道徳的動物日記

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読書メモ:『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』&『はじめての動物倫理学』

 

 

 

 

 

 どちらも日本人の哲学者によって書かれた動物倫理学の入門書であり、同時期に出版された*1。基本的な構成はどちらも似ていて、動物の権利論をはじめとする「理論」が解説された後で、畜産・動物実験・コンパニオンアニマル・野生動物などの各場面における現状の問題の解説と「これからどうすべきか」という規範的な提言がなされている。

 終章では、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではキリスト教と仏教の考え方、『はじめての動物倫理学』ではマルクス主義の考え方に基づいて動物倫理のトピックが論じられており、ここのあたりに著者らのオリジナリティがあらわれていると言えるだろう。

 また、『はじめての動物倫理学』では功利主義・権利論・徳倫理という規範倫理学の御三家の考え方が紹介されてそれぞれの具体的な問題について「功利主義ならこうなるけど権利論ならこうなる」という風に解説がなされるのに対して、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ではどのトピックについても原則的に著者が提言する「基本的動物権」の議論に基づいて論じられており他の理論についてはほぼほぼ言及されない。とはいえ、動物倫理学においてはどんな理論を使ったところで「肉食は止めるべきだ」「動物実験も(ほとんどは)止めるべきだ」といった結論になるわけであり、たとえば功利主義なら「(ほとんどは)」という留保が付くところが権利論では付かなくなる、というくらいの違いしかないとはいえる。むしろ、ひとつの考え方に限定して様々な問題を論じるぶん、「動物倫理学では物事についてこう考える」という考え方や思考のコアみたいなものは『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のほうが伝わってくる。それに比べると『はじめての動物倫理学』は新書本という体裁もあってか読み味が薄い部分があることは否めない。

 また、日本における畜産や動物実験や競馬などの実態が数値的な情報をふくめて詳細に書かれているのも『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』のいいところだ。

 

 ……とはいえ、功利主義にシンパシーを感じているわたしからすると、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』で提示されているような権利論にはやはりいろいろと苦しい部分があるなと思わざるを得ない。まとめると「人間は道徳の存在を理解できて自分の行動を律せられる倫理的存在なので、動物の権利を尊重する義務はあるが、動物は倫理的存在ではないので義務を負わない」ということになるはずだが、この考え方に対して動物倫理学に馴染みのない人が「傲慢だ」と非難したり「相手が義務を負わないのにこちらだけ一方的に義務を負うのはおかしい」と反発したりする姿は容易に想像できる*2。また、いくつかのレビューや感想を見たところ、第四章における野生動物に関する議論についてはわたしだけでなく他の読者たちも「説得力に乏しい」と感じているようであり、とくにこの問題については権利論ではスジが悪いことを改めて認識させられた*3

 

 

*1:この二冊を取り上げている記事の例。

book.asahi.com

*2:

……すべての動物に、生命権と身体の安全保障権と行動の自由権という基本的動物権があります。しかし、人間だけが基本的動物権を尊重する義務を負います。どうしてでしょうか。私はこれまで、人間と他の動物の共通性を強調してきました。人間は理性的動物です。この動物性を人間と他の動物は共有しています。ところが動物の中で人間だけが理性的です。いや、これはちょっと単純に言いすぎたかもしれません。人間以外の動物の中にも、記憶能力や計算能力、推論能力や言語能力がありそうです。道徳的能力だって、あるかもしれません。しかしながら、私たち人間の自己理解では、人間だけが自分自身を反省し、道徳的観点から自由に自らの行動を律することができます。こういう高度な道徳的理性は人間に固有の特徴です。これが人間の素晴らしい能力です。この能力があるから、人間は理性を発達・開花させ、自分のことだけでなく他の動物のことも考えて道徳的に振る舞うべきなのです。

 (p.20)

*3:家畜や動物実験の問題に比べて加害-被害の関係や責任の所在がはっきりしなくて複雑な野生動物の問題に関しては、功利主義のようにシンプルな原則か、あるいは政治哲学的な複雑で曖昧な議論か、どちらかで論じたほうがよいだろう。

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内田樹の「被害者の呪い」論

blog.tatsuru.com

 

 たまたまの偶然で、2008年に内田樹が書いたブログ記事が目に入ってきた*1

 この記事は、直接的には、当時開催されていた北京オリンピックの「聖火リレーをめぐる騒動」について言及したものである*2。また、文中には「統合失調症」についての記載があるが、当時に付いたはてなブックマークコメントでも指摘されている通り、この部分はかなり問題含みで不適当なものだ。

 それでも、このブログ記事の後半で展開されている議論は、なかなか鋭い。当時よりも現在の社会に対してなおさら当てはまるような、含蓄のある指摘だ。だから改めて取り上げてみてもバチはあたらないだろう。

 

  私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

 

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。

(……中略……)

 「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

(……中略……)

 「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

 

 ごく簡単にまとめれば、自分が「被害者」であると主張することは権利要求や政治的交渉の場では有利な戦術であるが、本人の意識に「呪い」をかけて精神的健康や生活の幸福を蝕む可能性がある、という指摘である。

 

