道徳的動物日記

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読書メモ:『なぜ美を気にかけるのか :感性的生活からの哲学入門』&『近代美学入門』

 

 

『なぜ美を気にかけるのか』は美学の入門書でもあるが、そのなかでも「美的価値」や「美的感性」「美的生活」の問題を扱っており、「優れた芸術の定義とは何か」といったトピックではなくタイトル通り「なぜ美を気にかけるのか」という問題……なぜわたしたちは服や髪型のお洒落さ/ダサさや食事の美味しさ/不味さを気にしたり、聴く音楽や視聴する動画について自分なりの選択を行おうとしたりしているか、といったトピックを扱っている。ここでいう「美」はかなり広い範囲の物事を指していること……「 "美"といえるのは素晴らしい芸術のみである」といったエリート主義を排して、どんな人でも日常的に様々なタイミングで様々な領域の「美」を気にかけている、というスタンスで各人が論じていることがポイントだ。

 具体的には、イントロダクションのあとに、3人の論者が三者三様の主張をしている。ベンス・ナナイは「わたしたちは美的判断よりも美的経験のほうを重要視している」という議論を展開したのちに「美的経験が大切のは、その経験は各人が自分自身で達成したものであり、自分で何かを成し遂げたという感覚を与えるからである」という「達成説」を主張する。ニック・リグルは、美的価値はわたしたちの個性とか自由とかに関わるということを指摘しつつ、最終的には「共同体」にとって美的価値がもたらす物事を重要視する主張を行う。ドミニク・マカイヴァー・ロペスは、わたしたちは「違い」を賛美するという前提に基づいて、美的コミットメントはわたしたちを未知なるものに向かわせることで人生を向上させるという「冒険説」を主張したり「多様性」を重視した議論を行ったりしている。

 本書のいいところは、「芸術」などのハイカルチャーではなくどんな人の生活にも存在するような経験や行為……服装や髪型、食事に自然鑑賞など……について議論しているために、ほとんどの読者にとって「自分ごと」として読める内容になっていところだ。たとえば、彫刻芸術の良し悪しについての議論をされたとしてもわたしは彫刻芸術に詳しくもないし関心もないから、三者の議論について妥当かどうかの判断をすることができない。しかし、本書の議論は、たとえば「美味しいものを食べる」「自然美を鑑賞する」ということに関するわたしの経験や意識やスタンスや記憶と照らせ合わせながらピンとくるかどうか確かめることができるので、芸術や美学の素人であるわたし(そして他の読者たち全般)にも妥当であるかどうかの判断ができるようになっている。

 結果的には、どの論者の議論についても「たしかにそう言える側面もあるな」とは思えるが「でもそれだけでは説明できないよな」とか「自分の説や主張を押し出すためにいろんな側面を無視しているな」とか思わされた、という感じ。納得度の順番はナナイ→ロペス→ニグル。また、最初に登場するナナイの議論は文章や構成が洗練されていて内容を理解しやすかったが、ニグルの文章や議論はまあまあで、ロペスの文章や議論はやや理解しづらかった。

 ちなみに、この本を読んでいるあいだわたしは一人旅をしており、ひとりで旅行先の美味しい食事やお酒を味わったり自然美を鑑賞するなどの「美的経験」をしていた。この経験について家族にLINEで伝えることはしたが、SNSでシェアするといったことは行っていないし、基本的に「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験であったが、それでも普段の東京における食事や自然鑑賞よりも鮮明で優れている経験であった。この体験に照らし合わせると、美的経験の「社会的側面」や「協働性」「他者との関係」といったポイントを重要視しているニグルの議論(とおそらくロペスの議論)はかなりズレているように思える。そりゃ美学者たちは美的経験や美的判断についてお仲間と語り合ったり美的な物事に関する共同事業に関わったりした経験が多いだろうから美の社会性や協働性を強く意識する機会が多いだろうけれど、一般庶民にとってはそんなことは稀なのであって(ネットばかりしていると忘れがちであるが、マンガやアニメの感想をSNSに投稿する程度の社会性を発揮すること人ですらどちらかというと少数派であることには留意すべきだ)、結局のところ自分たちの経験を特権化することになっていてある種のエリート主義から逃れていないのではないか、と思えてしまった。

 また、ニグルの議論で食事に関する「文化の盗用」を云々しているところはかなりしょーもなく思えたし、文化的アイデンティティエスニシティを必要以上に強調して個々人の経験を蔑ろにしようとするという点で……そして「メシの旨さ」に代表されるようなコンテンツの質の良し悪しよりも規範やコードを重視しているという点で、悪い意味で「アメリカ的」で「ポリコレ的」な議論であるように思えた。ついでにいうと巻末の対談(「ブレイクアウト」)で「西洋中心主義」や「美の神話」について三者が語っているくだりもなんだか言い訳がましく、読んでいて白けてしまった。

 

 

 

 

『近代美学入門』もかなり評判が良い本であるようだし、実際に読みやすいし章の構成も洗練されてはいるのだけれど、わたしとしては全体的な「行儀の良さ」や規範意識が気に触って苦手な類の本だった。

 本著は美学の本としても「思想史」が重視されており、また「私たちには知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです」と前提したうえで「無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要です」(p.017)とされるのだけれど、この問題設定の時点で、「刷り込み」以前の客観的で普遍的な「美」の存在を主張する議論……たとえば進化心理学に基づいた美学論は多かれ少なかれ蔑ろにされてしまう(もちろん本書のなかでは思想史の文脈で古代ギリシャなどの「客観主義」は紹介されるのだけれど、最初の問題設定の時点で現代に客観主義を主張している人を不利な立場に立たせている、ということだ)*1

 そして、「現代には白人を美の理想とするルッキズムが存在しているので社会規範を無意識に内面化しないように気をつけましょう」とか「芸術家は政治に関わらなくてもいいみたいな風潮があるけれどナチスに協力したレニ・リーフェンシュタールとかの例もあるから美や芸術に関わる人も社会的責任を考えましょうね」とかいった、間違ってはいないけれどもう百万回は聞かされてきたような凡庸な「お説教」がたびたび顔を出すところにうんざりさせられた。先日に同じくちくま(プリマー)新書の『悪口ってなんだろう』を読んだときにも思ったけれど、道徳や規範について知ったり考えたりしたいときには倫理学や政治哲学に基づくガチの議論を読むから、言語哲学や美学の本で道徳の話はしなくてもいいのだ(それか、道徳や規範の話をするなら「お説教」で済まさずに倫理学などを引用しながらガチで論じてほしい)*2。もちろんこれらの本の対象読者はわたしのような人間ではなく、もっと若くて素直な人たちなんだろうけれど、どの本でも同じようなお説教が続くなら彼や彼女だってそろそろうんざりすると思う。あと『シンドラーのリスト』と『ショア』を対比させながら「戦後に生きるわたしたちはもう、これまでの芸術のように世界を美しいと寿ぐことはできません」(p.241)と書いているくだりなどで強く感じたが、本書は「近代美学」を客観視して相対化することはできているかもしれないが、現代の(とくに西洋の人文学界で形成されてきたような)「お約束」の客観視と相対化はぜんぜんできていないように思える。

読書メモ:『人生の意味とは何か』

 

 

 

Very Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ(カテゴリを新設しました)。

 

 U -NEXTの余っていたポイントを使ってビル・ナイ主演の『生きる LIVING』を観たということ、そして「人生の意味」というテーマには昔から関心を抱いていたということもあって本書を手に取ったが、結論としてはいままで読んできたVery Short Introduction シリーズのなかでも最悪クラス。訳者あとがきでは著者のテリー・イーグルトンの文章について「…体制への鋭い批判精神にあふれ、ウィットとアイロニーに富む卓抜なレトリックに裏打ちされている」(p.167)とヨイショされているが、実際には、論理的な説明によって議論を整理することなく思いつくがままに話を飛躍させながら「人生」とか「意味」とかいった単語から連想されるトピックをのんべんだらりと並べ続けただけの内容であり、読者に対して知識を提供したり読者の理解を深めたりするという意欲には全く欠けている。第四章で提示される快楽主義的な幸福感とアリストテレス風のユーダイモニア的な幸福感の対比もいまやこのテーマの著作ではありふれたものであるし、最終的な結論として幸福や人生の意味を「ジャズ・バンド」に類比させながら語るくだりも、要するに共同体主義的な幸福論や人生の意味論ということであって、それ自体は説得力あるものだがやはり(哲学や倫理学では)ありふれていて全く珍しくない議論だ。結果として本書を読むことでわたしの有意義な人生の貴重な時間がちょっと奪われたのは有害でしかなかった。

