道徳的動物日記

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「運の平等主義」とはなんぞや(読書メモ:『平等主義の哲学』)

 

 

 

「運の平等主義」についてはロナルド・ドウォーキンの『平等とは何か』の読書メモ記事でも紹介しているが、広瀬巌の『平等主義の哲学』の第二章でもドゥウォーキンとそのフォロワーや批判者たちの議論が簡潔にまとめられていたので、紹介する。

 

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一方において、所与運という概念は、ある個人の制御を超えたタイプの運を捉えるものである。個人は所与運の悪影響に対しては責任を負うことができず、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪い場合、所与運の悪影響は補償されるべきである。他方において、選択運という概念は、ある個人の制御下にあるタイプの運を捉えるものである。個人は選択運の悪影響に対して責任を負うべきであり、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪いとしても、彼ないし彼女が悪しき状態にあることは何らの補償も正当化しない。

この区別を使えば、ここで運平等主義のもっとも一般的な定義を示すことができるが、この定義はほぼすべての種類の運平等主義を包含するほど十分に広いものである。

 

運平等主義:不平等は、それが所与運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義である。不平等は、それが選択運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義ではない。

 

(p.54)

 

 所与運と選択運とに間に明確な線を引くこと、つまり「ここまでは個人に制御できなかった物事だ」「ここからは個人が制御できた物事である」とはっきり区別をつけることが困難であるというのは、ドウォーキン自身が認めている。他の運平等主義者たちも、この区別を曖昧なままにしておく「プラグマティックなアプローチ」を採用するであろう、と広瀬は述べている。 

 なお、ほとんど全ての物事を選択運に帰する「無運説」、および、ほとんど全ての物事を所与運に帰する「全運説」というアプローチも存在する。前者の場合には現存する不平等のほとんどは各人の選択の結果であるから改善すべきでない(不遇な人々の状況も自己責任として処理されるべき)、後者の場合には現存する不平等のほとんどは各人が制御できる範囲を超えた運の結果であるから現存する不平等のほぼすべてが改善されるべきである(不遇な人々は自分の状況に対する責任を負わない)、ということになる。無運説は不人気である一方で、全運説は支持する哲学者たちも一定数いるようだ。……これは、自由意志に関する非両立説や(楽観的)懐疑論を支持する哲学者たちが一定数いることとパラレルであろう*1

 そして、全運説の場合には、責任概念の根拠は「その状況は自らの選択の帰結かそうでないか」ということではなく「その状況は意図した帰結であるか意図していなかった帰結であるか」ということに見出される。つまり、「ある結果を予測してある選択を行なったが、予測とは異なった結果が生じた」という場合、通常の運平等主義の場合には選択をした個人に責任があるとするが、全運説の場合には責任を問わないのだ。……しかし、自分の境遇が悪くなることを意図する人なんてほぼ存在しない。通常の運平等主義は向こう見ずなギャンブラーが金を浪費して貧乏になってもそれは本人の責任だという(ごく常識的な)見解・直観を正当化できるところに強みがあるのだが、全運説を採用するとその強みが消失してしまうのである。

 

「選択運」という概念を採用するにしても、どこまでが個人の選択でありどこまでが個人の選択ではないか、という判断にはやはり困難が伴う。

 たとえば、安い釣竿で事足りる「釣り」を趣味にしている人と高価なカメラを必要とする「写真」を趣味にしている人がいるとして、二人とも各自の趣味から得られる楽しみが全く同じである場合には、安い釣竿を買えるだけのお金を与えても楽しみという点で二人は平等になれない……後者は、前者と同じだけの楽しみを得るためには高価なカメラを買う必要があるからだ。このような「嗜好」「選好」の問題、そして自分の嗜好に対する責任をどこまで個人に負わせられるかという問題も、運の平等主義には付き物だ。

 ドウォーキンは、自分の嗜好や選好をどのようなものにするかということは個人の責任の範囲内にある、としている。一方で、ジェラルド・コーエンは、自らが制御できなかった嗜好や選好の責任を個人に負わせるべきではないとする真正選択説を主張している。たまたま写真が趣味になってしまった人が釣りを趣味にできた人よりも楽しみの少ない人生を過ごすというのはたしかに不平等なわけだから、この発想にも一理ある(ドウォーキンは『平等とは何か』においてそもそも嗜好や選好とは意識的に形成したり調整したりするものだという…これも一理ある…主張をしていたが)。

 しかし、個人は自分の嗜好に責任を持たないとなると、たとえばヘビースモーカーの人が他の人よりも医療費がかかった場合にも、本人はその責任を負わなくてよくなってしまう。タバコが好きになったことは本人の責任ではないとされるからだ。この結論を反直観的であると考える哲学者(ピーター・バレンタインやシュロミ・セガル)は理性的回避可能性説を提案する。「ある個人がある帰結について責任を負うのは、彼ないし彼女がそれを回避するよう期待することが理にかなう場合である」(p.60)。……もちろん、理性的回避可能性説を採用すると、今度は「理にかなう場合、って具体的にはどういうことよ?」という問題が生じることになるし、それについての長大な議論が必要になる。とはいえ、「タバコを吸い過ぎたら健康を害することは知っていたはずだから、そのリスクを知って吸っていたぶんには自己責任でしょ」ということは言えるようになる。

 

 運の平等主義のバリエーションとしては、バレンタインによる初期機会平等説(「人生の早い段階での人々の初期の機会ないし見通しが平等化されるべきであると主張」(p.66))と、マーク・フローベイによる出直し説も存在する(「人々が自らの選考を変えることを条件に、人々の人生コースで複数回にわたって見通しの平等化を要求することができる」(p.67))も存在する。

 出直し説では、たとえば、「ロック・スターになることを夢見て学校を中退したが、ミュージシャンとしてまったく成功せずに貧困状態で暮らしている人が、ロック・スターになる夢をあきらめる代わりに現実的なキャリアを追求するために大学への進学を希望している」という場合に、その人に入学費や授業料を支援することが認められたり求められたりする。……ある種、「優しくて寛大な社会」を目指す議論であるが、例中の人がロック・スターの夢に固執するような場合にはいくら貧困であっても支援しない(見込みの悪い夢を追い続ける選択をするのは本人の責任であるから)、という厳しさも持ち合わせている。

 とはいえ、夢を諦めるようにに要求する厳しさを持ち合わせているとしても、やはり出直し説は寛大に過ぎるかもしれない。どれだけ愚かな選択をしても、「やっぱり諦めて出直します」と言いさえすれば再スタートができてしまい、そのための支援は他の人たち…出直しの必要がないような賢明な選択を最初からしていた人たち…が負担することになるのだ。出直し説は慎重かつ注意深い選択をする理由を人から奪うという点で、モラル・ハザードを生じさせるリスクがある、とドウォーキンなどは懸念している。

 

 運の平等主義に対する批判はいくつかあるが、そのうちのひとつは、原因と責任の関係は再帰的であり、「ある個人が物事の原因について責任があると見なす場合には、原因の原因について責任があるのは誰かということも考慮しなければならず、原因を遡っていき続けると、どんな物事についても個人に責任があるということは言えなくなってしまう」というもの。

 これもやはり自由意志に関する非両立論や懐疑論に関連するタイプのものであるが、広瀬は「この大問題を解決することなしには、運平等主義が完全な道徳理論となることはないだろう」(p.70)と認めつつも、「単純に自由意志問題を棚上げにし、分配的正義の諸問題を議論するために特定の責任概念を仮定することは可能なのである」(p.71)としている。

 これについては本書でも指摘されている「福利」という概念や、動物倫理における「意識」という概念など、倫理学・政治哲学などの規範的な議論に絡んでくる諸々の概念についても同じようなことが言えるだろう。それらの概念が何を意味するかということについて定義の合意が取れていなかったり完全に理解することができていなかったりして状態であっても、(常識的/合理的な範囲内で)「とりあえずこういうものとしておく」としたうえで重要な規範問題について論じる、というのは可能であるし、やらなければいけないことでもあるのだ(また、哲学においてはどんな概念のどんな定義にも異論を提出したりケチを付けてきたりする人が永遠に登場し続けるので、仮定を禁じることは実質的に議論を禁じることにつながる)。

 

 運の平等主義に対するより深刻な批判が、フローベイやエリザベス・アンダーソンによる遺棄批判または過酷性批判である。

 以下はアンダーソンによって提出された「無謀なドライバーのケース」。

 

不用意にも別の車両との交通事故を惹き起こす違法な進路変更をした、無保険のドライバーについて考えてみよう。目撃者たちは警察を呼び、誰に過失があるのかを報告する。警察はこの情報を救急隊に伝える。彼らは事故現場に到着して過失のあるドライバーが無保険であると知ると、ドライバーを放置して道端で死ぬに任せるのである。

(Anderson 1999:295)

 

(p.71)

 

 運の平等主義は無謀なドライバーを死ぬに任せる選択を肯定してしまう、というのがアンダーソンの批判だ。

 これに対して運の平等主義者が取れる対応の一つは「だからどうした?」と言い放つこと(p.72)。実際、保険も入らず危険な運転をしてしまうようなドライバーを放置するというのは有り得る考え方だし、ある面ではヘタに救出するよりも死ぬに任せてやったほうが本人の自律を尊重しているとも思う*2。……とはいえ、実際には多くの運の平等主義者は遺棄批判を深刻に捉えており、対応の必要性を感じるようだ。

 コーエンやセガルは運の平等主義とは別の分配原理を訴えて、遺棄の問題については別の分配原理によって対応する、という方法をとる。コーエンは「友愛に基づく平等主義」を主張するが、広瀬は「私にはそれがよく分からない」と手厳しい*3

 また、セガルは運の平等主義に「ベーシック・ニーズを満たす要請」を加えた「多元主義」を主張する。しかし、多元主義は原理間が衝突した際の調整や優先順位をどうするかという問題を招き寄せるし、多元主義を採用しても運の平等主義が分配原理として問題のあるものだという批判自体に反論できるわけではない、という問題を広瀬は指摘する。

 遺棄批判に対応できるのは全運説と出直し説であり、このうち全運説はそれ自体が問題含みであるから結果として出直し説がアンダーソンの批判に対してもっともうまく対応できる、ということになる。……とはいえ、出直し説を唱えたフローベイ自身が、アンダーソンよりも前に遺棄批判を提出したわけなのだが。

 

 わたしとしても、たしかに、出直し説はうまく対応できていると思う(「それがどうした?」で突っぱねる対応にも魅力を感じるが)。

 たとえば、無保険で無謀な運転による事故を初めて起こしたドライバーは、保険に入っていなかったことや無謀な運転をしたことを後悔して、ケガから回復して諸々の医療費や損害賠償などを払い終わった後には保険に入ったうえで安全運転に努める可能性が高いだろう(それか免許を返納して運転自体をしなくなるか)。事故のリスクについて知識としては理解していても、それを実際に経験するまではリスクを低く見積もったり自分の能力を過信したりするということは、あり得る範囲内というか常識的な範囲内の過失であると思う。そして、大半の人は、痛い目を見るという経験をした後には反省できる程度の賢明さも同時に持ち合わせている。

 しかし、何度も同じような事故を起こすドライバーについては、運転することを禁じたり、あるいは事故現場に遺棄したりしてしまうことは、許容され得ると思う。……そこまで埒外の行為や生き方をする人の面倒までをも見て、彼の過失に対する補償を負担する義務が、他の人たち(=社会)にあるとは思えないからだ。

 わたし自身、自分に愚かなところがあったり長期的な視座がなかったりリスク評価を適切に行えなかったりするという自覚があるので、愚かな選択を一定範囲まで許容して寛大な対応を行う出直し説には魅力を感じる。

 同時に、常識の範囲内で愚かな人間と、(「無謀なドライバー」のような)埒外に愚かな人間とでは対応を分ける必要性も感じる。……おそらく、後者については、その人たちに実際に愚かな選択をさせてからその報いを受けさせるというよりも、最初から責任能力を認めずに選択肢を取り上げるほうが、社会にとっても本人にとってもいいのだろう。無論、これはパターナリズムであるし、また別の面で平等とか自由とか権利とかとの間に多大な衝突を引き起こすことになるのだが。

