道徳的動物日記

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「男性同士のケア」が難しい理由

 

 

 

 近頃では、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」と言った主張がちらほらとされるようになっている。

 この主張がされる文脈は様々だ。「これまでの社会は女性にケア役割を押し付けていたが、これからは男性も平等にケア役割を担うべきである」という問題意識に連なる主張である場合もあるだろう。

 また、女性の恋人や妻がいないことで「女性からの承認」を得られないと悩んだり「孤独」になることを恐れる男性に対して、「そもそも"自分は異性のパートナーにケアしてもらうべきだ"という発想を捨てて、同性との相互にケアし合う関係を築く可能性に目を向けてみるべきだ」という批判込みのアドバイス的な意味合いで、「男性同士のケア」が提唱される場合もある。

 そして、「マウントを取り合う」「互いに褒め合わない」といった男性同士のコミュニケーションの特徴を批判したり、男性は友人同士で互いに触れ合ったり親密な関係を築くことを恐れがちであるということを指摘したうえで、既存の「男同士の関係性」に対する代替案として「男性同士のケア」の重要性が指摘される場合もあるようだ*1

 

 いずれの主張にせよ、「現時点では、男性同士でケアが成立している関係は貴重であり、多くの男性たちは互いにケア関係を築く気がなく、また築こうとしても失敗がちである」といった事実認識が背景にあるようだ。

 その事実認識については、わたしもおおむね同意している。男性同士で理想的なケア関係を築けている実例を目にしたことはほとんどないし、「男性同士でケア関係を築こう」と思っていたり試みていたりする男性にもほぼ会ったことがない。自分自身もそうであるし。

 そして、女性同士でのケア関係については、なかなかうまく行っている実例を目にしたことが何度かある。わたしはあくまでその関係の外側にいており、内部が実際のところどんな感じになっているのかは未知ではあるのだが、女性同士でシェアハウスやルームシェアなどを楽しく順調に長期間続けられている、という話を聞いたことが度々あるのだ。

 比較すると、男性に関しては、シェアハウスやルームシェアをしていたけど破綻した、という話を聞くことの方が多い。かろうじて続けている人たちについても、女性同士のそれに比べて、ぜんぜん楽しそうではない。ふつう共同生活に必要とされるはずの気遣いやコミュニケーションができていなくて、冷淡でギスギスした関係になったり片方がワリを食っていたりする、ということの方が多いのだ。

 

 男性同士のケア関係が成立しない理由については、ジェンダー論的な説明がなされることが多い。たとえば、男性たちは社会から課された「男らしさの呪縛」にとらわれており、互いに感情を打ち明けたり優しさを示したり弱みを見せ合ったりすることに抵抗感を抱いてしまう、という説明がされる。あるいは、男性社会のあいだに存在する「ホモフォビア」のために、スキンシップを含めた親密なコミュニケーションを同性と取ることに拒否や嫌悪の気持ちを抱いてしまう、という説明がなされたりする。

「男らしさの呪縛」にせよ「ホモフォビア」にせよ、男性たちのあいだにそういうものが存在するという点に関しては、わたしも全否定はしない。わたし自身としてもそういうものを感じなくはないし、たとえば企業で出世コースを歩んでいてバリバリと活躍して妻も子供もいるような「正常値」のタイプの男性については、男らしさやホモフォビアにより強くとらわれている人が多いだろう。

 しかし、男性が抱える問題について語る言葉が、いつもいつも「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」といったもっともらしい用語に回収されることには、違和感や物足りなさも感じる。

 わたしの周りには立身出世や家庭を持つことをあきらめた代わりに好きなことをしてラクに生きることを望む「外れ値」な男性が多く(そのなかにはわたし自身も含まれている)、彼らが「男らしさ」にとらわれている度合いは「正常値」な男性に比べるとずっと小さなものであるはずだ。ホモフォビアについても、三十代前半であるわたしと同年代かわたしより若い世代であり、四大卒であり都会に住んでいて映画や小説にも親しんでいて……という属性であれば大半はリベラルな考え方を持つものであり、同性愛を嫌悪しているという感じは薄い。男性同士でスキンシップをすることには抵抗感を抱かない人もふつうに沢山いる。

 しかし、そんな彼らにとっても、やはり「男性同士のケア」は難しいのだ。普段からナヨナヨしていて、弱音や愚痴を吐くことに抵抗感を抱かなくて、スキンシップを拒まない男性であっても、それで同性とのケア関係が成立するかどうかは別の話なのである。

 

 この問題を解くために、前回にも紹介したトマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』に基づいて論じよう。

 この本の主題は、「男性の高い自殺率は、男性は女性に比べて孤独になりがちであるから」というものである。そして、男性が孤独になりやすい理由のなかでも大きなものが、「男性はコミュニケーション能力に欠けているから」ということだ。

 男性がコミュニケーション能力に欠ける理由には、生得学的な要因もあれば、環境的な要因もある。

 生得学的な要因としては、「男性は女性に比べて生来的に物質主義的であり(instrumentalism)、人間に対する興味が薄い」という点がある。おもちゃ箱にいくつもおもちゃが入っているとき、女の赤ちゃんは人形やぬいぐるみなどの「人(人格)」が関わるおもちゃを選びがちな一方で、男の赤ちゃんはミニカーやボールなどの「物」らしいおもちゃを選びがちなことは、普遍的な傾向だ*2

 この傾向は成長してからも男女の興味や行動や志向に様々な影響を与え続ける。女性が他人に目を向ける一方で、男性は地位や金にばかり目を向けるのである(これも物質主義の副産物だ)。進学や就職の男女差……看護学や心理学などの「人」が関わる学問の志望者には女性が多く、数学や哲学などの抽象的な学問の志望者には男性が多い、など……には、社会や環境の影響だけでなく生得的な志向にも影響されているのだ。

 環境的な要因としては、もともとが人に対する興味が少ない男性たちが、それでも他人に対して関心を向けてコミュニケーションする方法を学ばずに大人にまで成長できる環境が現代の社会には用意されてしまっている、ということがある。これについてはジョイナーの本を紹介する記事に詳細を書いているので、詳しくはそちらを参照してほしい。以下では要旨だけを書こう。

 小学校から大学までは周りに同世代の若者がたくさんいるため、男性は「友人を作ろう」と意識して努力しなくても友人を作れてしまい、「友人は特に自分から働きかけなくても自然と作れてしまうものだ」と考えるようになる。そして、特に若い男性同士の間では、互いのことをさして考えずに好き勝手なことをする粗野で気さくな友人関係が定番になるものだ。

 しかし、社会人以降の環境は学生時代のようにはいかず、新たに友人を作ろうとすればそのことにコミットメントしなければいけない。だが、大半の男性は友人の作り方や関係の維持の仕方を学生時代のうちに習得していないから、新たな友人を作ることが困難なのだ。そして、歳を取るにつれて、昔からの友人は疎遠になったり病気で死んでしまったりして、いなくなる。だから、男性は友人のいない孤独な老後へと一直線に進んでしまうことになるのである。

 一方で、女性たちは、友人の作り方や関係の維持の仕方を学生の時点で学んでいる。「人への関心」が高い女性同士の関係では、互いに気を遣いあったり感情を察知しあったりコミュニケーションの工夫をしたりなどの労力を払うことが必要とされる。これについては「女性同士の関係はドロドロしている」「女の友情は本物じゃない」などとのネガティブ・イメージが持たれがちであるが、若い頃からそのような関係を築くことは、歳を取ってからもメリットをもたらす。女性は、友人ができたり友情が続くことは自然で当たり前のことだとは見なさず、労力を支払う必要があるものだという事実を、人生の早い段階で学習することになるのだ。

