道徳的動物日記

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フェミニズムと動物:まとめと批判

 

 

 

 先日に引き続き、「フェミニズムと動物倫理」というテーマでお勉強。

 今回は政治哲学者のアラスデア・コクレーン(Alasdair Cochrane)のAn Introduction to Animals and Political Theory(『動物と政治理論:入門』)の第7章「フェミニズムと動物」に書かれていることをまとめる。

 なお、本書では、「功利主義と動物」「リベラリズムと動物」「共同体主義と動物」「マルクス主義と動物」という章もある。また、ただ単にまとめるだけではなく、コクレーン本人は功利主義と権利論やリベラリズムの折衷的な主張を支持しているために、そうでない共同体主義マルクス主義フェミニズムについてはけっこう辛口な批判が加えられているところが本書のおもしろさだ*1。とくにマルクス主義フェミニズムについては、勢いよく牽強付会や美辞麗句を唱える思想に対して地味で穏当なリベラリズムの立場からマジレスを行なっているという感じであり、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』を彷彿とさせる*2

 また、本書では Extend Justice to Animal という表現が多発するし、Animal Right や Animal IssueではなくAnimal Justiceという表現がされることも多い。直訳すると「正義の対象を動物にまで拡げる」とか「動物の正義」だが、面倒なので今回は文脈によって異なる訳語を当てている。まあもちろん細かく見ると違うのだけど、「動物の権利」も「動物倫理」も「動物の正義」も「動物の問題」もだいたい同じような意味で用いられていることが多いし。

 

 

フェミニズムと動物

 

 本章の冒頭でまずコクレーンが指摘するのは、(イギリスにおける)動物愛護運動や動物の権利運動は発祥の時点から労働者を守るためのマルクス主義運動や女性を守るためのフェミニズム運動と結び付いてきた、ということ(代表的な動物愛護運動家や動物愛護団体は、労働者や女性の保護活動にも熱心であった)*3。そして、数多くのフェミニストが、フェミニズムと動物の問題は理論的にも結び付いていると主張してきた。

 フェミニズムによる動物の権利論は三段階の構成に分けられる。

 

①:女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は結び付いている、という指摘。

 

②:(西洋の(男性的な)哲学の前提にある)「理性」を重視する発想では女性の問題にも動物の問題にも対処できない、という批判。

 

③:(「理性」に基づく規範に代わるものとしての)「ケア」や「感情」に基づく規範の提案。

 

 ただし、すべてのフェミニストが「ケアの倫理」を支持しているわけでもなければ、すべてのフェミニストが動物の問題に関心を抱いているわけでもない、とコクレーンは付け加える。そもそもフェミニズム自体が多様な思想であり、「女性に対する抑圧はどのように起こっているか」という論点にしても「その抑圧はどうすれば解決できるか」という論点にしても、リベラルなフェミニストとラディカルなフェミニストではそれぞれかなり違った議論を行なっているのだ。さらに、動物の問題について語ってこなかったというのは功利主義リベラリズム共同体主義マルクス主義の思想家たちの大半に当てはまることであり、フェミニズムに限られることでもない。

 そのうえで、フェミニストのなかでもとくにケアの倫理を主張している人たちのかなり多くは、動物の問題について実際に語ってきた、という点をコクレーンは指摘する。

 

・動物に対する抑圧/解放と女性に対する抑圧/解放の結び付き

 

 多くのフェミニストは、動物と女性に対する抑圧…というよりも全ての周縁化されている(マイノリティである/弱者である)存在に対する抑圧は結び付いている、と主張する。

 また、女性と動物に対する抑圧の結び付きを主張する理論のなかにも、いくつかのバリエーションが存在している。

 ひとつめは、「自然に対する搾取」と「女性に対する搾取」を結び付ける、エコフェミニズムの理論。その代表として、コクレーンはジョゼフィーン・ドノヴァンの論文を挙げている*4。自然に対する搾取は動物に対する搾取ということでもあり、家父長制や「理性/感情」の二分法による被害者という点で女性と自然と動物は陣営を等しくする、という議論だ。

 ふたつめは、肉食を優遇する文化は動物だけでなく女性も抑圧する、という理論。肉食文化が女性を冷遇するという発想は一見すると奇妙であるが、キャロル・アダムズの著書『肉食という性の政治学』では、狩猟採集社会では狩人が肉の分配を通じて経済的社会的な権力を握り、そして狩人の大半は男性であるということから男性支配が確立した、と論じられている*5。……そして「肉食」と「男性の優越」の結び付きは現代にも残っており、肉を食べることは「力強さ」や「男らしさ」と結び付けられている。したがって、肉食の文化から脱することは男性の権力を解体することでもあり、動物だけでなく女性の解放のためにも必要とされる、と論じられるのだ。

 みっつめは、動物への抑圧と女性の抑圧は「言語」を介して結び付いている、という議論。(英語圏では)女性に対する侮辱表現として動物が持ち出されることが多いが(chick, cow, bitch, dog など)、ラディカル・フェミニストのキャサリン・マッキノンは、この種類の侮辱語は女性の地位を貶めるのと同様に動物の地位を貶めると指摘した(女性の地位を貶めるために動物を持ち出すことは、同時に動物の地位の低さを再確認することになるから)。また、アダムスは、通常の場合に動物は「それ(it)」と呼ばれるが「彼(he)」や「彼女(she)」と呼ばれないこと、あるいは人間が恐怖を感じるような動物(ライオンやオオカミ)に対しては「he」が用いられて、他の動物に捕食されるか弱い動物には「she」が用いられる、といったことを指摘する。これらジェンダー化された言語の使い方を改善することが動物/女性の解放には不可欠である、という主張だ。

 よっつめは、女性と動物は共に「モノ化」されている、という議論。屠殺場における動物の扱いとレイプされる女性の扱いは、(男性の)目的のために主体性や自己決定権を奪われて肉体を利用される、という点でモノ扱いである。また、ミスコンと動物ショーでは女性も動物も称賛されはするが、その見た目から快感を引き出されるという点でやはりモノ扱いされている。さらに、法律上でも、動物だけでなく女性も男性の所有物と位置付けられてきた。現代では形式的には女性は男性の所有物とはされていないが、モノ化の長い歴史はいまだに女性に対して影を差しているのであり、動物/女性に対するモノ化の制度や慣習を転覆しなければならない…という主張。

 

 これらの議論について、コクレーンはある程度の価値や妥当さを見出しながらも、「動物に対する抑圧と女性に対する抑圧に類似性があったとしても、類似していることは本質的な関係性があるということを意味しないし、女性の解放と動物の解放は必ずしも相互依存的ではない」と指摘する。

 たとえば、ドノヴァンは「理性・合理/感情・非合理」の二分法が「男性・人間/女性・動物」の二分法に重ねられてきたと論じる。しかし、女性を非合理や感情に結び付けるのは事実的に誤っている一方で、動物を非合理や感情に結び付けることは必ずしも誤りではない……たしかに動物の知性は過小評価されがちだが、動物が人間のように合理的ではないこともまた事実であるのだ。つまり、「女性は男性に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張が全くの誤りであるのに比べると「動物は人間に比べて感情的で非合理的な存在である」という主張には真実も含まれている。……すると、「理性・合理/感情・非合理」に「男性/女性」の二分法を重ねる発想を撤廃しながらも(事実と異なるので)、「理性・合理/感情・非合理」に「人間/動物」の二分法を重ねる発想を残存させることは可能であり、女性の解放は動物の解放を抜きにして行えるのだ。

 また、肉食文化と女性差別の結び付きは不明瞭であるし、肉食文化が残存させながら女性差別を撤廃した社会を成立させることは明らかに可能だ。女性の解放のために菜食主義が不可欠なわけではない。さらに、肉食が男らしさに結び付けられてきたとはいえ、ベジタリアンだってミソジニーになり得る。そして、狩人が優遇された狩猟採集社会とは異なり現代では女性も経済力を手にすることは可能であり、女性は肉食を止めるのではなくむしろ畜産業の経営に介入して経済力を得たほうが自分たちを解放しやすくなるかもしれない。

 言語を介した場合にすら、女性に対する抑圧と動物に対する抑圧は必ずしも必然的なものではない。女性に対してだけに限らず、男性に対する侮辱語にも動物が持ち出される場合はある(weasel, sloth, rat, pig, sheep, donkey)。これらの表現を用いることで動物の地位の低さが固定化されてしまうかもしれないが、女性の地位は影響を受けない[むしろ男性の地位を低めることで相対的に女性の地位が高まるだろう]。また、女性に対する侮辱語のなかには動物が関係ないものもいっぱいある(whore, which, jezebel, wench)。つまり、動物と女性のうち片方の地位を低める言語を撤廃しながらもう片方の地位を低める言語を残すことは可能であり、これらは相互依存的な関係にはなっていないのだ。

 そして、たしかに動物と女性はどちらもモノ化の被害者となりひどい苦痛を受けているが、両者に対するモノ化が結び付いているかどうかは不確かである。現代の先進国では女性はもはやモノ扱いされていないが、動物はいまだにモノ扱いされている。「人格」と「財産」という[法的な]ヒエラルヒーにおいて、女性は前者に位置する一方で動物は後者に位置付けられているのだ。これは、女性に対するモノ化と動物に対するモノ化は異なった事象であることを示している。

 結論として、フェミニストの思想家たちは動物に対する抑圧と女性に対する抑圧の類似性を描き出すことには成功したが、これらの抑圧が本質的に結び付いていることを証明するまでには至っていない、とコクレーンはまとめる。その他のマイノリティも含めて、女性についても動物についても彼女らが置かれている苦境に関心を持って彼女らを保護するための運動を行うことは重要であるが、実際問題として、ある集団を解放させることが別の集団を解放させることと相互依存しているということは全くないのだ。

 

・理性の失敗

 

 ケアの理論家たちは、正義に関して理性に基づいて論じる伝統的な倫理学や政治哲学の手法では動物の解放は達成できない、と論じる。多くのフェミニスト思想家はピーター・シンガー功利主義)やトム・レーガン(権利論)の思想について、動物への義務を論じるのに理性や論理に頼り過ぎであり感情を軽視し過ぎだと批判している。コクレーンは、理性に基づいて動物に対する正義を説く議論に対するケアの理論家たちの批判を五つに分けて紹介する。