 イーグルトンはポストモダニズム批判者として名を馳せているようだが、議論を曖昧にして物事についての理解や整理に導かない「ウィットとアイロニーに富む卓抜なレトリック」のために、彼の文章もポストモダニムと同じくらいかそれ以上に人を理性から遠ざける迷妄なものになっている。また、本書のなかには原著が出版された2007年当時の世界情況を前提とした社会批判みたいなものが散りばめられているのだが、それも思わせぶりだったり当て擦りだったりしていて内容がはっきりせず、現代になっては完全に賞味期限切れなものになっている。バーナード・クリックの『デモクラシー』と同じく大御所だからといって甘やかされてきた著者を採用したせいでVery Short Introductionや入門書としての意義が全くない本が刊行される羽目になっており、こういう著者が多々いるという点ではイギリスの人文学界隈や書籍界にもなかなかロクでもない面があるのだなと思った。

 本書を読んで唯一収穫が得られたとすれば、物事を淡々と切り分けて分析する分析哲学の味気ない議論のスタイルは、とくに「人生の意味」(や「幸福」)といった壮大で重要なテーマについて論じるときにこそ必要不可欠なのだ、というのを再認識できたこと。逆に言えば文学研究者だが文芸理論家だかにこんな重要なテーマについて書かせることが間違いなのだ。『デモクラシー』が著者を代えて新たに刊行されるように、『人生の意味』のVery Short Introductionもそれに相応しい哲学者にバトンタッチさせて刊行し直すべきだろう。また、「人生の意味」に関する(分析)哲学は近年でもどんどん研究が発展しているからこそ、こんな本を手に取ってしまう人の数を減らすためにも本邦でも翻訳が進んでほしいなと思った*1

最近読んだ本シリーズ:『悪口ってなんだろう』『「美味しい」とは何か』『ケアしケアされ、生きていく』

 

 図書館で借り、出退勤の電車で流し読みした新書本たち。どの本もdisることにはなるけれど、ちゃんと読めてはいないです。

 

 

「「からかい」の政治学」や『笑いと嘲り』を読んだ流れで、関連してそうな本書も読んだ。

 本書では「悪口は人のランクを下げるから悪い」という主張に基づいて議論が展開されるのだが、悪口の問題の一部や一側面を説明する理論として「ランキング説」を採用するならともかく、まるで悪口の問題がすべて「ランキング説」で説明できるかのような書き振りであるところが微妙だった。少なくともわたしとしては、悪口を言う側としても言われる側としても、ランキングの優劣よりももっと重要なポイントがあるように思える。たとえば悪口を言う人は「相手の痛いところをついてやろう」と思うものだし、悪口を言われる人は自分の弱みを攻撃されるか、逆に誇りに思っている物事を貶されたりすることで傷付いたり心外に思ったりするものだろうが、こういったごく基礎的に思えるポイントですら「ランキング説」では捉えられないように思うのだ。

 著者が「ランキング説」にこだわる原因のひとつは、「ランキング説」なら悪口という言葉の性質だけを云々することで言う側や言われる側の意図や心理を無視することができて、著者の専門である言語哲学の範囲内で議論を収められるところにあるだろう(たとえば、もし言語哲学ではなく倫理学に基づいて悪口を論じたなら、もっと複眼的で曖昧で範囲の広い議論になっていたはずである)。そして、ふつうなら明らかに重要であるはずの言った側の意図や言われる側の心理を無視しながら「悪口は悪い」という規範的主張を論じられるのは、マイクロアグレッションに関する議論をはじめとする最近のポリコレ的な風潮に合致しているのも大きいだろう。

 関連して、いちおう若者向けに書かれているという体裁が取られているちくまプリマー新書だとはいえ、ポリコレ的で凡庸な規範に基づくお説教がところどころで出てくるのにもなんだか鼻白まされた。

 また、本書の終盤では「権力者に対する悪口はイコライザーとして機能するからOK」といった主張がなされるのだが、「増税クソメガネ」の件を見ていると、権力者に対する悪口も害のほうが大きいように思える。悪口を言ってしまうということは「正論」で批判する権利を放棄することであるし、「権力者の振る舞いも問題であるかもしれないが弱者が悪口を言うことも問題なのだ」という「どっちもどっち論」を招き寄せてしまうからだ。

 

 

 

 さいきんのわたしは美学に興味を抱いており、そして美味しいものは昔から大好きなので本書はわたしにとってドンピシャなはずなのに、全然おもしろくなかった。

 テーマは興味深いのに議論や文章が異様に淡々かつあっさりしており印象に残らない。また「食事も美学の対象になるということを立証する」という美学徒としては挑戦的であるが美学の門外漢にはどうでもいいテーマに拘っているのが、新書としても入門書としてもふさわしくないように思える。分析美学の基本的な考え方を解説しているであろう第2章〜第4章はそこそこ興味深かったからこそ、だからこそ素直に『分析美学入門』として書いとけばよかったように思える。

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑ 本筋の議論に関しては、この記事とだいたい同じような感想。また、同じくちくまプリマー新書の『客観性の落とし穴 』(そして中公新書の『ケアとは何か』)を書いた村上靖彦の議論にも色々と似ている。編集者も出版社も、代わり映えのしない不毛な「ケア」論を量産することに疑問や恥ずかしさを抱かないのだろうか。

 本書は類書に比べてもエッセイ的な要素が強く、「自分は能力主義や競争にとらわれていたが子どもが生まれてケアが大事だと気づくようになった」というストーリーが主になっているのだが、わたしは初めから能力主義や競争にとらわれていないのでまったく共感を抱けなかった。また、著者は勉強やキャリアに関する努力を積んで競争に勝ち抜いてきたからこそ大阪大学大阪大学院に入学できて山梨学院大学の教授や兵庫県立大学の准教授になれたのだろうし、割のいい定職につけて競争から「あがり」になれたからこそ、いまになって競争を批判してケアが大切だと唱えられるようになったのだと思える。本書に限らず、単著を出版できたり雑誌やメディアに記事を載せて意見を発表できる人ってだいたいは競争に勝ち抜いたり能力を発揮したりして肩書きや立場を手に入れてきたエリートなわけで、そりゃエリートたちは能力主義や競争に自縛されて苦しんだり悩んだりしているかもしれないが、エリートでもない読者がその苦しみや悩みに共感してやる義理はないのだ。

 あと「現代の若者も能力主義や競争や生産性至上主義に捉われている」とか「いまは昭和九十八年である(日本社会の体質は昭和から全く変わっていない)」とかいったことが主張されるのだが、根拠は著者自身の実感や経験、あと著者の身近な若者(学生)との対話とかだけなので、エビデンスとか客観性とかってやっぱり大切だよなと思った。

ユーモアのダークサイド(読書メモ:『笑いと嘲り』)

 

 

 先日に江原由美子の「からかいの政治学」を読んだ流れで、前々から図書館で見かけてタイトルだけは知っていたこの本も中古で購入して読了*1

 著者のマイケル・ビリッグは心理学者であると同時に左翼であり、本書で展開されるのも「批判心理学」である。訳者あとがきによると批判心理学とは「現在の主流の心理学に対する批判的な諸勢力の総称」であり、量的研究や実験室研究より質的研究とフィールドワークを重視する派閥であるようだ。それだけでなく、本書のなかでもハーバート・マルクーゼが何度も登場するように、フランクフルト学派の「批判理論」に影響された、(左翼的な)政治的問題意識をもって既存の心理学の「中立性」を擬似的なものだとして弾劾したり修正したりするといったことを目的にした学問であるように思える。

 そして、著者が本書でとくに問題視するのは「ポジティブ・イデオロギー」であり、具体的に批判の対象となるのはポジティブ心理学自己啓発(セルフヘルプ)心理学などだ。このテの心理学が資本主義に尖兵扱いされることはいまに始まったことではないが、著者によると、現代でユーモアのダークサイドが無視されてユーモアはとにかくいいものだとされているのもポジティブ心理学とかが原因であるらしい*2

 そしてユーモアのダークサイドを明かすために、本書の第1部では「歴史的見地」としてホッブズやスペンサーにベルクソンフロイトなど歴代の哲学者たちによるユーモアについての理論が紹介された後に、第2部では「理論的見地」として著者自身のユーモア論が展開される。

 ……まず、本書は、文章は冗長だし主張は繰り返しが多いしで、読みものとしてはかなり退屈でおもしろくなかった。また、ポジティブ心理学が好きなわたしとしては著者による批判や敵意は不当なところが多く感じられた。というか、ポジティブ心理学の本はいくつか読んできたけれど、そもそもそれらの本で「ユーモア」がそこまで強調されていたり讃えられていたりするイメージはない。また、自己啓発の本でユーモアが強調されるとしたら、それは「どうにもならない出来事に対する悲しみやロクでもない他人に対する怒りに振り回されないように、自分の身に起きたひどいことを笑い飛ばせるユーモアを持とう」といった類のものではないだろうか*3。その種の自分に向けたユーモアにも批判の余地はあるかもしれないが、一般に「ユーモアのダークサイド」と聞いてイメージされるもの、そして本書の著者も問題だと思っているであろうものは、他人に向けたユーモア……とく「からかい」と表現されたり「嘲り」と呼ばれたりするものだろう。それらは自分に向けたユーモアとはかなり隔たりがあるように思えるし、からかいとか嘲りとかをポジティブ心理学の本で取り上げろというのは無理筋なように思える。