 そのため、女性は社会人になっても、男性のように友人に困ることはない。女性は人生のどのステージであっても新しく友人を作ることができる。さらに、女性同士の友人関係は、男性同士の友人関係に比べて長続きしやすい(関係維持のための労力を互いに払っているからである)。これが、男性に比べて女性が孤独になりにくい理由のひとつであり、ひいては女性が男性に比べて自殺のリスクが低い理由にもつながっているのである。

 

 そして、男性は人間に対する関心が生得的に薄いこと、男性がコミュニケーション能力を培わないまま成長してしまえる環境が存在することは、男性たち本人だけでなく周りの人たちにも影響を与えることになる。男性は女性に比べて人間関係の面で無能となり、他人にとって助けとならない存在となるからだ。

「自分がつらいときや苦しいとき、男性に相談しても助けにならないから、女性に相談した方がいい」という知恵は、女性も男性も若いうちから学習することになる。だから、女の子は女の子同士で相談をしたり悩み事を打ち明けたりする一方で、男の子は同性にではなく女の子に相談や悩み事を持ちかける、という不均衡な状態が出現するのである。

 この事実は、友人関係だけでなくきょうだい関係にも影響をもたらす。一般的に、男性であっても女性であっても、姉か妹がいる人は「自分は不幸である」「自分には頼れる相手がいない」という感情を抱くことが他の人たちより少ないのである。しかし、兄や弟の存在は、男性に対しても女性に対してもこのような効果をもたらさないのだ。

 そう、他人を支えたり他人を幸せにしたり他人をケアするという点では、女性に比べて男性は無能な存在であるのだ。……ケアすることへの関心を持たず、ケアするための能力を習得してもこなかったから。

 

 わたしが思うに、「男性同士のケアが難しい理由」の説明としては、「男性はケア能力に欠ける無能な存在である」という事実に注目することの方が、「男らしさの呪縛」や「ホモフォビア」を持ち出すよりもずっと的を得ている。

「これからは男性同士でも相互にケア関係を築くべきだ」という主張自体は正論であるかもしれない。多くの男性も「それはそうだな」と納得するかもしれない。しかし、正論であるからといって、実際にそれを実行できるかどうかはまた別の話なのだ。

 相互のケア関係を成立させるためには、以下の三点を満たす必要がある。

(1)自分が他人をケアできること

(2)自分以外で、他人をケアできる男性が身近にいること

(3)その相手と「互いにケア関係を築こう」と相互に了承すること

 

 仮に(1)がクリアできていたとしても、(2)や(3)までクリアできるかどうかは至難の業だ。所属している環境によって多少の差はあるだろうが、運の要素も大きいだろう。大概の男性にとっては「男性の友人」という選択肢のプールは小さく、そして大概の男性がケア能力に欠けていることをふまえると、条件を満たす相手と出会うこと自体が至難の業である。そして、仮に出会えたとしても、シェアハウスやルームシェアなどの深いケア関係を築こうと思ったらそのための現実的な条件(住んでいるところ、ライフスタイル、相手側の人間関係的な事情などなど)を満たさなければいけない。

 シェアハウスやルームシェアとまでは行かなくても、友人に対して「互いにマウントを取り合ったり貶しあったり好き勝手なことを言い合ったりするのはやめて、これからはお互いに思いやり合う関係に変わろう」と言い出すことだって、あまり現実的ではないはずだ。相手も同性同士でのケアの重要性を理解していて問題意識を共有していない限り、ポカンとした顔になるのがオチだろう。そして、仮に合意が取れたとしても、「お互いに思いやり合う関係」を続けられるほどの能力が互いに備わっているとは限らないのである。

 

 というわけで、「これからは男性同士でもケアし合わなければならない」論は、耳触りのいい正論ではあるかもしれないが、実行に移せる機会はごく限られており、多くの男性にとっては役に立たないアイデアであるかもしれない。

 そして、「異性からの承認」を得られない男性が苦悩するのは、もっともなことであるかもしれない。男性は、自分自身について内省したり自分の友人関係を振り返ったりすることで、自分の性別があまりに頼りにならない存在であるということを重々承知しているからだ。そのため、男性が女性からのケアを求めるのは、本人の自己利益や自己防衛という観点からすればしごく合理的な選択であるかもしれないのである。……もちろん、この「合理的な選択」によって「女性に対するケア役割の押し付け」という現象が社会的に発生しており、それについて不利益を感じた女性が反発することも、もっともなことではあるのだが。

 

 

 

*1:この記事の執筆時点で「男性同士のケア」でGoogle検索して1ページ目に出てくる記事の多くでも、そういう文脈で話がされていた。

www.asahi.com

cakes.mu

*2:

benesse.jp

ジェンダー論が男性を救わない理由

 

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success

 

 思うところあって、トマス・ジョイナーの『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』を数年ぶりに読み返している。

 2017年に、この本の内容を紹介する記事を書いた*1。そのしばらく後には、社会学者の平山亮による「男性が自殺するのは支配欲が原因」発言を批判した*2。そして2019年には「有害な男らしさ」概念がフェミニズムジェンダー論の文脈で流行するようになり、「有害な男らしさ」概念についての批判記事を書いたり、流行の発信源のひとつと思しきレイチェル・ギーザの『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つか』を読んだりした*3

 ジョイナーにせよ、平山やギーザにせよ、「男性が直面している問題」であったり「"男らしさ"や、男性に特有な価値観や行動様式が本人たちに与える影響」という物事を取り上げている点では共通していると言えるだろう。

 しかし、ジョイナーと平山・ギーザとの間では、その議論の内容に大きな違いがある。ジョイナーの本では問題が生じる原因や構造について正確に分析されているし、提示されている解決策も妥当で実践可能なものだ。その一方で、平山の言説やギーザの本では問題が生じる原因や構造の分析がまるで的外れであり、解決策も美辞麗句で彩られているわりに曖昧で具体的に実践する方法がとんと見えてこないものとなっているのである。

 取り上げている問題は同じでも、ジョイナーと平山・ギーザとでは、問題への取り組み方がまったく異なっているのだ。そして、平山やギーザのような言説の問題は、それが「ジェンダー論」の典型的な枠組みから脱せていないことにある。

 世の中には「男性学」や「メンズリブ」について書かれた本が数多く存在するが、その大半もやはり「ジェンダー論」的な枠組みに従って書かれているために、的外れな分析と役に立たない解決策しか提示されていない。そして、わたしの見たところ、男性にとってジェンダー論が役に立たない理由は、ジェンダー論がフェミニズムイデオロギーに拘束され過ぎていることにある*4

 

 具体的に述べると、ジェンダー論は「原因の分析」と「問題設定」および「解決策の提示」のそれぞれにおいて、フェミニズムイデオロギーの影響を受けてしまっているのだ。一見すると男性による男性のための議論である「男性学」ですら、実際にはフェミニストたちの規範に従ったものとなっている。そのために、ジェンダー論は男性を救わないものとなっているのだ。

 

「原因の分析」に対するフェミニズムの影響:問題の"原因"はあらかじめ決まっており、それ以外の"原因"を分析することは許されない

 

 フェミニズム的な発想の大半は、社会構築主義や「反・本質主義」を前提としたものだ。そのため、男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向、「男らしさ」「女らしさ」などはすべて社会や文化によって構築されたものである、とされる。なので、男性たちの問題を引き起こしている男性ならではの価値観や行動パターンなどについては、社会という「外」から押し付けられたものであることを認識することで、そこから脱却して問題を解決することができる……という風に議論がすすむことになる。

 社会構築主義的な考え方と対になるのが、「男性と女性のそれぞれに特徴的な思考や行動や志向は、生まれた時点から備わっている生得的なものである」という考え方だ。この考え方は、進化心理学を代表とする心理学や、あるいは脳科学などの研究で示された証拠によって、大なり小なり裏付けられているだろう。

