道徳的動物日記

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フェミニズムの「むずかしさ」に向き合う(読書メモ:『むずかしい女性が変えてきた:あたらしいフェミニズム史』)

 

 

 出版社による紹介は下記の通り。

 

女性が劣位に置かれている状況を変えてきた女性のなかには、品行方正ではない者がいた。危険な思想に傾く者も、暴力に訴える者さえもいた。
たとえばキャロライン・ノートン。19世紀に困難な離婚裁判を戦い抜いて貴重な前例をつくった人物だが、「女性は生まれながらにして男性に劣る」と書き残した。たとえばサフラジェットたち。女性の参政権獲得に欠かせない存在だったが、放火や爆破などのテロ行為に及ぶこともあった。たとえばマリー・ストープス。避妊の普及に尽力し多産に悩む多くの女性を救った彼女は、優生思想への関心を隠さなかった。
しかしだからといって、その功績をなかったことにしてはいけない。逆に功績があるからといって、問題をなかったことにしてはいけない。歴史は、長所も短所もある一人ひとりの人間が、身近な不合理を少しずつ変えることでつくられてきた。
「むずかしい女性」たちがつくってきたこうした歴史の複雑さを、イギリス気鋭のジャーナリスト、ヘレン・ルイスが余すことなく本書のなかに描き出す。イギリス女性史と現代社会の出来事とを自在に往還してあぶり出される問題は、女性だけではなく社会全体の問題であることが見えてくる。社会の不合理や理不尽に立ち向かうための、あたらしいフェミニズム史。

 

むずかしい女性が変えてきた | みすず書房

 

 これまでの歴史において男性たちや家父長制と戦って女性差別的な制度を変革したり女性に対する抑圧やステレオタイプを打破してきたフェミニストたちであっても、現代の目から見ると、他の属性のマイノリティの人に対して差別的な考えを抱いていたり、社会の構造について誤って理解していたり、運動の方法が問題含みであったりした。

 しかし、そんな彼女たちを批判できるような現代における「先進的」なフェミニズムそれ自体が、彼女たちの戦いがなければもたらされなかったものだ。

 現代よりも遥かに抑圧的で男性優位な構造のなかで「むずかしい女性」たちが過去に戦ってきたからこそ、多くの女性は男性たちからの嫌がらせや攻撃に怯えることなく「自分はフェミニストだ」と主張できるようになり、フェミニストであることによって社会から受ける不利益なども減ったりして、フェミニストが活動できる領域や扱える問題の範囲も拡大した。それに伴いフェミニズムの内部でも自己批判や反省が行われて、過去のフェミニズムの欠点を正したり過ちを乗り越えたりしながら理論を洗練させていき、思想としてのフェミニズムはより適切で複雑なものとなっていったが、その成果はやっぱり問題含みの「むずかしい女性」たちの働きが最初になければもたらされなかったものである……という、それ自体が「むずかしい」ジレンマに切り込んだ内容の本である。

 

 著者のヘレン・ルイスは学者ではなくジャーナリストであるために、この本の構成もアカデミックというよりかはジャーナリスティックだ。章ごとに「離婚」「セックス」「安全」といった問題が取り上げられて、その問題に関する過去における女性差別の状況とその問題について戦った(主にイギリスの)歴史上のフェミニストについてのエピソードと、著者個人に関するエピソードや現代のフェミニズムの状況についてがごちゃ混ぜ気味に記述されている。

 したがって、アカデミックな本のように一本筋の通った理論や見解が明示されているわけではないし、エピソードや資料の取り上げ方に歴史学的な厳密さがあるわけでもない。……度々書いているが、わたしはジャーナリスティックな本については読むのも感想を書くのも苦手である。

 さらに言うと、著者の議論や主張の前提となっている、女性差別の構造や家父長や「女らしさ」に関するフェミニズム理論についても、わたしは必ずしも同意しているわけではない(著者の主張はフェミニストとしてはごく標準的なものではあるが)。

 ではなぜわざわざこの本を取り上げたかというと、現在の日本のTwitterでは、この本自体が「むずかしい」問題に巻き込まれているからである。

 

 副題の通り、この本はフェミニズムの歴史について扱った本であり、当然のことながら興味を示したり手に取ったりする人の多くはフェミニストであるだろう。……しかし、本国においては、著者は「トランスジェンダーを差別している」「トランスフォビアである」と批判されているようだ。

 そして、日本においても、フェミニズムに親和的なアカウントがこの本について紹介すると、別のフェミニストのアカウントが「その本の作者はトランスフォビアですよ」という"チクリ"を行い、本を紹介したアカウントもそれに反応して「この本はトランスフォビアな人によって書かれたものであるらしいです」と注意喚起したり謝罪したりする、という光景が見受けられたのである。

 この光景については、以下のようにつぶやいている。

 

 

 ……とはいえ、『むずかしい女性が変えてきた』を実際に手に取って読んでみると、たしかに、トランスジェンダーに関する記述には危ういところが見受けられた。

 具体的には第七章「恋愛」において、キャスリーン・ストックを引用したりしながら「レズビアントランスジェンダー女性とセックスすることに抵抗感を抱くことは非難されるようなことではない」という主張をしたり、トランスジェンダー男性とレズビアンとの違いを強調したりしているあたりは、(それ自体が差別的な主張であるかどうかは人によって判断が異なるだろうが)いわゆる「TERF」の人が言いそうなことではある。

 

 しかし、『むずかしい女性が変えてきた』のなかで著者がとくに批判しているのは、「フェミニストであるならこのような見解を抱くべきだ」「フェミニストはこのような主張をするべきでない」「フェミニストが奉じるべき"正解"とはこれだ」といわんばかりの、単純かつ硬直した教条主義である、という点を失念するべきではない。

 

……政治的な問題を語らずして、また矛盾や葛藤を語らずして女性を称賛することはできない。「とにかく旗を掲げよう。あれこれ質問はしないこと!」ーーこうしてフェミニズムの物語ができあがる。それに反対する者はみな、漫画に出てくるような悪役にされる、または、なぜか表に出てこない。苦労のすえに妥協点を見いだす必要はなく、内部で対立が起きたりもしない。ただ一つの真実の道が何かは明らかで、「善き人」はみなそれに従う。フェミニストこそ歴史の正しい側にいるのだから、世界がわたしたちについてくるのを待とう。

人生がそんなふうにいくわけがない。ブギーマン[ホラー映画のタイトルにもなっている伝説上の怪物]を何人かやっつければフェミニストが勝利するなら、ことは簡単だが、ドナルド・トランプのような不気味な性差別主義者が権力を握ってしまう。投票する人がいるからだ。女性の身体上の欠点を取り上げる雑誌やウェブサイトをいちばん利用するのは女性だ。中絶の権利を擁護するかしないかに、ジェンダーによる差異はない。人間は複雑であり、進歩を遂げるということも複雑だ。現代のフェミニズムが先鋭さに欠けると感じられるなら、それは二つの手段に逃げているからだ。一つは意味もなくただ称賛するだけであり、もう一つは明らかな敵がわかっているのにまともに対決しない。どちらも複雑さと向き合っておらず、何も変えられない。

女性の歴史が、ヒロインを探し求める上っ面だけのものであってはならない。フェミニストたちのあいだで非難しあう状況を、わたしはたびたび目にしてきた。パンクハースト家の人々(専制君主たち)、アンドレア・ドウォーキン(先鋭的すぎる)、ジェーン・オースティン(あまりにも中産階級的)、マーガレット・アトウッドセクシュアルハラスメントの正当な法的手続きを気にしすぎる)、ジャーメイン・グリア(どこから始めればよいのか)などなど。最近わたしは、アメリカ合衆国最高裁判所判事に指名されたブレット・カバノーにわたしが共感を示したことを「問題だ」とする記事を読んだ。わたしの「罪」は、カバノーが指名承認公聴会でメディアにさらし者のようにされたことについて、性的暴行で訴えられた人でももっとまともに扱われるべきだ、と言ったことだった[カバノーは複数の女性から性的暴行で訴えられていた]。この非難には、面倒な問題を単純であるかのように見せかけたいという強い願望が反映されている。傷ついた人間が巨大で複雑な体制のなかで苦しむのはたくさんだーー世の中には良い人と悪い人がいて、誰が良い人で悪い人かぐらい簡単にわかるだろう、というものだ。しかし、そんな考え方はあまりにお粗末で子どもじみている。わたしたちは抵抗すべきだ。わたしは、フェミニストの先駆者たちが単純ではなかったことにあらためて光を当てたい。それによって、先駆者たちが残したものに疑問が投げかけられるかもしれない。フェミニスたちはとんでもない戦略を選択したのかもしれないし、訴えていた理想に自分自身が応えられていなかったかもしれない。それでも、重要な足跡を残した。こういった複雑さも物語の一部なのだ。

 

(p.3-4)

 

  また、日本でも見かけられるような「オンライン・フェミニズム」に対して、手厳しい批判が行われている。

 

[2011年に著者が左翼系週刊誌『ニューステーツマン』の副編集長になってからの]それからの数年は地獄のようだった。内戦のフェミニズム版だ。まっとうな批判と不当な批判がまじりあって一つの巨大な叫びとなり、Twitterで増幅され、誰もが憤慨し傷ついた。決まって出てくる話題があった。Xは特権階級だから、彼女が訴えるフェミニズムは、現実が見えていない。Yは言葉の使い方や考え方に「問題があった」ので、謝罪すべきだ。Zはトランスフォビアで「白人のフェミニスト」で、あまり「インターセクショナル」でない。「インターセクショナル」は、その何年か前までは耳慣れない言葉だったが、にわかによく聞かれるようになっていた。しかし、アメリカの法学者キンバリー・ウィリアム・クレンショーが定義した本来の意味にはほとんど注意が払われていなかった。批判には根拠があることもあった。あるときわたしは、黒人のフェミニスト二人からお茶に誘われ、わたしが企画しているキャンペーンでは有色人種の女性が取り上げられていない、と言われた。ツイッター上の数々の論争で傷ついていたので、自分の立場を弁護したが、彼女たちの話に礼儀正しくただ耳を傾けたほうがよかったかもしれない。また別のときには、こうした批判は、妬みから出てきたのだろうと思われた。あるいは、「道徳的十字軍」の特徴である公正さと残酷さが入り混じって興奮しているためだろうと考えられた。ある著名な黒人フェミニストから、わたしは「EDLよりひどい」とTwitterで言われた。わたしの仕事について理解していないか、EDL(イングランド防衛同盟)がイスラム教を排斥しようとしている極右集団だということを理解していないかのどちらかのようだった。

