道徳的動物日記

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効果的な利他主義と動物の権利運動(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』③)

 

 

 第2章「アクティヴィズム」の著者はジェフ・スィーボウとピーター・シンガー。どちらも倫理学者であると同時に動物の権利運動に実践的に関わっている人だ。

 この章で主に論じられるのは<効果的なアニマル・アクティヴィズム>について。

 これは、エビデンスと理性を用いながらできる限り多くの善をなそうと試みる「効果的な利他主義」の考え方を動物の権利運動に当てはめたもの。

 

<効果的な利他主義者たち>全般、また個別的には<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>は考えうる最も多くの善をなすために、どのようにエビデンスと理性を用いようとしているのか。ウィリアム・マッカスキルは、人々にいくつかの問いを促す有力なモデルを考案している。このモデルによるなら、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、第一に、問題の規模を問うべきである。すなわち、その問題がほかの問題と比べてどれほど多くの害を及ぼすかと問うのである。第二に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題が見過ごされている度合いを問うべきである。すなわち、今現在、人々はほかの問題と比べてその問題にどれほど注意を払っているのかと問うのである。第三に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題の解決可能性を問うべきである。すなわち、ほかの問題と比べてその問題について人々のあいだに(もしあるなら)どれほど意見の相違があるかのかを問うのである。最後に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は個人的な相性を問うべきである。すなわち、人々の個人的な才能や関心やバックグランドがどのようなものであるか、また人々がある種の仕事にどれほど向いているかということを問うのである。問題が及ぼす害が大きければ大きいほど、問題が見過ごされていればいるほど、問題が解決しやすければしやすいほど、そして<効果的なアニマル・アクティヴィズム>がその問題に取り組むのに向いていればいるほど、その分だけ<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、その問題に優先的に取り組むべきなのである。

 

(p.64)

 

 スィーボウが理事会メンバーでもある「動物チャリティ評価組織」という団体の計算によると、コンパニオン・アニマルを救う取り組みには一頭につき数百ドルかかるが、家畜動物を救う取り組みには一頭につき10セントもかからない。そして、人間に利用され殺されている飼育動物の97パーセントは家畜である。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィズム>ではコンパニオン・アニマルよりも家畜の問題に取り組むことのほうが優先される。

 一方で、野生動物たちにも多大な苦しみは生じているが、家畜の問題に比べると野生動物の問題は解決が難しい。干ばつや飢餓や他の動物からの捕食といった野生動物に苦しみを生じさせる原因にそもそもどう対処すればいいのか、対処できたところでどんな副作用が起きるか(生態系や環境のバランスの破壊など)、といったことが不明であるからだ。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>の多くは、野生動物の問題は後まわしにすべきであると判断している。

 

 また、動物の権利運動をどのような方法で行うかということについて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>とそうでない動物の権利運動家たちの間では意見が対立しがちである。効果的な利他主義者たちは計算可能なエビデンスに基づく費用便益計算を重視するがゆえに、利益が計算しやすく費用が計算しづらいアプローチを好む一方で、利益が計算しづらく費用が計算しやすいアプローチを嫌がる傾向がある。

 そのため、効果的な<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は「懐柔的」なアプローチをとりがちだ。つまり、一般的な消費者たちを表立って批判したり糾弾したりするのではなく、工場畜産で生産された製品の消費を減らして動物福祉に配慮された環境で生産された製品を購入するように呼びかけるのである。このアプローチは、短期的に見れば効果が出やすい(実際に工場畜産で生産された動物性食品の消費が減って、劣悪な環境に生きる家畜の数が減ることにつながるから)。しかし、長期的に見れば、このアプローチは人々の信念を変えて動物性の製品そのものの消費を止めるように促すかもしれない一方で、「動物福祉に配慮された環境で生産されたなら動物性の製品を消費することは一切問題がない」という信念を植え付けてしまい、動物性の製品の存在を撤廃するという動物の権利運動の目的にとっては逆効果な結果を生じさせるかもしれない。

 一方で、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>ではないタイプの動物の権利運動家は、動物福祉に配慮された環境で生産されたかどうかに関わらず動物性の製品を消費することそのものを批判する「対決的」なアプローチを取ることが多い。短期的に見れば、このアプローチは有害な結果を生じさせる可能性がある。「懐柔的」なアプローチであれば理解を示していたかもしれないオルグ対象の人々が動物の権利運動に悪印象を抱いて、動物の福祉に対する配慮や関心も失ってしまうかもしれないからだ。長期的に見てもこの悪影響は持続して、動物の権利運動は一般大衆からの支持を得られないものになるかもしれない。……しかし、妥協抜きの対決的なアプローチが抑圧的なイデオロギーへの異議申し立てとなって、ラディカルな変革の道を開く可能性もある。

 このあたりは動物の権利運動や効果的な利他主義などに限らず、たとえば公民権運動においてキング牧師とマルコムXがそれぞれに対比的なアプローチを取ったことに示されるように、社会運動全般に付き物のジレンマであるだろう。また、効果的な利他主義功利主義的な発想が、構造やイデオロギーといった複雑な問題について見落としがちであるという側面はたしかになくはないと思う*1

 

<効果的なアニマル・アクティヴィズム>に対するこうした批判は運動の内部から必然的に出てくるものである。それは、できる限り動物の苦しみを減らそうとすることに反対するものでもなければ、その過程でエビデンスと理性を用いることに反対するものでもない。むしろそれは、もしできる限り動物の苦しみを減らし、その過程でエビデンスと理性を用いることを望むならば、個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てないよう注意すべきだと主張するものである。というのも、もし個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てることになれば、アニマル・アクティヴィストが個人として、また集団として何をするべきかということをめぐる分析は、不完全で、またおそらく不正確なものになってしまうからだ。

 

(p.70)

 

 スィーボウとシンガーは、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、以下の方法によって自分たちが行うリスク便益分析を改善することができる、と述べる。

 

  1. 評価方法の拡大:歴史や社会、政治や経済に関する理論などを参照しながら、より広い観点から評価を行うこと。たとえば社会運動の歴史を学べば、懐柔的なアプローチと対立的なアプローチが相互に作用しあってきたことがわかる。
  2. 評価範囲の拡大:拡大された評価方法を、より広範囲に及ぶ問題に適用する。
  3. 評価におけるバイアスの是正:効果的なアニマル・アクティヴィストたち自身の身分やバックグラウンドについて反省的に分析して、自分たちの視野がどのようなかたちで狭まっているかを検討して、それを改善する。たとえば、多くの効果的なアニマル・アクティヴィストは裕福であったり学歴に恵まれていたりするためについつい現行の制度を支持してしまいがちであるという点(「特権」)を自覚したうえで、それによるバイアスが生じないように、改めて判断や計算をし直す。

 

 上記のような方法を実施する際には、よく言えば合理的で悪く言えば「浅薄」な考え方である効果的な利他主義やそれに基づく効果的なアニマル・アクティヴィズムにとっても、よく言えば「深遠」で悪く言えば曖昧な批判理論やそれに基づく<アニマル・スタディーズ>から学べることがある……という点が、この章のキモである。

 

 また、スィーボウとシンガーは、ジョン・スチュアート・ミルが間接功利主義を推奨したことや、功利主義に基づいて「リベラルな多元主義」を提唱したことを支持しており、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は自分たちとは異なる考え方や方法論に基づいて動物の権利運動を行う人たちにも寛容でなければいけない、と述べている。

 ただし、「リベラルな多元主義」にも限度はある。まず、あまりにも暴力的な手段を用いることは、動物の権利運動全体に「テロリズム」の烙印を押して非暴力的な手段で行われる活動の効果すらをも毀損するので、そのような行動をする運動家や団体を許容すべきではない。

 また、運動の戦略をめぐって運動家同士で意見が対立すること自体は問題ないが、運動のそのものの標的である「動物虐待を擁護する者たち」(畜産業者や動物実験業界など)と「動物の側に立つ人間」との区別は付けておくべきであり、内ゲバに終始することがあってはならない。……たとえば、狭い意味での「動物の権利運動家」を自称する個人や団体が、畜産業者や動物実験業界よりもシンガーやPETAのような「新福祉主義者」に対する批判や攻撃に熱心になる、というのは実にありそうなことだ。

 はっきり言うと、『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』に収められている他の学者たちの章のうちのかなり多くにも、内ゲバ的な傾向は見て取れる(そうでもしなきゃ理論や論文としての差別化が図れない、という事情もあるのだろう)。これも私見だが、批判理論や「〜・スタディーズ」に基づく研究は「一見すると良いと思われていたり道徳的だと思われていたりする理論や価値観には、実はこんな問題があるのだ」と言いながら他の学者たちの粗探しに終始したり、「こんな隠れた問題に気が付くわたしのほうが真面目でエラい」といった美徳シグナリングにばかり熱心になったりしてしまい、実際に社会に存在する問題の改善からはむしろ遠ざかってしまいがちだ。

 スィーボウとシンガーもわたしと同じような問題意識を抱いていて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>たちに対する反省を促すのと同時に、<アニマル・スタディーズ>側の人たちにも遠回しにやんわりと釘を刺しているのではないだろうか。

 

*1:「構造」の話ばっかりしていればいい、というものでもないけど。

davitrice.hatenadiary.jp

ローリー・グルーエンの「からまりあう共感」論(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』②)

 

 

 本書の編者でもある倫理学者のローリー・グルーエンは、第9章「共感」を執筆している。

 この章の議論はグルーエンの単著 Entangled Empathy: An Alternative Ethic for Our Relationships with Animals で彼女が述べていた主張の要約版、という感じ。Entangled Empathyについては三年前にこのブログでも紹介している。……そして、当時に抱いたのと同じような疑問や違和感を今回も抱くことになった。

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 グルーエンが倫理において共感が重要であると考える理由は「動機づけを行なう潜在能力」であるから、ということ。