「男性と女性との違いはすべて生物学的に決定されており、社会や文化は何も影響をもたらさない」という主張であれば極端であり、間違っているだろう。だが、「男性と女性との違いはすべて社会や文化に決定されており、生得的な違いなど存在しない」という主張も同じように極端で間違っているはずだ。まともに本を読んできて、まともに人間を観察してきて、まともに物事を考えてきた人であれば、「男性と女性との違いには、生物学的な側面も社会構築的な側面もどちらも存在するな」と判断するはずである。だから、性別が関わる問題についてまともに考えようとしたら、「生物学的な原因と社会的な原因がどちらも存在する可能性がある」ということを前提としたうえで、より細かで具体的な問題における生物学的な原因と社会的な原因をそれぞれ分析しつつ、どちらの原因も考慮したうえでの解決策を検討する……という道筋になるはずなのだ。

 ところが、ジェンダー論の大半では、生物学的な要因はほとんど丸々無視されて、社会構築的な要因ばかりが取り上げられることになる。ギーザの『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』では、「本当に"生まれつき"?―ジェンダーと性別の科学を考える」という章題で、わざわざ一章を割いて「生物学的な原因は存在しないと見なして、社会構築的な原因だけを分析する」という宣言がなされていたくらいだ。

 しかし、問題を解決しようと本気で思っているのであれば、問題の原因をあらかじめ指定することは、どう考えても悪手のはずである。もし問題の原因が指定されていないところに存在するとすれば、その原因を分析して扱うことができなくなり、有効な解決策を提示することも不可能になるからだ。

 ……逆に言えば、ギーザのようなフェミニストは、男性の問題を本気で解決する気はない、ということなのである。それよりも、社会構築的主義的で「非・本質主義」なフェミニズムイデオロギーを展開して披露することの方が重要なのであろう*5

 

「問題設定」および「解決策の提示」に対するフェミニズムの影響:男性は"強者"であり"加害者"であるから、手放しで救済の対象にしてはならない

 

 フェミニズムとは、社会構築主義や「非・本質主義」であるだけでなく、「家父長制」や「男性の特権」などの概念を前提とする考え方でもある。

 これらの概念は、男性を「強者/加害者/抑圧者/搾取者」などと位置付けて、女性を「弱者/被害者/被抑圧者/被搾取者」などと位置付ける。弱者や被害者であるということは、逆に言えば、悪いことをしていない無謬の存在であるということだ*6

 さらに、フェミニズムの理論に従えば、「男らしさ」や「女らしさ」なども、単なる社会構築物であるだけでなく、家父長制や男性の特権を強化するという目的のために作られたものであるとされる。

 すると、弱者である女性たちは、強者である男性たちから「女らしさ」を強制されている存在として扱われる。「女らしさ」は男性たちの利益のために作られたものであり、女性には不利益や抑圧をもたらすものとされる。だから、女性が「女らしさ」の束縛から解放されたり女性に特有の苦悩が解決されることは、手放しで肯定される。女性が不当に被らされている被害を解決して、不正で不平等な状態を正当で平等な状態にまで是正することだと見なされるからだ。

 しかし、「男らしさ」に悩む男性たちの問題を解決することは、手放しでは肯定されない。家父長制概念や特権概念に基づいて考えると、男性はけっきょく強者である以上、「男らしさ」も男性たちに利益をもたらすために作られたものだ。そのなかで「男らしさ」にマッチせずに悩む男性がいたとしても、不利益な「女らしさ」を強制されている女性たちの苦悩に比べれば、大した問題でないとされてしまう。

 そして、女性たちが被っているより深刻な問題を解決せずに男性たちの被っている問題を先に解決してしまうことは、現在の不正で不平等な状態を悪化させてしまうことであるので、認められない。だから、男性の問題は解決するにしても女性の問題とセットで同時に解決するか、あるいは先に女性の問題が解決するまで「順番待ち」するべきものであるとして扱われてしまうのだ。

 さらに、家父長制概念や特権概念は、男性にも「被害」や「苦悩」が発生することがあるという事実を認めることすらを原理的に拒否してしまう。たとえば、「男性の自殺率が高い」という事実はどう考えても男性側の「被害」の存在を示しているはずだが、平山は自殺の原因すらも「男性が支配の志向にこだわり続けてしまうことが原因だ」ということに帰着させて、男性側の「加害」の問題であると言い張った。

 平山ほど極端ではなくても、「男性は特権を持ちゲタを履かされている存在である以上は、男性が自らの被害や苦悩を訴えることは特権を自覚しない存在の甘えた言動であり、まずは女性の被害や苦悩に目を向けるべきだ」という言説はよく見かけるところである。

 

 そもそも、「家父長制」や「男性の特権」などという概念の妥当さや正確さ自体が、まず疑われるべきだろう。わたしとしては、これらの概念はかなりイデオロギー的なものであり、現実に起こっている問題を分析するうえではほぼ的外れなものであると思っている。

 さらに、仮にこれらの概念が妥当で正確なものであるとしても、個人としての男性が感じている被害や苦悩の問題を解決するという文脈では役に立たない。これらの概念が役に立つとすれば、「男性」という集団や属性としての責任を問い、「男性は強者であり加害者の立場であるからこそ、女性たちや社会に対してこれこれこういうことをしなければならない」という「べき論」や規範的な議論を論じようとしている場合であるだろう。

 しかし、被害感情や苦悩を抱いている個人に対して「べき論」を述べ立てたところで、問題の解決に寄与しないことは明白だ。そこで必要とされるのは、その個人の抱えている問題を解決するための実際的な議論であるからだ(とはいえ、ジェンダー論に限らず、ある場面において規範的な議論と実際的な議論のどちらが必要とされているか、ということはいともたやすく混同されがちであるのだが)。

 実のところ、女性の抱えている問題にすら、フェミニズムジェンダー論は大して役に立たない結論しか導き出せないことが多い。前述したように社会構築的な原因だけしか分析しないために問題の全体像を把握できないということもあり、社会制度やメディア・創作物における表現や家庭・学校での教育などの漠然とした話題に関する議論に終始して、個々人のレベルの問題に対応した解決策を考えることを怠ってしまいがちであるからだ。……とはいえ、女性にとっては、とりあえず問題を社会と男性の責任に帰することで「あなたは悪くない」と言ってもらえたり、性差別がない社会を達成するための展望を述べられて(実現可能性はともかく)エンパワメントしてもらえたりするといった、「気晴らし」としての効果はあるかもしれない。だが、男性にとっては、ジェンダー論は気晴らしにもなりはしないのだ。

 

 

 上述したようなジェンダー論の問題をふまえたうえでジョイナーの本を読み返すと、そのまっとうさが以前よりもよく理解できる。

 ジョイナーの議論の道筋をごく短くまとめてみよう。

 

 (1)解決すべき問題の設定:多くの男性は人生の後半になればなるほど強い苦悩を感じるようになり、自殺率も男性は女性より高い。これは問題である。

 

 (2)問題の原因の分析:(a)男性の苦悩や自殺の原因は、男性が女性に比べて、歳を取るにつれて孤独になりやすいことにある。

(b)男性が孤独になりやすい原因は、まず、男性は女性に比べて他人に対する関心が欠如しており地位や物質に執着しやすく自己防衛的である、という生得的な傾向にある。そして、ここに社会的な要因が加わって、多くの男性が他人との関係やコミュニケーションを維持する方法を学ばないまま成長してしまうことも、孤独をもたらす原因となっている。

 

(3)問題に対する解決策の提示:高齢になっても他人との関係やコミュニケーションを維持するための、具体的な生活習慣の提示など。

 

 重要なのは、ジョイナー自身が自殺に関する心理学的研究の第一人者であり、また彼自身の父親が自殺したという事情もあって、「男性の自殺」という問題を真剣に捉えていることだ。

