道徳的動物日記

著書『21世紀の道徳』発売中です。https://onl.la/PTV1b6d

宣伝:最近の執筆活動について(『群像』批評特集号に掲載など)

 

 

 

↑ 著書の『21世紀の道徳』です。2月に3刷目が発行されたけれど4刷目も目指したいので、まだ買っていない人は買ってください*1

 

●発売から2週間経ってしまったけれど、6月7日に発売された文芸誌『群像』の7月号の特別企画【批評総特集:「論」の遠近法2022】にて、「感情と理性:けっきょくどちらが大切なのか?」を寄稿しました。

 

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『21世紀の道徳』の8章「ケアや共感を道徳の基盤とすることはできるのか?」で展開したようなフェミニズム倫理学(ケアの倫理)批判や、5月に更新された晶文社の連載記事「トーン・ポリシングの罠」で行ったような「怒り」を肯定する風潮に対する批判をしながら、アリストテレスやジョセフ・ヒースを引用しつつ、「昨今ではフェミニズム哲学やマイノリティのアイデンティティ・ポリティクスの後押しを受けながら感情を肯定する風潮が強くなっているけれど、やっぱり理性が大事なんですよ」といった主張をしております*2。それだけだと穏当というかなんということのない議論に聞こえるかもしれないけれど、昨今の日本では文芸誌と「批評」こそがフェミニズム的なアイデンティティ・ポリティクスと「ケア」や「怒り」を肯定する風潮の最前線となっていることをふまえると、その文芸誌の批評特集においてあえてフェミニズムと感情を批判して男性的ともされる理性の重要性を主張する議論を投じたことはまさに「批評家」として本懐を遂げたと評せるだろう……という感じの評価がされることを期待していたんだけれど、そもそも感想を書いたり話題にしてくれたりする人がほとんどいなくて、悲しい感じになっています。よければ『群像』も読んでください。

 

晶文社のWeb連載、今月号では、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を軸としながら、ジョナサン・ハイトやピーター・シンガーやジョナサン・ローチなどの議論も参照しつつ、とくにアカデミズムにおけるキャンセル・カルチャーが「意見を表明する自由」に対してどのような問題をもたらしているか、ということについて論じています。

 

s-scrap.com

 

 なにしろ3万字もかけているので、ネットに掲載される記事やコラムとして適切な分量ではなく読み通せる人の数が限られていることも承知しているんだけれど、『21世紀の道徳』のときと同じく晶文社の連載は後に加筆修正したうえで単著にまとめることを前提としてやっているので、読む際には「本のなかの一章」という認識でよろしくお願いします。ネットで読むのがキツい場合にはそのうち発売されるはずの次作を待っていてください。

 

●先日の記事では御田寺圭さんの著作『ただしさに殺されないために』について、「想定されている読者層(弱者男性)の被害者意識を煽る内容である」という点や「現代社会における問題を(恣意的に・誇張したレトリックを用いながら)提示しているだけで、解決策が示されていない」という点などを批判しました*3

 前者の批判については、「読者の被害者意識を煽っているのは御田寺だけではないし、リベラルやフェミニストの議論にも被害者意識を煽るものは多いじゃないか」といったコメントがありました。これについては、今後の連載で、いわゆる「反差別」の立場の人たちによる「被害者意識を煽る言説」の問題点を指摘しながら、「被害者であること」が重視されてしまう昨今の社会風潮を批判する文章が掲載される予定です。

 後者の批判については「そういうお前も問題に対する解決策を示すことはほとんどないじゃないか」といったコメントがありました。この反論については耳が痛いところがあるとは認めつつも、たとえば「男性の自殺率の高さ」という弱者男性の問題にもつながるトピックについての個人的な解決策については、記事を書いたことがあります。

 

gendai.ismedia.jp

 

 また、弱者男性の問題についての社会的な解決策については模索中、というところです*4。考えている方向性としては、「弱者男性(または男性一般)が被っている危害や不利益は女性やその他のマイノリティが危害や不利益と同じように社会正義に係る問題であり、対応策が検討されたり、可能であれば是正されたりするべき問題である」と主張すること。また、(アイデンティティポリティクスの言葉やラディカルな言葉ではなく)政治哲学における正義論やリベラリズムの言葉を用いながらその主張を明確化して、公的な議論や討議の対象として取り上げられるべき問題であると示すこと。……つまり、結局のところは「ただしさ」を否定するのではなく肯定することが必要になるのではないか、と考えています。倫理学に比べると政治学にはまだ馴染みが薄いので苦戦しているけれど。

 

●今年に入ってから『中央公論』や『群像』に記事を掲載してもらったけれど、この後は雑誌などに文章を掲載してもらう予定がいまのところないので、よかったらどこか記事を掲載してくれる雑誌などを募集しています。文筆家としての生活を続けるために知名度を上げたいのと原稿料がほしいのとで。ほしいものリストからの食糧や本の支援も引き続き募集します。

 

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*1:どういう内容の本か知りたい人は、わたしが書いた紹介記事、および倫理学者の平尾昌宏先生や先日の記事で批判しちゃったシロクマ先生による書評記事を参考にしてみてください。

gendai.ismedia.jp

synodos.jp

toyokeizai.net

www.genron-alpha.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

*2:

s-scrap.com

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:手がかりとして数ヶ月前に書いたメモ的な記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)

 

 

 いま執筆を進めている「反ポリコレ本」の参考になるかと思って『ただしさに殺されないために〜声なき者への社会論』を読んでいるけれど、案の定、まったく面白くない。

 Amazonレビューにもある通り、「身もふたもない現実」や「不都合な真実」、世の中に存在する残酷さや不条理さを指摘するだけであり、その現実や不条理さについて社会はどう向き合うべきか、個人はどうやって対処するべきか、といった前向きな提言や解決策はほぼない*1

 

 さらに言うと、この本のなかで提示されている「現実」や「真実」は実に恣意的に選択されている。たとえば、昨今では男性に比べて女性だけが解放されたり社会的に尊重されていたりすることを何度も取り上げて、そのことが(弱者である)男性に対してもたらす苦痛や苦悩や理不尽さといったものが繰り返し強調されるが、女性たちがこれまでに被り続けてきた(そして現代でも被っているかもしれない)苦悩や理不尽さについても読者の考えを巡らせるということは一切されない。

 あるいは、現代の社会で当然のものとされている自由や平等が「能力主義」や「役に立たない存在」への差別に結びついていることをことさらに強調して、能力がないと見なされた人が直面している(とされる)状況をあれこれと悲観的に描いているが、現代的な自由や平等や「能力主義」がなかった場合に社会はどうなるか、その場合にはどんな人がどのような差別を受けていただろうか、といった点について検討されることもない。

 

 また、この本には主語というものがほとんどなく、主観と客観が切り分けられていない。「身もふたもない現実」とか「世間のふつうの人々の残酷さ」といったものがまるで確定された事項であるかのように次々と提示されていく。だが、「他の面から考えたら現実について違った解釈をすることはできないか?」とか「世間の人々の価値観や行動はほんとうにそのようなものであるのか?」とかいったポイントについて検討されるターンがまったくないのだ。

 たとえば、わたしが社会問題などについて文章を書くときには、なんらかのデータや記事、または本やアカデミックな理論などの参照先を明示しながら「世の中ではこういう問題が起こっているようです」「この問題は具体的にはこうなっているようです」と事実に関する知見をまずは提示する。その後に、「わたしは、この問題について、これこれこういう理由に基づいて、このような意見を持っています」というわたしの意見を述べるようにしている。