 意見や知識に基づく理性的な倫理理論は「自分がすべきこと」を教えてくれはするかもしれないが、実際にそれをするような気持ちにさせてくれるとは限らない。しかし、グルーエンの定義するところの「共感」は知覚や内省などの認知的な側面と気遣いなどの感情的な側面が切り離せなく結び付いたものであり、きちんと共感を行っている人は、「他者が幸福な状態を経験するためには何ができるか」ということに注意が惹かれており、何をすればいいかということを知りたがるだけでなくそれに基づいた行動もしたいという意欲も抱いている。

 

共感者は、内省的に自分自身を他者の立場になって考えるように想像をはたらかせ、自身の視点と他者の視点をなんらかのかたちできちんと分離しておく。次に共感者は、その他者が置かれている状況が、その他者の精神状態や幸福にどのように寄与するかについて判断を下す。そして共感者は、注意深く状況を査定し、どのような情報がその人物を効果的に救うのに適したものとなるか判断を下す。

 

(p.252 - 253)

 

私はこのプロセスを、からまりあう共感と呼ぶ。ここでは、私たちは、私たち自身と、私たち自身の状況と、私たちが共感している同胞との間の類似性と差異の双方に着目することになる。まさに、この経験的プロセスにおいて私たちは、他者と関係していることを認識し、他者が必要としているもの、他者の関心事や欲望、他者の脆弱性や希望や感受性に対し注意を払うことによって、この関係に応答[レスポンス]し、かつ責任をとる[レスポンシブル]よう求められる。私たちは、私たちの視点と、私たちが共感している人の視点との間を行き来する。ここでは、私たちは、関係性のうちにあるという感覚を維持できるし、また他者と同じ視点のうちに溶けあうことはない。これを首尾良くこなすには、個人に固有の経験や状況、そして個人の人格を理解しなければならない。とりわけ、非言語的他者あるいは言語による接近不可能な他者の場合、専門知識や注意深い観察なしにこれを行うことはふつう困難である。

 

(p.253 - 254)

 

 前回と同じく、今回も思ったのが、「それって"共感"と言えるの?」ということ。なんというか、「心」ではなくずいぶんと「頭」寄りだし、感情的側面よりも認知的側面が強すぎるような気がする。

 

からめとられている共感者は、社会的、政治的、そして種を基盤とする異なる権力下における、他者、人間、人間ではないものを理解するための複雑な過程を克服しようとする。これは、複雑で、時には私たちが他者を「一瞥する」ことしかできない危うく、間違いを犯す可能性がある危険な過程である。しかし、私たちが、共生関係のうちに深くからめとられていることを考えてみれば、この理解のための努力は望ましいものであるだけでなく、私たちの主体性にとって重要なものとなる。ごく簡単に言えば、私たちの主体性は関係的である。私たちは、社会的あるいは物質的なからまりあいによって、共生関係をむすばされているのである。社会的なからまりあいは、多くの場合、人間を超え、私たちの物理的位置をも超えて広がっている。物質的なからまりあいは、社会・経済的機会の広がりを伴うとともに、人種や階級によって形成される機会への障壁をも伴う。さらにここに含まれる、私たちのからまりあいの対象には、私たちが手に入れることのできる食べ物、私たちの物理的環境の安全性、私たちが消費するものによって、その労働や身体が搾取されるところの動物や人間たち、気候変動難民を生み出す温室効果ガス排出活動などがある。これら全てが、私たち自身の一部を構築している。特定の時代における私たちの行動様式は、空間、種、物質をめぐる多様な関係とのからまりあいの表出なのである。

 

(p.257 - 258) 

 

 この段落に至っては、よくある「インターセクショナリティ」論のように、サヨクが気になっている問題(人種、階級、環境)を「からまりあい」というふわふわワードの下に雑に結び付けているようにしか思えない*1

 ……たとえば、環境保護運動は時と場合によっては労働者階級の運動や動物の権利運動との対立する場合があるが、「からまりあう共感」で問題間の優先順位を付けて「その問題よりもこちらの問題のほうがさらに重要だ」といった指針を提示したりすることはできるのだろうか?一貫性や論理性に欠けているためにモラル・ジレンマに答えを出すことができないというケアの倫理に特有の問題は、グルーエンの議論にも健在であるように思える。

 他にも思うところはあるけれど、これまでに他の記事で書いたことの繰り返しになりそうなのでこの辺で。なんというか、読んでいて「真面目にやる気あんの?」と思ってしまった。ピーター・シンガーなどが『動物の解放』なの著作で倫理に伴う様々な難問に苦心しながら答えを出していったのに比べるとずいぶんとお気楽な議論をしているような気がするし、流行りのワードやふわふわしたワードで固定概念を再確認しているだけの中身のない文章だという気がどうしてもしてしまう。

動物倫理における「有感覚主義」(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』①)

 

 

 先日に発売された『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』を図書館で入手してきたので(とても個人で購入できるような値段ではない)、気になる章をいくつか読んで読書メモを取っていく。

 

 まずは、倫理学者ゲイリー・ヴァーナーが執筆した第24章「感覚があること/有感覚(Senticence)」から。ヴァーナーはわたしのお気に入りの哲学者であり、このブログでも何度か紹介してきたほか、『21世紀の道徳』の第3章でも引用している*1。しかしこれまで彼の本や論文が日本語に公式に翻訳されてきたことはなかったはずなので、今回の『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』で短いながらもヴァーナーの文章が翻訳されたことは喜ばしい。

 

 ヴァーナーは、「感覚があること」という言葉はしばしば明確な定義抜きで使われており、以下のような多種多様な意味が含まれている、と指摘する。

 

一、意識がある conscious

二、知能がある  intelligent

三、自己認識力がある self-aware

四、選択の自由や自律性 freedom of choice or autonomy をもつ

五、パーソン/人格 personhood に該当する

 

 (p.611)

 

 ピーター・シンガーは『動物の解放』のなかで、ある存在が「利益に対する平等な配慮」の原理の対象になるかどうかの境界線を「感覚があること」に設定した。その際、シンガーは「感覚があること」という言葉が様々な意味で使われ得るという点を意識したうえで、「苦しむことや楽しむことを経験する能力の、精確ではないが便利な略称」という但し書きを与えている。

 ヴァーナーは「痛みを感じる能力は感覚があることの十分条件だが、必要条件ではない」と指摘している(p.613)。SF作品に出てくるアンドロイドや、現実世界の先天性無痛症(C I P)の人々などは、痛みを感じることはないが喜んだり楽しんだり苦しんだり落ち込んだりするなどの感情を持っている。……この点は、シンガーの議論に対するイチャモンじみた批判を招き寄せてきた*2。とはいえ、シンガーの『動物の解放』や『実践の倫理』は現実の問題について考えたり対処したりするための本であり、フィクションの世界やごく特殊な事例を捨象して一般論に基づいた指針を提唱するのはごく妥当なことであろう。

 

[世界中でCIPと診断されている人はわずか百人ほどであることを指摘したうえで]だから現実世界ではーーSFを除いてーーわれわれは通常、何らかの感覚をもっていてあたりまえの有感覚者なのに身体的痛みを感じる能力がないという個人には出会わない。そんなわけで、身体的痛みを感じる能力は、一般的に有感覚の範囲と一致するものとして扱われ、どの動物に感覚があるかの科学的研究は特に、どの動物が身体的痛みを感じられるかという問題に的を絞って行われてきた。

 

(p.614)

 

 人間以外の他の動物(生物)たちのうちどの動物が痛みを感じられてどの動物はそうではないか、ということを確認するのには困難さがあることはヴァーナーも認める。痛みの「主観的な感じ」や意識的な「苦しみ」それ自体は観察することも科学的に測定することもできないから、「類推による論証」を行うしかないのだ。

 

類推による論証は、身体的痛みの主観的な感じのように、直接観察できない特性にかかわるさまざまな文脈で使われる。ある動物種の痛みに関し、類推による論証の一般的な骨組みは以下のように表すことができる。

 

一、われわれは、<人類>と<動物種S>がともにa、b、c、……nという特性を有すると知っている。

二、われわれは、<人類>が意識的に痛みを感じると知っている。

三、したがって、<動物種S>もきっと痛みを感じることができる。

 

こうした論証は、演繹的に妥当ではなく、帰納である。つまり、その前提が真であっても、結論が誤りである可能性は除外されない。<動物種S>が痛みを感じるという結論にわれわれがどの程度確信をもつべきかは、a、b、c、……nという特性が痛みを感じる能力とどの程度関連しているかによる。

 

(p.615)

 

 研究の結果、現時点では、「侵害受容器を有すること」や「侵害受容器が脳とつながっていること」、「痛い刺激に遭遇すると内因性オピオイドが分泌されること」や「有害な刺激に対して、刺激を避けたり傷ついた部分をかばったりすること(痛みを感じている人間と同じような反応をすること)」などが、ある動物(生物)が痛みを感じるかどうかと関連している、と考えられている。

 

 そして、人間や動物に対して道徳的に配慮する際には、「痛みを感じる」ということのほかにも様々な能力が関わってくる。たとえば「知能」だ。ひとくちに「知能」と言っても、様々なものが有り得る。「数学の問題を解く能力」と「音楽理論を理解する能力」はどちらも知能といえるが、前者を多く持っているが後者に乏しい人もいれば逆の人もいるだろう。数学の得意な人でなければ、数学の難問を解く楽しみも、難問に取り組んでいる苦労も感じられない。音楽に詳しい人でなければ理解できないような複雑な良さを伴う楽曲もあれば、逆にふつうの人なら耐えられるが音楽に詳しい人には人には低質さが理解できて耐えられないような楽曲もあるだろう。

 

[…]このようにして、さまざまな種類の知能は、それらの知能を欠く生き物にはできないやり方で、感覚のある生き物が楽しみかつ苦しむことを可能にするのだ。

このため、多くの人々は、感覚がある生き物はすべて道徳上考慮すべきだが、感覚がある生き物の中でも一部の生命は他よりも道徳上意義が大きいと信じている。つまり多くの人々は、そもそも道徳的考慮のために個体という資格を与えるものとは何かということと、葛藤や順位づけ[トリアージ]がある場合に、諸利益の間で優先順位を決めることを正当化するものは何かということを、きちんと区別しているのである。