 

(p.201 - 202)

 

オンライン・フェミニズムは言葉にとらわれすぎるようになった。司祭もどきの人が登場し、どんな言葉を使うべきか裁定を下す。怒りは変革の大きな原動力であるが、活動家たちの要求は力を持つ者によって「急進的すぎる」とか「あまりに攻撃的」とされ、しばしば切り捨てられる。しかしいっぽうで、激烈な怒りがそれ自体で価値あるものとして賞賛され、オンライン・フェミニストたちは、真摯な怒りと単なる悪意とを区別する力を失ってしまった。さらに悪いことに、「アライ」を自称する者たちが、自分たちの正義を誇示するため大げさに仲間を非難し、完全に「魔女狩り」のようになっていた。「有色人種の女性が理論的に正当とは言えない論点を提示しても、これを白人のフェミニストが正当だとして議論することがある。自分はインターセクショナルなのだと競い合ってひけらかしているようで、わたしは不快に感じるし気がかりでもある」と、ウェブサイト「Jezebel」を創設した黒人のアナ・ホームズが、ミシェル・ゴールドバーグに語っている。ホームズはこうした風潮を「不誠実」で「恩着せがましい」と考えている。

 

(p.204)

 

 そして、『むずかしい女性が変えてきた』が批判しているオンライン・フェミニズムの問題が、当の『むずかしい女性が変えてきた』を対象としながら、日本でも繰り返されているわけなのである。

 

 わたしはトランスジェンダーが関わる諸々の議論についてはまだ自分の意見やスタンスを決めかねているが、とりあえず、引用部分で示されているようなオンライン・フェミニズムの問題はとくにトランスジェンダー(または「トランスフォビア」)が関わるトピックで浮上することが多い、という点は指摘できるだろう。

 したがって、「言論の自由」をテーマとした下記の記事においても、具体例としてトランスジェンダーに関する哲学論文とそれに対する検閲を巡る問題を取り上げることにした。

 

s-scrap.com

 

 また、「インターセクショナリティ」の問題についてもこのブログでたびたび取り上げてきた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『むずかしい女性が変えてきた』で指摘されているような問題は、フェミニズムに限らずひろく社会運動全般やSNSでの言論活動一般に当てはまることかもしれない、という視点も忘れるべきではないだろう。

 

"意図に基づいた愛"を実践する方法(読書メモ:『How to Not Die Alone(独身のまま死なないために)』)

 

 

 久しぶりに洋書の紹介。

 

 本書のタイトルは How to Not Die Alone: The Surprising Science That Will Help You Find Love (『独身のまま死なないために:愛を探すための驚きの科学』)。副題に"科学"という単語が含まれている通り、著者のローガン・ウライは行動科学者。

 ハーバードで心理学を学び、Google社で行動経済学者のダン・アリエリーとチームを組んで研究した(その研究の成果は『予想どおりに不合理』に取り入れられている)後に、「自分がこれまでに学んできた行動科学のツールを恋愛関係にも応用して、人々が恋愛においてより良い選択ができるように助けることはできないか?」と考えて恋愛アドバイザーになった、という経歴の持ち主だ。

 

 本書で展開されるのは、Intentional Love(意図に基づいた愛)を実践するための方法である。

 

意図に基づいた愛は、あなたの恋愛生活を偶然ではなく選択の連続だと見なすことを求める。本書は、[恋愛について]知識と目的を持つことについての本だ。あなたの悪い習慣を自覚して、デートのやり方を修正して、重要な会話を相手とするための知識と目的を持つことについて、である。

(p.1)

 

パートナーを選ぶことはそれ自体がかなり大変なタスクであるうえに、古くさい考えや間違ったアドバイス、社会や家族からのプレッシャーがさらにそれを困難にしている。しかし、いままで、人々の愛の探求をサポートするために行動科学を応用した人はいなかった。その理由は、愛は科学的分析なんてものともしないマジカルな現象である、とわたしたちが考えているからかもしれない。あるいは、この批判を恐れていたのかもしれない:「合理的に恋愛したい人なんているわけないでしょう?」。だけれど、それは違う。わたしは、出会いの可能性を全て分析して「だれと付き合うべきか」を算出する超合理的なコンピューターになれ、とあなたに求めているわけではない。わたしの仕事は、あなたの恋愛にとって支障になっている盲点を発見して、それを克服するためのお手伝いをすることだ。

(p.4)

 

  著者によると、恋愛に困っている人たちの多くが、以下の3種類のパーソナリティのいずれかに分類される。

 

  • ロマン主義(The Romaticizer):恋愛関係に対して非現実的な期待を抱いている。
  • 最大化主義者(The Maximizer):パートナーに対して非現実的な期待を抱いている。
  • ためらっている人(The Hesitater):自分自身に対して非現実的な期待を抱いている。

 

 ロマン主義者が問題であることは、恋愛について「現実的」な知識を持っている人にとってはわかりやすいだろう。

「運命の人と一緒だったら、何が起こっても上手くいく」というのは幻想であり、パートナーと長く付き合っていくためには、途中で様々なトラブルや衝突が発生することを織り込んだうえで、二人で困難に立ち向かっていかなければならない。「ただしい相手を発見しさえすれば、成功した恋愛関係が得られる」という「運命の人」マインドセット(soul mate mindset)は現実にそぐわない。わたしたちが持つべきなのは、「成功した恋愛関係のためには継続した努力が必要である」と認識する「やっていこう」マインドセット(work-it-out mindset)なのである。

 これと関係して、デートにおいて「一目惚れ」(Spark)にこだわるのも止めた方がよい、とも著者は指摘している。初対面で伝わるような魅力とは外見や性に関するものでしかなく、相手の性格や自分との相性が測れるわけではない(むしろ、ナルシストであるなどの性格に問題のある人のほうが初対面だけなら魅力的であったりする)。一目惚れで始まっても良好な関係を築ける可能性はあるが、そうでない場合も沢山あるのだ。さらにいうと、初回のセックスがどれだけ上手くいったかどうかも重要ではない、と著者は指摘している。相手のテクニックがどうであれ、回数を重ねれば互いのリズムや性感帯などを理解しあってよいセックスができるようになっていくものだからだ(また、努力しなくても女性が寄ってくるイケメンはテクニックを磨くインセンティブが湧かないためにむしろセックスが下手であることが多い、とも女性読者向けに指摘されている)。

 

 本書で書かれている指摘のなかでもわたしがとくに面白く思ったのは、一見すると「合理的」に見える最大化主義者が、ロマン主義者と同じく非合理的であるという点である。

 最大化主義者は「自分にとってふさわしい人はこれこれこういう条件を満たさなければならない」と考えているが、彼や彼女の基準を実際に満たす人はほとんどいない。いざ誰かと付き合ったときにも「もっといい人がいるかもしれない」「この人がこの世で一番いい相手というわけでもないから、より良い相手が見つかったら乗り換えよう」と考えてしまう。このような考え方は表面的には合理的であるが、実際にはロマン主義者と同様に「青い鳥」を求めているに過ぎない。問題なのは、このようなマインドセットを持っている限り、彼や彼女が現実に経験している恋愛から得られる楽しさや幸福は減退し続けることだ。

 これは恋愛に限らず何事にも当てはまることであるが、「自分は優れた選択をしたか」という客観的な結果と「その選択について自分はどう思っているか」という主観的な経験は必ずしも一致しない。

 たとえばどこかに旅行したときに観光名所を2つしかまわれなかった可能性と3つまわれた可能性があったとして、前者であっても後者に負けず劣らず楽しい旅行になった、という場合はあるだろう(3つ目の名所に行けなかった代わりに2つの名所をじっくり観光できた、無理のないスケジュールのおかげで疲れなかった、など)。しかし、「あそこでバスの乗り換えがうまくいっていたら3つ目の観光名所にも行けたのに、しくじったな」と思うタイプの人は、3つまわれた場合にも「もっとうまくスケジュールを組んでいたら4つまわれたのに、しくじったな」と思うのがオチである。……そして、このような考え方を恋愛にまで適用すると、自分にとっても相手にとっても悲惨な関係をもたらしてしまうことになるのだ。

「最大化」思考に対する処方箋のひとつとして著者が提案するのが、目の前の相手が自分の基準に満たないと思っていたとしても、とりあえずその相手にコミットして深く付き合ってみることだ。わたしたちには自分の選択を後付けの理屈で合理化して「この選択は正しいものだった」と自分を説得させる「正当化バイアス」が備わっている。そもそもほんとうの意味で「客観的に優れた選択」なんて恋愛には存在しないのだから、相手がほどほど以上に良ければ、コミットした後に自分の認知を変えていくことのほうが合理的な選択だと言えるのだ。

 

 また、最大化主義者でなくとも、ある人が抱いている「自分はこれが欲しい」という主観的な願望がほんとうの意味でその人が必要としているものとは一致していない、それが得られたとしてもその人が幸福になるとは限らない、というのはよく生じる問題である。

「自分をほんとうに幸福にしてくれるものはなにか」ということについてわたしたちはとことん無知である、というのは幸福に関する議論では定番の問題だ。

 恋愛や結婚においても、わたしたちが相手に求める要素として「過大評価されがちだが、実際にはそれほど重要でないもの」と「過小評価されがちだが、実際には重要であるもの」が、それぞれに存在する。

 

 

●「過大評価されがちだが、実際にはそれほど重要でないもの」

  1. お金(低収入の夫婦は関係に不満を抱きがちではあるが、わたしたちは所得に適応してしまうので、一定の閾値を超えたら収入は夫婦関係に影響を与えない)
  2. 外見(わたしたちは相手の外見にも適応するので、イケメンだろうが美女だろうがそのうち飽きる)
  3. 性格が似ていること(自分と性格が異なり、互いの違いを補完するような相手とのほうが関係は長続きしやすい)
  4. 趣味が同じであること(「カップルは趣味を一緒に楽しむことが重要だ」と思われがちだが、うまくいくカップルとは相手の趣味にも興味を示しつつ、それぞれが自分の趣味を一人で楽しむことを許容するものである)