 本書を通じて、どうにも著者は「「笑い」と「嘲り」は区別できずにつながっているものであるから、「嘲り」の存在を無視して「笑い」を肯定する議論はダメなのだ」と言いたいようだ。しかしやっぱり区別は可能だろうし、「「嘲り」はダメだけど「笑い」は大切だよ」という議論はできるように思える。そこらへんの著者の前提が断定的であったり問題意識が強すぎたりすることも本書を読むのがしんどかった原因だ。

 

 それはそれとして、本書の議論のなかで意義深いと思ったところを取り出してみよう。

 まずは第2部のほうから。この部では、ユーモアは「社会秩序」に関する機能に基づいて二種類に分けられる、といったことが論じられる。ひとつめは「懲罰的ユーモア」であり、秩序に反した言動をしたりその場のルールやコードをふまえない振る舞いをしたりした人をからかったり嘲ったりすることで、笑いの対象になった人に恥ずかしさや屈辱感を与えて言動や振る舞いを抑圧させて、現状の社会秩序を強化するという機能をもつものだ。ふたつめは「反逆的ユーモア」であり、こちらは秩序そのものやそれに従う人々、または権威を持つ人などを笑いの対象にすることで、秩序を批判したり撹乱したりする機能をもつ。

 ……とはいえ、あるユーモアを懲罰的であるか反逆的であるかと簡単にカテゴライズできるとは限らない。また、一見すると反権威的でアナーキーでいい感じのイメージが抱かれがちな反逆的ユーモアも実は、そんなによいものではないかもしれない、というのが本書の議論のポイントだ。

 

まず、二つの種類のユーモアを区別することができる。懲罰的ユーモアと反逆的ユーモアである。どちらも嘲りの形を取ると考えられる。懲罰的ユーモアは社会ルールを破る者を嘲笑い、そうすることでルールの維持に役立つと考えられる。反逆的ユーモアは社会ルールを嘲笑い、そして今度はルールを疑い、反逆すると考えられる。懲罰的ユーモアは本来的に保守性をはらみ、他方反逆的ユーモアはラディカルな側にいるだろう

[…中略…]

懲罰的ユーモアと反逆的ユーモア、ないし抑圧的ユーモアと抗争的ユーモアの区別は、理論的に有用かもしれない。しかし、ある特定のユーモアをいずれのタイプにはっきり分類するのは困難なようだ。われわれのジョークやわれわれ以外の者たちのジョークを分類することには、倫理上、個人上、イデオロギー上の広範な気遣いを伴うので、こうした分類は問題を含む可能性がある。

[…中略…]

フロイトが言ったように、人は自分の笑いを良いものと考えるように動機づけられていて、そのためおかしいと思うものについて利己的で自己欺瞞的な主張をするものだ。もし反逆的ユーモアか懲罰的ユーモアに、文化的ないしイデオロギー的な価値があると言うなら、賛同と反論の両方が見つかりそうだ。

[…中略…]

人種差別的ジョークや性差別的ジョークを言う人はしばしば「政治的正しさ」の求めるものに反逆しているのだと主張して、自分自身を、いたずら好きで、抗争的で、無力な側に位置付けることがある。学者でさえこの方針を採ることがときどきある。[チャールズ・]グルナーはユーモアの心理学的分析の中で、いくつかの会議で男性が女性に色目を使っている風刺漫画を見せたことにふれている。これは「政治的に正しい」女性たちからの苦情をもたらした。グルナーは言う。「こうした苦情を言うレディーたちは風刺漫画のユーモアを好まないだけでなく、理解すらしない」。グルナーは自己弁護する中で、いわゆる「政治的な正しさ」のもつ社会的権力に注意を向けているが、これは「政治的な正しさ」への反逆を理由にして、物議をかもす右派的なもの言いを正当化する人たちと同じことをしている(…)。グルナーの批判者たちは彼のことを、彼自身が考えているよりも力があり、高圧的と見ていることだろう。このような議論においては自分自身の力は奇妙にも見えないものだ。というのは、力とは常に他人の側にあると主張されるからだ。権力をもつ人でさえ、自分のユーモアは権力を行使しているのではなく疑っているのだと理由をつけて、ユーモアを正当化することができる。

これが、なぜ懲罰的ユーモアを保守的であるとはっきり述べ、また反逆的ユーモアを客観的にラディカルであると述べるのに慎重でないといけないかの理由である。それほど単純ではないのだ。否認、自己欺瞞、ひとりよがり、これらの影響がすべてあり得る。懲罰への反逆を好ましいとするイデオロギー的風潮がある時は特にそうだ。

 

(p. 358 ~ 361)

 

…反逆とユーモアを等号で結ぶことには困難がある。社会が課す諸要求にそむくような反逆の感情やユーモアの愉快さは、必ずしも反逆の政治行動と等しくはない。このことは後期資本主義の状況がうまく説明する。そこではジョーク的な反逆の地位は高い。それはメディアの娯楽作品で非常に賞賛される。こうした作品は視聴者に、全面的に反逆的になることを勧めているのではない。というのは、視聴者の反逆も時代の道徳的規範に従っているからである。スイッチをひとひねりすれば(そしてクレジットカードで適正料金を払えば)、いつもの面白おかしい、嘲笑でいっぱいの番組を楽しうことができる。こうした義務的な消費が私たちに権威らしきものを嘲笑させ、絶えず昨日の作品への不満を必要とする経済状況において私たちに絶え間なく反逆を感じさせ、それを楽しませる。

 

(p.370)

 

大人になった男たちはしばしば学校に通っていた頃の話をするのが好きで、自分は生意気でいたずら好きだったと言うものだ。昔気質の教師の、尊大で不合理な権威をばかにして笑うのが、彼らは好きだ。このような話をしている時、彼らは教師にではなく男子生徒の方に感情移入している。

 

(p.372)

 

このような文化的風潮においては、古くさい時代遅れと思われたい人はほとんどいないし、清教徒のように厳格な人と思われるなんてとんでもないことだ。この文化に「幼稚症」のような要素がもしあるなら、それは、ユーモアのない厳しい親よりもいたずら好きの子どもの立場の方が一段と心地よく、望ましいとされていることに明らかだ。若者以外の誰もが若くあらねばならない。[…中略…]今はプラトンの時代ではない。傲慢さではなく、いたずら好きの方が魅力的な性質なのだ。

どうやら反逆的ユーモアは保守的機能を果たすので、左派の批評家はユーモアに関して難しい立場にいると知らされることがある。「市場」への順応が絶え間ない革新を命じている場合、順応主義者たちの方がラディカルなジョークをするようだ。今日、度が過ぎるコメディアンに対する異論の多くは、左翼的なコメディアンについてのものではない。ある意味、会話の規範を守るよう強く主張し、身体障害や非異性愛的嗜好や外国の市民権をもつ人たちを表現する伝統的な用語を使うのが許されないことを指摘しようとしているのが、左派である。こうした状況では、平凡なコメディアンが簡単に勇気ある反逆者の立場を採ることができ、彼らは言ってはならないことを口に出し、伝統的なカーニバルの道化師のようにずけずけ話し、世間体という制限規範を逸脱する。彼らはユーモアを欠く権威者の正統性に抵抗するいたずら好きの子どものように見えることがある。そしてこうした侵害がそれほど目に余るものでないなら、社会が制限するものを嘲笑することに加わるようにとの誘惑はかえって魅力的でさえある。ただのジョークさ。笑いなさい。笑いなさい……でもその楽しさは強制されていない。

このことが左派を守勢の側に置きかねないのは滑稽なことだ。右派とは基本的にユーモアを欠くものだ、と左派の人たちは長い間聞かされてきた。けれども今日の右派は、最高によくできた、そして最高にふざけたジョークのいくつかをもっている。大統領が自分を嘲笑して金持ちや権力者から拍手をもらっている時に、誰が彼の言い間違いを嘲笑うことができるだろうか?[…中略…]ジョッキーたちはあらゆる社会のしきたりに反抗する生意気な少年たち(とたまに生意気な少女たち)であり、特にリベラルなしきたりに反抗している。彼らはそのようなことをする過程で名声と富を獲得することができる。「政治的な正しさ」に反抗しているのだ、と彼らは何度も主張するだろう。そのような主張が彼らのユーモアといたずら好きの反逆者としての仮面を保証するかのように。

 

(p.425 - 427)

 

