏倫理学や政治哲学の本をメインに読むようになってからは現代思想に対する興味はすっかり薄れて、以降ほとんど触れなくなってしまった。

 

 千葉雅也による『現代思想入門』の前半ではフランス現代思想家のなかでも代表的な存在であるデリダドゥルーズフーコーの三人の思想が解説されている。そして後半には現代思想の源流となる思想家たちの紹介や精神分析現代思想との関係、現在に活躍している様々な現代思想家たちの簡単な紹介や新しい現代思想を打ち出す方法などの様々なトピックについて書かれており、巻末の「付録 現代思想の読み方」では現代思想の本を読む方法がかなり細かく教示されてもいる。これだけ手広い内容のわりに新書としてはごく標準的なページ数であること…『現代思想のパフォーマンス』の半分ほどであるし『現代思想の冒険』よりもやや短い…は本書の大きな特徴のひとつだ。ページ数が短いだけでなく、「ここからは上級編」とわざわざ明言してから深い議論を行なったり、各トピックについて「これについては〇〇の『××』を読んでください」と他の日本人著者による解説書への誘導が本文中でなされるなど、読者にとってはフランス現代思想の「奥深さ」に触れている感じがお手軽に味わえる、親切な構成になっている。

 また、デカい帯にデカデカと書かれている「人生が変わる哲学。」は明らかに誇大であるしこのキャッチコピーを考えた担当者は恥を知ったほうがいいと思うが、それはそれとして、現代思想を「ライフハック」として用いる方法がところどころで紹介されていたり、現代思想と「人生論」が結び付けられている箇所があるあたりも、本書の特徴のひとつだろう。過去や現在の思想家が考えていたことを単に解説されるだけでは知的好奇心が充たされること以上のものは得られないし、社会のことなどの大きな問題に話を結び付けられても一般読者には縁遠く感じられてしまうが、個人の生活や人生という話に関わるとなれば本を読む意味も増す。ページ数や構成に由来するお手軽さと併せて評価すると、過去の現代思想入門書に比べてもかなりサービス精神が強い本であると言えるだろう。

 

 そして、本書では、現在に現代思想に対して向けられている批判や懐疑的な目線が意識されていることも見過ごせない。たとえば、本書の序盤では「冷笑系」という単語が二度ほど登場しており、「現代思想は価値や規範も相対化してしまうから善悪の判断の区別も付けなくなってしまい、結果的に権力やマジョリティを利することになってしまうのでないか」といった批判に応えようとしている。また、第5章では「精神分析なんてデタラメではないか」という批判を取り上げたうえで精神分析が擁護されているし、「付録」では「フランス現代思想は無駄にレトリックが多くて難解だ」という批判を意識したうえでレトリックだらけになってしまう理由を解説して、「レトリックに振り回されずに読もう」というアドバイスもなされている。これらの、批判を意識したうえでの「擁護」は、『現代思想のパフォーマンス』や『現代思想の冒険』にはなかったものだ。

 本書を読んでいて逆説的に思ったのが、なんだかんだで、いまは現代思想にとって「冬の時代」になっているということだ。日本のインターネットには、ドゥルーズデリダフーコーも読んでいないくせにジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーなどの英語圏の「合理的」な思想家や学者の本を受け売りして「精神分析が間違っていることなんてとっくの昔に判明したし、ソーカル事件も起こったし、フランス現代思想がデタラメだなんてことはもうわかりきっているんだ!」と騒ぐ不届き者が多々存在している。また、ブログやSNSを主戦場にしながら「現代思想批判」を十年以上続けている日本人の翻訳家や学者などもちらほらといる。このタイプの批判者の多くは本人自身がある種の「冷笑系」であったり保守・右派であったりするが、日本の左派の間でも現代思想歴史修正主義と結び付けられて(あるいは左派の間で嫌われ者となっている東浩紀という個人に結び付けられて)敬遠されるようになっている。

 …とくに千葉は『ツイッター哲学』という本を出すくらいにはネットやSNSに浸かっているタイプであり、本人もしばしば炎上したりサヨクとウヨクの両方からしょっちゅう難癖を付けられている人物だ。SNSにおいては批判に取り合わないことが多い千葉であるが、本書を読んでみれば、現代思想に対する数々の(ネット上の)批判を意識しているということが受け取れる(そうでなければ、「冷笑系」という、ややハイコンテクストなネット用語を一般人向けの新書本でわざわざ持ち出すこともないだろう)。つまり、「冬の時代」にあって現代思想の価値を説きながら、お手軽でコスパのいい構成にすることで少しでも多くの読者を現代思想の世界に招くことを目指した、ある意味では志が高い本であるとも評価できる。もっと若手の学者や物書きの連中が「さいきん読んでもいないのに現代思想を批判している連中が増えているけど読んだら面白いんだもん、あいつらひどいんだもん」といった泣き言をぐちぐちとツイッターで垂れ流しているのに比べると、ネットでは批判を相手にせずより広い読者層に向けて充実した主張を発信できる書籍というメディアによって現代思想を広めようとする千葉のスタンスや戦略は、建設的で前向きなものと評価できるだろう。

 

 とはいえ……『現代思想入門』を読んで現代思想の世界にリクルートされる人というのは、やはり、元々から現代思想に興味を抱いていたり多少の知識を持っていたりする人なのではないか、という気がしないでもない。すくなくとも、わたしのように現代思想に対してネガティブなイメージを多少なりとも持っている人を転向させられるほどの内容ではなかった。

 本書では、デリダドゥルーズフーコーなどの思想について「紹介」はされるし、人生論やライフハックや社会について考える方法などへの「応用」の仕方はされる。だが、彼らの思想が何かしらの意味で正確であったり妥当であったりするということについての「論証」や「説得」はなされていないように思えるのだ。

 たとえば…フーコーの権力論が紹介されるだけでなく、フーコーの考えは権力や社会に関する他の見方よりも(なんらかの点で)正確であったり妥当であったりすることが示されない限りは、わたしはフーコーの権力論に賛同する理由を見出せない。また、ドゥルーズの思想がライフハックに応用できるとして、ライフハックをするのに他の考え方(心理学や脳科学行動経済学、あるいはストア哲学など)ではなく現代思想に基づいてしようとわたしが思うためには、他の考え方に比べてのドゥルーズの思想の利点や有効性を論じてもらわなければならないのだ(だってライフハックのためにわざわざドゥルーズを読むのってふつうに考えたら明らかにコスパが悪いし)。

 とはいえ、本書のページ数の短さや、新書の入門書であることを考えると、これは「ないものねだり」であるかもしれない。たとえば倫理学の入門書を新書で書くとして、「道徳なんて存在しないし倫理学なんて意味がないに決まっている」と始めから疑ってかかっている読者を説得するために紙幅を割く、というのはあまり意味がない場合が多いだろう。一冊の新書でできることは限られているし、敵対的な読者を説得する作業はオミットして中立的な読者のために議論を提供したほうが、本として生産的なものになるはずだから。