 

(p.618)

 

 シンガーの議論や動物倫理全般に対して、「知能の高さによって動物の間にランクを付ける発想だ」という批判がされたり、「人間に近い知能を持つ動物ほど優遇してそうでない動物ほど冷遇する発想であり、結局は人間中心主義から脱せていない」という批判がされたりすることがある(さらにキリスト教とか健常者中心主義とかに結びつけられたり)。

 しかし、ヴァーナーやシンガーの議論は、知能には様々な種類があることを認めている……つまり、別に「人間に近い知能」でなくとも、それが楽しみや苦しみと関連するようなものであれば、平等に配慮されるのだ(もっとも、実際には痛みだけでなく知能についても「類推による論証」によって測るしかないという側面があるだろうから、なにかしら人間と共通点があったり人間に理解可能なタイプの「知能」しか発見されることがなく、したがって人間に近いタイプの知能のほうが配慮されやすいだろうが、それは理論の原理的な問題というよりも実際の世界の制約や実践上の都合に拠るものである)。

 また、先ほどの引用文で「多くの人々は〜と信じている」とヴァーナーが書いているのに対して「いやわたしはそんなことを信じていない」と拒否する読者もいるだろうが、ここは、「人々の普段の言動や思考を批判的・反省的に分析してみたら、(表面上の自己認識はともかく実際には)こういう信念を多くの人々が抱いているだろう」といった意味合いで受け取るべきだろう。

 

こうして、有感覚主義者[センシェンティスト/sentientist]は、次のように主張できる。身体的痛みを感じる能力は個体に道徳上適格性を与えるのに十分だが、さまざまな認知能力は個体に他のさまざまな意識的な苦しみと楽しみを経験する能力を与えうる、と。問題が身体的痛みを与えることに関してではなく個体生命の価値である時、有感覚主義者は何の矛盾もなく、特定の認知能力を有する個体の生命はそれらの認知能力を欠く個体の生命よりも道徳上意義深いと主張できるのだ。

有感覚主義の流れをくむ哲学者たちはこういった見方を擁護してきたが、その中でしばしば、<パーソン>の概念と何らかの自律性を引き合いに出す。たとえばシンガーは後の著作で、<パーソン>を「理性的で自意識のある」存在者と定義し、時には「理性的で自意識のある」を「伝記的な生」を送ると言い換えた。これは、生の「物語」を生きようと選択し努力するという自律性の概念を示唆するものだ。種々の出版物で、シンガーはそのように定義された<パーソン>を「自意識」や「伝記的な生」を欠く個体とは異なり、「かけがえのない」個体と表現している。ただしシンガーは、<パーソン>の生に特別な道徳的意義があると考える理由を他にもいろいろ挙げている。

 

(p.620)

 

 そもそも、「有感覚主義」とはシンガーの議論を批判する環境倫理学者によって導入された、批判的・冷笑的なレッテル貼りの意味合いを持つ言葉であった。自然環境や生態系や生物種などにも本質的価値を認めて、(ときには動物を犠牲にしてでも)それらを保護する必要性があると考えるタイプの環境倫理学者にとっては、道徳的配慮の対象を動物までにしか広げないシンガーのような主張は不徹底で恣意的だと見なされるのだ。

 しかし、ヴァーナーのように、現代では積極的に「有感覚主義」を自称する倫理学者もいる。彼らは有感覚主義は恣意的ではなく妥当な考え方だと見なしたうえで、有感覚主義に対する異議に応答しているのだ。

 

読書メモ:『フェミニストの理論』

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 先日に英語論文を読んだジョゼフィン・ドノヴァンが1985年に書いた単著の『フェミニストの理論』がAmazonで安く売っていたので、せっかく論文を読んだのというのと前後に世界女性デーがあったということで(女性デーのテーマカラーと同じくこの本の表紙も黄色だし)、ひさしぶりにフェミニズムの本にも目を通して見るかと思って買って読んだ次第。

 ……とはいえ、出版されたのは約40年前で、少なくとも日本ではとくに定評があったり有名であったりすわけでもないような本だから、内容はまあ大したものではない。いちおうアメリカのフェミニズムを中心にしているが、イギリスやフランスの重要な思想家(メアリ・ウルストンクラフトやシモーヌ・ド・ボーヴォーワール)も満遍なく取り上げられている。しかし書き振りがどうにものんべんだらりとしていて、思想史の説明と理論の説明とが混ざっている感じが強く、全体的にあまり明瞭ではない。……これはこの本自体の欠点というよりも、この数十年で(とくに英語圏の)哲学入門本や各学問の理論を解説するタイプの本を執筆する際のセオリーやシステムが確立して、昔に比べてずっとわかりやすい入門本が出版されるようになった、ということなのだろう。

 

 本書の目次は以下の通り。

 

  1. 啓蒙運動のリベラル・フェミニズム
  2. 文化フェミニズム
  3. フェミニズムマルクス主義
  4. フェミニズムフロイト主義
  5. フェミニズム実存主義
  6. ラディカル・フェミニズム
  7. フェミニストの道徳ヴィジョン

 

 わたしも最近のフェミニズム思想をフォローできているわけではないので印象論になってしまうが、このなかだと「フロイト主義」や「実存主義」は最近では影が薄くなっている気がする。また、「文化フェミニズム」という言葉を耳にする機会もかなり減った。

 そして、「ケアの倫理」を主とする道徳哲学や規範論が最終章に持ってこられていることや、またケア倫理を文化フェミニズムに連なる流れに位置付けているところがこの本の特徴でるだろう。前回に紹介した論文を読むとドノヴァンは自分自身を「文化フェミニスト」と自認しているようなので、類書に比べると文化フェミニズムが強調されたり評価されたりしているような気がする。

 

最後に、私は、この本が、未来のフェミニストの理論の定式化の手助けになってほしいと願っている。この本を書きながら、私が到達した悲しい結論のひとつはフェミニストたちが幾度となく、おなじ車輪を再発明してきたということだ。一九六〇年代後期、七〇年代初期に展開された理論は、当時は私たちの多くに一種の啓示としてやってきたのだったが、それ以前のフェミニストの運動について学ぶにつれ、こうした「ラディカルたち」がいわなければなかったことで真に新しいものはほとんどない、ということがしだいに明白になってきた。その多くが、一世紀以上まえから、くりかえしいわれてきた。フェミニスト理論のこの腐蝕が、ふたたびおこってはならない。

(p.5)

 

「まえがき」のこの部分だけを読むとラディカル・フェミニズムをディスっているように聞こえるが、実際には、「リベラル・フェミニストとして括られる初期(第一波)のフェミニストたちの考え方には後のラディカル・フェミニズムに通じるところがあった」という指摘が、第一章にて幾度かなされている。

 また、とくにウルストンクラフトなどが啓蒙主義的な「理性」に対してかなり強い信頼や情熱を示している、というのは詳しい人にとっては常識の範疇に属することなのだろうけれど、改めて描き出されると(後に文化フェミニストたちが「理性」に反旗を示していくというところとコントラストにもなっていて)印象深かった。本書には登場しないが、新ストア派とも称されるマーサ・ヌスバウムがリベラル・フェミニストの系譜に連なる存在だということも再認識させられた。

 

とはいえ十九世紀のフェミニストの理論には、おなじように重要な他の鉱脈、啓蒙運動のリベラル理論の根底から理性主義的で、法律尊重主義的な推力をこえて進むので、「文化フェミニズム」のラベルのもとに一括されるであろう理念がある。政治的変化を照準するかわりに、こうした理念をもつフェミニストたちは、より広い、文化的変容を希求した。批判的思考と自己開発の重要性はつづけて認めながらも、こうした人びとはまた、理性とは異なるもの、直観的なもの、そしてしばしば、生活の集団的役割の側面を強調した。男と女の類似性を強調するかわりに、こうした人たちは、差異を強調して、究極として女性的資質が、そのひとの強さの誇りの出所であり、公の再生の源泉にもなりうるだろうと断言する。これらのフェミニストは、リベラルな理論家たちが、多かれ少なかれ手つかずのままにのこした制度ーー宗教、結婚、家庭ーーのオルタナティヴを想像した。世紀の変り目までに、このフェミニストの理論の鉱脈は、女たちの諸権利をそれ自体が目的とみる見解をこえてすすみ、それを、結局はより大きな社会改革を効果あらしめる手段と見た。フェミニストの社会改革論は、女たちの道徳的パースペクティヴが、腐敗した(男性の)政治世界の浄化に必要だから、女は公的領域に参入して、投票権をもつべきだし、またもたねばならないと主張した。

この文化フェミニストの理論の根底にあるのは、母権制のヴィジョンだった。根底から女性的関心と価値観によってみちびかれる、強い女たちの社会の理念だった。もっとも重要なことには、これが、平和主義、協同、異なるものの非暴力の共存、公的生活の調和ある規律をふくみこんでいた。十九世紀の後半に、このユートピアンのヴィジョンが、母権制時代の理論、人類学者たちが前歴史時代に存在したと想定した、母親支配の時期の理論に表現された。それが、当時の女たちの文学にフィクションの表現を見出した。いちばんいきいき描かれたのは、シャーロット・パーキンズ・ギルマンの母権制ユートピア『ハーランド』である。

 

(p.55-56)

 

 本書のなかでもとくに感心して、印象に残ったのは、以下のくだり。

 

歴史研究と人類学研究ーーその多くがこの本[ヴァージニア・ウルフの著書『三ギニー』]に引用されているーーが、女たちが、男とはちがって、ほとんど普遍的にその経験のもとに生きてきた、かずかずの決定的な経験構造をあきらかにした*1。なによりもまず第一に、女は政治的抑圧を経験してきている。彼女らは、社会でこれといった政治力をもたず、その生涯を形成した現実をコントロールできずにいた。