 ひとつめは、「理性は失敗し得る」という批判。たとえば、動物に対する正義という問題について功利主義で論じることもできればリベラリズムや権利論で論じることもできるし、共同体主義マルクス主義で論じることもできるかもしれないが、これらのすべてが正解であるはずがない……仮にこのうちのひとつが正解であるとすれば、他のすべては不正解だということになる。

 たしかに、理性(reason)に基づいた議論が間違うことはあり得るし、わたしたちが行う推論(reasoning)も、誤った信念や論理の乏しさや偏見などに影響されて見当違いの道を進んでしまうことがある。しかし、だからといって、理性を捨てるべきだということはならない。理論や原則を論じるには、自分が推論を間違えてしまう可能性を常に意識して、理性の能力を過信せず、自分の理論に対する異論や挑戦を常に受け付けながら、然るべき場合には自分の主張を改善する必要性を認識しておかなければならないだろう。しかし、間違う可能性があるから理性を捨てるべきだ、ということにはならない。そもそも、ある推論が誤っているかどうかを判断するためには、理性が不可欠なのだ[ここらへんはジョン・スチュアート・ミルスティーブン・ピンカーの議論を思い出す]。

 ふたつめの批判は、感情を抜きに道徳判断を下すのは不可能であり、「自分は理性に基づいて議論している」と自称している人たちも実際には感情に基づいて議論しているのだ、というもの[こちらはデビット・ヒュームやジョナサン・ハイトの系譜に連なる主張だ]。たとえば、「限界事例からの議論」は「他の条件がすべて同じならば、等しい条件を持つ存在は等しく扱わなければならない」という論理的一貫性に訴える議論であり、論理的な動物倫理の理論家から多用されるが、この議論は「乳幼児や重度障害者は道徳的な配慮の対象とならなければおかしい」という論理以前の感情的な判断を前提にしなければ成立しない、とケアの理論家たちは指摘する*6

 しかし、上記の批判は、シンガーにせよリーガンにせよ、動物についてだけでなく乳幼児や重度障害者についても、彼らに対して抱く感情に基づいてではなく「感覚[利益]を持つ存在に対する平等な配慮」や「生の主体」などの原則や理論に基づいて道徳的配慮の必要性を説いていることを見過ごしている[もっとも、ケアの理論家たちはそれらの原則や理論の根底にも感情…苦痛を感じている相手に対する共感やいたわりなど…が存在しているし、その感情がなければ善悪の判断は成立しない、と再批判するだろうけど]。

 みっつめの批判は、理性に基づく動物倫理の議論は、動物のために活動している人たちの考え方や動機から全くかけ離れている、というもの。ブライアン・ルークは、動物の権利活動家は動物虐待が非合理で不公平な種差別だから活動しているのではなく、動物虐待が恐ろしくておぞましいから活動しているのだ、と論じる。動物の権利運動は動物の苦痛に対する感情的で同情的な反応に基づいているのであり、動物の権利運動を支持するための理論はこの事実を反映しなければならない、とルークは主張するのだ。

 とはいえ、そもそも、動物の権利運動にせよ他のどんな社会運動にせよ、運動の参加者たちはそれぞれ異なった動機を抱いているものだ。たとえば、奴隷制撤廃運動を行なった人たちの動機は「奴隷制キリスト教に反しているから」「奴隷制基本的人権を侵害しているから」「奴隷制は苦痛を引き起こすから」などとバラバラであった。この点をふまえると、動物の権利活動家たちの動機と動物の権利の理論が結び付いてないことはたいして重要な問題ではないかもしれない。また、理論家と活動家の違いを過度に強調してもならない。シンガーにせよリーガンにせよ理論だけでなく運動にも多大に貢献してきた。実際、『動物の解放』を読んだことをきっかけにして活動家になった人は多数存在するのだ*7。動物たちに対する同情や愛着と同じように、論理に基づく哲学的な議論も、人々を動物の権利運動に参加させる動因になっているのである[……もっとも、実際のところ、論理よりも感情のほうが人々を動かす力を持ちやすいということはハイトを始めとする多くの心理学者が指摘するところだ(ハイトは『動物の解放』を読んでも食欲には抗えず肉食を止められなかったというエピソードも書いている)]。

 よっつめの批判は、リーガンのように「権利」という言葉を用いる議論に対するものだ。一部のフェミニストは、権利とは誰かに対する要求であるがゆえに対立を前提にする発想である、と論じている[Aさんが権利を主張することはBさんに義務を負わせることである、という権利-義務の対称関係に基づく議論に対する批判]。マーティ・キールは、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であると指摘したうえで、人間や動物がそれぞれどのような権利を持つかを考えるのではなく、権利という概念が必要にならない共同体を築くことのほうが重要であるとした。つまり、人間も動物も、誰かに対する要求をしなくてもまともに生きていくことができるような、調和の取れた社会を目指すべきなのである。

 もちろん、調和の取れた社会を目指すことに反対する人なんていない。しかし、キールらの主張は権利という言葉に対してかなり偏った見方をしている。過去にも現在にも、ある個人が自分の利益のために別の個人を犠牲にするという事態は起こるがゆえに、社会はしばしば調和という理想から外れてしまう。そして、この単純な事実に対処するためにこそ、各個人が他の個人に対してとれる行為を制限したり他の個人に対して負っている義務を明確化したりするための「権利」という概念が必要になるのだ。つまり、権利という概念が敵対や競合を生み出しているのではなく、社会における個々人の利益の衝突を予防したり修正したりしているのである。

 

 最後の批判は、理性に基づく議論は動物たちの価値を利益という単一の概念に還元するという点で本質主義である、というもの。

 この批判はさらに四種類に細分化できる。

 ひとつめは、なんらかの形で意識能力を持つことを動物を正義の対象に含める単一の条件とすること[シンガーやリーガンの主張]は、正義を考えるうえで重要になるはずの個々の関係性を無視してしまう、という主張。わたしたちは友人や家族に対してはそうでない人に対してよりも強い義務を持つ、というのはごく普通の発想だが、義務の対象となる側の能力だけや性質だけを見ていると関係性に基づく特別な義務について論じられなくなる、という批判だ。……とはいえ、まず「正義の対象に含まれるかどうか」を意識能力に基づいて決めることと、その後から特定の個人や動物に対してわたしたちが抱く具体的な[特別]義務について考えることは両立可能である。また、わたしたちの個人的な生活においてならともかく、政策や法律の領域にまで関係性という発想を持ち込んでしまうと、アウトサイダーとして扱われる存在に対して不公平な結果がもたらされることになる(これは女性や黒人や同性愛者などが実際に経験してきた事態だ)。政策や法律の領域においてはある程度の抽象化と偏りのない公平さは不可欠であるのだ。

 ふたつめの批判は、動物の価値を意識能力に基づいて判断することは、わたしたちに動物を利益の器であるかのように見なさせて個々の動物たちについて考えることを妨げさせる、というもの[ジョン・ロールズが「人格の別個性」に基づいて功利主義を批判したのと似ている]。この批判の問題点は、動物たちがそれぞれの個体ごとに独自の特徴やニーズを持っているからといって、政策を決定する際において個々の動物たちの違いが重要であるとは限らないという点だ。動物たちと同じように人間たちも個人ごとに独自の特徴やニーズを持っているが、政策を決定する際に全ての個人の全ての特徴やニーズを個別具体的に判断することはできず、基本的なニーズや利益を一般化することが必要になる。一般化に基づいた政策では特定の個人の具体的なニーズを捉えることはできないかもしれないが、資源が限られていることや実務上の問題を考えると、政策決定において一般化を行うことは全くもって許容可能なのだ。

 みっつめの批判は、利益という観点のみに基づいて動物を評価することは、より多くより強い利益を持つ動物たちをそうでない動物たちよりも上位に置くようなヒエラルヒーを形成する、というもの[クジラや大型霊長類がニワトリやブタやネズミより上位に置かれる、など]。しかしながら、このような文脈における「ヒエラルヒー」という言葉の使い方は作為的でありミスリーディングだ。理性に基づいた動物論では競合する利益の調整が行われるし、その際にはより強力な利益のほうが優先されるが、このこと自体はなんら問題ではないし、ヒエラルヒーを形成するとも限らない。たとえば、新しい空港を建設するか否かについて検討するとき、わたしたちは空港の建設に関連する数多くの利害を考慮したうえで、利害の間の優先順位を付けたりバランス取りを行う必要がある(建設予定地の住人が被る騒音被害、二酸化炭素排出による将来世代の被害、飛行機の利用者がより安く便利な航路を利用できるようになること、空港建設に伴う経済効果、新しく雇用されることになる従業者たちの利益、などなど)。この際に最も強い利益を優先することは全く分別のあることだし、それは他の種類の利益を無視したり弱い利益を持っている人々をヒエラルヒーの下層に置くことを意味しない。ただの、妥当で公平な意思決定に過ぎないのだ。人間たちと動物たちそれぞれのなんらかの利益が衝突する場合にも、時と場合によっては前者の利益のほうが強いから優先されることになり、時と場合によっては後者の利益のほうが強いから優先されることになるだろうが、このことは人間と動物のどちらがヒエラルヒーの上でどちらがヒエラルヒーの下かという発想を一切伴わないのである。

 しかしながら、よっつめの批判は、理性に基づく議論は競合する利益のバランス取りを行う、ということ自体を標的にする。批判者たちによると、利益の比較衡量には科学的な方法論が用いられるのであり、科学的な方法論とは工場畜産や動物実験を生み出したものでもあったのだ。そして、工場畜産と動物実験は、人間にとっての重要な利益(安価な食料と人命を救う医療)を生み出すからという理由で正当化されていたのだ。……とはいえ、利益の比較衡量が動物虐待を正当化するためにも用いられるという事実が、利益の比較衡量という考え方自体にとって致命的なものになるとは限らない。シンガーが指摘しているように、工場畜産と動物実験が正当化された背景には種差別に基づく誤った比較が存在していたのであり、種差別を排して比較衡量を行ったら[工場畜産の廃止や動物実験の大幅な制限などの]全く異なる結論を導き出せる。「利益の比較衡量は過去に誤った判断を生み出してきた」という理由から利益の比較衡量という発想そのものを捨ててしまうことは、産湯と共に赤ん坊を流してしまうようなものだ。

 結論として、ケアの理論家やフェミニストたちによるシンガーやリーガンの議論への批判は不公平なものであり、動物への正義についての理性に基づく議論は批判者たちが想定している以上のものを提供している、とコクレーンはまとめる。