 …それでも、「他者性」や「逸脱」や「グレーゾーン」の価値を説く「はじめに」の時点で、わたしは「ふつうの読者ってこの程度の議論に同意したり説得されたりしてしまうの??」と感じてしまった。

 でもまあ、逆に、わたしがすでにアンチ現代思想の本を読み過ぎていてその価値観に染りきっていることのほうが問題なのかもしれない。

 

これがおおよそフーコーの権力論の三段階です。そうすると皆さん、「良かれ」と思ってやっている心がけや社会政策が、いかに主流派の価値観を護符するための「長いものに巻かれろ」になっているかということに気づかざるをえないのではないでしょうか。そのようになんとも苦い思いをさせるのがフーコーの仕事なわけです。

 

(p.100)

 

 たとえば上記の段落を読んでいたとき、わたしの頭には「?」マークが浮かび続けた。主流派の価値観を護符することのなにが問題なのか?長いものに巻かれることがなぜいけないのか?それでなんで苦い思いをしなきゃならいのか?……その説明が『現代思想入門』のなかではされていないから、これらがわたしにはさっぱり理解できない。

 しかし、それはわたしがひねくれ過ぎていることのほうに原因がある。ふつうの読者は「主流派だけでなく少数派の価値観も守らなきゃいけないな」とか「長いものに巻かれる権威主義ってよくないな」といったことをなんとなく思っているだろうし、逸脱とか他者とかが何かしらのかたちで大切だということにも、素直な感性で同意できるのだろう。むしろ、(わたしのように)秩序を守ることを重視していたり多数派であることや権威をそれ自体では悪いと思わない人のほうが(新書本を手に取る層や哲学・思想に興味がある読者のなかでは)異端であるのだ。……とはいえ、このことは、いまや現代思想は多数派の感性にすっかり適合した「無難」なものになっているという事実を示しているとも思う。

 そして、異端の読者としては、本書を読み通した後には「やっぱり現代思想ってなくなったほうがいいんじゃないか」と思ってしまった。『現代思想入門』のなかでは「フランス現代思想は世間のイメージほど滅茶苦茶な主張をしてもいなければ極端なことを言ってもいませんよ」ということが繰り返し解説されるが、それで代わりに提示される微温的な主張は大したものであるようには思えない。第六章の「現代思想のつくり方」では現代思想家たちはビジネスのために他の思想家との差別化をはかっていることが(正直に)示唆されているが、哲学とか学問に対して素朴な憧憬を抱いている身としては「それって現代思想家たち自身が自分たちの主張や議論が真実であるとか重要であると思っているとは限らないってことで不誠実じゃん」と思ってしまう。付録の「現代思想の読み方」では現代思想がレトリックに塗れて難解になってしまう理由が(正直に)説明されたうえでそれでもめげずに現代思想を読む方法が解説されているのだが、いくら理由があるとしてもレトリックに塗れて難解である思想にわざわざ付き合う意義がまったく理解できないし、そのヒマがあるなら他の思想や学問の本を読んだほうがいいとしか思えなかったのだ。

読書メモ:『哲学の門前』

 

 

 

 著者の吉川浩満さんには文筆家としてのデビューするきっかけをいただいており、その後も編集者を紹介していただいたり『21世紀の道徳』や次作の執筆の打ち合わせにも毎回のように参加していただいてもらったりするなど、いろいろとお世話になっている(そして、本書内の「勤労日記(抄)」にはイニシャルとしてではあるがわたしも登場している(p.143))。

 本書も発売当初に献本してもらって、そのまましばらく積んでいたが、家庭の事情のために昨日から京都に実家に戻っており、東京からの新幹線や実家で読む本を持っていくうえで「事情のために集中できるコンディンションではないから軽い読み物のほうがいいな」ということを検討したうえで、エッセイがメインであると思わしき『哲学の門前』を持っていったという次第。とはいえ、そこまで気軽な内容というわけでもなく、世間一般の価値観からすれば必ずしも「軽い読み物」の枠には入らないかもしれないが。

 本書の特徴は、各章ごとに、「だ・である調」で書かれた著者自身の経歴や家族や友人にまつわるエピソードなどのエッセイが掲載された後に、そのエッセイに関連する哲学的なテーマについて過去の思想家や現代の書籍などを挙げながら簡単に解説や紹介をする「です・ます調」の文章が掲載される、という構成になっていること。

 また、よくある「哲学入門」ではなく、入門の以前の「門前書」を目指しているところも特徴のひとつだ。この「門前」に関しては下記のインタビューでも解説されている。

 

realsound.jp

 

 ……とはいえ、読んでいて思ってしまったのは、高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』と同じく、この本も著者のファンブックのようなものではないか、というところ*1。『哲学の門前』では哲学パートに比してエッセイパートの分量が体感にして2倍近くあり、エッセイというのはそもそもそれを書いている著者に対して興味がなければ(あるいは題材がよっぽど特殊であったり変わった文体であったりしなければ)読まれないものである。わたしは著者と知り合いであるからこそエッセイパートも本人との会話(や本人のSNSなど)を思い出しながら楽しく読めたが、そうでなかったら微妙なところだ。

 もちろん両者の違いも大きく、社会やマジョリティに対する批判が繰り返されており言葉遣いも過激なことが多い『布団の中から蜂起せよ』は間口が狭いがコアなファンが得られやすい内容になっている一方で、『哲学の門前』は文章は穏やかでトピックも無難な印象が強く、「広く浅く」な読者層になっていそうである。

 著者自身の在日コリアンとしてのアイデンティティ(とアイデンティティに対する両義的な態度)がトピックになったり「ネトウヨ」を批判する箇所があったりジェンダーに関する言及もあったりするなど、読み出す前に想定していたよりはずっと「政治的」な内容ではあったのだが、それらのトピックについて書かれている箇所すらも刺激はあまり強くなく読者に反感を抱かれる可能性もほとんどなさそうである。この「無難さ」はおそらく著者が狙ってやっていることだと思われるが、読んでいて色々と物足りなかった(もっとも、アイデンティティについて書かれている箇所については、わたし自身が在日アメリカ人であるために自分が考えてきたことや経験してきたことと重なる部分が多少あって…もちろん一緒にできないところもかなり多いのだけれど…新鮮味を感じなかったが、一般の日本人読者には新鮮味や刺激が感じられたりするのかもしれない)。

 そして、『布団の中から蜂起せよ』と同じく、本書についても「人文書」と言えるかどうかは微妙だ。哲学パートにおける解説や紹介は簡潔ながら要領を得ており、「右でも左でもある普通でない日本人」で松尾匡やジョナサン・ハイトなどを紹介しながら右翼/左翼の捉え方について論じるところや「複業とアーレント」における労働/活動論などは印象的ではあるが、「門前書」というコンセプトがゆえに散発的に紹介されるかたちになっていて、読者の理解を深めさせたり知識として定着させたりできるかどうかは難しいところだと思う。