 わたしがこれまでに書いてきた文章のなかでも、「被害者意識」の問題については何度か取り扱ってきた。そのなかでも上述の内田の指摘にもっとも近い議論をおこなっているのは、下記の記事であるだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この記事のなかでも紹介している心理学者のジョナサン・ハイトは「被害者意識」の問題について特にこだわって議論している人物だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

gendai.ismedia.jp

 

 ついでに、(現代)ストア哲学者も被害者意識の問題について論じている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 「被害者意識」というトピックについてわたしがどんなことを考えているかは上述の各記事に書いてきたので、ここではいちいち繰り返さない。

 

 ところで、内田の指摘は、「被害者意識」に限らず、「コンプレックス」や「怒り」など、「負の感情」全般にひろく当てはまるかもしれない。結局のところ、負の感情とは「負」なのであり、他人を批判・非難したり自分の要求を通したりしたいという目的のためであっても、負の感情を言語化して形を与えることはそれを強化することにつながって、まわりまわって自分に対する「呪い」として機能する、ということだ。

 そして、ある種のSNS界隈や社会運動界隈、もっと広く言えば「文芸」や「人文」の世界一般には、怒りやコンプレックスをはじめとする「負の感情」に価値を見出したがる風潮がある。世間や一般人はポジティブな「正の感情」のほうを大事にして称えて「負の感情」を抑圧しようとするからこそ、その逆をいってネガティブなものに寄り添うことが反順応的で反権威的で反マジョリティ的で反資本主義的でエラいことである、みたいな感じのマインドに立脚しているであろう主張はネット上でも雑誌や書籍でもごまんと見かける。

 とくに今年に入ってから、この問題についてわたしは色々と考え続けている。基本的には、「負の感情」やあるいは「弱さ」「欠落」に寄り添いましょう、的な主張に対してわたしは気休め以上の価値を見出せなくなっている。「気休めとしての価値があるならそれでいいじゃないか」とも言えるかもしれないが、とはいえ、負の感情を増幅させたり前を向いて建設的・積極的になれば解決できるはずの問題を解決から遠ざけたりするなどの「副作用」も生じかねない。それってどうなのと思うし、わたしの目からすると、「負の感情」や「弱さ」を肯定するタイプの議論を行っている論客の多くは自身の議論が副作用を引き起こしている可能性についてあまりに無頓着だ。

*1:この記事は本にも収録されているようだ。

 

 

*2:

おそらく、「騒動」とは下記のような事件のことを指している。

www.asahi.com

最近読んだ本シリーズ:『サンデルの政治哲学』とか

 

●『サンデルの政治哲学』&『公共哲学:政治における道徳を考える』

 

 

 

 

 

 このブログでも現代ビジネスでも『実力も運のうち』について紹介したし、『これからの正義の話をしよう』についても以前に紹介したが、改めてサンデル先生のこともちょっとお勉強しなおしてみた。

『サンデルの政治哲学』を読んでみて思ったのが、『実力も運のうち』の実力主義批判は世間ウケを狙って当たり障りなく書かれたものではなく、以前からのサンデル先生の思想と一貫しているということ。‥‥とはいえ、『実力も運のうち』のなかでも核心となる「適価」に関する議論は、以前とは真逆になっているようにも思える。『サンデルの政治哲学』によるとサンデル先生はロールズが「適価」の概念を否定したことを批判していたのだが、『実力も運のうち』ではサンデル先生も「適価」の概念を否定しているように読めるからだ。

『サンデルの政治哲学』のなかでは『実力も運のうち』ではあまり触れられなかった共和主義的理念に関する議論もなされているのだが、これは解説を読んでいても理想論ですよねえという感じ。そして、読めば読むほど、サンデルよりもロールズのほうが人間というものに関する洞察や理解が深かったのではないかと思わされる(「ケアの倫理」に関する本を読めば読むほどローレンス・コールバーグに対する興味が増すのと同じような現象だ)。いい加減に『正義論」も読んでみていたけど、なにしろ物理的に重たいのでためらっちゃうんだよね。でもそろそろまじで手にとってみよう。

 なお『公共哲学』のほうは冒頭を除けば数ページ程度の評論の寄せ集めという感じで、つまらない。読まなくていいと思う。

 

 ●『政治はなぜ嫌われるのか:民主主義の取り戻し方』

 

 

 

 大学院生のころに読んで感心して、そして感心したくせに本の題名を忘れて読み返すことができていなかったのだが、訳者の吉田徹さんの名前でぐぐったりしているうちにふと発見して、ようやく読み返すことができた。

 しかし、改めて読み返してみると思いっきり社会学っぽい感じの内容で、つまらない。「公共選択理論が流行って政治家の行動について合理性のみの観点に基づいて説明されるようになって、政治から理念が失われて、有権者は政治や民主主義に対して"白け"を感じて忌避するようになった」といった趣旨の議論がなされるのだが、「そんなことあるかあ?」って思っちゃう。理論とか学問とかの影響力を過大評価しすぎでしょ。

 

●『正義とは何か:現代政治哲学の6つの視点』

 

 

