道徳的動物日記

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覚え書き:なぜ功利主義者がいないと動物の権利は発見されなかったか

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 某所の連載で動物倫理についても何回か書くことになりそうなので、ピーター・シンガーの『動物の解放』を久しぶりに読み直している。

 

『動物の解放』では『実践の倫理』ほどに倫理学的な議論が詳細に行われているわけではないが、動物倫理の問題について語るうえで必要となるポイントは、第一章でばっちりと示されている。シンガーの主張の根幹である「利益に対する平等な配慮」の原理についても説明されているし。

 そして、改めて読んでいて思ったのだが、以下の箇所はとくに重要だ。

 

多くの哲学者や著述家たちが、基本的な道徳原則として、なんらかの形で、利益に対する同等の配慮という原則を提唱してきた。しかしこの原則が私たちの種に対してと同様に他の種の成員にも適用されるということを認識した人は多くはなかった。ジェレミーベンサムは、このことを認識した少数者の一人である。黒人奴隷たちがフランス領では解放されたが、イギリス領ではまだ私たちが今日動物を扱うようなやり方で扱われていた時代に書かれた進歩的な文章の中で、ベンサムは次のように述べている〔P・シンガー編『動物の権利』戸田清訳、二三〜二十四頁)。

 

人間以外の動物たちが、暴政によっておしとどめることのできない諸権利を獲得する時がいつかくるかもしれない。皮膚の色が黒いからといって、ある人間にはなんらの代償も与えないで、気まぐれに苦しみを与えてよいということにはならない。フランス人たちはすでにこのことに気づいていた。同様に、いつの日か、足の本数や皮膚の毛深さがどうであるから、あるいは仙骨の末端〔尾の有無〕がどうであるからというので、ある感覚をもった生きものをひどい目にあわせてよいということにはならないということが、認識される時がくるかもしれない。いったいどこで越えられない一線を引くことができるのだろうか?分別をもっていることだろうが、それともおそらく演説する能力だろうか?しかし、成長した馬や犬は、生後一日や一週間、さらには生後一ヶ月の人間の乳児に比べても、明らかに高い理性をもち、大人の人間との意思の疎通もスムーズにできる。だが馬や犬がそうした意思疎通の能力を持っていないとしたら、人間の役に立つだろうか?問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである。

(『動物の解放(新版)』、p.28から。強調は私がつけた。)

 

 関連するものとして、ちょっと前に公開されたわたしの文章も引用しよう。

 

功利主義は、私たちの意識の外側にある「結果」をも考慮に入れる。そのために、ある社会ですっかり定着していて常識とされている慣習や制度についても、それが引き起こしている結果を冷静に見つめ直すことで問題の存在を発見して、異議を唱えることが可能になるのだ。創始者であるベンサムやJ・S・ミルの時代から、功利主義奴隷制度に反対して、女性を男性と平等に扱うことを求めて、同性愛者に対する差別を非難して、さらには動物に対しても道徳的に配慮する必要性を説くことができた。功利主義者は権利を批判するとはいえ、現代の社会に定着している「権利」 の多くは、功利主義者たちによって発見されてきたものであるのだ。

一方で、「権利」という発想だけに頼る人は、すでに制度的に認められている権利ばかりを重視してしまい、法律などで権利が制定されていない存在に対しては目を向けられなくなってしまうおそれがある。18世紀にアメリカやフランスで採択された「人権宣言」が、女性の権利も、白人以外の人々の権利も考慮に入れていなかったことは象徴的だ。現代においても、動物の権利運動は、「肉を食べる権利」などの「人権」が障壁となって阻まれている状態にあるといえるだろう。

s-scrap.com

 

 功利主義には他の倫理学理論にはない特徴と利点がいくつかある。実用性という観点から言えば、トレードオフの問題についてスタックやバグを起こさずに考えられる、というところが最大の利点であるだろう*1

 その一方で、功利主義は「社会ではまだ気付かれていない道徳的な問題を"発見"する」 という機能を持っている点でも優れている。功利主義によれば、だれかが苦しんでいて、なにかの利益が平等に配慮されていないなら、それだけでなんらかの道徳的な問題が存在することになる。「権利」や「尊厳」をベースとした道徳では、道徳的な問題を発生させるための条件がくどくどと付け足されてしまうために、こうはいかないのだ。