 もちろん、常識の範囲内の愚かさについても、制度設計によって選択肢を部分的に取り上げたり誘導したり、人々の愚かさよりも賢明さのほうが発揮されるようにコントロールを行ったりする、といったことも検討すべきである。リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンのリバタリアン・パターナリズムやジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』などで提示しているような社会像はこのようなものであるが、この発想は運の平等主義と両立させることができるはずだ。

 

 なお、フローベイの本の邦訳は4月に出版されるようだ。

 

 

 

 また、リッパート=ラスムッセンという人も運の平等主義の代表的な論客であるようだけれど、残念ながらこの人の本はまだ邦訳される予定がないようである。

 

 

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』の「ヘルメットを着用しなくても罰せられることはない」というくだりを思い出す。

*3:

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『平等主義基本論文集』の「編者あとがき」でも、広瀬はアンダーソンの「民主的平等」に対してコーエンに対するのと同様の厳しさを見せている。おそらく、真面目かつ冷徹に平等の原理を追求する哲学者として、アンダーソンやコーエンのような曖昧かつ甘い主張には苛立ちを感じるのだろう。

インセンティブ、不平等、トリクルダウン(読書メモ:『正義論』③)

 

 

 知っての通り、ジョン・ロールズは『正義論』で「社会的・経済的不平等は、それが最も恵まれない人たちにとって利益になる時にのみ正当化する」とする、「格差原理」を提案した。格差原理は、ときに平等のために過度の全体的な損失を要求することもあるが、逆に、不平等の増大を黙認することもあり得る。

 後者の問題については、平等主義と見なされることの多いロールズの考え方であることをふまえると、違和感を抱く人も多いだろう。

 なぜロールズが不平等の拡大を容認するかについては、広瀬巌による『平等主義の哲学』の第一章で以下のように解説されている。

 

彼の論証は、不平等を容認するためのパレート論証ないしインセンティブ論証として知られている。ロールズによれば、適切な不平等を許容することは、すべての人に対して、より大きな努力をして自らの才能を発展させるインセンティブを与えることになる。結果として、分配できるパイがより大きくなり、最も境遇の悪い集団はそうでなかった場合と同じかより高い水準へと辿り着ける。ロールズは、完全な平等性を捨てることによって全ての人の境遇がより良くなりうるのであれば、完全な平等性を維持することに固執するのは不合理であると主張するのだ。これこそ、ロールズの格差原理が、それが社会の最も境遇の悪い集団を代表する個人の期待を最大化するかぎりは、不平等の増大を黙認できる理由である。

 

(『平等主義の哲学』、p.30)

 

 また、本章の「注」では、インセンティブ論証とトリクルダウン理論が混同されやすいことが指摘されている。

 

一見すると、ロールズの不平等を容認する論証は、典型的には不平等を全く気に掛けない人々によって支持されるトリクルダウン理論に似ている。だが、格差原理はトリクルダウン理論とは区別されるべきである。トリクルダウン理論が主張しているのは、企業および富裕層にとっての減税その他の経済的便益が、経済全体を改善することを通じて、結果的に社会のより貧しい成員たちを益するだろう、ということである。だが、トリクルダウンが社会のより貧しい成員たちを益する保証はどこにもない。

 

(『平等主義の哲学』、p.47)

 

『平等主義の哲学』によると、分析的マルクス主義者であるジョシュア・コーエンは、「『正義論』における原初状態の市民たちは正義に適った社会を作って暮らそうとしているのだから、インセンティブとそれによって結果的に生じる不平等という発想を持ち込むのはおかしい(正義に適おうとしているのだからインセンティブがなくても努力するはずだし、その果実を他人に分け与えるはずだ)」といった指摘をしているようである*1

 

 ロールズによるインセンティブ論証については、以前に紹介したアダム・スウィフトの『政治哲学への招待』のなかでも取り上げられていた。そのなかでも印象的な批判を引用しよう。

 

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平等主義者の聖人ではなく、現実の人間が住んでいる現実の世界に立ち戻ろう。現実世界の記述として、またもしわれわれが経済的不平等を一掃したなら、起きるであろうことの予測として、お馴染の説明はかなり的を射ているように思われる。すなわち、人々は、経済的なインセンティヴによって動機づけられているのであって、何らかの不平等がないと、システムは崩壊してしまうであろうというのである。しかしこの説明を、人々がどのように行動するかの記述としてではなく、また経済的なインセンティヴの欠如に対応して、人々がどのように行動するかの予測としてでもなく、不平等の正当化として考えたらどうだろうか。正当化は、どのように機能しているだろうか。正当化は、人々が、利己的に、経済的報酬への欲望によって動機づけられているという事実に訴えかけている。より厳密に言うなら、人々は、最も不遇な人の福祉を最大化するようには、動機づけられていないと仮定している。もしそうなら、人は、どのような仕事であれ、長期的に見て、最も不遇な人に最も益となるような仕事をーーそれをすることでどれぐらいの報酬が得られるかを顧慮することなくーーするであろう。何か奇妙なことが、どこかで生じているに違いない。もっとも恵まれない人の利益を最大化することに関心があると主張し、また同時に、実際にそうした人の助けになることをするためには、インセンティヴとなる報酬が必要だと主張するような個人には、どこか統合失調症的なところがある。

[…中略…]

おそらく、今日のイギリスやアメリカを特徴づけている不平等は、人々の利己的な動機づけを所与として正当化されている。しかしながら、未解決の問題は、そうした動機づけそれ自体が、正当化されるかどうかということである。もしそうでないとすれば、インセンティヴに基づく議論は、不平等についての真に完全な擁護論を提供してはいない。せいぜいそれは、不平等が必要悪であることを示しているだけである。私の子供を人質に取った者に、お金を渡すとき、私は正当化されるかもしれない。しかし、そこから、譲渡後の報酬の分配が、正当化された分配であるという結果が引き出されるわけではないのである。

[…中略…]

人がそのような正当化を支持し、同時に、インセンティヴとしての報酬を受け取っている自分自身が正当化されると主張するとき、疑わしい不整合が生じている。

 

(『政治哲学への招待』、p.176 - 178)

 

「どこか統合失調症的なところがある」とは印象的な表現である。

 ロールズの議論は道徳的な目的のためになされているが、『正義論』においてはできるだけ合理的な前提……つまり個人は(友愛があったり正義感覚があったりするとしても)自己利益を追求する存在だ、という点から出発したうえでそれでも社会に正義を実現するためにはどうすればいいか、ということが論じられている。合理性と道徳性は必ずしも相容れないわけではないが、矛盾が起きないように調停を突き詰めていくほどに、結果として登場する原理や枠組みはキメラ的なものとなるのだろう。

 スウィフトが行っている批判はコーエンによる批判と同じような問題意識に基づいているのだろう。また、マイケル・サンデルが『実力も運のうち』のなかでロールズの「正当な期待」論を批判していたくだりも、ほぼ同じ内容だ。

 つきつめて言えば、「格差原理によってインセンティヴと平等が両立するというの、理屈の上では正しいかもしれないけれど、理屈の上でしかなくて、実際には格差原理は「おれが金持ちになったのはおれの才能や努力の結果で当然のことだし、才能がなく努力もしない貧乏な奴らに金が対して分配されないのも当然なことだ」といった傲慢で非友愛的な態度をもたらしますよね?」という批判である。インセンティブ論証とトリクルダウン理論理論上は異なるが、実際にはインセンティブ論証に基づいた社会構造や規範はトリクルダウンに基づいた社会構造や規範と同じような発想や言動を人びとにもたらすだろう。

 サンデルの本を読んだときにはこの批判に納得がいかなかったが、スウィフトやコーエンも同様の批判をしていると知ってわたしもこの批判に対して正当性を感じるようになってきた。

 とはいえ、やはり、インセンティヴは必要だしそれがなければ社会の富は増えず総合的に見て全ての人の状態が悪くなる、というのも事実だろう。ロールズの議論が統合失調症的であるとしても、それはこの事実を正面から見据えたうえで、逃げ出さずに取り組んだからである。一方で、サンデルのような共同体主義者やコーエンのようなマルクス主義者の議論はこの問題に対処できているかというと、そんなことはない。現実から目を逸らしてインセンティブの存在そのものを否定したり、「共通善」といった具体性が皆無で有効性も不確かであるお花畑な概念を持ち出したりするのが関の山だ。

 結局のところ、多少の不整合や偽善や傲慢さをもたらすとしても、ロールズの議論のほうが支持できるものだと思う*2

 

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 なお、『正義論』の「事項索引」を見ても、「インセンティブ」という事項は掲載されていない。「正当な予期」という事項は掲載されており、以下のような場面で使われている。……しかし『正義論』はおそろしく内容や文章がわかりづらい本であり、しばらく読んでいても、批判者たちが指摘するような「インセンティブ論証」をロールズが実際に行っているかどうかということ自体について、わたしは理解するのに手間取ってしまった。

 

さて本書で述べてきたように、基礎構造こそが正義の第一義的な主題となる。もちろん、どのような倫理の理論も正義の主題のひとつである基礎構造の重要性を認めているにせよ、あらゆる倫理の理論がその重要性を一様に評価しているわけではない。<公正としての正義>において、社会は相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す協働の冒険的企てだと解釈される。基礎構造は諸活動の枠組みを規定するルールの公共的システムであって、このシステムは人間が力を合わせて便益の総量を拡大生産するように彼らを誘導し、かつ収益の取り分に対する一定の権利要求を承認のうえ各人に割り当てる。人が何を為すかは、公共的なルールが当人にどのような権利資格を付与したかによって決まり、ある人の権利資格は当人が何をするかによって決まる〔という循環関係が成立している〕。複数の権利要求ーー正当な予期に照らして人びとが取り組むものごとが、それらの権利要求を決定するーーに敬意を払うことを通じて、結果として生じる分配へとたどり着く。

 

(『正義論』、p.116、強調は引用者による)

 

…正義にかなった協働のシステムが公共的諸ルールの枠組みとして与えられ、関係者の予期がその枠組みによって構成されると仮定した場合、自分の生活状態を向上させる見通しをもって、当該のシステムがその報酬を与えると公言していることがらを為した人びとは、自分たちの予期が満たされることに対する正当な権原・資格(entitlements)を有している、ということ。こうした意味において、運や財産に相対的に恵まれた人びとは自らの相対的に望ましい境遇を保持する権利を持っている。言い換えると、彼らの権利要求は社会の諸制度によって確立された正当な予期であって、それらの予期を充たす責務を共同体(周囲の人びと)が負うことになる。けれども、ここでいう功績(desert)は〔他者や共同体の承認を基盤とする〕権原・資格という意味にほかならない。この意味での功績は、協働の制度枠組みが現に作動していることを前提としており、この制度枠組み自体が格差原理に則って設計されるべきか、それとも別の基準に従うべきかという〔制度設計の〕問題を考える上での重要なつながりを何ら有するものではない。

 

(『正義論』、p.139 - 140、強調は引用者による)

 

*1:あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』ほしいです。

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*2:なお、ロールズは不平等それ自体は友愛に反したり自尊を奪ったりするという点で問題であると見なしているが、「不平等それ自体は全く問題でない」と断言するハリー・フランクファートやスティーヴン・ピンカー的な意見にも一定の説得力はあると思う。

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「正義の情況」とはなんぞや(読書メモ:『正義論』②)

 

 

 前回の記事の下記の箇所についての補足も兼ねて。

 

資源に限りがなく、人々の間に価値観の争いがないユートピアの世界であれば、このような制度も成立するだろう。しかし、現実はユートピアではない。

日本じゅうがわたしのレベルに落ちたら…(『布団の中から蜂起せよ』読書メモ:追記) - 道徳的動物日記

 

 