●「過小評価されがちだが、実際には重要であるもの」

  1. 精神的な安定と優しさ
  2. 寛大さ
  3. 成長を志向するマインドセット(「キャリアの成長」などではなくて、二人の関係性を良いものにしようと志向し続けてくれること)
  4. 相手の性格が、自分のなかの最良の部分を引き出してくれること
  5. 困難に対して適切に対処するスキル
  6. 「難しい決断を二人で一緒にする」という能力

 

 上記の通り、過大評価されがちな要素は、収入という客観的な指標があるものや、外見や趣味など簡単に判断が付きやすいものである。わたしたちには物質主義的なバイアスが備わっていることや、物事を判断する際に手っ取り早い指標を用いたがる傾向があることが影響しているだろう。

 その一方で、過少評価されがちな要素とは相手の人格のなかでもコアな部分であり、かなり曖昧なものであって、1度や2度のデートで見極めるのは困難である。時間をかけて少しずつ判断することが必要になるだろう。

 

 わたしたちが目に見える指標や手っ取り早い指標に惑わされてしまうことは、デートにも悪影響をもたらす。多くの人は、1度目のデートから「この人は恋人として合格であるか、不合格であるか」を判断しようとしてしまうのだ。

 

デートに影響を与えるのは、どこで会うかという物理的な場所だけではない。いつ会うか、なにをするか、デートに対してわたしたちが抱いているマインドセットのいずれもが、デートの環境であるのだ。

(…中略…)

…わたしのクライアントの多くが、愛を必死で求める一方で他のことにも忙しくするあまりに、デートから得られるはずの楽しみの全てを逃してしまっている。その代わりに彼や彼女が行なっているのが、わたしが評価的なデート(evaluative dating)と呼ぶものだ。…

評価的なデートの問題は、不快であるというだけではない。長期的な関係を築くためのパートナーを探すうえでは、ひどく非効率的な方法でもあるのだ。この章では、デートのマインドセットを評価的なものから体験的(experiential)なものに切り替える方法を教えよう。相手の履歴書を見ながら「この人はわたしにとって相応しいだろうか?わたしたちの間には充分な共通点があるだろうか?」と自問自答する就職面接のようなデートをするのをやめて、自分の頭のなかから外に出てデートの体験そのものに目を向けて、「わたしはこの人のことをどう感じているだろうか?」ということを考えるのだ。二人が一緒にいる時に物事がどう展開してるか、という点に注目する。好奇心を持ちながらデートする。驚くことをためらわないようにするのだ。

(p.150 - 151)

 

「評価的なデート」はやればやるほど楽しくなくなり、仕事のように感じられていく。「相手がどんな人間であるか、二人に共通点はあるか」というのを確かめることを何度も繰り返していると、会話のパターンや内容がマンネリ化してしまい、過去にも他の人と交わした応答を自動的に繰り返す作業のようになってしまうのだ。そして、このようなデートを繰り返している限り、相手の本質を知ることはできなくなるし、だれかと深い関係に突入する可能性も遠のいてしまう。

 一方で、「体験的なデート」を実践できれば、デートそのものが楽しくなるし、相手との愛着も深めやすくなり、相手のことを深く知りやすくなるだろう。

「体験的なデート」を実践するためのアドバイスは以下の通り。

 

  1. デート前から自分の気分を盛り上げるようにする。そのためのルーティンも考えて実践する(仕事の連絡をシャットアウトして「デートの日」感を強める、デート前にお気に入りのポッドキャストを聴く、エクササイズしたり長風呂したりしてスイッチを入れる、など)
  2. デートの場所や時間はじっくり考えて選ぶ(自分がもっともリラックスできる時間帯を選ぶ、向かい合って緊張するテーブルよりも互いにリラックスできるカウンター席を選ぶ、など)
  3. クリエイティブな活動を伴うデートをする(一緒に何かを制作する、レストランに行く場合にも焼肉など自分で調理するタイプの店を選ぶ、スポーツ、ゲームセンター、なにかのコンテストや教室に参加するなど。初対面の人と複雑な活動をすることには居心地を悪い思いを抱くかもしれないが、結果としてはデートの経験は充実したものになるだろうし、複雑な活動を通じて相手の人格も見えてくるので長期的なパートナーとしての相性も測りやすい)
  4. デートに対する自分のコミットメントが相手に伝わるようにする(相手の事情を配慮しながら充実したデートプランを設定する、など。一般論として、「自分のために努力してくれている」ということが伝わると相手は好意を抱きやすい)
  5. デート中に遊びの時間を設ける、ユーモアを意識する
  6. 些細な会話はなるべく避けて、思考を触発するような質問や人生観に関わる質問をするなど、充実した会話を意識する
  7. 相手に対して興味を持つように努める
  8. スマホは触らない
  9. デートの終盤をとくに楽しくさせる(カーネマンの「ピーク・エンドの法則」
  10. デート後は「デートは楽しかったか、相手は自分を楽しませてくれたか」という点をチェックリストで確認する(チェックリストといえば「相手のスペックはどうだったか」になりがちだが、そうではなく、自分の経験に焦点をあてたリストを作成する)

 

 この本の後半では、いざ相手と恋愛関係になった後の段階の問題が取り上げられて、「相手との関係を継続するかどうかの判断はどうすべきか」「別れると判断した場合の切り出し方」「別れた後のマインドセット」「結婚するかどうかの最終判断」などについてそれぞれ章を割いて書かれている。

 そして、最終章のトピックは「結婚を長続きさせる方法」。ここはトピックの重さに比べると短い分量になっているが、先日に読んだアーロン・ベックの『愛はすべてか』を思い出させるところが多い*1。夫婦関係を長続きさせるためには「放っておいたらなんとかなるさ」「言葉にしなくても自分の気持ちは相手に伝わっているだろう」という態度は天敵であり、二人で定期的に話し合いながら、自分たちの努力によって意識的に関係を維持することが重要であるのだ。

 

 最終章における以下の段落では、著者のスタンスが気持ちよく表現されている。

 

強固なパートナーシップは、偶然にあらわれるものではない。それは注意と選択を必要とする。意図に基づいた愛が要求されるのだ。意図に基づいた愛の世界……実のところ、意図に基づいた生き方の世界……では、あなたが人生を振り返った時に、慎重かつ意図的に行なった決断で彩られているのを見ることが希望となる。あなたは一人の人をもっと深く愛せていたかもしれないし、三人の人と大切な関係を築けていたかもしれないし、独身として刺激に満ちた人生を送れていたかもしれない。いずれにせよ、あなたの人生は偶然ではなく冒険だったのだ。あなたの人生はあなたがデザインしたのであり、あなた自身が責任を持っていたのであり、あなた自身がどんな人間であるかということと自信が望むものについて正直であり続けてきた。そしてもっとも重要なことは、軌道修正が必要になったときに、あなたはそうしてきたということだ。あなたは、人生に関して他の人が抱いている考えではなく、自分自身の考えにしたがって生きてきたのである。

(p.286 - 287)

 

 ここには、行動科学に基づいた自己啓発本のエッセンスが含まれている。「愛」という意図や理性から程遠く思える物事がテーマであるからこそ、ほとんど哲学的ですらある。

 上記の文章はいかにもアメリカ人的だと揶揄する人がいるかもしれないし、新自由主義的だと非難する人もいるかもしれない。しかし、わたしにはある意味でストア哲学的に思える。行動科学と認知行動療法はつながっているのであり、そして認知行動療法の源流はストア哲学にあるからだ*2

 

 著者は女性であるが、彼女のクライアントは男女の両方であるし、LGBTQ+の人やポリアモニーの人も対象にしているらしい。

 ここまで紹介してきた内容を見ると「女性向けだ」という感想を抱く人もいるかもしれないが、わたしは、男性にも充分に参考になる内容であると思う。いわゆる「恋愛工学」や「モテ・テクニック」の本でも行動科学が参照されることはあるが、この本の主眼はタイトルの通り「独身のまま死なないこと」だ。

 男性向けの本では、「長期的な関係」や「愛」そのものに主眼が置かれることが少ないだけでなく、恋愛やセックスと幸福の関係も無視されてしまいがちである。この本を読んでいれば、単にモテればそれでいいというものではないことがわかるだろうし、「恋愛をしたり女性と関わったりすることを通じて自分はなにを求めているのか」ということについて深く考えるきっかけにもなるだろう。

 

 最後に、日本に特有の事情についても考えてみよう。「日本における婚活はとくに歪んでいる」と指摘されることは多い*3。おそらく、婚活に関する諸々の環境(アプリや相談所や街コンなど)は、その参加者を男女ともに「最大化主義者」とさせて、「評価的なデート」を行うことを誘導するような設計になってしまっている……そして、この本に内容に鑑みれば、それは当事者を疲弊させて不幸にさせるだけでなく、「人生のパートナーを見つける」という婚活のそもそもの目的にとっても効率が悪いのだ。

 というわけで、結婚相手を探している人であっても、おそらく最善なのは「婚活しない」ことだろう。つまり、露骨に「婚活用」に設定されている経路ではなく、他の経路を通じて相手を探すことだ。たとえばマッチングアプリを使う際にも、年収やスペックの表示が求められるタイプのアプリではなく、もっと緩くて遊びや楽しみの要素が強い若者向けのアプリを通じて探していくほうがよいかもしれない(時間はかかるかもしれないし、年齢層が高い人には厳しいかもしれないけれど)。