 

 しかしまあ、読んでいて思ったが、どうにも最近のわたしは個人のエピソードといったものや「エッセイ」という形式自体に対する興味が薄れている。エッセイと哲学が混ざったうえで後者の比重が多い本というのは『哲学の門前』に限らず最近の日本では目立っており*2、わたし自身も自分でそういう本を書いてみようかなと検討していたところなのだが、やはり難しそうだ。そもそも、本書で取り上げられているような様々な出来事(学生時代の海外旅行、恩師や知己との出会い、研究会への参加、国書刊行会やヤフーへの就職など)に比するような経験が自分には乏しく、エッセイに書くためのネタがほとんどないことも痛感してしまった。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:もうひとつ目立っているのは、フィクション作品…とくにマンガ作品を引用しながら哲学(だか社会学だか)についてあれこれ解説します、というもの。すべてとは言わないが、このタイプの本もわたしは苦手である。マンガの内容について紹介している部分がまだるっこしくて文字数の無駄に感じられることが多いし、あくまで哲学(だか社会学だか)の本であるからマンガに対する「批評」の域にまでは達せられず、かといってマンガの内容を紹介はしちゃうから哲学(だか社会学だか)を「解説」するための文字数も足りなくなっちゃって、中途半端な出来になることが多いのだ。

インセンティブから目を逸らして社会を語るな(読書メモ:『自己責任の時代:その先に構想する、支えあう福祉国家』)

 

 

 

 タイトルが想像できるように、近年に蔓延している(とされる)、いわゆる「自己責任論」を批判する本。

 また、著者のヤシャ・モンクの教師のひとりがマイケル・サンデルであるらしく、「謝辞」でも真っ先にサンデルの名前が挙げられている。

 そして、この本の内容も、ベストセラーになったサンデルの『実力も運のうち』とかなり近い。あちらは「能力主義」を批判する本であったが、かなりの部分までは「自己責任論」批判と重なるものであった。主に批判する思想家がジョン・ロールズであるところも似ている(サンデルはフリードヒ・ハイエクも強めに批判していたのに対してモンクは運の平等主義者を批判しているところに違いはあるが)。政治家などの発した世俗的な言葉を引きながら「最近ではこんな風潮があります」と紹介しつつ、ロールズなどの思想家の著作にその風潮の原因を見出して批判する、という構成もいっしょ。

 そして、残念ながら、『自己責任の時代』も『実力も運のうち』と同様の問題を抱えている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 なんといっても、「自己責任」に代わるものとして提示される「肯定的な責任像」とやらが、中身がなくてショボい。また、サンデルが「能力主義」に代わるものとして提示した「共通善」と同じく、肝心なところはみんなの同意や話し合い…「民主的討論」に丸投げされてしまっているのだ。

 

第二に、特定の行動やその帰結についていつ市民が結果責任を負わされるべきなのかは、客観的に見てどんな行動に責任を負うべきかに関する何らかの抽象的な、時には超越的理由に基づく前制度的説明によって定まるのではない。むしろ我々が市民に抱く期待は、それ自体が、どの価値を優先するかについての民主的討論ーーできれば政治理論上の主張から一定の見識を得た、ただし政治理論によっては決着のつけられない討論ーーに託されるのである。

 

(p.193)

 

 モンクはこの本のなかでロールズなどの議論を散々批判するだけでなく、弱者への道場から責任という概念を否定する現代の左派についても「結果として弱者を対等な人間と見なさない発想を招き寄せている」として批判している。しかし、「責任を負わされるべきタイミングはいつなのか」をはっきりとさせずに(「政治理論上の見識を得た」という但し書き付きで)民主的討論に任せるモンクの議論が、新たな責任像を提出するものであるとは、到底言えない。

 責任に関する議論を行うなら、それがいつ発生するものであるかという基準や方針を、(大まかであってもいいから)示さなければならない。法律や給与・福祉の需給などの制度上のものであっても、非難や称賛などの日常的なものであっても、「どういうことをしたらペナルティを受けたり非難されたりしてしまうか」「どういうことをすればメリットが得られたり褒められたりしてもらうか」ということを人々に理解させるようにして、社会や組織や集団にとって害になる行動を抑制させたり益になる行動を積極的に行わせたりするように個人を促すこと、つまりインセンティブを提示することが、責任という概念の重大な要素だ。モンクやサンデルはこのインセンティブという発想を嫌っているようだが、実際のところ、それがなければ社会はまわらない。ロールズはこのことを理解しているので、批判を承知で自らが提示する社会像にインセンティブの発想を組み込んだ(実際にはロールズは「責任」ではなく「正当な予期」という言葉を用いているが)*1。そして、「責任」が討論によってその都度に基準が変動するようなあやふやなものになると、人々はペナルティを避けたりメリットを得たりするためにどのように行動すればいいかもわからなくなり、もはやインセンティブとして機能しなくなる。

 

 モンクやサンデルは、「社会を成立・維持させるためにはインセンティブが必要になるんじゃないの?」という当然の疑問に向き合っていない。彼らはインセンティブの必要性を論駁しているのではなく無視しているのであり、だからこそ、彼らが提示する社会像は向き合うべき面倒で複雑でイヤな物事が勘案されていない、薄っぺらい理想像にしかならないのだ。

 たとえば、モンクは「普通の人びとには責任を尊重すべき理由があり、その自覚もある」(p.190)から、インセンティブ的な責任像がなくなっても人々は福祉に頼るフリーライダーにとならずに努力して生産的な行為(または他者への責任を引き受けるケア行為)を行う、と楽観的に捉える。……だけど、わたし自身のこともわたしの身のまわりの人たちのことを想像してみると…もしかしたら「普通の人びと」ではない特殊な人ばかりが集まっているかもしれないけれど…とても、そうは思えない。

 本書では主に福祉に関する自己責任の問題が取り上げられている。1970年代以前は生活保護や失業手当などを受給するのに条件はなかったが、現在では職を探していたり職業訓練などを行っていたりするなど勤労に前向きであることを証明しなければ受給できなくなっている、というのが問題視されている。モンクはこのことを「(勤労への復帰という)責任を果たさなければ福祉の受給資格が得られなくなる」と捉えて「懲罰的責任像」と呼ぶ。