第二に、ほとんどあらゆる場所で、ほとんどあらゆる時代に、女は家庭の領域を割りあてられてきた。前産業社会では、公的労働と私的なそれの区分が、産業化された国ぐにほど硬直でないのは確かだが、それにもかかわらず女たちは、記録ある歴史をつうじて一貫して、家庭の領域と家庭の義務ーー育児あるいは母親活動(マザリング)をふくむーーを割りあてられてきた。

第三に、史上、女の経済機能は、使用のための生産であって、交換のための生産ではなかった。使用のための生産は、Ⅲ章で述べたように、売るとか交換するとかではなく、食料、衣服など、直接に家族によって消費される物質の製造を意味するので、それは当然、その抽象的価値ないし交換価値のために評価されるのではなく、それ自体のためにーーその直接物理的な価値のためにーー評価される。

第四に、女たちは、男とは異なる意味深長な肉体的事件を経験する。そのもっとも重要なものが、ほとんど全部の女がいつかは経験している月経と、多くの女が経験する出産、授乳である。最後に、フロイト派が指摘してきたように、核家族での子供の成熟プロセスは、男と女では非常に異なっているようにみえる。

こうした異なる条件のもとでの暮らしの経験が、特定の意識、特定の認識論、特定の倫理、特定の美学の形成にいたらしめた。以下では、私は、主として、そこから派生した女たちの認識論と倫理に焦点をあてようと思う。

女たちの判断が、根本において、偶然のなりゆき、環境の文脈、具体的で日常的な世界の尊重にもとづいていると示唆する証拠は、かなりの量で見出されている。女は男よりも、環境の「声」の多様性と、その現実の有効性をうけいれる、受動的様式を採用する気になっているようにみえる。女は、その文脈をねじまげたり、それに異質の抽象をおしつけたり、知的に、また物理的に、それを屈服させる用具をつかったりする気が、男よりも少ないようにみえる。このような認識論が、非帝国主義的な倫理、生命肯定的な倫理、生活の具体的細部を尊重する倫理の基礎を供給する。このような倫理が、イギリスの哲学者で小説家、アイリス・マードックによって発言されてきたが、それはのちほど、この章で紹介するつもりである。

以上に概略した経験構造を考えると、女たちが、どのようにして環境知覚的な、もしくは全体論的なヴィジョンを発展させてきたかを想定するのは困難ではない。無力さという第一の条件は、必然的に、女たちが生き残るためにその周囲に気を配っていなければならなかったことを意味する。というのは、その環境がーーそれが父権制的である限りーーたえず女たちを侵害しつづけてきたからである。前に引用した論考で、メレディス・タックスが指摘したように、「女は、その周囲に対して超感度をもっている。女は、そうでなくてはいけないのだ。スイッチをいれないで街の通りを歩いてごらん。あなたはほんとに危険だから」。

家庭の領域では、女は自分自身の別個の空間を切りとり、別個の文化的伝統をたもつことができたけれども、にもかかわらずそこでさえ彼女たちは、たえずその主人の指図のままになっていた。女の計画に基本的な「中断可能性」がまた、環境の影響力に個人として傷つきやすい女の感覚に貢献し、その世界をコントロールするというより、チャンスに、状況に縛られているという感覚をやしなってきた。その結果の意識が、柔軟性、相対性、偶然性の意識であるにちがいない。

おなじように、毎月の月経の経験と、比較的効果のあるバース・コントロールが実現する最近まで、女は妊娠のリスクなしには男と性交できなかった事実が、ひとの計画を侵害する肉体の現実に縛られているという感情に寄与してきたにちがいない。女は、この身体の文脈を無視できなかった。それは”そこに”あった。それは彼女の生活の一部だった。

 

(p.265 - 267)

 

 上記の引用はやや本質主義的ではあるし、たとえばわたしが疑わしいと思っている精神分析の観点が入っている一方でわたしが(ある程度までは)妥当だと思っている進化心理学的な観点がないように、評価する人ごとに受け入れられない要素や前提などが存在するだろう。まあ全体的に古びているとは思う。

 ……とはいえ、自分の生きる環境を支配されるという経験や「無力さ」が女性ならではの柔軟な細やかな認識論や倫理を生み出した、という考え方は、わたしにもかなり同意できるところだ。「無力な人のほうがそうでない人よりも正確な認識ができたり真実に達したりできるんだ」というところまでいってしまうと『「社会正義」はいつも正しい』で批判されていたような応用ポストモダニズムになってしまうので節度は必要だが、ネガティブな経験をすることや傷つきやすい状況に生きることでそうでない人たちにはできない発想や感性を獲得する、というのはふつうにあり得ることだろう。

フェミニズムと動物:まとめと批判

 

 

 

 先日に引き続き、「フェミニズムと動物倫理」というテーマでお勉強。

 今回は政治哲学者のアラスデア・コクレーン(Alasdair Cochrane)のAn Introduction to Animals and Political Theory(『動物と政治理論:入門』)の第7章「フェミニズムと動物」に書かれていることをまとめる。

 なお、本書では、「功利主義と動物」「リベラリズムと動物」「共同体主義と動物」「マルクス主義と動物」という章もある。また、ただ単にまとめるだけではなく、コクレーン本人は功利主義と権利論やリベラリズムの折衷的な主張を支持しているために、そうでない共同体主義マルクス主義フェミニズムについてはけっこう辛口な批判が加えられているところが本書のおもしろさだ*1。とくにマルクス主義フェミニズムについては、勢いよく牽強付会や美辞麗句を唱える思想に対して地味で穏当なリベラリズムの立場からマジレスを行なっているという感じであり、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』を彷彿とさせる*2

 また、本書では Extend Justice to Animal という表現が多発するし、Animal Right や Animal IssueではなくAnimal Justiceという表現がされることも多い。直訳すると「正義の対象を動物にまで拡げる」とか「動物の正義」だが、面倒なので今回は文脈によって異なる訳語を当てている。まあもちろん細かく見ると違うのだけど、「動物の権利」も「動物倫理」も「動物の正義」も「動物の問題」もだいたい同じような意味で用いられていることが多いし。

 

 

フェミニズムと動物

 

 本章の冒頭でまずコクレーンが指摘するのは、(イギリスにおける)動物愛護運動や動物の権利運動は発祥の時点から労働者を守るためのマルクス主義運動や女性を守るためのフェミニズム運動と結び付いてきた、ということ(代表的な動物愛護運動家や動物愛護団体は、労働者や女性の保護活動にも熱心であった)*3。そして、数多くのフェミニストが、フェミニズムと動物の問題は理論的にも結び付いていると主張してきた。

 フェミニズムによる動物の権利論は三段階の構成に分けられる。

 

①:女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は結び付いている、という指摘。

 

②:(西洋の(男性的な)哲学の前提にある)「理性」を重視する発想では女性の問題にも動物の問題にも対処できない、という批判。

 

③:(「理性」に基づく規範に代わるものとしての)「ケア」や「感情」に基づく規範の提案。

 

 ただし、すべてのフェミニストが「ケアの倫理」を支持しているわけでもなければ、すべてのフェミニストが動物の問題に関心を抱いているわけでもない、とコクレーンは付け加える。そもそもフェミニズム自体が多様な思想であり、「女性に対する抑圧はどのように起こっているか」という論点にしても「その抑圧はどうすれば解決できるか」という論点にしても、リベラルなフェミニストとラディカルなフェミニストではそれぞれかなり違った議論を行なっているのだ。さらに、動物の問題について語ってこなかったというのは功利主義リベラリズム共同体主義マルクス主義の思想家たちの大半に当てはまることであり、フェミニズムに限られることでもない。

 そのうえで、フェミニストのなかでもとくにケアの倫理を主張している人たちのかなり多くは、動物の問題について実際に語ってきた、という点をコクレーンは指摘する。

 

・動物に対する抑圧/解放と女性に対する抑圧/解放の結び付き

 

 多くのフェミニストは、動物と女性に対する抑圧…というよりも全ての周縁化されている(マイノリティである/弱者である)存在に対する抑圧は結び付いている、と主張する。

 また、女性と動物に対する抑圧の結び付きを主張する理論のなかにも、いくつかのバリエーションが存在している。

 ひとつめは、「自然に対する搾取」と「女性に対する搾取」を結び付ける、エコフェミニズムの理論。その代表として、コクレーンはジョゼフィーン・ドノヴァンの論文を挙げている*4。自然に対する搾取は動物に対する搾取ということでもあり、家父長制や「理性/感情」の二分法による被害者という点で女性と自然と動物は陣営を等しくする、という議論だ。

 ふたつめは、肉食を優遇する文化は動物だけでなく女性も抑圧する、という理論。肉食文化が女性を冷遇するという発想は一見すると奇妙であるが、キャロル・アダムズの著書『肉食という性の政治学』では、狩猟採集社会では狩人が肉の分配を通じて経済的社会的な権力を握り、そして狩人の大半は男性であるということから男性支配が確立した、と論じられている*5。……そして「肉食」と「男性の優越」の結び付きは現代にも残っており、肉を食べることは「力強さ」や「男らしさ」と結び付けられている。したがって、肉食の文化から脱することは男性の権力を解体することでもあり、動物だけでなく女性の解放のためにも必要とされる、と論じられるのだ。

 みっつめは、動物への抑圧と女性の抑圧は「言語」を介して結び付いている、という議論。(英語圏では)女性に対する侮辱表現として動物が持ち出されることが多いが(chick, cow, bitch, dog など)、ラディカル・フェミニストのキャサリン・マッキノンは、この種類の侮辱語は女性の地位を貶めるのと同様に動物の地位を貶めると指摘した(女性の地位を貶めるために動物を持ち出すことは、同時に動物の地位の低さを再確認することになるから)。また、アダムスは、通常の場合に動物は「それ(it)」と呼ばれるが「彼(he)」や「彼女(she)」と呼ばれないこと、あるいは人間が恐怖を感じるような動物(ライオンやオオカミ)に対しては「he」が用いられて、他の動物に捕食されるか弱い動物には「she」が用いられる、といったことを指摘する。これらジェンダー化された言語の使い方を改善することが動物/女性の解放には不可欠である、という主張だ。