 婚活しか経路がないという場合にも、その「市場」のメカニズムに左右されて自分にとっての幸福を見失わないように、意識的に対抗していくことがよいかもしれない(環境に流されるのではなく、理性によって環境が自分に与える影響をコントロールする、というのはストア主義の基本でもある)。この本で書かれている「体験的なデート」のテクニックはいかにもアメリカ人的であり「陽キャ」的かもしれないが、だからこそ日本の婚活の現場では実践している人は少ないだろうし、「市場」での競合相手との差別化も図れるだろう。実践してみたら楽しいだけでなく相手にとっても良い印象を与えることができるかもしれない。それによって、自分が「スペック」的には多少不利であるとしても、相手が好意を抱いてくれる可能性はある。……まあわたしはまだ婚活をやったことがないので無責任なことしか言えないけれど、やってみて損はないはずだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:というわけで『認知行動療法の哲学ーストア派と哲学的治療の系譜』の出版を楽しみにしています。

www.amazon.co.jp

*3:

gendai.ismedia.jp

ネット論客がインテリから相手にされない理由

davitrice.hatenadiary.jp

 

(6月23日 21:45追記)

最初のタイトルには個人名を入れていましたが、記事のタイトルを「(個人名)が〜から相手にされない理由」にすることはあまりに個人攻撃的に過ぎるという指摘を受けて、同意しましたので、タイトルを修正しました。

(追記終わり)

 

 先日にわたしが投稿した、御田寺圭の著書『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』への書評記事にはブクマやSNSなどで様々な反応があった。全体的には賛否両論という感じ。

 

 みんなの反応を見て、反省すべきと思ったところはふたつ。

 まずは、書評のタイトルと実際に論じている内容にズレがあり、ややミスリーディングになってしまったことだ。書評のタイトルを見ると「不都合な現実に対する解決策が書かれていないこと」が問題であると論じているように思われしまうかもしれないが、実際には、「提示される"不都合な現実"の選択や、その解釈が恣意的であること」「問題の扱い方が論理的でなく、根拠にも乏しいこと」「レトリックを多用して読者の被害者意識を煽ること」などに関する批判が主である。

 しかし、書評のタイトルのほうに注目されて、「解決策が書かれている/いない」という議論にこだわる反応を招いてしまったのはわたしのミスと言えるだろう。

 これに関しては、山川賢一さんがいい感じにまとめてくれている。

 

 

 もうひとつは、書評でありながら具体的な引用がないところ。これに関しては、「具体的に引用して論じるのがめんどくさい」という単純な事情や、「引用しなくてもそれなりの批評が書けてしまったからこれで公開しちゃおう」と思ったことが理由である。しかしまあ、以下で江草さんがしているような指摘ももっともではあるだろう。

 

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』) - 道徳的動物日記

ここまで御田寺氏や熊代氏の論説を辛辣に批判しておきながら、具体的な引用のひとつもないのはライス氏が自負する論理的な批評たり得ないのでは。ソフィスト呼ばわりも人身攻撃的で、それこそ感情的な批判でしょう。

2022/06/17 23:37

b.hatena.ne.jp

 

 なお、江草さんも本日に『ただしさに殺されないために』の書評を公開されている(その評価は是々非々という感じだ)。

 

note.com

 

 それで、先週に書評を公開してからも、「特定の章をいくつか取り上げて、具体的に引用しながら批判するバージョンの批評も書いたほうがいいかな」と思っていたのだけれど……わたしの記事に対するTwitterにおける御田寺の反応を見ているうちに、すっかりその気が失せてしまった。

 御田寺の反応は、以下のTogetterにまとめている。

 

togetter.com

 

 とりあえず、わたしが御田寺に「露骨に嫉妬」しているなどの人格批判を含むメッセージ(マシュマロ)を好意的にシェアしたり、彼が「俺より面白い文章を書けない奴が悪い」などと述べている点にイラッとしたことは述べておこう*1。とはいえ、わたしも書評記事のなかで御田寺を「ソフィスト」などと非難しているので、これについてはお互い様ではある。

 また、わたしは、「著作家には自分の本に対する批評に目を通して応答すべき義務がある」とも思っていない。批評に対する応答には労力や時間がかかるものだし、「ここはわたしの言いたかったことを誤読しているな」とか「ここの批判は的外れだな」と思ったときにそれを(論拠や理由を挙げながら)指摘するのは得るものがなく時間の無駄であることも多いからだ。さらに、「この批判はもっともだな」と思ったとしても、それをわざわざ表明すべきであるとも思わない。「今度から気をつけよう」とか「次に文章を書くときにこの指摘を活かそう」と、こっそり判断するのもアリだろう。

 したがって、わたしの著作に対して出された熊代亨や平尾昌宏による書評についても、わたしは目を通したが特にコメントはしてない(Twitterでシェアしたりブクマを付けたりはした)*2。それくらいの自由は、著作家にもあると思う。

 

 だが、自分の読者層によるファンレター的なメッセージを公開しながら、自著に対する書評でなされた指摘に対する否定を何度も繰り返すことには、単に批評を否定したり無視したりすることとは違う意味合いが伴う。

 俗っぽい表現をすれば、上述のTogetterでまとめたツイートのなかで御田寺がやっていることは「効いてないアピール」だ。そのアピールの対象は彼のフォロワーであり、もっと限定すれば彼のnote(と著作)を購入している彼の「信者」たちである。

 わたしは先日の書評のなかでも御田寺のことを「自分の信者を食いものにしている」と表現したが、彼の反応は、その著作活動が「信者ビジネス」であることを裏付けているだろう。教祖をやっている人間は、自分の主張だけが絶対に正しく他の主張は間違っていると、信者に思い込ませ続けなければいけない。そのために批判を放置することはできず反応しなくてはならないし、批判を受け入れたり応答したりするのではなく「こんな批判は間違っているからお前たちは耳を貸すな」と信者たちに喧伝するしかできない。そうしなければ、「もしかしたらこの人の言っていることには間違いがあるかもしれないから他の人の言っていることも聞いてみようかな」と考えた読者が、彼から離れていくかもしれないからだ。

 実のところ、御田寺の反応は、彼のこれまでの振る舞いや同様の「ネット論客」たちの行動パターンから予測できたことでもある。論客や教祖はネットバトルで勝ったように支持者に見せ続けなければ存在意義がなくなってしまう*3。学者や通常の著作家とは異なり、論客や教祖にとっては、批判にも目を通しながらより適切な議論をしようと精進したり、自分が論じたいと思っている物事について深く考えたり見識を深めようとしたりすることは、二の次となるのだ。

 そして、このことは、御田寺の著作がつまらないこと、読んでも得るものがないことの理由にもなっている。ネット論客や教祖の記事や著作では「読者層が求める通りのものを提供すること」と「負けそうな議論をしないこと」の2点が必須となる。そのために、物事についての適切な知識や理解や考え方を読者に提供することは後回しになってしまう。また、自分の議論にとって不利な証拠や考え方は意図的に無視すること、反論されづらくするために論理を操作したりレトリックを用いたりすることが、必然的に選択されるのだ。

 ……もちろん、学者や通常の著作家の著作においても、意志の弱さや不誠実さから同様の問題が生じることはあるだろう。しかし、ネット論客や教祖の議論においては、不誠実であり続けることが構造的に宿命づけられているのだ。

 そして、これこそが、御田寺圭(とその他のネット論客たち)が学者をはじめとするインテリから相手にされない理由でもある。著作や議論の目的が真実や正確さや適切さではなく「読者の求めるものを提供すること」と「勝ったように見せること」であるために、レトリックに惑わされず内容を吟味できる目端が効いた読者にとってほど、その著作や議論から得られるものはない*4。そして、その著作や議論を批判しても、自分の論客や教祖としての地位を維持するために「負けていないように見せること」を最優先して、「効いてないアピール」を繰り返す。つまり、著作を読むことと批判することの二段階のどちらもが不毛や徒労であるのだ。インテリの人たちだってヒマではない。不毛な存在と関わる時間があるなら、きちんと真実や正確さや適切さを志向した著作や議論を読むこと(そしてそれを批判すること)に時間を割きたいものだろう*5

 ……というわけで、わたしも、今後は御田寺やその他のネット論客のことはなるべく言及しないようにする。もしかしたら他の人たちからはわたしも「ネット論客」の一員と思われているかもしれないが、わたしがやりたいことはネットバトルじゃないのだ。

 

 ここで論じたことは、先日に公開した「「思想と討論の自由」が守られなければならない理由」の下記の内容とも関わっている。

 

s-scrap.com

たとえば、TwitterをはじめとしたSNSで行われる「議論」が有害なものとなりやすいことは、いまや誰の目にも明らかである。プラットフォームの構造のために、Twitterでの議論や極端なものになりやすく、特定の個人の人格を非難する攻撃も引き起こしやすい。妥協点を探ったり相手の主張を理解したりしようとする穏当で前向きな態度よりも、勢いのいい言葉で相手の主張を切り捨てたり妥協することなく自分たちの側の要望を押し通したりする態度のほうが、リツイートや「いいね」やフォロワー数の増加などの「報酬」を得られやすいからだ。

結果として、Twitterでの議論の大半は、議論の相手ではなく「自分たち」のほうを見ながら行われることになる。また、公益のことを考えながら長期的に利害の妥協や調整を測ることよりも、相手を「論破」することで短期的に「自分たち」が気持ち良くなることのほうを優先してしまう。これらの現象には「集団的分極化」や「フィルター・バブル」などの名前も与えられてきた。「ハッシュタグ・アクティビズムが世の中を変える」などと騒がれることもあるが、いまや、見識ある人にとって「Twitterやその他のSNSでの議論が公益に資する」という主張はとても信じられないものになっているだろう。

 

 また、表現の自由というトピックについて触れたついでに、以下のことは書き記しておこう。

 これは伝聞でありわたしも正確には把握していないのだが、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターが発表されたかその原因となる事件が発覚したかの頃に、彼が講談社現代ビジネスに寄稿していることが取り沙汰されて、一部の学者たちが「御田寺の記事を掲載するのを中止しろ」と要求したとか「御田寺の記事を掲載する限り講談社には関わらない」という反応をした、という話を聞いたことがある*6