 しかし、失業手当を受けながら生活していた経験のある身から言わせてもらうと、「責任を果たさないと福祉が貰えなくなる」ことを「懲罰」と呼ぶのはかなりミスリーディングだ。なんといっても、勤労に復帰する意欲さえ示していれば、実際に働かなくてもお金が貰えてしまうわけだから。フリーターや会社員として数年働いた後だと、月に何度かハローワークに行くだけで(微々たるものだとしても)お金が入ってくるというのはかなりラッキーなことに感じられる。もちろん、理屈の上では、わたしたちには人権があるんだし税金とか雇用保険とか払っているんだし人間は互いに支え合って社会を成立させているんだから、働けなくなったり仕事を辞めたりした人がお金を貰うのは当然のことである。しかし、その「当然のこと」が成立するようになったのは、20世紀に福祉国家が誕生してからという人類史レベルで見ればごく最近であるのを忘れてはいけない(これはモンクに限らず、ここ数十年続いている「新自由主義」を異常なものだとして、福祉が成立していた戦後の一時期こそが正常だと主張する人々が忘れがちなことである)。それ以前の人からすれば、「条件を満たさないと福祉を得られなくなる」ということがペナルティなのではなく、「条件を満たせば福祉を得られる」ということ自体がボーナスなのだ。

 実際に、私のまわりでは、失業手当をできる限り多く取得するための計画を練ったり実行したりする人間が何人かいる。どいつも働こうと思えば働ける人なので正真正銘のフリーライダーだ。また、そいつらのことを別の人々に話すと、みんなイヤな顔をしたり怒ったりする。自分の身近に社会のフリーライダーがいるというのは、やはり気分が良いものではないのだろう。……そう考えると、福祉の受給に条件を課すということには、充分な理由がある。ハローワークに行ったり職を探しているフリをし続けたりするのを面倒に思わせて、あるいは金額自体を大したものではなくすることで「これならふつうに仕事したほうがマシだな」と思わせて勤労への復帰を促すことは、労働市場を正常に機能させるという点でも意味があるだけでなく、福祉に頼らずにまじめに生きている人たちに対して「福祉を維持すること」についてまだしも納得させやすくなる。もしどんな人でも無条件で失業手当を受け続けられるになったら、まじめな人たちの大半には、そのような雇用保険システムや社会保障・福祉システム全般を維持することが馬鹿らしく思えてしまうだろう。……そして福祉の削減を主張するポピュリスト政党が登場したら、みんなそこに投票する。

 実際には、充分に厳しい条件を伴う福祉システムが存在している状況でも、フリーライダーの存在を誇張したり実態からかけ離れた表現をすることで福祉システムに対する人々の悪意を煽ったポピュリスト政党が当選する、というのは国内でも海外でも起こっていることだろう。とはいえ、それに対して「そもそも福祉に条件なんていらないのです」なんて言い出しても、火に油を注ぐだけだ。……モンクやサンデルは「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」を重視するのと同時に「共通善」や「民主的討論」を理想化しているが、市井の人々の大半は(まじめであったり身近な人々を愛していたりするがゆえに)「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」をとくに重んじていないという事実から目を逸らすべきではない。市井の人々が共通善について民主的に討論したのちにもたらされる結論は、文系の学者や院生が教室や学会で話し合った後の結論に比べて、ずっと苛烈なものになるだろう。

 

 社会に「懲罰的責任」観や「能力主義」が蔓延した責任をロールズや運の平等主義者に着せようとしたりしなかったりする煮え切らない筆致も、『自己責任の時代』と『実力も運のうち』に共通する問題点だ。たとえば、モンクの言うところの「前制度的責任」やサンデルの言うところの「値する(ディザート)」という発想は、ロールズの『正義論』では採用されていないし、彼らもそのこと自体は認めている。しかし、ロールズの「正当な予期」の概念は結果的に「前制度的責任」や「値する(ディザート)」という発想を人びとに信じさせることになる、と彼らは批判する。……だが、そもそも、政治家や市井の人びとは『正義論』を読んだりロールズの議論を聞いたりしたうえで考えや価値観を定めているわけではないということは、モンクも認めているようだ。

 モンクやサンデルは、政治家などの言説を題材にした社会評論と、他の哲学者たちの思想に関する専門的な議論が行ったり来たりさせながら、「市井の人々が間違っていて不道徳的な意見を信じるようになったのは、ロールズなどのリベラリストのせいだ(しかしロールズなどはその間違っていて不道徳的な意見そのものは言っていないし、市井の人々がロールズなどを読んでいるわけでもない)」と主張する。端的に言ってこの主張は破綻しているし、サンデルやモンクがロールズと同じく政治哲学者であるとすれば、論敵を卑劣な方法で攻撃しているようにも思える。

 モンクやサンデルが向き合うべきは、懲罰的責任観が普及したり新自由主義の風潮が到来したりする以前の、(原初状態の!)人間とはどういう存在であるか、ということだ。ロールズはそれを真剣に考えたからこそ、インセンティブの発想を自身の正義論に持ち込んだ。懲罰や恩賞の基準を提示することなく民主的討論や共通善に丸投げすれば批判を回避することはできるかもしれないが、それは社会像を提案するという政治哲学者の務めから逃げているだけなのだ。

「運の平等主義」とはなんぞや(読書メモ:『平等主義の哲学』)

 

 

 

「運の平等主義」についてはロナルド・ドウォーキンの『平等とは何か』の読書メモ記事でも紹介しているが、広瀬巌の『平等主義の哲学』の第二章でもドゥウォーキンとそのフォロワーや批判者たちの議論が簡潔にまとめられていたので、紹介する。

 

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一方において、所与運という概念は、ある個人の制御を超えたタイプの運を捉えるものである。個人は所与運の悪影響に対しては責任を負うことができず、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪い場合、所与運の悪影響は補償されるべきである。他方において、選択運という概念は、ある個人の制御下にあるタイプの運を捉えるものである。個人は選択運の悪影響に対して責任を負うべきであり、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪いとしても、彼ないし彼女が悪しき状態にあることは何らの補償も正当化しない。

この区別を使えば、ここで運平等主義のもっとも一般的な定義を示すことができるが、この定義はほぼすべての種類の運平等主義を包含するほど十分に広いものである。

 

運平等主義:不平等は、それが所与運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義である。不平等は、それが選択運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義ではない。

 

(p.54)

 

 所与運と選択運とに間に明確な線を引くこと、つまり「ここまでは個人に制御できなかった物事だ」「ここからは個人が制御できた物事である」とはっきり区別をつけることが困難であるというのは、ドウォーキン自身が認めている。他の運平等主義者たちも、この区別を曖昧なままにしておく「プラグマティックなアプローチ」を採用するであろう、と広瀬は述べている。 

 なお、ほとんど全ての物事を選択運に帰する「無運説」、および、ほとんど全ての物事を所与運に帰する「全運説」というアプローチも存在する。前者の場合には現存する不平等のほとんどは各人の選択の結果であるから改善すべきでない(不遇な人々の状況も自己責任として処理されるべき)、後者の場合には現存する不平等のほとんどは各人が制御できる範囲を超えた運の結果であるから現存する不平等のほぼすべてが改善されるべきである(不遇な人々は自分の状況に対する責任を負わない)、ということになる。無運説は不人気である一方で、全運説は支持する哲学者たちも一定数いるようだ。……これは、自由意志に関する非両立説や(楽観的)懐疑論を支持する哲学者たちが一定数いることとパラレルであろう*1