 正義論についての包括的な概説が新書の範疇でまとまっており、文章は比較的読みやすく、各トピックのフックとしてジェイン・オースティンやクリストファー・ナイトなど政治学者以外の人物についてのエピソードが挟まるところも工夫が効いていて、なかなか良いと思う。わたしはさすがにそれなりには勉強してきているのであまり新しい知見は得られなかったが、これから勉強を始める学部生とかにとってはかなり優れた本であるだろう。実はわたしは新書ってもの自体をそんなに評価していないのだが(作られ方や構造の問題のためか、本としての面白さに致命的に欠けているものばっかりだ)、先日に紹介した『リベラリズムとは何か』といい、学問的知識への入門や概説としてのクオリティがアップして多様性も増していることは認めざるを得ない。そういう点ではいまの若い子が羨ましいとも思う。

 ところでまたロールズの話に戻ると、社会や政治や経済の仕組みのあり方を考える議論であっても、やはり「人間とはなにか」ということに関しての細かい洞察がキモであり、面白さもそこにあると思う。仕方がないことではあるが、『正義とは何か』ではそういった細かい部分までは解説されていない。

 

 

社会的制裁のなにがよくないのか

anond.hatelabo.jp

 

 普段ははてな匿名ダイアリーの投稿にはあまり反応しないのだけれど、最近の事例についてはいろいろと思うところがあるので、昨日にTwitterに下記のような投稿をした。

 

 

 

 

 

 言いたいことは上記のツイートにだいたい書いているが、ついでだしもう少し書いておこう。

 

 

allreviews.jp

 

note.com

 

 

ネットリンチ」について書かれた本の原題は「So You've Been Publicly Shamed」で、Public-shaming とは「公の場での吊し上げ」という意味。個人的にはネットリンチという単語は字面がキツくて意味が限定的になり過ぎてしまうので、public-shamingやcall-outにあたる日本語があればよいと思う。

 

gendai.ismedia.jp

 

 集団的な吊し上げや非難に含まれる問題点のひとつは、その非難の内容が間違っていたり吊し上げが行き過ぎていたりする、ということが後から発覚しても、そのことに関する責任をだれも取らないということだ。

 たとえば、スティーブン・ピンカーアメリ言語学会の「フェロー」の地位から除名することを求めるオープンレターが提出されたとき、日本の言語学者社会学者や哲学者などのなかにもオープンレターに対する賛意を表明した人がいたが、わたしや他の数人の人たちが「オープンレターのなかで書かれているピンカーに対する批判はいずれも不当である」ということを指摘した後にも、賛意を示していた人がそのことについてコメントをした様子は見受けられない。つまり「ピンカーは悪くてムカつく奴だから、彼を批判するオープンレターには正しいことが書かれているっしょ」という程度の安易な気持ちで、一個人を差別主義者と糾弾して公的立場を引き下げることを求める文面に賛同していたわけである。……そういうことをする人たちは(わたしとかほかのピンカー擁護派の人たちに比べて)「リベラル」や「人権派」の立場にいて普段から反差別や社会的公正に関するメッセージを積極的に発しているタイプの人たちであるという事実は、やはりグロテスクであるように思える。

 

・「いじめ」にもいくつかのタイプがあり、立場的・身体的・知的な弱者に露骨な暴力を振るったり屈辱を与えたりするタイプの「いじめ」もあれば、集団内では相対的に弱者でない人を吊し上げたり仲間外れにしたりするタイプの「いじめ」もある。

 前者のほうが被害者が受けるダメージが深刻であり、弱者を標的にしているという点で悪質さもあるかもしれない。しかし、後者のタイプの「いじめ」であっても、被害者が深刻なストレスを受けて心に傷を負うことには変わりない。

 今回の件でも、いくつかの有名人が「ネットリンチの行き過ぎはよくない」という趣旨の発言をして、「お前はいじめっ子の味方をするのか」「自分にも後ろ暗いことがあるから擁護しているんだろう」と非難されている。しかし、有名人というものは社会的立場や能力が高かったり創造的で個性的な人格をしたりしているものであり、だからこそ、先の分類における後者のタイプの「いじめ」を受けた経験があるものだ*1。全国のいじめ被害経験者は過去に行われた「いじめ」の被害者に同情したから小山田を非難しているのと同じように、一部の有名人は現在に行われている「いじめ」の被害者に同情したから彼を擁護しているのであろう。

 

・繰り返しになるが、社会的制裁という現象においては責任を取る人がだれもいないので、この現象は必然的に「行き過ぎ」になる。「どの程度までの制裁を与えることが妥当であるか」という調節を行う権限を持つ人もいないし、「どのような対応がなされたら制裁を収めるか」という「ゴール」を定義する権限を持つ人もいない。とくにネット社会では、ある個人に対する制裁がいちど始まったら、みんなが飽きて忘れるまではずっと続くことになる。

 厄介なのは、たとえば近年では性的加害行為に対する#MeToo運動がそうであったように、社会的制裁の現象によってその後の社会の道徳基準が引き上げられて、これまで見過ごされてきた行為が懲罰の対象になり、以降はその行為の被害者が減るという「望ましい事態」がもたらされる可能性もある、ということだ*2。実際のところ、これまでの歴史においても、社会の道徳的進歩というものは多かれ少なかれ社会的制裁によって実現してきたのかもしれないし、それがなければわたしたちは現在よりもずっとひどい社会に住んでいたのかもしれない。