 このことが真実なら、その学者たちの要求や反応は最悪だ。なんと言っても表現の自由という基本的権利の侵害である。

 また、そもそも、御田寺が講談社現代ビジネスに掲載している記事や著作などで展開している議論は、すくなくとも直接的には差別的なものや危険なものではない。インテリ・リベラルや女性に対する敵愾心を煽ったり、先日の書評で指摘した通り被害者意識を扇動することで女性などに対する憎悪にもつながるという間接的な効果は存在するように思えるが、それらはあくまで間接的なものだ。上記のTogetterにもある通り御田寺は小山晃弘などより露骨に差別的な発言を投稿している人と普段から仲良く「つるんでいる」という問題もあるが、それでも、自分では直接的に差別的な言論はしない慎重さを御田寺が持ち合わせていることは評価するべきである。

 そして、出版社に対して圧力をかけられることは著作家にとって致命的であり、精神的なダメージや恐怖が大きいことは失念すべきではない。これについては、わたしも記事を公開するたびに「〇〇社はこんなやつの記事を載せるのか」「こんな差別的な記事を載せる〇〇社の責任はどうなんだ」とTwitterで反応されることが多いので、よくわかる*7自分の意見はブログに投稿できるし、noteなどを使えば出版社を通さなくとも文章を収益化することができるとはいえ、出版社のwebサイトや著作を通じて自分の主張を広く伝えることができるのは著作家にとっては特別な喜びがあるものだ。

 さらに、学者は、通常の著作家と比べて、自分の意見を発表するための機会と環境にはるかに恵まれていることにも留意すべきだ。学者は学会や紀要や論文を通して意見を発表できるし、権威も備わっているために出版社のほうから専門書や入門書や教科書の執筆を依頼されるチャンスもある。図書館などの大学のリソースや研究休暇などを通じて自分の意見をじっくり深める環境も整えられているし、学会などに参加すれば専門的な観点や豊富な知識に基づいた建設的な批判を得ることができる*8。それらのいずれもが、通常の著作家にはほとんど得ることができないものだ。会社員をしたりフリーターをしたりしながら言論活動をするというのは、ほんとうに大変なのである。

 したがって、「出版社を通じて記事を発表したり著作を出版したりする」という著作家表現の自由を学者が奪おうとすることは、よりいっそう深刻な不公正や不正義であるのだ。

 

 最後に、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターに関連しても、言いたいことがある。

 過去の記事で、わたしはオープンレターの内容やレトリック、それが呉座勇一という個人に対する不当な攻撃と処分につながったことを批判した。その一方で、以下のようにも書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terrakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 

 そして、先日の書評がきっかけで、わたしも、御田寺や小山による、決まり文句の「それ以上いけない」とか匿名のメッセージ(マシュマロ)なども介した「からかい」や「遊び」の対象とされてしまうことになった。

 過去に「オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある」と書いたのは、本心からである。わたしは女性ではないが、感情的であったり脇の甘かったりするところが多く、そのために、リアルでもネットでも多かれ少なかれ「からかい」の対象になってきた*9。自分が被害を受けた経験がある(そして現に被害を受けている)ので、「からかい」のことは本気で嫌いなのだ。だからなんだというわけでもないけれど、過去にオープンレターを批判しながらも御田寺や小山のことを批判しておいたのは、今回の状況をふまえると、尚更よいことだったと思う。

*1:ただし、わたしは御田寺より面白い文章が書ける人間ではあると自負しているが、彼の本のほうが売れているっぽいことに嫉妬を感じていなくもないことは認めよう。なので、みなさん『21世紀の道徳』も買ってください。

 

 

*2:

www.genron-alpha.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

*3:この点については、過去に、雑感をメモしている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:たとえば、わたしはマイケル・サンデルの『実力も運のうち』を批判しているが、しかし『実力も運のうち』を読むことは面白かったし、それ批判することで自分の考えを深められることができた。サンデルは御田寺とは違い、物事について適切に考えることを志向する誠実さを(一定以上は)持ち合わせているからだ。

gendai.ismedia.jp

*5:これは印象論になるが、数年前までは大学教授とネット論客がTwitterで「議論」をする光景は日本語圏でも身近であったが、最近はとんと見なくなった。たとえば小宮友根さんは以前はよく論客と「議論」をしていたが、最近は見かけない。これは、必ずしも彼の主張が「論破」されたからではなく、その不毛さや徒労にうんざりしたからであるだろう。

*6:

sites.google.com

*7:だから、ここで御田寺の言論の自由を擁護していることには、「次は自分の番だ」ということになってしまうのを防ぐという利己的な理由もある。

*8:『21世紀の道徳』の出版後、二度ほど、倫理学の専門家が集まる学会や研究で著作の内容について意見やコメントをもらう機会があった。これらのコメントはほんとうに参考になって有り難いものであったし、逆説的に、在野で勉強しているだけの自分の限界も感じたものである。

*9:だから、経験の程度はもちろん違うだろうけれど、font-daの下記の記事にも共感できるのだ。

font-da.hatenablog.jp

宣伝:最近の執筆活動について(『群像』批評特集号に掲載など)

 

 

 

↑ 著書の『21世紀の道徳』です。2月に3刷目が発行されたけれど4刷目も目指したいので、まだ買っていない人は買ってください*1

 

●発売から2週間経ってしまったけれど、6月7日に発売された文芸誌『群像』の7月号の特別企画【批評総特集:「論」の遠近法2022】にて、「感情と理性:けっきょくどちらが大切なのか?」を寄稿しました。

 

www.fujisan.co.jp

 

『21世紀の道徳』の8章「ケアや共感を道徳の基盤とすることはできるのか?」で展開したようなフェミニズム倫理学(ケアの倫理)批判や、5月に更新された晶文社の連載記事「トーン・ポリシングの罠」で行ったような「怒り」を肯定する風潮に対する批判をしながら、アリストテレスやジョセフ・ヒースを引用しつつ、「昨今ではフェミニズム哲学やマイノリティのアイデンティティ・ポリティクスの後押しを受けながら感情を肯定する風潮が強くなっているけれど、やっぱり理性が大事なんですよ」といった主張をしております*2。それだけだと穏当というかなんということのない議論に聞こえるかもしれないけれど、昨今の日本では文芸誌と「批評」こそがフェミニズム的なアイデンティティ・ポリティクスと「ケア」や「怒り」を肯定する風潮の最前線となっていることをふまえると、その文芸誌の批評特集においてあえてフェミニズムと感情を批判して男性的ともされる理性の重要性を主張する議論を投じたことはまさに「批評家」として本懐を遂げたと評せるだろう……という感じの評価がされることを期待していたんだけれど、そもそも感想を書いたり話題にしてくれたりする人がほとんどいなくて、悲しい感じになっています。よければ『群像』も読んでください。

 

晶文社のWeb連載、今月号では、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を軸としながら、ジョナサン・ハイトやピーター・シンガーやジョナサン・ローチなどの議論も参照しつつ、とくにアカデミズムにおけるキャンセル・カルチャーが「意見を表明する自由」に対してどのような問題をもたらしているか、ということについて論じています。

 

s-scrap.com

 

 なにしろ3万字もかけているので、ネットに掲載される記事やコラムとして適切な分量ではなく読み通せる人の数が限られていることも承知しているんだけれど、『21世紀の道徳』のときと同じく晶文社の連載は後に加筆修正したうえで単著にまとめることを前提としてやっているので、読む際には「本のなかの一章」という認識でよろしくお願いします。ネットで読むのがキツい場合にはそのうち発売されるはずの次作を待っていてください。

 

●先日の記事では御田寺圭さんの著作『ただしさに殺されないために』について、「想定されている読者層(弱者男性)の被害者意識を煽る内容である」という点や「現代社会における問題を(恣意的に・誇張したレトリックを用いながら)提示しているだけで、解決策が示されていない」という点などを批判しました*3

 前者の批判については、「読者の被害者意識を煽っているのは御田寺だけではないし、リベラルやフェミニストの議論にも被害者意識を煽るものは多いじゃないか」といったコメントがありました。これについては、今後の連載で、いわゆる「反差別」の立場の人たちによる「被害者意識を煽る言説」の問題点を指摘しながら、「被害者であること」が重視されてしまう昨今の社会風潮を批判する文章が掲載される予定です。

 後者の批判については「そういうお前も問題に対する解決策を示すことはほとんどないじゃないか」といったコメントがありました。この反論については耳が痛いところがあるとは認めつつも、たとえば「男性の自殺率の高さ」という弱者男性の問題にもつながるトピックについての個人的な解決策については、記事を書いたことがあります。

 

gendai.ismedia.jp

 

 また、弱者男性の問題についての社会的な解決策については模索中、というところです*4。考えている方向性としては、「弱者男性(または男性一般)が被っている危害や不利益は女性やその他のマイノリティが危害や不利益と同じように社会正義に係る問題であり、対応策が検討されたり、可能であれば是正されたりするべき問題である」と主張すること。また、(アイデンティティポリティクスの言葉やラディカルな言葉ではなく)政治哲学における正義論やリベラリズムの言葉を用いながらその主張を明確化して、公的な議論や討議の対象として取り上げられるべき問題であると示すこと。……つまり、結局のところは「ただしさ」を否定するのではなく肯定することが必要になるのではないか、と考えています。倫理学に比べると政治学にはまだ馴染みが薄いので苦戦しているけれど。

 

●今年に入ってから『中央公論』や『群像』に記事を掲載してもらったけれど、この後は雑誌などに文章を掲載してもらう予定がいまのところないので、よかったらどこか記事を掲載してくれる雑誌などを募集しています。文筆家としての生活を続けるために知名度を上げたいのと原稿料がほしいのとで。ほしいものリストからの食糧や本の支援も引き続き募集します。

 

www.amazon.co.jp

*1:どういう内容の本か知りたい人は、わたしが書いた紹介記事、および倫理学者の平尾昌宏先生や先日の記事で批判しちゃったシロクマ先生による書評記事を参考にしてみてください。

gendai.ismedia.jp

synodos.jp

toyokeizai.net

www.genron-alpha.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

*2:

s-scrap.com

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:手がかりとして数ヶ月前に書いたメモ的な記事はこちら。

davitrice.hatenadiary.jp

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)

 

 