 

・ケアに基づく、動物への正義に関する議論

 

 ひとくちに「ケアの倫理」といっても、「理性よりも感情や感傷や気持ちを重視する」「他者に対する義務について考える際に関係性や偏愛[partiality]を重視する」「抽象化よりも具体的な文脈を重視する」など、様々なバリエーションに分かれている。コクレーンはローレンス・コールバーグの道徳発達段階理論を批判したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の概要を紹介したのちに、ネル・ノディングズの『ケアリング』の概要を紹介する*8。……ここらへんは日本語でも調べたらいっぱい情報が出てくるので紹介は省略。重要なポイントは、ギリガンの主張はたまに批判されるほどには本質主義的なものではないということと(ギリガンはケアの倫理が男性的な哲学の世界で無視されたことは指摘したが男性=正義の倫理で女性=ケアの倫理と結び付けるような主張はしていない)、ノディングズは「自分は飼い猫に対して義務を負っているが自分以外の人たちが自分の飼い猫に義務を負っているわけではないし、自分のペットでもないネズミに自分が義務を負っているわけでもない」と主張したという点だろう[ケアの倫理が関係性や偏愛に基づくとしたら、ノディングズの主張はごく当たり前に想起されるものである]。

 ノディングズの主張の問題点は二点。まず、わたしたちは自分が関係を築いた相手にしか義務を持たないとすれば、わたしたちはアウトサイダーたちに対する義務を持たないということになる……そして、歴史上、人種やジェンダーや宗教や階級やセクシュアリティに基づく差別をもたらしてきたものだ。この事実があるからこそ、多くの理論家は、義務は人々の関係性にではなく個々人の利益に基づかせるべきだと論じてきたのである。次に、個々人が行う倫理的な判断というミクロな領域にはある程度の偏愛が必要になるとしても、政治的な共同体というというマクロな領域における政策決定はできる限り不偏的[impartial]なものにすべきである[この議論は本書の5章で詳細に行われているが、まあ一般常識としてそりゃそうだということにはみんな同意すると思うので説明は割愛]。これら二点の問題を考慮すると、関係性や偏愛に基づくタイプのケアの倫理には警戒すべきであるし、とくに動物の問題においては普遍性を伴う理性に基づく議論のほうが妥当であると判断できる。

 ただし、ケアの理論家のなかにも、自分たちの主張を関係性に基づかせることを否定する人は数多くいる。ドノヴァンは、わたしたちは遥か遠くの国の人のことも気にかけられる[ケアできる]ことを指摘して、動物に対する義務をペットに限定させる必要はなく、すべての動物に対して[ケアに基づく]義務を拡大すべきであると主張する。……この主張の明らかな問題点は、人々が気遣いを行う能力はドノヴァンが想定しているほど深遠なものではないかもしれない、ということだ。実際のところ、気遣いに割いている時間や努力や資源を見てみれば、わたしたちは見知らぬ他人や動物のことを自分の家族や友人やペットほど気にかけているわけではない。これをふまえると、気遣いとは、[ペットではない]動物たちに正義を与える根拠としてはかなり薄弱であるのだ。

 この批判に対してドノヴァンが持ち出すのが、ケアの倫理に"政治的な"分析を加えるアプローチだ。つまり、わたしたちが見知らぬ人や動物を気にかけることは、政治や制度や宗教や経済や文化によって制限をかけられているという主張……逆にいえば、本来なら私たちは見知らぬ動物たちのことをも気にかけられたはずだ、という主張である。ルークも同様の議論を行なっており、わたしたちは本来なら動物たちに対して同情を抱けるはずが、畜産業や動物実験業界が振り撒く虚構などによって動物たちのことを気にかけないようにさせられている、と主張する。

 ドノヴァンやルークによる議論の問題点は、彼女らが言うところの「本来の感情」がほんとうに存在するかどうかが疑わしいというものだ。たとえば、ルークは自然な状態なら人間は動物に対するケアを抱くものだと主張するが、彼の議論は根拠に乏しい。まだ社会的な影響を受けていないであろう幼児や子どもを見ても、動物に対して大いに愛着を示す子どもがいる一方で、猫をいじめたり虫を分解して殺したりする子どももいる[もっとも、「それらの子どもや幼児はすでに社会化されているのだ」と反論してくるだろうけど]。近現代的な政治や経済や企業の影響力から免れており西洋の宗教も伝わっていない人たちも、動物を崇拝することがある一方で、動物に多大な苦痛を与える儀式を行うことがある。端的に言って「自然な状態なら人間は動物に対してこのような感情を抱く」という議論は成功する見込みがない。したがって、ここでも、わたしたちが動物に対して抱く感情を問わずに動物への義務を説く議論……すなわち理性に基づく議論を手放さないほうがいい、ということが示されるのだ。

 結論として、感情や同情は道徳において全く役割を果たさないわけではないが、わたしたちが他者や動物に対して抱く義務を確定する際には理性のほうに最終決定権を渡すべきである、とコクレーンは論じる。まず、理性に基づかない感情は偏見や差別を助長することがあるし、不適切な感情を修正するためには理性が必要になる。次に、感情の行く先は不確かであり、同じように同情に満ちた人たちであっても、同じ道徳的問題に対して全く異なる答えを出すということがあり得る。そして、政治的な共同体などのマクロな領域においては一般化に基づく抽象的なルールは不可欠であるのだ。

 

 ……後半は時間と集中力の問題から駆け足になってしまったが、まあこんなところでいいだろう。この章を読むのも約10年ぶりであったが、改めて思ったのは、ケアの倫理に対する「理性」側(功利主義や権利論やリベラリズム)からの批判は、ジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーが批判理論やポストモダニズムやラディカリズムや特権理論などに対して著書で行なっている批判とかなり重なっている、ということ。とくに『人はどこまで合理的か』を思い出した。

 

 

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「Z世代の絶望」を真に受ける必要はあるのか?

 

 先週から「経済学101」にて、経済学者ノア・スミスによる、主にZ世代の若者たちが唱える「終末論」について批判的に分析した記事、および若者たちの不幸の原因をスマートフォン(とソーシャルメディア)に見出す記事が、翻訳されて投稿されている。どちらも大変おもしろいのだが、あまり読まれていないようで勿体ない。

 みなさん、以下の記事を読むように。

 

note.com

 

note.com

 

スマホ悪玉論」といえば、記事中でも取り上げられている社会学ジーン・トゥエンジの著書 iGen: Why Today's Super-Connected Kids Are Growing Up Less Rebellious, More Tolerant, Less Happy--and Completely Unprepared for Adulthood--and What That Means for the Rest of Us が有名。

 

 

 

 

 トゥエンジの議論はグレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトの『傷つきやすいアメリカの大学生たち』でも大いに取り上げられていた。

 

 

 

gendai.media

 

 また、ノア・スミスの記事は「悲観論を唱えることが実際に及ぼすネガティブな影響」について論じていたり認知行動療法に触れていたりするという点で、おそらく『傷つきやすいアメリカの大学生たち』に影響されたものだと思われる。

 

 なお、アメリカのZ世代たちの「絶望」や「悲観論」を日本に紹介している人として有名なのが、ライターの竹田ダニエル。

 しかし、ノア・スミス(やルキアノフやハイトなど)が論じていように、極端な悲観論や終末論はそれ自体が個人のメンタルヘルスや社会問題の改善に負の影響を与えるとすれば、アメリカのトレンドを批判的な視点抜きで日本に紹介する竹田の言論も問題があるものだと言えるかもしれない。

 

 

 

 

 

絶望 @daniel_takedaa - Twitter Search / Twitter

 

 

 

読書メモ:「動物の権利とフェミニズム理論」

 

 

Animal Rights and Feminist Theory - JSTOR

 

 

 唐突に思われそうだが、本日から一時的に動物倫理に関する文献を読んで読書メモをここに書くターンに突入する。……というのも、「動物倫理とフェミニズム」というテーマで、某学会で発表するかもしれない予定があるから*1

 とりあえず手始めにジョゼフィーン・ドノヴァンの「動物の権利とフェミニズム理論」から読む。発表は1990年ともうかなり古くなってしまったが、「動物倫理とフェミニズム」というテーマとしては代表的かつ古典に位置する論文だ。

 

 ・「ハムサンドイッチ問題」

 

 この論文の冒頭では、ピーター・シンガーの『動物の解放』の序文から、シンガー夫妻が「動物愛好家」の女性と会合するくだりが取り上げられている。

 長くなるが、重要なところなので、以下では『動物の解放』から引用*2

 

私たちが到着したとき、その女友だちはすでに来ていて、動物の話に熱中していた。「私は動物をとても愛しているのですよ」と彼女は言った。「犬を一匹と猫を二匹買[飼]っていますけど、彼らはお互いにとてもうまくいっているのです。スコット夫人をごぞんじですか? 彼女は病気のペットのために小さな病院を経営しています……」彼女はちょっとそこで話をやめた。そして軽食が運ばれてくるとハムサンドイッチをひとつつまみ、私たちにどんなペットを飼っているのかとたずねた。

私たちはペットを飼っているわけではないと言った。彼女は少し驚いたようすをして、サンドイッチをひとくちかじった。私たちを招待した女性はサンドイッチを食卓に並べ終わると、私たちの会話に加わった。「でもあなたは動物に興味をおもちではないのですか?シンガーさん。」

私たちは苦しみと悲惨の防止に関心をもっているのだということを説明しようとした。私たちは恣意的な差別に反対しているのであり、ヒト以外の生物に対してであっても不必要な苦しみを与えるのはまちがっていると考えているということ、そして私たちは動物たちが人間によって、無慈悲で残酷なやり方で搾取されていると信じており、このような状況を変えたいと思っていることを話した。他の点では私たちは動物たちにとりたてて「興味をもって」いるわけではないのだ、と説明した。私たち夫婦はどちらも、多くの人たちがするようなやり方で、犬や猫や馬を溺愛したことはなかった。私たちは動物たちを「愛して」いたのではない。私たちはただ彼らがあるがままの独立した感覚をもつ存在として扱われることをのぞんでいたのだ。つまり、屠殺されて、私たちを招いた女性のサンドイッチの原材料に提供された豚のように、人間の目的の手段として扱われることはのぞんでいなかったのである。