 そして、全運説の場合には、責任概念の根拠は「その状況は自らの選択の帰結かそうでないか」ということではなく「その状況は意図した帰結であるか意図していなかった帰結であるか」ということに見出される。つまり、「ある結果を予測してある選択を行なったが、予測とは異なった結果が生じた」という場合、通常の運平等主義の場合には選択をした個人に責任があるとするが、全運説の場合には責任を問わないのだ。……しかし、自分の境遇が悪くなることを意図する人なんてほぼ存在しない。通常の運平等主義は向こう見ずなギャンブラーが金を浪費して貧乏になってもそれは本人の責任だという(ごく常識的な)見解・直観を正当化できるところに強みがあるのだが、全運説を採用するとその強みが消失してしまうのである。

 

「選択運」という概念を採用するにしても、どこまでが個人の選択でありどこまでが個人の選択ではないか、という判断にはやはり困難が伴う。

 たとえば、安い釣竿で事足りる「釣り」を趣味にしている人と高価なカメラを必要とする「写真」を趣味にしている人がいるとして、二人とも各自の趣味から得られる楽しみが全く同じである場合には、安い釣竿を買えるだけのお金を与えても楽しみという点で二人は平等になれない……後者は、前者と同じだけの楽しみを得るためには高価なカメラを買う必要があるからだ。このような「嗜好」「選好」の問題、そして自分の嗜好に対する責任をどこまで個人に負わせられるかという問題も、運の平等主義には付き物だ。

 ドウォーキンは、自分の嗜好や選好をどのようなものにするかということは個人の責任の範囲内にある、としている。一方で、ジェラルド・コーエンは、自らが制御できなかった嗜好や選好の責任を個人に負わせるべきではないとする真正選択説を主張している。たまたま写真が趣味になってしまった人が釣りを趣味にできた人よりも楽しみの少ない人生を過ごすというのはたしかに不平等なわけだから、この発想にも一理ある(ドウォーキンは『平等とは何か』においてそもそも嗜好や選好とは意識的に形成したり調整したりするものだという…これも一理ある…主張をしていたが)。

 しかし、個人は自分の嗜好に責任を持たないとなると、たとえばヘビースモーカーの人が他の人よりも医療費がかかった場合にも、本人はその責任を負わなくてよくなってしまう。タバコが好きになったことは本人の責任ではないとされるからだ。この結論を反直観的であると考える哲学者(ピーター・バレンタインやシュロミ・セガル)は理性的回避可能性説を提案する。「ある個人がある帰結について責任を負うのは、彼ないし彼女がそれを回避するよう期待することが理にかなう場合である」(p.60)。……もちろん、理性的回避可能性説を採用すると、今度は「理にかなう場合、って具体的にはどういうことよ?」という問題が生じることになるし、それについての長大な議論が必要になる。とはいえ、「タバコを吸い過ぎたら健康を害することは知っていたはずだから、そのリスクを知って吸っていたぶんには自己責任でしょ」ということは言えるようになる。

 

 運の平等主義のバリエーションとしては、バレンタインによる初期機会平等説(「人生の早い段階での人々の初期の機会ないし見通しが平等化されるべきであると主張」(p.66))と、マーク・フローベイによる出直し説も存在する(「人々が自らの選考を変えることを条件に、人々の人生コースで複数回にわたって見通しの平等化を要求することができる」(p.67))も存在する。

 出直し説では、たとえば、「ロック・スターになることを夢見て学校を中退したが、ミュージシャンとしてまったく成功せずに貧困状態で暮らしている人が、ロック・スターになる夢をあきらめる代わりに現実的なキャリアを追求するために大学への進学を希望している」という場合に、その人に入学費や授業料を支援することが認められたり求められたりする。……ある種、「優しくて寛大な社会」を目指す議論であるが、例中の人がロック・スターの夢に固執するような場合にはいくら貧困であっても支援しない(見込みの悪い夢を追い続ける選択をするのは本人の責任であるから)、という厳しさも持ち合わせている。

 とはいえ、夢を諦めるようにに要求する厳しさを持ち合わせているとしても、やはり出直し説は寛大に過ぎるかもしれない。どれだけ愚かな選択をしても、「やっぱり諦めて出直します」と言いさえすれば再スタートができてしまい、そのための支援は他の人たち…出直しの必要がないような賢明な選択を最初からしていた人たち…が負担することになるのだ。出直し説は慎重かつ注意深い選択をする理由を人から奪うという点で、モラル・ハザードを生じさせるリスクがある、とドウォーキンなどは懸念している。

 

 運の平等主義に対する批判はいくつかあるが、そのうちのひとつは、原因と責任の関係は再帰的であり、「ある個人が物事の原因について責任があると見なす場合には、原因の原因について責任があるのは誰かということも考慮しなければならず、原因を遡っていき続けると、どんな物事についても個人に責任があるということは言えなくなってしまう」というもの。

 これもやはり自由意志に関する非両立論や懐疑論に関連するタイプのものであるが、広瀬は「この大問題を解決することなしには、運平等主義が完全な道徳理論となることはないだろう」(p.70)と認めつつも、「単純に自由意志問題を棚上げにし、分配的正義の諸問題を議論するために特定の責任概念を仮定することは可能なのである」(p.71)としている。

 これについては本書でも指摘されている「福利」という概念や、動物倫理における「意識」という概念など、倫理学・政治哲学などの規範的な議論に絡んでくる諸々の概念についても同じようなことが言えるだろう。それらの概念が何を意味するかということについて定義の合意が取れていなかったり完全に理解することができていなかったりして状態であっても、(常識的/合理的な範囲内で)「とりあえずこういうものとしておく」としたうえで重要な規範問題について論じる、というのは可能であるし、やらなければいけないことでもあるのだ(また、哲学においてはどんな概念のどんな定義にも異論を提出したりケチを付けてきたりする人が永遠に登場し続けるので、仮定を禁じることは実質的に議論を禁じることにつながる)。

 

 運の平等主義に対するより深刻な批判が、フローベイやエリザベス・アンダーソンによる遺棄批判または過酷性批判である。

 以下はアンダーソンによって提出された「無謀なドライバーのケース」。

 

不用意にも別の車両との交通事故を惹き起こす違法な進路変更をした、無保険のドライバーについて考えてみよう。目撃者たちは警察を呼び、誰に過失があるのかを報告する。警察はこの情報を救急隊に伝える。彼らは事故現場に到着して過失のあるドライバーが無保険であると知ると、ドライバーを放置して道端で死ぬに任せるのである。

(Anderson 1999:295)

 

(p.71)

 

 運の平等主義は無謀なドライバーを死ぬに任せる選択を肯定してしまう、というのがアンダーソンの批判だ。

 これに対して運の平等主義者が取れる対応の一つは「だからどうした?」と言い放つこと(p.72)。実際、保険も入らず危険な運転をしてしまうようなドライバーを放置するというのは有り得る考え方だし、ある面ではヘタに救出するよりも死ぬに任せてやったほうが本人の自律を尊重しているとも思う*2。……とはいえ、実際には多くの運の平等主義者は遺棄批判を深刻に捉えており、対応の必要性を感じるようだ。