 文章を書く以上はわたしも自分の意見を読者に納得してもらいたいとは思うが、わたしの意見の論拠や理路について読者にきちんと検討してもらい、考えたうえで判断してもらいたいとも思うからだ。そして、これはアカデミック・ライティングに限らず、「事実」や「意見」について文章を書く人ならだれでも守るべき作法であると思う。自分が提示している事実や意見の根拠を読者に対してオープンにすることは、「この著者はわたしの意見や考えを恣意的に誘導しようとしてはいないんだな」という信頼を読者に抱いてもらうためには不可欠であるからだ。

 

 また、『ただしさに殺されないために』のなかでは、社会の状況や人々の行動を解釈するうえで何らかの理論を用いられることがほとんどないし、価値判断の基準もまったく明らかにされていない。だから、著者が提示している現実についての解釈や価値判断に疑問を抱いたとしても、その論拠を問うて反論することがほとんどできない。

 論理の代わりに用いられているのがレトリックであったり、鉤括弧や改行や傍点などの諸々の文章テクニックであったり、ペシミスティックでポエミーな文体であったりする。御田寺は日頃からTwitterで女性やリベラルの「お気持ち」を非難しているが、実際のところ、彼の文章は論理による裏付けがほとんどなく、客観的っぽい書き振りとは裏腹にかなり感情に頼ったものであるのだ。

 そして、論理ではなく感情に頼った著作であるために、『ただしさに殺されないために』は拡がりというものをまったく持たない。この本に多少なりとも賛同できたり感銘を受けたりできるのは、あらかじめ想定されているごく狭い範囲の読者であるだろう。つまり、自分が女性に相手にされていなかったり女性のせいで被害を受けていたりするという意識を抱いている男性や、自分のことを能力社会によって差別されている弱者だと思っている人などだけが、読者と想定されているのだ。

「解放された女性」や「リベラル」などは揶揄や非難の対象として取り出される藁人形としてしか扱われておらず、女性やリベラルがこの本を読んで少しでも納得したり意見を改めたりするということは最初から目指されていない。『ただしさに殺されないために』で行われているのは、あらかじめ想定されている読者が既に抱いている信念や感情を慰撫することでしかないのだ。具体的にいうと、レトリックや文章テクニックを多用しながら恣意的に切り取られた「身もふたもない現実」や極端なかたちで表現された「女性やリベラルの欺瞞」を浴びせかけて、「非モテ」や「弱者男性」が事前に抱いている被害者意識をさらに補強すること(だけ)が、この本のもたらす効果である。

 読者層が狭く限定されており、それらの読者に抱かせようとしている意見や感情もほぼ固定されているという点を見ると、『ただしさに殺されないために』は議論ではなくアジテーションを行う本であると言っていいだろう。そして、これこそが、御田寺の言論が「男女の分断を煽る」「女性に対するヘイトを増幅させる」と以前から非難されている理由でもある。

 

 先日の記事では『ローマ皇帝のメンタルトレーニング』を紹介したが、この記事でも改めて引用しよう*2

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 わたしは、御田寺は上記で指摘されているところのソフィストの典型であると思う。彼の言論は、世の中についての新たな知見や社会の問題を解決するための視点、あるいは人生を良くする方法といった生産的で意味のある知恵をもたらすものではない。「おれは女性や能力主義のせいで苦しんでいるんだ」という被害者意識を持った(ごく狭い範囲の)読者に「そうだそうだやっぱりリベラルやフェミニストは欺瞞に溢れているし、現代の社会はおれのような人間を虐げているんだ」という感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかないのだ。

 そして、論理の代わりにレトリックを多用するがゆえに、御田寺の文章には読者たちの被害者意識やそれに伴う無力感や憎悪といった不健全な感情を癒す効果はなく、むしろそれらの不健全な感情を悪化させて、当の読者たちの人生の質をも下げさせている。わかりやすく言うと、彼は自分の信者を食い物にしているのだ。

 

 ……もちろん、ソフィストは御田寺のほかにも数多く存在するし、読者の被害者意識を煽る文章を書いてそれを商売にして生きている人はフェミニストなどのなかにもいるだろう。アカデミシャンのなかにすら、読者に知識や知見を与えたり読者を啓蒙したりするのではなく、レトリックを駆使して読者をアジテーションすることを目的とした本や文章を書く人はごまんといる*3

 御田寺の文体もとりわけ特異なものではなく、「批評家」とか「ジャーナリスト」とかいった肩書きを持つ人たちの文章のなかではよく見受けられるタイプの文章ではある。わたしにはさっぱり理解できないけれど、物語文ではなく評論分や批評文にすらレトリックや情緒的な文体を求める読者層というのがあるようなのだ。

 いずれにせよ、右の人が書いたものだろうが左の人が書いたものだろうが、男の人が書いたものだろうが女の人が書いたものだろうが、そういう文章はぜんぶ不毛で無駄であるし、だいたいにおいて有害であるとわたしは思う。

 

 そして、(弱者男性の)被害者意識を煽る言論活動をしているという点すら、御田寺に特異なものではない。たとえば、はてな界隈においては熊代亨(シロクマ先生)は御田寺に比べると遥かにまともな論客として遇されてきたようだが、昔はいざ知らず最近の彼の記事を読んでいると、多少なりとも文章が丁寧であったり上品であったりするというだけで言論の内容は御田寺と同程度なのではないか(というか、御田寺を模倣しているのに過ぎないのではないか)と思わされることが多い。

 たとえば、以下の熊代の記事では、現代社会における「性」や「恋愛」を極端かつ根拠に乏しいかたちで描写しながら、人間の「動物性」をことさらに強調するレトリックが用いられている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

blog.tinect.jp

 

 わたしにはこれらの記事を読んで得られるものはなにもなかった。たとえば人間の「動物性」について知りたいときにはこのような粗雑な議論ではなく専門家が書いた進化心理学の本を参照するし、現代社会における「性」や「恋愛」についてもずっと深く考察した議論は他のところで見つけられるだろうからだ。

 結局のところ、御田寺の言論と同じように、上記に挙げたような熊代の言論も、「所詮は動物である人間が行う恋愛や性なんて残酷で価値のないものであるし、おれはオスとしての能力に乏しいからメスどもに選ばれないんだ」といった類の、特定の読者層が抱いている劣等感や悲観主義や憎悪といった負の感情を煽るくらいの意味しかないように思える。先述したように、それらの負の感情を煽ることは、当の読者の精神衛生を悪化させて彼の人生を余計に惨めなものとするだろう。

 

 最後に、2019年の年末に御田寺の記事を取り上げて書いた、わたしのブログ記事を改めて紹介しておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

…同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 

 こうしてみると、御田寺の言論についてわたしがとくに問題だと思っているところは、以前から変わりないようだ。つまり、彼の言論は、批判対象である女性や「リベラル」にとって危険であったり不快であったりする以上に、彼の言論を喜んで消費している読者にとって有害であるのだ。

 

 とはいえ、わたしも言論の自由を重視する立場なので、明らかに攻撃や差別を意図したものでない限り、どんな言論であっても規制するべきではないと思う。

 そして、御田寺の言論には直接的な差別がほとんど含まれてないことも、指摘しておいたほうがよいだろう(被害者意識や憎悪を通じて差別感情も間接的に煽るものであることも、明白であるとは思うが)。