本書はペットについての書物ではない。動物を愛することは猫をなでたり、庭で鳥にエサをやったりすることに過ぎないと考えている人たちにとっては、本書は愉快な読み物とはいえないだろう。本書はむしろ、どこであれ抑圧と搾取に終止符を打たなければならないと考えている人びと、利害への平等な配慮という基本的な倫理原則の適用範囲はヒトのみに限られるべきではない、と考えている人びとのために書かれたものである。動物の扱いに関心をもっている人は「動物愛好者(animal-lovers)」にちがいないという想定そのものが、人間に適用されている道徳基準を他の動物にも広げようという気持が少しもないことを示しているのだ。虐待されている少数民族の平等の権利に関心をもつ人は、その少数民族を愛しているにちがいないとか、彼らがかわいいと思っているにちがいない、などと主張するのは、意見の違う相手に「黒ん坊愛好者(nigger-lovers)」のレッテルをはる人種主義者だけだろう。だから動物たちのおかれた状態を改善する運動をしている人たちに「動物愛好者」のレッテルをはる必要もなかろう。

動物虐待に抗議する人びとをセンチメンタルで感情に動かされやすい「動物愛好者」として描くことは、ヒト以外の生物に対する扱いの問題を真剣な政治的、道徳的議論の対象とすることを妨げるのに役立ってきたのである。

(…中略…)

本書は、「かわいい」動物たちへの同情をよびおこすために感情に訴えるものではない。私は、肉を食べるために豚を屠殺することに対して、馬や犬を同じ目的で屠殺するのと同じように激怒しているのである。世論が、アメリカ合州国国防総省が致死性ガスのテストにビーグル犬を使うことに声高に抗議して、その代わりにラットを使うことを提案しても、私は決して妥協しないだろう。

 

(『動物の解放』、p.12-14)

 

 ここでシンガーが主張しているのは、「動物に対する道徳的配慮」や「動物に危害を与えないこと」といった物事は、一部の個人の愛情趣味の領域に属するものではなく、全ての人に関連しており全ての人に義務や強制を生じさせる正義の問題である(そして、愛情ではなく正義の問題だと見なされるようになるべきである)ということだろう。

 少数人種に対してどのような感情を抱いているかに関わらず人種差別の問題が全ての人に関連しており、全ての人は「他の人種の人を差別しない」といった義務を持っているのと同じように、動物をどう扱うかという問題も全ての人に関連しており動物を好むか好まざるかを問わず動物の問題に対して全ての人は義務を負っている……といったこと。要するに、正義の関わる問題においては、愛情や趣味は関係がない。

 逆に、愛情に基づいてなんらかの主張を行ったりなんらかの相手に対する配慮の必要性を説いても、(それだけでは)その問題が全ての人に関連しているということや全ての人が義務を負っているということを示すことはできず、説得力や強制力などは発生し得ない。ハムにされる豚や実験に使われるラットの存在を無視しながら、「可愛いから」とか「愛しているから」とかいった理由だけで犬や猫に対する道徳的配慮の必要性を説いても、犬や猫を可愛いと思っていなかったり愛していなかったりする他人がその主張に従う道理はないのだ。

 ……と、上記が、シンガーの言いたいことであろう。

 

 これに対して、ドノヴァンはシンガーの主張に以下のようなコメントをしている。

 

言い換えると、彼[シンガー]は動物の権利運動を“女性的な”感情と結びつけることが、それを取るに足らないものにすることになると恐れているのだ。

 

 また、上記のシンガーの文章については、Twitter上では以下のようなコメントをしている人もいた(2020年のツイート)。

 

 

 しかし、「ハムサンドイッチ」に関するくだりでシンガーはたしかに「動物への愛情」や「動物を愛好すること」といった感情的な物事を否定的に描いているが、それが女性的な感情であるからダメだとは一言も言っていない、という点には留意してほしい。

 むしろ、この文脈に「男性的/女性的」というジェンダー的な要素を持ち込んできたのはドノヴァンの側である。そして、おそらくドノヴァンの論文を通した伝言ゲーム(またはうろ覚え)によってシンガーの文章をミソジニスティックと断ずるツイートもフェアなものではないように思える。

 ……もちろん、ドノヴァンとしては、この社会のなかには「男性的/女性的」という二分法と「論理的/感情的」という二分法をオーバーラップさせたうえで前者を持ち上げて後者を貶める価値観や考え方が蔓延しており、シンガーの文章は直接的には「感情は女性的なものだからダメだ」と書かれていなくても暗黙のうちにこの二分法を前提としたものである、といったことが言いたいのであろう。

 実際のところ、このエピソードはやや「でき過ぎている」感があり、もしかしたら創作かもしれない。その場合には、批判の対象となる人物を男性ではなく「女性」にした意図にミソジニーを見出すことは無理筋ではない(「"非合理的な動物愛好家"を登場させるなら男性じゃなく女性にしたほうがリアリティがあるでしょ」という発想がシンガーにはあったはずだ、と想定することなど)。……その一方で、実際にシンガー夫妻と動物愛好家との女性との間でなされた会話を振り返りながら書かれている、という可能性ももちろんあり得る。上記の文章では動物愛好家の性別がことさらに強調されているというわけでもなく、シンガーとしては当時の出来事を素直に書いているだけかもしれない。「実際にそのような動物愛好家の女性が存在したのだとしても、彼女の性別をわざわざ記すことが問題なのだ」と批判することもできるかもしれないが、それは過剰反応であるように思える。

 

・「合理主義的」な動物権利論(動物倫理理論)の問題点

 

 ドノヴァンは、功利主義者であるシンガーと、彼と並んで男性かつ動物倫理の理論家として代表的な存在である「権利論者」のトム・レーガンの双方が、合理性を重視しており、動物倫理が「非合理的」「感傷的」「感情的」と見なされることを嫌っている、と指摘している。一方で、女性かつ動物倫理について論じていた理論家のメアリー・ミッジリーや代表的な女性活動家たちは感情の重要性を強調しており、また当時の動物の権利の理論が合理主義的であったり「物質主義的」「男性的」であることを批判していたことを指摘する。

 具体的に言うと、レーガンの理論では動物は「生の主体」である(欲求や信念を持っていたり、記憶や将来に対する感覚を持っていたりする)ために権利を持つ存在として認められるが、これは複雑な意識能力を持つ存在を優遇する発想であり、人間だけを[直接的な]道徳的配慮の対象と見なして動物をそこから除外したイマニュエル・カントの発想に連なるものであるとされる(レーガンはカントの理論をベースにしながらもそれを修正して動物を道徳的配慮の対象に含めようとしたが、意識能力≒合理性を重視している時点でカントから脱却しきれていない、といった批判)。

 シンガーの功利主義に関しては、リーガンほどには高度な意識能力を重視していない点は評価されているが(苦痛を感じられるならそれだけで配慮の対象となるので)、道徳を数字や量で判断する姿勢が(悪い意味で)合理主義的かつ科学主義的であり、生体解剖や動物実験などのような動物虐待を引き起こしてきた発想に連なるものであると批判されている。

 

・文化フェミニズムによる動物論

 

「合理的」で「男性的」な動物の権利論のオルタナティブとしてドノヴァンが提示するのが、文化フェミニズム(カルチュラル・フェミニズム)の理論だ。

 

文化フェミニストの視点から見ると、後期中世以降の、西洋的で男性的な心理に根ざした自然の支配こそが、動物に対する虐待および女性や環境に対する搾取の根本的な原因である。

 

 ここで登場するのが、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる(フランクフルト学派的な)批判理論である。アドルノとホルクハイマーは、現実に対して数学的なモデルを押し付けて解釈する自然科学的な思考には「支配の心理」が反映されており、科学的な知識の普遍性を強調する発想は個別性や差異を消去するものであって、科学的な認識論とは社会的支配という物質的な状況に根ざしたもの…とくに女性に対する男性からの支配に根差している、と論じた。

 ドノヴァンは、エコロジカル・フェミニストとして知られるキャロリン・マーチャントなども参照しながら、啓蒙時代(後期中世)における「動物」や「自然」に対する蔑視的で支配的な態度は「女性」に対するそれとオーヴァーラップしていた、という議論を行なっていく。また、キャサリン・マッキノンによる、リベラリズムや法システムが「中立性」や「抽象性」を重視していることに対する批判も行われる。

 そして、シンガーにせよレーガンにせよ、彼らの理論は啓蒙時代的で客観主義的でデカルト的な発想に毒されたものである、と改めて批判される。

 また、「動物機械論」を唱えて動物に対する虐待を引き起こすことになったルネ・デカルト的な発想に対して最初に異論を呈したのは、マーガレット・キャヴェンディッシュをはじめとする女性たちであった。また、当時の女性たちは男性の科学者たちによる疑似科学的な医学理論や「性科学」に苦しめられていたということもあり、科学に対する不信感や怒りの感情を募らせて、同じように科学の犠牲になっていた動物たちに親近感を抱くようにもなったらしい(このあたりの記述ではミシェル・フーコーも登場する)。西洋の動物愛護運動/動物の権利運動は反-生体解剖運動からスタートしたという面が強いが、その背景にはこういう事情があったということである。

 動物の問題を抜きにしても、文化フェミニズムでは、男性による「科学的」で「客観的」な世界観に「支配」や「権力」や「ヒエラルヒー」を見出し、それを戦略的に裏返して「女性的」な価値観や思考を強調する。ドノヴァンの論文のなかでは、様々な文化フェミニストたちの議論が紹介されている。個人的には「ケアの倫理」にも連なる「母的思考」を論じたサラ・ルディクが紹介されている下りが興味深い。また、ケアの倫理の元祖であるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』も登場し、抽象性や形式性よりも文脈やナラティブを重視した「女性的な」倫理が紹介される*3

 

・「either/or(どちらか/または)」ジレンマとフェミニズム倫理

 

 この論文の終盤では、「ケアの倫理やフェミニスト倫理はあまりに曖昧であり、動物の問題が関わる意思決定に用いられるようなものではない」という批判が想定される。たとえば、「一匹の蚊(の命)と一人の人間(の命)」との間で選択を行わなければならない場合にすら、(功利主義でも権利論でも問題なく人間の命のほうを選択できるが)フェミニスト倫理では選択を決定できないのだ。