 とはいえ、どんな社会的制裁も行き過ぎになると考えれば、対象となる人は不当に過多な制裁を受けてきた……つまり、ある種の「被害」を受けてきた、ということになる。このことには不当さや不正義が含まれているはずだし、すくなくとも気の毒なことではある。

 このようなことを考えると、よっぽどのことがない限りは、有名人であろうと犯罪者であろうと、自分と関係のない個人に対して怒りを示したり懲罰を求めたりする言動をおこなうということ自体をする気があまりなくなる*3。特にネットやSNSには、個人のものとして投稿した意見であっても、同じような意見を投稿している人が他に何百人や何万人もいたりすると、意見の集合体が「壁」となって意見の対象者にとっては暴力として機能する、という側面があるからだ。

 また、実際のところ、大半の人はどんな問題についても自分と関わりなければいちいち怒らないし、ましてやネットにその問題についての意見を投稿することもない。Twitterにせよヤフコメにせよはてなにせよ、ついつい忘れてしまうが、そんなところに意見を書く人は日本人のなかでもごくわずかだ。そのような人たちのことを「民主主義の社会の一員として社会に対して抱くべき関心が欠けている」と非難することはできるかもしれない。……しかし、自分と関わりがなく自分が責任を取れるわけでもない問題について意見を表明しないということも、それはそれで美徳であるだろう。

 

・ほかにも色々とモヤモヤすることはあるのだけれど、まあ以前に書いた下記の記事のなかでも言いたいことはいっている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上記の記事でも書いたが、ネット上での非難というものは「ネタ」化や「大喜利」化しやすいということは、特にグロテスクだ。

 小山田の件は深刻な「いじめ」が関わっているという点でネタや大喜利にしている人はほとんどいないようであるが、もう少し気軽に叩きやすい対象……たとえば、『100日間生きたワニ』の映画やIOCのバッハ会長はネタや大喜利の対象とされているようである*4。たとえば、「バッハ会長との王様ゲームで最終的にバッハ会長が日本刀で斬られてしまう感じの命令を出したい」という趣旨のツイートを見かけた。他愛のないネタであると言うこともできるかもしれないし、この日本語のツイートをバッハ会長本人が見かけて傷つくという事態もまず起こらないだろう。それでも、ある実在の個人の死を連想させる文言を面白おかしいものとして投稿するというのは、考えてみればひどい話であるのだ。

 

*1:「壁と卵」発言でも有名な村上春樹が「いじめ」について書いた作品といえば「沈黙」であるが、そこで描かれている「いじめ」も後者のタイプのものであることは示唆的だ。

murakami-haruki-times.com

theeigadiary.hatenablog.com

*2:とはいえ、今回の件で、全国の学校からいじめ被害者が減るかどうかは疑わしい。(この件に関して専門的な知識があるわけではないので印象論になってしまうが、)学校でいじめが起こるのは、いじめが見過ごされていたり社会的に許容されていたりするからというよりも、学校という閉鎖空間やシステムに成長期や思春期という生徒たちの年齢などのほうにずっと強く原因があるように思える。

*3:もしかして忘れているだけで以前には自分でもそういう言動をしていた可能性は高いので、あまり強くは言えないけれど。

*4:

www.itmedia.co.jp

さいきん読んだ本シリーズ:『手の倫理』とか

 

●『手の倫理』

 

 

 著者はたぶん自分の主張をなんらかの「主義」や「理論」に還元して解釈されること自体を嫌がるだろうけれど、あえてそうしてしまうと、「ケアの倫理」や「状況主義」に近いものだろう。ついでに「身体性」という最近流行りのトピックも強調されるし、当然のごとく後半は「障害学」っぽくなっていく。その結果として、近頃の日本の思想界隈や人文界隈ではとくに評価されやすく、文句をつけたり批判したりすると怒られてしまうような、どこかで見たことあるタイプの無難で上品な議論が展開されることになる。

 ……この書きぶりからわかるように、わたし的には読んでいてかなりつまらなかった。「みんなよくこういう議論に納得できてしまうものだし、いつもいつも飽きもせずにこういうの読めるもんだな」って思っちゃったのだ。

 

・『哲学の女王たち:もうひとつの思想史入門』

 

 

 

 女性の哲学徒や哲学徒志望者をエンパワメントするために編纂された、男性哲学者の影に隠されて見過ごされてきた歴史上の女性哲学者たちについて、現代の女性哲学者たちが解説する本。当然のことながらふつうの哲学史の本では紹介されないような哲学者が次々と登場することになり、読んでいてなかなか新鮮だ。個人的には、メアリー・アステルという人が開明フェミニストとしての要素と保守主義者としての要素が両立していて、とくに興味深かった*1