 コーエンやセガルは運の平等主義とは別の分配原理を訴えて、遺棄の問題については別の分配原理によって対応する、という方法をとる。コーエンは「友愛に基づく平等主義」を主張するが、広瀬は「私にはそれがよく分からない」と手厳しい*3

 また、セガルは運の平等主義に「ベーシック・ニーズを満たす要請」を加えた「多元主義」を主張する。しかし、多元主義は原理間が衝突した際の調整や優先順位をどうするかという問題を招き寄せるし、多元主義を採用しても運の平等主義が分配原理として問題のあるものだという批判自体に反論できるわけではない、という問題を広瀬は指摘する。

 遺棄批判に対応できるのは全運説と出直し説であり、このうち全運説はそれ自体が問題含みであるから結果として出直し説がアンダーソンの批判に対してもっともうまく対応できる、ということになる。……とはいえ、出直し説を唱えたフローベイ自身が、アンダーソンよりも前に遺棄批判を提出したわけなのだが。

 

 わたしとしても、たしかに、出直し説はうまく対応できていると思う(「それがどうした?」で突っぱねる対応にも魅力を感じるが)。

 たとえば、無保険で無謀な運転による事故を初めて起こしたドライバーは、保険に入っていなかったことや無謀な運転をしたことを後悔して、ケガから回復して諸々の医療費や損害賠償などを払い終わった後には保険に入ったうえで安全運転に努める可能性が高いだろう(それか免許を返納して運転自体をしなくなるか)。事故のリスクについて知識としては理解していても、それを実際に経験するまではリスクを低く見積もったり自分の能力を過信したりするということは、あり得る範囲内というか常識的な範囲内の過失であると思う。そして、大半の人は、痛い目を見るという経験をした後には反省できる程度の賢明さも同時に持ち合わせている。

 しかし、何度も同じような事故を起こすドライバーについては、運転することを禁じたり、あるいは事故現場に遺棄したりしてしまうことは、許容され得ると思う。……そこまで埒外の行為や生き方をする人の面倒までをも見て、彼の過失に対する補償を負担する義務が、他の人たち(=社会)にあるとは思えないからだ。

 わたし自身、自分に愚かなところがあったり長期的な視座がなかったりリスク評価を適切に行えなかったりするという自覚があるので、愚かな選択を一定範囲まで許容して寛大な対応を行う出直し説には魅力を感じる。

 同時に、常識の範囲内で愚かな人間と、(「無謀なドライバー」のような)埒外に愚かな人間とでは対応を分ける必要性も感じる。……おそらく、後者については、その人たちに実際に愚かな選択をさせてからその報いを受けさせるというよりも、最初から責任能力を認めずに選択肢を取り上げるほうが、社会にとっても本人にとってもいいのだろう。無論、これはパターナリズムであるし、また別の面で平等とか自由とか権利とかとの間に多大な衝突を引き起こすことになるのだが。

 もちろん、常識の範囲内の愚かさについても、制度設計によって選択肢を部分的に取り上げたり誘導したり、人々の愚かさよりも賢明さのほうが発揮されるようにコントロールを行ったりする、といったことも検討すべきである。リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンのリバタリアン・パターナリズムやジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』などで提示しているような社会像はこのようなものであるが、この発想は運の平等主義と両立させることができるはずだ。

 

 なお、フローベイの本の邦訳は4月に出版されるようだ。

 

 

 

 また、リッパート=ラスムッセンという人も運の平等主義の代表的な論客であるようだけれど、残念ながらこの人の本はまだ邦訳される予定がないようである。

 

 

 

 

 

*1:

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*2:ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』の「ヘルメットを着用しなくても罰せられることはない」というくだりを思い出す。

*3:

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『平等主義基本論文集』の「編者あとがき」でも、広瀬はアンダーソンの「民主的平等」に対してコーエンに対するのと同様の厳しさを見せている。おそらく、真面目かつ冷徹に平等の原理を追求する哲学者として、アンダーソンやコーエンのような曖昧かつ甘い主張には苛立ちを感じるのだろう。

インセンティブ、不平等、トリクルダウン(読書メモ:『正義論』③)

 

 

 知っての通り、ジョン・ロールズは『正義論』で「社会的・経済的不平等は、それが最も恵まれない人たちにとって利益になる時にのみ正当化する」とする、「格差原理」を提案した。格差原理は、ときに平等のために過度の全体的な損失を要求することもあるが、逆に、不平等の増大を黙認することもあり得る。

 後者の問題については、平等主義と見なされることの多いロールズの考え方であることをふまえると、違和感を抱く人も多いだろう。

 なぜロールズが不平等の拡大を容認するかについては、広瀬巌による『平等主義の哲学』の第一章で以下のように解説されている。

 

彼の論証は、不平等を容認するためのパレート論証ないしインセンティブ論証として知られている。ロールズによれば、適切な不平等を許容することは、すべての人に対して、より大きな努力をして自らの才能を発展させるインセンティブを与えることになる。結果として、分配できるパイがより大きくなり、最も境遇の悪い集団はそうでなかった場合と同じかより高い水準へと辿り着ける。ロールズは、完全な平等性を捨てることによって全ての人の境遇がより良くなりうるのであれば、完全な平等性を維持することに固執するのは不合理であると主張するのだ。これこそ、ロールズの格差原理が、それが社会の最も境遇の悪い集団を代表する個人の期待を最大化するかぎりは、不平等の増大を黙認できる理由である。

 

(『平等主義の哲学』、p.30)

 

 また、本章の「注」では、インセンティブ論証とトリクルダウン理論が混同されやすいことが指摘されている。

 

一見すると、ロールズの不平等を容認する論証は、典型的には不平等を全く気に掛けない人々によって支持されるトリクルダウン理論に似ている。だが、格差原理はトリクルダウン理論とは区別されるべきである。トリクルダウン理論が主張しているのは、企業および富裕層にとっての減税その他の経済的便益が、経済全体を改善することを通じて、結果的に社会のより貧しい成員たちを益するだろう、ということである。だが、トリクルダウンが社会のより貧しい成員たちを益する保証はどこにもない。

 

(『平等主義の哲学』、p.47)

 

『平等主義の哲学』によると、分析的マルクス主義者であるジョシュア・コーエンは、「『正義論』における原初状態の市民たちは正義に適った社会を作って暮らそうとしているのだから、インセンティブとそれによって結果的に生じる不平等という発想を持ち込むのはおかしい(正義に適おうとしているのだからインセンティブがなくても努力するはずだし、その果実を他人に分け与えるはずだ)」といった指摘をしているようである*1

 

 ロールズによるインセンティブ論証については、以前に紹介したアダム・スウィフトの『政治哲学への招待』のなかでも取り上げられていた。そのなかでも印象的な批判を引用しよう。

