道徳的動物日記

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「傷つき」と表現の自由(読書メモ:『表現の自由を脅すもの』)

 

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 昨日に公開された現代ビジネスの記事ではジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介したが、ミルと同じようなタイプの主張を現代において行なっている本である、ジョナサン・ローチの『表現の自由を脅すもの』にも目を通してみた。現代といっても1993年であり、30年前の本ではあるんだけれど……。

 

 

 

 しかし、30年前であるのに、この本で問題視されている状況は現代とまったく同じようなものだ。つまり、アメリカのジャーナリズムやアカデミズムでは表現の自由が脅かされていること、その脅かしは宗教的原理主義者や右翼だけではなく左派からも訪れていること、そして彼らが表現の自由を制限したり抑圧したりしようとする根拠はマイノリティに対する配慮や同情であるということだ。

 90年代の前半ということはSNSやインターネット以前の時代であるのだが、そういえば「ポリティカル・コレクトネス」が問題視されるようになったのも90年代からである。結局のところ、ネットは新しい問題を生み出したというよりかは、昔から存在する問題を可視化したりブーストしたりしているだけ、と言えるのかもしれない。

 

 ローチは、現代(当時)のアメリカで「あなたは他人を言葉でもって傷つけてはならない」という原則が浸透しつつあることを危惧する。

 ただしい知識にたどり着くための研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく事態は必ず発生する。その「傷つき」の対象とは人種的マイノリティや性的マイノリティには限らない。たとえば、一見すると人の生活や価値やアイデンティティと関係のなさそうな地球科学や生物学の研究ですら、地球平面説や創造論を信じるキリスト教原理主義者を傷つけてしまう可能性はある。また、『悪魔の詩』事件が示すように、イスラム原理主義者たちは物理的な暴力をもって実際に表現の自由を脅かしてきた。

 原理主義者であってもマイノリティであっても、知識によって傷つけられることはあり得る。とはいえ、原理主義者の傷つきや彼らによる復讐を恐れて知識から遠ざかってしまうことは、近代社会や民主主義政治の根底にある「自由思考」や「自由科学」を捨ててしまう「敗北」である*1。そんなことがあってはならない。そして、原理主義者のために表現の自由が脅かされることがあってはならないのなら、同じように、マイノリティに対する配慮によって表現の自由が脅かされること(この本のなかでは「人道主義者からの脅威」と表現される)も、あってはならないのだ。……ローチの議論をざっくりとまとめると、このようになるだろう。

 

 さらにざっくりと、ローチの主張を一文で表してみるなら、どうなるか?それは「だれかを傷つけるものであっても、そんなこととは関係なく、表現の自由は守られるべきだ」というものになる。

 この主張は、2020年代のいまから見ればかなり粗野に思えてしまうものだろう。実際のところ、この本のなかで彼はかなりマッチョな議論をしている。

 以下、印象的な箇所を引用してみよう(太字の部分はわたしによる強調)。

 

私は、人道主義者や平等主義者が、道徳的に高い立場にあるという主張は偽りであるということ、そして、人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえもするという誓約をもつ知的自由主義が、唯一の本当に人間らしい体制であるということを示したいと思う。私は、「言葉で傷つけられた」人々には、補償という形で何かを要求するという道徳的権利はいっさいないということを示したいと思う。自分が傷つけられたというので何かを要求する人に対する正しい答えとは何か。それは、「お気の毒、だけどあなたは生きていくでしょう」というに尽きる。「人種差別主義者」「同性愛恐怖者」「女性差別主義者」「神を冒瀆する者」「共産主義者」、あるいは、どんな化け物であろうと、これらのものを処罰せよと主張する人たちはどうかといえば、彼らは知的探求の敵であり、彼らの騒がしい要求は全く無視されて然るべきであり、いっさい付き合ってはならない。

(p.44)

 

我々は皆、自分の方からとにかくもっと攻勢にでてけしかけろなどと言っているのでは勿論ない。どうか、ユダヤ教の礼拝堂にペンキで鉤十字を描いて、私は祝福を与えているのだなんて言わないようにしてもらいたい。面白がって人の気に障るようなことをするのには反対である。しかしまた私にとってはっきりしているのは、知識の追求に当たっては、多くの人たちが、そして多分我々のほとんども何らかの機会に、傷つけられるということ、しかもこれは、どうにかしようと願ったり、努力したりしてみても、どうにもならない現実であるということである。人を傷つけるのは良くない。しかし、どうしてもそうならざるをえないのである。傷つけ合いなしの社会は、知識なしの社会である。

(p.199)

 

(……前略……)彼がもしきつい態度を取りたいというのなら、自分の戸口に「ホモは病気だ」と書いたポスターを貼りつけたいというのなら、それを差し止めるべきではない。実のところ、私がはっきり言いたいのは、もし彼がゲイ(ホモ)の人たちは、直せるような病気に罹っていると信じるのなら、そう発言し、自分の主張を証明するようにすればよいということである。

どうしてそう言えるのかって。

先ず第一に、彼を罰したところで効果はないからである。抑圧するだけでは、いかなる仮説も完全に埋葬されることはない。悪しき考えを葬る唯一の道は、それを天下に曝し、より良いものをもってこれに代えることである。

第二に、すべての少数者同様、ホモの人たちも、知識や議論を規制する措置によっては、得るよりも失うところが遥かに多いからである。確かに今日、取り締まる人たちはゲイの人たちの側に立っているといえよう。しかし車輪は回転し、多数者の方がのし上がってきて、異端裁判的機構が彼らに向けられるようになると、ホモの人たちは、自分たちも手伝ってそれを作り上げた日を悔いるであろう。

(……後略……)

(p.255)

 

 上記のようなローチの主張は、おそらく、現在では通じない。いまとなっては、言葉は単に人の気持ちを傷つけるだけでなく、気持ちを傷つけることで精神的・肉体的な損傷を引き起こしかねないこと、そして場合によっては人を死に至らしめかねないことが、多くの人によって理解されているからだ。人種的・性的少数者に対する差別的な言動や表現が、彼らにトラウマを与えたり彼女らを自殺に追い込んだりしてきたらしいことは周知されるようになっており、良心的な人々は、だからこそ自分や他人が差別的な言動や表現することを危惧して「規制もやむなし」と考えるようになっているのだ。

 ……とはいえ、過去に現代ビジネスで紹介した『アメリカン・マインドの甘やかし』のなかでも危惧されていたように、現代では不愉快な表現や非・左派的な思想や言論を抑圧するために、「危害」の概念が後付けで拡大されている感がある。そして、攻撃的であったり挑戦的であったりする言論に触れて、正面から受け止めて対峙したりする機会が失われることで、若者は言論に対する免疫がなくなってますます傷つきやすくなる、という悪循環も発生しているようだ*2*3

 なにより、原則論として、「人を傷つける知識や表現は制限しましょう」という発想は、(1)どんな表現についてもどこかの属性の人が「わたしはこの表現で傷ついたから、この表現は封じられるべきだ」と言い出す泥沼の状況か、(2)「この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきだが、この属性の人の"傷つき"は配慮されるべきではない」という権威主義的で独善的な選り分け、のどちらかを引き起こすことになるだろう。

 

 とくに今日のSNSやアカデミアの状況をみると、以下の引用部分は、かなり鋭い予言であったように思われる。

 

それが無神経なように聞こえるとしても、 気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかといったことをめぐって声高な泥仕合が一杯起きるだろう

(p.205)

 

言葉の上での攻撃と物理的暴力を同等だと考えたい人には、もう一度自分の立っている立場の論理を思い返してほしいと言いたい。もし人を傷つける意見が暴力なら、つらくてきつい批判は暴力だということになる。言い換えると、人道主義的前提に立てば、科学それ自体が一種の暴力になる。では暴力に対処するにはどうするか。それを止めさせ、実行者を罰するのに、公的・私的な警察権力を樹立する。そして人を傷つける思想や言論を取り除く権限を持った当局者を立てる。別言すれば、異端尋問所を、である。

(p.207)

 

 ……とはいえ、やっぱり、「傷つき」を一切意に介さずに表現の自由や知識の追求が原理的に擁護される社会というものが成立するとも思えない。それは大半の人にとってキツ過ぎるし、けっきょく人間には人道主義的な傾向が多かれ少なかれ存在するのだから「配慮」や「同情」というものは必ず発生するはずだ。そして、ヘイトスピーチや無知蒙昧な表現を放置することは、原理的には必要であるとしても、現実的にはデメリットやコストの方が多くて割りに合わないことは、火を見るより明らかだ。だからほどほどの「落としどころ」を見つけなければならないのだが、その「落としどころ」を探すための試みが、泥仕合や異端尋問に繋がっているとも言えてしまう。まあ難しい問題である。

 