 各哲学者についての紹介文を書いているのはそれぞれ別の人であり、普段のわたしならこういう構成の本は読んでいてあまり面白く思えないのだが(基本的に「編著」というものが好きではなくて、ひとりの人が自分の考えや感性に基づいて書き切る「単著」のほうが読みものとしては面白く感じる)、この本に関しては、フェミニズムに関するスタンスや熱量が紹介者ごとに異なっていることがバランスを保つ作用を生み出している。つまり、たとえば近代以前の女性哲学者やアーレントのような人に含まれる「反動的」な側面について、当時の事情を考慮して理解を示す紹介者もいれば現代の価値観に基づいて断罪する紹介者もいるということだ。哲学者の紹介は二の次にして哲学における女性蔑視に対する怒りを表明することをメインにしている紹介者もいれば、紹介している哲学者の思想の豊かさに対する愛情や敬意を表現している紹介者もいたりする。

 しかしアーレントを除けば紹介される女性哲学者たちは「小粒」な感じは否めず、「で、ここで紹介されている哲学者たちは、アリストテレスデカルトニーチェのようにエポックメイキングな主張をすることはできたんですか?思想史でどんな哲学者を紹介するかという基準って、"影響力があったかどうか"になるものですよね?女性蔑視がなかったって、公平な観点から哲学者トップ10とかトップ30とかを選んだら結局はだいたい男性になってしまうものなんじゃないですか?」とツッコミも入れたくなってしまうものだが、まあこれは野暮だろう。

 

●『二つの文化と科学革命』

 

 

 スティーブン・ピンカーが『21世紀の啓蒙』のなかで取り上げていたので気になって読んでみたが、内容がくどくどとしていて、なにが言いたいんだかよくわからなかった(というか、ピンカーが紹介している以上の内容は含まれていないような気がする)*2

 

●『感情史の始まり』

 

 

 

「社会構築主義(人類学)」と「普遍主義(生命科学)」との対立を軸としながら、感情研究の歴史について整理されている。それはいいのだが、著者はどちらかといえば人類学のほうに共感を抱いており、生命科学はあんまりお好きではなさそうな雰囲気が漂っている。ヨーロッパ人らしく文章の端々に嫌味ったらしさが含まれており、たとえばポール・エクマンはかなり冷笑的に紹介されていて気の毒になってしまった。かといって著者自身は歴史家であり人類学者でも心理学者でもないので、あくまで「感情に関する研究の歴史を第三者的な視点からまとめているだけです」とすまし顔であり、旗幟が鮮明にされているわけでもない。こういうのって読んでいるとイライラする。

 ページの分量も多いが、扱われているトピックもそれ以上に多いために、全体的に駆け足になっている。「整理」や「解説」が丁寧になされているというわけでもなく、感情研究に関する用語や感情研究に関わってきた学者たちの名前が矢継ぎ早に紹介されて、彼らの著書から次々と引用がなされるという感じ。そのために読みやすいといえば読みやすいが、知識がすっと入ってくるというわけではない。

 ジョン・ブロックマンについて紹介されている箇所ではピンカーやスティーブン・ホーキングの名前も出てくるが、ここでも、「三年ごとに新しい原稿を出せ」て、「生き生きとした日常的な例を用い、実験による研究をはるかに超える語り口で、時には世界全般を説明しようとする一般向けの科学書」(p.308-309)を書ける彼らのような大衆派アカデミシャンに対する著者の軽蔑(あるいは嫉妬)は隠し切れていない*3。だけれど、論点を明確にした本を書くことによって大衆に学問的な知識や考え方を啓蒙させられるという点でも自分の立場を堂々と示せられる勇気という点でも、ピンカーのようなアカデミシャンの方が著者の10倍は尊敬に値するとわたしは思う。

 

 

不平等は避けられなさそうです(読書メモ:『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』)

 

 

 かなり長くて重たい本。経済史の本でありがちな、大量の具体例を紹介しながら同じような話が何度でも何度でも繰り返される内容なので、細かい部分は流し読みでよいと思う。

 そしてこの本で繰り返されるテーマとは「暴力……それも大量の人命を失わせるような徹底した暴力のみが、ある社会の経済的平等を増させる唯一の方法である」というものだ。

 ポイントは「徹底した暴力」であるということ。

 たとえば「革命」については、ちょっとした農民蜂起や反乱は歴史のなかで何度も起こってきたが、その成果はあっという間に失われて不平等が戻ってしまうのであり、ロシアや中国で行われたような共産主義革命くらいに大量の人命を犠牲にするほどのものでなければ意味がない(それですら近年では革命の成果が失われて不平等が再拡大している)。オキュパイウォールストリートどこらかBLMでも生ぬるいのである。

 疫病も、百万人とか千万人とかの単位で人(と家畜)を殺すような黒死病スペイン風邪くらいにならないと経済的平等を促進しない。人が死にまくって労働力の価値が大幅に変わったり経済が崩壊するくらいになってから、ようやく、格差は縮まる。というわけで、残念ながら、新型コロナウィルスがいくら流行したところで平等化はすすまないだろう(むしろ格差は拡大しているようだ)。

 戦争をしたからといって経済的平等がすすむとは限らないが、国家総動員して総力戦した第一次世界大戦第二次世界大戦では参加したそれぞれの国で平等化すすんだ(この本のなかでは第二次世界大戦後の日本における平等化について一章を割いて論じられている……そして、第一次世界大戦は欧州には平等化をもたらしたが、ちょっとしか関わらなかったアメリカや日本では不平等が進行していたのだ)。「希望は、戦争」は一面の真実をついてはいるが、太平洋戦争の時代に戻る覚悟がなければ言っちゃいけない*1