 そして、功利主義がきわめて理性的な道徳であるというのも、もちろん重要だ。スナウラ・テイラーローリー・グルーエンが行なっていたような「ケア」や「共感」のような感情に訴える倫理にせよ、トサヒ・ザミールバーナードー・ロリンが行なっていたような「広く共有された信念」や「常識」に訴える倫理にせよ、その感情や常識を共有しない相手には、まったく通じようがない。「自分はそうは思わない、自分はそうは考えない」と言われたらそれで終わりだ。しかし、感情や常識とは違い、理性は有無を言わせずに伝播させることができるものだ。ある人が誤った価値判断をしていたとしても、その人が想定している前提やおこなっている推論に間違いがることを示されたら、その人は価値判断を修正せざるを得なくなる。すくなくとも「自分が間違っている」ということを認めざるを得なくなるし、それを嫌がって理性的であることを放棄したとしてもその人が「負けた」ということは本人も周囲も認めることになるだろう。

 スティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーは、シンガーが『輪の拡大』でおこなった議論を下敷きとしながら、人類による道徳的配慮の対象の拡大の歴史は感情ではなく理性によってドライブされていることを論じていた、という点も忘れるべきではない*2

 

 以上のことをふまえると、『動物の解放』の序章で「動物好きといいながらハムサンドウィッチを食べる女性」が当て馬として紹介されながら、感情や共感ではなく理性に基づいた道徳が強調されている、というところにはかなりの慧眼や洞察が含まれているということがわかる。一部のフェミニスト倫理学者たちはそれに反発を抱いて「動物に対するケアの倫理」を説いたわけだが、いつまで経っても、わたしには彼女たちのやっている議論は本末転倒なものであるとしか思えない。いま現在、彼女たちのおこなっている議論がバカにされたり矮小化されたりせずにまともに耳を傾けるべき議論として真剣に扱われているのは、その前にシンガーのような論客たちが理性によって動物への配慮が「真剣に扱われるべき問題」であるということを人々に説得できたからなのだ。

 

 

「社会学叩き」についての私見

 

 出勤前に、サクッとメモ的に書いておこう。

 

 Twitterはてなブックマークをはじめとしたネット・SNS界隈では、十年一日という感じで、相変わらず「社会学叩き」が盛んだ。

 といっても他人事ではなくて、このブログでも、過去に、社会学や社会科学の現状について批判するHeterodox Academyの記事を訳したことがある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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 また、わたしもちょっと関わっている『経済学101』でも、社会学を批判する記事が訳されて投稿されることがある。代表的なものは、ジョセフ・ヒースによる以下の記事だろう。

 

econ101.jp

 ヒースの記事における「規範的社会学」という言葉に示されているように、これらの記事で問題視されていることは、「社会学(社会科学)が、特定の道徳的規範・政治的規範に影響を受けすぎている」ことであるだろう。つまり、社会学に関わる人の多数派が左翼的であったりフェミニスト的であったり反レイシズム的な問題意識を強く抱いていることで、社会学における議論には偏りや論点先取が生じて、個々の論者は自分が取り上げようとしている問題について客観的で正確に論じることができなくなっており、学問全体にも停滞が生じている、ということである。

 具体的にいうと、クリス・マーティンの記事では、社会学の内部にイデオロギー多様性が存在しないことで「タブーの共有」が発生して、「性別間や人種間には生物学的に違いがある」などのタブーとなっている主張を支持する議論が排除される状態になっている、ということが指摘されている。また、みんなが同じ問題意識を持っているために利用可能性ヒューリスティックの問題が集団的に発生して、すでに賛同を得ている結論に合致する証拠ばかりが集められる代わりに不都合な事実が無視されている、ということも指摘されている。さらに、保守的な意見を持つ人をはじめとする「少数派」に関して非難的でないかたちで理解するための研究が阻害されている、という問題も論じられているのだ。

 ワインガードの記事では、社会科学に関わる人たちが「パラノイド平等主義的改善説」に影響されるあまり、「性別間や人種間には生物学的に違いがある」といった議論について検討することすらできない状態になっている、ということが指摘されている。そして、ヒースの記事では、社会学では「何が問題を引き起こしている”べき”なのか」という論点先取に基づいた議論が大手を振るっていることについて、詳細に指摘されている。

 いずれの記事でも共通して指摘されている問題は、「規範的主張が事実的主張よりも優先されて、事実に関する分析に歪みや偏りが生じていたり、特定の事実的主張があらかじめ排除されていたりする」ということであるだろう。