 よっつめは、女性と動物は共に「モノ化」されている、という議論。屠殺場における動物の扱いとレイプされる女性の扱いは、(男性の)目的のために主体性や自己決定権を奪われて肉体を利用される、という点でモノ扱いである。また、ミスコンと動物ショーでは女性も動物も称賛されはするが、その見た目から快感を引き出されるという点でやはりモノ扱いされている。さらに、法律上でも、動物だけでなく女性も男性の所有物と位置付けられてきた。現代では形式的には女性は男性の所有物とはされていないが、モノ化の長い歴史はいまだに女性に対して影を差しているのであり、動物/女性に対するモノ化の制度や慣習を転覆しなければならない…という主張。

 

 これらの議論について、コクレーンはある程度の価値や妥当さを見出しながらも、「動物に対する抑圧と女性に対する抑圧に類似性があったとしても、類似していることは本質的な関係性があるということを意味しないし、女性の解放と動物の解放は必ずしも相互依存的ではない」と指摘する。

 たとえば、ドノヴァンは「理性・合理/感情・非合理」の二分法が「男性・人間/女性・動物」の二分法に重ねられてきたと論じる。しかし、女性を非合理や感情に結び付けるのは事実的に誤っている一方で、動物を非合理や感情に結び付けることは必ずしも誤りではない……たしかに動物の知性は過小評価されがちだが、動物が人間のように合理的ではないこともまた事実であるのだ。つまり、「女性は男性に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張が全くの誤りであるのに比べると「動物は人間に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張には真実も含まれている。……すると、「理性・合理/感情・非合理」に「男性/女性」の二分法を重ねる発想を撤廃しながらも(事実と異なるので)、「理性・合理/感情・非合理」に「人間/動物」の二分法を重ねる発想を残存させることは可能であり、女性の解放は動物の解放を抜きにして行えるのだ。

 また、肉食文化と女性差別の結び付きは不明瞭であるし、肉食文化が残存させながら女性差別を撤廃した社会を成立させることは明らかに可能だ。女性の解放のために菜食主義が不可欠なわけではない。さらに、肉食が男らしさに結び付けられてきたとはいえ、ベジタリアンだってミソジニーになり得る。そして、狩人が優遇された狩猟採集社会とは異なり現代では女性も経済力を手にすることは可能であり、女性は肉食を止めるのではなくむしろ畜産業の経営に介入して経済力を得たほうが自分たちを解放しやすくなるかもしれない。

 言語を介した場合にすら、女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は必ずしも必然的なものではない。女性に対してだけに限らず、男性に対する侮辱語にも動物が持ち出される場合はある(weasel, sloth, rat, pig, sheep, donkey)。これらの表現を用いることで動物の地位の低さが固定化されてしまうかもしれないが、女性の地位は影響を受けない[むしろ男性の地位を低めることで相対的に女性の地位が高まるだろう]。また、女性に対する侮辱語のなかには動物が関係ないものもいっぱいある(whore, which, jezebel, wench)。つまり、動物と女性のうち片方の地位を低める言語を撤廃しながらもう片方の地位を低める言語を残すことは可能であり、これらは相互依存的な関係にはなっていないのだ。

 そして、たしかに動物と女性はどちらもモノ化の被害者となりひどい苦痛を受けているが、両者に対するモノ化が結び付いているかどうかは不確かである。現代の先進国では女性はもはやモノ扱いされていないが、動物はいまだにモノ扱いされている。「人格」と「財産」という[法的な]ヒエラルヒーにおいて、女性は前者に位置する一方で動物は後者に位置付けられているのだ。これは、女性に対するモノ化と動物に対するモノ化は異なった事象であることを示している。

 結論として、フェミニストの思想家たちは動物に対する抑圧と女性に対する抑圧の類似性を描き出すことには成功したが、これらの抑圧が本質的に結び付いていることを証明するまでには至っていない、とコクレーンはまとめる。その他のマイノリティも含めて、女性についても動物についても彼女らが置かれている苦境に関心を持って彼女らを保護するための運動を行うことは重要であるが、実際問題として、ある集団を解放させることが別の集団を解放させることと相互依存しているということは全くないのだ。

 

・理性の失敗

 

 ケアの理論家たちは、正義に関して理性に基づいて論じる伝統的な倫理学や政治哲学の手法では動物の解放は達成できない、と論じる。多くのフェミニスト思想家はピーター・シンガー功利主義)やトム・レーガン(権利論)の思想について、動物への義務を論じるのに理性や論理に頼り過ぎであり感情を軽視し過ぎだと批判している。コクレーンは、理性に基づいて動物に対する正義を説く議論に対するケアの理論家たちの批判を五つに分けて紹介する。

 ひとつめは、「理性は失敗し得る」という批判。たとえば、動物に対する正義という問題について功利主義で論じることもできればリベラリズムや権利論で論じることもできるし、共同体主義マルクス主義で論じることもできるかもしれないが、これらのすべてが正解であるはずがない……仮にこのうちのひとつが正解であるとすれば、他のすべては不正解だということになる。

 たしかに、理性(reason)に基づいた議論が間違うことはあり得るし、わたしたちが行う推論(reasoning)も、誤った信念や論理の乏しさや偏見などに影響されて見当違いの道を進んでしまうことがある。しかし、だからといって、理性を捨てるべきだということはならない。理論や原則を論じるには、自分が推論を間違えてしまう可能性を常に意識して、理性の能力を過信せず、自分の理論に対する異論や挑戦を常に受け付けながら、然るべき場合には自分の主張を改善する必要性を認識しておかなければならないだろう。しかし、間違う可能性があるから理性を捨てるべきだ、ということにはならない。そもそも、ある推論が誤っているかどうかを判断するためには、理性が不可欠なのだ[ここらへんはジョン・スチュアート・ミルスティーブン・ピンカーの議論を思い出す]。

 ふたつめの批判は、感情を抜きに道徳判断を下すのは不可能であり、「自分は理性に基づいて議論している」と自称している人たちも実際には感情に基づいて議論しているのだ、というもの[こちらはデビット・ヒュームやジョナサン・ハイトの系譜に連なる主張だ]。たとえば、「限界事例からの議論」は「他の条件がすべて同じならば、等しい条件を持つ存在は等しく扱わなければならない」という論理的一貫性に訴える議論であり、論理的な動物倫理の理論家から多用されるが、この議論は「乳幼児や重度障害者は道徳的な配慮の対象とならなければおかしい」という論理以前の感情的な判断を前提にしなければ成立しない、とケアの理論家たちは指摘する*6

 しかし、上記の批判は、シンガーにせよリーガンにせよ、動物についてだけでなく乳幼児や重度障害者についても、彼らに対して抱く感情に基づいてではなく「感覚[利益]を持つ存在に対する平等な配慮」や「生の主体」などの原則や理論に基づいて道徳的配慮の必要性を説いていることを見過ごしている[もっとも、ケアの理論家たちはそれらの原則や理論の根底にも感情…苦痛を感じている相手に対する共感やいたわりなど…が存在しているし、その感情がなければ善悪の判断は成立しない、と再批判するだろうけど]。

 みっつめの批判は、理性に基づく動物倫理の議論は、動物のために活動している人たちの考え方や動機から全くかけ離れている、というもの。ブライアン・ルークは、動物の権利活動家は動物虐待が非合理で不公平な種差別だから活動しているのではなく、動物虐待が恐ろしくておぞましいから活動しているのだ、と論じる。動物の権利運動は動物の苦痛に対する感情的で同情的な反応に基づいているのであり、動物の権利運動を支持するための理論はこの事実を反映しなければならない、とルークは主張するのだ。

 とはいえ、そもそも、動物の権利運動にせよ他のどんな社会運動にせよ、運動の参加者たちはそれぞれ異なった動機を抱いているものだ。たとえば、奴隷制撤廃運動を行なった人たちの動機は「奴隷制キリスト教に反しているから」「奴隷制基本的人権を侵害しているから」「奴隷制は苦痛を引き起こすから」などとバラバラであった。この点をふまえると、動物の権利活動家たちの動機と動物の権利の理論が結び付いてないことはたいして重要な問題ではないかもしれない。また、理論家と活動家の違いを過度に強調してもならない。シンガーにせよリーガンにせよ理論だけでなく運動にも多大に貢献してきた。実際、『動物の解放』を読んだことをきっかけにして活動家になった人は多数存在するのだ*7。動物たちに対する同情や愛着と同じように、論理に基づく哲学的な議論も、人々を動物の権利運動に参加させる動因になっているのである[……もっとも、実際のところ、論理よりも感情のほうが人々を動かす力を持ちやすいということはハイトを始めとする多くの心理学者が指摘するところだ(ハイトは『動物の解放』を読んでも食欲には抗えず肉食を止められなかったというエピソードも書いている)]。

 よっつめの批判は、リーガンのように「権利」という言葉を用いる議論に対するものだ。一部のフェミニストは、権利とは誰かに対する要求であるがゆえに対立を前提にする発想である、と論じている[Aさんが権利を主張することはBさんに義務を負わせることである、という権利-義務の対称関係に基づく議論に対する批判]。マーティ・キールは、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であると指摘したうえで、人間や動物がそれぞれどのような権利を持つかを考えるのではなく、権利という概念が必要にならない共同体を築くことのほうが重要であるとした。つまり、人間も動物も、誰かに対する要求をしなくてもまともに生きていくことができるような、調和の取れた社会を目指すべきなのである。