<正義の情況>(circumstances of justice)は、人間の協働を可能かつ必要なものとする、通常の状態として描き出すことができよう。本書の冒頭で指摘しておいたように、社会は<相互の相対的利益(ましな暮らし向きの対等な分かち合い)を目指す、協働の冒険的企て>ではあるものの、通常その企ては利害の一致だけでなく利害の衝突によっても特徴づけられる。なぜ利害の一致が生じるかと言えば、各人がもっぱら自分の努力だけで暮らそうとした場合に比べて、ずっとよい暮らしを社会的協働が可能にしてくれるからである。だが、自分たちの協調行動が追加的に生み出した多大の便益がどのように分配されるかに関して、人びとは無頓着ではありえないので、利害の衝突が存在することになる。各人の目的を達成しようとするために、少ないよりは多い[便益の]取り分のほうを全員が選好するからである。それゆえ、相対的利益の分割を決定する多種多様な社会的制度編成の中から選択し、適正な分配上の取り分に取り分についての合意を裏書きするための諸原理が必要となる。こうした要求事項が正義の役割を規定する。これらの事項を必要・不可欠とする後ろ盾の条件こそが、<正義の情況>に相当する。

 

(p.170)

 

 ロールズによると、正義の情況は「客観的・客体的な情況」と「主観的・主体的な情況」に分けられる。

 

「客観的・客体的な情況」は、以下の三種類:

(1)諸個人は体力と知力の面でおおよそ類似しており、他の人たちを支配できるほどに際立った体力や知力を持つ人はいない。

(2)どの人も攻撃に対して傷付き、どの人の計画も他の人たちが力を合わせられたら妨害されてしまう。

(3)資源の適度な希少性(moderate scarcity)…天然資源やその他の資源は、協働の枠組みが不必要になるほど豊富ではないが、協働の枠組みが成立し得ないほどには貴重ではない。人びとにマシな暮らしむきをもたらす程度の制度編成は実現可能であるが、制度によって算出される便益も人びとの需要(のすべて)を満たすほどではない。

 

「主観的・主体的な情況」とは、人びとのニーズや利害関心はほぼ類似しているとはいえ、人生計画や善の構想が異なることから、資源をめぐって対立する権利要求が打ち出されることがある(「利害関心の衝突」)、というもの。

 また、人びとの知識や理性能力や記憶力などが制限されていること、不安や偏見や私事への執着によって人びとの判断が歪められることも、「主観的な情況」に含まれている(これは利己性や怠慢など「道徳上の落ち度」から生じる場合もあるが、大部分は「人々がおかれている自然本性的な状態の一部に過ぎない」(p.172))。

 

…議論を単純化するために、本書はしばしば、(客観的な情況のうちの)<適度な希少性>という条件と(主観的な情況のうちの)<利害関心の衝突>という条件を強調する。したがって手短に言うと、次のようになる。適度な希少性という条件のもとで、社会的利益の分割に関して相反する要求を人びとが提起するときにはいつでも、正義の情況が確立・定着する、と。生命と身体に対する危害の恐れがないところでは、体を張った勇気を必要とする直接の誘因が存在しないのと同様、正義の情況が存在しないならば、正義という徳目を必要とする直接の理由は存在しない。

 

(p.172)

 

 

『正義論』における議論に限らず、分配的正義…資源や負担の公平な分配とはどんなものか、ということ…について考える際には、「適度な希少性」と「利害関係の衝突」にを無視することはできないだろう。

 なお、資源の量は一定ではなく、社会の制度や構造…「協働の枠組み」…のあり方によって増えたり減ったりするものであることにも留意しておくべきだ。単純に言えば、人びとが働いたり、様々なイノベーションが起こったりすることで、資源を増やすことができる。なので、一定以上の数の人びとを一定以上に働かせたり研究や起業などに向かわせることも考慮しておかなければならない。

 

 もちろん、この「正義の情況」という発想に疑問を呈する人もいる。

 たとえば、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア:障害者・外国人・動物という境界を超えて』では、「客観的・客体的な情況」の(1)と(2)を前提とする正義論では障害者や動物といった存在を正義の対象に含めることができないことを批判していた(健常者の成人がやろうと思えば容易に支配できてしまう存在は正義の対象にならない、ということになるので)*1ヌスバウムは「[デビット・]ヒュームが力のだいたいの平等性に依拠していることは、彼の正義論にきわめて大きな悪影響を及ぼしている」(p.60)と書いたうえで、ロールズの議論もヒュームによる「正義の情況」論に依拠していることをかなり強く批判している。

 とはいえ、上述の引用文にも示されているとおり、『正義論』のなかでは「力のだいたいの平等性」よりも「適度な希少性」と「利害関心の衝突」のほうが強調されているという点は留意しておくべきだと思う。

私見では、いわゆる「社会正義」的な議論では、この二点はとくに無視されることが多い。資源については「いま権力者や金持ちやマジョリティが持っているぶんを奪って他の人たちに平等に分配したら問題が解決するでしょ」という程度にしか考えていなさそうな人も多いし、利害関心については「間違った考え方をしている人や悪い意見を持っている人の利害関心なんて考慮しないのが正解っしょ」というくらいに思っていそうな人が多々いるように思えてしまうのだ。

 ウィル・キムリッカが『現在政治理論』で解説していたような、マルクス主義(の政治哲学)では、「利害関心が対立する」という事態が解決されるべき問題であるされており真に善き共同体では「正義」は必要のないものとみなされる、ということも関連しているのだろう。

 

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 もちろん、リベラリズムにおいては、人びとの人生計画が異なっていることを前提にしたうえでそれぞれに自由に生きられる社会のほうが理想とされるので、利害関心の対立はどれだけ社会が進歩したところで不可欠的に生じるものとされていて、そのこと自体は問題でもないとされるはずだ。……とはいえ、マルクス主義者であると自認していない人ですら、このことはついつい忘れてしまいがちである。

 

 

日本じゅうがわたしのレベルに落ちたら…(『布団の中から蜂起せよ』読書メモ:追記)

 

 

 

 

 表題にもなっている、第4章の「布団の中から蜂起せよーー新自由主義と通俗道徳」から引用。著者(高島)が博士後期課程に進学した直後に鬱病になった、というくだり。

 

本当に博士後期課程最初の一年間、私はほとんど何もしなかった。年度末に提出させられる業績報告書に、「闘病中のため研究を中断している」と一言書いて提出した。本当に、それ以外に書けることがなかったのである。記入欄が半分以上真っ白いままのプリントを見て、さらに落ち込んだ。私はやるべきことができなかった「怠け者」なのではないかと思い、ぼろぼろ泣いて自分を責めた。鬱なんだから仕方ないじゃないか、と頭では理解していたが、この白い紙を見た教授が何を思うのか、想像するだけで恐ろしかった。

これを書いている現在、私は博士後期過程[原文ママ]の二年目を終えようとしている。今年度の成果物もほとんどなかった。ようやく実家を出たのだから寛解に向かうはずだろうと期待していた症状は、統合失調症というおまけをくっつけて拡大し、私は今も絶え間ない破綻の中にある。薬によって得られた強制的なCHILLの背後に、いつも巨大な経済的不安、学業への不安が迫っている。手出ししようのない場所で時間が進行し、むしょうに「助けてくれ」と叫びたい衝動に駆られる。来季の学費の支払いが、そして業績報告書が、そして何もできない自分が、心底怖い。

書かねばならないと思うので書いておくけれど、本当に「この国」(こんな表現使いたくないけど!)は研究者を育てる気がさらさらないのだと思う。私が学費・研究費のために借りていた日本学生支援機構の第一種奨学金(無利子の貸与型奨学金。第二種は利子がある)は、業績に応じて返還免除の仕組みがあったけれど、業績!結局業績なのだ。参照されるのはあくまでも業績であり、学生の経済的状況ではなかった。

現状の研究支援環境は、そのほとんどが優秀な成績を修めた人、将来の業績を期待しうる人に金を払うシステムになっている。まず研究したいと思う人間全員にもれなく安心して研究しうる環境を与える仕組みでなくては、全くもって意味がない。そしてとにかく書類手続きが多すぎる。書類一枚を書く体力のない人にも門戸を開くべきだ。話はそれからだ。本当にそこがスタートラインなのだ。社会は絶対に、「何もできない人」に対して腐るほど多くの選択肢を用意すべきなのである。「何かする」道も、「何もしない」道も、それぞれが等しい価値を持って解放されねばならない。そうでなくては間違っている。

 

(p.117 - 118)

 

 前回の記事でも触れた通り、この部分を読んだときには、わたしは高島に対して一定の共感を抱いた。

 20代の半ば、わたしは修士課程までは修了したが、博士後期課程に進学するかどうかを数年間迷い続けながらフリーターになっていた。哲学を研究したいとは思っていたがアカデミックな哲学論文を書くことは自分には難しいであろうと考えていたし、かといって他の学問には魅力を感じなかった。というか、そもそも、研究者に必要とされる諸々の能力…論理性、忍耐力、自己管理能力など…が自分には備わっていないことは痛いほど自覚していた。しかし、会社員にもなりたくなかった。わたしは本を読み続けて…「研究」とまでは言えなくても…勉強したりあれこれ考えたりすることを続けていたかったし、フルタイムで働き出すと本を読んだり思索したりする時間も無くなるだろうと恐れていたのである。

 それで、進学するかどうかの決断を引き伸ばしながらアルバイトをしていたわけだ。こうして書くと気楽に思えるかもしれないし、外から見ればたしかに「院卒の気ままなフリーター」ではあったのだが、内心では全然そうじゃない。将来への展望がまったく見えず収入や雇用の状況も不安定であり、一部の友人たちとは精神的な壁が出来て恋人にも見放されて、なにより家族との仲も最悪になるなかで、わたしの精神の状態はかなり悪化していった。鬱病と正式に診断されたわけではなかったし、統合失調症が生じさせる苦しみとは比べるべくもないだろうが、なんらかの病気に近い状態ではあったと思う(実家の窓ガラスを割ったりするなどの暴力的な発作も起こっていたし)。もちろん、研究どころか勉強も読書もロクにできないような期間のほうが長かった。

 実際のところ、進学や学業に関して不安になり精神的な病気まで生じるというのは、日本の…おそらく海外でも…大学院生の多くが経験していることだと思う。また、日本では研究者(とその志望者)に対する支援が海外よりも遥かに薄いということも事実なのだろう。客観的な一般論というレベルでも、おそらく、「日本は研究者に対する支援をもっと手厚くするべきだ」とは言えると思う。

 

 しかし、その支援が、「業績」をまったく問わず、「書類一枚を書く体力のない人にも門戸」を開かれているほどの、「研究したいと思う人間全員にもれなく安心して研究しうる環境を与える仕組み」にまでなるべきかどうかとなると、話はまったく異なる。

 もちろん、過去のわたしにとっては、そのような仕組みが存在していたらラッキーだったし、有り難く利用させてもらっただろう。きっとわたし自身の能力の限界からどれだけ支援されても大した論文は書けなかっただろうし、そもそも業績が問われないとなると研究をがんばる必要もないわけだから、のんびりと好きな本を読みながら、社会に価値として還元されるかどうかも不確かなお勉強を続けていたと思う。能力や業績も問わずに広く開かれている支援制度が存在するなら、わたしに限らず、同じようにして制度を濫用する学生は多発するはずだ。

 資源に限りがなく、人々の間に価値観の争いがないユートピアの世界であれば、このような制度も成立するだろう。しかし、現実はユートピアではない。研究者を支援するために使った金やリソースは、他のことには使えなくなる。そして、どんなことに金やリソースを使って支援すべきかということに関する意見は人々の間で分かれている。研究よりもスポーツや芸術を支援すべきだという人もいれば、労働に関する資格や技能の習得を支援したり起業を支援したりすべきだという人もいるだろう。女性の活躍を支援したほうがいいかもしれないし、移民や外国人を支援したほうがいいかもしれない。精神病を患った人に対する支援も必要であるだろう。そして、言うまでもなく、福祉や医療をはじめとして、金やリソースを分配しなければならない領域は他にもごまんと存在する。