 この想定上の批判に対して、ドノヴァンは、倫理の問題において「どちらかを選ばなければならない」という「either/or(どちらか/または)」ジレンマを持ち出して考えること自体が見当外れであり、そのような発想自体を否定/修正できるところにフェミニスト倫理や文化フェミニズムの価値がある、という応答を行う。「either/or」ジレンマが実際の場面で起こることはほとんど無い仮定のものであり、「二者のうち片方を選択しなければならない」というケースは実際には予防可能なものが大半なのであるから、そんなジレンマに捉われる必要はない、ということだ。

 ……これは、トロッコ問題が突きつけるジレンマに対して、「トロッコ問題が起きる状況自体を予防せよ」や「トロッコを転覆させよ」などと言って無効化するアプローチとほとんど同じようなものだろう。このようなアプローチに対する批判は『21世紀の道徳』の第5章「「トロッコ問題」について考えなければいけない理由」でたっぷり文字数を割いて行った。また、詳細は省くが、仮に人間同士の場合には「either/or」ジレンマはほとんど起こらなかったり珍しかったりすることを認めたとしても、動物が関わる問題について「either/or」ジレンマが起こることを否定するのは困難であろう。……そして、これこそが、権利論やケアの倫理よりも功利主義のほうに(とくに動物倫理の問題においては)軍杯が上げられるとわたしが判断している理由でもある*4

 なお、この論文の最後の段落では、動物との「対話」に基づく倫理を成立させることは可能であると主張されて、「動物(の声)を聴こうとすれば、彼らが殺されたり食べられたり拷問されたりしたくないと思っていることが聴こえてくるはずだから、わたしたちは動物を殺したり食べたり拷問したりすべきではない」ということが、ケアの倫理やフェミニスト倫理から導かれる動物に対する態度である、と結論付けられている。

 

 ……10年ぶりに「動物の権利とフェミニズム理論」を読んでいて思ったが、そういえば最近では「文化フェミニズム」という言葉を聞く機会はかなり減ったような気がする(ただし昔のものにせよ現在のものにせよフェミニズムの議論をそれほどフォローできているわけでもないから、これはわたしの勘違いであるかもしれない)。

 また、「エコロジカル・フェミニズム」は色々と紆余曲折があってフェミニストたちの間でもかなり警戒されていたはずだが、現代では「インターセクショナリティ」という便利な概念があるので、女性に対する搾取と自然や動物に対する搾取の「交差」も無難に主張しやすくなっているだろう。エコフェミにせよ一部のフェミニスト倫理(ルディックやネル・ノディングスなど)にせよ「本質主義」と批判されたので退場したが、インターセクショナリティ概念によって、本質主義を回避しながら女性に対する搾取や差別を他の属性や存在に対する搾取や差別と(やや無理筋ながらも)結び付けられるようになった*5。また、「文化フェミニズム」は後退したとしても、「ケアの倫理」もむしろ以前よりも浸透している印象がある。

 

 改めて言うまでもないだろうが、わたしはドノヴァンの思想にはかなり懐疑的であるし、あまり好意的でもなければ共感的でもない。この記事についても、読者のみなさんにはその点を割り引いて読んでもらいたい。「文化フェミニズム」的な思想に対してわたしが抱いているスタンスは、ジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』のなかで書いていたのとだいたい同じようなものである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*1:このテーマについて、このブログでは過去に以下のような記事を掲載している。ただしこれらの記事の執筆当時からわたしのスタンスや考え方も色々と変わっている面がある。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

 

*3:発表に関わってきそうなので、よかったらどなたか『もうひとつの声で』買ってください。

www.amazon.co.jp

*4:たとえば、「ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむ」といった状況が実際に存在することは想定できる。このような状況に対しては、ケアの倫理はもちろん権利論でも満足のいく回答が出せるとは思えない。

davitrice.hatenadiary.jp

*5:そして、ドノヴァンの論文でも登場している「批判理論」は未だに関連しているように思われるし、批判理論に特有の陰謀論的思考も色々な場面で影を落とし続けているように思える。

kozakashiku.hatenablog.com

ミソジニー論客たちのエコーチェンバー

 

 

 

 

 大して話題になっている問題でもないが、つい気になってしまってTwitterで言及してしまったので、ブログのほうでも考えを残しておく。

 

togetter.com

 

 上記のTogetterにもまとめられているように、2月25日から、山内雁琳 (@ganrim_)が北村紗衣の単著『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている「歴史修正主義」に関する記述について批判を行うツイートをしている。

 Togetterには載っていないが、発端は、高橋雄一郎弁護士による以下のツイート。

 

 

 このツイートをみた雁琳が、「北村も差出人の一人である「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかではネガティブな意味で"歴史修正主義"が用いられているのに、北村の著書のなかでは"歴史修正主義"は価値中立的な言葉とされていることはおかしい」、という旨の批判を行なった。

 

 

 

 そして、御田寺圭による「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのでは」という憶測に同調して、雁琳は「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います」と言い切った。

 御田寺や雁琳のアカウントをフォローしている人たちも彼らに同調して、「北村は「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかに呉座勇一が「歴史修正主義に同調していた」という記述が含まれていたことをマズいと思って、オープンレターの記述の瑕疵を取り繕うために、自身の著作のなかに「歴史修正主義は価値中立的な用語である」という記載を含めた」といったストーリーができあがっていたのである*1

 

 

 

 しかし、このストーリーは憶測に基づくものでしかないし、憶測に基づいた批判は不当な言いがかりでしかない。

 

 わたしは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』を手元に持っていないが、北村自身が、該当の箇所の画像を挙げていた(著者本人が公開していた画像なので、問題ないと判断したうえで、転載する)。

 

 

 

 

 

 この文章における本題は、あくまで歴史フィクションを形容する際に用いられる「リヴィジョニスト」である。

「リヴィジョニスト」という単語が「リヴィジョニズム(修正主義)」に由来することを記載するだけでは、現在の日本における一般的な意味での「歴史修正主義」はホロコースト否定論などのネガティブな意味を持つことを知っている読者の誤解を招きかねない。したがって、本来の意味での歴史修正主義は「健全な歴史学の営みを指す言葉」であることを説明したうえで、「リヴィジョニスト」は一般的な意味(ネガティブな意味)での「歴史修正主義」ではなく歴史学における本来の意味(ポジティブな意味)での「(歴史)修正主義」のほうに由来することを示して、読者が「リヴィジョニスト」という単語について正確に理解できるように促している……と、わたしには読める。

 北村の文章の流れはごく自然であり、悪意や裏の意図などを見出せるようなものではない。もしわたしが映画やその他のフィクションの研究者であって、「リヴィジョニスト」について一般の読者に説明する文章を書くときにも、やはり北村と同じような文章になるだろう。現代の日本では「歴史修正主義」は一般的にはネガティブな意味を持っているからこそ、読者の誤解を防いで正確な理解を促すためには、歴史学における「(歴史)修正主義」はポジティヴな意味を持っていることの説明は不可欠であると判断するからだ。

 

 ここで示したわたしの「読み方」は、うがった読み方や特殊な読み方ではなく、ごく普通のものであるだろう。たとえば、小田川大典(@odg1967)も同じような読み方をしているようだ。

 

 

 

 

 この小田川のコメントに対して、雁琳は以下のように反論している。

 

 

 

 しかし、北村本人も書いているように、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収められている該当の章(節?)「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出は2018年(『ユリイカ』)であり、2021年4月に公開された「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターより3年も「前」に執筆されている。

 

 

 

www.seidosha.co.jp

 

 

ユリイカ』に公開されていたバージョンの後に『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収録されたバージョンでも手が入っておらず、「歴史修正主義」に関する記述に変更が行われていなかったなら、その時点で「『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』における歴史修正主義に関する記述はオープンレターの瑕疵を取り繕うためのものだ」という雁琳(や御田寺)の批判は誤りであることが証明されるだろう。

 

 そして、仮に「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』の出版された2022年であったとしても、やはり、雁琳(や御田寺)の批判は言いがかりでしかないと思える。

 先に書いたように、「歴史修正主義」に関する北村の文章は「リヴィジョニスト」について説明するという文脈をふまえるとごく自然なものだ。まともな人であるなら、該当の箇所に「オープンレターでの記述の瑕疵を取り繕うためのものだ」という「悪意」や「陰謀」を見出すことはしない。

 言うまでもなく、北村はオープンレターの差出人の一人である以前に、フェミニズムや映画批評などを研究する大学教授准教授[訂正]である。余程の証拠がない限り、一般の読者に向けてフェミニズム(映画)批評を解説する本を執筆するときに、オープンレターに関する問題を彼女が意識していたり著書のなかに取り込んでいたりすると解釈する必然性はないだろう。

 北村の記述について御田寺が「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのではと訝しんでしま」ったり、雁琳が「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います。」と同調したりするのは、彼らの認知のほうが歪んでいるからだ。彼らは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている内容やフェミニズム批評・映画批評一般に対して興味を持っていないだろうし、彼らが北村に対して関心を抱くのは「オープンレター」や「呉座との裁判」「雁琳との裁判」などに関連している事柄のみについてである。そのため、彼らは北村の言動をすべて「オープンレター」や「裁判」に紐づけて解釈してしまうし、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』にもオープンレターや裁判に関連した悪意や陰謀を見出して、不当な言いがかりを付けることになったのだ。

 

 この種類の不当な言いがかりを付ける行為は、今回に北村に対してなされたものでなく、これまでにも雁琳や御田寺をはじめとするミソジニー論客たちが多くの人々に対して繰り返し行ってきたものである。

 その背景には、相手を批判することで公衆の評価を貶めたり相手を消耗させたりしたいという悪意もあるだろうし、文章を正確に読む能力がなかったり自分の認知の歪みを自覚できなかったりするという知的な面での問題もあるのだろう。

 とはいえ、今回の経緯を見てみると……とくに御田寺の「訝り」に対して雁琳が「断言」するというやり取りを見ると……同じような主張を行ったり問題意識を抱いていたりしており、「敵」となる相手を同じくしている人たち同士が陥る、エコーチェンバー現象の典型例であるようにも思える。自分ひとりであれば自分の批判は憶測でしかなく根拠がないことに気が付けたり、自分の認知が過剰に悪意や陰謀を見出すように歪んでいることを薄々察したりできるかもしれないが、「仲間」同士で引用RTを行いながら「敵」を声高に批判する行為を繰り返していくと自分の誤りに気が付けなくなり、他人からすれば話の通じる相手でなくなって、本人としても後に退くことができなくなってしまうのである。