 

 しかし、ここで改めて声を大にして主張するが、御田寺や熊代が行なっているような、そしてはてなの匿名ダイアリーで展開されているような男女論を真に受けたり取り合ったりすることは、とくにあなたが若い人であればあるほど、本気で止めたほうがいい

 軽いジョークのつもりであったり、SNSやブログを通じたコミュニケーションの一環であるとしても、物事について極端な表現をしたりレトリックを用いたりすることは、気が付かないうちに自分の思考を規定したり認知を歪めたりすることになる。

 以下のツイートはおそらくわたしよりも若い男性によるものであり、明らかに御田寺や「はてな論壇」の言論の影響を受けた人によるものである。本人は冗談のつもりとして投稿したものであるかもしれないが、わたしはこのツイートを目にしてかなり不安になったのだ。

 

 

*1:

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

books.cccmh.co.jp

*3:このブログでもその種の本をたびたび取り上げて批判してきた。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

レトリックに基づいて物事を考えてはいけない理由

 

 

 英語圏で定期的に出版されている、ストア哲学ライフハック自己啓発に活かす方法を説くタイプの本だ*1

 本書の特徴のひとつは、数多くいるストア哲学者のなかでもローマ皇帝マルクス・アウレリウスを主人公としていること。各章の前半では彼が人生で経験した様々な出来事や問題と当時のローマの世情や政局を描きつつ章のテーマとなる課題を示しながら、章の後半ではその課題に具体的に対処する方法が解説される(前半は歴史読み物風に「〜だ〜である」調、後半は解説書風に「〜です〜ます」調に訳し分けられているところも印象的)。

 もうひとつの特徴は、著者が認知心理療法士であるということから類書よりもストア哲学認知行動療法の共通点が強調されており、具体的なアドバイスも類書に比べて心理療法的で実践的であるというところだ。

 

 本書でとくにわたしの印象に残ったのは、第二章にて、ストア哲学と修辞学やソフィストが対比されている場面だ。

 

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

 

修辞学を捨てきれずにいたマルクスを、それに惑わされてはいけない、言葉を弄して高潔な人物を演じてはいけないと説得したのはルスティクスだった。そして、誇張したり、詩的にしたり、飾り立てたりする言葉を避け、地に足がついたストア派的な話し方をするようマルクスを厳しく指導した。言い換えれば、マルクスは修辞学からストア哲学へと完全に転向したのであり、このことが彼の人生にとって決定的な転換点となった。しかし、なぜ言葉の使い方を変えることが変革をもたらすのか?現実を見栄えよくしようとするのが修辞学であるのに対し、現実をありのままに把握しようとするのが哲学だからだ。本格的なストア哲学者に変貌を遂げたことで、マルクスの基本的な価値観が変わった。ストア派が言う「賢明な話し方」が簡単なことではないことも理解していった。それを実践するには、勇気、節制、哲学的真理への誠実な取り組みが必要になる。これから説明していくが、この方向への転換は、話し方だけでなく、出来事に対するまったく新しい取り組み方へとつながっていく。

(p.77 -78)

 

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 ストア派では、外界の物事に対して自分の心の内に形成された「心像/表象」(パンタシアー)に振り回されるのではなく、「自分がどんな心像を形成しているか」という点を理性によって「把握」(カタレープティケー)して、客観的に事実を認識して感情に依らない判断をしたり自分の感情のほうを事実に合わせて訂正することが重要とされる。これは、自分や患者の「認知の歪み」や「自動思考」を把握して、その誤りや歪みを具体的・客観的に示したのちに訂正することを目指す、認知行動療法の考え方と共通しているのだ。

 

出来事そのものに留まることができれば、不安が軽くなることもあります。認知療法の世界では、最悪のシナリオにこだわることを"破局視"と呼ぶようになっています。"破局視"は、クライアントが外の出来事に自分の価値観をどのように投影しているかを理解してもらうために使う用語です。私たちが「もう終わりだ」と言うとき、実際に起こっているのは"終わり"でも"破局"でもありません。出来事をその人が"破局視"しているだけです。それがクライアントが実際に行なっている活動であることを自覚してもらいます。簡単に言えば、話を大げさにしています。仕事を失うことは本質的な意味で"破局"ではありません。しかし"破局視"すると、それがどれほど悪いことであるか受動的に認識するところで終わりません。私たちの思考は、積極的にそれを"破局"に変えていきます。価値判断を加えることで、現実を吹き飛ばして心の中で"破局"を体験することになるのです。

認知行動療法では、自分を苦しめる"破局的な"価値判断をしているのがまさに自分であるという当事者意識を"認識"する手助けをします。古代のストア派の教師と同じように、出来事を現実に即した客観的な言葉で説明してもらうことでこれを行います。

 

(p.84)

 

  著者によると、ストア派による状況認識のテクニックは認知療法創始者であるアーロン・ベックが患者に「脱破局視化するための台本」を書かせたのに似ている(患者自身に、強い価値判断や感情的な言葉を伴わない客観的な文章で、自分の状況を記述させる)。外的な事柄から価値判断を分離させ、「私たちを動揺させるのはその出来事ではなく、その出来事に対する私たちの判断だ」と理解して、現実とそれを捉える私たちの思考との間にある認知距離を認識するメタ認知のプロセスは、ストア派においても認知行動療法においても鍵となる。

 

 さて、いま作家業のほうで進めている「反・ポリコレ本」の執筆作業をしているうちに気付いたことのひとつが、ポリコレ的な概念や理論は多かれ少なかれ修辞学的であり、そしてストア派の考え方はポリコレ的な概念や理論に対する処方箋となることだ。

 たとえば、ジョナサン・ハイトは認知行動療法の理論家であるデビッド・バーンズの「認知の歪み」リストを参照しながら、マイクロアグレッションやトリガー警告といったポリコレ的な発想は認知の歪みを是正するのではなくむしろ悪化させてしまう危険性が強い、と指摘している*2。マイクロアグレッション理論には破局視や感情的推論やマインドリーディングなどの認知の歪みを助長する効果があり、相手の言動から「無意識の偏見」や「侮辱」や「敵意」を読み取ってそれによって精神的ダメージを受けるように人々を誘導する。「些細な言動に対しても人は傷つき得る」というレトリックが普及することで、それまでは傷つかなかったような言動にも人々が傷つくようになっていく、という逆説的な事態が生じているのだ。

 また、「特権」理論もかなりレトリック的なものであり、あえてマジョリティとマイノリティとの対立を誘発するようなかたちで世の中の事態や構造を描き出すものであった*3。特権理論の問題点のひとつは、その提唱者たちも最初は自分たちの政治的な意図を自覚しておりレトリックであることを認識したうえで論じていたのであろうところを、この理論が普及することによって一部の人々はレトリックであるのを忘れてほんとうに「特権」が存在しているかのように認識するようになったこと、特権理論とは違うかたちで世の中の事態や構造について把握することが困難になってしまったことだ。他人の感情を操作するためのレトリックが知らぬうちに自分たちの思考を蝕んでしまう、という事態はこれまでにも政治運動などにおいて起こり続けていたのだろう。