 

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平等主義者の聖人ではなく、現実の人間が住んでいる現実の世界に立ち戻ろう。現実世界の記述として、またもしわれわれが経済的不平等を一掃したなら、起きるであろうことの予測として、お馴染の説明はかなり的を射ているように思われる。すなわち、人々は、経済的なインセンティヴによって動機づけられているのであって、何らかの不平等がないと、システムは崩壊してしまうであろうというのである。しかしこの説明を、人々がどのように行動するかの記述としてではなく、また経済的なインセンティヴの欠如に対応して、人々がどのように行動するかの予測としてでもなく、不平等の正当化として考えたらどうだろうか。正当化は、どのように機能しているだろうか。正当化は、人々が、利己的に、経済的報酬への欲望によって動機づけられているという事実に訴えかけている。より厳密に言うなら、人々は、最も不遇な人の福祉を最大化するようには、動機づけられていないと仮定している。もしそうなら、人は、どのような仕事であれ、長期的に見て、最も不遇な人に最も益となるような仕事をーーそれをすることでどれぐらいの報酬が得られるかを顧慮することなくーーするであろう。何か奇妙なことが、どこかで生じているに違いない。もっとも恵まれない人の利益を最大化することに関心があると主張し、また同時に、実際にそうした人の助けになることをするためには、インセンティヴとなる報酬が必要だと主張するような個人には、どこか統合失調症的なところがある。

[…中略…]

おそらく、今日のイギリスやアメリカを特徴づけている不平等は、人々の利己的な動機づけを所与として正当化されている。しかしながら、未解決の問題は、そうした動機づけそれ自体が、正当化されるかどうかということである。もしそうでないとすれば、インセンティヴに基づく議論は、不平等についての真に完全な擁護論を提供してはいない。せいぜいそれは、不平等が必要悪であることを示しているだけである。私の子供を人質に取った者に、お金を渡すとき、私は正当化されるかもしれない。しかし、そこから、譲渡後の報酬の分配が、正当化された分配であるという結果が引き出されるわけではないのである。

[…中略…]

人がそのような正当化を支持し、同時に、インセンティヴとしての報酬を受け取っている自分自身が正当化されると主張するとき、疑わしい不整合が生じている。

 

(『政治哲学への招待』、p.176 - 178)

 

「どこか統合失調症的なところがある」とは印象的な表現である。

 ロールズの議論は道徳的な目的のためになされているが、『正義論』においてはできるだけ合理的な前提……つまり個人は(友愛があったり正義感覚があったりするとしても)自己利益を追求する存在だ、という点から出発したうえでそれでも社会に正義を実現するためにはどうすればいいか、ということが論じられている。合理性と道徳性は必ずしも相容れないわけではないが、矛盾が起きないように調停を突き詰めていくほどに、結果として登場する原理や枠組みはキメラ的なものとなるのだろう。

 スウィフトが行っている批判はコーエンによる批判と同じような問題意識に基づいているのだろう。また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち』のなかでロールズの「正当な期待」論を批判していたくだりも、ほぼ同じ内容だ。

 つきつめて言えば、「格差原理によってインセンティヴと平等が両立するというの、理屈の上では正しいかもしれないけれど、理屈の上でしかなくて、実際には格差原理は「おれが金持ちになったのはおれの才能や努力の結果で当然のことだし、才能がなく努力もしない貧乏な奴らに金が対して分配されないのも当然なことだ」といった傲慢で非友愛的な態度をもたらしますよね?」という批判である。インセンティブ論証とトリクルダウン理論理論上は異なるが、実際にはインセンティブ論証に基づいた社会構造や規範はトリクルダウンに基づいた社会構造や規範と同じような発想や言動を人びとにもたらすだろう。

 サンデルの本を読んだときにはこの批判に納得がいかなかったが、スウィフトやコーエンも同様の批判をしていると知ってわたしもこの批判に対して正当性を感じるようになってきた。

 とはいえ、やはり、インセンティヴは必要だしそれがなければ社会の富は増えず総合的に見て全ての人の状態が悪くなる、というのも事実だろう。ロールズの議論が統合失調症的であるとしても、それはこの事実を正面から見据えたうえで、逃げ出さずに取り組んだからである。一方で、サンデルのような共同体主義者やコーエンのようなマルクス主義者の議論はこの問題に対処できているかというと、そんなことはない。現実から目を逸らしてインセンティブの存在そのものを否定したり、「共通善」といった具体性が皆無で有効性も不確かであるお花畑な概念を持ち出したりするのが関の山だ。

 結局のところ、多少の不整合や偽善や傲慢さをもたらすとしても、ロールズの議論のほうが支持できるものだと思う*2

 

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 なお、『正義論』の「事項索引」を見ても、「インセンティブ」という事項は掲載されていない。「正当な予期」という事項は掲載されており、以下のような場面で使われている。……しかし『正義論』はおそろしく内容や文章がわかりづらい本であり、しばらく読んでいても、批判者たちが指摘するような「インセンティブ論証」をロールズが実際に行っているかどうかということ自体について、わたしは理解するのに手間取ってしまった。

 

さて本書で述べてきたように、基礎構造こそが正義の第一義的な主題となる。もちろん、どのような倫理の理論も正義の主題のひとつである基礎構造の重要性を認めているにせよ、あらゆる倫理の理論がその重要性を一様に評価しているわけではない。<公正としての正義>において、社会は相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す協働の冒険的企てだと解釈される。基礎構造は諸活動の枠組みを規定するルールの公共的システムであって、このシステムは人間が力を合わせて便益の総量を拡大生産するように彼らを誘導し、かつ収益の取り分に対する一定の権利要求を承認のうえ各人に割り当てる。人が何を為すかは、公共的なルールが当人にどのような権利資格を付与したかによって決まり、ある人の権利資格は当人が何をするかによって決まる〔という循環関係が成立している〕。複数の権利要求ーー正当な予期に照らして人びとが取り組むものごとが、それらの権利要求を決定するーーに敬意を払うことを通じて、結果として生じる分配へとたどり着く。

 

(『正義論』、p.116、強調は引用者による)

 

…正義にかなった協働のシステムが公共的諸ルールの枠組みとして与えられ、関係者の予期がその枠組みによって構成されると仮定した場合、自分の生活状態を向上させる見通しをもって、当該のシステムがその報酬を与えると公言していることがらを為した人びとは、自分たちの予期が満たされることに対する正当な権原・資格(entitlements)を有している、ということ。こうした意味において、運や財産に相対的に恵まれた人びとは自らの相対的に望ましい境遇を保持する権利を持っている。言い換えると、彼らの権利要求は社会の諸制度によって確立された正当な予期であって、それらの予期を充たす責務を共同体(周囲の人びと)が負うことになる。けれども、ここでいう功績(desert)は〔他者や共同体の承認を基盤とする〕権原・資格という意味にほかならない。この意味での功績は、協働の制度枠組みが現に作動していることを前提としており、この制度枠組み自体が格差原理に則って設計されるべきか、それとも別の基準に従うべきかという〔制度設計の〕問題を考える上での重要なつながりを何ら有するものではない。