 こうはならないように、もって他山の石とするべきであるだろう。

 

 ちなみに……雁琳や御田寺をRT・引用RTしながら北村に対する批判に同調するアカウントのなかには、自身でも積極的に意見を発する論客的なアカウントもいれば(池内恵など)、論客というほどでもない一般人的なアカウントもいた。

 また、今回の北村に対する不当な言いがかりを招いた最大の原因は、当初の高橋雄一郎弁護士によるツイートであるように思える。彼の引用には該当の箇所の本題である「リヴィジョニスト」に関する言及が一切なく、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』で北村が「歴史修正主義」について言及した経緯や文脈がまったくわからない。雁琳が行ったような誤解を意図的に誘発するための投稿だったのではないか、とすら思いたくなる(これはわたしの憶測でしかないけれど)。

 そして、今回の事態を見て思ったのは、雁琳や御田寺による北村に対する批判について「不当な言いがかりだな」「分が悪い批判だな」と思ったり判断したりしていながらも積極的に指摘することはせずに遠まきにしてスルーしながら、過去や将来の別の場面では雁琳や御田寺に同調したり賛同の意を表明したりするような人が…「論客」である人もそうでない人も含めて…多数存在しているのではないか、ということ。

 最近にわたしが問題に思っているのは、ミソジニー論客に準ずる存在として、「ミソジニー論客と同じように弱者男性や"フェミニズムリベラリズムが救わない弱者"に関する問題に関心を抱いていて、ミソジニー論客と同じようにフェミニストやリベラルのことを不快に思っていたりキャンセルカルチャーを問題視したりしているが、ミソジニー論客による個人への中傷・攻撃に直接的に同調したり便乗したりすることはなく、しかし自分の口でミソジニー論客に対する批判を行うこともせず、個人攻撃への同調にならない範囲でミソジニー論客とコミュニケーションしたり対談などを行ったりする」というタイプの論客が、けっこうな数、存在しているということ。このような人に対しては以前も軽蔑の念を表明している*2。また、今回における雁琳のような「暴走」を止めることもせずに放置しているという点では、ある面では、ミソジニー論客よりもさらに卑劣な存在であるとも思える。

 とはいえ……実際のところ、誰かが不当な言いがかりを付けられているとして、その言いがかりが不当であることを詳細に指摘・立証したうえで言いがかりを付けている人を批判するという行為は、(この記事を書くだけで2時間以上かかったように)時間も手間もかかるし、気力も必要となる(発信するよりも訂正することのほうが労力がかかるというのが、デマが有害である所以だ)。だから、「あいつがあんなことを言っているんだから、お仲間であるお前にはあいつのことを批判する義務がある」といった主張はさすがに不当であるのだろう。

 でも、自分が卑劣でみっともない存在になっていないかどうか、いちど自分の胸に手を当てて考えてみてほしいとは思う。

 

*1:

https://archive.md/VeL1b

このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。

 

オープンレターにおいて「歴史修正主義」に言及されているのはこの段落のみ。

わたしには、この文章は「呉座氏は歴史修正主義に同調していた」と主張するものであるようにも読めるし、そうでないものであるようにも読める。「非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも〜」の「それ」は、直前の文における「歴史修正主義」を指すものであるようにも、その前の文における「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指すものであるようにも、どちらにも読めるからだ。おそらく、執筆者としては、後者を指すつもりで書いたのだと思う。

 ……だとしたら悪文ではあるけど。また、こういう場合に「このような意図で書きました」と説明できる単一の著者がいないというのが、責任の所存が曖昧になるオープンレターという形式の問題点でもあると思う。

 

【以下、2/28に追記】

 

id:pikixのブックマークコメントで、訴訟における原告(オープンレター差出人の側)の主張について書かれている、呉座勇一本人のブログ記事内の記載を指摘された(該当の記事については以前にわたし自身も読んでいたはずだが、記事の存在について失念して確認するのを忘れてしまった)。

 

ygoza.hatenablog.com

…原告らは、歴史修正主義についての記載は、3件の投稿と6件の「いいね」を前提とした論評であり、投稿・「いいね」が真実であるから問題ないと主張しています。また、原告らは、歴史修正主義という言葉を「歴史に関する定説や通説を再検討し、新たな解釈を示すこと」として中立的に使用する場合もあるので、必ずしも私の社会的評価を下げないとも主張しています。

裁判における原告の主張はたしかに無理筋であるということには、わたしも同意する。

また、原告の主張を見ると、先に引用したオープンレター内の文章における「それ」が「歴史修正主義」を指すものであることは、差出人も意図しているようだ。

……というわけで、ブコメでもTwitterでも多々突っ込まれてしまったけれど、「それ」は「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指しているのではないか、というわたしの読み方が間違っていたことについては認めます。

【追記おわり】

*2: 

というか、御田寺の行っているような「からかい」行為を許容しないというくらいの良心は、わたしに限らず、誰にでも持っていてほしいものだ。御田寺やその取り巻きの「からかい」行為を見て見ぬ振りをしながら、「御田寺の言論にも耳を傾けるべきところがある」としたり顔で言っている人々に対しては、いじめに参加している人に対して抱くのと同じような軽蔑の気持ちをわたしは抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:『現代思想入門』

 

 

 大学生から大学院一年生の頃までのわたしはいっちょまえに「哲学」や「思想」に対する興味を抱いており、哲学書そのものにチャレンジすることはほとんどなかったが、様々な入門書は読み漁っていた。現代思想については難波江和英と内田樹による『現代思想のパフォーマンス』でなされていた紹介をもっとも印象深く覚えており、次点が内田樹の『寝ながら学べる構造主義』や竹田青嗣の『現代思想の冒険』。個別の思想家についてはちくま新書の『〜入門』やNHK出版の『シリーズ 哲学のエッセンス』を読んでいたが、とくに後者についてはあれだけ何冊も読んだのに一ミリも記憶が残っていない。そして、修士論文を書くために英語圏倫理学や政治哲学の本をメインに読むようになってからは現代思想に対する興味はすっかり薄れて、以降ほとんど触れなくなってしまった。

 

 千葉雅也による『現代思想入門』の前半ではフランス現代思想家のなかでも代表的な存在であるデリダドゥルーズフーコーの三人の思想が解説されている。そして後半には現代思想の源流となる思想家たちの紹介や精神分析現代思想との関係、現在に活躍している様々な現代思想家たちの簡単な紹介や新しい現代思想を打ち出す方法などの様々なトピックについて書かれており、巻末の「付録 現代思想の読み方」では現代思想の本を読む方法がかなり細かく教示されてもいる。これだけ手広い内容のわりに新書としてはごく標準的なページ数であること…『現代思想のパフォーマンス』の半分ほどであるし『現代思想の冒険』よりもやや短い…は本書の大きな特徴のひとつだ。ページ数が短いだけでなく、「ここからは上級編」とわざわざ明言してから深い議論を行なったり、各トピックについて「これについては〇〇の『××』を読んでください」と他の日本人著者による解説書への誘導が本文中でなされるなど、読者にとってはフランス現代思想の「奥深さ」に触れている感じがお手軽に味わえる、親切な構成になっている。

 また、デカい帯にデカデカと書かれている「人生が変わる哲学。」は明らかに誇大であるしこのキャッチコピーを考えた担当者は恥を知ったほうがいいと思うが、それはそれとして、現代思想を「ライフハック」として用いる方法がところどころで紹介されていたり、現代思想と「人生論」が結び付けられている箇所があるあたりも、本書の特徴のひとつだろう。過去や現在の思想家が考えていたことを単に解説されるだけでは知的好奇心が充たされること以上のものは得られないし、社会のことなどの大きな問題に話を結び付けられても一般読者には縁遠く感じられてしまうが、個人の生活や人生という話に関わるとなれば本を読む意味も増す。ページ数や構成に由来するお手軽さと併せて評価すると、過去の現代思想入門書に比べてもかなりサービス精神が強い本であると言えるだろう。

 

 そして、本書では、現在に現代思想に対して向けられている批判や懐疑的な目線が意識されていることも見過ごせない。たとえば、本書の序盤では「冷笑系」という単語が二度ほど登場しており、「現代思想は価値や規範も相対化してしまうから善悪の判断の区別も付けなくなってしまい、結果的に権力やマジョリティを利することになってしまうのでないか」といった批判に応えようとしている。また、第5章では「精神分析なんてデタラメではないか」という批判を取り上げたうえで精神分析が擁護されているし、「付録」では「フランス現代思想は無駄にレトリックが多くて難解だ」という批判を意識したうえでレトリックだらけになってしまう理由を解説して、「レトリックに振り回されずに読もう」というアドバイスもなされている。これらの、批判を意識したうえでの「擁護」は、『現代思想のパフォーマンス』や『現代思想の冒険』にはなかったものだ。

 本書を読んでいて逆説的に思ったのが、なんだかんだで、いまは現代思想にとって「冬の時代」になっているということだ。日本のインターネットには、ドゥルーズデリダフーコーも読んでいないくせにジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーなどの英語圏の「合理的」な思想家や学者の本を受け売りして「精神分析が間違っていることなんてとっくの昔に判明したし、ソーカル事件も起こったし、フランス現代思想がデタラメだなんてことはもうわかりきっているんだ!」と騒ぐ不届き者が多々存在している。また、ブログやSNSを主戦場にしながら「現代思想批判」を十年以上続けている日本人の翻訳家や学者などもちらほらといる。このタイプの批判者の多くは本人自身がある種の「冷笑系」であったり保守・右派であったりするが、日本の左派の間でも現代思想歴史修正主義と結び付けられて(あるいは左派の間で嫌われ者となっている東浩紀という個人に結び付けられて)敬遠されるようになっている。

 …とくに千葉は『ツイッター哲学』という本を出すくらいにはネットやSNSに浸かっているタイプであり、本人もしばしば炎上したりサヨクとウヨクの両方からしょっちゅう難癖を付けられている人物だ。SNSにおいては批判に取り合わないことが多い千葉であるが、本書を読んでみれば、現代思想に対する数々の(ネット上の)批判を意識しているということが受け取れる(そうでなければ、「冷笑系」という、ややハイコンテクストなネット用語を一般人向けの新書本でわざわざ持ち出すこともないだろう)。つまり、「冬の時代」にあって現代思想の価値を説きながら、お手軽でコスパのいい構成にすることで少しでも多くの読者を現代思想の世界に招くことを目指した、ある意味では志が高い本であるとも評価できる。もっと若手の学者や物書きの連中が「さいきん読んでもいないのに現代思想を批判している連中が増えているけど読んだら面白いんだもん、あいつらひどいんだもん」といった泣き言をぐちぐちとツイッターで垂れ流しているのに比べると、ネットでは批判を相手にせずより広い読者層に向けて充実した主張を発信できる書籍というメディアによって現代思想を広めようとする千葉のスタンスや戦略は、建設的で前向きなものと評価できるだろう。