*1:ローチはジョン・ロックカール・ポパーなどの知識人たちの考え方を紹介しながら「自由思考」や「自由科学」のあり方や成り立ち、価値などを説いているが、まあミル的な「思想の自由市場」とだいたい似たような感じと言っちゃっていいと思う。

*2:

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安全主義は、「危険」や「不安」に関する学術用語の定義を拡大させるという影響ももたらしている。ニック・ハスラムという心理学者は、心理学の世界では「コンセプト・クリープ(概念の漸動)」という現象が起こっていることを指摘した。心理学研究においては、「PTSD」「精神障害」「虐待」「いじめ」などの単語が指し示す意味の範囲は近年になって急に拡大しており、概念の名前は同じであってもその中身は大幅に変わっているのだ。

特徴的なのは、いずれの概念についても、その定義や基準が客観よりも主観を重視したものとなっていることだ。たとえば、ある人が「自分は虐待を受けた」と申告したり「トラウマを負った」と主張したりした場合、虐待やトラウマの存在についての客観的な検証がなくとも、本人の言い分が事実としてそのまま認められるようになっているのである。

こうして危険や危害の基準が客観的なものから主観的なものになることによって、差別や暴力の問題について論争的な議論を行う学者の講演についても、学生が「この学者の講演を聴くことによって傷ついた」「自分の大学がこのような主張を行う論客を招待したという事実によって不安になった」などと主張することで、授業や講演をキャンセルすることが可能になった。

*3:

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たとえば、デラルド・ウィン・スー教授が発明した「マイクロアグレッション」という概念では、日常的な言動のなかで行われる些細な見下しや侮辱も攻撃(aggression)の一種であるとされる 。しかし、マイクロアグレッションという概念は、発話者が攻撃を意図していなくても聞き手が傷つけばそれが攻撃である、としてしまう。つまり、「攻撃」の定義を発言者の意図や客観的な基準にではなく、聞き手の主観に委ねてしまう概念であるのだ。

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

 

「自由」にケチをつけるな(読書メモ:『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』)

 

 

 

 もう図書館に返却してしまって読み直せないので、浅い感想をメモ的に残しておく。

 

『自由の命運』は経済学の本(制度論の本)であり、様々な時代における世界各国の社会の有り様や国家システムを紹介しながらどういう国では経済や行政がうまくいってどういう国ではうまくいかなかったか、ということが論じられるのだが、その議論の内容は記述的であるはずなのに規範的な趣が強い。

 著者たちが強調する価値とは「自由」だ。これは「解題」で稲葉さんも書いていたのだと思うのだが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』では様々な制度について分析した結論として「経済が反映したり社会がうまくいくためには自由が必要だ」という議論が提出されていたのに対して、『自由の命運』ではそれを前提とするところから議論が始まっているのである。

 

『自由の命運』で展開される議論とは「国家制度が全くない社会と国家の権力が強すぎる社会のどちらでも、どちらも人々は自由や幸福に生きることはできず、イノベーションインセンティブが阻害されてたりそもそも経済活動を行うという意欲を失ったりしているから経済が発展することもない」ということである。国家制度が全くない社会は「不在のリヴァイアサン」、国家の権力が強すぎる社会は「専横のリヴァイアサン」、そして国家制度がほどほどであり上手く機能している社会は「足枷のリヴァイアサン」と呼称される(市民社会の側がリヴァイアサンに対して足枷をはめている、という意味)。

 国家のシステム(法律とか行政とか)が全く存在していなかったり機能していなかったりする社会では、人々は安心して商売したり貯蓄したりすることができない。無法状態であるから、自分の財産がいつ奪われたり契約が裏切られたりするかがわかったものではないからだ。

 ただし、国家がない場合にも、人間の社会には道徳というものがある。どんな集団にも平等主義的な「規範の檻」というものが存在しており、ある人が他の人に比べて多大な力を獲得しようとしたり富を独り占めしようとしたりしたときには、国家システムではなく慣習や伝統に基づいた制裁が行われたり、「他人から抜きん出ようとする者にはバチが当たる」という迷信を信じ込ませることでそういう行動があらかじめ封殺しようとされるのだ。……しかし、「規範の檻」の力が強い社会ではイノベーションは全く起こらず、インセンティブも歪められてしまう。結果として経済成長というものがほとんど起きず、そのような社会は現在であっても貧困状態で惨めに暮らしている。「規範の檻」は一見すると平等主義的で善いもののように聞こえるかもしれないが、平等主義的な規範がガチで徹底されている社会なんて実際には惨憺たるものだということだ。

 しかし、歴史上、数多くの社会では、財産を貯めて権力を身に付けることで「規範の檻」を破るエリートたちがあらわれて、国家が築かれてきた。国家があることで、安全を保証して、人の足を引っ張る規範も封じ込めて、安全で自由な経済活動を保証することができる。……しかし、権力を持つエリートたちは、往々にして利益誘導をはかりたがるし、国家にとって不安材料となるような市民たちの自由を徹底的に抑圧する。この状態の国家が「専横のリヴァイアサン」だ。専横のリヴァイアサンであっても、無法状態の社会や規範の檻に封じ込められた社会に比べると、たしかな経済成長は存在する(専横的経済成長)。しかし、その成長は長続きしない。国家が恣意的に権力を振るってしまうと、イノベーションとかインセンティブとかはやっぱり機能しないためだ。

 したがって、リヴァイアサンには足枷を嵌められなければならない。足枷を嵌めるのは市民たちだ。国家の権力に対抗できるだけに充分に市民社会が機能している国では「足枷のリヴァイアサン」が成立して、国家はその役割を適切に果たして、めでたくちゃんとした経済成長が達成される。……しかし、市民社会の力が強くなりすぎると国家の機能が弱まって「不在のリヴァイアサン」に傾くし、かといって国家の力が強くなると「専横のリヴァイアサン」に逆戻りだ。どちらの力も固定的なものでなく、弱まったり強まったりしながら綱引きをしている。この綱引きのあいだにあらわれる「狭い回廊」のなかに位置している国のみが、ちゃんと経済成長できるのみならず、市民たちは規範の檻からも国家からも抑圧されずに「自由」を味わうことができるのだ。

 

 現代では賢しらな思想家さんとかライターさんほど「自由な個人という近代的概念は破壊された」とか「自由に伴う代償を直視しなければならない」とかほざいて、「自由」に疑問を呈したがる。サンデル先生の『実力も運のうち』も、ある意味では「規範の檻」を現代アメリカ社会に復活させようとする試みだとみなすことができるだろう*1。しかし、『自由の命運』では、無法状態になったているアフリカの諸々の国々や規範の檻に雁字搦めにされているインド、国家の恣意によって市民が弾圧され生命も奪われてきたインドやナチスドイツの例を紹介しながら、「自由が存在しない国ってマジでやばいことになりますし、誰も住みたくないですよそんな国」ということが再確認される。これは考えてみれば当たり前のことであるはずなのに、現代のわれわれが済むような国では「自由」は水や空気のように存在するものとして受け止められているから、つい「自由ってそんなに良くないんじゃないの?」という意見のほうが注目されてしまうのだ。

 というわけで、「自由」の価値を経済学や制度論の観点から再確認させてくれるということで、この本にはなかなかの意義があると思う。だらだらと各国や各時代のエピソードを紹介する箇所が続いて読みものとしてはあまり面白くないのだが、中国やインドの問題について書かれていたり女性参政権運動を通じて市民が自由を獲得していく様子について書かれていたりする箇所は著者らの熱意や使命感があらわれていて、そこの部分は読んでいても面白い。

 

 ……とはいえ、先述したように、著者らの議論は「自由は重要だ」という規範意識に引っ張られている気がする。それがもっとも議論に問題を引き起こしているのは、中国について論じている箇所であるだろう。

『国家はなぜ衰退するのか』では「中国の経済成長は近いうちに止まるよ」と論じていたのに、実際には中国の経済成長は継続している*2。『自由の命運』でも「結局のところ中国は自由が保障されていない専横のリヴァイアサンであり、いつ経済活動が共産党政権の恣意で制限されるかわからないからインセンティブは機能せず、イノベーションはそのうち頭打ちになって、経済活動も止まるはずだ」という議論が繰り返される。しかし、ここの部分は説得力がなく(だって中国の人たちの多くは自由なしでも楽しんで生きているようだし、それで経済活動もうまくいっているらしいという事実があるんだし)、著者らの願望を表明しているようにしか思えない。中国に関する章の最後ではウイグルの強制労働の話を持ち出して「ほらやっぱり中国なんてロクなもんじゃないでしょう」ということが確認されて、それには同意するんだけれど、中国政府が非道なことをしているかどうかと経済成長が続くかどうかはまったく別の話である(別の話じゃないと言うのならそこを論証しなければいけない)。

 