 

 ……とはいえ、このような問題は、「社会学」にのみ指摘されることではない。わたしが観察したところ、英語圏では、人類学も同様の批判を受けることが多々あるようだ。また、「ジェンダースタディーズ」や「ブラック・スタディーズ」などのクリティカル・スタディーズ系統も、批判の対象となっている。

 

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 さて、日本のネットにおける「社会学叩き」の方に目を向けていると、叩いている側の問題意識はいくつかのパターンに分けられるようだ。

 上述したような、事実と規範の混同の問題が日本の社会学でも発生していると考えて、それを指摘したり、「胡散臭くない?」「おかしくない?」という疑念を表明したりする人もいる。

 その一方で、メディアでよく取り上げられる有名でスター的な社会学者の主張の問題を取り上げて、その問題を社会学全体に投影して非難する人もいる。また、「宇崎ちゃんポスター」事件をはじめとする「表現の自由」案件に絡めて、「社会学者の一部が表現規制を支持して、他の社会学者たちもそれを黙認してきたのだから、日本の社会学は内部批判のできない腐った集団だ」的な主張をしている人もいるようだ。

 わたしとしては、この種の「連帯責任」的な発想に基づく非難はとうてい支持できない。

 また、「社会学には査読がないからダメだ」「論文を書いていない人でも有名になったり権威を得たりしているからダメだ」という批判もよく見かけるところだ。しかし、「査読がない」はそもそも事実でないようだし、この種の批判は理系的な学問における評価ルールを思考停止的にほかの学問に押し付けているようで、不当であるようにしか思えない。

 そして、批判者の多くは「日本の社会学はどうなっているか」「誰がどのようなことを言っていて、それと反対のことを言っている人はどれくらいいるか」「社会学に特有の問題であるのか、それとも他の学問分野でも見受けられる問題なのか」「問題の深刻さの程度はどれくらいなのか」などなどの事実や詳細にはまったく興味もないようだ。結局のところ、ネットにおける「叩き」の大半がそうであるように、「叩いていいやつ」を見付けたら「叩く理由」やその根拠については深く考えずに批判のテンプレをコピペして集団で叩きまくる、という有様になっている。なので、現在の日本のネットにおける「社会学叩き」にわたしがノる気は、まったくない。

 

 それはそれとして、以下のツイートに示されているように、「規範的社会学」の問題は、日本でもやはり深刻であるようだ(このツイートをした人は社会学者ではなく文化人類学者ではあるのだけれど)。わたしとしては、この問題は批判されるに値する問題だと考えているし、批判された側も真剣に考えて応答すべき問題であると考えている。

 

 

 

 

社会学の方法―その歴史と構造 (叢書・現代社会学)

社会学の方法―その歴史と構造 (叢書・現代社会学)

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「マイノリティの被害者意識」に関する議論のジレンマ

 

 

『良き人生について:ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』については以前にも紹介したが、あらためて、この本の第11章「侮辱」からちょっと気になったところを引用しよう。

 

今日では、侮辱に対してユーモアで応えるとか、何も言わないとかいった対応は、ほとんどの人から好まれないだろう。とくに差別的表現の撤廃(ポリティカル・コレクトネス)を求める人びとは、一定の侮辱については罰を与えるべきだと考える。彼らの矛先が向かうのは、マイノリティ・グループや心身障害者をはじめ社会的・経済的に困難をかかえた人びとなど、「恵まれない」人びとに向けられた侮辱である。彼らはこう主張するーー恵まれない人びとは、心理的に傷つきやすい、したがって世間からの侮辱を放置していたら深刻な心理的ダメージを被るだろう。そのために彼らは、恵まれない人々を侮辱する者たちへの処罰を求めて、政府、雇用者、学校行政当局に請願するのである。

エピクテトスならば、この対応はきわめて逆効果だとして拒むだろう。たぶん彼は次のように指摘するのではないか。まず第一に差別的表現撤廃運動にはいくつかの厄介な副作用がある。その副作用のひとつは、恵まれない人びとを侮辱から守るプロセスが、逆に彼らを侮辱に対して過敏にさせる傾向があることだ。その結果彼らは、直接の侮辱だけでなく、侮辱のほのめかしにさえ、針を感じることになる。ふたつめの副作用は、恵まれない人びとが、自分だけでは侮辱に対処できないと思い込んでしまうことである。当局に介入してもらわない限り、無力な自分にはどうすることもできない、と。