 

 とはいえ……『現代思想入門』を読んで現代思想の世界にリクルートされる人というのは、やはり、元々から現代思想に興味を抱いていたり多少の知識を持っていたりする人なのではないか、という気がしないでもない。すくなくとも、わたしのように現代思想に対してネガティブなイメージを多少なりとも持っている人を転向させられるほどの内容ではなかった。

 本書では、デリダドゥルーズフーコーなどの思想について「紹介」はされるし、人生論やライフハックや社会について考える方法などへの「応用」の仕方はされる。だが、彼らの思想が何かしらの意味で正確であったり妥当であったりするということについての「論証」や「説得」はなされていないように思えるのだ。

 たとえば…フーコーの権力論が紹介されるだけでなく、フーコーの考えは権力や社会に関する他の見方よりも(なんらかの点で)正確であったり妥当であったりすることが示されない限りは、わたしはフーコーの権力論に賛同する理由を見出せない。また、ドゥルーズの思想がライフハックに応用できるとして、ライフハックをするのに他の考え方(心理学や脳科学行動経済学、あるいはストア哲学など)ではなく現代思想に基づいてしようとわたしが思うためには、他の考え方に比べてのドゥルーズの思想の利点や有効性を論じてもらわなければならないのだ(だってライフハックのためにわざわざドゥルーズを読むのってふつうに考えたら明らかにコスパが悪いし)。

 とはいえ、本書のページ数の短さや、新書の入門書であることを考えると、これは「ないものねだり」であるかもしれない。たとえば倫理学の入門書を新書で書くとして、「道徳なんて存在しないし倫理学なんて意味がないに決まっている」と始めから疑ってかかっている読者を説得するために紙幅を割く、というのはあまり意味がない場合が多いだろう。一冊の新書でできることは限られているし、敵対的な読者を説得する作業はオミットして中立的な読者のために議論を提供したほうが、本として生産的なものになるはずだから。

 …それでも、「他者性」や「逸脱」や「グレーゾーン」の価値を説く「はじめに」の時点で、わたしは「ふつうの読者ってこの程度の議論に同意したり説得されたりしてしまうの??」と感じてしまった。

 でもまあ、逆に、わたしがすでにアンチ現代思想の本を読み過ぎていてその価値観に染りきっていることのほうが問題なのかもしれない。

 

これがおおよそフーコーの権力論の三段階です。そうすると皆さん、「良かれ」と思ってやっている心がけや社会政策が、いかに主流派の価値観を護符するための「長いものに巻かれろ」になっているかということに気づかざるをえないのではないでしょうか。そのようになんとも苦い思いをさせるのがフーコーの仕事なわけです。

 

(p.100)

 

 たとえば上記の段落を読んでいたとき、わたしの頭には「?」マークが浮かび続けた。主流派の価値観を護符することのなにが問題なのか?長いものに巻かれることがなぜいけないのか?それでなんで苦い思いをしなきゃならいのか?……その説明が『現代思想入門』のなかではされていないから、これらがわたしにはさっぱり理解できない。

 しかし、それはわたしがひねくれ過ぎていることのほうに原因がある。ふつうの読者は「主流派だけでなく少数派の価値観も守らなきゃいけないな」とか「長いものに巻かれる権威主義ってよくないな」といったことをなんとなく思っているだろうし、逸脱とか他者とかが何かしらのかたちで大切だということにも、素直な感性で同意できるのだろう。むしろ、(わたしのように)秩序を守ることを重視していたり多数派であることや権威をそれ自体では悪いと思わない人のほうが(新書本を手に取る層や哲学・思想に興味がある読者のなかでは)異端であるのだ。……とはいえ、このことは、いまや現代思想は多数派の感性にすっかり適合した「無難」なものになっているという事実を示しているとも思う。

 そして、異端の読者としては、本書を読み通した後には「やっぱり現代思想ってなくなったほうがいいんじゃないか」と思ってしまった。『現代思想入門』のなかでは「フランス現代思想は世間のイメージほど滅茶苦茶な主張をしてもいなければ極端なことを言ってもいませんよ」ということが繰り返し解説されるが、それで代わりに提示される微温的な主張は大したものであるようには思えない。第六章の「現代思想のつくり方」では現代思想家たちはビジネスのために他の思想家との差別化をはかっていることが(正直に)示唆されているが、哲学とか学問に対して素朴な憧憬を抱いている身としては「それって現代思想家たち自身が自分たちの主張や議論が真実であるとか重要であると思っているとは限らないってことで不誠実じゃん」と思ってしまう。付録の「現代思想の読み方」では現代思想がレトリックに塗れて難解になってしまう理由が(正直に)説明されたうえでそれでもめげずに現代思想を読む方法が解説されているのだが、いくら理由があるとしてもレトリックに塗れて難解である思想にわざわざ付き合う意義がまったく理解できないし、そのヒマがあるなら他の思想や学問の本を読んだほうがいいとしか思えなかったのだ。

読書メモ:『哲学の門前』

 

 

 

 著者の吉川浩満さんには文筆家としてのデビューするきっかけをいただいており、その後も編集者を紹介していただいたり『21世紀の道徳』や次作の執筆の打ち合わせにも毎回のように参加していただいてもらったりするなど、いろいろとお世話になっている(そして、本書内の「勤労日記(抄)」にはイニシャルとしてではあるがわたしも登場している(p.143))。

 本書も発売当初に献本してもらって、そのまましばらく積んでいたが、家庭の事情のために昨日から京都に実家に戻っており、東京からの新幹線や実家で読む本を持っていくうえで「事情のために集中できるコンディンションではないから軽い読み物のほうがいいな」ということを検討したうえで、エッセイがメインであると思わしき『哲学の門前』を持っていったという次第。とはいえ、そこまで気軽な内容というわけでもなく、世間一般の価値観からすれば必ずしも「軽い読み物」の枠には入らないかもしれないが。

 本書の特徴は、各章ごとに、「だ・である調」で書かれた著者自身の経歴や家族や友人にまつわるエピソードなどのエッセイが掲載された後に、そのエッセイに関連する哲学的なテーマについて過去の思想家や現代の書籍などを挙げながら簡単に解説や紹介をする「です・ます調」の文章が掲載される、という構成になっていること。

 また、よくある「哲学入門」ではなく、入門の以前の「門前書」を目指しているところも特徴のひとつだ。この「門前」に関しては下記のインタビューでも解説されている。

 

realsound.jp

 

 ……とはいえ、読んでいて思ってしまったのは、高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』と同じく、この本も著者のファンブックのようなものではないか、というところ*1。『哲学の門前』では哲学パートに比してエッセイパートの分量が体感にして2倍近くあり、エッセイというのはそもそもそれを書いている著者に対して興味がなければ(あるいは題材がよっぽど特殊であったり変わった文体であったりしなければ)読まれないものである。わたしは著者と知り合いであるからこそエッセイパートも本人との会話(や本人のSNSなど)を思い出しながら楽しく読めたが、そうでなかったら微妙なところだ。

 もちろん両者の違いも大きく、社会やマジョリティに対する批判が繰り返されており言葉遣いも過激なことが多い『布団の中から蜂起せよ』は間口が狭いがコアなファンが得られやすい内容になっている一方で、『哲学の門前』は文章は穏やかでトピックも無難な印象が強く、「広く浅く」な読者層になっていそうである。

 著者自身の在日コリアンとしてのアイデンティティ(とアイデンティティに対する両義的な態度)がトピックになったり「ネトウヨ」を批判する箇所があったりジェンダーに関する言及もあったりするなど、読み出す前に想定していたよりはずっと「政治的」な内容ではあったのだが、それらのトピックについて書かれている箇所すらも刺激はあまり強くなく読者に反感を抱かれる可能性もほとんどなさそうである。この「無難さ」はおそらく著者が狙ってやっていることだと思われるが、読んでいて色々と物足りなかった(もっとも、アイデンティティについて書かれている箇所については、わたし自身が在日アメリカ人であるために自分が考えてきたことや経験してきたことと重なる部分が多少あって…もちろん一緒にできないところもかなり多いのだけれど…新鮮味を感じなかったが、一般の日本人読者には新鮮味や刺激が感じられたりするのかもしれない)。

 そして、『布団の中から蜂起せよ』と同じく、本書についても「人文書」と言えるかどうかは微妙だ。哲学パートにおける解説や紹介は簡潔ながら要領を得ており、「右でも左でもある普通でない日本人」で松尾匡やジョナサン・ハイトなどを紹介しながら右翼/左翼の捉え方について論じるところや「複業とアーレント」における労働/活動論などは印象的ではあるが、「門前書」というコンセプトがゆえに散発的に紹介されるかたちになっていて、読者の理解を深めさせたり知識として定着させたりできるかどうかは難しいところだと思う。

 

 しかしまあ、読んでいて思ったが、どうにも最近のわたしは個人のエピソードといったものや「エッセイ」という形式自体に対する興味が薄れている。エッセイと哲学が混ざったうえで後者の比重が多い本というのは『哲学の門前』に限らず最近の日本では目立っており*2、わたし自身も自分でそういう本を書いてみようかなと検討していたところなのだが、やはり難しそうだ。そもそも、本書で取り上げられているような様々な出来事(学生時代の海外旅行、恩師や知己との出会い、研究会への参加、国書刊行会やヤフーへの就職など)に比するような経験が自分には乏しく、エッセイに書くためのネタがほとんどないことも痛感してしまった。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:もうひとつ目立っているのは、フィクション作品…とくにマンガ作品を引用しながら哲学(だか社会学だか)についてあれこれ解説します、というもの。すべてとは言わないが、このタイプの本もわたしは苦手である。マンガの内容について紹介している部分がまだるっこしくて文字数の無駄に感じられることが多いし、あくまで哲学(だか社会学だか)の本であるからマンガに対する「批評」の域にまでは達せられず、かといってマンガの内容を紹介はしちゃうから哲学(だか社会学だか)を「解説」するための文字数も足りなくなっちゃって、中途半端な出来になることが多いのだ。