 この本は全体的にはフランシス・フクヤマの『政治の起源』『政治の衰退』にもっとも近い*3。原始的な「規範の檻」が平等主義的であることはクリストファー・ボームの『モラルの起源』に詳しい*4。また、中国のような自由のない社会ではほんとうの意味でのイノベーションは起こらず研究だって頭打ちになるはずだという(願望込みの)議論にはティモシー・フェリスの著書『自由の科学(民主主義、理性、法の支配)』を思い出した*5。そして、ジョン・ロールズの『正義論』をはじめとする、「自由」に関する政治哲学の規範的な議論とあわせて読んでみるべきでもあるだろう。

さいきん読んだ本シリーズ:『リベラルとは何か』とか

・『リベラルとは何か』

 

 

この本はなかなか面白かった。もう図書館に返却してしまったけれど、ブログ記事にしてもよかったくらい。アメリカとヨーロッパとのリベラルの違い(や、その違いをあまり強調するのも間違っているということ)や「ネオリベラリズム」についてもきちんと解説されている。

リベラリズム」というとつい価値観の多元性を前提にした思想であるとイメージしてしまいがちだが、最初のほうのリベラルとは「人々が善い人生を送るためには事由が必要であり、だから社会や国家はこれこれこうして自由を保証しなければならない」という考え方をしていたようであり、道徳的に優れた生のためには事由が必要だという理論建てをしていたらしく、つまり一定の価値観の範囲内での自由や「積極的自由」が必要であるという主張をしていたようだ。わたしとしても最近はそういう考え方のほうに共感する。そのうち「徳倫理学リベラリズム」でも提唱してみようかな。

 

・『感情の哲学入門講義』

 

 

 

 タイトル通り、大学での哲学入門講義に使用することを前提として書かれた、教科書みたいな感じの本。「哲学」についても「感情」についても「感情の哲学」についても、いい感じに入門になっている。内容はかなり丁寧かつ客観的であるのだが、そのせいで読んでいて物足りなくもあった。

 

・『言葉はいかに人を欺くか』

 

 

 扱われている題材は面白いのに、分析哲学にしてもいくらなんでも議論が細か過ぎてねちっこ過ぎるので読んでてぜんぜん面白くない。また、終盤の「犬笛」に関する議論は結論ありきというか概念工学的というか、左傾化したイデオロギーのための理屈をひねり出している感じがあった。

 

・『制と懲罰の歴史』

 

 

 

 面白そうな題材ではあるのに、各時代におけるエピソードを延々と羅列しているだけであり理論とか分析とかはほとんどなくて、知的好奇心がぜんぜんそそられない。まあエピソード羅列的な歴史の本っていっぱいあるけれど、よくみんな読んでいられるものだなと思う。うさん臭くても適当でもいいから、理論をぶちあげてくれたほうが断然おもしろいはずだ。また、著者の問題意識はたぶんフーコー的なあれなんだろうけど、そのせいで内容が凡庸になってしまった気もする。

 

・『飼いならす』

 

 

 

 それなりに興味深いのだが、10種類の動植物について章ごとに取り上げている構成のせいか、なんだか内容が散漫になっている。これなら、各動植物についてそれぞれ取り上げた新書を一冊ずつ読んだ方がよい読書体験ができると思った。「家畜化(栽培)」というトピックそのものについてもっとストレートに取り上げた方が面白くなっていただろう。遺伝子組み換え食品に関する議論も内容がかなり初歩の初歩という感じでいらねーと思った。

 

・『疫病と人類知』

 

 

 疫病の歴史、コロナウィルスや社会情勢に関する諸々の情報、『ブループリント』でも展開されていた著者独自の楽観論にもとづいた未来予測のごた混ぜという感じ。

 

・『マーサ・ヌスバウム

 

 

 

 ヌスバウムの来歴や思想について程よくまとめられていて、なかなか参考になる。とはいえヌスバウムの本って難しくないのでわざわざ入門書を読む必要はないとも思うのだが。性的モノ化論などに関する紹介があまりなされていないのは物足りなかった。

 

・『生と死を分ける数学』

 

 

 

 BLMの批判者たちがよくいう「白人警官に殺された黒人より、黒人に殺された黒人の数のほうが多い」といったレトリックを論破している箇所は必読。しかし、社会問題に絡められても、数学に関する議論ってどうにも眠くなって苦手である。

 

・『オン・ビーイング・ミー』

 

 

 内容が薄い。つまらない。

 

 

 

 

社会性の収斂進化、「社会性」は「善」であるのか?(読書メモ:『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』)

 

 

 この本のメインの主張である「青写真(社会性一式)」に関する議論などは先日の記事で紹介したので、今回は、感想とか気に入った部分の引用とかだけで済ませよう。

 

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・副題には「進化論と人類史」とあるが、基本的には進化論の話がメイン。下巻の後半からは文化進化論の紹介が多くなるが、歴史の議論がそこまで詳細にされるわけではない。内容としては、人間と動物(特に霊長類やゾウなどの社会性の高い動物たち)との共通点を示しながらも、人間には他の動物たちよりも際立った「文化」があることも強調しながら、人間の生物学的側面のなかでも善い部分に根付いた社会は「善い社会」となり得る点……といったことが主張される。

 最終章では規範的な議論が展開されるが、えらいことにいろんな倫理学者たちについて紹介しながら、著者なりの主張がバシッと示される*1。人間の生物学的傾向を強調し、さらには「生物学的傾向に従うのが善い」という部分まで含む著者の主張は「自然主義的誤謬」との批判を容易に招きかねないもであるから、その想定される批判に対して先回りした反論が展開されているのだ。

 ……とはいえ、先日の記事でもちらっと触れたが、著者と同じように人間の生物学的傾向の存在を認めたり生来的な利他性についても認識したりしながらも、最終的には「生物学的傾向に従うのではなく、理性に従うことが真に善い社会を築くためには必要だ」という結論を出す一部の功利主義者たち(ピーター・シンガーとかジョシュア・グリーンとか功利主義者じゃないかもしれないけどジョセフ・ヒースとか)の議論がほとんど紹介されないのは気になるところだ。わたしが見たところ、著者の議論にとって最も手強い論敵になるのは、「自然主義的誤謬だ!」とやいのやいのと文句を付けてくる人文学者や社会構築主義者などではなくて、進化心理学を理解したうえで生物学的傾向よりも理性の優位性を強調するタイプの論者であるはずだからだ。

 また、規範的な議論が展開されるのはほぼほぼ最終章だけに限られていることもあって、突き詰めが足りていない感じもする。

 

 とはいえ、最終章から印象に残った箇所を引用。

 

道徳的判断は世界を叙述するものではなく、規定するものであるから、これに反証は不可能であり、したがって道徳的判断は科学的でないというのが一般的な感覚だ。地球は平らだという主張が正しいとか誤っているとか言うことはできるにしても、殺人は悪いことであるという主張に対して同じように客観的な見解を述べることはできない。にもかかわらず、倫理には何かしら客観的なものがあるようにも見える。ヒュームが論じたように、たしかに倫理は私たちが世界に見出す客観的なものごとの状態に関係しているが、そこにはまた別の、「感情によって決定される」何かも含まれている。

(p.274)

※以下、引用はすべて下巻から。

 

第二次大戦後には、イギリスの哲学者リチャード・マーヴィン・ヘアの提唱による一連の考えても出てきた。ヘアは一九四二年に捕虜になってから、クウェー川に沿っての長い行軍と日本軍の収容所生活を生き延びていた。人間は自由に価値観を選択できるとの認識を保持しながら、同時にヘアは、その選択は制約に抗ってなされるものだとも論じた。個人の倫理は、あちこちに揺れ動きながらも、最終的には数々の根本的な制約に突き当たる。その制約は、何か客観的なもの、みずからの外にあるもの、言い換えれば、自然によって課されている。少なくとも倫理のある部分は、突き詰めれば自然なものだと言えるのだ。

この論は、次のように展開される。何をもって時計であるとするか(それは時間を正確に告げるものである)を理解すれば、時計の果たす機能が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。同様に、何をもって人間であるとするかを理解すれば、人間のなす経験が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。

たとえば愛する資質を欠いた人間は、人間であることを完全に満たしてはおらず、それは悪いことであると言えるかもしれない。この見方からすると、一連の自然な制約と定義は、それがなかったら果てしなく続く相対主義的な道徳の後退を止めることができる。社会が構成員の幸せや生存を強化するのなら、そのような社会は善いものだと言える。そうした制約に対して、進化も倫理も無縁ではない。これもまた古い考えで、少なくともプラトンアリストテレスまでさかのぼれる。

(p.275 - 276)

 