 そのため、ジョイナーの議論はイデオロギーに左右されない。例えば、ジェンダー論なら(1)の問題設定の時点で揉めかねないところを、ごく素直に問題設定している。(2)についても、生物学的な原因と社会的な原因のどちらかにあらかじめ限定することなく、両方の原因を冷静に考慮している。そして、(3)では規範的な主張ではなく実際的な主張がなされている。「社会がこのように変えることで、男性の問題も解決される」などの大言壮語を吐かずに、個人としての男性たちがそれぞれに実践できる具体的なライフハックを提案していることは大切だ。

 

 男性の問題だとかジェンダーの問題だとかに関わらず、なんらかの「問題」を取り上げて、「問題」について分析して、「問題」に対する解決策を提示する、という議論をするのであれば、ふつうはジョイナーの本のようになるはずだろう。

 しかし、世の中の「問題」に関する様々な言説が、ふつうのものではなくなっている。イデオロギーだとか思想の流行とか学界や業界の力関係・人間関係に左右されてか、見当外れな分析と的外れな解決策に満ち満ちている状況にあるのだ。

 この状況に我々はどう立ち向かうべきかというと……批判的思考を学んで他人の行なっている議論の前提や立論について論理的に整理する能力を身に付けるとか、なるべく多くの本を読んで「うさんくさい議論」を嗅ぎ分ける嗅覚を鍛えるとか、それくらいしかないのかもしれない。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:同じような主張をしている記事:

fuyu.hatenablog.com

*5:『BOYS:男の子はなぜ「男らしく」育つか』は、そのタイトルとは裏腹に、「男の子」の方を見て書かれた本ではないという印象が強かった。結局のところ、フェミニストのママ友に向けて書かれた本でしかなく、「男の子」はフェミニズム的なイデオロギーを展開するためのコマやダシとしてしか扱われていなかったのだ。

*6:マジョリティ女性vsマイノリティ女性やシスヘテロ女性vsレズビアン女性・トランスジェンダー女性という構造になると、女性も「無謬の弱者」であるとは限らなくなるし、現代のフェミニズムはこれらの問題についても意識的であることは事実であるのだが。

アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由

 

 

 

 

 前回に引き続き、先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』で行われている議論を紹介。

 

 この本の第11章「正義の探求」では、2010年代のアメリカは「ウォール街を占拠せよ」運動から始まって#MeToo運動やLGBT運動、そしてブラック・ライヴズ・マター運動と、社会正義を求める運動がこれまでの時代に比べてずっと盛んになっていることが指摘されている。その背景には、2010年代という時代ならではの特徴があるのだが……この点に関するルキアノフとハイトの分析はこんど別のところで紹介する予定なので、ここではヒミツ。

 今回は、『アメリカン・マインドの甘やかし』の11章のなかでも後半部分、人間の直感や道徳感覚と社会正義運動との関係について述べられた部分を紹介しよう。

 

 正義に対して人間が持つ直感は、「分配的正義」に関するものと「手続的正義」に関するものに分けられる。

 分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

 この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

 手続的正義の直感とは、「物事が決定されるときには客観的で中立的に判断されるべきであり、関わる全ての人間のことが平等に扱われるべきだ」というものだ。意思決定をする人がその決定で影響を受ける可能性のある人々のことみんなについて考慮しているのか、すべての人々に発言権が保証されているのか、すべての人々が尊厳を持って扱われているのか……このようなことを気にかけて平等を重んじる発想は、近代の人権思想の産物であるとは限らず、古来から人間に備わっているのだ。

 たとえば「警察」に対する市民の態度は、手続き的正義の直感に大きく左右される。「警察はすべての市民に対して平等に接している」と市民たちが信じられれば彼らは警察に対して協力的になるが、「警察は特定の属性の市民を不当に扱っている」と思われてしまったら、その"特定の属性"に当てはまらない市民も警察に対して非協力的になるのだ。

 つまり、人間の直感は必ずしも利己的であったり独善的であったりするのではない。自分だけでなく他人がどのような報酬を得ていてどのように扱われているかということにも、人は強い関心を抱くのだ。だからこそ、社会正義を実現するためには、これらの直感に訴えることが不可欠となるのである。

 

正義の名を冠した新しい政策を支持したり、運動に参加するように他の人たちを動機付けたいのなら、得られるべきものを得られていない人がいる(分配的正義)、または不公平な手続きの犠牲になった人がいる(手続き的正義)、ということについての明らかな理解や直感を他の人たちが持てるようにするべきだ。特定の人々や特定のグループが他よりも多くの資源を得ていたり高い地位にいたりするという状況であっても、分配的正義か手続き的正義のどちらに関する感情も人々から引き起こせない場合には、人々は現状維持に甘んじてしまう可能性がずっと高くなってしまうのだ。

(p.220)

 

 そのため、成功する社会正義運動とは、「分配-手続き的社会正義(Proprtional-Procedural Social Jutice)」に関するものであるのだ。その定義は、以下のようなものである。

 

ある人々が貧困に生まれついたか社会的に不利なカテゴリーに所属しているという理由でその人々への分配的正義や手続き的正義が否定されているような事態を発見して、その事態を修正するための活動

(p.221)

 

 たとえば、過去にアメリカで行われた公民権運動は「分配-手続き的社会正義」に適った運動であるからこそ、多数の支持を得て成功した。当時のアメリカの白人たちは黒人差別の事実を直視しないように動機付けられてもいたが、アメリカの憲法にも書かれているような平等や権利の理念に訴えかけられたら、黒人差別が不正義であることを認めざるを得なくなった、ということだ。ブラック・ライヴズ・マター運動が多数派の支持を得ているのも、同様の理由による。

 また、「分配-手続き的社会正義」とは、人々の社会的権利が平等に保護されて(手続き的正義)、機会の平等が保証される(分配的正義)ことに焦点を当てたものである点も重要だ。

 

 そして、現在の社会正義運動の一部は、機会の手続き的正義の直感にも分配的正義の直感にも適わないものとなっている。「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求める運動となっていることが、その原因だ。

「結果の平等」を求める運動の具体的な帰着が、組織の成員の一定数以上を女性にすることを求めるクォータ制と、入学試験などにおいて黒人やラティーノに優遇措置を与えるアファーマティブ・アクションである。これらの制度はアメリカでは数十年前から実施されてきて、今ではすっかり定着した。

 しかし、クォータ制アファーマティブ・アクションの下では、人々は人種や性別などの「属性」によって判断されて、不平等に取り扱われることになる。この点では、手続き的正義の直感に反している。また、同じだけの労力や努力を払ったり成果を出していたりする人であっても、報酬(組織への参入、大学への入学など)が得られるかどうかは属性によって左右されてしまう。頑張っているマジョリティよりも頑張っていないマイノリティの方が有利になり得るという点で、分配的正義の直感にも反しているのだ。

 これが、クォータ制アファーマティブ・アクションを求める運動が、公民権運動やブラック・ライヴズ・マター運動のようには支持されない理由である。

「逆差別」という日本語は、これらの制度に対する反感を端的に表現したものであるだろう。

 

 では、一部の人々は、なぜ直感に反する「結果の平等」を求める運動を行なっているのか?