 古代に西ローマ帝国が滅亡したときのように国家制度が崩壊した場合、いろんなことがメチャクチャになりみんながひたすら悲惨な目にあうが、上流層たちの資産も失われるおかげで運がよければ経済的平等は実現する。

 つまるところ、「徹底した暴力」は経済的平等化の必要条件ではあるが十分条件ではない。多くの人が血を流して、死に、残された人たちもひどい思いをして、建物とか文化とが破壊されても、経済的不平等が残る場合はあるということだ。

 

 さらには、現代の社会では、戦争・革命・崩壊・疫病(著者が言うところの「四騎士」)ですら、もはや経済的平等を実現させる力を持たなくなっている。

 

それでも、歴史は平等化についての2つの重要なことを教えてくれる。ひとつめは、急進的な政策介入は危機に際して行われるということだ。世界戦争や大恐慌の衝撃や、また言うまでもなくさまざまな共産主義革命が、平等化政策を生んできたが、いずれもそれぞれの状況に多くを負う措置であり、背景が異なれば、少なくとも同じ規模での実行は難しかった。2つめの教訓はさらに単純明快だ。政策に決定によってできることには限界があるということだ。社会における物質的不均衡の圧縮は、たびたび暴力的な力によって進められてきた。それは人間の制御を超えた力か、あるいはこんにちでは実行可能な政治目標の範囲をはるかに超えた力である。こんにちの世界では、平等化の最も有効なメカニズムはどれも作用していない。「四騎士」馬から下りたのだ。そして、正気の人間なら、彼らの復帰を決して望まないだろう。

(p.553)

 

 実際のところ、現代ではもう総力戦は行われない。軍事技術の急速な発展により戦争はサイバー化しており、戦闘員は少数精鋭となっていて、徴兵制はもはや時代遅れだ。核戦争が起これば話は別だが、おそらく起こらない。そして、共産主義革命が実現したのは世界大戦のおかげであり、大規模な戦争のなくなった社会には革命も存在しないのだ。そして、こんにちの先進国や発展途上国ローマ帝国のように滅亡する可能性は薄い。なんだかんだ言って、現代の国家体制とはきわめて強固なものだ。貧困国が国家破綻して内戦が引き起こされる事例はあるが、それも平等化には結びついてこなかった(総力戦による対外戦争と内戦はまったくの別物である)。そして、現代の世界では過去のように疫病による(数千万人単位の)大量死が引き起こされる見込みは薄いし、仮に大量死が起こったところで過去のように低技能労働者の価値が引き上がるとは考えられない。

 

 この本を読んでいると、人類の社会に不平等は付きものであることを、いやでも思い知らされる。

 

著しい不平等にはきわめて長い歴史がある。2000年前、ローマ帝国で最も裕福な世帯の私財は、1人当たりの平均年収のほぼ150万倍に達していた。これは、現代のビル・ゲイツと平均的なアメリカ人の財産の比率とほぼ同じである。何と言おうと、ローマ時代の所得の不平等の全体的な大きさは、アメリカのそれとあまり変わらなかったのだ。

とろが、ローマ教皇グレゴリウス1世の時代(西暦600年ごろ)までに莫大な財産が消滅し、貴族階級に残されたなけなしの資産は、借金せずにすむようにと教皇が与えてくれる施しだけとなった。このケースのように、時として不平等が減少することがあったのは、多くの人が貧しくなるとしても富裕層は失うものをより多く持っていたからである。別の例では、資本収益が落ちる一方で労働者の暮らし向きはよくなることがあった。たとえば黒死病に襲われたあとの西欧では、実質賃金が2〜3倍に跳ね上がり、労働者が肉とビールの夕食をとるようになる一方で、 地主は体面を保つのに必死だったという有名な話がある。

(p.5)

 

 とはいえ、『自由の命運』でも論じられていたように、最初から平等でありつづける社会には経済成長が存在しない*2

 

狩猟採集民の必要最低限の生活様式と、平等主義的なモラルエコノミーが結びつくと、どんなかたちの発展も許さないような強固な障害が形成される。 理由は単純で、経済成長を果たすためには、イノベーションと余剰生産が促されるようにするために、所得と消費にある程度の不平等が必要だからだ。成長がなければ余剰は生まれにくいから、それを何かに充当することも後代に受け継がせることもできない。モラルエコノミーが成長を阻害し、成長の欠如が余剰生産とその集積を阻害する。

(p.40)

 

 この本の結論は下記の通り。

 

……われわれはさしあたり、現在持っている頭脳と肉体と、それらが作り出した制度でやっていくしかない。それはつまり、将来の平等化の見込みは薄いことを意味する。ヨーロッパ大陸社会民主主義国が高税率と幅広い再分配の込み入った制度を維持し手直ししていくのも、アジアの裕福な民主主義国が税引前所得を異常なほど平等に配分し続け、不平等化の高まりといううねりをせき止めるのも、容易なことではない。そのうねりはグローバリーゼーションの進行につれて激しさを増すばかりかもしれない。前例のない人口動態の変容がその圧力に加わるからだ。それらの国々が現状を維持できるかどうかは疑わしい。不平等は至るところで徐々に高まっており、その流れが現状を覆そうとしていることは否定できない。現在の所得と富の分配を安定化するのがますます難しくなるとすれば、より公平な分配を目指す取り組みはどんなものであれ、必然的にさらに大きな障害にぶつかるはずである。