同じように、優しさや勇気といった人間の徳についても語ることができる。これらの徳は「自然な優秀性」であり、その反対は「自然な欠陥性」だ。〔フィリッパ・〕フットは「道徳的な行動は合理的な行動である」と論じ、倫理は人類の本性によって課される制約によって決定されうると説明した。人間の場合、「合理的」であるとは、人間は社会的に生きているときこそ善いということを意味する。人間は自然にそうするよう強いられているからだ。善い社会をつくることに関連するかぎりにおいて、人間が完全に人間であることを可能にする倫理は、人間の進化的過去に導かれている。

(p. 276 - 277)

 

・この本では、人間ほどではなくてもそれに準ずるくらい複雑な社会を築く動物たちーー霊長類、クジラ類、そしてゾウーーには、人間に準ずるような個体識別能力やアイデンティティ認知能力があって、彼らはときに利他的な行動をおこない、仲間とのあいだに友情を築いたり仲間が死んだら悲しんだりする、ということが示されている。

 霊長類はともかくゾウやクジラは進化的には人間からはずっと縁遠い存在であるが、それでも彼らは人間に類比できるような社会性を持っているのだ(その能力は、人間性や道徳性と呼ばれることもあるものである)。

 この不思議を、著者は「収斂進化」によって説明する。ゾウもクジラも人間も、ほかの動物たちに比べて高度な社会を築くようになるにつれて、同様の能力を身に付けることを要請された。自然環境だけでなく、自分たちが集団生活を営むことで身を置くようになった社会的環境にも適応する必要が生じたからだ。

 

私たちが目の構造をタコと共有できるとすれば、友情を結ぶ能力はゾウと共有できる。霊長類、ゾウ、クジラには社会性一式の要素が見られる。なぜなら、それらの動物たちは七五〇〇万年以上前に共通の祖先から枝分かれしたという事実にもかかわらず、環境が課した困難に対処するため、そうした形質を別個に、かつ収斂して進化させてきたからだ。当初、環境による困難は外的なものだった。しかし、やがて、動物たちがつくった社会的集団もまたその環境の特徴になり、彼らの社会的行動をさらに形成し強化していった。動物は社会的集団に身を置く頻度が高まるにつれて、社会的生活がうまくできるように進化していくのだ。

(p.58)

 

集団で生きることには、単独で生きる場合とはもちろん、一夫一妻で生きる場合ともまた違った難しさがある。人間は生存戦略として集団生活を採用した。そして、その(社会的)環境でできるだけうまく生きていけるように、たくさんの適応を(身体的形質や本能的行動も含めて)果たす一方で、単独生活に適した適応は放置した。このトレードオフにより、人間は地理的にとてつもない範囲に広まって、地球上の支配的な種になることができた。

自分の生きる物理的環境をそっくり背負って移動するカタツムリと同じように、人間もまた、友達と集団からなる社会的な生息環境をどこに行くときでも保持している。この社会的な保護殻に包まれていればこそ、私たちはとんでもなく多種多様な条件下で生存できるのだ。つまり私たち人類という種は、友情、協力、社会的学習に依存するよう進化したわけであるーーたとえこれらの麗しい資質が、烈火のような競争と暴力から生まれたのだとしても。

人類という種に見られるこれらの形質がまさしく普遍的であることは、第7章で見たように、これらが霊長類からゾウにいたるまで、ほかのさまざまな社会的動物に偏在していることからも証明される。連携を築いたり認識したりする能力は、社会的動物にとって必須のものであり、ある個体を友か敵か、自分の集団の部内者か部外者かに類別する能力は、正しく連携をとるのに絶対に欠かせない認知技能なのだ。

(p.108)

 

・わたしが思うに、「人間と一部の動物たちは、収斂進化によって同様の社会的な感情を身につけるに至った」という考え方は、動物倫理学にも示唆をもたらすものである。

 この考え方が正しいければ、ウシやブタやニワトリを殺すことよりも、あるいはイヌやネコを殺すことよりも、チンパンジーやゾウやイルカを殺すことはという主張は正当化される可能性が高い。社会性の高い動物は、自己アイデンティティ認知能力が高いためにほかの動物たちよりも「自分の生命」に対する利害が強いだけでなく、仲間たちのアイデンティティも認知できて仲間たちと絆を紡ぐことができるために、ほかの動物たちよりも「仲間の生命」に対する利害も強いと見なすことができる。……つまり、一匹を殺せばほかの仲間たちがその死を悼むような動物を殺すことは、殺される一匹だけでなく残された仲間たちにとっても危害となる、というわけだ。

 功利主義だけでなく、カント的な義務論や徳倫理でも、それぞれの理路において「社会性の高い動物を殺すことはとりわけ悪い」ということは説明できそうだ。

 さらには、自己に関する認知能力は高そうだが他者に関する認知能力はそれほど高そうでもなさそうな鳥類と、霊長類やクジラ類とを区別する論拠にもなるだろう*2

 

・この本で展開されている議論はやや総花的であり、文化進化論ならジョゼフ・ヘンリック、社会性とか集団的な道徳心理に関わる部分はジョナサン・ハイト、一夫一妻制に関する議論はラリー・ヤングで動物の社会性に関する議論ならフランス・ドゥ・ヴァールと、進化論や心理学に詳しい人ならそれぞれ別の学者の著書でもっと深く展開されている主張が浅口なかたちで短めに紹介される、という場面が多い。いちおう、著者のオリジナルな主張である「社会的ネットワーク」に関する議論も紹介されるのだが、ここの部分だけ言っていることが大したことなく感じられてあまり面白くない。他の学者たちの議論と「社会的ネットワーク」に関する議論がうまく接続できているかどうかも、正直に言うと微妙なところだ。最終章における規範的な議論との接続は、輪をかけてうまくいっていない。

 実際のところ、最後まで読んでも、著者の主張のどこがどのように目新しいのかはわたしにはよくわからなかった。人間は複雑な社会に適応するための諸々の特徴を備えていることはずっと前から進化心理学で言われていることだし、生物学的特徴をあまり無視したコミュニティはうまく行かないという話もそりゃそうだとしか言いようがないし、文化進化論や自己家畜化論だってもはや常識になりつつあるし。

 さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

 

 

*1:『怒りの人類史』の著者にも見習ってほしい。

*2:ここら辺の議論はこちらを参照。

davitrice.hatenadiary.jp

「正しい怒り」は存在するか?(読書メモ:『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』)

 

 

 

「人類史」とは書いてあるが、内容は思想史のそれ。主に西洋で「怒り」という情動とはどのようにみなされてどのように扱われてきたか、ということが論じられている。

 第一部では怒りを否定する思想の歴史、第二部では怒りを(条件付きで)肯定する思想の歴史が扱われて、第三部では自然科学や心理学などにおける怒りについての研究の変遷が描かれる。

 最終章のひとつ手前の12章では、SNSのある現代社会における「怒り」の善し悪しについて論じられるのだが、著者はいちおうは中立っぽい風でありながらも、トランプ主義者や人種差別主義者たちの「怒り」を否定する一方で、フェミニストたちの「怒り」は肯定しているようだ。

 ……正直に言うと、この章の書きぶりはなかなかにひどい。「思想史家として中立的でありたい」という意識のせいか、怒りに関して様々な哲学者が行なってきた規範的な議論を様々に参照しながらも、著者は自分自身による「怒りはどのような条件のときに善くて、どのような条件のときに悪いか」という規範的な定義を明言しない。だけれど、12章を読んだ読者の大半には、「トランプ支持者の怒りは筋違いであり侮蔑されるべきものであって、フェミニストたちの怒りは正当であって称賛されるべきものである」と著者が考えていることは伝わるだろう(つまり、規範的なメッセージが含まれている)。前者の怒りは誤った認識や逆恨みに基づいているという風に描写されているが、後者については「これまでに女性の怒りは男性の怒りに比べて軽んじられて抑圧されてきた」という歴史的経緯とセットで紹介されているので批判する方が間違っている、という感じになっているからだ。

 こうなっている原因は、「中立を装いながら特定の主張を肯定する議論を展開して読者を誘導する」という行為を著者が確信犯的にやっているという点にではなく、ほんとうの意味での哲学的で規範的な思考をおこなうことを著者が放棄しているという点にあるように思われる。自分が拠って立つための足場を作っていないから、現代の社会(あるいは、本を出したり読んだりするような知的リベラルな界隈)でなんとなく「これは否定すべきで、これは肯定すべき」とされている風潮にそのまま流されてしまっているのである。