エピクテトスならばこう言うだろう。最も良い方法は、侮辱する人間を罰するのではなく、恵まれない人びとに侮辱から身を守るテクニックを教えることである。彼らに一番必要なのは、自分に向けられた侮辱から針を取り除く方法を学ぶことだ。そうしない限り、彼らは侮辱に対して過剰に敏感になり、その結果、侮辱されれば相当な苦痛を経験することだろう。

じつはエピクテトス自身もまた、現代の基準で言えば二重に恵まれない人間であった。彼は足が悪かったばかりか、奴隷でもあった。こうした障害にもかかわらず、彼は侮辱を超越する方法を考え出した。もっと重要なのは、運命が彼に与えた悪い手札にもかかわらず、喜びを経験する方法を見いだしたことである。現代の「恵まれない」人びとは、エピクテトスから多くを学ぶことができるはずだ。

(p.159 - 160)

 

 ここでアーヴァインが問題視していることは、「マイクロ・アグレッション」という概念に関して心理学者のジョナサン・ハイトが問題視していることと同様のものであるだろう*1

 

マイクロアグレッションという概念にかかると、「自分が傷ついた」という感情が、相手を非難することを正当化する根拠になってしまう。最初は不愉快であったり攻撃的に聞こえた発言であっても、相手の発言についての真意をたずねたり「どのようなことを主張しようとしているのか」と冷静に解釈したりすることで誤解が解けたり建設的な対話がスタートする可能性はあるものだが、その可能性が閉ざされてしまうのである。

さらに、マイクロアグレッションのような概念は、学生たち自身の精神的健康にも良からぬ影響をもたらす。他人に対する非難を優先して自分の感情の正当性を吟味することを怠らせるだけでなく、「自分が被害者である」とか「自分は傷つけられた」といった意識が他人を批判する根拠になると思わせることは、そのような意識を積極的に持つように本人を動機付けてしまうのである。その結果、学生たちは、「自分は被害者である」という意識から逃れなくなるのだ。

そして、自分の内面や感情が他人の言動にいちいち左右されてしまうことは、本人に無力感を与えてしまうことにもつながる。相手の言動によって傷ついたことを重視するような受け身の姿勢ではなく、相手の言動を冷静に受け止めて対処できるような考え方を養うことの方が、本人にとっても有益であるのだ。

 

「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか?(ベンジャミン・クリッツァー) | 現代ビジネス | 講談社(2/6)

 

 

 

 マイクロアグレッションをはじめとして、「マイノリティに対する差別的表現と、それによって生じる被害」に関する議論には、ある種のジレンマが付きまとう*2

 

 まず指摘されるであろう事実として、アーヴァインもハイトも白人男性であり、基本的にはマイノリティではなくマジョリティの側に属する人物だ。そんな彼らが上記のような主張をすることには、どうしても「面の皮の厚さ」が伴うし、ある種の不正義や不公正を見出さないことは難しい。

「特権」に守られて安全圏にいる人間が、そうでない人びとに対して、「侮辱や差別的発言の深刻さは、聞き手の側がそれをどう受け取るかによって左右される。侮辱を深刻にとらえてしまい、すぐにダメージを受けて他人を非難するような人間になることは、本人にとってもよくない。それよりも、侮辱を冷静に受け止められてうろたえなくなるようなタフさを身に付けたほうが、本人にとってもよい」と言っているようなものであるからだ。

 差別に関する問題への意識が高い人であれば、アーヴァインやハイトのような言説は、侮辱や差別的表現に対する正当な抗議に対しても「感情的」「弱さのあらわれ」というレッテルを貼ってしまい、マイノリティの人びとがマジョリティに対して抗議することを躊躇わせてしまう「抑圧」として機能する、ということを指摘するはずだ。マジョリティとマイノリティとの間に存在する非対称性や構造の問題を無視して、個人の受け取り方や心理といったレベルにまで問題を矮小化しようとすることは、けっきょくは差別に加担している、などなどと批判はつづくであろう。

 

 このような批判にはたしかに一理あるし、おそらく、正当でもある。……とはいえ、社会の構造がどうなっていようと、侮辱や差別的表現が個人に対して与える影響は、最終的には受け取り手がどう捉えるかということ次第である、ということもまた事実であるのだ。ハイトが呈している懸念はもっともなものであるし、アーヴァインが行なっているアドバイス実際に有効なものであるだろう。