 このあたりの議論は、現在の日本にもいろいろと通じるところがあるものだ。90年代サブカルゼロ年代2ちゃんねるの「露悪的」な風潮、「日本のコメディアンは強いものには歯向かわず弱いものばかりをいじめている」といった批判など。ちょっと前の「人を傷付けない笑い」ブームやその反動(?)としての「悪口漫才」について考える際にも参照できるかもしれない。

 わたしの頭に浮かぶのは、やはり、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターでの「からかい」批判の件と、それに対するSNS上でのもろもろの批判や反動など。オープンレターで批判されていた対象は「ボーイズクラブ」文化であるという指摘はちらほらとなされていたが、ネット上で「からかい」や「嘲り」をしている人たちからは、男子中高生的なノリを楽しんでいたり、自分たちについて「いたずらっ子」的なセルフイメージ(あるいは「道化」とか「トリックスター」とか)を抱いているであろうと察せられることはたしかにある*4。また、とくにグルナーのくだりは日本の大学教授でも似たようなことを主張している人間が思い出されるところだ。そして「オープンレターは風刺文化の否定だ」という言説もちらほらと出ていたし、「リベラル/フェミニストはいまや権力の側にいるのだから、自分たちが彼らや彼女らをからかったり嘲ったりするのは反権力的な風刺行為である(から立派な行為なのだ)」みたいなことを、詭弁として主張しているだけでなく本気で思っている人もいるのだろう。

 実際のところ「権力」というのは曖昧なものであり、見出そうと思えば何にだって権力を見出すことはできるという面はある。そして誰にだって「自分は権力を持っていなかったり権力にいじめられていたりする弱者である」と自認することはできるから、誰にだって「自分のユーモアは反逆的なものだ」と主張することはできてしまう。もちろん、なにが権力でありだれが弱者であるということを厳密に特定する主張を論じることもできるだろうが、そもそも風刺や反逆的ユーモアに価値を見出すこと自体を止めるのが……本書の主張も半ばそうであるように……賢明であるかもしれない。

 なお、批判理論であるはずの本書が、批判理論を批判していた『反逆の神話』での主張に接近しているのも興味深いところである*5

 

 第1部では、まずトマス・ホッブズなどによる「優越理論」が紹介される。ホッブズは人間は地位や権力をめぐって争うものであり、ユーモアについても「嘲り」の側面を強調しながら「人間の笑いは優越感によって引き起こされる」と論じいた。要するにユーモアとは基本的にロクでもないものだという主張だ。また、ホッブズの他にも、過去の思想家にはミソジラスト(笑い嫌悪家)が多々いたのであった。

 ジョン・ロックをはじめとする十八世紀の思想家たちはコーヒーハウスとかに行って民主的になったり社交的になったりしたので、笑いをネガティブなものと捉える「優越理論」に反発して、嘲りではなく「ウィット」に注目した「ズレ理論」を提唱した。「ズレ理論は笑う人の動機に笑いの原因を探すのではなく、笑いを引き起こす世界のズレた特徴を特定しようとした」(p.99)。

 ……しかしズレ理論は優越理論とは逆に笑いのポジティブな要素を強調するあまりに、笑いを無害で上品なものと捉えすぎて、笑いが持つことのある有害さや下品さを丸々無視してしまった。「ウィットのある紳士は利口で、賢く、陽気である。決して人を辱めるいじめっ子ではない」(p.113)とする一方で、下々の者が遊園地に行って道化を見て笑うことはズレ理論の対象にはならなかったのである(そして、「われわれ」の笑いは上質だが「彼ら」の笑いは低質である、という自己中心的な二分法は後の思想家たちにも引き継がれる)。また、紳士同士のパーティーで互いに冗談や皮肉を言い合うやり取りは誰も傷つかない知的で上品なやり取りであるように見えても、そのなかにはやはりからかいや嘲りなどが混ざっていたのだし、冗談に冗談で言い返せずに傷付いていた紳士もいただろう、といったことが本書では指摘されている。

 ヴィクトリア朝時代にはハーバート・スペンサーとアレクザンダー・ペインがダーウィンの進化論に基づいた生理学的・心理学的なユーモアの理論である「放出理論」を提唱した。これは「拘束からの解放が神経エネルギーを増加させて笑いを引き起こす」といった理論で、現代の目からは他の理論に比べても疑わしいように思えるが、彼らの理論は笑いは「解放」や「反逆」、あるいは他者に対する「攻撃」などに関連することを指摘したという点で現代の議論にもつながる貢献を残している。

 1900年には、アンリ・ベルクソンが著書『笑い』にてユーモアが社会の規律に関して持っている機能について本格的に論じた。ベルクソンがとくに注目したのは笑いの「懲罰的」な側面である。一方で、1905年のジークムント・フロイトの著作『機知ーーその無意識との関係』では笑いの「反逆的」な側面が強調された。

 

 最後に、第1部のなかでも印象的に残った箇所……そして本書の著者も重視しているであろうポイント……を引用する。

 

ベルクソンフロイトの著作を早くから読んでいた読者の一人で、この響き[「一つの底意図」]が意味するものをよくわかっていただろう。他のところで彼は、自分のアプローチをフロイトのそれと結びつけることができると指摘した。秘密の意図というフロイトのアイデアは、社会行為者が自分の行為の社会に及ぼす作用に気づかないかもしれない、ということ以上を含意する。それは隠れた秘密も含意している。笑いの場合、ベルクソンはこの秘密が何かをほのめかしている。われわれの隣人に屈辱を与えようとする、口にはされない意図があるという。

[…中略…]

このように言うことから、社会生活において快適に活動するためには人は自己認識から自身の行為の諸側面を隠す者である、と言うまでは短いステップである。ベルクソンの主張を構成する要素は、そのような可能性を示唆している。笑いの快楽は、同情の欠如ないし信条の瞬間的な麻酔状態に依存する。笑う人は笑いの残酷さを深く反省したりしない。笑いの対象となる人に屈辱を与えようとする願望は、認められも口にされもしない。疑われたなら否定される。これが秘密の意図であり、これは他人に隠しているだけでなく、自分自身にも隠しているのである。

 

(p.232 - 234)

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:「現代ストア哲学」に基づく『ストイック・チャレンジ』にもそのようなことが書いてあった。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

hokusyu.hatenablog.com

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『哲学がわかる 懐疑論:パラドクスから生き方へ』

 『福祉国家』『ポピュリズム』『法哲学』『マルクス』『古代哲学』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 

 

 本書の冒頭でまず論じられるのは、営業係のセールストークや星占いのような疑似科学を疑う、小規模で健全な懐疑(論)はわたしたちの人生や社会にとって有益かつ必要なものであるが、科学的にほぼ立証された事実や社会において共有されている常識なども含めてなにもかも疑うような大規模で過激な懐疑(論)はわたしたちに悪影響をもたらす、ということ。

 つまり、大規模な懐疑論は真理に対する関心を失わせてしまい、「なにが真実であるかなんて判断できないから人それぞれの真実があるということなのだ」といった真理に関する相対主義を蔓延させてしまう。ここで著者が具体的に問題視しているのは、気候変動に対する懐疑論ドナルド・トランプ大統領就任に伴い流行した「ポスト真実の政治」などだ。

  

 本書の前半で主に紹介されるのは、哲学における「認識論」に関する議論だ(わたしはあまり詳しくないが、認識論は最近は分析哲学で盛んになっており研究したり専攻したりする人も増えている印象がある)。

 認識論における「知識」に関する定義と、それに関する懐疑論の議論は、以下のようにまとめられている。

 

先ほど、知識には単なる真なる信念だけでは不十分であることを確認した。そろそろこの主張を再検討すべき頃合いだろう。というのも、知識とただの真なる信念の間のギャップこそ、懐疑論が効力を発揮する場であるからだ。先述の通り、ただの真なる信念は、まぐれで不適切な方法ーーたとえば人の言うことを信じ込みやすい性格ーーによっても獲得できる。そうしたケースにおけるただの真なる信念は知識とは呼べない。では、真なる信念を知識へと変えるには、一体何が必要なのか。この点について、現代の認識論者たちは百花繚乱の提案を行ってきたが、一般的には、知識には少なくとも正当な理由に基づいた真なる信念が必要だと考えられている。

より正確に述べれば、知識を獲得するのに必要なのは、当の信念が真であると考えるべき正当な理由だ。「正当な理由」をこのようにやや回りくどく表現するのにはわけがある。それは、ある命題を信じるのに正当な理由があるとしても、その理由は必ずしも、自分の信じていることが真と考えるべき正当な理由にはならないからだ。[…中略、「正当な理由」ではない理由の例として「打算的理由」が挙げられる…]ある信念が真であると考えるべき理由は、認識的理由(epistemic reasons)として知られている(そう呼ばれるのは、真理や知識などに関わる哲学分野は認識論epistmology)と呼ばれ、その専門家は認識論者epistemologist)と呼ばれているからだ)。一般に、知識とは正当な理由に基づく真なる信念である。そこで「正当な理由」として想定されているのは、打算的理由ではなく認識的理由、すなわち当の信念が真と考えるべき理由のことなのだ。