 その背景には、「不平等な結果は、社会に制度的なバイアスが存在することによってもたらされている」という前提がある。つまり、たとえば白人が黒人やラティーノよりも大学入学率が高かったり、女性よりも男性の方が特定の組織の成員になりやすいことは、一見すると白人や男性の方が能力が高かったり頑張ったりしていることの結果であるように見えるが、実は現状の制度や構造がマジョリティにとって有利な仕組みとなっていることに起因している……という考え方だ。

 これは、近年では「マジョリティは"特権"を持っている」という言葉で表現されることが多いし、日本のフェミニストがよく口にする「男は下駄を履かされている」という主張もこれの一種と言えるだろう。

 そして、現状の制度によって不当な結果がもたらされているなら、その結果に介入することの方がむしろ正義に適っている、ということになるのだ。

 特にアメリカの大学では、「結果の平等」とその前提である「不平等な結果は、制度的なバイアスによってもたらされている」という考え方が支配的になっている。そのために、「不平等な結果がもたらされていることは、制度的なバイアスではなく、他のことが原因であるかもしれない(男性と女性との間における、学問や趣味や職業に関する志向の生得的な差など)」という仮説を提示すること自体が、非難されて抑圧される傾向にあるのだ*1
 つまり、制度的なバイアスについての議論そのものに、バイアスがかかっている。そして、大学内で学生たちや学者たちがバイアスのかかった議論を繰り返すほどに、「正義」に対する彼らの要求は大学の外にいる人々の実感から乖離したものになっていくのだ。

 

 ……と言いつつも、ルキアノフやハイトだって、アファーマティブ・アクションやクオータ制がすべて間違っていると論じているわけではない。「制度的なバイアス」なり「不平等な制度」なりが存在しない場合もあるが、存在する場合もある。「不平等な結果は、不平等な制度のせいだ」と決めつける発想は間違っているが、どこかしらに不平等な制度が存在している可能性を排除することも、また間違っているのだ。

 とはいえ、仮に不平等な制度の存在が事実であり、アファーマティブ・アクションやクオータ制が不平等な制度に対して実際に有効な対抗策であるとしても、「結果の平等を求める社会正義運動は、人々の正義の直感に反しない」という問題が舞い戻ってくる。こうなると、望ましい目標を実現するために多数の支持を得るためのレトリックをいかにして構築するか、ということが重要になってくるだろう*2

 

 わたし自身の感想を付け加えると……クオータ制については、以前まではまさに「直感的」に反発を抱いていたのだが、多少の勉強をしていくうちに「ケース・バイ・ケースで判断するべきだな」というくらいに思うようになった。たとえば日本の政治の世界にはジェンダー・クオータ制が必要であると思うし*3医学部入試の女性差別問題は誰がどう見ても「制度的なバイアス」そのものだ。アファーマティブ・アクションに関しては、ピーター・シンガーが『実践の倫理』などで昔から擁護していたのを読んでいるので、以前からわりと理解は抱いているつもりである。

 社会運動、ひいては民主主義や政治全般に関する直感とレトリックの問題については、社会心理学の発展に伴って、これからも面白くて有意義な論考が出てくることだろう。

 

「インターセクショナリティ」が対立を招く理由

 

 

 先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』を読んでいる。Amazonのほしいものリストでもらったものだ。ありがとう*1

 

 2017年に出版された本なのだが、その時期にアメリカの大学で「ポリティカル・コレクトネス」が引き起こしていた様々な問題の事例を網羅的に紹介しつつ、その背景にある構造や原因を分析した本だ。「マイクロアグレッション」や「アイデンティティ・ポリティクス」と言った個別のタームについての問題点の分析も豊富である。そのなかでも、「インターセクショナリティ」に関する分析は興味深かった。

 この本の全体的な内容についてはこのブログとは別のところで紹介する予定なのだが、インターセクショナリティに関する記述についてのみ、一足先にこちらで紹介しよう*2。ちょうど日本語版Wikipediaにもインターセクショナリティについての記事ができたところだし。

 

ja.wikipedia.org

 

 まず、ハイトとルキアノフは、「インターセクショナリティ」理論の発明者であるキンバリー・クレンショーやその理論を発展させたパトリシア・コリンズなどの学者たちによる用法については、問題がないとしている。

 たとえば、クレンショーは黒人女性がゼネラル・モーターズ社で受けていた就職差別の構造を鮮やかに示した。当時のゼネラル・モーターズ社は、工場現場の仕事では黒人も雇っており、事務仕事については女性も雇っていたので、黒人差別とも女性差別とも批判されていなかった。しかし、工場現場では男性、事務仕事では白人が被雇用者の大半を占めていたことにより、結果として黒人女性はどちらでも雇われていなかったのだ。

 このように、ひとつの属性だけに着目していると問題が起こっていないように見えても、複数の属性が交差することによって差別や抑圧が生じているかもしれない。そのような問題に名前を付けることで、問題を発見して問題に対処することが可能になる……それが、インターセクショナリティという理論の、(そもそもの)意義であるのだ。

 

 ハイトとルキアノフが批判するのは、学生などが実践している社会運動における、「インターセクショナリティ」という単語の用法である。

 複雑な構造で起こる差別問題を理解するための分析枠組みであったインターセクショナリティは、世の中を二項対立的に単純化して認識するための概念へと変貌してしまった。それをよく表すのが、「特権」と「抑圧」の構造を示したとされる、以下の図だ。

 

f:id:DavitRice:20201003070450p:plain

(出展:日本語版Wikipedia「インターセクショナリティ」)

 

 この図は、もともとはキャスリン・ポーリー・モーガンという哲学者が作成したものであり、その発想はミシェル・フーコーの権力論に基づいている。

 たとえば、アメリカの大学は歴史的に白人男性によって構築されてきたから、「白人」かつ「男性」である属性に特権を与えて有利にする空間となっており、「黒人」という属性を持つ人のみならず「女性」という属性を持つ人も……たとえ、学生の過半数以上が女性であったとしても……大学という空間では白人男性が構築した理念や制度のもとで生きることを強制されるという点で「被植民化された人々(colonized people)」である、とモーガンは論じているのだ。

 このような発想に影響された人々は、すべての物事を「抑圧の構造」の観点に従って見るようになってしまい、目の前にいる人は特権を持つ側であるか(上記の図における上側)、抑圧されている側であるか(図における下側)、ということばかりを気にするようになってしまう。

 そして、「抑圧の構造」という発想は社会問題を分析するための記述的な図式にとどまらず、道徳的な意味合いも含むものである。そのため、特権を持つ側なら「悪」であり抑圧されている側なら「善」である、という認識へとつながりやすい。ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でも論じていたように、道徳は人々を結びつけると同時に人を盲目にする。「自分たちは善の側で、あいつらは悪の側だ」と一方が思ってしまったのなら、和解や妥協や対話の余地はなくなってしまい、ひたすら対立が深まることになるのだ。そして、「抑圧される側」に位置するなんらかの属性を持っている人ならともかく、異性愛者で白人で男性で…となると図式の下の側に逃げ込むこともできないので、ただただ批判の対象にしかならなくなる。

 このテの発想が引き起こす問題の象徴的な事例として挙げられているのが、2015年にブラウン大学で学生が大学の副学長に抗議しているときに起こったエピソードだ。白人男性である副学長が「対話することはできないのか?」と言っても学生は拒んで、「異性愛者の白人の男性が常に空間を支配してきたことが問題なのだ」と主張した。すると、副学長は自分自身が同性愛者であることを指摘した。学生はしばらく戸惑ったが、やがてこう言った。「いや…同性愛者であるかどうかは問題ではない。白人で男性であるなら、ヒエラルキーの頂点に位置しているのだから」。

 

 インターセクショナリティに限らず、もともとは学問的な理論や分析枠組みとして生み出されて妥当で有用であった概念が、学生たちによる運動の場では意味を変貌させられて思考停止や分断を招く概念になってしまう……という事例は他にも多々ある。人間を善と悪とに二分して「自分たちは正しい、あいつらは間違っている」と思い込んでしまう傾向は生得的な心理や感情として人間に備わっているものであり、学問というものは本来ならそのような傾向や感情を抑制させて理性的に物事について考えることを可能にするためにあるのだが、運動の場において変貌させられた概念は、むしろ生得的な感情をブーストして理性的な検討を遠ざけてしまう効果を持ってしまっているのだ。