 こうして考えると、わたしには、「業績や能力に関係なく研究を支援するべきだ」と言うことはとてもできない。研究支援の必要性を説くなら、「自分が研究したいから」と言うだけでなく、研究が社会にもたらす価値を説明しながら、他のことがもっと大切だと思っている人たちにも納得してもらえるように、研究支援の対象を選別するための基準を提示しなければいけないだろう。…そうして考えていくと、実際のところ、業績とはかなりいい基準である。院生たちにはダラダラと時間を浪費させたり制度にフリーライドし続けたりさせずに研究をがんばらせるためのインセンティブを与えるし、院生たちを助けるためだけではなく社会に価値を加えるための支援でもあるということを他の人たちに納得させやすい。

 もちろん、わたしにとっては、業績などを基準にした現在のシステムは災いである。わたしは自分の能力に自信を持っておらず、他の人たちと競走しながら一定以上の成果を出し続けることが求められるような環境は恐ろしくて耐えられない。実際、博士課程への進学や研究者になることを諦めた要因の一つは、研究者の世界は会社員や物書きのそれに比べてもずっと競争的だというところにある。……しかし、「わたしは自分の能力に自信がないし競争をするのも嫌いだから、業績などに関係なく安心して研究や勉強をダラダラと続けられるような支援制度を作ってほしい」と言うことはできない。それは正当化することが不可能な主張であり、単なるワガママであるからだ。

 

 最近では、社会運動に関連して、「日本人はもっとワガママを主張するべきだ」といった物言いがされることも多い。実際、日本人は他の国の人々よりも自分たちの権利を主張することが少なかったり、不利益を黙って享受するという傾向が強い、というのは事実であろう。……しかし、「正当な権利の主張」と「ワガママ」は異なる。結局のところ、社会とはわたしと他の人たちが構成するものだ。わたしが社会に対してなにかを要求したりなにかを支払わせようとするとき、負担を引き受けるのは「国」や「政治家」や「権力」だけでなく他の人たちでもある。わたしの権利は他の人たちの義務であるし、わたしが使った金やリソースは他の人たちが使いたかったことには使えなくなる。だからこそ、基準や理由を提示しながら、正当な主張とワガママを区別することは大切だ。

 上記は、(ジョン・ロールズの『正義論』やロナルド・ドゥウォーキンの『平等とは何か』などで展開されているような)分配的正義においては外すことのできない発想であり、社会についてのごく基本的な考え方でもある。……そして、分配的正義について考えるときにわたしの頭のなかにいつも浮かぶのが、『ドラえもん』のこのコマだ。

 

 

 わたしは自分が怠惰で能力に欠けており、規範意識すらもそれほど高くない人間であることを自覚している。長いこと両親の脛をかじって彼らが稼いできたお金に養ってもらってきたし、東京で一人暮らしを始めてからも見知らぬ人の善意に基づく支援を受けてきたし*1、公的な補助制度(家賃補助とか失業手当とか)も利用できるものは悪びれなく利用してきた。他の人たち…つまり社会からわたしが受けてきた恩恵は、わたしが社会に対して生じさせてきた価値をきっと上回っているだろう。そのことでとくに罪悪感を抱いているわけでもないし、卑屈になっているわけでもない。

 しかし、もし社会がわたしと同じような人々…怠惰で、能力がなく、隙あれば制度の濫用も厭わない人々…だけで構成されていたらと思うと、ゾッとする。きっと、そんな社会はまともに機能しない。だからこそ、この社会がわたしより勤勉で有能な人々に溢れているということは、わたしにとってラッキーなのである。

 業績などに基づくインセンティブ・システムによって勤勉で有能な人々を支援することすら、わたしにとってタメになることかもしれない。勤勉で有能な人々をよりがんばらせることで、長期的には社会に存在する資源の量が増えて、わたしもその資源を利用することができるかもしれないからだ。

 一方で、社会のなかには、わたしよりもずっと辛い状況にいる人や、不運にまみれた人もいる。病気や障害が原因で働くことができない人もいれば、環境や現状の制度が原因で自由に能力を発揮することができない人もいる。わたしがワガママを言うことは(たとえば「業績を考慮せず書類一枚も書く必要がないような研究支援制度が欲しい」と言うなど)、その人たちが使えたはずの金やリソースをわたしが横取りしようとすることである。……だからこそ、怠惰で能力がなくても、わたしはわたしなりに努力したり働いたりしなければならない。それは他の人たちの権利を守るためにわたしに課せられている義務である。

 また、わたしの人生を有意義なものとするためにも必要なことであろう。

 以下は、『ロールズ正義論入門』からの引用。

 

ロールズは特定の人間観にもとづいて理論を展開しているが、ロールズは体力があるならば人は働くべきであると考えている。これは、働いても働かなくても政府が最低限度の生活保障をしなければならないのかどうか、という議論とは、ひとまず関係ない。

ロールズは、正義の二原理が創り出した秩序ある社会は社会的協力の場であると考えている。人びとは自由と権利を含む社会的基本財という道具を用いて、それぞれが理想とする人生の目標を追求すればよいが、なにかを成し遂げるためには、ほかの人たちとの協力は欠かせないので、社会に貢献することを勧めている。働くことは、その重要な部分である。ロールズは「卓越性」を重視しているが、その考えはここにも反映されている。

ロールズは「自分を価値ある存在」と見なすことができる独立した存在であるためには、意義があって自信を持てるような仕事に携わることが重要であると考えている。さらに、人びとが正義にかなっていて公平な社会的協力に関わっているならば、人びとには自分の役割を果たす義務があるとも考えている。自分は貢献しないけれども、ほかの人が努力して創られた成果はいただく、ということは悪いことである。

(『ロールズ正義論入門』、p.202 - 203)*2

 

 

 高島は、「「何もできない人」に対して腐るほど多くの選択肢を用意」すべきだと主張するなら、その選択肢を維持するための資源はどこから来るかということや、その選択肢を維持するコストは誰が負担するかということも考えておくべきだ。そして、「何もできない人」を守るべきだと言うのなら、「何かする」道には「何もしない」道よりも価値があると認めるべきだ。誰もが何もしなくなると、何もできない人を守ることもできなくなる。

 

 

蜂起せよと呼びかけるとき、私は全員に対して「立ち上がれ」とは絶対に言いたくない。文字通りに「立ち上がって」何かする必要があるなら、立ち上がれる人が立ち上がればよいのである。立ち上がれない人を無理に立たせるような革命には、私は賛同できない。布団に這いつくばり、顔をじっと伏せて、何も考えたくない、何もしなくてよいと誰かが命じてくれるのを心底望んでいるような苦境にいる人と、私は常にともに在りたい。私自身がそうであるからだ。蜂起するために必要なのは、その命たった一つではないか。われらーーあえてわれらと言うーーはすでにここに在る以上、存在にけちをつけられる余地はない。それ以上のことは基本的に全てオプションであって、社会から脅迫的に行動を求められるのは本来おかしいことだ。いかに動けなくとも、今そこに社会との摩擦を感じながら存在しているのなら、私はその生存を存分に祝福したいし、続く生存そのものを抵抗として捉える。湿った布団の中で力なく握られたその拳を、私は絶対的な蜂起の印として認めたいのである。

 

(p.119)

 

 この段落で高島が書いていることは、単なる気休めである。

 革命や蜂起が必要だと仮定して…『布団の中から蜂起せよ』を読んでいてもわたしはそれらが必要であるということを全く説得されなかったが…、立ち上がれない人を無理に立たせる必要は、たしかにないだろう。しかし、実際問題として、布団のなかでうずくまることと、デモをしたりアジ文を書いたりすることや、現状の社会の問題点を指摘したり新しい社会像を提示したりしながら相手を説得することや、実力を伴う行動を起こすことは、全く異なる。

 布団の中で拳を握りしめたとて、その拳を見ることができるのは自分だけだ。社会を変えるつもりなら、自分だけでなく他人の目に見える行動をしなければならないし、自分たちに向けてではなく他の人たちに向けて言葉を放たなければならない。

 何もできない人たちに寄り添うことは必要かもしれないし、気休めがあってもいいだろうが、嘘っぱちを言う必要はない。何もできない人たちは何もしていないのだから、抵抗も蜂起もしていないのである。耳心地のいいレトリックでそこを誤魔化してはならない。

 

人文書じゃなくてファンブック(読書メモ:『布団の中から蜂起せよ:アナーカ・フェミニズムのための断章』)

 

 

 

(※ この記事を公開した翌日に、「追記」を公開している。むしろ「追記」のほうがより気合い入れて書いているので、こちらも参照してほしい。)

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 まず先に書いておくと、わたしは著者(高島)に対してよい印象を持っていない。というか、明確に嫌いである。

 嫌いな理由のひとつは…なんか知らんうちにTwitterでブロックされていたのもきっかけではあるけれど…オンラインで読める著者の文章が中身のないアジテーションにしか思えなかったということだ*1

 それ以上に、2020年3月臨時増刊号の『現代思想』に掲載された千田有紀の文章に対して、2021年11月号の『現代思想』で議論や論証を行うことなく「千田の文章はトランス排除的であり、文章を掲載した『現代思想』は責任をとって声明を出すべきである」と批判する文章を載せた件で、高島に対する印象は最悪のものとなった*2。『現代思想』という学術誌に準じるような雑誌に掲載された議論について、反論を行うのではなく「議論を掲載する」ということ自体を非難することは、言論の自由や学術知に対する抑圧であり、学問に携わる人間としても物書きとしても最低の行為であると考えるからだ*3

 

 通常、わたしは、嫌いな人間の書いた本や明らかにおもしろくなさそうな本を手に取って読むことはない。

 それなのに『布団の中から蜂起せよ』を読んだ理由はというと……現在、わたしが執筆を進めている次著のなかに「自己責任論」や「能力主義」をテーマとした章を含める予定であり、近頃はこれらのトピックについて扱った本を読んで勉強している(このブログでも、最近は「自由意志」とか「責任」に関する本の感想ばかり投稿している)。基本的には自由や責任というトピックについて中立的な観点の本か、責任という概念の必要性を強調するタイプの本をメインに読んでいるのだが、各章のなかで仮想敵となる「自己責任論批判」論者や「能力主義批判」論者に「新自由主義批判」論者の文章もある程度以上は読んでおく必要もあるだろう。

 そして、当初は、『布団の中から蜂起せよ』は高島が普段書いている文章やタイトルや立ち読みした感じなどから「アナーキズムフェミニズムに障害学などの観点から資本主義や新自由主義能力主義を批判する」という内容であるように思っていた。なので昨年の11月にツイッターで「ほしいものリストから買ってください」と頼んでみると、知らない人が買ってくれた*4

 それでも先に読みたい本が他にあったのでしばらく放置していたのだが、2023年度のじんぶん大賞を受賞して話題になっていることから、意を決して読み始めたのである。

 ……なお、『布団の中から蜂起せよ』が1位であったのに対してわたしの『21世紀の道徳』は29位であり、29位の著者が1位の本をわざわざ読んだうえで批判的に評するというのは僻みとか妬みとかが疑われそうでイヤだし自分としてもわりと恥ずかしいんだけれど、前述したように『布団の中から蜂起せよ』を入手したのは昨年の11月なので賞の有無に関わらずいつかは読んで取り上げる予定だったから邪推しないでほしい*5

 

 読んでみて思ったのは、『布団の中から蜂起せよ』には「議論」がほとんど存在しない、ということ。アナーキズムであったりフェミニズムであったりすることが「宣言」されてはいるのだが、それらがどのような思想であり、現代社会の問題についてどのように分析していたりどのような解決策を提示していたりするか、またそれらの分析や解決策に対する異論やそれに対する再反論はどうなっているか……ということは、ほとんど解説されていない(ただし、第二章ではベル・フックスを参照しながら「シスターフッド」という概念について詳細に論じられてはいる)。

 本書で行われているのはむしろアジテーションであり、資本主義であったり新自由主義であったり家父長制であったり権力であったりルッキズムであったりなどが存在していることとそれらが「悪い」ものであるということを定義や説明抜きで前提にしたうえで、「クソ」や「カス」と言った言葉も用いながら力強く否定したり罵倒したりする。なお、アジテーションであるということ自体は高島も否定しておらず、本書の「終わりに」でも明記されている。