 

(p.23 - 26)

 

 

ここでようやく、懐疑論者の論法がどういったものかを理解することができる。その論法とは、どの人も自身の信念を裏付けるための正当な認識的理由など持ち合わせていないと示すこと、そしてそれゆえにどの人も知識を欠いていると示すことだ。もしこの証明が成功したとすると、当人の信念は仮に真だとしても、信じ込みやすく騙されやすい性格によって(もしくは単なる当てずっぽうで)信念を形成する人と何ら変わりがないことになる。

その際注意しておくべき点は、こうした論法で懐疑が正当化されるとき、それは信念が偽であると主張しているわけではないということだ。実際、懐疑論者の提起する疑念とは裏腹に、当の信念は問題なく真かもしれない。だが懐疑論の眼目は、当の信念は仮に真だったとしても正当な認識的理由に乏しく、それゆえに知識にはならないという点にある。つまり、懐疑論者は私たちの信念が本当に真かどうかを標的にする必要などまったくないのだ。ここで、相対主義に関する議論を振り返ってみよう。真理の相対主義によると、真理とは各人の主観的な感想に相対的なものにすぎない。だが真理の相対主義それ自体は、いま問題になっている懐疑論が提起している問題とはまったく無関係である(仮に相対主義を適切な根拠のもとで擁護することができたとしても、だ)。過激な懐疑論者が述べているのは、私たちは客観的な真理についての知識を欠いているということである。このことは、知識は持っていないが客観的に真である信念を持っていることと矛盾しない。そればかりか、知識は持っていないが主観的に真である信念を持っていることとも矛盾しないだろう。要するに相対主義は、とりわけ客観的な真理についての知識を標的とする懐疑論とはまったく無関係なのだ。

 

(p. 26 - 27)

 

 本書の第二章では懐疑論を支持する主張が、第三章では懐疑論に反論する主張が、それぞれ具体的に紹介される。このふたつの章における議論はいかにも「哲学的」なものであり、第二章で登場するのはデカルトの懐疑論「水槽の中の脳」の思考実験、それらの懐疑論的仮説を懐疑論的結論につなげるための「閉包原理」などだ。本書の副題の「パラドクス」も、二章と三章における議論を指している。

 

過激な懐疑論者が導入する原理とは要するに、知識はすでに知られている含意のもとでは「閉包している」、つまり既知の事柄Aが既知の事柄Bを論理的に導くとわかったとき、Bは知識として認められる、という考えに基づいている。この原理が閉包原理the colsure primsiple)と呼ばれるのはそうした理由だ。閉包原理が成り立たないケースは何とも想像しがたい。第一の命題を知っていて、それが第二の命題を含意していることも知っておきながら、その第二の命題を知らないということなどありえるだろうか。ある命題が他の命題を含意する(entail)というのは、正確に述べれば、前者の含意する側の命題が真であれば、後者の含意される側の命題も真でなければならないということだ。

 

(p.57)

 

…ひとたび日常的な知識が過激な懐疑論的仮説と矛盾することが判明し、日常的な命題が真だとすると懐疑論的仮説が偽であることが導かれるとわかると、形勢は途端に逆転する。もし私たちが日常的な命題(たとえばシャツを着ていること)を本当に知っているとしたら、信じられないことに、過激な懐疑論的仮説が偽であること(たとえば自分がBIV[水槽の中の脳]でないこと)を知らなければならない立場に追いやられるのだ。逆に、懐疑論者の言う通り、過激な懐疑論的仮説が偽であることを知ることができないのだとしたら、日常的な知識も失う羽目になる。つまり、もし自分がBIVでないことを私が知らないのであれば、過激な懐疑論的仮説と矛盾する日常的な命題、たとえば私がシャツを着ていることすら私は知らないことになるのだ。したがって、懐疑論者は閉包原理を巧みに利用することで過激な懐疑を正当化できるように見える。

 

(p.61)

 

 第三章で紹介される懐疑論に対する反論とは、G・E・ムーアによる「常識に基づく議論」や、知識に関する「文脈主義」、そしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる「合理的吟味」に関する議論だ。第三章の最後では、これらの議論にもそれぞれに欠点やスキがありいずれも万能な反論ではないことが指摘されつつ、興味深い反論が複数なされている以上は過激な懐疑論が正しいと安易に決めつけることもできない、といった中庸的な結論が提示される。

 ……第二章と第三章の議論はいわば極論とそれに対する反論から成り立っているので、哲学的には興味深いがそれだけだという感じもあり、わたしたちの実際の人生や社会における知識や懐疑の問題にどれだけ関わるものなのか、という疑問を抱く人は(わたしを含めて)多いだろう。

 地球温暖化を否定したり疑似科学を奉じたりしている人であっても極端な懐疑論を主張しているわけではないし(むしろ、本書でも指摘されている通り、大半の疑似科学論者やデマゴーグは自分に都合の悪い科学は否定するが都合の良い科学は肯定するという選択的・恣意的で中途半端な懐疑論を提示するものだ)、社会問題について考えるうえで「水槽の中の脳」問題に悩まされる必要はない。また、自分の人生におけるあれこれを考えるうえで「わたしはいまシャツを着ているのか」ということまで疑う必要は、まったくないだろう。

 そして著者もこのことは意識しており、第四章では第二章や第三章からはガラリと変わって「生き方としての懐疑論」が紹介される。また、第三章までは近代や現代の哲学者たちの議論が紹介されていたのに対して、第四章で登場するのはアリストテレスピュロンを始めとする古代ギリシアの哲学者たちだ*1

 そして、この章では「知的な徳」や「よく生きること」「人間らしい豊かな繁栄(エウダイモニア)」をめぐる議論がされることになり、そこでフィーチャーされるのは、「過激」ではなく「適度」な懐疑論である。

 

これから見ていくように、よい人生において知的な徳がどのような役割を果たしているかを理解すれば、適度な懐疑論を身に付けることこそがよく生きる上で決定的に重要だとわかる(逆に、過激な懐疑論を身に付けるのはよく生きる上で邪魔になる)。さらに、健全で適度な懐疑論に基づいた態度を崩すことなく、それでいて自分なりの信条を貫き自信に満ちた人生を送ろうとすることは、矛盾した態度のように聞こえるかもしれない。しかし知的な徳を理解すれば、こうした矛盾は十分解消可能だと明らかになるだろう。

 

(p.121 - 122)

 

 本章でまず紹介されるのは、「徳」に関するアリストテレスの議論である。アリストテレスは「徳」の特徴として「二つの悪徳の間の中庸に位置すること」「(卓越した人の模倣を通じて)陶冶する/鍛える必要があること」「行為への動機付けを伴うこと(寛大という徳を持つ人は寛大な行動をしたがる、など)」を挙げて、また「よい人生とは徳を積んだ人生のことである」とも主張した。そのうえで、「知的な徳」に関して以下のような主張を行なったのである。

 

知的な徳の例とされるのは、知的な誠実性conscientiousness)や知的な柔軟性open-mindedness)などである。また、徳一般に知的な要素を足したものもこれに含まれる。具体的には、知的に臆病であることの対極にある知的に勇敢であることや、知的に傲慢であることの対極にある知的に謙虚であることがその例だ。

[…中略…]

そしてこの知的な徳は、やはり二種類の知的な悪徳という両極端の間に位置するものだ。一方の欠乏という端には、自分勝手な独断専行がある。これは、重要な証拠に目もくれずに拙速に決断を下し、自分の利益になることしかしないという悪徳である。他方で過剰という端には、慎重すぎるあまりの優柔不断がある。こちらは、取り組んでいる問題にとってどれが重要な証拠なのかを考慮せずに膨大な証拠に振り回された挙げ句、決断を下すことができないという悪徳である。つまり中庸としての知的な誠実性とは、この両極端の間をうまくすり抜けるように思慮を働かせることなのである。

 

(p.126 - 127)

 

 アリストテレスは、知的な徳やそれによって生み出される知識は、意味のある人生には不可欠だと考えていた。逆に、「正しい知識なんて得る方法がない」「わかることなんてなにもない」と言い続ける人は徳に基づいた優れた判断をすることができず、勇敢さや寛大さを発揮すべき場面でもそれができずに、ダメな人間になってロクでもない人生を過ごすだろう。

 一方で、過激ではない適度な懐疑論は、知的な徳と調和するように思われる。結論を急がない誠実性や、判断を下す前に多くの証拠に目を向けるという柔軟さは、「いま正しいと思えることがほんとうに正しいかはわからない」「すぐに物事を断定すべきでない」という考えを必要とするはずだ。