 

 アーヴァインにせよハイトにせよ哲学と心理学の両方に造詣が深い論客であり、彼らは、フレーミングが人々の認識に与える効果や認知の歪みが人々のメンタルに与える悪影響について熟知している。アーヴァインが参照しているストア哲学も、ある意味では、「何事も気の持ちよう次第」という考え方を徹底して極めたものといえるのだ。

 一方で、左派的な問題意識を土台としている社会学や応用哲学(概念工学)などでは、「被害のあり方」や「不正のあり方」に注目して、それを分析したのちに様々なかたちで概念化して名詞化している。……だが、被害や不正に関する意識を強くして、名詞化された被害や不正を実体のものとして認識すること自体が、個人レベルで言えば、ネガティブなフレーミングや認知の歪みをもたらして、活き活きとして幸福な人生を送るには足かせとなる可能性が高い*3

 

 左派の議論は社会関係や権力勾配などのマクロに注目している一方で、アーヴァインやハイトのような議論は個人の心理というミクロに注目しているのであり、「どこに注目するか」の違いでしかなく、どちらの議論もそれぞれになされる必要があるのだ、といった中立的で折衷的な考え方をすることもできるかもしれない。

 ……しかし、ミクロな視点とは違い、マクロな視点には限界がない。やろうと思えば無限に問題を発見して概念化して名詞化して、つまり問題を「創造」してしまうことができるのだ。

 左派の議論を行っている人たちも、マイノリティを支援したいマジョリティとしての善意や義務感、あるいは自身のマイノリティとしての経験などがモチベーションとなっているのだろうが、彼らの意図していないところで悪影響が生じているおそれがある。

 

 近年の左派のあいだでは、たとえば自律を重視する旧来の考え方を否定する代わりに依存を重要視するケアの倫理とか、そうでなくとも男性っぽいものは否定して女性っぽいものを持ち上げる風潮などと絡んで、「弱さ」を表明したり受け入れたりすることが賛美される傾向にある。

 一方で、アーヴァインやハイトのような論者たちは、ストア哲学の実践や忖度のない議論への参加などを通じて、外界の物事にいちいち左右されて悪影響を受けてしまうことを抑えるために「強さ」を身に付けることを強調している。

 前者の議論には新鮮味があって人の耳目を集めやすい一方で、後者の議論は昔ながらの保守的なものであり注目されづらいかもしれない。……でも、結局のところ、だいたいの物事については昔から言われていることの方が正しいものであるだろう。

 

 

*1:こちらも参照:

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:そして、似たようなかたちのジレンマは、マイノリティへの侮辱や差別に対する「怒り」の表明の問題についても付きまとう。「差別を受けたマイノリティが怒りを表明することはもっともなものであり、マジョリティや社会は、表現の仕方がどうであろうとマイノリティの怒りに耳を傾けるべきだ」という主張と、「そうはいっても、敵意に満ちた怒りをただ表明するだけでは実際に人々に耳を傾けさせて共感させて意見を変えさせることはできないのであり、冷静さや表明の仕方の工夫は必要とされる」という主張との間のジレンマだ。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

『男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか』

 

 

 前回の記事でも紹介した、心理学者のロウ・バウマイスターの著作『Is There Anything Good About Men? :How Cultures Flourish by Exploiting Men(男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか)』を読み終えたので、軽く内容をまとめてみよう。

 

 この本では、進化心理学と文化進化論の考え方を用いながら、社会における男性と女性それぞれの役割や扱われ方などが分析されている。バウマイスターは「エッセイ」であると表現しているが、学術的な文献からの引用も多く、セミアカデミックな内容だといえるだろう。

 

 この本の前半では、まず、男性と女性に関するいくつかの生物学的な事実が提示される。

 

・男性と女性とで、どちらかの方が能力が優れている、ということはない。

 ・男性と女性との間に能力の優劣はないが、関心や傾向には男女差が存在する。

 ・男性の間の能力や性質の差のばらつきは、女性のそれよりも大きい。多くの能力や性質について、両極にいるのは、どちらも男性である。

 ・繁殖の成功については、女性は安定しているが、男性は不安定である。女性の場合は、生涯で産める子供の数に限りはあるが、多くの女性は子供を残すことができてきた。男性の場合は、性に関する競争の勝者たちが大量の子供を残してきた一方で、まったく子供を残さないまま死んでいった敗者たちの数はそれ以上に多い。