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、潜在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60〜70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平等化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。歴史的に見れば、平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか?経済的平等性の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲観のなかでしか実現してこなかったことだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。

(p.562-563)

 

 幸いなことに、「不平等」は「不幸」とはイコールではないし、「不正義」ですらないかもしれない。「経済的不平等は重大な問題ではない」というピンカー的な発想は気休め以上の意味を持つはずだし、まじめに考えるに値するはずだ*3

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ところで、『暴力と不平等の人類史』にせよ『自由の命運』にせよ、ピンカーの『暴力の人類史』のような本に比べるとリーダビリティは低く、登場する具体的事例の描き方や引用も凡庸というかあまり印象的ではない(というか、良くも悪くも、ピンカーのように人の感情を刺激して印象に残るようなかたちで持論を展開できるのは、ジャーナリストはともかくアカデミシャンとしては稀であるだろう)。

 とはいえ、『暴力と不平等の人類史』や『自由の命運』を読んでいると、経済というものが人々の生命や幸福に直接的に結びついていること、そして地位や権力や尊厳に対する意志や執着こそが社会を動かす大きな力となっていることを、まざまざと思い知らされる*4。結局のところ、人間にとって経済と権力は「生」と直接的に結び付いてるのであり、生ぬるい理想論や口先だけの要求が通じるような領域ではないのだ。お金のことや将来のことをあんまり考えずにのんびり気楽に本を読んでいるとついつい忘れてしまうけれど、金や権力とそれに関わる人々が持つエグさやタフさというのはものすごいものであるだろうし、SNSハッシュタグをつけて意見を発信したり象牙の塔のなかで思想のお勉強をしたりしていても世の中の金や力の「本丸」を傷つけることは何一つできないし何も変えることはできない、ということは折に触れて思い出すべきであるだろう。

 

*1:総力戦が金持ちに対する課税とそれを通じた格差縮小を促したことについてはケネス・シーヴとデビッド・スタサヴェージの『金持ち課税』でも論じられており、『暴力と不平等の人類史』のなかでも彼らの研究がたびたび紹介されている。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:興味深いことに、「世界は平和に向かっており戦争はどんどんなくなっている」というピンカーの「合理的楽観主義」の主張は、『暴力と不平等の人類史』でも否定されているわけではない。

*4:たとえば、革命について論じられている章では、14世紀フランスのジャックリーの乱における、貴族たちに反乱した農民たちによる虐殺、そして貴族たちによる徹底した報復について言及されている。血で血を争う反乱すらも最終的にはエリートの勝利となり、経済的平等を達成するうえではほとんど意味はなかったが、その後に黒死病が訪れて事態が変わったわけだ。

89年生まれのわたしにとっての「はてな」

 このブログではめずらしく個人的な思い出話。

 

 

 

↑ Twitterでこういう投稿をみかけて 

 

 

↑ こうコメントしたついでに 

 

 

 

 

↑ こう書いた。

 

 もうすこし詳しく説明すると、わたしがはてなブックマークを使い始めたのは高校3年生だった2006年頃で、2013年くらいまではたまにブコメを書いたりもしていた(当時とはIDは変わっている)。このブログをはじめたのは、たしか2014年。

 上記のツイートの通り、10代~20代前半まではいまよりも「サヨク」であったわたしにとっては、はてなは心のオアシスではあった。リアルな人間関係については、中高生のときにも大学に入ってからも、同級生にサヨクがほとんどいなくて、ノンポリからマイルドなネトウヨ、あるいはガチのネトウヨしかいなかったからだ。実際のところ、大学院に入るまで、わたしは同世代の生身の人間で「サヨク」や「リベラル」に分類される人と会ったことがなかった。たぶん専攻する学科や所属するサークルを選んでいれば出会えていたのだろうけど、深く考えずに英米専攻に決めて何も考えずに文芸サークルに入ったのでそうはならなかった。社会学部や法学部にはリベラルな学生が確実にいただろうし、日本文学専攻にだっていなくはなかっただろうが、英米文学専攻はTOEICの点数を上げることを目的に入学する学生が9割だったので価値観とか思想とかそういうのはそもそも存在しなかった。文芸サークルならサヨクがいてもよさそうなものだが、文芸部とは要するにオタクの集まりであり、そして当時はオタクとネトウヨの距離はたしかにいまよりもさらに近かったので、サヨクはいなかったのである。

 

 だが、はてなのなかにはサヨクがごまんといった。なんらかの事件やニュースがあるたびに、周囲の同世代の若者たちはわたしとは正反対の意見や感想を言ってくるので孤独感や不安感を抱いたが、はてなを覗けば、自分と同じような意見を持つ人がコメントを書いてくれているわけだ*1

 いわゆる「はてサ」の人たちのなかには、大学で研究している院生や教授である人もいれば、そうでない市井の人もいたと思う。しかしアカデミックな人たちの書く文章のほうが興味深いものであり、hokusyuやfont-da、apeman、あとkamiyakenkyujoなんかのブログは読み込んでいたものだ(いずれも敬称略)。