 また、ほかの人たちの感想を調べたところ、案の定というか、フェミニストの人たちがこの本を肯定しているのを見かけた。いちおうわたしも修士論文で女性による社会運動の歴史を扱ってきたので、「女性の怒りは馬鹿にされたり否定されたり抑圧されたりしてきた」という歴史的経緯の存在は理解している*1。とはいえ、トーンポリシングの議論でも「ケアの倫理」についての議論でもそうなのだが、「これまで怒りやケアの感情が女性性に結び付けられながら歴史的に軽んじられてきた」ということは「怒りやケアの感情は正しい」ということを保証するわけではない*2。すくなくともSNSなどを見てみれば、大半の人たちは、現在のフェミニストたちには怒りが「不足」しているのではなく「過剰」になっていると判断することだろう。

 そして、「これまで女性の怒りは抑圧されてきた」というナラティブ自体が、怒りという火に油をそそぐ効果を持つはずである。

 

 それはともかく、第一部と第二部で展開される、「怒り」の否定と肯定をめぐる西洋哲学者たちの議論のまとめは、それなりに興味深い。

 第一章では仏教の議論も紹介されるとはいえ、怒りに対する「否定派」の代表格はストア派だ。

 

多くの著述家が、ストア哲学と仏教とのあいだに類似点を見いだしてきた。だが、古代ローマの政治家であり、ストア哲学者でもあったセネカ(紀元六十五年没)がもしブッダのことを知ったら、かなり変わった楽観主義者だと思ったことだろう。セネカの考えでは、きちんと育てられ、正しい哲学を教えられたとしても、怒りをもたない人間になれるのはごく少数(おもに男性、ひょっとしたら女性がひとりかふたり)だけだ。それはだれもが目指すべき目標だが、達成されることはない。人間の性質について、そして自然の摂理についてのセネカの見方は、ブッダのそれとはまったく異なっていた。

(p.37)

 

……アリストテレスの考えでは、怒りは体と心の自然な機能であり、怒りがふさわしい社会・政治的な状況が存在することは明白だった。その反対にセネカストア哲学者は一般に、怒りは自然のものではないと考えた。「人間の精神状態がゆがんでいないとき、これ〔人間の性質〕ほど穏やかなものがあるだろうか?」。セネカは、怒りを引き起こすような場面はそれこそ無数にあるが、どれひとつとして怒りを理にかなうとすることはできないと考えていた。

(p.42)

  

 現代の哲学者であるマーサ・ヌスバウムも、ストア派の末裔として紹介されている。ヌスバウムは怒りには多少の長所があることは認めているが、それをもっと生産的な情動へと「移行」させることが必要である、と論じているのだ。どのような方向に移行させるべきであるかということは、怒りが親密な領域・中間領域・政治的領域のどこに生じたかによって異なる*3

 

 怒りの「肯定派」の代表格は、なんといってもアリストテレスである。

 

アリストテレス曰く、怒りは評価、つまり思いなしによって生まれる。我々は、自分が軽んじられたと思ったときに怒りが湧く。その侮辱は一種の痛みとして認知され、我々を怒らせる。痛みをもたらした相手に立ち向かうなど、何か行動を起こさずにはいられない。復讐のよろこびーーあるいはそれを夢想することーーで、軽んじられたという痛みは軽減する。これは完璧に普通の反応だとアリストテレスは言う。そしてたいていの場合、復讐は全く正当な、それどころか気高いおこないであると。けっして怒らないのは愚者であり、またつねに怒っているのは短気な者や身勝手な者だ。怒りに至る経緯はさまざまだが、重要なのは、正しいとき、正しいことにかんして、正しい相手に、正しい目的で、正しいやり方で怒る、ということだ。

(p.112)

 

 ご存知の通り、キリスト教も、神やその法に対して不正を行う相手には怒りをぶつけることを肯定している。

 そして、デビッド・ヒュームやアダム・スミスなどのスコットランドの哲学者たちも「肯定派」であった。ヒュームは以下のように論じたのである。

 

 怒りは倫理的な感受性に欠かせない。残虐な人物に対しては怒るべきであり、そのようにはっきり言うべきときもある。怒りを覚えたとき、思慮分別をもって、「控えめに」そのことを伝えられたら、それは立派だ。怒りの度合いが激しくても、それが「自分自身の体と心の作用」であることを自覚しなければならない。怒りが残忍さを引き起こすと、悪徳のなかでももっとも酷いものとなるのは本当だ。しかしその行き過ぎこそ、周りの者の道徳的感性を呼びさます。残酷の犠牲者に同情、心配するからだ。我々は「(残酷の)罪をおかす」人に嫌悪を感じ、「他の状況では有り得ないほどの強い憎しみを覚える」。わたしたちの倫理観は、賛成するために愛が必要なように、断罪するために怒りが必要なのだ。怒りがなければ、我々は道徳的な判断ができない。

(p.160)

 

 わたしとしては、アリストテレスが言うように「正しい怒り」もときと場合によっては有り得ると思う。とはいえ、著者も指摘しているように、「正しい怒り」と「正しくない怒り」が存在するという考え方は、ただちに「自分の怒りは正しいが、あいつの怒りは正しくない」という発想に結び付くことは火を見るよりも明らかだ。ジョナサン・ハイトがたびたび指摘するように「他人の目のおがくずは見えても、自分の目の中の丸太は見えない」という自己正当化の機能が、わたしたちの心理や感情にはどうしても備わるものだから。同じように、この本では紹介されていないが(紹介すればいいのに)、進化心理学者たちの大半や進化論的暴露論証をおこなう現代の功利主義者たちも、怒りは否定するはずである。だから、セネカヌスバウムの主張を採用した方が賢明であるだろう。

 

 なお、この本はこれまでわたしが読んできた本のなかでもいちばんというくらいに誤字や乱丁がひどかった。

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

 

 

 

 参考文献に乗っているのは『Anger and Forgiveness』であるが、『感情と法』でも似たような議論がされていたと思う。

愛情と結婚の進化論と人類史

 

 

『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』では、基本的には進化心理学や文化進化論などの考え方に基づきながら、人間には「社会性」がどのような形で備わっていて、どういう条件が揃えばそれらが表出されるか、といったことが論じられている。

 この本のメインとなる主張は、"私たちの遺伝子には社会や集団の「青写真(ブループリント)が組み込まれている"、というものだ。

 世界には様々なかたちの社会があるとはいえ、どんなかたちの社会でも存続できるというわけではない。現に存続してきた社会とは、それが表面上はどれだけ多様であっても、根本となる構造は共通しており「青写真」に基づいているのだ。逆に言うと、「青写真」を無視した構造の社会(人工的に作られたコミューンや、漂流者たちが急造した社会など)は存続することが困難であり、早い段階で崩壊してしまうのである。

 また、「青写真」は「社会性一式(ソーシャル・スイート)」とも呼称されている。

 

これから示すように、あらゆる社会の核心には以下のような社会性一式が存在する。

 

(1)個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力

(2)パートナーや子供への愛情

(3)交友

(4)社会的ネットワーク

(5)協力

(6)自分が属する集団への好意(すなわち内集団バイアス)

(7)ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)

(8)社会的な学習と指導

 

(上巻、p.37)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

これらの特徴は団結することにかかわっており、不確実な世界で生き延びるためにきわめて有益なものである。知識をより効率的に獲得・伝達する方法を提供し、リスクを共有できるようにしてくれるからだ。言い換えれば、これらの特質は進化の観点から見て合理的であり、私たちのダーウィン適応度〔訳注:ある遺伝子型を持つ個体が次代にどれだけ残るかを示す尺度〕 を高め、個人的・集団的利益を促進する。人間の遺伝子は、社会的な感性や行動を私たちに授けることによって、私たちが大小の規模でつくる社会の形成を助けてくれるのである。

こうしてつくりだされた社会環境が、今度は、進化的時間を通じたフィードバック・ループを生み出す。歴史を通じて、人間は社会集団に囲まれて暮らしてきたが、同胞ーー私たちが交流し、協力し、あるいは避けなければならない人びとーーの存在は、遺伝子の形成においてどんな捕食者にも劣らないほど大きな影響力を持っていた。進化論的に言えば、私たちが社会環境を形成してきたのと同様に、社会環境が私たちを形成してきたのだ。

(p.39)

 

 進化心理学の考え方にしたがって、この本のなかでは人間というものには生物学的に決定された共通の特徴が存在しており、古今東西のどこであっても人間の本質が変わらない、とされている。以下の引用部分はドナルド・ブラウンの「ヒューマン・ユニヴァーサル」論について紹介する箇所だ*1

 

一九九一年、文化人類学者のドナルド・ブラウンは、文化人類学の分野で普遍的特性を探ることへの「タブー」と称するものに挑んだ。彼は、文化的特徴を普遍的なものとした可能性のある三つの広範なメカニズムの概略を描いた。そうした文化的特徴は、(1)ある場所で使われはじめ、広く拡散していったものかもしれない(たとえば車輪のように)。(2)環境によって課される、あらゆる人間が直面する話題(たとえば住みかを見つける、料理をつくる、子の父であることを確定するなどの必要性)に対して一般に見いだされる解決法を反映しているのかもしれない。(3)あらゆる人間に共通する生来の特徴(たとえば音楽に惹かれる、友人を欲しがる、公正の実現に尽くすなど)を反映しているのかもしれない。すべてではないにしても一部の普遍的特性は、進化した人間本性の産物に違いない。