 そして、もっと初歩的な問題として、ポリコレは「理性」や「中立」を疑問視して「感情」や「主観」を全肯定する風潮をもたらしている*4ストア哲学認知行動療法から得られる最大の教訓は、本人の感情や主観を全肯定することはその本人にとって有害であるということだ。

 近年では心理療法や精神医学に関わる人のなかにもポリコレ的な考え方をするような人が増えており、彼らの一部は認知行動療法個人主義的・新自由主義的であると否定して、患者の抱える問題の社会的な原因や政治的な原因を強調する。これについては心理療法や精神医学の方法論の違いとか学派の対立として捉えることもできるかもしれないが、わたしとしてはやはり認知行動療法的な考え方のほうが実際に患者の抱えている問題を解決するうえでは有効であるように思える。

 

 とはいえ、とくに本邦では「反ポリコレ」側な人たちもレトリックを多用していること、そのために社会にとっても「反ポリコレ」側な人たち自身にとっても有害な影響が生じていることは指摘しておいたほうがよいだろう。

 たとえば「かわいそうランキング」というレトリックの問題については何度か指摘してきた*5。また、「弱者男性は社会的価値がないから虐げられており、現状のこの社会ではどう足掻いても不幸になり、誰からも共感や愛情の対象とされない」というレトリックは、社会における実際の状況を極端かつ針小棒大に解釈したものであり、それを真に受けた当の弱者男性を幸福にすることはまずあり得ない*6。最近に流行っているレトリックとしては「能力主義や学力主義は、差別の基準が異なるだけで、人種差別や性差別と同じように差別の一形態に過ぎない」というものがある……能力主義や学力主義の問題点を指摘することは結構だし、差別との類似性を発見することもできるだろうが、それは簡単に済ませられるようなものではない。「能力主義と差別は一緒であるのか、違うとしたどこが違うのか、なぜ能力主義は正当化されるのか」ということに関してはずっと昔から議論が積み重ねられているであり、いまさら誰かが一言で矛盾を指摘したり欺瞞を喝破したりすることはできないのだ。

 これらの問題は、「反ポリコレ」的な論客の大半はストア哲学者に対比されるソフィストであることに起因している。彼らは世の中を改善することよりも「議論」に勝って自分を賢く見せること、自分の「顧客」たちにエンタテイメントを提供して感情を慰撫して短期的な満足を与えること、それによって自分の著作やnoteを売ることにしか関心がない(もちろん、「ポリコレ」側にも同様にソフィスト的な人たちは散見されるが、割合にはかなりの差がある)。

 

 昨年から登場した「親ガチャ」というレトリックも、この問題に関する社会的な関心を広めたという功績があることは否定できないが、事態を実際以上に悪く表現しており、若者たちの「破局視」をさらに悪化させているという弊害があるように思える。氷河期世代に関する政策を「棄民政策」と表現するのも同様だろう。

 あるいは、SNS進化心理学を語る人が「オス」「メス」や「ホモサピ」という言葉を多用しながら安直で一面的な人間観を喧伝すること、男女論を語る人が「穴モテ」などの物言いを好んで使用するのも、ストア哲学では「下品にならないようにすること」が重視されているのとは対比的だ。……社会の構造だけでなく、男女の関係性の機微や人生について考えるうえでも、感情的な刺激の強い単語を用いるとそれに思考が引っ張られてしまい、的を得た考察をすることができなくなってしまう。複雑な物事について考えるためには「上品さ」も不可欠になるのだ。

 これらの事態の原因は、字数がひどく制限されているSNSでは「箴言」を言い放つのは容易であるが「議論」を展開するのは困難であること、そのためソフィストにとって適応的な環境になっていることにあるだろう*7。字数を割いて議論を展開することが仕事であるはずの物書きや大学教授ですら、SNSではアフォリストに転身して、レトリックを量産するのに満足しているという有様はよく見かける。

 

 物事について適切に考えて、社会の状態を正しく把握したり自分の人生を良くしたりしたいなら、ソフィストに耳を傾けるべきではない。とくにSNSでは、誰かの言葉に感情を動かされたときにこそ、その「感情を動かされた」という事実が、相手のことを警戒するべき理由となるかもしれない。

読書メモ:『自己陶冶と公的討論:J.S.ミルが描いた市民社会』

 

 

 

 先日に読んだ『醜い自由』と同じく、ミルの著作(『自由論』がメインだが『功利主義論』なども登場する)を扱った専門的な本。また、『醜い自由』と同じく、論理的な一貫性がなく折衷的だと批判されがちなミルの議論に一本筋を見出して擁護するという試みがされている。主に扱われているのは、ミルが「市民社会」についてどのように考えたのか、個人が討論や政治に参加することがなぜその個人にとっての「幸福」や「自由」につながるか、という問題だ。

 

これまで市民をめぐるミルの議論に注目してきたが、その中心にあるのは参加を通した公共精神の陶冶という考えであった。ミルの理想とする市民は公共精神を身につけており、公共精神はミルの考える自由な社会にとって不可欠なものであった。ただミルはそうした理想をただ押しつけようとしたのではなく、一方で自由を保障し、他方で義務を課すことによって、市民が自ら陶冶によって公共精神を身につけるプロセスに期待している。そして、その期待を支えているのは、市民が参加によって変わりうるというミルの確信である。ミルによれば、実際に身につくかどうかは参加してみないとわからないということになるのだろう。しかし、感情を養うのは行為であり、公共精神を備えた市民は参加によって生み出されるといえる。

(p.45)

 

…ミルがエリート主義なのかという点については、ミルが市民の自己陶冶を主張することで何を問題にしているのか、という点に注目する。先に性格形成について触れたが、人間の行為における因果法則の影響を認めるミルにとって、性格は行為の原因にあたり、個々の行為に一定の方向づけを与える。性格についてミルは「欲求と衝動が自分自身のものである人、自分自身の育成によって発展させられてきた本性のあらわれが、彼自身の欲求と衝動になっている人は、性格をもつ」と言っており、他の人びとの伝統や慣習ではなく、その人自身の性格が行為の規則になっている人のことを「個性」をもつ人と呼んでいる。ミルが当時の社会に対して憂慮しているのは、性格や個性の素材となる欲求や衝動がそもそも生じにくくなっているという事態である。ミルは随所で活動的な性格、精力的な性格の望ましさについて触れ、また知的、道徳的資質と並んで活動的な資質を重視している。なぜなら、そうした性格は「怠惰で無感覚な性格よりもつねに多くの善をうみだしうる」からである。こうしたミルの主張と、これまで検討してきた市民の問題を重ね合わせるならば、理想的な市民の問題は個性の発展の問題でもあり、そこで考えられている「個性」は、ミルにとって何ら特別なものではなく、誰もが手にしうるものと言える。それゆえ、ミルに対しエリート主義という批判はあたらず、また『自由論』の主要な論点が「意見と行動の多様性」及び「性格の多様性」であることを考慮するならば、ミルがある特定の理想的市民像を押しつけているということにもならないと思われる。

(p.68 - 69)

 

…ミルが「行為者」にとって発展させることが重要な意味をもつと考えたと思われる個々の能力についても検討したい。それらは「欲求と衝動」「感受性」「知的能力」「想像力」の四つの能力である。

 

…性格をもつだけでなく、欲求と衝動が強く、さらにそれらが理性の支配下にあるとき、その人は精力的な(energetic)性格をもつということになり、そうした人間であることをミルは推奨するのである。こうした主張の背景には、文明化した社会で「人間本性を脅かしている危険は、個人的衝動と選好の過剰ではなく、不足している」というミルの認識があるといえるだろう。