 

 ピュロン派は、よい人生を過ごすためには懐疑的な態度を取ることが大切である、と説いた。具体的には、議論において相手の理論的な主張に対抗するために意図的に懐疑や判断保留を誘発する技術(方式)を駆使することで、どんな意見にも中立的な態度をとれて、知的な平穏さを保つことができる。

 また、ピュロン派が主張していたのは知識そのものを疑うことではなく、「知識は慎重に探究し続けるべきだ」ということであった(これは当時のギリシアにおける「独断論者」と「アカメデイア派懐疑論者」との間の議論における中間的な見解)。

 そして、ピュロン派にとってはアリストテレスが重視するような勇敢さや寛大さなどの徳はさほど重要なものではなく、ただ知的に平穏でありながら慎重に知識を探求し続けることがよい人生には必要なのだと考えていたのであった。

 

 本書の終盤では、人生における「自信」「謙虚さ」の問題が論じられる。根拠のない自信を持つことも、すぐに自信をなくして意見を変えることも、よい人生につながらない。また裏付けのない意見を言って他人に影響を与えるような人や逆に他人の意見にすぐ影響を受けてしまうような人は、社会問題を悪化させる一因である。デマゴーグはもちろんのこと、すぐに他人の意見に惑わされて自分の意見をコロコロと変えてしまうような人も、わたしたちは尊敬することができない。

 しかし、根拠のある自信を持つ人なら、「自分の意見はどんな根拠に基づいているか」「自分はなぜこんな意見を持っているか」ということをしっかり認識できるため、自分の意見に対する反対意見や反証に耳を傾けて、適切に再反論したり、必要とあれば反対意見を取り入れて自分の意見を修正したりすることもできる。「自分の意見は正しいのだ」と決め付けずに、「いまは自分の意見は正しいと思っているが、間違っている可能性もあるかもしれないから、反対意見にも目を向けよう」という態度は、その人自身の人生を豊かにするだろう。

 適度な懐疑論は、知的な自信だけでなく知的な謙虚さにも結び付いている。ここでいう謙虚さとは「人間は認識上の欠点がある間違えやすい存在であるから自分の知識や考えについても慎重になろう」といった内向きなものというよりも、他人の意見を尊重して他人と誠実に議論を行うなどすることで他者に対して知的な敬意を持つという、外向きのものだ。

 

 ……過激な懐疑論や「パラドクス」を扱う本書の前半と、適度な懐疑論や「生き方」について論じる後半とで、本書の内容はかなり乖離しているように思われる。このことに不満を感じる人も多いようだが(Amazonレビューを参照)、わたしはむしろ本書の姿勢は好ましいと思った。

「水槽の中の脳」を始めとする思考実験や過激な懐疑論は哲学的にはあきらかに興味深い。いわゆる「哲学」が好きな人は「もっと思考実験や過激な懐疑論とそれに対する反論を突き詰める内容を読みたい」と思うだろう。また、著者はそもそも過激な懐疑論を是としていないが、過激な懐疑論に対して完全な反論ができているわけではない。哲学的なパラドクスや極論というのは概して完全な反論は不可能なものだが、過激な懐疑論推しの読者にとって、後半から急に「生き方」の話をされるのは「反論できないから話題を変えてごまかしているのだ」と感じられるかもしれない。

 しかし、「過激な懐疑論を真に受けると人生が不条理で無意味になる」という著者の問題意識にわたしは共感できるし、古代からピュロンを始めとする哲学者たちが行なってきた適度な過激論も、ScepticismのVery Short Introdutionでは紹介されるべきだろう。ちなみに、哲学的には興味深かったり反論が難しかったりするとしても実際の個人の人生や社会には悪影響をもたらすので真に受けちゃダメな議論としてわたしの頭に思い浮かぶのは「反出生主義」だ(もし反出生主義のVery Short Introdutionが出たら、やはり本書と同じような構成…現代の分析哲学から古代のギリシアやインドに遡っていく構成になるかもしれない)。

 また、適度ですらも過激ですらもない、「自分にとって都合の良い知識は信じるが都合の悪い知識は疑う」というタイプの懐疑論は、動物倫理の場面でよく出てくるものである*2。本書では科学的な制度と営みに基づく知識をやみくもに疑うことの問題も指摘されているが、実際に社会で起こっている問題の多くは、哲学的な懐疑論よりもずっと未熟で粗雑なご都合主義によって引き起こされているのかもしれない。

*1:当然ながら、第四章の内容は『一冊でわかる 古代哲学』とも関連している。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『一冊でわかる 古代哲学』&『哲学がわかる 中世哲学』

 

 

 『福祉国家』『ポピュリズム』『移民』『法哲学』『マルクス』などに続いてVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ。

 

『一冊でわかる 古代哲学』の著者は『徳は知なり』も書いたジュリア・アナスなだけあって内容が充実しており、このシリーズのなかでもとくに良書といえるだろう。

 本書の良い点のひとつは、単に古代哲学を紹介するだけでなく、哲学そのもののおもしろさや「哲学研究」への入門にもなっているところ。たとえば第一章「人間と野獣 自分自身を理解する」では「理性と感情の綱引き」という哲学のなかでもオーソドックスかつ多くの人にとって身近で興味深いトピックについて古代哲学者たちがどんなことを言っていたかということが紹介されている。その次の、二章「なぜプラントンの『国家』を読むのか?」では、『国家』という作品の内容を紹介しつつこの作品が後世においてどのように解釈されたり利用されたりしてきたかという受容史を論じることで、時代ごとのコンテクストとテキストの関係といったトピックが紹介される。

 

第1章の結論を考えれば、古代哲学における問題は、時にはわれわれに直接関わりうる議論の一部となることが理解できるだろう。しかし、今や、このような態度には潜在的な危険性があることをも理解できる。われわれ自身のその都度移り変わる哲学的関心が、古代哲学の伝統のなかで何が哲学的に興味深いかを決める役割を担うことに注意を払わねばならない。『国家』は、読む側の関心の変化が圧力となって、一つの著作が片隅から中心へと、倫理的著作から政治的著作へと変貌しうることの最も極端な例である。教訓とすべきは、『国家』に対するわれわれの解釈がわれわれ自身の先入観の反映にすぎないと考えることではない。そうではなく、われわれ自身の哲学的関心が、知らないうちにわれわれに影響を与える度合いを減らすために、自分たちの関心とそれが果たす役割を意識しておくことを教訓とすべきなのである。古代哲学のある部分はわれわれの関心とは極端に異質であり、ある部分はあまりになじみが深い。時には、現在の関心からそれらを引き離して、それらを解釈するわれわれ自身の伝統について問いかけてみる必要がある。

 

(p.54 - 55)

 

 わたしのイメージでは、多くの哲学入門書や哲学史では古代哲学(または近代哲学や哲学全般)について「われわれの関心とは極端に異質」であることのほうを強調したり解釈を厳密に行うことばかりを重要視してしまい、古代哲学が「時にはわれわれに直接関わりうる議論の一部となること」を軽視してしまいがちだ。しかし、古代哲学の議論を正しく理解するためにはコンテクストへの配慮とかテクストの厳密な読解が必要だとしても、そこばっかりを強調してしまうと、そもそもなぜ古代哲学を理解しなければならないのか、という意味や動機がおざなりになってしまう。

 本書では、第一章や第三章(「幸福な人生ー昔と今」)で古代哲学がわたしたちの考え方や人生に関わるものであることをしっかりと提示されており、また第四章(「理性、知性、懐疑主義」)や第五章(「論理と実在」)でも古代哲学者たちの議論を簡潔に紹介しながらそれらが知的に興味深くておもしろいものであることを示している。古代哲学の歴史の流れの概説を最初ではなく最後の第六章(「いったいいつ始まった?」)に持ってきているところも、読者に古代哲学の「歴史」に関する興味を持たせるためには先に古代哲学における「議論」の意義を示したほうがいい、といった配慮を感じられる。

 総じて感じるのは、アナスは偏狭な「哲学マニア」になっておらず(哲学研究者もアカデミア外の哲学ファンもついつい哲学マニアなってしまいがちだ)、哲学が一般読者に対してどのような意味や役割を持てるか、また一般読者は哲学に対してどのようなことを望んでいたり望み得たりするか、ということを客観的に把握しながら読者にとって意義のある本を書くという仕事を遂行できているということだ。

 このブログで何度か愚痴ってきたように、Very Short Introduction シリーズの著者のなかには読者のことを一切考えずに自分が研究しているトピックに関する知識や情報を羅列するのに終始していたり、それが読者にとってなんの益になるかということを全く考慮せずに自分の専門分野の考え方や方法論を押し付けたりする人が多いので、アナスのような著者(研究者)は貴重だろう。

 

 

 