 ハイトとルキアノフは、現代のアメリカの大学における運動で用いられている様々な理論や概念の背景では、1960年代や1970年代に「新左翼の父」として讃えられたヘルベルト・マルクーゼが影響を与えている、と分析している。マルクーゼの理論も「右」と「左」の分断を強調する二項対立的なものであったのであり、敵対する相手の言論の自由を認めないことを是とする「抑圧的寛容」は、もともとが大学の理念とは相反するものであったのだ*3。当時に新左翼運動であった学生たちは現代ではちょうど大学の教授や執行部になっている年齢であり、過去の自分たちが他人を糾弾するために提唱していた理論がまわりまわって現在の自分たちを糾弾の対象としている……という側面もあったりなかったりする。

 

 ……と、ハイトとルキアノフによる「インターセクショナリティ」批判を紹介してきたが、わたし自身の意見もちょっと付け加えよう。

 ハイトとルキアノフは、インターセクショナリティを持ち出して他人を批判する人が、自分を「抑圧される側」に位置付けて相手を「特権を持つ側」に位置付けることについての、被害者意識や自省のなさや傲慢さや独善性といったことを特に非難しているようだ。

 しかし、わたしが観察してきたところ、インターセクショナリティは「他人」や「外」を批判する際に使われることもあるが、「自分」や「内」を批判する際に使われることも多い。たとえば、フェミニストである人が「自分は性差別のことにばかり注目していて人種差別や経済格差の問題に無頓着であった。これからは気をつけよう」という自己反省をしてそれを表明するきっかけとして用いられているのを見ることがある。また、特に日本においてフェミニストが「インターセクショナリティ」に基づいて他人を批判するときには、その対象はだいたいが他のフェミニストフェミニズム団体だ。「フェミニストであるなら、女性差別の問題だけでなく、他の種類の差別や抑圧にも反対するべきだ」とか「フェミニズム的な作品を作ったりフェミニズム的なメッセージを表現するなら、特権と抑圧の構造についてもっと自覚的になるべきだ」、などなどである。

 自己反省や志を同じくする人同士での相互批判に用いられるなら、生産的であったり妥当であったりする場合もあるようには思えるが……しかし、そもそもの「抑圧の構造」という図式がかなり現実性に乏しいものであるために、この図式に基づいた自己反省や相互批判もけっきょく誤ったものにしかならないように思える。「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別は論理的に構造が一緒なので、××差別にも反対しなければならない」という主張なら正しいと思うのだが、「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別が発生する構造が事実的に結びついているので、××差別にも反対しなければならない」という主張は前提が誤っているとしか思えないことが多い*4

 

 また、わたし自身はフェミニストではないので他人事といえば他人事であるのだが、「フェミニストであるなら、△△差別にも反対しなければならない」という主張を目にしたときには「いやだなあ」という気持ちが起こることが多い*5。たとえばもしわたしがユダヤ系女性であったとして、ピンクウォッシュ概念などを用いられて「あなたがフェミニストでありたいと思うなら、イスラエルに対しても否定の姿勢を示さなければならない」などと他人から言われると、自分がイスラエルを支持しているとしてもしていないとしても、かなり不愉快な思いをさせられることだろう*6

 世の中には規範的な問題がいろいろと存在して、人々はそれぞれのアイデンティティや経験や人間関係や学んだことや考えたことに基づいて「この問題についてはこういう立場をとろう」「この問題についてはこちらの方が正しいと思う」「この問題についてはよくわからないから保留しよう」と判断していくものであるし、また、そうするべきである。しかし、(変貌させられた方の)インターセクショナリティに基づくと、「すべての問題について、"抑圧の構造"の下側に位置する人の味方をしなければならず、上側に位置する人を批判しなければならない」と強制されることになってしまうのだ。そういうのは同調圧力全体主義というものである。「それはそれ、これはこれ」というスタンスも認められなければならないのだ。

*1:そして、本さえ買ってもらえればこうやって内容を紹介する記事をいつかは書くので、みなさんもどしどしわたしに本を買ってほしい。

www.amazon.co.jp

*2:なお、過去にもこのブログでインターセクショナリティの問題点を批判した記事をいくつか紹介してきたことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:もちろん、フェミニスト同士の相互批判に限らず、アンチ・フェミニストなどの「外野」に位置する連中が「フェミニストならこの問題についても反対しなければ矛盾だ!」と言っているのを目にしたときにも不愉快な気持ちになる。そういう連中の主張は大半の場合は「インターセクショナリティ」理論以上に筋が通ってなくて非論理的で頓珍漢であるし、インターセクショナリティ理論に影響される人の大半が持っているであろう善意や真面目さや誠実さというものが欠片も感じられない。Togetterでもはてな匿名ダイアリーとかでも「フェミニストがこの問題に反対していない!矛盾している!」と騒ぐエントリは定期的に生じるが、ああいうのをまとめる人も書く人もそれを読んで喜ぶ人もみんな下品だと思っている。

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

人種は存在しない…のか?

gendai.ismedia.jp

 上記の記事は3ヶ月前のものだ。ブコメは現時点で30ほどしか付いていないが、わたしを含めて、違和感を表明しているコメントが多い。

 特に違和感があるのは、やはり、「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」というタイトルだろう。ここには、ある種の文系の"学問"や"社会学"に独特なレトリックと、市井の感覚との乖離が見出せる。今回は上記の記事を直接批判したり反論したりするわけではないが、このタイトルが象徴するような、"社会学的"なレトリックや議論に対してわたしたちが感じる違和感について、ちょっと書いてみたい。

 

 人種の問題に限らず、ある種の社会学(あるいは、ある種の「哲学」や「思想」)では、"わたしたちが「自然」であったり「普通」であると思っている物事は社会的に構築されている"、ということが強調される場合が多い。

 そして、多くの場合には、その社会的構築の背景には"レイシズム"なり"権力"なりの「悪」が潜んでいるという理路を取ることになる。そのため、世の中にある悪い物事を改善したいと思っていたり自分が善人でありたいと思っているなら、自分が使っている概念の社会構築性とその背後に潜む悪の存在を意識して、自分の認識や言葉の使い方を改めて、"ただしい"考え方や言葉使いをするようにならなければならない……という風に誘導されることになるのだ。

 社会学倫理学のような「規範」に関する学問ではないため、表向きには「〇〇に関する一般的な認識は誤りで、自然だと思っていたり普通だと思われていたイメージは実は社会的に構築されたものであり、実はこうなんですよ」という「事実」に関して論じているようなテイを取る。だが、その社会的構築には「悪」が潜んでいると匂わすことで、事実について語っているようなフリをしながら規範的な主張を行う……と、これはハーバーマスフーコーの議論について看破して「ゴニョゴニョ規範主義」と名付けたメカニズムである。

 

 とはいえ、上記の記事のブコメを見ればわかるように、社会学の議論に特に同意していない普通の人であれば、「人種は存在しない」と言われてもそう「いや、存在するじゃん」となるのが自然な反応だ。あるいは、たとえば「性暴力は性欲ではなく支配欲が原因で起こる」と言われても、「いや、性暴力と性欲が関係ないというのは無理があるでしょ」となるものだろう。「その反応こそが、社会構築されたイメージに認識を支配されている証左である」と言われたところで、「そりゃ認識の一部が社会や文化に影響されるということはあるだろうけれど、それを考慮したうえで考え直しても、やっぱり自分が自然に抱いている一般的なイメージは事実をおおむね妥当に反映しているように思えるんですけど」となるのである。

 ……しかし、そのような反論をしてしまう人を説得することは、そもそも目論まれていない。ある種の社会学的な言説とは、それに"引っかかる"人……つまり、「人種は存在しないんだ!」とか「性暴力は支配欲が原因なんだ!」と納得してしまうような、潜在的な支持者を発掘して囲うために発せられているのだ。"社会学的な思考方法"というのはかなり特殊で歪な思考方法であり、多くの人はそのような思考方法を身につけておらずその思考方法への適性もないが、一部の人はその適性を持っていたりもとから似たような考え方をしたりしているようである。そのような人が集まってクラスターとなることで、"社会学的な思考方法"は知的な風土や言論空間では力を持つようになっていったのだろう。