 

…私たちは行為を通して、さまざまな感覚を得、経験を重ねていく。…経験を自分自身の仕方で活用し、解釈するためには、そうした経験を受け取るということ、そして経験から得られる快苦を受け取ることができ、そしてさらに、それらを享受できるということが条件となってくるのである。

 

…ミルにとってなぜ「真理」が重要かというと、真理を知ることが、真理に基づいて行動しようとする気持ちを抱かせる早道だと考えているからである。つまり、真理を知ることによって、私たちは正しい動機を形成することができる。それを所有していることによって、人はよく活動でき、そして、それが功利原理の適用にとって不可欠である、と考えているためである。

 

…想像力は、他人の経験を理解することやその人の表面に出てこない(まだでてきていない)性質を知るために必要とされる。また、それは自分自身にとっても同様である。つまり、自分自身を観察する、そして内省することを通して、自らを理解する上でも必要なものであった。ミルにとって想像力とは、外部世界を認識する「観察」とならぶもう一つの認識能力として、もつことが重要なものであった。

 

(p.93 -97)

 

では、あらためて「卓越生」の主張とはどのような主張なのだろうか。この点については、先にも何度か取り上げている「生活の技術」という考え方が参考になる。「生活の技術」については、ごく簡単な説明にとどめるが、行為や好意のあり方を評価する枠組みとして、「道徳性」「慎慮/政策」「審美」という三つの二次的な価値原理を採用し、それぞれ「正しさ」「便宜」「美または高貴さ」を評価の対象とする。いま私たちが問題にしている性格の「卓越性」は「審美」の領域の問題であり、その「美」や「高貴さ」といったことが評価の対象となるのである。それゆえ、性格の理想をかかげ、それ自体を目的として自己陶冶する際に求められる「卓越性」は、個人の裁量にまかされるものであり、決して他人によって強制されるような事柄でなく、個人の目的として望ましいということになるのである。ミルはこの「美」の分野を、「知性と知的能力」「良心と道徳的能力」とならぶ第三の分野として「それらに従属すべきものであるが、質的にはほとんど劣ることがなく、実際、人間性の完成にとって、なくてはならないもの」として重要視している。そこで必要とされる能力が「共感能力」と「想像力」であり、ミルが感情の陶冶で意味していたのもこの分野の問題であった。

 

(p. 123 - 124)

 

まず、前節において確認したのは、ミルの自由の擁護論は、本人の幸福の増大または幸福の一部として、また、社会の利益や進歩といった視点から擁護されているということであった。また、本節で確認したように、危害原理と小売原理は並列的な関係ではなく、役割としても、異なるレベルにあり、ミルにおいては、階層的に理解されているということであった。つまり、ミルの自由の主張の背景には功利主義的な、つまり、幸福への考慮があるということであり、自由は幸福の手段として、あるいは、幸福そのものとして求められているということになる。そして、このことから導きだせることは、私たちが本書において取り扱っている市民社会についても、ミルは、功利主義に基づく市民社会を、あるいは全体の幸福という観点から市民社会を考えているだろうということである。

 

(p.158)

 

また、ミルによれば、人間は誤りうる存在でもあった。それゆえ、自身の意見を、他者の意見と対照することによって、訂正し、完全にするという習慣を身につける必要がある。私たちは、自身に向けられる意見に対し、こころを開き、相手の言うことをよく聞き、相手に正当なところがあればそれを受け入れ、相手の誤りを説明することが求められ、そのプロセスを通して、自身の意見の確実性を手にすることができるのである。このプロセスの中には、他者の意見を受け入れ自分の意見が変わるということが含まれている。これは、公共精神を身につけるプロセスとして、ミルが市民に対して求めたことでもあった。

 

(p.185)

 

 本書を読んでいてまず印象に残るのが、ミルは人間が受動的であることをまずいと思っていたこと、(理性によって制御されることが前提になるとしても)「欲求と衝動」は性格や個性の発展に欠かせないと考えていたことである。これは、政治参加の機会の乏しさや「民主主義疲れ」などとあわせて、「他人と違う意見を言うことを恐れて、権威や規範に順応的で、無気力でガッツに乏しい」といわれる最近の日本の若者の問題点を考えるうえで重要になるかもしれない(現在30代前半である私の世代からこのような傾向は存在していたから、もはや「若者」に限定できることではないかもしれないが)。

 また、ミルによる自由の擁護論は「個人の幸福」という観点からだけではなく「社会の利益や進歩」という観点からも主張される、という点はやはり重要だろう。本書を読んでいても、「個人の幸福」だけで自由を擁護するのは難しい……ミルの人間観はやはりかなりエリートで有能な人間像を想定したものであるように思えるし、自己を陶冶することや公的な討論を行うプロセスに耐えられない人は相当多いように思える…からこそ、社会の利益という観点から自由を擁護することのほうが今後は重要になっていくんじゃないかとわたしは思う。

「公的討論が自己陶冶につながって、個人を幸福にして社会も良くする」という発想はほとんど「熟議民主主義論」そのままであり、したがって、熟議民主主義に対するシニカルな批判はミルも直撃することになるだろう。わたしは熟議民主主義についてはいまだにスタンスを決めかねており、一部の冷笑家のように熟議を丸ごと否定したり馬鹿にしたりするつもりはないようで、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』やサンスティーンのリバタリアンパターナリズム論やサイバーカスケード論なんかを読んでいると「誰でもかれでも議論に参加させてなんでもかんでも意見を言わせればいいってもんじゃないよな」と思えてしまうこともたしかだ。もっとも、これは熟議民主主義自体の問題というよりもSNSやネット(あるいはマスコミ)というメディアの問題かもしれないけれど*1。本書に収録されている「座談会」では「哲学カフェ」について肯定的に取り上げられているけれど、わたしは哲学カフェもロクなものではないと思っているし……。

 

「卓越性」に関する議論のところでアリストテレスの思想と比較したり共通点が述べられているところも印象に残った。『ロールズ正義論入門』を読んだときも思ったけれど、「善の多様性」や「個性」を擁護するはずのリベラリズムが、ふつうの思想以上に「卓越性」や「徳」を肯定せざるを得ない、というのは面白いと思う。

 おそらく、リベラリズムにしても功利主義にしても、論理的な矛盾のなさや分析哲学的な一貫性だけを重視するなら卓越や徳の概念を捨てたほうが有利であると思うんだけれど、不利になるとしてもそこから目を逸らさないことのほうがほんとうの意味で妥当な倫理学とか社会論とかを考えるためには重要なのだろう。

読書メモ:『愛はすべてか 認知療法によって夫婦はどのように誤解を克服し、葛藤を解消し、夫婦間の問題を解決できるのか』

 

 

 わたしはまだ独身なので、「夫婦間の関係をどう解決するか」というよりも「認知(行動)療法」の考え方についての理解を深めるために読んだ。

 