 また、「はてサ」ではないアカデミシャンも昔からはてなに投稿していた。山形浩生稲葉振一郎などの経済学者がいるし、森岡正博や江口聡などの倫理学者も一時期ははてなをやっていた。北村紗枝や大野左紀子などのフェミニストもいるし。はてなブログではないものの、内田樹のブログも昔はよくブクマが集まってホットエントリに上がっていたと思う。

 というわけで、わたしにとっての「はてな村」とは、まず第一に「はてサの村」であり、第二に「アカデミックな場所」であった。しかし世間的にはそうではないようであり、近頃になっていろんな人が投稿している思い出話を読んでみても、そこに出てくる登場人物の大半は、当時から存在を認知していたがほとんど興味を抱けなかった人とか、その人の書く文章のなにが面白いのか当時から全然わからなかった人とか、2021年になって初めて名前を知った人とか、そんなのばっかりだ。

 yomyomさんのまとめた「はてな出身の文筆家」の一覧を見ても、アカデミック系の文筆家って思ったよりも少ない*2。それよりもビジネスとかライフハックとかに役立つ情報をまとめられる人とか、雑学的な知識を要約してキャッチーに紹介できる人とか、奇特な経験をおもしろおかしく文章化できる人とか、カルチャーだとかトレンドだとかを伝えられる人とか、ジェンダーについてなにかしら言える人とか、日常のことをいい感じに素敵に表現できる人とか、ゲームとかアニメとかマンガとかについて詳しく話せる人とか、ありがちで当たり前な意見や感想に学問っぽい用語をまき散らしてなんか含蓄があるかのように語れる人とか、そういう人が多いようである。こういう人たちがnoteに流れるのは、そりゃ仕方がないことだろう。

 また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村はてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。

 

 ……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。

 では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。様々な本を読んでいると、世の中で普及したり流通したりしている知識は思った以上に限られていて、かなり多くの知見や議論がほとんど知られることもなく埋もれていることに気付かされるためである。

 というわけでこのブログの内容は読んだ本や海外の議論についての紹介とそれについての自分のコメントがメインとなっており、たまにネット上の出来事やニュースについて自分なりの意見を書くのがサブ、という感じになっている(以前は翻訳記事もよく投稿していたが、最近はやっていない)。そして、このような目的で運営するぶんには、はてなブログはなかなか優れている。カテゴリ機能とかリンク機能、関連記事の機能とかはnoteに比べて優れている印象があり、記事と記事とを連携させてブログにひとつの「知識のかたまり」みたいなイメージを持たせやすいのだ。そして、記事が溜まれば溜まるほど、自分のブログが強固な「城」として育っていくように感じられて、そこもいい。

 逆に、noteではどれだけ文章を書いても自分のページが「城」とはならず、常に他のライターたちと並列させられて十把一絡げに扱われる感じがある。昨年の前半にはこのブログの記事とは毛色の違うエッセイや愚痴を投稿するためにnoteをやっていたが、noteの設計や思想は以前からずっと気に食わない。文章の商品感や消費感が強すぎる。初心者向けに「読まれる文章」や「売れる文章」をご丁寧に指導してくるところも鬱陶しい。そしてライターたちの側からnoteに適応して「エモい」文章を量産しているのも情けない。たぶんマネタイズをするうえではnoteが最善なのだとは思うけれど、あんなのやめたほうが格好いいと思う。もちろんはてなにだってアフィリエイトで稼ぐのに特化したロクでもないブログはいっぱいあるのだが、浅ましさやみっともなさがわかりやすいぶん、お洒落に偽装されているnoteよりずっとマシだ。

 

 はてなが衰退している理由のひとつの理由としては、ブックマークのシステムが以前よりもさらに分極化しやすい構造になっており質が劣化した、ということも挙げられている。これはたしかにそうだろう。

 ブログを書いている立場からすれば、自分自身もブログをやっている人や大学で教えていたり本を書いていたりする人からの批判については受け止めて考えようという気が湧くが、ブコメだけをやっている人から批判されても基本的には鬱陶しいという感情しか湧かないものだ。前者については本人が自分の考えや思想をどこかで「論」としてまとめているから潜在的に議論の相手とみなせるが、後者については脊髄反射的で場当たり的な意見しか存在しないので議論の相手にはならない。そして、現在のはてなでは、おそらく昔よりも、ブログを書かずにブコメだけやるという人が増えている。ブロガーにとって以前よりもさらにストレスフルな状況になっていることは疑いもないだろう。……とはいえ、それも慣れてしまえばわりとどうということもなかったりするのだけれど。

 

*1:特に強く印象に残っているのが、同級生たちと『サマーウォーズ』を観にいって周りが絶賛しているなか自分ひとりだけ楽しめなくてイヤな気持ちになっていたところ、はてなでは匿名ダイアリーでも個人ブログでもサマーウォーズに対する違和感や嫌悪感を表明している記事がいくつもあったところだ。そういうのがあると「自分がひとり間違っているわけじゃないんだな」と思えるものである。

*2:

yamdas.hatenablog.com