 ……で、『哲学がわかる 中世哲学』のほうは、完全にダメなタイプのVery Short Introduction 。もともとわたしは数年前から古代哲学に興味を持つようになっている一方で中世哲学には疎いままだったのだが、それを差し引いても、本書を読んで中世哲学に新たな興味や関心を持てるようになる人はほとんどいないと思う。

 これは著者にとってはすこし酷なところもあり、中世哲学はそもそもマニアックなものと見なされているし、「当時の宗教や迷信の影響を受けまくっているから現代の世俗的な人々の興味や関心に連なるものではない」というイメージも強い。キリスト教だけでなくユダヤ教イスラームも関わってくるし、哲学者だけでなくダンテなどの文学者の議論についても理解しなければならないし、中世という歴史状況そのものがややこしい。そのために本書の前半では情報を整理するために中世哲学の歴史の流れや当時に哲学が行われていた制度や形式などが紹介されるのだが、『古代哲学』とは逆に歴史から始められるために「そもそもなんでこんな歴史を追うという努力をしてまで中世哲学に興味を抱かなければならないんだろう」という疑問を抱かされることになる。そして後半では各トピックに関する中世哲学者たちの議論(「普遍」「心、体、死」「予知と自由」「社会と最善の生」)が紹介されるのだが、これがまったくおもしろくないし、中世哲学の議論が「われわれに直接関わりうる議論の一部」であると感じさせられるポイントがほとんどない。というか、むしろ、中世哲学者たちの議論って現代の世俗的な人間にはほとんど意味や意義を持たないんだなという印象が余計に強まってしまった。

『哲学がわかる 中世哲学』では著者も訳者も「現代における哲学を理解するためには哲学史を理解することが重要であるし、中世の哲学者たちがどんなことを考えていたかということも理解しなければならない」といったことを主張しているわけだが、そもそもなぜ「哲学」を理解しなければならないかということまでは…『一冊でわかる 古代哲学』とちがって…示すことができていない。結局、あらかじめ哲学が重要だと理解しており哲学に対して一定以上の関心を持つ人にとってしか読み進めることが難しい、哲学マニアが他の哲学マニアや哲学ファンに向かって書いた本になっているように思った。……とはいえ、そもそも中世哲学を一般読者にとっても興味が抱けておもしろいようなかたちで解説すること自体が不可能であるかもしれないけど。

 

 以下では『古代哲学』に戻って、印象に残ったところをメモ。

 

ストア学派は、人間の魂には部分も区分もなく、魂はすべて理性的であると考える。(魂というときにストア学派が意味するのは、人間をしてとくに人間らしい生き方をさせるもののことである。)感情はやみくもではなく、合理的な決心に打ち勝つことができる非合理的な力でもない。感情それ自体が、人がそれに基づいて行為を決定するある種の理性なのである。

 […中略…]

私が行なうすべてのことに、私は責任を負っている。つまり、私がなしえたはずの何か別のことがつねに存在しており、私が取りえたはずの何か別の態度が常に存在している。私は感情に打ち負かされたと言うことは、自分が行おうとすることがなすべき正しいことであると、ある時点で考えて行動したその者がまさに自分であったという事実から逃げることである。

 (p.7 - p.8)

 

アリストテレスは、古代の哲学者のなかでは常識に最も忠実であり、われわれの抱くこのような反応[「幸福のためには徳以外のものも必要なのではないか」という発想]が重要なものであることにも同意している。幸福は金銭や成功といったある程度の「外的な善」を必要とするものと彼は考える。もちろんそのような外的な善だけでは、その量がどれほど多くあっても、人を幸福にすることはできない。なぜなら、外的な善を人がもつかもたないかは、本来その人の責任ではないし、ひとたび人が自分の人生について倫理的な反省をはじめれば、幸福はそうした人生についての自身の反省と設計から生じるはずであり、たんに周囲の事情によって与えられたり奪われたりすることが可能な外的な善のなかにあることはありえない、とアリストテレスは考えるからである。しかし、アリストテレスは、徳を備えることによって自分を幸福にすることができるといった考え方を避けようとする。もしそれが事実なら、徳を備えた人は、たとえ受けるいわれのないような大きな不幸に遭遇しても、たとえば拷問で苦しめられたりしても幸福であることになるだろうーーそれは絶望的でばかげた考え方というほかない。

 

(p. 78 - 79)

 

 引用はしないが、基本的に哲学そのものに対する興味は薄くて倫理学をメインに勉強しており、また古代哲学のなかではストア派(とアリストテレス)推しであるわたしとしては、第四章や第五章もなかなか興味深く参考になった。知識論にせよ論理学にせよ科学論にせよストア派は良くも悪くも極端なまでの合理主義者であることを改めて理解したし、その対極にあるエピクロス派(快楽主義)の議論の重要さやおもしろさも伝わってきた*1。またわたしはあまり詳しくなかったピュロンなどの懐疑主義者に関する紹介も興味深く、この次に読んだ『哲学がわかる 懐疑主義』の橋渡しや導入になったという点でも、本書を読んだ意義を感じられた*2

 訳者あとがきでも言及されているが、本書では中立的かつ網羅的に古代哲学の議論を紹介しながらも、フェミニストとしてのアナス自身の意見がちらりと顔を出す箇所やストア派の自然観を人間中心主義として批判される箇所があったりして、現代的な倫理観も含まれているところにも好感を抱けた。

*1:というわけで『古代哲学入門』や『ヘレニズム哲学―ストア派エピクロス派、懐疑派』も読みたいです。

www.amazon.jp

*2:アナスは懐疑主義に関する共著も出しているようだ。

 

 

「からかいの政治学」(読書メモ:『増補 女性解放という思想』)

 

 

『増補 女性解放という思想』は昨年の12月にネット上の「からかい」に関する記事を書いた後にAmazonのほしいものリストから買ってもらったのだが、最近は「からかい」に関する文章を改めて書いて文学フリマに出品しようかなと考えているところであり、そのために本書に収録されている「からかいの政治学」やその他の文章をいまさらながら読んだ。

 

 とりあえず、「からかい」という行為の特質や悪質さをうまく表現していると思った文章はこちら。

 

なぜなら、「からかい」という表現には、単なる批判や攻撃、いやがらせにとどまらない固有の質があるからである。たとえばそのことは、「からかわれた」側の女性たちの反応、怒りが、単なる攻撃に対するのとは異なる質を持っていたことからも明らかである。それは、いわば内に鬱屈するような、憤りの捌け口をふさがれたような怒りであった。このような怒りは、意図的な攻撃に対しては生じないものである。したがってそれは、批判や攻撃の意図自体に対して生じているのではなく「からかい」の表現に対するものなのである。

 

(p.240)

 

…「からかい」の言葉とは、「遊び」の文脈に位置づけられている。すなわち、「からかい」の言葉は、けっして言葉どおりに、「真面目」に受けとられてはならないのである。「からかい」の言葉は「遊び」であり、余裕やゆとりであり、その言葉に対しては、日常生活における言葉の責任を免れている。

したがって、「からかい」は通常、何らかの標識を伴っている。それはニヤニヤ笑いや声の調子、身ぶり、思わせぶりな目くばせなどである。これらの標識は、「からかわれる側」に直接示されるとは限らない。第三者がいる時は、その第三者に標識が示される場合もある。むろん、「からかわれた」側がその「からかい」の標識に「気づかぬ」場合もある。しかし、誰かがそれを認知しさえすれば、その言葉はその場においてその時点で、「からかい」であり「遊び」であることが宣言されているのだ。

「からかい」はそれが「真面目」なことでないからこそ、発言の主体責任の特定化を避けることになる。むろん、対面的状況では、誰が話しているかは明瞭であるが、しかし、その発言や主張や内容があたかも伝聞であったり、自明の事実であったりするように表明されるのである。「私はお前を〇〇だと思う」という形の、その言葉の内容が自分自身の思想や意志に帰着されてしまうような文体をけっして「からかい」はとらない。なぜならこうした文体は、言葉の責任の所在を明瞭にしてしまうからである。「からかい」は「遊び」であるからこそ、責任の明確化は必要ではないし、「遊び」のルールからして不要である。

 

(p.242 - 243)

 

集団内で「からかい」が提起されれば、それに反対する理由が特にない限り、「からかい」の共謀者となることが、その場にいる全員に要請される。なぜなら「からかい」は「遊び」であり「冗談」だからである。「遊び」である以上、ルール破りは、最大の「遊び」に対する冒瀆なのである。したがって、ルールを破らないという消極的な共謀を、そこのいる人々すべてが要請されるのだ。ルール破りをあえて行うにはかなりの勇気がいるだけでなく、その場にいる皆を納得させるだけの正当な理由が必要なのである。

 

(p.244)

 