認知という言葉は、「考える」に当たるラテン語に由来し、人が判断したり決心したりする方法や、お互いの行動を理解する、あるいは誤解する仕方を指している。この[認知]革命は、人が問題を解決する時ーーまたは、問題を起こしたり悪化させたりする時ーー、どのように思考するのかということに新たに焦点を当てた。どういうふうに考えるかが、私たちが成功したり人生を楽しめるかどうか、さらには生き残れるかどうかを、大部分決定するのである。考え方が前向きではっきりしていれば、こうした目標を達成するだけの力が十分あることになる。もし歪んだ象徴的意味や非論理的思考や間違った解釈のために身動きがとれなくなっていれば、私たちは事実上耳が聞こえず目が見えないのと同じになってしまう。どこへ行っているのか、何をしているのか、はっきりとわからないまま、つまずきながら歩いていると、早晩、自分自身や他人を傷つける羽目になる。誤った判断をしたり誤ったコミュニケーションをしていると、自分自身にも相手にも苦痛を与えてしまい、次々に、苦痛な報復の矢面に立たなければならなくなる。

この種の歪んだ思考は、より上級の思考を適用することによって解決できる。自分が間違っていることに気付き、それを正そうとするときには、たいていこのような上級の思考法を使っている。ところが不幸なことに、親しい人間関係ーー明確な思考と過ちの訂正が特に重要になる関係ーーでは、相手に関する間違った判断を認め、改めることがとりわけ難しいようである。その上、同じ言葉を話していると思っていても、一方の言っていることと、もう一方が聞いていることがまったく違う場合がよくある。このように、コミュニケーションの問題は、多くの夫婦が経験する欲求不満や失望を招き、さらに悪化させる結果になるのである。

(p.3 - 4)

 

● まず、お互いの失望や不満や怒りの多くが基本的な性格の不一致に由来するのではなく、誤ったコミュニケーションやお互いの行動に対する偏った解釈の結果起こる不幸な誤解に由来することに気が付けば、夫婦は困難を克服することができる。

 

●誤解はしばしば一方が相手の歪んだ像を形成する時生じる能動的過程である。この歪みによって、夫(妻)は次々と相手の言動を誤解し、相手には望ましくない動機があると考えるようになる。夫婦には単に、自分たちの解釈が「正しいかどうか調べあげ」たり、自分たちのコミュニケーションが明瞭になるよう注意するといった習慣はないのである。

(p.12)

 

一見したところでは、他の人がすることが、私たちの怒り、不安、悲しみなどの反応を直接引き起こしているように見えるものである。「あなたのせいで私は怒っているのよ」とか、「君のせいで僕はいらいらしているんだ」というようなことを言ったり、あるいは少なくともそう考えたりしている。しかし、こういった表現は厳密には正確ではない。もし相手がそのようなことをしなかったら、特別な感情(怒り、不安、悲しみ)を体験しなかっただろう、ということしか本当は言えないのである。その人の行動は、私たちがさまざまに解釈する事実であるにすぎない。私たちの情緒的な反応は、相手の行動そのものよりも、自分の解釈によって引き起こされるのである

(p. 131)

 

お互いの防衛や怒りを和らげたいと望んでいる夫婦は、相手に対して作り上げている否定的イメージを捉え、評価し、修正していくことができる。自分たちの持っている不愉快なイメージが変わってくると、怒りも変化してくることがわかるだろう(…)。

闘争は野生の世界には適しているかもしれないが、現代世界では私たちの生死が問題になることはほとんどない。しかし、たとえ腹を立てている時でも、人前では完璧に礼儀正しい仮面をつけることができる。しかし、不運なことに、社会における他のどんな暴力よりも、家庭内での暴力が多い。私たちは夫(妻)に対しては自分を制御することができない、あるいは、しようとしないことが多いのである。感情の高まりに耐えかねて、心の中のブレーキが外れると、怒りが勢いを増し、ついには暴力を振るってしまうことになる。奇妙なことに、「敵」は自分の愛する人、あるいは愛していた人なのである。

(p.181)

 

自分はこれまで傷つけられてきたから、非生産的な行動様式をあくまでも続けていく正当な権利があるという考えは、あなたがこれからも傷つき続けるということを確実にするだけである。それでは、傷つけられて報復するという悪循環は決して終わることはない。誰かが悪循環を率先して断ち切らなければならないのである。それをあなたがすればいいのである。

(p.193)

 

 ジョナサン・ハイトがポリティカル・コレクトネスや「マイクロアグレッション」概念を批判する際に認知行動療法の視点を持ち出していることは注目に値する*1

 認知行動療法には「ネオリベ的」「自己責任論的」という批判がなされるし、「反ネオリべ」を自称する精神分析とか臨床系の人ほど認知行動療法には批判的なようだ。しかし、結局のところ、ある人に生じる問題とは社会とか構造とかのせいもあるかもしれないがその人の生き方や考え方のせいであったりもする。社会を変えるのは難しいし、変えたところでより良くなるとも限らないのだから、個人の身に生じている問題を変えるためには社会(や他人)を変えようとするのではなく当の個人が変わるように努めるべきだ、というのはかなりの強度がある考え方であるのだ*2

『愛はすべてか』は夫婦という個人間の問題を扱っているが、同様の視点は、社会と個人との間の問題や「マジョリティ」と「マイノリティ」との問題を考えるうえでも参考になるだろう。内田樹が述べているような「被害者の呪い」を解くうえでも役に立つはずだ*3

ホッブズ、哲学的アナーキスト、ルソー、ミル(読書メモ:『政治哲学入門』)

 

 

 原書は1996年(最近に第4版が出版されているが)、邦訳も2000年。なんのフックもないタイトルに地味な装丁といかにも売れそうにないタイプの本だが、その中身はというと、わたしがいままで読んだ政治哲学入門のなかでも傑出した出来栄えだ*1

「自然状態」とはどのようなものであるかというところから始まって、国家の正当化や民主主義の正当化、自由や財産の配分についてどう考えるか、個人主義に対する共同体主義的・フェミニズム的な批判と、政治哲学のトピックが幅広く扱われている。功利主義リベラリズムといった理論ごとに章立てされているのでもなければ、思想家を時系列に紹介していくのでもなくて、章ごとの問題を扱いながら(西洋の)主要な哲学者たちの政治思想を提示していく、というところがミソ。

 また、第一章で「(アナーキズム的な見解を除けば)自然状態はロクでもないから国家が必要そうだ、と多くの思想家が結論付けている」とひとまずの答えを示したうえで、第二章で「ではその国家の存在や国家に対して国民が負う(納税などの)義務はどのように正当化されるか」という問題を提出する、という風に、提示されるトピックの順番が工夫されている。結果的に、序盤の章では古典的な思想家が扱われていたのが後半の章では近現代の思想家の出番が増えていくという風に、思想史の流れも掴ませてくれる構成になっているところがよい。

 著者の本は他にも『「正しい政策」がないならどうすべきか: 政策のための哲学』や『ノージック―所有・正義・最小国家』が翻訳されているが、ぜひ An Introduction to Moral Philosophy(『道徳哲学入門』)も邦訳されてほしいものだ。

 

wwnorton.com

 

ホッブズの「自然状態」論

 

あらゆる人の自然で継続的な権力増加ーー富と人々を自分の支配下におくことーーの試みは、競争へと導く。しかし、競争は戦いではない。では、なぜ自然状態での競争が戦いにつながるのか。次の重要なステップは、人間は本性的に「平等」であるというホッブズの想定だ。政治哲学と道徳哲学において自然的平等の想定は、人々は互いを注意深く気遣って扱い、他者を尊重すべきだという議論の基礎として用いられることが多い。しかし、述べ方を見れば予期できる通り、ホッブズはその想定を全く違った仕方で使用する。人間は皆おおよそ同じレヴェルの強さと技術を所持している点で平等であり、それゆえいかなる人間も他の誰かを殺す能力を持つ。「最も弱いものでも、秘かなたくらみにより、あるいは他の人々との共謀によって、最も強い者を殺すだけの強さを持つ」。