 ・繁殖戦略の違いから、男性はライバルである他の男性たちに対して優位に立とうとする。そのため、男性はリスク追求的であり、競争的で、野心的で、積極的である。

 ・「社会性がある」ということには二つの意味がある。親密な関係を築けている相手が複数いるということか、親密ではないが数多くの相手と関わったり名を知られたりしているか。女性は社交的な存在であるとよく言われるが、多くの女性は、前者の意味での社会性を志向しても、後者の意味での社会性は志向していない。一方で、多くの男性は後者の意味での社会性を志向している。

 

 これらの生物学的な事実を前提としたうえで持ち出されるのが、「文化進化論」的な考え方だ。

 ここでいう「文化」とは、衣食住や言葉や芸術などのいかにも文化っぽいものに限らず、政治や経済や法律などに関する諸々の社会制度を含めた、広い意味での「文化」である。

 人間の社会は、文化を生み出すことで、生産力を高めて飢えや欠乏を防いだり、安定性を高めて人々が共同作業を行いさせやすくした。根本的には、文化とは、人間の生存と繁殖を有利にするために存在している。

 そして、文化は、異なる文化と競合する。異なる集団が二つあるとき、どちらかが生き残るかは、「どちらの人口の方が多いか」ということや、どちら武器の方が発達しているか、どちらの戦士たちの方がより秩序立っていて命令に従うか、ということによって決まる。そして、効率的に機能する文化ほど、その集団の人口を増やして、優れた武器を生み出して、構成員を従わせる秩序を成立させることができる。逆に言えば、非効率的な文化は、それよりも効率的な文化によって淘汰されてしまうのだ。

 具体的には、「情報の蓄積と伝達」「分業、専門化」「交換、交易」といったことをより効率的に実現できる文化の方が、生産力を上げて集団の人口を増やしやすい。

  また、文化が効率的であるいうことは、たとえば「集団の人口を増やす」という目的を達成するために、その集団の構成員をより効率的に利用・搾取する方法を編み出している、ということである。文化は集団を存続させることに貢献するものであるが、個々の構成員を幸福にするとは限らない。

 そして、他の文化との競争に勝って現在まで生き残ってきたような文化は、生産や秩序や発明を効率的に達成するために、男性を搾取してきた

 

 なぜ、女性ではなく、男性の方が文化によって搾取されてきたのか?

 主たる点は、男性は女性よりもリスク追求的であり競争的な性質を持つ、ということにある。たとえば、効率的な文化には発明や投資が欠かせないが、発明や投資は当たれば得るものが大きい代わりに外れたら得られるものが何もない、リスクの大きい行為である。また、公立的な文化は宗教的権威や政治体制などによる権力を通じて秩序をもたらすものであるが、権力者になろうとするためには他の相手との競争に勝たなければならない。勝者になる可能性もあれば、敗者になる可能性もある。

 平均的に見れば、女性たちは複数の相手と親密な関係を築ければ満足できて、発明や権力といった競争的な世界には興味を示さない。一方で、リスク追求的であり不特定多数のなかで抜きん出た存在になることを望む男性たちは、競争的な世界に惹き付けられる。そのために、「男は仕事、女は家庭」式の性別分業が発達するようになった。

 また、男性は女性よりも特徴にばらつきがあり極端であるということは、多様なアプローチを生み出させて、発明やイノベーションを効果的に機能させやすくする。

 こうして、文化が効率的であるために欠かせない富・知識・権力は、競争的な男たちの世界で築かれていったのである。これが、女性たちを富・知識・権力にアクセスさせない、ジェンダー不平等の起源でもある。

 

 文化は、競争に勝ち抜いた男たちには、報酬を与えてきた。

 しかし、勝ち抜くまで至らない大半の男性たちは、使い捨ての消耗品のように扱われる。

 そもそも、「集団の人口を増やす」という観点からすれば、女性は一人につき生涯で出産できる数に限りがあるために、女性の数は多ければ多いほどよい。一方で、一人あたりの男性の精子はほとんど尽きることがないから、多数の男性が必要ということはない。つまり、男性の生命は、女性の生命に比べて価値がないのだ。