仮説上の「普遍的人間」について詳しく説明するなかで、ブラウンは、言語、社会、行動、認識にかかわる表面的な普遍的特性を数十も列挙している。

 

 人間の普遍的特性として挙げられるものには、文化の領域では、神話、伝説、日課、規則、幸運や先例の概念、身体装飾、道具の使用と製作などがある。言語の領域では、文法、音素、多義性、換喩、反意語、単語の使用頻度と長さの反比などがある。社会的領域では、分業、社会集団、年齢階梯、家族、親族制度、自民族中心主義、遊び、交換、協力、互恵主義などがある。行動の領域では、攻撃、身ぶり、うわさ話、顔の表情などがある。精神の領域では、感情、二分法的思考、ヘビへの警戒や恐怖、感情移入、心理学的な防御機構などがある。

 

(p.33)

 

 

 さて、この本の第5章「始まりは愛」 では、人間(と動物)が異性のパートナーに対して抱く愛情、そして人間の様々な社会における結婚制度というトピックが論じられている。

 そもそも、「恋愛」や「結婚」といったテーマは、進化論的に考えるうえではかなり興味深く、そして厄介なものである。わたしたちがだれかに恋をして求愛するときに抱く感情とは、あきらかに身体的なものだ。恋愛で悩んでいる人は、相手のことばかり考えて他のことが考えられなくなるだけでなく、食欲も失ったりしてしまう。「恋愛とはロマンティック・ラブ・イデオロギーといった文化的規範によって押し付けられるものに過ぎない」という風の主張をする人は多いが、ふつう、文化的規範といったものが思考や生理的機能にここまでの影響を与えることはない。そして、恋愛をした人がのぼせ上がったり食欲を失ったりする姿は、大昔から世界各地の様々な物語や記録のなかで描かれてきたのだ。恋愛という現象が自然なものであり、普遍的なものであることは明白だろう*2

 恋愛に比べると、結婚を普遍的なものであると主張することは難しい。婚姻とは法律で定められる「制度」であり、そのかたちも社会によって様々だ。一夫一妻制の社会もあれば、一夫多妻制や多夫多妻制の社会もある。どこの社会でもなんらかのかたちで結婚制度が存在するという事実は結婚も「青写真」に基づいていることを示すかもしれないが、モノガミーとポリアモリーという真逆に見える制度のどちらもが存在し得るというのは、どういうことだろうか。

 

 実際のところ、わたしたちが「これは世界中のみんながやっていることだろう」と思っている慣習や行動ですら、一部の社会では実践されていなかったりタブー視されていたりすることがある。たとえば、アフリカ南部に住むツォンガ族はキスを気持ち悪く思ってタブー視しているし、アフリカのほか地域や中南米に暮らす狩猟採集民や農耕民たちの多くにも愛情のキスや性的なキスの習慣はないそうだ。……とはいえ、普遍的な要素もやっぱり存在するのである。

 

人間の条件の大きな謎の一つ、すなわち、単なる「性的な関係」ではなく「愛情のある関係」を他人と築こうとする衝動の根底にあるものは何だろう。進化の観点からすると、人間がパートナーを欲しがる理由を説明するのは簡単だ。しかし、どうして人間はパートナーに特別な愛着を抱くのだろう?どうしてパートナーに愛情を感じるのだろう?

愛したい、所有したい、交わりたいという人間のせめぎ合う欲望を理解するには、人間の恋愛・性愛の多様性と、それらに通底する核心にあるものーー何かがあるとすればだがーーの両方について考える必要がある。

キスだけにとどまらず、セックスや結婚にまつわる多くの規範や慣習は世界中で異なっている。だが、異なってはいない別の特徴もある。オーガズムの生理といった不変の特徴は、地域にかかわらず同じはずであり、人類の進化した生態や心理から生じるものだ。こうした普遍的特徴のなかでもカギとなるのが「夫婦の絆」を結ぼうとする傾向だ。これは、パートナーと強固な社会的愛着関係を築きたいという生物学的な衝動であり、ますます理解が進んでいる分子と神経のメカニズムによって促進される。進化は文化に対して連携して機能すべき「原料」を提供し、その基盤のうえに配偶システムが築かれる。第11章で考察するように、それに次いで今度は配偶システムが進化を形成することもある(たとえば、いとこ結婚を禁じる一部の文化的規則は子孫の生存に影響を与える)。

(p.179)

 

 結婚という慣習には、文化的規範と進化的基盤が絡み合っている。さらに、環境という要素が与える影響も大きい。アウストラロピテクスは一夫多妻制であったようだが、移動しながら狩猟採集を営むという生活様式を取り入れたホモ・サピエンスは一夫一妻制となった。これには、食糧源の変化が影響している(狩猟は集団で協力しておこなう行為なので集団に平等主義をもたらし、パートナーのために食糧を採集して与えるという行為は一対一の排他的な関係の価値を高める)。しかし農業革命が起こった一万年前や民族国家が興隆した五千年前は、社会経済的不平等をもたらして一夫多妻制を復活させた。一夫一妻制がふたたび戻ってきたのは、西洋諸国では二千年前から、他の地域では数百年前からである。

 

人類学的・歴史的記録のなかで一夫一妻制をとっていた少数派の社会は、両極端の二つの大きなカテゴリーに分けられる。かたや、男性間の身分格差がほとんどなく、生体的に厳しい環境にある小規模な社会、かたや、ギリシャやローマのように繁栄をきわめた大規模な古代社会。「生態的に押しつけられた」一夫一妻制が採用されるのは、環境のせいでほかの選択肢を選ぶのが難しい場合だ。これは、食べ物が手に入らないせいで痩せてしまう人に似ている。ギリシャ・ローマのような「文化的に押しつけられた」一夫一妻制は、一つの規範として採用される。これは、容貌や健康上の理由で痩せているほうが好ましいため、体重を落とすことを選ぶ人に似ている。文化的に押しつけられた一夫一妻制は、現在主流となっている形だ。

(p.185)

 

自然人類学者のジョゼフ・ヘンリックらによれば、文化的な一夫一妻制が広がった一因は、一夫一妻制が集団どうしの競争で有利だという点にあるという。配偶者がいない男性は、自分が属する集団内で暴力に訴えるか、ほかの集団を襲撃するかして、紛争を引き起こす。一夫一妻制を採用した政治体、国家、宗教では、このような暴力の発生率が下がり、内部にも外部にも資源をより生産的にふり分けることができる。こうした観点からすれば、一夫一妻婚にかんする現代の規範と制度は、集団間の競争と集団内の利益という圧力に呼応した一連の進化のプロセスによってつくられてきたのである。

(p.188)

 

 というわけで、一夫一妻制は「普遍的」なものとまでは言えない。『ブループリント』のなかでは、一夫一妻制である狩猟採集民のハッザ族、一夫多妻制である牧畜民のトゥルカナ族、土地や食料が不足している状況に対応するために一妻多夫制を営む部族たち(パラグアイアチェ族など)、そして結婚という制度がそもそも存在せず父親や夫という概念もなくポリアモリー的な関係を営むヒマラヤ山脈のナ族が、具体例として紹介されている*3

 このなかでも、ナ族に関する記述はとりわけ興味深い。一見すると、現代の先進国社会でポリアモリーを復活させたいと企む人たちにとっては、「結婚」という概念から解放されたかのように見えるナ族のような社会が存在することは朗報だ。人間社会における結婚や愛情のあり方はひとつに固定されているわけではなく、どんな形にでもどうとでも変えられる、という期待を抱けるからである。……しかし、(ほかの社会に比べるとずっと少ないとはいえ)ナ族のあいだですら性的な嫉妬は存在するし、社会の規範に逆らって排他的で独占的な関係を結ぼうとする男女もいるのだ。

 

〔ナ族について調査した文化人類学者の〕蔡はこう結論している。人間にはいくつかの根本的なーーそして私に言わせれば、生物ならではのーー欲求があり、そのうちの二つがパートナーを余裕したいという欲求と、複数のパートナーを持ちたちという欲求であると。同じ集団内で、一見矛盾するこれらの二つの衝動と折り合いをつけるのは難しいし、実のところ選択肢は二つしかない。多様性を楽しむことなく所有するか、所有することなく多様性を楽しむかだ。

進化の過程を通じ、愛着には強い力があることがわかっている。しかも、社会は制度的に言って両方を満足させることはできないため、ナ族はーー おそらく社会としては唯一 ーー後者を選んでこのジレンマを解決したように思える。