以上に、自然状態では財が希少だという理に適った想定をホッブズは付け加える。すると、同の物が欲しい二人の人は同一の物を持ちたい場合が多くなる。最後にホッブズは、自然状態では誰一人として攻撃される可能性を免れ得ないことを指摘する。私が持つどんな物であれ他の人々が欲しくなるかもしれないから、私は常時用心していなければならない。だが、たとえ何を持っていなくとも、私は恐怖から自由であり得ない。他の人々が私を自分たちに対する脅威だと考えるかもしれず、そうすると私は簡単に先制攻撃の犠牲者になってしまうかもしれない。平等、希少性、不確実性というこれら[の]想定から、ホッブズの考えでは、自然状態が戦いの状態になってしまうのだ。

(p.13)

 

要約すると、ホッブズは自然状態の内に、獲得と、安全(侵入者をあらかじめ防いでおくこと)と、栄光あるいは評判という、三つの主な攻撃理由を見ている。人間は至福を求めて、常に自分の権力(未来の財を得るための手段)を増加せようとする、というのがホッブズの根本的アイディアだ。人間が強さと能力において大体平等であること、欲求された財が希少であること、誰も他の人々によって侵害されないと確信できないこと、これらをつけ加えるなら、合理的な人間の行動は自然状態を戦場にすると結論するのが理に適っていると思われる。誰一人として、可能な攻撃者全員を近づかせないほどは強くないし、必要なら共謀者と共に他の人々を攻撃することが不可能なほどに弱くもない。自然状態における他者への攻撃が自分の欲しいものを得る(または保つ)最も確実な方法でもあるような場合には、攻撃の動機は十分に整うのだ。

(……中略……)

しかし、戦いの源泉として同じくらい、あるいはもっと重要なのは、恐怖ーー周囲の人々が自分の持つものを奪うかもしれないという恐怖ーーだ。ここから攻撃が始まるかもしれない。その攻撃は獲得のためではなくて、安全のためかあるいは多分評判のためでさえあるかもしれない。こうして我々は、万人が自衛のために他の万人と戦うという考えにたどりついた。

(p.14 - 15)

 

……自然状態においては、(既に見た理由のために)個人的に合理的な行動は他人を攻撃することであり、これが戦いの状態につながる。けれども、自然法は、別レヴェルの行動ーー集団的合理性ーーもまた可能だから戦いの状態が人間にとって不可避の状況でないと教える。どうにかして集団的合理性のレヴェルに上昇し「自然法」に従えさえすれば、我々は恐怖を感じずに平和に暮らすことができるのだ。

今や問題は、自然状態における各人には「自然法」に従う義務があるとホッブズが考えたかどうか、そしてもしそうなら、そのような義務の承認は「自然法」に従うよう人々を動機づけるのに十分かどうかだ。ここでのホッブズの答えは精妙である。「自然法」は「内面の法廷において」拘束力があるが、しかし「外面の法廷において」常に拘束力があるというわけではないと彼は述べる。彼の意味するところは、我々は皆「自然法」が効力を持つことを欲求し、思案する時「自然法」を考慮すべきだということだが、しかしこれは、あらゆる状況においても常に「自然法」に従うべきだということではない。もし周りの他の人々が「自然法」に従っていなかったり、あるいは自然状態ではよくあるように、彼らが「自然法」を破るという疑いが理に適っているなら、「自然法」に従うのは全く愚かだし自滅的だ。こうした状況で誰かが「自然法」に従うなら、その人は「自信を他の人々の餌食にし、自身の確実な破滅を招く」(現代ゲーム理論の専門用語では、このような行為者は「お人よし(サッカー)」と呼ばれる)。

(p.19 - 20)

 

●国家の正当性に対するアナーキズムの主張

 

…受け入れ可能な前提から国家を正当化する方法を見出すことができないなら、少なくとも道徳的に言って、ある種のアナーキズムが強制されると思われる。この批判的戦略はアナーキストの最強の武器だろう。我々が国家を持つべきかどうか誰も私に尋ねなかったし、警察は警察の行為の許可を私に求めていない。それゆえ国家と警察は、少なくとも私の扱いに関して非合法的に行為している、とアナーキストは論じている。

(……中略……)

…法律が法律であるとか警察が警察であるという事実は服従のための理由には全くならない。だから「哲学的アナーキスト」は、警察と国家の活動に対して高度に批判的姿勢をとることを勧める。警察や国家が道徳的権威をもって行為することもあるけれども、そうでない時我々が彼らに従わなかったり妨害したり無視したりするのは正しい。

幾つかの点でこれは高度に啓蒙された見取り図だ。責任ある市民は法律に盲目的に従うべきでなく、その法律が正当化されているかどうかに関して自分の判断力を用いるべきだ。法律が正当化されていないなら、従うための道徳的理由など存在しない。

この見取り図はーーある点までーー正しいに違いない。決して法律を疑問視したり従わなかったりすべきでないと論じることは、例えば、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害を擁護したり、南アフリカでの雑婚と異種族交配(異種族結婚)を禁止する、最近覆された法律を擁護することにつながるであろう。法律に従う義務には何らかの道徳的制限がなければならない。しかし、この道徳的制限が何であるべきかを言うのはそう簡単でない。法律が自分の道徳的判断と完全に一致していない限り法律に従うべきないという見解をある人が抱いている、という極端な想定をしてみよう。

(……中略……)

…さて、相続財産には何の道徳的正当化もないと考えている人がいるとすると、その人は、ウエストミンスター侯爵が相続した財産は本当は侯爵のものではないから、「侯爵の」相続財産を自分に売る権利が侯爵にないのは、侯爵を放逐する権利が自分にないのと同様だと考える。すると、もしこれに付け加えて、法律に従うべきなのは自分の道徳観と一致する時だけだとその人が言うなら、最早その人には他の人々の(要求する)財産を尊ぶための理由が(処罰への恐怖を除くと)全くない。

明らかに、言い分は増やしていける。ポイントは、もし我々がこのようなアナーキストの見解を受け入れるなら、公的関心事をも含む全ての事柄において人々は自分の個人的判断に従うことができるという混沌状況へと戻ったことになるという点だ。しかし、ロックが我々は自然状態から移行すべきだと論じたのは、まさにこの理由のためだった。そのような観点から見るなら哲学的アナーキストの立場は、大変危険な道徳的身勝手の一事例だと思われてくる。確かに、人々が自分たちの相剋する掟を基礎にして行為するがままに放っておくよりは、互いの行動を導くために、何か公的に規定され受け入れられた一組の法律を一般的に受け入れる方が遥かによい。換言すると、一組の法律の共有の方が、最前の法律とは何かに関する誰かの個人的判断よりも、当然、ずっと重要なのだ。

(p. 59 - 62)

 

 なお、アナーキズムと関連する「市民的不服従」の議論については以前にピーター・シンガーの議論を紹介している*2

 