 もちろん、調和の取れた社会を目指すことに反対する人なんていない。しかし、キールらの主張は権利という言葉に対してかなり偏った見方をしている。過去にも現在にも、ある個人が自分の利益のために別の個人を犠牲にするという事態は起こるがゆえに、社会はしばしば調和という理想から外れてしまう。そして、この単純な事実に対処するためにこそ、各個人が他の個人に対してとれる行為を制限したり他の個人に対して負っている義務を明確化したりするための「権利」という概念が必要になるのだ。つまり、権利という概念が敵対や競合を生み出しているのではなく、社会における個々人の利益の衝突を予防したり修正したりしているのである。

 

 最後の批判は、理性に基づく議論は動物たちの価値を利益という単一の概念に還元するという点で本質主義である、というもの。

 この批判はさらに四種類に細分化できる。

 ひとつめは、なんらかの形で意識能力を持つことを動物を正義の対象に含める単一の条件とすること[シンガーやリーガンの主張]は、正義を考えるうえで重要になるはずの個々の関係性を無視してしまう、という主張。わたしたちは友人や家族に対してはそうでない人に対してよりも強い義務を持つ、というのはごく普通の発想だが、義務の対象となる側の能力だけや性質だけを見ていると関係性に基づく特別な義務について論じられなくなる、という批判だ。……とはいえ、まず「正義の対象に含まれるかどうか」を意識能力に基づいて決めることと、その後から特定の個人や動物に対してわたしたちが抱く具体的な[特別]義務について考えることは両立可能である。また、わたしたちの個人的な生活においてならともかく、政策や法律の領域にまで関係性という発想を持ち込んでしまうと、アウトサイダーとして扱われる存在に対して不公平な結果がもたらされることになる(これは女性や黒人や同性愛者などが実際に経験してきた事態だ)。政策や法律の領域においてはある程度の抽象化と偏りのない公平さは不可欠であるのだ。

 ふたつめの批判は、動物の価値を意識能力に基づいて判断することは、わたしたちに動物を利益の器であるかのように見なさせて個々の動物たちについて考えることを妨げさせる、というもの[ジョン・ロールズが「人格の別個性」に基づいて功利主義を批判したのと似ている]。この批判の問題点は、動物たちがそれぞれの個体ごとに独自の特徴やニーズを持っているからといって、政策を決定する際において個々の動物たちの違いが重要であるとは限らないという点だ。動物たちと同じように人間たちも個人ごとに独自の特徴やニーズを持っているが、政策を決定する際に全ての個人の全ての特徴やニーズを個別具体的に判断することはできず、基本的なニーズや利益を一般化することが必要になる。一般化に基づいた政策では特定の個人の具体的なニーズを捉えることはできないかもしれないが、資源が限られていることや実務上の問題を考えると、政策決定において一般化を行うことは全くもって許容可能なのだ。

 みっつめの批判は、利益という観点のみに基づいて動物を評価することは、より多くより強い利益を持つ動物たちをそうでない動物たちよりも上位に置くようなヒエラルヒーを形成する、というもの[クジラや大型霊長類がニワトリやブタやネズミより上位に置かれる、など]。しかしながら、このような文脈における「ヒエラルヒー」という言葉の使い方は作為的でありミスリーディングだ。理性に基づいた動物論では競合する利益の調整が行われるし、その際にはより強力な利益のほうが優先されるが、このこと自体はなんら問題ではないし、ヒエラルヒーを形成するとも限らない。たとえば、新しい空港を建設するか否かについて検討するとき、わたしたちは空港の建設に関連する数多くの利害を考慮したうえで、利害の間の優先順位を付けたりバランス取りを行う必要がある(建設予定地の住人が被る騒音被害、二酸化炭素排出による将来世代の被害、飛行機の利用者がより安く便利な航路を利用できるようになること、空港建設に伴う経済効果、新しく雇用されることになる従業者たちの利益、などなど)。この際に最も強い利益を優先することは全く分別のあることだし、それは他の種類の利益を無視したり弱い利益を持っている人々をヒエラルヒーの下層に置くことを意味しない。ただの、妥当で公平な意思決定に過ぎないのだ。人間たちと動物たちそれぞれのなんらかの利益が衝突する場合にも、時と場合によっては前者の利益のほうが強いから優先されることになり、時と場合によっては後者の利益のほうが強いから優先されることになるだろうが、このことは人間と動物のどちらがヒエラルヒーの上でどちらがヒエラルヒーの下かという発想を一切伴わないのである。

 しかしながら、よっつめの批判は、理性に基づく議論は競合する利益のバランス取りを行う、ということ自体を標的にする。批判者たちによると、利益の比較衡量には科学的な方法論が用いられるのであり、科学的な方法論とは工場畜産や動物実験を生み出したものでもあったのだ。そして、工場畜産と動物実験は、人間にとっての重要な利益(安価な食料と人命を救う医療)を生み出すからという理由で正当化されていたのだ。……とはいえ、利益の比較衡量が動物虐待を正当化するためにも用いられるという事実が、利益の比較衡量という考え方自体にとって致命的なものになるとは限らない。シンガーが指摘しているように、工場畜産と動物実験が正当化された背景には種差別に基づく誤った比較が存在していたのであり、種差別を排して比較衡量を行ったら[工場畜産の廃止や動物実験の大幅な制限などの]全く異なる結論を導き出せる。「利益の比較衡量は過去に誤った判断を生み出してきた」という理由から利益の比較衡量という発想そのものを捨ててしまうことは、産湯と共に赤ん坊を流してしまうようなものだ。

 結論として、ケアの理論家やフェミニストたちによるシンガーやリーガンの議論への批判は不公平なものであり、動物への正義についての理性に基づく議論は批判者たちが想定している以上のものを提供している、とコクレーンはまとめる。

 

・ケアに基づく、動物への正義に関する議論

 

 ひとくちに「ケアの倫理」といっても、「理性よりも感情や感傷や気持ちを重視する」「他者に対する義務について考える際に関係性や偏愛[partiality]を重視する」「抽象化よりも具体的な文脈を重視する」など、様々なバリエーションに分かれている。コクレーンはローレンス・コールバーグの道徳発達段階理論を批判したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の概要を紹介したのちに、ネル・ノディングズの『ケアリング』の概要を紹介する*8。……ここらへんは日本語でも調べたらいっぱい情報が出てくるので紹介は省略。重要なポイントは、ギリガンの主張はたまに批判されるほどには本質主義的なものではないということと(ギリガンはケアの倫理が男性的な哲学の世界で無視されたことは指摘したが男性=正義の倫理で女性=ケアの倫理と結び付けるような主張はしていない)、ノディングズは「自分は飼い猫に対して義務を負っているが自分以外の人たちが自分の飼い猫に義務を負っているわけではないし、自分のペットでもないネズミに自分が義務を負っているわけでもない」と主張したという点だろう[ケアの倫理が関係性や偏愛に基づくとしたら、ノディングズの主張はごく当たり前に想起されるものである]。

 ノディングズの主張の問題点は二点。まず、わたしたちは自分が関係を築いた相手にしか義務を持たないとすれば、わたしたちはアウトサイダーたちに対する義務を持たないということになる……そして、歴史上、人種やジェンダーや宗教や階級やセクシュアリティに基づく差別をもたらしてきたものだ。この事実があるからこそ、多くの理論家は、義務は人々の関係性にではなく個々人の利益に基づかせるべきだと論じてきたのである。次に、個々人が行う倫理的な判断というミクロな領域にはある程度の偏愛が必要になるとしても、政治的な共同体というというマクロな領域における政策決定はできる限り不偏的[impartial]なものにすべきである[この議論は本書の5章で詳細に行われているが、まあ一般常識としてそりゃそうだということにはみんな同意すると思うので説明は割愛]。これら二点の問題を考慮すると、関係性や偏愛に基づくタイプのケアの倫理には警戒すべきであるし、とくに動物の問題においては普遍性を伴う理性に基づく議論のほうが妥当であると判断できる。

 ただし、ケアの理論家のなかにも、自分たちの主張を関係性に基づかせることを否定する人は数多くいる。ドノヴァンは、わたしたちは遥か遠くの国の人のことも気にかけられる[ケアできる]ことを指摘して、動物に対する義務をペットに限定させる必要はなく、すべての動物に対して[ケアに基づく]義務を拡大すべきであると主張する。……この主張の明らかな問題点は、人々が気遣いを行う能力はドノヴァンが想定しているほど深遠なものではないかもしれない、ということだ。実際のところ、気遣いに割いている時間や努力や資源を見てみれば、わたしたちは見知らぬ他人や動物のことを自分の家族や友人やペットほど気にかけているわけではない。これをふまえると、気遣いとは、[ペットではない]動物たちに正義を与える根拠としてはかなり薄弱であるのだ。

 この批判に対してドノヴァンが持ち出すのが、ケアの倫理に"政治的な"分析を加えるアプローチだ。つまり、わたしたちが見知らぬ人や動物を気にかけることは、政治や制度や宗教や経済や文化によって制限をかけられているという主張……逆にいえば、本来なら私たちは見知らぬ動物たちのことをも気にかけられたはずだ、という主張である。ルークも同様の議論を行なっており、わたしたちは本来なら動物たちに対して同情を抱けるはずが、畜産業や動物実験業界が振り撒く虚構などによって動物たちのことを気にかけないようにさせられている、と主張する。

 ドノヴァンやルークによる議論の問題点は、彼女らが言うところの「本来の感情」がほんとうに存在するかどうかが疑わしいというものだ。たとえば、ルークは自然な状態なら人間は動物に対するケアを抱くものだと主張するが、彼の議論は根拠に乏しい。まだ社会的な影響を受けていないであろう幼児や子どもを見ても、動物に対して大いに愛着を示す子どもがいる一方で、猫をいじめたり虫を分解して殺したりする子どももいる[もっとも、「それらの子どもや幼児はすでに社会化されているのだ」と反論してくるだろうけど]。近現代的な政治や経済や企業の影響力から免れており西洋の宗教も伝わっていない人たちも、動物を崇拝することがある一方で、動物に多大な苦痛を与える儀式を行うことがある。端的に言って「自然な状態なら人間は動物に対してこのような感情を抱く」という議論は成功する見込みがない。したがって、ここでも、わたしたちが動物に対して抱く感情を問わずに動物への義務を説く議論……すなわち理性に基づく議論を手放さないほうがいい、ということが示されるのだ。

 結論として、感情や同情は道徳において全く役割を果たさないわけではないが、わたしたちが他者や動物に対して抱く義務を確定する際には理性のほうに最終決定権を渡すべきである、とコクレーンは論じる。まず、理性に基づかない感情は偏見や差別を助長することがあるし、不適切な感情を修正するためには理性が必要になる。次に、感情の行く先は不確かであり、同じように同情に満ちた人たちであっても、同じ道徳的問題に対して全く異なる答えを出すということがあり得る。そして、政治的な共同体などのマクロな領域においては一般化に基づく抽象的なルールは不可欠であるのだ。

 

 ……後半は時間と集中力の問題から駆け足になってしまったが、まあこんなところでいいだろう。この章を読むのも約10年ぶりであったが、改めて思ったのは、ケアの倫理に対する「理性」側(功利主義や権利論やリベラリズム)からの批判は、ジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーが批判理論やポストモダニズムやラディカリズムや特権理論などに対して著書で行なっている批判とかなり重なっている、ということ。とくに『人はどこまで合理的か』を思い出した。

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「Z世代の絶望」を真に受ける必要はあるのか?