 だから、「それっておかしくねえ?」と言いたくなるような極端な意見や特殊な意見が、賢い人たちや"わかっている"人たちの標準見解であるような体裁をして、社会問題に関する色んな場面で発せられるようになっているのだ。ネットにおいて「社会学嫌い」や「アンチ・社会学」の風潮が強くなっているのは、この現状に対する反動と言えるかもしれない*1

社会学嫌い」は日本のネットに限らない。たとえば、アメリカのアカデミアでも、社会学や社会科学の論点先取で結論先行的な規範主義はよく批判されている。わたしも数年前にそのような批判をいくつか翻訳してきたが、そのひとつが下記のものである*2

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 この記事の著者である心理学者のボー・ワインガードが、同じく心理学者のベン・ワインガードや犯罪学者のブライアン・ボートウェルと共に、2016年にQuilletteに、「人種の現実と、レイシズムへの忌避について(On the Reality of Race and the Abhorrence of Racism)」という記事を公開していた。

 

quillette.com

 この記事の後半部分にわたしが言いたいことに近いことが書かれていたので、翻訳して引用しよう。

 

人間のあいだの共通点や人種というものの非現実生についての高邁な物語が、普通の人を納得させることはできないだろう。たとえば、アフリカ系の人たちの集団間における微細な遺伝的差異についての詳細な分析を行ったところで、大半の人々がアフリカ系の人たちを一つのグループ(注:黒人)にまとめてコーカサス系の人々を別のグループ(白人)にまとめるのを防ぐことはできないはずである。そして、実のところ、そのような日常的な分類は、共通する祖先や認識可能な遺伝的差異に一致しているのだ。人々が人種を認識するのは、彼らが抑圧的な神話に騙されている間抜けであるためではない。人種が存在するからである。

 

 この記事のなかでは、「人種」というカテゴリは映画のカテゴリ(ジャンル)と同じような意味で存在する、と論じられている。つまり、「『エルム街の悪夢』はホラー映画である」と聞かされたら「『エルム街の悪夢』は暗くて、怖くて、暴力的な映画だろう」と予測できるのと同じように、「トーマスはコーカサス系である」と聞かされたら「トーマスは比較的薄い色の肌をしており、直近の祖先はヨーロッパにいたのであろう」と予測できるということだ。時折に例外や変数があり予測が外れるとしても、大半の場合にはおおむね事実を反映しており予測を立てるうえで便利であるのが、映画のカテゴリであり人種のカテゴリなのである。

 そして、映画のカテゴリ分けが用途によって変動するのと同じように(ホラー、コメディ、ドラマ、SFの四種類の区別で満足する人もいる一方で、Netflixではずっと大量のカテゴリ分けがされている)、人種のカテゴリ分けも用途によって変動するが(コーカサス系、東アジア系、アフリカ系、ネイティブ・アメリカン系、オーストラリア先住民系の五つで足りる場合もあれば、ユダヤ人をアシュケナジムとミズラヒムに分けることが必要となる場合もある)、それはカテゴリが「存在しない」ということを意味しない。

 この記事では、「レイシズムに反対するためには人種の存在を認めてはならない、ということにはならないし、レイシズムに反対する人が人種に関する研究を認めなかったり人種に関する議論を行わなかったりすることで、むしろその分野がレイシストに占領されてしまう。人種の存在を認めないことは、レイシズムを防ぐという点では、むしろ無益なのだ」というような主張が展開されている。

 

 なんにせよ、ある種の社会学では(あるいは、ある種の哲学とか思想とかでは)、現実の社会問題について分析して知見を提供している風でありながら、実際には内輪でしか通じないお題目を唱えているだけ……というのは人種の議論に限らずよくあることだ。そういう議論が発されるたびに多くの人は「それっておかしくねえ?」と思ったり言ったりするけれど、その疑問は無視されてしまう。そういう虚しい状況がずっと繰り返されているのだろう。

 

*1:

togetter.comこれをはじめとして、 TwitterやTogetterでは特に「社会学嫌い」が可視化されている。まあ、そこにおける社会学への批判は不当なものであることも多いんだけれど。

*2:他にはこういうのも訳した。

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読書メモ:『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』

 

 

 はじめに断っておくと、わたしはこの本をフラットな状態で読みはじめたわけではない。『隠された奴隷制』でデヴィッド・グレーバー(やジェームズ・スコット)が援用されている箇所を読んだときには「アナーキスト人類学って胡散臭そうな主張だなあ」と思ってしまったし*1国家制度や西洋社会や資本主義の欠点をできるだけあげつらってオルタナティブな社会の価値を強弁する、という彼の基本スタンスも気に食わない。

 Twitterなどを見ていても、グレーバー(的な主張)を好んでいる層にはわたしにとってノーサンキューな人が多そうだ。

 

 とはいえ、労働というテーマについてはわたし自身もこれまでに色々な本を読んできたし、自分なりに色々と考えてきたし*2、「ブルシット・ジョブ」という概念自体については「俺がこれまでやってきたどの仕事もブルシットだったよなあ」と思って共感できなくもない。ベーシック・インカムだって、(実現可能であるなら)大賛成だ。

 

 というわけで、読んでみることにしたのだが…(税込4000円以上とクソ高くて自分には手が出せなかったので、ほしい物リストでどこかの優しい人に買ってもらった)、結果としては、文体や論調からして苦手過ぎてちょっとまともに読み通せなかった。

 カタカナの振り仮名が多用される翻訳も苦手だし、エピソードやインタビューの抜粋が多すぎるせいで著者の理論をつかむことも面倒になっている。

 序盤からして「ネオリベラル」な政治体制が槍玉に挙げられているし、ブルシット・ジョブを蔓延させるにいたった"悪玉"として近代西洋に発展した労働に対する規律とか「経済学者」たちを挙げているところもビミョーだ。そして、経済学を否定しているわりに「ケア」や「ケアリング」の価値をやたらと讃える(つまり、フェミニスト経済学だけは肯定する)ところも、さいきんのサヨクの流行りにノっているという感じが強くて軽薄に思えた。

 終盤にはおきまりのごとくフーコーを持ち出して、いま人々が苦しくつらがっているのは「権力」や「支配」のせいなんだとアジって読者を特定の方向に誘導するくせに、最後にはしれっと「本書の主要な論点は、具体的な政策的提言をおこなうことにはない」(p.364)と済ませる、という無責任さもどうかしている。

 訳者あとがきですらも、グレーバーの"お言葉"(インタビュー)が引用されまくっているせいでいちいち論旨が明快でなく、読みづらい。

 

 とはいえ、訳者あとがきでは以下のように書かれている。

 

主流の経済学的立場からもマルクス派からも、論拠はさまざまであれ、こうしたブルシットとされる領域そのものが不在であるといった批判がぶつけられている。しかし、総じてみるならば、既成の理論的枠組みによって現象を否認する態度と、いまこの世界の人びとの感覚に深くもぐり、そこから理論的枠組みを組み立てていこうとする態度のちがいはあきらかであるようにおもう。ものすごく粗くいうならば、「資本主義システム」(そう名指そうと名指すまいと)の論理的一貫した存在は大前提として、そこから現実に切り込んでいく態度と、そうしたシステムの存在を自明の前提とせず(述べたように「経済」領域すら自明のものとせず)、人びとがいま現実になにをやっているのかといったところから現代世界のありようをつきとめようとする態度のちがいというのだろうか。

(p.424-425)

 

 また、グレーバーのスタンスをよく象徴しているとわたしが思うのは、以下のような箇所。

 

富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄と感じているのだ。 経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ!もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるのだろうか?