●ルソー

 ほかの政治哲学入門(特に日本人の手によって書かれたもの)に比べて本書がとりわけ優れている点のひとつは、ホッブズやロックにルソーやミルといった古典的な思想家たちの問題意識や主張、それぞれの違いが実にわかりやすく整理されているということだ。その理由は、これらの思想家の主張の問題や欠点も、ビシバシと指摘されたり描写されたりするところにある。

 たとえば、民主主義の正当化という問題を扱った第3章ではルソーによる「一般意志」論や「市民宗教」論が紹介される。本書におけるルソーの解説は短いながらも非常にわかりやすいが、それだけでなく、ルソーの主張が個人の自由を大幅に制限するものであること(「ファシスト的含みや全体主義的含みがある」(p.108))がしっかりと指摘されている。

 一方で、ルソーの主張に対比されるかたちで紹介されるミルの代議制民主主義論についても、たとえばミルが愚者の選挙権の剥奪やエリートへの複数投票権の授与を提唱したことも示されている。

 こうして、民主主義は「自由と平等」を志向する物であるはずなのに、ルソー的な民主主義では自由が制限されて、ミル的な民主主義では平等が制限されることになるのだ*3

 また、民主主義は「純粋に決定を行う手続き」としてではなく、人間の(平等な)尊厳を示す方法であると見なされているから支持されている、という点が指摘されているところもおもしろい。

 

●ミル

 本書では後半になるにつれてジョン・スチュアート・ミルの思想とそれに対する批判が紹介される頻度が多くなっていく。ミルの『自由論』が魅力的であるのと同時に論証が甘いという問題も指摘されはするのだが、なんだかんだ言って、おそらく著者はミルに対してかなり好意的だ。下記の箇所なんかは特に印象に残る。

 

思うに、(消極的)自由を高く評価し、自由主義社会が多くの非自由主義的社会よりも幸福でありそうだと考える点でミルは正しいと言える。しかし既に見たように、彼自身による自由の擁護は、人間が道徳的進歩を遂げることができるという考えにどっしりと依存している。これはミルにとって信仰箇条(アーティクル・オブ・フェイス)であった。しかし、もし彼が間違っていたならば、恐らく共同体主義的社会が自由主義的社会より功利主義的根拠に基づいて好ましいであろう。生の実験は、誰もそこから学ばないならば、善よりも害をなすだろう。すると自由の擁護者は、人々が道徳的に進歩できることを示すか、あるいは自分の見解のために別の基礎を見つけるかしなければならない。

 

私は本章を逸話で終わらせることに抵抗できない。一九八〇年代中頃[に]私は、非常に貴族主義的なフランコ時代に法律と哲学を学んだスペインの弁護士に出会った。私が彼に、政治哲学を学ぶことが可能だったかと尋ねると、自分はまさにそうした課程をとったと彼は言った。一年のほとんどの間彼らは古代ギリシア人を勉強したが、最後の二[、]三週間は近代人も扱った。ホッブズ、ロック、ルソーを学んだ後で、彼らはしばらくヘーゲルに時間を費やし、次いでマルクスに関して二時間のゼミナールがあった。しかし、ジョン・ステュアート・ミルに関してはほんの数分与えられただけであった。フランコの政体が検閲することを選んだのはマルクスではなくミルだった。これは全くよく分かる話だ。カール・マルクスの学説は、豊かな田舎の法律学生の頭を変にさせそうになかった。しかし、自由弁論(フリー・スピーチ)と自由に関するジョン・ステュアート・ミルは、大違いだったのだ。

(p.171 - 172)

 

 政治哲学や政治思想の本といえば、近代以前ならプラトンアリストテレスかカントあたり、現代ならロールズが軸となって説明されていくものだが、本書はミルを軸に選んだことで、議論をわかりやすく受け入れやすいものにすることに成功したように思える。

 結局のところ、ミルの主張にはやや非論理的ではあるしエリート主義的な部分もあるが、多くの点で刺激的であると同時にわかりやすい。そして、なんかんの言っても、現代のリベラルな民主主義社会に生きているわたしたちはミルの主張を快く受け入れることができる。だからこそ、彼の主張に対する反論には目を惹かれるし、考えさせられて、本書で展開されている議論に没頭することができるのだ。

*1:『現代政治理論』もいいんだけれど、あちらはさすがに「入門書」とは言えない。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:ミル的な「選挙権の制限」に関する議論はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『醜い自由 -ミル「自由論」を読む』

 

 

 タイトルの通り、『自由論』でミルが主張していることについて緻密に分析していく、といった感じの内容。序文では著者は思想史家ではなく、この本にも文献学的な厳密さもないことがことわれているが、実際のところはなかなか専門的で細かい(それゆえに地味)な内容だ。

 

 

『自由論』は魅力的な著作ではあるが、そこでミルがしている主張は一冊のなかにもちらほらと矛盾があったり、根拠がはっきりしていなかったり、論理が飛躍していることも多い。そこをきっちり整えて、ミルが『自由論』でほんとうに言いたかったのはどんな主張であるか、というのを探っていくのが狙い。

 

 全5章だが、その内容は二つの部に分けることができる。

 第一部(1章〜3章)で扱われるのは、「なぜパターナリズムは否定されるべきであり、自己決定が重視されるべきか?」というもの。これに対して、「個人は自己利益に関する唯一の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最善の判断者であるから」「個人は自己利益に関する最終の判断者であるから」という三つの説が挙げられたのちに、前者の二つは棄却されて「最終の判断者」説が採用される。

 第二部(4章〜5章)で扱われるのは「なぜ自由を守らなければならないか?」という問題。これについては、「自由には他にはない卓越した価値や幸福があるから」という議論が否定されて、「個人の自由から得られる多様性は個人と社会の双方に価値があるから」といった結論が採用される。

 たとえば「自由を守るべきだ」という主張に関するミルの論証が甘いことはジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』などでも指摘されている。……とはいえ、『自由論』の良さは、多少の矛盾を気にせずとも「自由」の持つ価値やその重要性などについて短い分量で当時としては網羅的に語っているところにある、と見ることもできるだろう。実際のところ、『自由論』では自由という価値や幸福の卓越性と自由によって生み出される多様性(の価値)の両方について論じられており、その両方の議論について読者が得られるところは大いにあるはずだ。

 したがって、「『自由論』でミルが本当に言いたかったのはこちらであり、あちらではない」と決定する作業にどれだけ意味があるかということは、わたしにはあんまりわからない。パターナリズム批判や自由の価値の論証について現代的にガッチリとした基準でやりたいのなら、「ミルは何を言いたかったのか」ということにこだわることなく現代人たちでやればいいじゃん……と思ってしまう。

 

 なんにせよ、結論部分は印象に残ったので引用。

 

…画一性のコストよりも多様性のコストの方が高い場合であっても、多様性のコストを支払っているのが、社会全体、あるいは多数派であるとは限らない。たとえば、変な服装をしている人は、変な服を買うためにさまざまなコストを自分で支払わなくてはならないかもしれない。服の費用、評判、などなどである。しかし、それらのコストを負担するのが本人である限り、つまり、「自分で責任をもって危険を引き受ける限り」、社会、あるいは多数派が文句を言う筋合いはないだろう。むしろ、そのような風変わりな人たちは、自分でリスクを負担しながら、社会に利益をもたらすかもしれない行動をとっているのであり、抑圧するのではなく「感謝」すべきである。『自由論』が伝えようとしているメッセージはそのようなものであると思われる。

(p.192 - 193)