 

 先週から「経済学101」にて、経済学者ノア・スミスによる、主にZ世代の若者たちが唱える「終末論」について批判的に分析した記事、および若者たちの不幸の原因をスマートフォン(とソーシャルメディア)に見出す記事が、翻訳されて投稿されている。どちらも大変おもしろいのだが、あまり読まれていないようで勿体ない。

 みなさん、以下の記事を読むように。

 

note.com

 

note.com

 

スマホ悪玉論」といえば、記事中でも取り上げられている社会学ジーン・トゥエンジの著書 iGen: Why Today's Super-Connected Kids Are Growing Up Less Rebellious, More Tolerant, Less Happy--and Completely Unprepared for Adulthood--and What That Means for the Rest of Us が有名。

 

 

 

 

 トゥエンジの議論はグレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトの『傷つきやすいアメリカの大学生たち』でも大いに取り上げられていた。

 

 

 

gendai.media

 

 また、ノア・スミスの記事は「悲観論を唱えることが実際に及ぼすネガティブな影響」について論じていたり認知行動療法に触れていたりするという点で、おそらく『傷つきやすいアメリカの大学生たち』に影響されたものだと思われる。

 

 なお、アメリカのZ世代たちの「絶望」や「悲観論」を日本に紹介している人として有名なのが、ライターの竹田ダニエル。

 しかし、ノア・スミス(やルキアノフやハイトなど)が論じていように、極端な悲観論や終末論はそれ自体が個人のメンタルヘルスや社会問題の改善に負の影響を与えるとすれば、アメリカのトレンドを批判的な視点抜きで日本に紹介する竹田の言論も問題があるものだと言えるかもしれない。

 

 

 

 

 

絶望 @daniel_takedaa - Twitter Search / Twitter

 

 

 

読書メモ:「動物の権利とフェミニズム理論」

 

 

Animal Rights and Feminist Theory - JSTOR

 

 

 唐突に思われそうだが、本日から一時的に動物倫理に関する文献を読んで読書メモをここに書くターンに突入する。……というのも、「動物倫理とフェミニズム」というテーマで、某学会で発表するかもしれない予定があるから*1

 とりあえず手始めにジョゼフィーン・ドノヴァンの「動物の権利とフェミニズム理論」から読む。発表は1990年ともうかなり古くなってしまったが、「動物倫理とフェミニズム」というテーマとしては代表的かつ古典に位置する論文だ。

 

 ・「ハムサンドイッチ問題」

 

 この論文の冒頭では、ピーター・シンガーの『動物の解放』の序文から、シンガー夫妻が「動物愛好家」の女性と会合するくだりが取り上げられている。

 長くなるが、重要なところなので、以下では『動物の解放』から引用*2

 

私たちが到着したとき、その女友だちはすでに来ていて、動物の話に熱中していた。「私は動物をとても愛しているのですよ」と彼女は言った。「犬を一匹と猫を二匹買[飼]っていますけど、彼らはお互いにとてもうまくいっているのです。スコット夫人をごぞんじですか? 彼女は病気のペットのために小さな病院を経営しています……」彼女はちょっとそこで話をやめた。そして軽食が運ばれてくるとハムサンドイッチをひとつつまみ、私たちにどんなペットを飼っているのかとたずねた。

私たちはペットを飼っているわけではないと言った。彼女は少し驚いたようすをして、サンドイッチをひとくちかじった。私たちを招待した女性はサンドイッチを食卓に並べ終わると、私たちの会話に加わった。「でもあなたは動物に興味をおもちではないのですか?シンガーさん。」

私たちは苦しみと悲惨の防止に関心をもっているのだということを説明しようとした。私たちは恣意的な差別に反対しているのであり、ヒト以外の生物に対してであっても不必要な苦しみを与えるのはまちがっていると考えているということ、そして私たちは動物たちが人間によって、無慈悲で残酷なやり方で搾取されていると信じており、このような状況を変えたいと思っていることを話した。他の点では私たちは動物たちにとりたてて「興味をもって」いるわけではないのだ、と説明した。私たち夫婦はどちらも、多くの人たちがするようなやり方で、犬や猫や馬を溺愛したことはなかった。私たちは動物たちを「愛して」いたのではない。私たちはただ彼らがあるがままの独立した感覚をもつ存在として扱われることをのぞんでいたのだ。つまり、屠殺されて、私たちを招いた女性のサンドイッチの原材料に提供された豚のように、人間の目的の手段として扱われることはのぞんでいなかったのである。

本書はペットについての書物ではない。動物を愛することは猫をなでたり、庭で鳥にエサをやったりすることに過ぎないと考えている人たちにとっては、本書は愉快な読み物とはいえないだろう。本書はむしろ、どこであれ抑圧と搾取に終止符を打たなければならないと考えている人びと、利害への平等な配慮という基本的な倫理原則の適用範囲はヒトのみに限られるべきではない、と考えている人びとのために書かれたものである。動物の扱いに関心をもっている人は「動物愛好者(animal-lovers)」にちがいないという想定そのものが、人間に適用されている道徳基準を他の動物にも広げようという気持が少しもないことを示しているのだ。虐待されている少数民族の平等の権利に関心をもつ人は、その少数民族を愛しているにちがいないとか、彼らがかわいいと思っているにちがいない、などと主張するのは、意見の違う相手に「黒ん坊愛好者(nigger-lovers)」のレッテルをはる人種主義者だけだろう。だから動物たちのおかれた状態を改善する運動をしている人たちに「動物愛好者」のレッテルをはる必要もなかろう。

動物虐待に抗議する人びとをセンチメンタルで感情に動かされやすい「動物愛好者」として描くことは、ヒト以外の生物に対する扱いの問題を真剣な政治的、道徳的議論の対象とすることを妨げるのに役立ってきたのである。

(…中略…)

本書は、「かわいい」動物たちへの同情をよびおこすために感情に訴えるものではない。私は、肉を食べるために豚を屠殺することに対して、馬や犬を同じ目的で屠殺するのと同じように激怒しているのである。世論が、アメリカ合州国国防総省が致死性ガスのテストにビーグル犬を使うことに声高に抗議して、その代わりにラットを使うことを提案しても、私は決して妥協しないだろう。

 

(『動物の解放』、p.12-14)

 

 ここでシンガーが主張しているのは、「動物に対する道徳的配慮」や「動物に危害を与えないこと」といった物事は、一部の個人の愛情趣味の領域に属するものではなく、全ての人に関連しており全ての人に義務や強制を生じさせる正義の問題である(そして、愛情ではなく正義の問題だと見なされるようになるべきである)ということだろう。

 少数人種に対してどのような感情を抱いているかに関わらず人種差別の問題が全ての人に関連しており、全ての人は「他の人種の人を差別しない」といった義務を持っているのと同じように、動物をどう扱うかという問題も全ての人に関連しており動物を好むか好まざるかを問わず動物の問題に対して全ての人は義務を負っている……といったこと。要するに、正義の関わる問題においては、愛情や趣味は関係がない。

 逆に、愛情に基づいてなんらかの主張を行ったりなんらかの相手に対する配慮の必要性を説いても、(それだけでは)その問題が全ての人に関連しているということや全ての人が義務を負っているということを示すことはできず、説得力や強制力などは発生し得ない。ハムにされる豚や実験に使われるラットの存在を無視しながら、「可愛いから」とか「愛しているから」とかいった理由だけで犬や猫に対する道徳的配慮の必要性を説いても、犬や猫を可愛いと思っていなかったり愛していなかったりする他人がその主張に従う道理はないのだ。

 ……と、上記が、シンガーの言いたいことであろう。

 

 これに対して、ドノヴァンはシンガーの主張に以下のようなコメントをしている。

 

言い換えると、彼[シンガー]は動物の権利運動を“女性的な”感情と結びつけることが、それを取るに足らないものにすることになると恐れているのだ。

 

 また、上記のシンガーの文章については、Twitter上では以下のようなコメントをしている人もいた(2020年のツイート)。

 

 

 しかし、「ハムサンドイッチ」に関するくだりでシンガーはたしかに「動物への愛情」や「動物を愛好すること」といった感情的な物事を否定的に描いているが、それが女性的な感情であるからダメだとは一言も言っていない、という点には留意してほしい。

 むしろ、この文脈に「男性的/女性的」というジェンダー的な要素を持ち込んできたのはドノヴァンの側である。そして、おそらくドノヴァンの論文を通した伝言ゲーム(またはうろ覚え)によってシンガーの文章をミソジニスティックと断ずるツイートもフェアなものではないように思える。