インセンティブから目を逸らして社会を語るな(読書メモ:『自己責任の時代:その先に構想する、支えあう福祉国家』)

 

 

 

 タイトルが想像できるように、近年に蔓延している(とされる)、いわゆる「自己責任論」を批判する本。

 また、著者のヤシャ・モンクの教師のひとりがマイケル・サンデルであるらしく、「謝辞」でも真っ先にサンデルの名前が挙げられている。

 そして、この本の内容も、ベストセラーになったサンデルの『実力も運のうち』とかなり近い。あちらは「能力主義」を批判する本であったが、かなりの部分までは「自己責任論」批判と重なるものであった。主に批判する思想家がジョン・ロールズであるところも似ている(サンデルはフリードヒ・ハイエクも強めに批判していたのに対してモンクは運の平等主義者を批判しているところに違いはあるが)。政治家などの発した世俗的な言葉を引きながら「最近ではこんな風潮があります」と紹介しつつ、ロールズなどの思想家の著作にその風潮の原因を見出して批判する、という構成もいっしょ。

 そして、残念ながら、『自己責任の時代』も『実力も運のうち』と同様の問題を抱えている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 なんといっても、「自己責任」に代わるものとして提示される「肯定的な責任像」とやらが、中身がなくてショボい。また、サンデルが「能力主義」に代わるものとして提示した「共通善」と同じく、肝心なところはみんなの同意や話し合い…「民主的討論」に丸投げされてしまっているのだ。

 

第二に、特定の行動やその帰結についていつ市民が結果責任を負わされるべきなのかは、客観的に見てどんな行動に責任を負うべきかに関する何らかの抽象的な、時には超越的理由に基づく前制度的説明によって定まるのではない。むしろ我々が市民に抱く期待は、それ自体が、どの価値を優先するかについての民主的討論ーーできれば政治理論上の主張から一定の見識を得た、ただし政治理論によっては決着のつけられない討論ーーに託されるのである。

 

(p.193)

 

 モンクはこの本のなかでロールズなどの議論を散々批判するだけでなく、弱者への道場から責任という概念を否定する現代の左派についても「結果として弱者を対等な人間と見なさない発想を招き寄せている」として批判している。しかし、「責任を負わされるべきタイミングはいつなのか」をはっきりとさせずに(「政治理論上の見識を得た」という但し書き付きで)民主的討論に任せるモンクの議論が、新たな責任像を提出するものであるとは、到底言えない。

 責任に関する議論を行うなら、それがいつ発生するものであるかという基準や方針を、(大まかであってもいいから)示さなければならない。法律や給与・福祉の需給などの制度上のものであっても、非難や称賛などの日常的なものであっても、「どういうことをしたらペナルティを受けたり非難されたりしてしまうか」「どういうことをすればメリットが得られたり褒められたりしてもらうか」ということを人々に理解させるようにして、社会や組織や集団にとって害になる行動を抑制させたり益になる行動を積極的に行わせたりするように個人を促すこと、つまりインセンティブを提示することが、責任という概念の重大な要素だ。モンクやサンデルはこのインセンティブという発想を嫌っているようだが、実際のところ、それがなければ社会はまわらない。ロールズはこのことを理解しているので、批判を承知で自らが提示する社会像にインセンティブの発想を組み込んだ(実際にはロールズは「責任」ではなく「正当な予期」という言葉を用いているが)*1。そして、「責任」が討論によってその都度に基準が変動するようなあやふやなものになると、人々はペナルティを避けたりメリットを得たりするためにどのように行動すればいいかもわからなくなり、もはやインセンティブとして機能しなくなる。

 

 モンクやサンデルは、「社会を成立・維持させるためにはインセンティブが必要になるんじゃないの?」という当然の疑問に向き合っていない。彼らはインセンティブの必要性を論駁しているのではなく無視しているのであり、だからこそ、彼らが提示する社会像は向き合うべき面倒で複雑でイヤな物事が勘案されていない、薄っぺらい理想像にしかならないのだ。

 たとえば、モンクは「普通の人びとには責任を尊重すべき理由があり、その自覚もある」(p.190)から、インセンティブ的な責任像がなくなっても人々は福祉に頼るフリーライダーにとならずに努力して生産的な行為(または他者への責任を引き受けるケア行為)を行う、と楽観的に捉える。……だけど、わたし自身のこともわたしの身のまわりの人たちのことを想像してみると…もしかしたら「普通の人びと」ではない特殊な人ばかりが集まっているかもしれないけれど…とても、そうは思えない。

 本書では主に福祉に関する自己責任の問題が取り上げられている。1970年代以前は生活保護や失業手当などを受給するのに条件はなかったが、現在では職を探していたり職業訓練などを行っていたりするなど勤労に前向きであることを証明しなければ受給できなくなっている、というのが問題視されている。モンクはこのことを「(勤労への復帰という)責任を果たさなければ福祉の受給資格が得られなくなる」と捉えて「懲罰的責任像」と呼ぶ。

 しかし、失業手当を受けながら生活していた経験のある身から言わせてもらうと、「責任を果たさないと福祉が貰えなくなる」ことを「懲罰」と呼ぶのはかなりミスリーディングだ。なんといっても、勤労に復帰する意欲さえ示していれば、実際に働かなくてもお金が貰えてしまうわけだから。フリーターや会社員として数年働いた後だと、月に何度かハローワークに行くだけで(微々たるものだとしても)お金が入ってくるというのはかなりラッキーなことに感じられる。もちろん、理屈の上では、わたしたちには人権があるんだし税金とか雇用保険とか払っているんだし人間は互いに支え合って社会を成立させているんだから、働けなくなったり仕事を辞めたりした人がお金を貰うのは当然のことである。しかし、その「当然のこと」が成立するようになったのは、20世紀に福祉国家が誕生してからという人類史レベルで見ればごく最近であるのを忘れてはいけない(これはモンクに限らず、ここ数十年続いている「新自由主義」を異常なものだとして、福祉が成立していた戦後の一時期こそが正常だと主張する人々が忘れがちなことである)。それ以前の人からすれば、「条件を満たさないと福祉を得られなくなる」ということがペナルティなのではなく、「条件を満たせば福祉を得られる」ということ自体がボーナスなのだ。

 実際に、私のまわりでは、失業手当をできる限り多く取得するための計画を練ったり実行したりする人間が何人かいる。どいつも働こうと思えば働ける人なので正真正銘のフリーライダーだ。また、そいつらのことを別の人々に話すと、みんなイヤな顔をしたり怒ったりする。自分の身近に社会のフリーライダーがいるというのは、やはり気分が良いものではないのだろう。……そう考えると、福祉の受給に条件を課すということには、充分な理由がある。ハローワークに行ったり職を探しているフリをし続けたりするのを面倒に思わせて、あるいは金額自体を大したものではなくすることで「これならふつうに仕事したほうがマシだな」と思わせて勤労への復帰を促すことは、労働市場を正常に機能させるという点でも意味があるだけでなく、福祉に頼らずにまじめに生きている人たちに対して「福祉を維持すること」についてまだしも納得させやすくなる。もしどんな人でも無条件で失業手当を受け続けられるになったら、まじめな人たちの大半には、そのような雇用保険システムや社会保障・福祉システム全般を維持することが馬鹿らしく思えてしまうだろう。……そして福祉の削減を主張するポピュリスト政党が登場したら、みんなそこに投票する。

 実際には、充分に厳しい条件を伴う福祉システムが存在している状況でも、フリーライダーの存在を誇張したり実態からかけ離れた表現をすることで福祉システムに対する人々の悪意を煽ったポピュリスト政党が当選する、というのは国内でも海外でも起こっていることだろう。とはいえ、それに対して「そもそも福祉に条件なんていらないのです」なんて言い出しても、火に油を注ぐだけだ。……モンクやサンデルは「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」を重視するのと同時に「共通善」や「民主的討論」を理想化しているが、市井の人々の大半は(まじめであったり身近な人々を愛していたりするがゆえに)「人間の対等な尊厳」や「だれもが承認を得られること」をとくに重んじていないという事実から目を逸らすべきではない。市井の人々が共通善について民主的に討論したのちにもたらされる結論は、文系の学者や院生が教室や学会で話し合った後の結論に比べて、ずっと苛烈なものになるだろう。

 

 社会に「懲罰的責任」観や「能力主義」が蔓延した責任をロールズや運の平等主義者に着せようとしたりしなかったりする煮え切らない筆致も、『自己責任の時代』と『実力も運のうち』に共通する問題点だ。たとえば、モンクの言うところの「前制度的責任」やサンデルの言うところの「値する(ディザート)」という発想は、ロールズの『正義論』では採用されていないし、彼らもそのこと自体は認めている。しかし、ロールズの「正当な予期」の概念は結果的に「前制度的責任」や「値する(ディザート)」という発想を人びとに信じさせることになる、と彼らは批判する。……だが、そもそも、政治家や市井の人びとは『正義論』を読んだりロールズの議論を聞いたりしたうえで考えや価値観を定めているわけではないということは、モンクも認めているようだ。

 モンクやサンデルは、政治家などの言説を題材にした社会評論と、他の哲学者たちの思想に関する専門的な議論が行ったり来たりさせながら、「市井の人々が間違っていて不道徳的な意見を信じるようになったのは、ロールズなどのリベラリストのせいだ(しかしロールズなどはその間違っていて不道徳的な意見そのものは言っていないし、市井の人々がロールズなどを読んでいるわけでもない)」と主張する。端的に言ってこの主張は破綻しているし、サンデルやモンクがロールズと同じく政治哲学者であるとすれば、論敵を卑劣な方法で攻撃しているようにも思える。

 モンクやサンデルが向き合うべきは、懲罰的責任観が普及したり新自由主義の風潮が到来したりする以前の、(原初状態の!)人間とはどういう存在であるか、ということだ。ロールズはそれを真剣に考えたからこそ、インセンティブの発想を自身の正義論に持ち込んだ。懲罰や恩賞の基準を提示することなく民主的討論や共通善に丸投げすれば批判を回避することはできるかもしれないが、それは社会像を提案するという政治哲学者の務めから逃げているだけなのだ。