 権力や社会を罵倒すると同時に、読者に対しては直接的に優しい言葉が投げかけられていることも本書の特徴だ。たとえば、「序章」では「あなた」と連呼しながら読者を応援する段落があったり、「あなたの気分と体調に合わせて、無理のない範囲で読んでもらえるなら、それが最良である」「私は読者諸氏を信じたいと思う」(p.11-12)とまで書かれている。「終わりに」でも「あなたがいなければ私は文章を書き続けることができませんでした」(p.241)と書かれていたり。こういった文言は、一部の読者の気分を良くさせる効果を持つようだ。Twitterなどにも「勇気付けられた」「応援された」といった感想が投稿されていた。

 そして、本書には高島自身の個人的な経験や悩みなどについて書き連ねたエッセイも多々含まれている。子供時代の思い出や友人との関係から進学に関する葛藤に病気の経験など、トピックも様々。フィクション作品やコンテンツについての批評と共に素直な感想が書かれている箇所もあるし、セルフインタビューなどのユニークな形式で書かれた箇所もある。本書のなかには「共感」というものに対して疑いを挟むくだりもあるが、実際のところ、これらのエッセイ部分の効果とは高島への「共感」を読者に抱かせることであるだろう。……わたし自身、鬱病と進学に関するくだりを読んだ際には多少は彼女に共感した。

 しかし、冷静に考えれば、アナーキズムフェミニズムについて理解することと、高島の諸々の経験について知らされたり葛藤を読まされたりすることがどう繋がるのかは不明だ。……というよりも、アナーキズムフェミニズムについて解説して読者を啓蒙するということは、そもそも本書の目的ではないのだろう。弁護士の高橋雄一郎も「あくまでファン向けの書籍」と指摘していた通り、本書をあえて形容するならファンブックである。

 あらかじめ高島のことを応援していたり、彼女と類似した思想を持っていたりする人は、本書を読むことで彼女に対する親近感をさらに増させるだろう。

 

 

 

 ファンブックであること自体が悪いとは言わない。問題なのは、ファンブックであることと人文書であることは両立するかどうか、というところだ。

 本書ではアナーキズムフェミニズムが幾度も登場はするが、それらがどのような思想であるかの具体的な解説は(ほとんど)ない。また、本書では様々な社会問題や事件が登場はするが、それらに対する客観的で冷静な分析はほとんど存在しない。むしろ、優しい言葉を投げかけて読者の気分を良くしたり、自分語りをして読者の共感を誘う過程で「わたしとあなたは同じ思想を共有していますよ」「わたしとあなたは同じような社会問題について懸念していますよ」とアピールするためのダシとしてイズムや社会問題が持ち出されている、という印象を受ける。

 

 最初に高島の言論を目にしたり『布団の中から蜂起せよ』を立ち読みしたときにわたしがまず思ったのは、「右派/左派や男性向け/女性向けという点で真逆なだけで、御田寺圭の『ただしさに殺されないために』と同じような問題を抱えているな」ということである。

 

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 『ただしさに殺されないために』や御田寺の言論について、わたしは「読者に知識や知見を与えたり読者を啓蒙したりするのではなく、レトリックを駆使して読者をアジテーションすることを目的」としたものであり、「世の中についての新たな知見や社会の問題を解決するための視点、あるいは人生を良くする方法といった生産的で意味のある知恵をもたらすものではない」と指摘した。同じことは、『布団の中から蜂起せよ』や高島の言論にも当てはまる。

 ひとくちに「人文書」といってもそれが指し示す範囲は広く、明確に定義された言葉というわけでもないが、人文書であるからにはなんらかのかたちで人文学や学問の知見や考え方が含まれている必要があるだろう。無論、学問の定義も様々だ。しかし、わたしは、学問とは知恵知識に関わるものであると思う。

『ただしさに殺されないために』について評したときと同じく、ドナルド・ロバートソンの『ローマ皇帝のメンタルトレーニング』から、哲学者とソフィストの違いについて書かれたくだりを引用しよう*6

 

エピクテトスは…(中略)…ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

…感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。

(p.79 - 81)

 

 読者の理性に働きかけながら知恵を与えることを放棄して、強い言葉やカラフルな比喩を含んだレトリックを多用しながら読者の感情を煽ることに熱心になっているという点では、高島の文章は御田寺のそれよりもさらにソフィストであるといえよう。

 ……ただし、『ただしさに殺されないために』とは異なり、『布団の中から蜂起せよ』からは「社会をより良くしたい」「自分と同じような問題意識を持っている読者に手を差し伸べたい」といった類の善意が感じられること、また高島自身の経験や感情について素直に書かれており主観的な文章であることがはっきりと打ち出されているという誠実さが存在するという点は、明記しておきたい。そういう点では遥かにマシではある。

 

 とはいえ、善意や誠実さが含まれているとしても、実際には『布団の中から蜂起せよ』は世の中を良くすることには一切貢献しないだろう。

 御田寺のそれと同じく、高島の言論も、拡がりというものをまったく持たない。限定されたごく狭い層の読者……アナーキズムフェミニズム/障害学などについての知識をすでに持っているかつそれらの発想に親和的で、新自由主義能力主義/権力/ルッキズムといったものを問題視しているタイプの人たち……に向けて、すでに読者たちと共有している「〜は悪い」「〜は問題だ」といった価値観を再肯定するための決め打ちされた議論を行いながら、優しい言葉を投げかけたり共感を抱かせたりすることで感情に訴えはするが、人間や社会や世界についての知識を提供したり理解を深めさせたりするということはない。『布団の中から蜂起せよ』を読む前と後とでなんらかのかたちで考え方や生き方が変わったり社会についての見方が変わったりした読者が存在するとは、とても思えない。

『布団の中から蜂起せよ』が出版されたことで(それに伴い出版社とか本屋とかがトークイベントとかやったりフェアとかやったりしたことで)すでに存在していた「連帯」はさらに強固なものとなったかもしれないが、「連帯」の外にある世界はまったく変わっていない。人の考えを変えて、それを通じて世の中を変えるために必要になるのはアジテーションでもファンブックでもなく、知識と知恵に裏付けされた書物なのである。

 

*1:

note.com

*2:

 

森田成也による抗議文から抜粋。

まずもって、この冒頭の一句と本文とのあいだには何の関係もなく、本文ではただの一度も千田氏の論考にも、千田氏の名前にも触れられていないだけでなく、千田氏が問題にしたトランス問題にさえ触れられていない。にもかかわらず、冒頭でこのような、他の執筆者への攻撃的文言を載せるというのは、前代未聞のことであり、論文執筆の最低限のルールにも、執筆者間の最低限の敬意にも反することである。このような冒頭文の掲載を許した編集部の責任は重大である。

 

学問の自由の危機――日本版キャンセルカルチャーを許してはならない | Female Liberation Jp

*3:言論の自由に関するわたしの見解はこちら。

s-scrap.com

*4:いまは『分配的正義の歴史』がとくにほしいです。

www.amazon.co.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

 

 

「運」にどこまで配慮すべきか?(読書メモ:『自由意志対話:自由・責任・報い』)

 

 

 非両立論-楽観的懐疑論者のグレッグ・カルーゾーと両立論者のダニエル・デネットが論争する本*1。訳者あとがきでも指摘されているように両者の議論はかなり細かく入り組んでおり、決して入門的な本ではない(とはいえ、『そうしないことはありえたか?』を読んだおかげもあってか、だいたいのところは理解することができたと思う)。

 また、原題は Just Deserts: Debating Free Will(「当然の報い:自由意志について議論する」)であり、自由意志についての形而上学的な議論ではなく Desert(「相応しさ」)についての規範的な議論のほうが主になっている。『そうしないことはありえたか?』を読んだときには「自由意志の話よりも責任の話のほうが主になっているじゃん」と面食らったものだが、こちらは原題で「責任(相応しさ)に関する規範的な議論です」ということが明示されていたので心構えができていた。

 とくに議論の対象となるのは刑罰についてである。カルーゾーは「罪を犯した者を懲罰する」という現状の刑罰システムは「人間には自由意志が存在している」という誤った前提に基づいた応報主義に支えられているものであるから撤廃すべきだと主張して、責任や懲罰という発想を捨てた公衆衛生ー隔離モデルという新たな犯罪予防システムを提案する。それに対して、デネットも現状の刑罰システムの問題点は認めながらも、責任や相応しさの概念を捨てた社会は実現・維持できないということを主張しつつ刑罰システムを擁護している。

 

 これも訳者あとがきで触れられていたことだが、カルーゾーの議論のほうがオーソドックスな哲学者っぽく、デネットは進化論などの非哲学的な視点や学者ではない一般人の視点を取り入れたトリッキーな議論を行なっている。おそらく、論理性や首尾一貫性など、通常の哲学の議論で評価されるようなポイントについてはカルーゾーのほうに軍配が上がるだろう。

 たとえば……デネットの議論では「通常の人間は子供時代から経験や学習を通じて、自己コントロール能力を身につけていく」「自己コントロール能力を身につけられていない人は社会の成員に相応しい存在として見なされず自由を制限させられる」「自己コントロール能力があるはずの人が罪を犯した場合には、罰を与えることは正当である」といったことが強調される。わたしたちの人生は環境や運といった外部の物事に影響されるが、自己コントロール能力を身につけることで、運が人生に与える影響を低減させたり、環境に振り回されずに自己決定を行う余地を生じさせることができる。親や学校による子どもの教育や社会化も、本人の人生が外部環境に左右させられっぱなしのものとならないような自己コントロール能力を身に付けさせるためのものであるし、また自分の行為が他人に対して与える影響などを判断したうえで行為を制御することができるような道徳的責任能力を身に付けさせることで「道徳的行為者クラブ」(通常の責任能力を持った人間たちの集団)に加入させるためのものでもある。

 要するに、自分のことをしっかり管理して自分に責任が持てる人間でないと一人前の大人としては認められないし、社会のルールを守る能力がないと見なされた人には社会的な自由や権限は与えられない、ということだ。このような自己コントロール能力を前提にした「責任」概念はどの社会にも見受けられるものであり、逆にどのような社会の道徳も責任概念を抜きにしては維持できないし、責任という概念を取っ払ったルールを人工的に作ってもまともに機能しないだろう、というのがデネットの主張だ。

 この主張の背景には(文化)進化論が存在しており、「(長い学習期間や社会化を経て)自己コントロール能力を身に付けることができる」という個体としての人間の生物的特徴を前提にしたうえで、効果的に集団を維持したり協働を行ったりするための方策として、責任や相応しさといったものを想定する「道徳」システムを人間社会は長い年月を経て発展させてきた(道徳よりは人工的である「法」というシステムも、やはり個体としての人間の生物的特徴を前提にするものである)。

 長い期間残ってきた進化的特徴や文化的システムが必ずしも適応的なものだとは限らないが、デネットは自己コントロール能力も「道徳」システムも充分に適応的なものであると判断したうえで、それを無視したり捨て去ろうとすることは賢明ではない、と主張するわけである。……これには、「うまくいっていないように見えるシステムでも安易に撤廃すべきではない(新しいシステムはさらに悲惨な事態をもたらすおそれがあるから)」というエドマンド・バーク的な保守主義を連想する人もいるだろう*2

 本書におけるカルーゾーや戸田山和久の『哲学入門』は、デネットの立場は自由意志や責任とは「共同幻想」や「フィクション」であることを理解しつつ「"ある"という風に考えたほうが上手くいくから」という理由でそれを信じる(信じさせる)ことを支持する、道具主義的」なものであると指摘している*3。しかし、デネット自身は自分の主張が道具主義的であると見なされるのを嫌うようであり、自分が定義する意味での「自由意志」や「道徳」や「相応しさ」は実在すると主張しているようだ。……これについては本書のなかでもカルーゾーは困惑しているようだし、わたしもイマイチ理解しきれていない。おそらく、「自由意志」や「相応しさ」に関する一定の見解を前提とした「道徳」というシステムは長らく人間社会のなかで機能してきたものであり、他のシステムを採用しても失敗するから、「他にはあり得ずにこれしかなく、また今後も存在し続ける」ということが確信できるという意味で実在すると言っているのだろうか?