…強者から劣者に向けられた「からかい」は、劣者に対する攻撃的意図を隠すことによって劣者を攻撃したということに対する社会的な批判を避けるために「利用」されることが多い。圧倒的に力ある存在である強者は、劣者と「真面目に」争うこと自体が自らの対面を汚してしまう。その攻撃の意図は、「からかい」の「遊び」の経路によって示される結果、強者の側の「手加減」「余裕」が提示され、強者の対面を傷つけずにすむのである。

しかし、このことが、他者に対する侮辱として「利用」されることもある。なぜならば、「からかい」の形式の使用自体が、他者を「真面目」にとりあげるに値しないものと規定することにもなるからである。

 

(p.251 - 252)

 

「からかいの政治学」が発表されたのは1981年であり、本論における「からかい」として主に想定されているのは、1970年代の日本におけるウーマンリブ運動や60年代〜70年代のアメリカにおける女性解放運動に対する、当時の週刊誌などメディアでの取り扱いや表現などだ*1

 この論考のなかでは、「からかい」という行為には「親密性」を確認する機能がある、ということも触れられている。「からかい」という行為は相手を怒らせかねないリスクがあるために、通常は、充分に親しい関係を持つ見知ったもの同士の間でないと行われない。また、立場が下の人(劣者)が立場が上の人(強者)に対して「からかい」を行うこともある。立場が上の人に対して正面から批判や攻撃を行うとそれに対する反撃を受けてしまう可能性が高いが、からかいは「遊び」でありからかいに対して反撃をすることは「大人げない」とされているから上の人としても反撃を抑制せざるを得ず、立場が下の人にとっては安全なかたちで上の人に対して批判や反撃を行う方法になるのだ。その代わり、立場が下の人が「からかい」を行なうのは上の人に対して手加減してもらうことが前提になるから、「自分は劣者である」という自己規定をすることでもある。

 道化とか戯作者とかも、「自分はとるに足らない存在ですよ」と宣言するからこそ、権力者であったり世間のあらゆるものをからかったり冷やかしたり茶化したりする権利を手に入れることになる。つまり、劣者からの「からかい」は「こいつの言うことに真面目に反論するのは恥ずかしいことだ」という世間や社会の了承やルールありきで認められているということだ。

 ……このあたりに関する著者(江原)の分析そのものにはとくに異論はないが、本論で主に問題視されているメディアにおける女性運動の揶揄的・嘲笑的な扱い、あるいは「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターで取り上げられていたネット上におけるコミュニケーション様式としての「からかい」などは*2、「からかう」側と「からかわれる」側に「親密性」が存在する関係、つまり友人同士や上司-部下間や先輩-後輩間で行われるようなコミュニケーションとしての「からかい」は性質がかなり異なるような気がする。

 というのも、対等な立場にいる相手をからかうことは「じゃれあい」であったり親密性(仲の良さ)を確認したり強固にしたりするための行為であったりするとして、また立場が下の人から上の人に対してからかいを行うことは自分の(批判的/相手に対するネガティブな)意見を安全に伝えるための手段であるとして、どちらにせよ「からかう」側は「からかわれる」側の方を向きながら行為をしている。自分が相手をからかっているということが相手にも伝わること、その場で「からかい」が行われていることをどちらの側も認識しているということが前提になっている。

 一方で、メディアにおける女性運動に対する揶揄的な表現や、ネット上でのコミュニケーション様式としての「からかい」は、「からかわれる側」のほうを向いて行われているとは限らない。たとえば女性運動を揶揄する記事が週刊誌に掲載されるとき、編集部としては運動をしている女性たちがその記事を読むことはあまり想定しておらず、普段から週刊誌を買っている中高年男性を読者として想定しているだろう。また、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターで問題視された行為は鍵付きアカウントで行われていた以上は「からかっていることが相手に伝わる」ことは想定されていなかったはずだ。週刊誌においてもネットにおいても、「からかい」は「からかわれる側」ではなく、自分と一緒になって相手を「からかう側」を向きながら行われている。通常の「からかい」は「からかう側」と「からかわれる側」がどちらも「身内」であるのに対して、メディアやネットにおける「からかい」では「からかわれる側」は「部外者」であったり異質な存在であったりするのであり、「からかわれる側」は「からかう側」の結束を高めたり親密性を確認したりするのに利用されている。

 なお、江原も指摘しているように、「からかう」ことには「相手の意見は真面目に取り上げるに値しない」というレッテルを貼るという効果があることもたしかだ。社会運動が揶揄の対象になりがちなのは、社会運動はマジョリティに対する(女性運動の場合は男性に対する)異議申し立てやマジョリティが有利になっている状況を変えることも含む具体的な要求を行ったりするものであり、マジョリティにとっては不利益を生じせるものであるし異議申し立てや要求に向き合うだけでもストレスを生じさせたりするものであるから、週刊誌などのメディアで社会運動が揶揄されることは「社会運動のメッセージをまじめに受け取ったり考えたりする必要はないのだ」という現状維持を支持してマジョリティを安心させる効果を生む。……運動を行なっている人にとっては、メディアで揶揄されることは怒りやストレスを生み出すが、おそらく、「運動をしている人を怒らせること」自体はメディアにおける揶揄の一次的な目的ではない。

 ネット上のコミュニケーション様式としての「からかい」については以前の記事で充分に書いたので詳しくは割愛するが、やはり、「からかっている」側同士の連帯を高めたり、自分たち(マジョリティ/男性など)に対する批判や提言について「こんなのは相手しなくていい」「自分たちに問題はないのだ」と確かめあったりするための行為であるように思える。あるいは、皮肉や揶揄を言うことに関連する能力(賢さとか攻撃性とか性格の悪さとか)を自分の仲間とか自分と同じ属性を持った人にアピールして自分のステータスを高める、といった側面もあるかもしれない。いずれにせよ、たとえばTwitter上での「からかい」は、からかわれている本人に通知が行く引用RTの形式などで行われたとしても、からかいの対象となる相手を怒らせたり精神的なストレスを与えたりすることを目的とする以上に、それを目にする「仲間たち」に向けて行われているという面が強いだろう。

 

…「からかわれた」側は、いかにその「からかい」に対し怒りを感じようとも、怒りを回路づけることに困難を覚えざるをえない。このため、「からかわれた」側の怒りは屈折し内にこもることになる。「からかい」への抗議が出会うと予想される様々な困難を思うだけで、抗議への意欲は薄れがちである。したがって最良の策は「からかい」を全く無視することだとさとるのである。

この意味で、「からかわれる」ことは非難されたり攻撃された場合よりも、「からかわれる」側の骨身にしみることがある。信念や思想に対する非難や攻撃は、逆にそれらを強めることが多いが、「からかい」は怒りを回路づけえぬゆえに、一人相撲を取っているような虚しさを引き起こすのである。「からかい」の構造にまきこまれた者は、「からかい」の呪縛にとらわれてしまうのだ。それを解くことは、あたかもぬかるみの中に足をとられてあがくがごとくである。

 

(p.255)

 

 おそらく、「からかい」に対して怒ったり批判したりすることが「一人相撲を取っているような虚しさ」を引き起こすのは、「からかう」側は最初から「からかわれている」側を相手にしようとしていないこと……「からかう側」は自分たちを安心させたりすることや自分たちの結束を固めることを目的にしており、「からかわれる側」はそれらの目的のために利用されたりダシにされたりしているだけであり、「からかう側」は「からかわれる側」(の思想とか人格とか心情とか)に対して根本的には無関心である、というところに由来していると思う。そして、相手に対して無関心であるぶん、「こいつを傷付けてやろう」とか「こいつの名誉を毀損してやろう」という意図を持った侮辱や悪口などよりもさらに悪質な側面が「からかい」という行為にはあるように思える。

 

『増補 女性解放という思想』に収録されている他の文章についても簡単に感想を記録しておくと、基本的にどの文章も1970年代〜1980年台の女性解放運動やウーマンリブ運動などに関する問題意識ありきのものなので、当時と現代では状況が違いすぎて意図や意義が伝わらない文章も多い。

 たとえば理論的な論考である「「差別の論理」とその批判」は著者自身が認めているように問題意識のあまりに力みすぎていて、議論が空回りしているように感じられた。    

 一方で、「リブ運動の軌跡」や「ウーマンリブとは何だったのか」のように当時の状況や運動の経緯・動機に関する記録的な文章のほうが、理論的な論考よりもむしろ現代でも読む価値を感じられる内容であったように思える(たとえばリブ運動の「文体」とか「語り口」に関する議論は、良くも悪くも、現代のトーン・ポリシングの問題などを考えるうえでも応用が効くものであるかもしれない)。

*1:社会運動……とくに女性やフェミニズムが関わる運動や動物の権利運動や環境保護運動などが揶揄の対象にされやすいというのは1970年代のさらに以前から、どこの国でも存在する問題だ。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。

要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのこの辺りの文章は、明らかに「からかいの政治学」を念頭にして書いた文章だと思われる。