 いま執筆を進めている「反ポリコレ本」の参考になるかと思って『ただしさに殺されないために〜声なき者への社会論』を読んでいるけれど、案の定、まったく面白くない。

 Amazonレビューにもある通り、「身もふたもない現実」や「不都合な真実」、世の中に存在する残酷さや不条理さを指摘するだけであり、その現実や不条理さについて社会はどう向き合うべきか、個人はどうやって対処するべきか、といった前向きな提言や解決策はほぼない*1

 

 さらに言うと、この本のなかで提示されている「現実」や「真実」は実に恣意的に選択されている。たとえば、昨今では男性に比べて女性だけが解放されたり社会的に尊重されていたりすることを何度も取り上げて、そのことが(弱者である)男性に対してもたらす苦痛や苦悩や理不尽さといったものが繰り返し強調されるが、女性たちがこれまでに被り続けてきた(そして現代でも被っているかもしれない)苦悩や理不尽さについても読者の考えを巡らせるということは一切されない。

 あるいは、現代の社会で当然のものとされている自由や平等が「能力主義」や「役に立たない存在」への差別に結びついていることをことさらに強調して、能力がないと見なされた人が直面している(とされる)状況をあれこれと悲観的に描いているが、現代的な自由や平等や「能力主義」がなかった場合に社会はどうなるか、その場合にはどんな人がどのような差別を受けていただろうか、といった点について検討されることもない。

 

 また、この本には主語というものがほとんどなく、主観と客観が切り分けられていない。「身もふたもない現実」とか「世間のふつうの人々の残酷さ」といったものがまるで確定された事項であるかのように次々と提示されていく。だが、「他の面から考えたら現実について違った解釈をすることはできないか?」とか「世間の人々の価値観や行動はほんとうにそのようなものであるのか?」とかいったポイントについて検討されるターンがまったくないのだ。

 たとえば、わたしが社会問題などについて文章を書くときには、なんらかのデータや記事、または本やアカデミックな理論などの参照先を明示しながら「世の中ではこういう問題が起こっているようです」「この問題は具体的にはこうなっているようです」と事実に関する知見をまずは提示する。その後に、「わたしは、この問題について、これこれこういう理由に基づいて、このような意見を持っています」というわたしの意見を述べるようにしている。

 文章を書く以上はわたしも自分の意見を読者に納得してもらいたいとは思うが、わたしの意見の論拠や理路について読者にきちんと検討してもらい、考えたうえで判断してもらいたいとも思うからだ。そして、これはアカデミック・ライティングに限らず、「事実」や「意見」について文章を書く人ならだれでも守るべき作法であると思う。自分が提示している事実や意見の根拠を読者に対してオープンにすることは、「この著者はわたしの意見や考えを恣意的に誘導しようとしてはいないんだな」という信頼を読者に抱いてもらうためには不可欠であるからだ。

 

 また、『ただしさに殺されないために』のなかでは、社会の状況や人々の行動を解釈するうえで何らかの理論を用いられることがほとんどないし、価値判断の基準もまったく明らかにされていない。だから、著者が提示している現実についての解釈や価値判断に疑問を抱いたとしても、その論拠を問うて反論することがほとんどできない。

 論理の代わりに用いられているのがレトリックであったり、鉤括弧や改行や傍点などの諸々の文章テクニックであったり、ペシミスティックでポエミーな文体であったりする。御田寺は日頃からTwitterで女性やリベラルの「お気持ち」を非難しているが、実際のところ、彼の文章は論理による裏付けがほとんどなく、客観的っぽい書き振りとは裏腹にかなり感情に頼ったものであるのだ。

 そして、論理ではなく感情に頼った著作であるために、『ただしさに殺されないために』は拡がりというものをまったく持たない。この本に多少なりとも賛同できたり感銘を受けたりできるのは、あらかじめ想定されているごく狭い範囲の読者であるだろう。つまり、自分が女性に相手にされていなかったり女性のせいで被害を受けていたりするという意識を抱いている男性や、自分のことを能力社会によって差別されている弱者だと思っている人などだけが、読者と想定されているのだ。

「解放された女性」や「リベラル」などは揶揄や非難の対象として取り出される藁人形としてしか扱われておらず、女性やリベラルがこの本を読んで少しでも納得したり意見を改めたりするということは最初から目指されていない。『ただしさに殺されないために』で行われているのは、あらかじめ想定されている読者が既に抱いている信念や感情を慰撫することでしかないのだ。具体的にいうと、レトリックや文章テクニックを多用しながら恣意的に切り取られた「身もふたもない現実」や極端なかたちで表現された「女性やリベラルの欺瞞」を浴びせかけて、「非モテ」や「弱者男性」が事前に抱いている被害者意識をさらに補強すること(だけ)が、この本のもたらす効果である。

 読者層が狭く限定されており、それらの読者に抱かせようとしている意見や感情もほぼ固定されているという点を見ると、『ただしさに殺されないために』は議論ではなくアジテーションを行う本であると言っていいだろう。そして、これこそが、御田寺の言論が「男女の分断を煽る」「女性に対するヘイトを増幅させる」と以前から非難されている理由でもある。

 

 先日の記事では『ローマ皇帝のメンタルトレーニング』を紹介したが、この記事でも改めて引用しよう*2

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 わたしは、御田寺は上記で指摘されているところのソフィストの典型であると思う。彼の言論は、世の中についての新たな知見や社会の問題を解決するための視点、あるいは人生を良くする方法といった生産的で意味のある知恵をもたらすものではない。「おれは女性や能力主義のせいで苦しんでいるんだ」という被害者意識を持った(ごく狭い範囲の)読者に「そうだそうだやっぱりリベラルやフェミニストは欺瞞に溢れているし、現代の社会はおれのような人間を虐げているんだ」という感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかないのだ。

 そして、論理の代わりにレトリックを多用するがゆえに、御田寺の文章には読者たちの被害者意識やそれに伴う無力感や憎悪といった不健全な感情を癒す効果はなく、むしろそれらの不健全な感情を悪化させて、当の読者たちの人生の質をも下げさせている。わかりやすく言うと、彼は自分の信者を食い物にしているのだ。

 

 ……もちろん、ソフィストは御田寺のほかにも数多く存在するし、読者の被害者意識を煽る文章を書いてそれを商売にして生きている人はフェミニストなどのなかにもいるだろう。アカデミシャンのなかにすら、読者に知識や知見を与えたり読者を啓蒙したりするのではなく、レトリックを駆使して読者をアジテーションすることを目的とした本や文章を書く人はごまんといる*3

 御田寺の文体もとりわけ特異なものではなく、「批評家」とか「ジャーナリスト」とかいった肩書きを持つ人たちの文章のなかではよく見受けられるタイプの文章ではある。わたしにはさっぱり理解できないけれど、物語文ではなく評論分や批評文にすらレトリックや情緒的な文体を求める読者層というのがあるようなのだ。

 いずれにせよ、右の人が書いたものだろうが左の人が書いたものだろうが、男の人が書いたものだろうが女の人が書いたものだろうが、そういう文章はぜんぶ不毛で無駄であるし、だいたいにおいて有害であるとわたしは思う。

 

 そして、(弱者男性の)被害者意識を煽る言論活動をしているという点すら、御田寺に特異なものではない。たとえば、はてな界隈においては熊代亨(シロクマ先生)は御田寺に比べると遥かにまともな論客として遇されてきたようだが、昔はいざ知らず最近の彼の記事を読んでいると、多少なりとも文章が丁寧であったり上品であったりするというだけで言論の内容は御田寺と同程度なのではないか(というか、御田寺を模倣しているのに過ぎないのではないか)と思わされることが多い。

 たとえば、以下の熊代の記事では、現代社会における「性」や「恋愛」を極端かつ根拠に乏しいかたちで描写しながら、人間の「動物性」をことさらに強調するレトリックが用いられている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

blog.tinect.jp

 

 わたしにはこれらの記事を読んで得られるものはなにもなかった。たとえば人間の「動物性」について知りたいときにはこのような粗雑な議論ではなく専門家が書いた進化心理学の本を参照するし、現代社会における「性」や「恋愛」についてもずっと深く考察した議論は他のところで見つけられるだろうからだ。

 結局のところ、御田寺の言論と同じように、上記に挙げたような熊代の言論も、「所詮は動物である人間が行う恋愛や性なんて残酷で価値のないものであるし、おれはオスとしての能力に乏しいからメスどもに選ばれないんだ」といった類の、特定の読者層が抱いている劣等感や悲観主義や憎悪といった負の感情を煽るくらいの意味しかないように思える。先述したように、それらの負の感情を煽ることは、当の読者の精神衛生を悪化させて彼の人生を余計に惨めなものとするだろう。

 

 最後に、2019年の年末に御田寺の記事を取り上げて書いた、わたしのブログ記事を改めて紹介しておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

…同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 

 こうしてみると、御田寺の言論についてわたしがとくに問題だと思っているところは、以前から変わりないようだ。つまり、彼の言論は、批判対象である女性や「リベラル」にとって危険であったり不快であったりする以上に、彼の言論を喜んで消費している読者にとって有害であるのだ。

 

 とはいえ、わたしも言論の自由を重視する立場なので、明らかに攻撃や差別を意図したものでない限り、どんな言論であっても規制するべきではないと思う。

 そして、御田寺の言論には直接的な差別がほとんど含まれてないことも、指摘しておいたほうがよいだろう(被害者意識や憎悪を通じて差別感情も間接的に煽るものであることも、明白であるとは思うが)。

 

 しかし、ここで改めて声を大にして主張するが、御田寺や熊代が行なっているような、そしてはてなの匿名ダイアリーで展開されているような男女論を真に受けたり取り合ったりすることは、とくにあなたが若い人であればあるほど、本気で止めたほうがいい

 軽いジョークのつもりであったり、SNSやブログを通じたコミュニケーションの一環であるとしても、物事について極端な表現をしたりレトリックを用いたりすることは、気が付かないうちに自分の思考を規定したり認知を歪めたりすることになる。

 以下のツイートはおそらくわたしよりも若い男性によるものであり、明らかに御田寺や「はてな論壇」の言論の影響を受けた人によるものである。本人は冗談のつもりとして投稿したものであるかもしれないが、わたしはこのツイートを目にしてかなり不安になったのだ。

 

 

*1:

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

books.cccmh.co.jp

*3:このブログでもその種の本をたびたび取り上げて批判してきた。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

レトリックに基づいて物事を考えてはいけない理由

 

 

 英語圏で定期的に出版されている、ストア哲学ライフハック自己啓発に活かす方法を説くタイプの本だ*1

 本書の特徴のひとつは、数多くいるストア哲学者のなかでもローマ皇帝マルクス・アウレリウスを主人公としていること。各章の前半では彼が人生で経験した様々な出来事や問題と当時のローマの世情や政局を描きつつ章のテーマとなる課題を示しながら、章の後半ではその課題に具体的に対処する方法が解説される(前半は歴史読み物風に「〜だ〜である」調、後半は解説書風に「〜です〜ます」調に訳し分けられているところも印象的)。

 もうひとつの特徴は、著者が認知心理療法士であるということから類書よりもストア哲学認知行動療法の共通点が強調されており、具体的なアドバイスも類書に比べて心理療法的で実践的であるというところだ。

 

 本書でとくにわたしの印象に残ったのは、第二章にて、ストア哲学と修辞学やソフィストが対比されている場面だ。

 

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

 

修辞学を捨てきれずにいたマルクスを、それに惑わされてはいけない、言葉を弄して高潔な人物を演じてはいけないと説得したのはルスティクスだった。そして、誇張したり、詩的にしたり、飾り立てたりする言葉を避け、地に足がついたストア派的な話し方をするようマルクスを厳しく指導した。言い換えれば、マルクスは修辞学からストア哲学へと完全に転向したのであり、このことが彼の人生にとって決定的な転換点となった。しかし、なぜ言葉の使い方を変えることが変革をもたらすのか?現実を見栄えよくしようとするのが修辞学であるのに対し、現実をありのままに把握しようとするのが哲学だからだ。本格的なストア哲学者に変貌を遂げたことで、マルクスの基本的な価値観が変わった。ストア派が言う「賢明な話し方」が簡単なことではないことも理解していった。それを実践するには、勇気、節制、哲学的真理への誠実な取り組みが必要になる。これから説明していくが、この方向への転換は、話し方だけでなく、出来事に対するまったく新しい取り組み方へとつながっていく。

(p.77 -78)

 

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 ストア派では、外界の物事に対して自分の心の内に形成された「心像/表象」(パンタシアー)に振り回されるのではなく、「自分がどんな心像を形成しているか」という点を理性によって「把握」(カタレープティケー)して、客観的に事実を認識して感情に依らない判断をしたり自分の感情のほうを事実に合わせて訂正することが重要とされる。これは、自分や患者の「認知の歪み」や「自動思考」を把握して、その誤りや歪みを具体的・客観的に示したのちに訂正することを目指す、認知行動療法の考え方と共通しているのだ。

 

出来事そのものに留まることができれば、不安が軽くなることもあります。認知療法の世界では、最悪のシナリオにこだわることを"破局視"と呼ぶようになっています。"破局視"は、クライアントが外の出来事に自分の価値観をどのように投影しているかを理解してもらうために使う用語です。私たちが「もう終わりだ」と言うとき、実際に起こっているのは"終わり"でも"破局"でもありません。出来事をその人が"破局視"しているだけです。それがクライアントが実際に行なっている活動であることを自覚してもらいます。簡単に言えば、話を大げさにしています。仕事を失うことは本質的な意味で"破局"ではありません。しかし"破局視"すると、それがどれほど悪いことであるか受動的に認識するところで終わりません。私たちの思考は、積極的にそれを"破局"に変えていきます。価値判断を加えることで、現実を吹き飛ばして心の中で"破局"を体験することになるのです。

認知行動療法では、自分を苦しめる"破局的な"価値判断をしているのがまさに自分であるという当事者意識を"認識"する手助けをします。古代のストア派の教師と同じように、出来事を現実に即した客観的な言葉で説明してもらうことでこれを行います。

 

(p.84)

 

  著者によると、ストア派による状況認識のテクニックは認知療法創始者であるアーロン・ベックが患者に「脱破局視化するための台本」を書かせたのに似ている(患者自身に、強い価値判断や感情的な言葉を伴わない客観的な文章で、自分の状況を記述させる)。外的な事柄から価値判断を分離させ、「私たちを動揺させるのはその出来事ではなく、その出来事に対する私たちの判断だ」と理解して、現実とそれを捉える私たちの思考との間にある認知距離を認識するメタ認知のプロセスは、ストア派においても認知行動療法においても鍵となる。

 

 さて、いま作家業のほうで進めている「反・ポリコレ本」の執筆作業をしているうちに気付いたことのひとつが、ポリコレ的な概念や理論は多かれ少なかれ修辞学的であり、そしてストア派の考え方はポリコレ的な概念や理論に対する処方箋となることだ。

 たとえば、ジョナサン・ハイトは認知行動療法の理論家であるデビッド・バーンズの「認知の歪み」リストを参照しながら、マイクロアグレッションやトリガー警告といったポリコレ的な発想は認知の歪みを是正するのではなくむしろ悪化させてしまう危険性が強い、と指摘している*2。マイクロアグレッション理論には破局視や感情的推論やマインドリーディングなどの認知の歪みを助長する効果があり、相手の言動から「無意識の偏見」や「侮辱」や「敵意」を読み取ってそれによって精神的ダメージを受けるように人々を誘導する。「些細な言動に対しても人は傷つき得る」というレトリックが普及することで、それまでは傷つかなかったような言動にも人々が傷つくようになっていく、という逆説的な事態が生じているのだ。

 また、「特権」理論もかなりレトリック的なものであり、あえてマジョリティとマイノリティとの対立を誘発するようなかたちで世の中の事態や構造を描き出すものであった*3。特権理論の問題点のひとつは、その提唱者たちも最初は自分たちの政治的な意図を自覚しておりレトリックであることを認識したうえで論じていたのであろうところを、この理論が普及することによって一部の人々はレトリックであるのを忘れてほんとうに「特権」が存在しているかのように認識するようになったこと、特権理論とは違うかたちで世の中の事態や構造について把握することが困難になってしまったことだ。他人の感情を操作するためのレトリックが知らぬうちに自分たちの思考を蝕んでしまう、という事態はこれまでにも政治運動などにおいて起こり続けていたのだろう。

 そして、もっと初歩的な問題として、ポリコレは「理性」や「中立」を疑問視して「感情」や「主観」を全肯定する風潮をもたらしている*4ストア哲学認知行動療法から得られる最大の教訓は、本人の感情や主観を全肯定することはその本人にとって有害であるということだ。

 近年では心理療法や精神医学に関わる人のなかにもポリコレ的な考え方をするような人が増えており、彼らの一部は認知行動療法個人主義的・新自由主義的であると否定して、患者の抱える問題の社会的な原因や政治的な原因を強調する。これについては心理療法や精神医学の方法論の違いとか学派の対立として捉えることもできるかもしれないが、わたしとしてはやはり認知行動療法的な考え方のほうが実際に患者の抱えている問題を解決するうえでは有効であるように思える。

 

 とはいえ、とくに本邦では「反ポリコレ」側な人たちもレトリックを多用していること、そのために社会にとっても「反ポリコレ」側な人たち自身にとっても有害な影響が生じていることは指摘しておいたほうがよいだろう。

 たとえば「かわいそうランキング」というレトリックの問題については何度か指摘してきた*5。また、「弱者男性は社会的価値がないから虐げられており、現状のこの社会ではどう足掻いても不幸になり、誰からも共感や愛情の対象とされない」というレトリックは、社会における実際の状況を極端かつ針小棒大に解釈したものであり、それを真に受けた当の弱者男性を幸福にすることはまずあり得ない*6。最近に流行っているレトリックとしては「能力主義や学力主義は、差別の基準が異なるだけで、人種差別や性差別と同じように差別の一形態に過ぎない」というものがある……能力主義や学力主義の問題点を指摘することは結構だし、差別との類似性を発見することもできるだろうが、それは簡単に済ませられるようなものではない。「能力主義と差別は一緒であるのか、違うとしたどこが違うのか、なぜ能力主義は正当化されるのか」ということに関してはずっと昔から議論が積み重ねられているであり、いまさら誰かが一言で矛盾を指摘したり欺瞞を喝破したりすることはできないのだ。

 これらの問題は、「反ポリコレ」的な論客の大半はストア哲学者に対比されるソフィストであることに起因している。彼らは世の中を改善することよりも「議論」に勝って自分を賢く見せること、自分の「顧客」たちにエンタテイメントを提供して感情を慰撫して短期的な満足を与えること、それによって自分の著作やnoteを売ることにしか関心がない(もちろん、「ポリコレ」側にも同様にソフィスト的な人たちは散見されるが、割合にはかなりの差がある)。

 

 昨年から登場した「親ガチャ」というレトリックも、この問題に関する社会的な関心を広めたという功績があることは否定できないが、事態を実際以上に悪く表現しており、若者たちの「破局視」をさらに悪化させているという弊害があるように思える。氷河期世代に関する政策を「棄民政策」と表現するのも同様だろう。

 あるいは、SNS進化心理学を語る人が「オス」「メス」や「ホモサピ」という言葉を多用しながら安直で一面的な人間観を喧伝すること、男女論を語る人が「穴モテ」などの物言いを好んで使用するのも、ストア哲学では「下品にならないようにすること」が重視されているのとは対比的だ。……社会の構造だけでなく、男女の関係性の機微や人生について考えるうえでも、感情的な刺激の強い単語を用いるとそれに思考が引っ張られてしまい、的を得た考察をすることができなくなってしまう。複雑な物事について考えるためには「上品さ」も不可欠になるのだ。

 これらの事態の原因は、字数がひどく制限されているSNSでは「箴言」を言い放つのは容易であるが「議論」を展開するのは困難であること、そのためソフィストにとって適応的な環境になっていることにあるだろう*7。字数を割いて議論を展開することが仕事であるはずの物書きや大学教授ですら、SNSではアフォリストに転身して、レトリックを量産するのに満足しているという有様はよく見かける。

 