 

(……中略……)

 

それでも、正式な制度によって、(パートナーを愛することと所有することの両方に対する)これらの人間的欲求のどちらかを根絶することはできない。これらの欲求は、人間本性の最も根源的な部分から発しているからだ。人は、あらゆる社会であらゆる種類の規範を破る。そこでナ族は、走婚だけでも社会は十二分に機能するにもかかわらず、人目をはばからない訪問という制度を認めることで、所有欲もある程度は満たせるようにしている。さらにはナ族のあいだですら、「燃えさかる愛の炎にわれを忘れた」カップルが、お互いを完全に所有すべく駆け落ちすることがある。彼らは相手を訪問するだけでは飽き足らず、複数の相手を持つことには興味がない。こうした状況は、多くの社会がパートナーの変更を可能にするために、結婚制度に便宜的要素を与えるのと似ている。たとえば離婚を許したり、男性が内妻を迎えることを認めたりといったことだ。

多くの人びとがこう論じてきた。きわめて珍しいナ族の性的慣行は、結婚の普遍性を反証するものであり、一夫一妻制に生物学的根拠などありえないことを示していると。だが、変り種が存在するからといって、人類に中心的傾向がないとは限らない。科学者として私たちは、まとめることもできれば分割することもできるーーつまり、共通点を探すこともできれば差異を探すこともできるのだ。人間の青写真は私たちの現実の原案であって、最終版ではない。

ナ族の関係構造の根底にある動機は、複数のパートナーが欲しいという人間の基本的な欲求であり、結婚制度の根底にある動機は、パートナーを所有したいという同じく基本的な欲求だ。ナ族の例外的ケースは次のことを証明している。愛着への欲求ーー実はパートナーと絆を結びたいという欲求ーーほど深く根本的な人間性の一面は、完全に抑圧することも置き換えることもできない。まさにその絆を断ち切るために、きわめて精巧につくられた一連の文化的規則をもってしても、絶対に不可能なのだ。

(p.219 - 220)

 

 第6章の「動物の惹き合う力」では、人間と一部の動物が異性に対して抱く「絆を結びたいという欲求」のあり方について、詳細に論じられる。ここで主に取り上げられるのは、以前にもこのブログで紹介した、人間と同じように一夫一妻制を営む哺乳類でありプレーリーハタネズミを用いた、ラリー・ヤングの研究だ*4

 

 この本のなかでもとくにオリジナリティがあって印象にのこる主張が、「人間が他人や自集団に対して抱く愛情は、パートナーに対して抱く愛情を基盤として、進化していった」というものである。

 

進化の過程で、人間はまず自分の子供、次に配偶者を愛するようになり、続いて血のつながった親戚、さらに婚姻によってできた親戚(姻族)、最後に友人や集団に愛着を感じるようになったらしい。私たちは、ますます多くの人々に愛着を感じる種になるための長期的な移行のまっただなかにいるのではないかと、ときどき思うことがある。だが性的関係以外の人間関係を理解するためには、まず性や恋愛による結びつきを理解しなければならない。こうした結びつきは、進化の過程においてそれ以外の絆に先行していた。配偶者への愛情は、青写真のカギとなる要素なのだ。

(p.183)

 

……ほかの霊長類とくらべると、人類の社会組織の顕著な特徴は、血縁関係のない大勢の個体と共に暮らすことだ。正確に言えば、人間はオスもメスも複数いる集団で生活し、配偶者との間に夫婦の絆を結ぶため、その集団は厳密には複数家族集団だと言える。 さらに、ほかの霊長類とは異なり、人間の家族は父系のみ、母系のみの親族と共に過ごす必要はなく、いわゆる多所居住の形をとって一方から他方へと移ることができる。

そうした住み方の特徴の起源は複雑だが、一つの経路として、夫婦の絆と両親による子育てへの共同投資の結果、両性が特に居住にかんする意思決定でより平等になったことが挙げられる。母親と父親の双方が、自分の親族と一緒の生活をーー別々の時期にかもしれないがーー選択できるのだ。長きにわたって各集団の多くのメンバーがこの選択権を行使した結果、かなり混成された、おおむね血縁関係のない一連の集団ができ上がったのだろう。ようするに、狩猟採集民の野営集団内に見られる血縁関係の度合いの低さは、男性と女性がそれぞれの親族と共に時間を過ごそうとするうちに、自然に生じたのだ。こうして、夫婦の絆と共同の子育てが、血縁関係のない人たちとの協力と友情の土台となったのである。

おおむね非血縁者から成るそのような集団の中で、人びとは血縁関係のない友人を持てるようになった。それについては第8章と第9章で見ていく。感情と愛着の輪を広げることが可能となった。人間の集団にとって大切な協力の方法である食物の分かち合いについて考えてみよう。食物を入手したその場で一緒に食べるだけでなく、他者と分け合うためには、ある場所から別の場所へと運べなくてはならない。したがって、分け合う目的での食物の採集はおそらく、二足歩行と共進化したのだろう。二足歩行により、両手が空いて、パートナーや子のもとへ食物を持ち帰ることができるようになったからだ。

(p.259 - 260)

 

 著者の議論は、どことなく、ピーター・シンガーの著書『輪の拡大』を思い出させるところがある*5。シンガーも、人間が道徳的配慮の対象を自分自身から身近な家族や親族へ、そして自集団へと拡大させていった進化的な歴史について記述していた。……とはいえ、進化によって備わった感情に基づいた道徳配慮には限界があり、これからは感情ではなく理性に基づいて世界中の人々や動物へと配慮の対象を拡大しなくてはならない、というのが主な論点であるのだが。『ブループリント』のなかでシンガー(や最近の「進化論的倫理学」の議論)があまり参照されていないのはやや残念なことではある。

 

 

*1:

 

 

この本はいつか読みたいと思っているのだけれど、どこの図書館にも置いていないし中古価格は高騰しているしで、なかなか手が出せなくて困る。

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ナ族では、結婚の代わりに走婚(通い婚)が行われている。男性は日が暮れてから女性の家に行って、相手の家族とは接触しないように注意して、セックスだけして夜明け前に帰るのである。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

econ101.jp

経済的不平等のなにが悪いのか?(読書メモ:『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム』)

 

 

 原著が出たあとに寄せられた反論に対してピンカーが行なった再反論を紹介したり*1、現代ビジネスの記事でピンカーについて書いたりしたけれど*2、『21世紀の啓蒙』を通して読むのは今回がはじめて。……とはいえ、前著『暴力の人類史』に比べると、読み物としての面白さは数段劣ると言わざるをえない内容だ。

 

『21世紀の啓蒙』にせよ『暴力の人類史』にせよ、核となる主張は「人類は進歩してきて、世界はどんどん平和になってきた」というものであるが、『暴力の人類史』ではこの主張を説得的に「論証」するためにかなりの努力がなされており、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』を引用している部分や「道徳的フリン効果」についての議論をはじめとして、印象に残る箇所が多々あった。読者たちの常識に反する主張を伝えるためには、単にデータやグラフを延々と示し続けるだけだとダメで、認識を一変させるくらいにビビッドなエピソードを示したりエキサイティングな主張を展開したりするなどの「工夫」が必要とされたわけである。

 ……しかし、『21世紀の啓蒙』を読む読者の大半は『暴力の人類史』も読んでいるということをピンカーも理解しているので、この本を書くときにはもはや「論証」や「工夫」は必要とされなかった。したがって、『21世紀の啓蒙』のとくに第二部では延々とグラフやデータが示され続けるということになるし、しかも主張の大半は「『暴力の人類史』の出版以後にも暴力が減り続けて社会が豊かになり続けていることを示す」というものだから、新鮮味がほとんど感じられない。

 第一部と第三部では「啓蒙主義」の意義が説かれて、科学的かつ理性的に考えて議論することの大切さが語られる。その主張に異論はないが、ピンカーが自分の言いたいことをゴリ押ししているだけという感も否めない。たとえばジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開した議論の方がずっと含蓄があったしウィットにも富んでいた。

 というわけで全体的にはあまり評価できない本ではあるのだが、分厚いわりにスラスラと読めるのはいいところだ。また、進歩の指標として取り上げられているトピックの数は『暴力の人類史』のときからさらに増えているので、情報量が盛り沢山であることはたしかだ。

 

 しかし、第二部第九章の「不平等は本当の問題ではない」は、『暴力の人類史』でもあまり取り上げられなかったトピックである「不平等」にスポットをあてたものであるが、この章で展開されている議論は例外的に新鮮味があって、なかなか面白かった。

「経済的不平等は深刻な問題である」という主張は左からも右からも連呼されていてすっかり定番な議論になっているが、ピンカーは果敢にもこの主張に対して反論しようとするのだ。

 