 

(『正義論』、p.139 - 140、強調は引用者による)

 

*1:あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』ほしいです。

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*2:なお、ロールズは不平等それ自体は友愛に反したり自尊を奪ったりするという点で問題であると見なしているが、「不平等それ自体は全く問題でない」と断言するハリー・フランクファートやスティーヴン・ピンカー的な意見にも一定の説得力はあると思う。

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「正義の情況」とはなんぞや(読書メモ:『正義論』②)

 

 

 前回の記事の下記の箇所についての補足も兼ねて。

 

資源に限りがなく、人々の間に価値観の争いがないユートピアの世界であれば、このような制度も成立するだろう。しかし、現実はユートピアではない。

日本じゅうがわたしのレベルに落ちたら…(『布団の中から蜂起せよ』読書メモ:追記) - 道徳的動物日記

 

 

<正義の情況>(circumstances of justice)は、人間の協働を可能かつ必要なものとする、通常の状態として描き出すことができよう。本書の冒頭で指摘しておいたように、社会は<相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す、協働の冒険的企て>ではあるものの、通常その企ては利害の一致だけでなく利害の衝突によっても特徴づけられる。なぜ利害の一致が生じるかと言えば、各人がもっぱら自分の努力だけで暮らそうとした場合に比べて、ずっとよい暮らしを社会的協働が可能にしてくれるからである。だが、自分たちの協調行動が追加的に生み出した多大の便益がどのように分配されるかに関して、人びとは無頓着ではありえないので、利害の衝突が存在することになる。各人の目的を達成しようとするために、少ないよりは多い[便益の]取り分のほうを全員が選好するからである。それゆえ、相対的利益の分割を決定する多種多様な社会的制度編成の中から選択し、適正な分配上の取り分に取り分についての合意を裏書きするための諸原理が必要となる。こうした要求事項が正義の役割を規定する。これらの事項を必要・不可欠とする後ろ盾の条件こそが、<正義の情況>に相当する。

 

(p.170)

 

 ロールズによると、正義の情況は「客観的・客体的な情況」と「主観的・主体的な情況」に分けられる。

 

「客観的・客体的な情況」は、以下の三種類:

(1)諸個人は体力と知力の面でおおよそ類似しており、他の人たちを支配できるほどに際立った体力や知力を持つ人はいない。

(2)どの人も攻撃に対して傷付き、どの人の計画も他の人たちが力を合わせられたら妨害されてしまう。

(3)資源の適度な希少性(moderate scarcity)…天然資源やその他の資源は、協働の枠組みが不必要になるほど豊富ではないが、協働の枠組みが成立し得ないほどには貴重ではない。人びとにマシな暮らしむきをもたらす程度の制度編成は実現可能であるが、制度によって算出される便益も人びとの需要(のすべて)を満たすほどではない。

 

「主観的・主体的な情況」とは、人びとのニーズや利害関心はほぼ類似しているとはいえ、人生計画や善の構想が異なることから、資源をめぐって対立する権利要求が打ち出されることがある(「利害関心の衝突」)、というもの。

 また、人びとの知識や理性能力や記憶力などが制限されていること、不安や偏見や私事への執着によって人びとの判断が歪められることも、「主観的な情況」に含まれている(これは利己性や怠慢など「道徳上の落ち度」から生じる場合もあるが、大部分は「人々がおかれている自然本性的な状態の一部に過ぎない」(p.172))。

 

…議論を単純化するために、本書はしばしば、(客観的な情況のうちの)<適度な希少性>という条件と(主観的な情況のうちの)<利害関心の衝突>という条件を強調する。したがって手短に言うと、次のようになる。適度な希少性という条件のもとで、社会的利益の分割に関して相反する要求を人びとが提起するときにはいつでも、正義の情況が確立・定着する、と。生命と身体に対する危害の恐れがないところでは、体を張った勇気を必要とする直接の誘因が存在しないのと同様、正義の情況が存在しないならば、正義という徳目を必要とする直接の理由は存在しない。

 

(p.172)

 

 

『正義論』における議論に限らず、分配的正義…資源や負担の公平な分配とはどんなものか、ということ…について考える際には、「適度な希少性」と「利害関係の衝突」にを無視することはできないだろう。

 なお、資源の量は一定ではなく、社会の制度や構造…「協働の枠組み」…のあり方によって増えたり減ったりするものであることにも留意しておくべきだ。単純に言えば、人びとが働いたり、様々なイノベーションが起こったりすることで、資源を増やすことができる。なので、一定以上の数の人びとを一定以上に働かせたり研究や起業などに向かわせることも考慮しておかなければならない。

 

 もちろん、この「正義の情況」という発想に疑問を呈する人もいる。

 たとえば、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア:障害者・外国人・動物という境界を超えて』では、「客観的・客体的な情況」の(1)と(2)を前提とする正義論では障害者や動物といった存在を正義の対象に含めることができないことを批判していた(健常者の成人がやろうと思えば容易に支配できてしまう存在は正義の対象にならない、ということになるので)*1ヌスバウムは「[デビット・]ヒュームが力のだいたいの平等性に依拠していることは、彼の正義論にきわめて大きな悪影響を及ぼしている」(p.60)と書いたうえで、ロールズの議論もヒュームによる「正義の情況」論に依拠していることをかなり強く批判している。

 とはいえ、上述の引用文にも示されているとおり、『正義論』のなかでは「力のだいたいの平等性」よりも「適度な希少性」と「利害関心の衝突」のほうが強調されているという点は留意しておくべきだと思う。

私見では、いわゆる「社会正義」的な議論では、この二点はとくに無視されることが多い。資源については「いま権力者や金持ちやマジョリティが持っているぶんを奪って他の人たちに平等に分配したら問題が解決するでしょ」という程度にしか考えていなさそうな人も多いし、利害関心については「間違った考え方をしている人や悪い意見を持っている人の利害関心なんて考慮しないのが正解っしょ」というくらいに思っていそうな人が多々いるように思えてしまうのだ。

 ウィル・キムリッカが『現在政治理論』で解説していたような、マルクス主義(の政治哲学)では、「利害関心が対立する」という事態が解決されるべき問題であるされており真に善き共同体では「正義」は必要のないものとみなされる、ということも関連しているのだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 もちろん、リベラリズムにおいては、人びとの人生計画が異なっていることを前提にしたうえでそれぞれに自由に生きられる社会のほうが理想とされるので、利害関心の対立はどれだけ社会が進歩したところで不可欠的に生じるものとされていて、そのこと自体は問題でもないとされるはずだ。……とはいえ、マルクス主義者であると自認していない人ですら、このことはついつい忘れてしまいがちである。