 ……もちろん、ドノヴァンとしては、この社会のなかには「男性的/女性的」という二分法と「論理的/感情的」という二分法をオーバーラップさせたうえで前者を持ち上げて後者を貶める価値観や考え方が蔓延しており、シンガーの文章は直接的には「感情は女性的なものだからダメだ」と書かれていなくても暗黙のうちにこの二分法を前提としたものである、といったことが言いたいのであろう。

 実際のところ、このエピソードはやや「でき過ぎている」感があり、もしかしたら創作かもしれない。その場合には、批判の対象となる人物を男性ではなく「女性」にした意図にミソジニーを見出すことは無理筋ではない(「"非合理的な動物愛好家"を登場させるなら男性じゃなく女性にしたほうがリアリティがあるでしょ」という発想がシンガーにはあったはずだ、と想定することなど)。……その一方で、実際にシンガー夫妻と動物愛好家との女性との間でなされた会話を振り返りながら書かれている、という可能性ももちろんあり得る。上記の文章では動物愛好家の性別がことさらに強調されているというわけでもなく、シンガーとしては当時の出来事を素直に書いているだけかもしれない。「実際にそのような動物愛好家の女性が存在したのだとしても、彼女の性別をわざわざ記すことが問題なのだ」と批判することもできるかもしれないが、それは過剰反応であるように思える。

 

・「合理主義的」な動物権利論(動物倫理理論)の問題点

 

 ドノヴァンは、功利主義者であるシンガーと、彼と並んで男性かつ動物倫理の理論家として代表的な存在である「権利論者」のトム・レーガンの双方が、合理性を重視しており、動物倫理が「非合理的」「感傷的」「感情的」と見なされることを嫌っている、と指摘している。一方で、女性かつ動物倫理について論じていた理論家のメアリー・ミッジリーや代表的な女性活動家たちは感情の重要性を強調しており、また当時の動物の権利の理論が合理主義的であったり「物質主義的」「男性的」であることを批判していたことを指摘する。

 具体的に言うと、レーガンの理論では動物は「生の主体」である(欲求や信念を持っていたり、記憶や将来に対する感覚を持っていたりする)ために権利を持つ存在として認められるが、これは複雑な意識能力を持つ存在を優遇する発想であり、人間だけを[直接的な]道徳的配慮の対象と見なして動物をそこから除外したイマニュエル・カントの発想に連なるものであるとされる(レーガンはカントの理論をベースにしながらもそれを修正して動物を道徳的配慮の対象に含めようとしたが、意識能力≒合理性を重視している時点でカントから脱却しきれていない、といった批判)。

 シンガーの功利主義に関しては、リーガンほどには高度な意識能力を重視していない点は評価されているが(苦痛を感じられるならそれだけで配慮の対象となるので)、道徳を数字や量で判断する姿勢が(悪い意味で)合理主義的かつ科学主義的であり、生体解剖や動物実験などのような動物虐待を引き起こしてきた発想に連なるものであると批判されている。

 

・文化フェミニズムによる動物論

 

「合理的」で「男性的」な動物の権利論のオルタナティブとしてドノヴァンが提示するのが、文化フェミニズム(カルチュラル・フェミニズム)の理論だ。

 

文化フェミニストの視点から見ると、後期中世以降の、西洋的で男性的な心理に根ざした自然の支配こそが、動物に対する虐待および女性や環境に対する搾取の根本的な原因である。

 

 ここで登場するのが、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる(フランクフルト学派的な)批判理論である。アドルノとホルクハイマーは、現実に対して数学的なモデルを押し付けて解釈する自然科学的な思考には「支配の心理」が反映されており、科学的な知識の普遍性を強調する発想は個別性や差異を消去するものであって、科学的な認識論とは社会的支配という物質的な状況に根ざしたもの…とくに女性に対する男性からの支配に根差している、と論じた。

 ドノヴァンは、エコロジカル・フェミニストとして知られるキャロリン・マーチャントなども参照しながら、啓蒙時代(後期中世)における「動物」や「自然」に対する蔑視的で支配的な態度は「女性」に対するそれとオーヴァーラップしていた、という議論を行なっていく。また、キャサリン・マッキノンによる、リベラリズムや法システムが「中立性」や「抽象性」を重視していることに対する批判も行われる。

 そして、シンガーにせよレーガンにせよ、彼らの理論は啓蒙時代的で客観主義的でデカルト的な発想に毒されたものである、と改めて批判される。

 また、「動物機械論」を唱えて動物に対する虐待を引き起こすことになったルネ・デカルト的な発想に対して最初に異論を呈したのは、マーガレット・キャヴェンディッシュをはじめとする女性たちであった。また、当時の女性たちは男性の科学者たちによる疑似科学的な医学理論や「性科学」に苦しめられていたということもあり、科学に対する不信感や怒りの感情を募らせて、同じように科学の犠牲になっていた動物たちに親近感を抱くようにもなったらしい(このあたりの記述ではミシェル・フーコーも登場する)。西洋の動物愛護運動/動物の権利運動は反-生体解剖運動からスタートしたという面が強いが、その背景にはこういう事情があったということである。

 動物の問題を抜きにしても、文化フェミニズムでは、男性による「科学的」で「客観的」な世界観に「支配」や「権力」や「ヒエラルヒー」を見出し、それを戦略的に裏返して「女性的」な価値観や思考を強調する。ドノヴァンの論文のなかでは、様々な文化フェミニストたちの議論が紹介されている。個人的には「ケアの倫理」にも連なる「母的思考」を論じたサラ・ルディクが紹介されている下りが興味深い。また、ケアの倫理の元祖であるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』も登場し、抽象性や形式性よりも文脈やナラティブを重視した「女性的な」倫理が紹介される*3

 

・「either/or(どちらか/または)」ジレンマとフェミニズム倫理

 

 この論文の終盤では、「ケアの倫理やフェミニスト倫理はあまりに曖昧であり、動物の問題が関わる意思決定に用いられるようなものではない」という批判が想定される。たとえば、「一匹の蚊(の命)と一人の人間(の命)」との間で選択を行わなければならない場合にすら、(功利主義でも権利論でも問題なく人間の命のほうを選択できるが)フェミニスト倫理では選択を決定できないのだ。

 この想定上の批判に対して、ドノヴァンは、倫理の問題において「どちらかを選ばなければならない」という「either/or(どちらか/または)」ジレンマを持ち出して考えること自体が見当外れであり、そのような発想自体を否定/修正できるところにフェミニスト倫理や文化フェミニズムの価値がある、という応答を行う。「either/or」ジレンマが実際の場面で起こることはほとんど無い仮定のものであり、「二者のうち片方を選択しなければならない」というケースは実際には予防可能なものが大半なのであるから、そんなジレンマに捉われる必要はない、ということだ。

 ……これは、トロッコ問題が突きつけるジレンマに対して、「トロッコ問題が起きる状況自体を予防せよ」や「トロッコを転覆させよ」などと言って無効化するアプローチとほとんど同じようなものだろう。このようなアプローチに対する批判は『21世紀の道徳』の第5章「「トロッコ問題」について考えなければいけない理由」でたっぷり文字数を割いて行った。また、詳細は省くが、仮に人間同士の場合には「either/or」ジレンマはほとんど起こらなかったり珍しかったりすることを認めたとしても、動物が関わる問題について「either/or」ジレンマが起こることを否定するのは困難であろう。……そして、これこそが、権利論やケアの倫理よりも功利主義のほうに(とくに動物倫理の問題においては)軍杯が上げられるとわたしが判断している理由でもある*4

 なお、この論文の最後の段落では、動物との「対話」に基づく倫理を成立させることは可能であると主張されて、「動物(の声)を聴こうとすれば、彼らが殺されたり食べられたり拷問されたりしたくないと思っていることが聴こえてくるはずだから、わたしたちは動物を殺したり食べたり拷問したりすべきではない」ということが、ケアの倫理やフェミニスト倫理から導かれる動物に対する態度である、と結論付けられている。

 

 ……10年ぶりに「動物の権利とフェミニズム理論」を読んでいて思ったが、そういえば最近では「文化フェミニズム」という言葉を聞く機会はかなり減ったような気がする(ただし昔のものにせよ現在のものにせよフェミニズムの議論をそれほどフォローできているわけでもないから、これはわたしの勘違いであるかもしれない)。

 また、「エコロジカル・フェミニズム」は色々と紆余曲折があってフェミニストたちの間でもかなり警戒されていたはずだが、現代では「インターセクショナリティ」という便利な概念があるので、女性に対する搾取と自然や動物に対する搾取の「交差」も無難に主張しやすくなっているだろう。エコフェミにせよ一部のフェミニスト倫理(ルディックやネル・ノディングスなど)にせよ「本質主義」と批判されたので退場したが、インターセクショナリティ概念によって、本質主義を回避しながら女性に対する搾取や差別を他の属性や存在に対する搾取や差別と(やや無理筋ながらも)結び付けられるようになった*5。また、「文化フェミニズム」は後退したとしても、「ケアの倫理」もむしろ以前よりも浸透している印象がある。

 

 改めて言うまでもないだろうが、わたしはドノヴァンの思想にはかなり懐疑的であるし、あまり好意的でもなければ共感的でもない。この記事についても、読者のみなさんにはその点を割り引いて読んでもらいたい。「文化フェミニズム」的な思想に対してわたしが抱いているスタンスは、ジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』のなかで書いていたのとだいたい同じようなものである。

 

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*1:このテーマについて、このブログでは過去に以下のような記事を掲載している。ただしこれらの記事の執筆当時からわたしのスタンスや考え方も色々と変わっている面がある。

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*2:

 

 

*3:発表に関わってきそうなので、よかったらどなたか『もうひとつの声で』買ってください。

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*4:たとえば、「ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむ」といった状況が実際に存在することは想定できる。このような状況に対しては、ケアの倫理はもちろん権利論でも満足のいく回答が出せるとは思えない。

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*5:そして、ドノヴァンの論文でも登場している「批判理論」は未だに関連しているように思われるし、批判理論に特有の陰謀論的思考も色々な場面で影を落とし続けているように思える。

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