格差という概念の範疇に入る現象は山ほどあるが、そのなかに深刻なものがあることは確かだ。それらに対して何らかの対処が求められるのは、人々が不平等感に煽られて「市場経済も技術進歩も対外貿易も放棄せよ」といった破壊的な考えに走るのを防ぐためでもある。格差というのは分析が非常に困難で(人口が一〇〇万なら九九万九九九九通りの不平等がありうるのだから)、これを扱う本も数が多い。だがわたしがこのテーマに一章を割くべきだと思ったのは、あまりにも多くの人がディストピア論に惑わされ、格差を「現代社会が人間のありようを改善できていない証拠」ととらえているからだ。このあと論じるように、その考え方は多くの点で間違っている。

(上巻、p.189)

※以下、引用はすべて上巻から。

 

哲学者のハリー・フランクファートが二〇一五年の『不平等論』でこうした問題を堀り下げ、次のように論じている。不平等それ自体は道徳上好ましくないわけではない。 好ましくないのは「貧困」である。長生きで、健康で、楽しく、刺激的な人生を送れるなら、お隣さんがいくら稼いでいても、どれほど大きな家に住んでいても、車を何台もっていても、道徳的にはどうでもいい。「道徳的見地からすれば、誰もが"同じだけ"もつことは重要ではない。道徳上重要なのは誰もが"十分に"もつことである」と。

(p.190)

 

このような格差と貧困の混同は、「富は猛獣にとってのアンテロープの死骸と同じように有限で、その分配はゼロサム競争であり、誰かの取り分が増えれば他の取り分が減る」という考え方ーー仕事量についていわれる「労働塊の誤謬」のような考え方ーーから生じる。しかし前章で述べたように、富とはそういうものではなく、産業革命以降に指数関数的に増えたのだった。つまり裕福な人がさらに裕福になるときには、貧しい人も裕福になりうる。専門家でさえ塊の誤謬に陥ったような表現をよく使うが、それは概念を混同しているというより、修辞上の熱意の表れかもしれない、

(……中略……)

塊の誤謬よりさらに有害なのが、裕福になった人は本来の取り分以上のものを他人から奪っているという考え方である。これがなぜ間違っているかについては、哲学者のロバート・ノージックの有名な論述があるが、それを二一世紀版に書き換えるとこうなる。今日の世界的な富豪の一人に『ハリー・ポッター』シリーズの著者、J・K・ローリングがいる。このシリーズは四億部以上を売り上げ、さらに映画化されて同じくらいの観客を動員した。仮に一〇億人が『ハリー・ポッター』のペーパーバックか映画のチケットのために一〇ドルずつ支払い、その一割がローリングの収入になったとしよう。当然のことながら彼女は大富豪となり、格差を拡大させたことになるわけだが、人々を不幸にしたわけではなく、むしろ幸福にした(すべての富豪が人々を幸せにしたという意味ではない)。この説明はローリングの所得が努力や能力の成果にすぎないとか、彼女が世界に提供した情報や幸福の対価にすぎないといっているのではない。どこかの委員会が彼女は富豪になるにふさわしいと決めたわけでもない。彼女が得た富は、一〇億人の読者や鑑賞者の自発的行為から生まれた副産物である。

(p.191 - 192)

 

 フランクファートのような「経済的不平等それ自体が悪ではない」という主張に対する反論として考えられるのは、経済的不平等が存在すること自体によって人々の福利にもたらされる悪影響を主張する議論であるだろう。邦訳されている本としては、リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』や『格差は心を壊す:比較という呪縛』、アンガス・ディートンの『大脱出』、ロバート・フランクの『ダーウィン・エコノミー:自由、競争、公益』などでこのような議論が展開されている*3。具体的な主張の内容としては、「経済格差の存在は個人の精神に悪影響を与えて、身体的な健康も害する」といったミクロなものも、「経済格差の存在は社会の紐帯を破壊して、民主主義を機能不全に陥らせる」といったマクロなものもある。

 これらの主張に対して、ピンカーは以下のように反論する。

 

『平等社会』 および類似の著書の理論は「左派の万物の新理論」と呼ばれていて、複雑に絡み合う相関関係をいきなり一つの原因で説明しようとするところに問題がある

(……中略……)

また、スウェーデンやフランスのように経済的に平等主義の国々と、ブラジルや南アフリカのような不平等な国々とでは、所得分配以外にも数々の相違点があるが、そこが無視されている。平等主義の国には、豊か、教育レベルが高い、良い統治がなされている、文化的に均質といった特徴も見られる。つまり不平等と幸福度(あるいは他の社会善)の見た目の相関は、ウガンダよりデンマークで暮らすほうがいい理由はたくさんあるということを示しているにすぎないかもしれない。

(……中略……)

いや、「不平等が悪を生む」という主張に対しては、もっと決定的な反論の根拠がある。社会学者のジョナサン・ケリーとマリア・エヴァンズが三〇年にわたって六八の社会の二〇万人を対象に調査を行い、その結果を分析したところ、不平等と幸福度の相関は疑似相関であって因果関係ではないことがわかった。(……中略……)発展途上国においては、格差は人々の気力をくじくのではなく逆に鼓舞していて、不平等な社会のほうがかえって人々の幸福度が高いという結果も生じている。

(p.194-195)

 

「不平等な社会の方が人々を幸福にする」という主張に対しては「ほんとかよ」と思わなくもない。とはいえ、ウィルキンソンとピケットの本は読んでいてもあまり説得力が感じられず、なんでもかんでも悪いことを不平等というひとつの原因に押し付けている感が強かったこともたしかだ。

 事実の問題として「不平等は人を不幸にする」論と「不平等は人を不幸にするわけではない」論のどちらの方が正しいかということは、経済学や統計学の門外漢であるわたしとしては、結局のところは判断がつきかねる問題だ。……とはいえ、昨今の言論では経済的不平等はもっとも憎まれている事柄であり(擁護するのはごく一部の経済学者だけだ)、それに対する批判は精度が低くても甘めに扱ってもらえがち、というのはありそうな話であると思う。

 

 また、ピンカーは、「人が稼ぐ額」ではなく「人が消費する額」に注目すればアメリカの貧困率は現在では3%しかない、とも主張している。グローバル化と技術の進歩によりモノの値段が安くなったことで、所得が少ない人でも昔に比べて豊かな生活ができるようになったということだ。とはいえ、この議論はさすがに「定義のすり替え」という感が強いし、不平等を問題視している人たちに対する反論にもなっていなさそうに思える。

 しかしながら、数十年前の社会がいまよりも生活水準が高かったり、過去の世紀は現代に比べて不平等がずっと激しかったという事実を指摘することは、安直な現代文明批判や反資本主義運動を牽制するという点において、重要であるだろう。

 

 

 

 他の章についても軽く言及しておくと、犯罪の問題について扱った第一二章「世界はいかにして安全になったか」*4。マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ論が取り上げられる第一七章「生活の質と選択の自由」や、「世界がいくら進歩してもわたしたちはぜんぜん幸福になっていないじゃないか?」という疑問に答える第一八章「幸福感が豊かさに比例しない理由」、キリスト教イスラム教にニーチェ信者をこきおろす第二三章「ヒューマニズムを改めて擁護する」はそれなりに面白かった(しかし、いずれの章についても内容はやや船舶であり、別の専門家がその章のテーマを題材にした一冊の本を読んだ方がいいような気はする)。

 第一部における「啓蒙」や「エントロピー」「情報」の定義論に、チャールズ・P・スノーの『二つの文化と科学革命』を紹介してくれるところとかもタメにはなる。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.ismedia.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:一二章のなかでもとくに興味深い文章。

高い犯罪率が続いたその何十年かのあいだ、たいていの専門家は「暴力犯罪には対処しようがない」というだけだった。それによると、暴力犯罪は暴力的なアメリカ社会と一体化したものなので、人種差別や貧困や格差などの根本にある原因を解決しないかぎり、抑えることはできないとされていた。このタイプの歴史悲観論は<根本原因論>と呼んでもいい。それは見かけ上は深遠な考え方で、「社会の病とはすべて根深い道徳的病であり、単純な治療などでは決して病状が和らぐことはない。そんなことをすればかえって病の核心にある壊疽を治療できなくする」とするものだ。こうした<根本原因論>が問題なのは、現実世界の問題がその想定より単純なことではなく、むしろ逆であることだ。つまり典型的な<根本原因論>が考える以上に、現実問題は複雑なのである。とりわけ<根本原因論>が道徳を基盤に論じられてデータを取り入れていない場合は、現実問題をとらえきれていない。

実は現実世界の問題は複雑すぎて、対処するには原因ではなく症状に直接働きかけるのが最善の方法である。そうすれば、病巣のなかで複雑に絡みあう原因をすべて熟知していなくてすむからだ。

(p.317)