 

「運」の影響を軽減するための自己コントロール能力を重視するデネットに対して、カルーゾーは、「自己コントロール能力を身につけられるかどうか自体がそもそも運に影響されているのだ」と指摘する。運には「現在の運」(行為するそのときの運)だけでなく「構成的運」(ある人が何者であり、どのような性格特性と性向を備えているかに関わる運)もあり、デネットは構成的運の要素に無頓着である、とカルーゾーは主張するのだ。

 単なる議論としては、カルーゾーのほうが正しい。「自分がどんな人間になるのか」ということ自体が、子どもの頃からのさまざまな外部要因や生まれつきの特徴などに左右されるものだ。どうしても努力できない人はいるものだが、そのような人の大半はなりたくて努力できない人間になったわけではないだろうし、努力することができる人間に対して「ぼくもああいう風に成長したかった」という羨ましさを感じながら理不尽な気持ちを抱くものだろう。マイケル・サンデルの本の邦題が『実力も運のうち』であったように「環境や運の悪影響を乗り越えて能力を発揮した、ということ自体が幸運なのであり、突き詰めて考えると本人の能力なんて存在しないのでは?」といった疑問は、運と能力というテーマについて考えことがある人なら誰もが思い浮かべたことのある発想である。……もちろん哲学者の多くもこの発想を経由しており、政治哲学に議論においても「相応しさ(ディザート)」の発想が単純に肯定されることはほとんどない*4。ただし、この発想自体はかなり陳腐で凡庸なものであり、哲学者でなければ気付けないような類のものではないことには留意してほしい。わたしですら高校生の頃には「おれは努力できないかもしれないけれどそんなのおれの責任じゃないし」と考えていた。

 デネットは「若い時期の死に瀕するほどの試練を受けるという運」が「以前よりも断固たる性格になる」ことをもたらすなど、「人が成熟と自己コントロールを身につけるに至る道は数限りなく存在する」ということを指摘している(p.196)。しかし、もちろん、これはカルーゾーの主張に対する反論になっていない。試練によって成熟するかしないかということ自体が「運」に左右されるわけだから。カルーゾーは「至るところに行きわたり、すべてを包み込んでしまう運」(p.201)を問題視しているわけである。

 とはいえ、デネットがカルーゾーに対して言いたいのは「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」というセリフだろう。この本のなかでも特に印象的なのが、カルーゾーが「ぼくは紛争中の国家に生まれ落ちた可能性もあった」という「国ガチャ」の問題を提起したのに対して、「あなたはヒトデやキュウリとして生まれてきた可能性もあれば決して生まれてこなかった可能性もあった」という「生物種ガチャ」や「出生ガチャ」の問題を提起して切り返すところだ。ここにおけるデネットの返しは幼稚な混ぜっ返しではなく、真を突いたものである。カルーゾーは「現在の運は考慮するのに、構成的運を考慮しないのは恣意的だ」と主張しているが、彼の主張もまた「どのような環境に生まれたか/どのような人間に生まれたかという運は考慮しても、人間として生まれたこと自体の運は考慮しない」という点で恣意的であるのだ。

 実際のところ、運の問題とは、どのように考えるにしても線引きが必要になるものだ。たとえば、「どの国に生まれ落ちるか」という運にまで過度に配慮すると、一般的な日本人よりかは不運であるが極貧国や紛争中の国家の人々よりかは不運ではない日本人の不運について配慮することはほぼできなくなるだろう。

 構成的運がたしかに存在するとしても、本人の行為や能力や対して本人自身が持つ責任という概念を抜きにした規範やシステムを運営することは実際には困難だ。だからこそ、運の平等主義では、どこかの時点では恣意的になることをわかっていながらも「選択の運」と「自然の運」に区別を設けて線引きを行い、配慮の対象は後者に限定するわけである*5。カルーゾーの主張は大人げのないものだとも言える(「不毛」だとも言いたくなってしまうが、本書を通じてカルーゾーは運の問題をとことん考慮しながら責任概念を抜きにした社会のあり方をがんばって論じているので…彼の議論が成功しているかどうかはともかく…さすがに不毛な議論と言うわけにはいかない)。

 カルーゾーに比べるとデネットの議論は漸進的でプラグマティックなものであるように思える。

 

運を無効化するためにさらなる運に訴えることはできない、という点で僕はあなたに同意すると言ったが、僕はそれに続けて「運を無効化するためには労力と技能が必要だ」とも言った。さて、この世界のほとんどすべての子どもーーひどい苦境にさらされている子どもすら含めてーーが、何らかの働きを行なっていく中で成熟と発達した技能を獲得するに至るというのは、純然たるむき出しの運などではない。どのような社会の親も教師も、子どもたちがそれを獲得できる条件を提供することを社会によって強く動機づけられているものだ。ほとんどすべての子どもは、他の人間たちがいる場所で育てられ、漸進的に責任を認められるようになっていき、最終的に成人の自由を危なげなく認められるまでの成熟の水準に達するに至る点で幸運なのだ、とあなたは言うことができたかもしれない。僕としてはむしろ、何らかの理由でこの通常の発達が生じなかった、子どもたちの中のごく小さい少数派のグループこそがとてつもなく不運なのだ、と言いたい。彼らに明らかに自由意志はなく、僕らは彼らのための多大な許容と配慮を与え、彼らが十分な育成を得られるような限定された環境に彼らが居られるようにすべきだ。そしてまた子どもたちの中には、成熟と自己コントロールについて生涯におよぶ問題を抱えている、それよりも大きな少数派のグループも存在していて、僕らは彼らに対しても何らかの対応を提供する必要がある。幸い、現代社会はこのような子どもの数が最小化することを保証するための真面目なプログラムをーー人生のスタート地点に立つ子どもたちのための、義務教育や、親による虐待を禁ずる法などをーー発展させてきた。僕らはこのような対策をさらに促進するための国家的な取り組みにもっと専心していくべきだ。これは誰もが知っていることだ。あなたの言うとおり、あまりにも多くの子どもが、まさにこのような不運に見舞われているし、じっさい僕らは経済、教育、政治における僕らのポリシーを修正し改革していくための手を打ち、僕らにできる限りでそのような目に遭う子どもの数を減らしていくべきだ。だが、この目標を実現するためには標準的な幸運よりも大きな幸運が必要だ、というのは端的に正しいこととはいえない。

だから、運がすべてを飲み込んでしまうということはない。運がほとんどのものを飲み込んでしまうということすらないし、現在では、例えば旧約聖書の倫理のような古き悪しき時代と比べて、運が飲み込んでしまうものはさらに少なくなっている。この二、三千年で、僕ら人類は多大な進歩を遂げたのだし、その進歩のかなりの部分は前世紀にもらされたものだ。僕らは<構成的運>が支配する領域と<現在の運>が支配する領域の両方を、莫大な範囲にわたり狭めてきた。世界全体を見渡せば、人口のパーセントして貧困は減少していて、これは死と飢餓に瀕した子どもが減っていると言うことだ。この問題やその他の最前線の問題における、励まされる最新のニュースについては、ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS―10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を見てほしい。そして、現在では、この上なく不運な人々を除けば誰もが利用できる、教育や、両親へのガイドや、それにもちろん、世界と世界の中で生きていくための情報が、もっともっと多く存在している。僕らがとてつもなく不運な世界に生きていたと考えてみよう。その世界では、青年に達した人物のほとんどすべてが、あれやこれやのちょっとした不運のせいで、合理的な自己コントロールが不可能になってしまっているんだ。だが、たとえそんな世界にいたとしても、僕は人々を道徳的責任ある存在だと見なすというポリシーを放棄すべきだ、という主張には説得されない。その世界では、責任あると見なされうる人々の数がより少ないだろうが、それでも、その世界を良いものにしていくための最善の希望をかなえる方法は、その少数の人々を励まして、彼らがそれに対して道徳的責任を引き受けるような、道徳的に責任あるプロジェクトに参加してもらう、というやり方になるだろう。ここで言う道徳的責任は「神の御前での」それではない。なぜなら僕らは、目の目の前にニンジンをぶら下げる必要性をすでに脱却しているからだ。ここで言っているのは、まさに人々が望むに値すると思えるような種類の道徳的責任に他ならない。およそものを考えられる人々であれば、責任ある存在と見なされることこそが人生最大の祝福であると理解するはずだ。

 

(p. 202 - 204)

 

 なお、とくに第三部(「論戦三」)で詳細に語られる、刑罰システムに関する本書の議論にはピンとこないところが多かった。

 まず、現実的に考えて、刑罰システムを漸進的に改良するのではなく新たなものへと丸々入れ替えようとするカルーゾーの提案が実現することはまずないだろうから、議論についていくモチベーションが湧かない、というのがある。

 また、カルーゾーは現在の刑罰システムを正当化する発想として「応報主義」を否定し、さらにデネットの主張も応報主義に基づくものだと批判する。これに対してデネットは、自分も応報主義は批判しているし自分の主張は応報主義に基づくものではないと反論する。……この議論は本書の後半まで続くのだが続くのだが、水掛け論を読まされているという感じが強い。世間に浸透している素朴な応報主義をデネットが支持していないのは明らかだが、「相応しさ」が存在するという主張をしている以上は彼の主張にはなんらかの応報主義が含まれれているというカルーゾーの批判はもっともであるし、しかし「応報主義」で意味するものが両者の間でズレ続けているようでもあって、不毛さを感じた(また、「論戦二」においてカルーゾーの提示する「操り師論証」にデネットが反論するくだりも、反論のピントがズレていて不毛な感じが強かった)。

 そして、両者はあくまで社会のあり方に関する原理的で普遍的な議論をしているが、刑罰について論じている際にはアメリカ社会の刑事司法システムの現状が念頭にあるだろうということは、読者としても失念すべきではないだろう。悪名高い「三振法」に象徴されるように現在のアメリカの刑法はかなり苛烈で懲罰的になっているし、警察も監獄も裁判所も問題が噴出していたり運用がグダグダであったりすると批判されている。だからこそ、刑罰システム自体の維持を主張するデネットですら、「現在のアメリカの刑罰システムは大幅に変えられなければならない」と再三に渡って主張しているのだ。……しかし、逆に言えば、カルーゾーは現代の先進国のなかでもとりわけ失敗したシステムを頭に浮かべているからこそ、刑罰システムそのものを解体するしか方策がないと誤って思い込んでいるのかもしれない。

 そもそも、刑罰というトピック自体がわたしにとってさほど関心のあるものではない、という事情もある*6

 道徳的責任の関連するトピックについてわたしが関心を持っているのは非難称賛など、刑罰よりも日常的・個人的な実践についてだ。デネットと同じくわたしも、刑罰は過剰で苛烈なものになりがちだから現状よりも非懲罰的にしたり「甘め」にしたほうがいいだろうと思っている。そして、デネットと同じくわたしも、法律などに基づく明確なシステムではなく社会のなかにおける個人で実践される曖昧なものとしての「道徳」には責任に紐付く非難や称賛などが不可欠であるだろうと思っている。

 私見では、自由意志を否定する論者にとっては、刑罰よりも非難や称賛の問題のほうが遥かに難題だ。私見では、デネットの道徳論は、法律のように人工的で明示的ではなく自然的で曖昧な規範の複雑さや繊細さ、それに関連する人間の感情の根強さや文化を変更することの困難さなどに対する理解が深いという点で、カルーゾーや戸田山などが支持する「自由意志なき道徳」論よりもはるかに優れたものである。だからこそ、「相応しさ(ディザート)」に関する議論が刑罰システムに関する議論に巻き取られていくのには勿体なく思えた。

 

 ところで、デネットもカルーゾーも、「自由意志や責任はあると見なすべきかどうか」「応報主義や相応しさの概念を認めるべきかどうか」を議論する際に、「そう見なす/認める場合や見なさない/認めない場合に人々に生じる影響」を考慮に入れながら論じている箇所が散見される。