 物事について適切に考えて、社会の状態を正しく把握したり自分の人生を良くしたりしたいなら、ソフィストに耳を傾けるべきではない。とくにSNSでは、誰かの言葉に感情を動かされたときにこそ、その「感情を動かされた」という事実が、相手のことを警戒するべき理由となるかもしれない。

読書メモ:『自己陶冶と公的討論:J.S.ミルが描いた市民社会』

 

 

 

 先日に読んだ『醜い自由』と同じく、ミルの著作(『自由論』がメインだが『功利主義論』なども登場する)を扱った専門的な本。また、『醜い自由』と同じく、論理的な一貫性がなく折衷的だと批判されがちなミルの議論に一本筋を見出して擁護するという試みがされている。主に扱われているのは、ミルが「市民社会」についてどのように考えたのか、個人が討論や政治に参加することがなぜその個人にとっての「幸福」や「自由」につながるか、という問題だ。

 

これまで市民をめぐるミルの議論に注目してきたが、その中心にあるのは参加を通した公共精神の陶冶という考えであった。ミルの理想とする市民は公共精神を身につけており、公共精神はミルの考える自由な社会にとって不可欠なものであった。ただミルはそうした理想をただ押しつけようとしたのではなく、一方で自由を保障し、他方で義務を課すことによって、市民が自ら陶冶によって公共精神を身につけるプロセスに期待している。そして、その期待を支えているのは、市民が参加によって変わりうるというミルの確信である。ミルによれば、実際に身につくかどうかは参加してみないとわからないということになるのだろう。しかし、感情を養うのは行為であり、公共精神を備えた市民は参加によって生み出されるといえる。

(p.45)

 

…ミルがエリート主義なのかという点については、ミルが市民の自己陶冶を主張することで何を問題にしているのか、という点に注目する。先に性格形成について触れたが、人間の行為における因果法則の影響を認めるミルにとって、性格は行為の原因にあたり、個々の行為に一定の方向づけを与える。性格についてミルは「欲求と衝動が自分自身のものである人、自分自身の育成によって発展させられてきた本性のあらわれが、彼自身の欲求と衝動になっている人は、性格をもつ」と言っており、他の人びとの伝統や慣習ではなく、その人自身の性格が行為の規則になっている人のことを「個性」をもつ人と呼んでいる。ミルが当時の社会に対して憂慮しているのは、性格や個性の素材となる欲求や衝動がそもそも生じにくくなっているという事態である。ミルは随所で活動的な性格、精力的な性格の望ましさについて触れ、また知的、道徳的資質と並んで活動的な資質を重視している。なぜなら、そうした性格は「怠惰で無感覚な性格よりもつねに多くの善をうみだしうる」からである。こうしたミルの主張と、これまで検討してきた市民の問題を重ね合わせるならば、理想的な市民の問題は個性の発展の問題でもあり、そこで考えられている「個性」は、ミルにとって何ら特別なものではなく、誰もが手にしうるものと言える。それゆえ、ミルに対しエリート主義という批判はあたらず、また『自由論』の主要な論点が「意見と行動の多様性」及び「性格の多様性」であることを考慮するならば、ミルがある特定の理想的市民像を押しつけているということにもならないと思われる。

(p.68 - 69)

 

…ミルが「行為者」にとって発展させることが重要な意味をもつと考えたと思われる個々の能力についても検討したい。それらは「欲求と衝動」「感受性」「知的能力」「想像力」の四つの能力である。

 

…性格をもつだけでなく、欲求と衝動が強く、さらにそれらが理性の支配下にあるとき、その人は精力的な(energetic)性格をもつということになり、そうした人間であることをミルは推奨するのである。こうした主張の背景には、文明化した社会で「人間本性を脅かしている危険は、個人的衝動と選好の過剰ではなく、不足している」というミルの認識があるといえるだろう。

 

…私たちは行為を通して、さまざまな感覚を得、経験を重ねていく。…経験を自分自身の仕方で活用し、解釈するためには、そうした経験を受け取るということ、そして経験から得られる快苦を受け取ることができ、そしてさらに、それらを享受できるということが条件となってくるのである。

 

…ミルにとってなぜ「真理」が重要かというと、真理を知ることが、真理に基づいて行動しようとする気持ちを抱かせる早道だと考えているからである。つまり、真理を知ることによって、私たちは正しい動機を形成することができる。それを所有していることによって、人はよく活動でき、そして、それが功利原理の適用にとって不可欠である、と考えているためである。

 

…想像力は、他人の経験を理解することやその人の表面に出てこない(まだでてきていない)性質を知るために必要とされる。また、それは自分自身にとっても同様である。つまり、自分自身を観察する、そして内省することを通して、自らを理解する上でも必要なものであった。ミルにとって想像力とは、外部世界を認識する「観察」とならぶもう一つの認識能力として、もつことが重要なものであった。

 

(p.93 -97)

 

では、あらためて「卓越生」の主張とはどのような主張なのだろうか。この点については、先にも何度か取り上げている「生活の技術」という考え方が参考になる。「生活の技術」については、ごく簡単な説明にとどめるが、行為や好意のあり方を評価する枠組みとして、「道徳性」「慎慮/政策」「審美」という三つの二次的な価値原理を採用し、それぞれ「正しさ」「便宜」「美または高貴さ」を評価の対象とする。いま私たちが問題にしている性格の「卓越性」は「審美」の領域の問題であり、その「美」や「高貴さ」といったことが評価の対象となるのである。それゆえ、性格の理想をかかげ、それ自体を目的として自己陶冶する際に求められる「卓越性」は、個人の裁量にまかされるものであり、決して他人によって強制されるような事柄でなく、個人の目的として望ましいということになるのである。ミルはこの「美」の分野を、「知性と知的能力」「良心と道徳的能力」とならぶ第三の分野として「それらに従属すべきものであるが、質的にはほとんど劣ることがなく、実際、人間性の完成にとって、なくてはならないもの」として重要視している。そこで必要とされる能力が「共感能力」と「想像力」であり、ミルが感情の陶冶で意味していたのもこの分野の問題であった。

 

(p. 123 - 124)

 

まず、前節において確認したのは、ミルの自由の擁護論は、本人の幸福の増大または幸福の一部として、また、社会の利益や進歩といった視点から擁護されているということであった。また、本節で確認したように、危害原理と小売原理は並列的な関係ではなく、役割としても、異なるレベルにあり、ミルにおいては、階層的に理解されているということであった。つまり、ミルの自由の主張の背景には功利主義的な、つまり、幸福への考慮があるということであり、自由は幸福の手段として、あるいは、幸福そのものとして求められているということになる。そして、このことから導きだせることは、私たちが本書において取り扱っている市民社会についても、ミルは、功利主義に基づく市民社会を、あるいは全体の幸福という観点から市民社会を考えているだろうということである。

 

(p.158)

 

また、ミルによれば、人間は誤りうる存在でもあった。それゆえ、自身の意見を、他者の意見と対照することによって、訂正し、完全にするという習慣を身につける必要がある。私たちは、自身に向けられる意見に対し、こころを開き、相手の言うことをよく聞き、相手に正当なところがあればそれを受け入れ、相手の誤りを説明することが求められ、そのプロセスを通して、自身の意見の確実性を手にすることができるのである。このプロセスの中には、他者の意見を受け入れ自分の意見が変わるということが含まれている。これは、公共精神を身につけるプロセスとして、ミルが市民に対して求めたことでもあった。

 

(p.185)

 

 本書を読んでいてまず印象に残るのが、ミルは人間が受動的であることをまずいと思っていたこと、(理性によって制御されることが前提になるとしても)「欲求と衝動」は性格や個性の発展に欠かせないと考えていたことである。これは、政治参加の機会の乏しさや「民主主義疲れ」などとあわせて、「他人と違う意見を言うことを恐れて、権威や規範に順応的で、無気力でガッツに乏しい」といわれる最近の日本の若者の問題点を考えるうえで重要になるかもしれない(現在30代前半である私の世代からこのような傾向は存在していたから、もはや「若者」に限定できることではないかもしれないが)。

 また、ミルによる自由の擁護論は「個人の幸福」という観点からだけではなく「社会の利益や進歩」という観点からも主張される、という点はやはり重要だろう。本書を読んでいても、「個人の幸福」だけで自由を擁護するのは難しい……ミルの人間観はやはりかなりエリートで有能な人間像を想定したものであるように思えるし、自己を陶冶することや公的な討論を行うプロセスに耐えられない人は相当多いように思える…からこそ、社会の利益という観点から自由を擁護することのほうが今後は重要になっていくんじゃないかとわたしは思う。

「公的討論が自己陶冶につながって、個人を幸福にして社会も良くする」という発想はほとんど「熟議民主主義論」そのままであり、したがって、熟議民主主義に対するシニカルな批判はミルも直撃することになるだろう。わたしは熟議民主主義についてはいまだにスタンスを決めかねており、一部の冷笑家のように熟議を丸ごと否定したり馬鹿にしたりするつもりはないのだが、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』やサンスティーンのリバタリアンパターナリズム論やサイバーカスケード論なんかを読んでいると「誰でもかれでも議論に参加させてなんでもかんでも意見を言わせればいいってもんじゃないよな」と思えてしまうこともたしかだ。もっとも、これは熟議民主主義自体の問題というよりもSNSやネット(あるいはマスコミ)というメディアの問題かもしれないけれど*1。本書に収録されている「座談会」では「哲学カフェ」について肯定的に取り上げられているけれど、わたしは哲学カフェもロクなものではないと思っているし……。

 

「卓越性」に関する議論のところでアリストテレスの思想と比較したり共通点が述べられているところも印象に残った。『ロールズ正義論入門』を読んだときも思ったけれど、「善の多様性」や「個性」を擁護するはずのリベラリズムが、ふつうの思想以上に「卓越性」や「徳」を肯定せざるを得ない、というのは面白いと思う。

 おそらく、リベラリズムにしても功利主義にしても、論理的な矛盾のなさや分析哲学的な一貫性だけを重視するなら卓越や徳の概念を捨てたほうが有利であると思うんだけれど、不利になるとしてもそこから目を逸らさないことのほうがほんとうの意味で妥当な倫理学とか社会論とかを考えるためには重要なのだろう。