この議論は人間の自由に強力に寄与するものである。……

(p.364)

 

"世界の人びとの感覚に深くもぐる"というミクロな視点にこだわるあまり、人びとの感覚の外側にあるマクロな視点や法則から経済や労働をとらえる発想……すなわち経済学的発想を無視していることが、グレーバーの最大の問題点だ。

 たとえば、エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことは価値に対するわたしたちの考え方が刷り込みによって歪まされているからではなくて、ただ単に需要と供給の法則の結果であるかもしれない*3。多くの人々がサボっている人々や怠惰な人々に対して批判的であり彼らに制裁や制限を与えたいと思っているのは、資本主義のイデオロギーを内面化しているからとかではなく、集合行為のジレンマに対処するうえで自然に生じる発想であるだろう。

 また、「人びとが人類に有用なことをみずからの意志で決定できる」環境になったとしても、みんながそれを行なうようになったら、やはりそこには需要と供給や集合行為などに関わる様々な法則が発生して、けっきょくは思っていたよりもやりたいことを自由にできるわけでもなければのびのびと生きられず楽しくもない社会に落ち着くかもしれない。

 タイラー・コーエンが論じているように、組織管理などの本来は必要な仕事すらもたやすく"無用"扱いされてブルシット・ジョブ認定されてしまう、という問題も大きい。特にこの本の前半では「大企業の顧問弁護士」がブルシット認定されているが、弁護士本人には価値の感じられない仕事であっても、大企業の経営者にとって顧問弁護士は不可欠なものであるだろうし、そして顧問弁護士がいないことでその大企業の下ではたらく何千何万の労働者たちが困ることになるかもしれない。価値や必要というものは、その仕事をしている人々の主観的な感覚や意識とは異なるところに存在するものかもしれないのだ*4

 たとえばベーシック・インカムを導入するにしても、そこで必要となるのは、人々のインセティブに対してどのような影響が出てどのような副作用が出るかなどについての、冷静な検討と試算と実験と対策である。人びとの感覚に深く寄り添った耳心地のいいアジテーションはお呼びでない。

 

……しかし、これはいつも思うことなのだが、それなりに本を読んでいて物事を考えて生きているであろう人がこういうアジテーション的な主張にコロッとやられてしまうのは不思議なことである。

 あるいは、こういう本を好む人は本のなかで主張されている内容の理論的妥当性とか実現可能性とか批判の正当性とかはどうでもよくて、幾多のエピソードとカタカナ言葉に彩られた「ラディカルな解放の書」を読むという行為自体に楽しさや気持ち良さを感じているのかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでそのような議論がなされていたはずだ。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

だからこそ、本人にとって価値が感じられずにやり甲斐もないが他の人たちにとっては必要な仕事には、他の人たちにとっても必要であり本人にとっても価値が感じられてやり甲斐もある仕事よりも高い給料が支払われることになる……前者と後者の給料が一緒であれば、前者の仕事をやりたがる人がいなくなって、多くの人が困るからだ。これこそが先述した"需要と供給の法則"である。エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことについて"資本主義的な価値観"とかケアリング労働の軽視とかレイシズムとかの内面的で社会構築的な要素から語るのもいいかもしれないが、外生的で自然発生的な法則が大前提にあることを無視することはできないのだ。

読書メモ:『階級「断絶」社会アメリカ』

 

 

 数年ぶりの再読。アメリカの「階級」に関する話題はトランプ当選以降に注目されるようになって、わたしもいくつかそれらの本の感想を書いてきたが*1、この本では階級間の政治的イデオロギーの違いはあまり重視されていない(むしろ、エリート階級のなかにはリベラルも保守もいる、ということが冒頭で指摘されている)。それよりも、もっと広い意味での価値観や文化、幸福や秩序などの、政治に比べて人々の生活に関わってくる地の足のついた側面が取り上げられていることがポイントだ。具体的な内容については、以下の書評をどうぞ。

 

honz.jp

『ベル・カーヴ』のおかげで「人種差別主義者」というイメージが強いマレーではあるが*2、差別主義者であるかどうかはともかく、保守主義者であることは間違いない。新上流階級と新下層階級との分断が進むことでコミュニティやソーシャル・キャピタルが崩壊して、人々が「人生の本質」を見失って「建国の美徳」が失われていく……と嘆く様子は、まさに保守のおっさんのそれだ。ロバート・パットナムの『孤独なボウリング』にかなり依拠した議論でありながら、提案する解決策は「小さな政府の実現」と、パットナムが主張するのとは真逆の方向であるところもどうかと思う*3

 しかし、以下のような文章は良くも悪くもウッとくる。

 

ソーシャル・キャピタルの衰退によって、白人下層階級の人々は、従来アメリカ人が幸福追求のために用いてきた基本的手段を奪われつつある。結婚、勤勉、正直、信仰の衰退についても同じことがいえるのではないだろうか。人生におけるこれら四つの側面は、個々人の好みで重要性が決まるたぐいのものではない。この四つは一体となって、人生の本質を形成しているのである。

(p.368)

 

人が人生で深い満足を得られるーーつまり幸福を得られるーー領域は何だろうか?その答えは四つしかない。家族、仕事、コミュニティ、そして信仰である。

(p.371)

 

 ウッときたのは、わたし自身が、結婚からも仕事からもコミュニティからも見事に疎外された人生を歩んできており、もちろん信仰なんてものも持っていないためである(なお、わたしは日本に生まれて日本で育ってきたので、アメリカにおける階級の分断とかソーシャル・キャピタルの崩壊とかは、わたしが「人生の本質を形成している」ものから縁遠い人生を送ってきたこととは、無論なんの関係もない。ただたまたま運が悪かったり自分自身の意志でいろんなことから逃げてしまったりなどの色々な事情が重なってそうなったということだ)。

 そして、自分自身がさして幸福でないことも自覚している。だからこそ、幸福に関する哲学や心理学の本も色々と読んでいるわけだが*4、それらの本のなかでも「幸福を得るためには、家族や友達や共同体と関わりながら、価値のある仕事を勤勉に真っ当に続けて、ほどほどに生きるのがいちばん」という主張がされているのである。そして『階級「断絶」社会アメリカ』でもアリストテレスの幸福論が引用されているように、幸福って良くも悪くも"保守的"なものであることは間違いないのだ。マレーとは真逆のカウンターカルチャー的な主張が、社会の分断をすすめて秩序を毀損することでけっきょく人々を生きづらく不幸にしてきた、ということも確かであるし*5

 わたし自身、そもそも保守的な傾向が強くて*6、たとえばアメリカの映画を見ていてどの登場人物も言葉使いが汚かったり不特定多数とセックスしまくっていたりドラッグや酒に溺れていたりすると「やあねえ」と眉をひそめてしまうタイプの人間である。だから、マレーの保守的で前時代的な問題意識には共感できるところもある。婚外子の増加が社会に悪影響を与えることを「進化心理学」と「遺伝学」に基づいて示唆しているところも(p.432~433)、やや危ういと思うがそういう言いづらい問題に切り込んでいこうとするところは評価できるだろう。

 ……しかし、だからといって、「ヨーロッパ・モデル」な福祉国家を否定して、「アメリカン・プロジェクト」を体現した小さな政府を押し出されるのはやっぱり勘弁してほしい。わたしが思い浮かぶ限り、マレーと同様の幸福論や社会論を語っている論者(ロバート・パットナム、ロバート・フランク、ジョセフ・ヒース、ジョナサン・ハイトなどなど)の大半はリバタリアニズムの問題点も重々承知しており、穏当な福祉国家の必要性を強調している。「結婚、勤勉、正直、信仰」と福祉国家も、両立できないことはないだろう*7

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

cruel.hatenablog.com

*3:パットナムは社会福祉や再分配の重要性を強調する論者であるはずだ。

togetter.com

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

note.com

*7:スウェーデンのように「大きな政府」が整った福祉国家では必然的に宗教の影響力が失われていくという議論もあるのだが、それはそれとして。

davitrice.hatenadiary.jp