 この傾向はデネットのほうが顕著であるし、彼自身は自分の主張に「〜主義」のレッテルを貼られてまとめられるのを嫌いながらも、「規則功利主義に基づく契約説の一緒だーーゆえにそれは徹頭徹尾帰結主義な立場だが(またそれゆえ何ら応報主義的ではないが)」(p.210)と述べている箇所がある。

 一方で、カルーゾーは、応報主義や相応しさの概念を人々が支持したり信じたりすることが苛烈な刑事システムや不運な人に対する冷淡な姿勢をもたらすことを懸念しており、それゆえに応報主義や責任論を批判しているようでもある。以下はその一例だ。

 

<相応しい報い>のシステムは、<あなたが貧困なり監獄なりに行き着いたとすれば、それは「正しい」ーーなぜならあなたはそれに相応しいのだから>という信念を生かし続けます。また、<あなたが人生で成功をおさめたとすれば、その成功に対する責任はあなたに、そしてあなただけにある>という信念についても同様です。こういう思考様式は、非難とはずかしめを与えるシステムに僕たちを閉じ込め、貧困や、貧富の差や、人種差別、性差別、教育の不平等などの問題をもたらしている、システム由来の諸原因への対処を妨害します。僕たちでそれを乗り越え、人生のくじ引きが常に公正ではなく、運は長期的に見て均されるものではなく、僕たちが何者で、何をなすのかは、究極的には僕たちのコントロールを超えた諸要因の結果である、という事実を認めていこう、というのが僕の提案です。

 

(p.59)

 

 カルーゾーの懸念自体は真摯であるし、もっともなものである。また、実際のところ、アメリカでも日本でも「相応しい報い」といった発想とそれに基づく過度な懲罰的傾向や弱者に対する冷淡さなどは世間に定着しているのだから、大多数の市民にはデネットよりもカルーゾーの意見を聞かせて頭を冷やしてもらったほうが、社会的な益は大きいだろう(哲学にかぶれ過ぎていたりネットの議論に毒されていたりするタイプの人にはデネットの議論のほうが薬になると思うが)。

 ……しかし、どうにもカルーゾーの議論の背景には「苛烈な懲罰を招き寄せるから、応報主義は棄却すべきだ」「システムに由来する社会問題などに対処するために、相応しさや責任とは違った考え方が必要になる」という発想が含まれているようだ。

 だとすれば、「うまくいっている道徳システムを維持するために、自由意志や相応しさや責任といった概念を捨てるべきでない」と主張している(ように聞こえてしまう)デネットの議論と同じように、カルーゾーの議論も道具主義との誹りを免れられないかもしれない。

*1:自由意志に関する諸々の用語については前回の記事で多少紹介している。

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*2:

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*3:

 

 

*4:

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*5:

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*6:そうは言いながらも、『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』における刑罰に関する議論…応報主義を「被害者の地位の回復」から正当化する議論…は興味深く読めた。

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自由や責任についてどう「解釈」するか?(読書メモ:『そうしないことはありえたか?:自由論入門』)

 

 

「自由意志は存在するか否か」と言われたら、わたしを含めた多くの人が、「事実」に関する問題だと思うだろう。……つまり、自由意志というものがこの世界には「ある」のか「ない」のか、ということについての話であるような印象を受けるのだ。

 また、「決定論についての議論」と言われた場合にも、最初に聞いたときには「世界が決定されているか否か」に関する議論であるように思うはずだ。つまり、(ビッグバンが起こったり神様が作ったりしたとかの理由で)この世界が生じた瞬間からこの世界が終わるまでの全時間の全場所に起こる全ての物理的な現象とか存在とかは確定されており、わたしたちの意識も脳みそとか電気信号とかの物理的なものの所産に過ぎないからいつどこでなにを考えたり計画したりどんな行為をするかまでもが決定されているのか、それともそうではないか、ということに関する議論である。

 あるいは、わたしたちが体を動かす前に体内に電流が起こっていて意識より先に行動が存在する?みたいな、ベンジャミン・リベットによる実験については(『範馬刃牙』を通じて)知っている人もいるだろう。これも、自由意志は「ある」のか「ない」のかという、事実についての議論であるように思える。

 

 しかし、『そうしないことはありえたか?』を読んでまず思い知らされたのは…本書の副題はあくまで「自由論入門」であり「自由意志論入門」ではない点にも留意は必要であろうけれど…現代の(英語圏の/分析系の)哲学における「自由意志」や「決定論」についての議論で主に論じられているのは、「自由意志があるのかないのか」や「世界は決定付けられているかどうか」というトピックではなく、「世界が決定されているとしたら、わたしたちには自由意志があったり世界には自由が存在したりすると言えるかどうか」といった、事実についてではなく「解釈」に関してである、ということだった。

 ……そういえば、たしかに、哲学ってだいたいは解釈について論じる学問であったような気もする。また、「自由意志は存在するか」や「世界が決定されているかどうか」といった問題について「ある/なし」や「はい/いいえ」で答えを出そうとする議論をしても、論点が壮大かつ曖昧過ぎて面白くならなかったり不毛になったりしそうだ*1

 また、本書では、自由意志や決定論に関連する論点として「責任」というトピックが強調されている(ただし、最終章である第8章では「これまでの自由論では責任と自由をセットにして考えることが前提になっていたこと(「責任ファーストの自由論」)」に批判的な視点を示しながら、「自己表現」や「愛」と自由の関係などが論じられている)。

 素人考えだと、自由意志がなかったり世界が決定付けられていたりすると責任という概念は意味をなさなくなりそうだが、それでも責任は存在すると言うことができるか、それともやっぱり責任は存在すると言うことはできないのか、ということが論じられていた……この記事の読者にニュアンスが伝わるかどうかわからないが、やはり、責任の有無というよりも責任についての解釈に関する議論であったように読めたのである。

 というわけで、本書の内容…というか、本書で紹介される、自由や決定論に関する現代哲学の議論の内容…はやや意外であったし、いくぶんモヤモヤが残ったりもした(Twitterで感想を調べたところ、同じような感じ方をした読者は他にもいたようだ)。

 

 たとえば…「世界が決定されていても、自由(自由意志)は存在するといえる」という議論は両立論と呼ばれる。

「自由」の定義については、「ある行為をした時点でその行為者は別の行為をすることも可能であったなら、行為者は自由であったといえる」と定義する他行為可能性モデルもあれば、「行為の源泉が行為者自身にあったなら、その行為は自由であると言える」と定義する源泉モデルも存在する。両立論者の多くは、厳選モデルのほうを採用する(ただし、他行為可能性モデルを採用しながらも両立論を主張する人もいる)。

 源泉モデルのなかでも代表的なのがハリー・フランクファートによる「二階の意欲説」であり、本書では第2章でこの考え方が説明されている。

 

…人間とカエルには一つの重要な違いがある。それは一言で言えば、自分自身の欲求を反省的に評価する能力の有無である。例として、卒業論文を執筆中の大学生、太郎を想像してみよう。太郎は卒業論文の締め切りに追われているーーあと二週間だ。太郎は、卒業論文は大学での学びの集大成であるから、最善を尽くして良い論文を完成させたいと思っている。一方で、面倒な執筆作業はもう切り上げて、冷蔵庫にある大好物のビールを飲んでしまいたいとも思っている(太郎は下戸なので、飲んでしまったらもう執筆はできない)。

[…中略…]

ここで、太郎の脳内で進行しているプロセスをより厳密に記述するために、少しテクニカルな用語を導入したい。太郎がビールを飲むかどうか思案しているとき、彼の心の中には衝突する二つの欲求がある。それは、「ビールを飲みたい」という欲求と、「良い論文を書きたい」という欲求だ。このような、「何をしたいか」という特定の行為への欲求を一般に、フランクファートに倣って一階の欲求(first-order desire)と呼ぼう。さて、フランクファートによれば、私たちがもつ欲求は一階の欲求だけではない。私たちは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求をもちたい」という、いわば欲求についての欲求をもつのである。このような欲求は一般に、二階の欲求(second-order desire)と呼ばれる。さて、フランクファートが「人間」概念の理解において重要視するのは、ある特別な種類の二階の欲求、すなわち二階の意欲(second-order volition)である。二階の意欲とは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求が行為を実際に動機づける力をもってほしい」(あるいは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求に導かれて行為したい」)という二階の欲求のことを指す。再び太郎の例に立ち戻ろう。太郎の心の中の天使の声が象徴するように、彼は「ビールの誘惑に負けてしまうのではなく、良い論文を書きたいという欲求に導かれて行為したい」という欲求をもっている。太郎がもつこの欲求は、まさに「二階の意欲」の一例である。

 

(p.71 - 72)

 

 この議論を読んでわたしがすぐに思ったのは「でも、世界が決定付けられているんだったら、「どのような二階の意欲や二階の欲求を持つか」ということすらもが、わたしの与り知らぬところでもう決められているんじゃないの?」ということだ。

 哲学者たちも、フランクファートの説について「特定の二階の意欲をもつように操作、ないしプログラムをされた行為者が「不自由」であるように思われることをどのように説明するのか」(p.79)という批判をしてきたらしい。

 本書の第4章では、源泉モデルに基づく両立論に対する批判として、行為者がさまざまな方法で操作される事例…マッドサイエンティストが脳内にチップを埋め込んで遠隔操作したり、生まれる前から介入したり、後天的に洗脳したり…を示したうえで、「このように操作されている場合には行為者には責任がないと判断するなら、世界が決定付けられていた場合にも行為者には責任がないと判断しますよね?」と同意を迫る、操作論証が紹介されている。

 

(1)操作ケースにおいて、行為者Sは自らのすることに責任を負わない。

(2)操作ケースにおける行為者Sは、責任に関連する点において、(操作を含まない)通常の決定論的なケース(「決定論ケース」と呼ぼう)における後者と違いがない。

(3)したがって、決定論ケースにおいても行為者は自らのすることに責任を負わない。

 

(p.145)

 

そして、フランクファートやそのほかの源泉-両立論者は、以下のようにして操作論証に反論している。

 

一つは、操作の事例と通常の決定論的事例の間に責任に関する何らかの違いを指摘するーー前提(2)を否定するーーという選択肢、もう一つは、そもそも操作の事例でも行為者に責任はありうるのだ、と主張するーーーー前提(1)を否定するーーという選択肢の二択だ。後者の路線からの応答は、操作ケースのプラムに責任があるという、一見して反直感的な主張をすることになるため、「強硬な応答」(Hard-line reply)と呼ばれる。対して、前者の路線からの応答は「穏健な応答」(Soft-line reply)と呼ばれる。

 

(p.153)

 

 

 これらの引用部分に示されているとおり、「二階の意欲」説にせよ「操作論証」にせよ、それは責任に関する議論であるようだ。

 しかし、わたしが「世界が決定付けられているんだったら、どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」と思ったときに抱いた不安は、責任に関するものではない。

 本書のなかでも書かれている通り、フランクファートの議論には「人間観」が含まれている。そして、「自分自身の欲求を反省的に評価する能力」はストア哲学的な理性に近いものであり、わたしが前から抱いた人間観とも合致していて、賛同する。……だからこそ、「どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」ということに不安を抱いてしまうわけだ。

 そして、この不安は、「行為者の責任を問うことができるか」という議論をされても、まったく解決しない。わたしが気にかけているのは「(決定論が真であったときに)わたしは自由であるか」ということであり、わたしや他人に責任があるかどうかではないからだ。

 もちろん、これは「ないものねだり」である。フランクファートやその他の両立論者たちにせよ非両立論者たちにせよ、彼らが論じているのはあくまで「決定付けられた世界でも責任を問うことはできるか否か」というポイントについてであり、この議論における「自由」は、責任と関連する限りにおいて必要性や意味を持つのであろう。

 また、本書の第8章では、「もし私たちに自由がないとしたら、私たちの人生は無意味なものとなってしまうのだろうか。」(p.254)というトピックについても記されており、ここの議論はわたしが抱いた不安に関連するものであるように思われる。……しかし、(紙幅の問題から)2ページしか議論されていなかったので、ぜんぜん充分じゃなかった。

 ここらへんが、わたしがモヤモヤを抱いた理由である。

 

 とはいえ、自由や責任に関する難しくてチマチマした海外の学者たちの議論をかなりわかりやすくしながら、飽きずに読み進められる程度の厳密さやテンポ感でまとめてくれているという点で、なかなか参考になる良書だと思う。これまでに聞いたことのない議論とか哲学者たちもいっぱい出てきたのがよかった。

 とくに責任論については、日本の思想や出版業界は(<責任>責任という虚構』といった悪書が幅を利かせているのも災いして)「自己責任論批判」「ネオリベ批判」ばっかりになっていてマトモなものがないから、社会問題や政治についてイデオロギー的に援用することが難しい地道で堅実な議論を紹介してくれる本書には、読者の頭を冷やしてくれる効果もあるだろう。※打ち消し線の部分の誤記は2023/3/15に修正。

 

 残りの感想は箇条書き。

 

● 第5章では、「そもそも世界は決定付けられていないから、自由は存在する」という「非決定論(-非両立論)」の立場であるリバタリアニズムの主張が紹介される。この主張は、量子力学の見解(量子の動きはランダムで法則がない)や脳神経科学の見解(人間の決断には「意志の努力」が存在する)など、現代科学の知見に裏打ちされているのが強みであるようだ。

 ……しかし、やはり、リバタリアニズムでも決定論に対するわたしの不安は消えない。世界は(おそらく)1つしか存在せず時間の軸というのも(たぶん)1つしか存在しないはずだから、過去・現在・未来において無数の量子が行う法則のないランダムな動きもわたしたちが決断を下す際に脳のなかで発生する諸々のプロセスも、そのすべてが(ビッグバンとか神さまとかによって)決定されている、ということにはならないのだろうか?

 

● 第6章では「自由(や責任)は存在しない」という「懐疑論」を前提にしたうえで、「責任は存在しないと本気で信じるなら法律によって人を罰したりすることもできなくなるから、懐疑論は実際に採用することのできない机上の空論だ」という批判に応答する「楽観的懐疑論が紹介される。

 楽観的懐疑論者は、道徳的に悪いことをした人を「非難」したり道徳的に良いことをした人を「称賛」したりするといった実践は無意味なものとして棄却するが(道徳的に優れた性格になったり道徳的に優れた在り方ができること自体が自由ではない=運に左右されることであるため)、「二階の意欲」説に基づく自由を認めながら「良い」「悪い」などの評価は行うらしい。……この時点で、いかにもわたしが嫌いなタイプの人間が好みそうな議論で気に食わなかった。

 また、楽観的懐疑論者は、刑罰に関しては応報主義を否定するが、帰結主義や「隔離モデル」によって犯罪者に対する処罰や社会からの隔離を正当化する議論を行う。いちおうは功利主義者でありベンサムの刑罰論について聞き齧っている身としては、こちらの議論はわりと許容することができた。とはいえ、本書でも指摘されている通り、ガチで実践するとなると色々と大変で実現困難なのだろう。

 

 そもそも、気持ちの問題として、非両立論を支持して自由(意志)や責任に非難や称賛という概念を否定しながらも「よい社会」について論じようとする試みに、わたしはまったくノることができない。

 わたしが「道徳的に良い人間になるか悪い人間になるかは本人には選べないんだから、後者を非難するのは気の毒だからやめておいたほうがいい」という判断をしたり「現在の刑罰システムは自由や責任についての誤った考えに基づく応報主義に影響されているから、帰結主義や隔離モデルに基づいて改善すべきである」という判断をしたとして、それらの判断自体が、「いい」や「べき」という発想が混入した規範的なものである。

 自由が存在するとすれば、わたしが抱いているわたしの規範的な考えは実際のわたしの考えに基づくものであり(源泉モデル)、わたしは気の毒な人のことを非難したり誤った発想に基づく刑罰システムを放置するという「悪いこと」をするのも可能であるのにその逆の「良いこと」をしようとしているわけだから(他行為可能性モデル)、わたしは自分の規範的な判断にコミットするモチベーションを抱ける。

 しかし、自由意志が存在しないのだとすれば、わたしがなんらかの規範的な判断をすること自体が「たまたま」である。サイコロの出目次第ではわたしは弱者や運の悪い人に対して冷淡な考えを抱いたままだったかもしれないし、いまは違っても明日になったらなにかをきっかけにしてまた冷淡な考えを抱くようになるかもしれない。そういうことを考えると、自分の規範的な判断について本気になる、ということ自体が馬鹿らしく思えてくる。

 これは、(本書で紹介されているような哲学的に洗練されたものではなく、社会学俗流心理学や社会運動論に基づいているタイプの)「自己責任論批判」を提唱している人たちに対してわたしが常々に抱いている疑問でもある。自己責任論批判者は、運悪く弱者になったりロクでもない人間になったりしてしまった気の毒な人たちについては彼らの責任を問わずに同情や慈悲を向けるが、弱者やロクでもない人に対して冷淡である人に対しては怒り非難を向ける……というか、この怒りこそが「自己責任論批判」のモチベーションであるだろう。

 しかし、責任(や自由)を本気で否定するなら、弱者に同情するか弱者に対して冷淡になるかだって本人に左右できるものではなくなり、それに怒りを抱くのは筋違いということになるはずだ。

 

● 第7章では、ピーター・ストローソンという哲学者の議論が紹介される。

 

ストローソンは「責任」という概念を解明するうえで、私たちが日常的な実践の中で他者に向ける特別な種類の感情を考察の出発点とする。その種の感情を総称してストローソンは「反応的態度」と呼ぶ(reactive attitude)と呼ぶ。

[…中略…]

[パーティーで友人に自分の秘密を他の人たちにバラされたとき]…あなたは友人に対して「怒り」を覚えるだろうが、それはきわめて自然なことである。たしかに、その怒りがどのような形で行動に表れるかは、人それぞれだろうーーその場で友人に対して抗議したり、友人を非難したりするかもしれないし、怒りをぐっとこらえて平静を装うかもしれない。とはいえ、友人に対するあなたの怒りは、いわば「人間」として当然ともいうべき感情であると言えるだろう。

だが、なぜあなたは、友人に対して怒りを向けるのだろうか。知られたくない秘密をバラされたという事実を悲しんだり落胆したりするだけでは、なぜ不十分に思われるのだろうか。それは、あなたが友人の行動に、自分に対する悪意、あるいは敬意の欠如を見て取ったからだ。ストローソンがいみじくも指摘するように、「私たちにとって、他の人間がこちらに向ける態度や意図は非常に大きな重要性をもつ」[…]。だからこそ、他者の言動が自分に対する悪意や敬意の欠如を示していると見て取ったとき、私たちは相手に対して怒りを覚える、あるいはそうすることが適切だと考えるのである。

[…中略…]

善意や悪意、敬意や敬意の欠如、関心や無関心といった、相手をひとりの「人格」としてどのような仕方で扱っているかに関する態度、ないしその態度の源泉をストローソンに倣って「意志の質」(quality of will)と呼ぶならば、反応的態度を一般に次のように特徴づけることができる。

 

反応的態度:反応的態度とは、相手の意思の質に反応して、その相手に対して向ける感情のことである。

 

(p.222 - 224)

 

 わたしたちはハトにフンをかけられたときにもムカッとしたりイラッとしたりするかもしれないが、その感情は「怒り」ではなく「苛立ち」と表現したほうがよい。わたしたちはハトに怒りを向けて事態の任を問うわけではなく、事態の原因であるハトに対して苛立ちを向けているに過ぎない。わたしたちが自然現象や動物や幼児に対して向ける態度は、反応的態度ではない。

 また、相手が大人であったとしても、反応的態度の表出を差し控える場合がある。だれかに危害を与えられたとき、相手には悪意がなかったこと(電車でよろけた人に足を踏まれるとか)は「弁解」(excuse)として、相手に責任能力がなかったこと(極度のストレスに晒されてまともな判断ができなくなっているとか)は「免責」(exemption)として、怒りを抑える要因になる。動物や幼児および悪意のない相手や責任能力がない相手に対しては、わたしたちは責任を問うのではなく、自然現象に対してするのと同様に処置を行う…彼らのもたらす危害を減らすための対応を淡々と実行するのだ。ストローソンはこれを「客体的態度」(objective attitude)と呼ぶ。

 

 そして、反応的態度は、以下のようなかたちで、自由意志や決定論に関する議論と関わってくる。

 

非両立論者は、もし決定論が真ならば、私たちは決して自身の行為に責任を負いえないのだ、と考える。このことは、私たちには普遍的に免責要因が成立していることを意味する。よって、反応的態度の表出に代表される私たちの実践は決して正当化されえない。

[…中略…]

ストローソンは先述の非両立論者の懸念に対し、決定論の真理は責任の脅威とはならないのだ、と応える。なぜ脅威にならないのか。その最も大きな理由は、仮に私たちが決定論の真理を受け入れたところで、反応的態度を伴う道徳的な実践を完全に放棄してしまうことなど、心理学的に不可能だからだ。もちろん、私たちが他者に対してときに客体的態度をとることはある。前節で触れた免責要因が成立する場合がその一例だ。ここでのストローソンの主張は、私たちがすべての人間に対して常に客体的態度を向けることなどそもそもできない、ということである。反応的態度を全面的に棄却するという選択はおよそ人間がとりうる現実的な選択肢ではないのだから、決定論の心理によって責任が脅かされるのではないかと悩む必要などない、というのがストローソンの基本主張である。

しかし、なぜ私たちが完全に反応的態度を捨て去ってしまうことなどできないとストローソンは考えるのか。それは、人間とはそもそも、他者に対して反応的態度を向けけざるを得ない、そういう生き物だからである。少し堅苦しく述べ直せば、反応的態度の表出でもって他者と関わるという責任実践は、人間の本性に根ざした、いわば自然的事実であり、人間が人間であるための本質を構成するものなのである。

 

(p.230 - 232)

 

 しかしながら、ストローソンの議論はやや「健常者中心主義」であるように思える。ネットやSNSなどで「アスペ」や「発達障害」を自称しているタイプの人たちの発言や文章を見ていると……おもしろおかしくするためにオーバーな表現が使われている場合もあれば、そもそも当事者ではない偽称の人たちも混ざっているのだろうが……彼らは身近な家族や友人を含めた他人に対しても「客体的態度」をとっている、と表現できるようなことが多々ある。

 また、「怒られが発生した」というネットミームは、怒っている相手のことを人格として扱わず自然現象であるかのように扱っている点で客体的態度そのものであるが、このネットミームは多くの人に共感されているようだ。

 本書でも、反応的態度を捨て去ることはストア派や仏教では理想とされており、実際にもある程度以上は実践されているのだから不可能ではないかもしれない、といった指摘がされている。

 ……とはいえ、おそらく、大半の凡人には反応的態度を捨て去ることはできないだろう。しかし、世の中には、自分にとって都合のいい場合だけ客体的態度をとるという人や、「自分はクールで論理的な人間だから反応的態度を捨て去っている」という誤った自己イメージを抱いて生きている人が数多くいそうだ。これは、他人や社会のことを舐め腐った、ロクでもない態度である。そして、ストローソンの言う通り非両立論が「すべての反応的態度の放棄」をもたらすというのは起こり得ないかもしれないが、ロクでもない「自分にとって都合のいい範囲内での反応的態度の放棄」を助長することにはなるかもしれない。

 

 なお、この章では、友好や愛などを含むポジティブな人間関係のためには反応的態度が不可欠であるという主張(スーザン・ウルフ)と、客観的態度のみの世界でも友好や愛などは成立し得るという主張(タムラー・ソマーズ)についても、ちらりと紹介される。わたしとしては前者の主張を支持したいところだが、著者によると後者の主張も説得的なものであるようだ。

 

*1:とはいえ、本書にリベットの名前や実験がひとつも出てこないのはやや意外でもあった。わたしが読んだなかでは『心にとって時間とは何か』などがあるが、自由意志に関する哲学的議論においてリベットが取り上げられること自体は普通であるようだ。