 そのために、他集団との戦闘や、生死に関わる危険な仕事に駆り出されるのは、大半が男性である。文化からすれば、個々の男性の生命を守る理由は乏しいのだ。

 ただし、いくら男性がリスク追求で競争的であるとしても、なんのメリットも見えないことに対して自分の人生を犠牲にするということはできない。そのため、効率的な文化であればあるほど、集団の発展と防衛のために欠かせない、危険な領域や当たり外れの大きい領域に男性たちを飛び込ませるための「誘因」を発展させてきた。

 競争に勝ち抜いた者に多大な報酬を与えることも、誘因のひとつだ。その報酬は、物質的なものであるとは限らず、評価や名誉に関するものでもあり得る。家事や再生産労働などの「女の世界」に属するものよりも、富・知識・権力などの「男の世界」に属するものの方が社会的に尊重されて高評価されてきたのは、そうした方がより多くの男性たちを「男の世界」に飛び込ませることができるからだ。

 さらに、文化は「男らしさ(Manhood)」に関する社会規範を構築してきた。たとえば、「男たるもの、自分が消費するよりも多くのものを生産しなければならない」という規範などである。女性は子供を産むことさえできればそれで「生産的」な存在となり得るが、男性はそうではないので、規範によるプレッシャーを与えて生産的な領域へと追い立てなければいけない。

 つまり、「男らしさ」とは男性が生まれつき身につけているものではなく、獲得しなければならないものである、と設定されたのだ。男性は、なにかをしなければ、一人前の男であるとは見なされない。これにより、競争やリスク追求に対する志向に乏しい男性たちであっても、それらの世界に飛び込まざるを得なくなる。

 また、すべての男性が平等に尊敬されるのではなく、勝者のみが尊敬されて敗者は軽蔑されるような規範を成立させることで、「負け犬」とみなされることを恐れる男性たちの競争に対するプレッシャーを増させられる。これにより、男性同士の競争を激しくさせて、経済や投資や発明などをより効率的に機能させることができるのだ。

 そして、結婚制度は、男性が「男の世界」で獲得してきた富を、女性の性的資本と交換するためのシステムであるといえる。女性は、男性の性的な欲求を利用して、結婚を通じて男性から物質的な財産を搾取している、と捉えられる。

 

 バウマイスターの問題意識の主たる点は、フェミニズム理論による、「家父長制」などの用語を用いた社会分析に対する不満にある。

 フェミニストたちは、男性社会を一枚岩であると捉えて、「男同士は結託して共謀しており、女性たちを富や権力や知識から排除して、抑圧して差別している」と考えがちだ。最近では「男性特権」という言葉も使われるようになってきたが、この言葉も「男性は男性であるというだけで、女性に対して構造的に優位に立っている」ということを指し示している*1。そして、男性は自分たちの特権を放棄して、現時点で構造的に劣位にいる女性たちを引き上げるために彼女たちを手助けしたり自分たちの利益を後回しにしたりすべきだ、ということが論じられるのだ。

 しかし、この本のなかでバウマイスターが繰り返し強調しているように、「男性たちは共通の利益を確保するために共謀しあっている」ということも「男性は男性であるというだけで、男性特権の恩恵にあずかれる」ということも、事実からは程遠い。

 この本のなかでよく引用されるのが、レズビアン女性でありながら一年弱のあいだ男性に扮して「男として生きるとはどういうことであるか」を体験した作家、ノラ・ヴィンセントによる Self-Made Man という著作だ*2フェミニズムの考え方に影響されて「男として生きるということは、特権にあずかれてラクなことであるに違いない」と考えていたノラは、実際には「男性としての人生」は熾烈な競争にさらされており、誰かが世話したり構ってくれたりすることもなく、自分の存在価値を自分自身で証明しなければならないものであることを発見して衝撃を受けたのだ。

 集団内では、個人としての男性は他の男性と競争しあっている。他の男性との競争に勝てば富や権力や名誉などの報酬が得られて繁殖にも成功するが、負けてしまうと、手元にはほとんど何も残らず繁殖をすることもできない。前回の記事でも書いたように、フェミニストたちの考え方の問題点のひとつは、社会で成功を収めたこと富や権力を握っている「上」の立場にいる男性ばかりを見てしまい、「下」の立場にいる男性は目を向けない、というバイアスがかかっていることだ。そのため、男性内に競争が存在するという事実、そして競争に負けて惨めな状態で生きる男性たちが数多く存在しているという事実を考慮することができなくなっているのである。

 また、集団同士の争いを見ても、ある集団内における「男性たち」がグループとして争いの対象とするのは、同じ集団内の「女性たち」というグループではなく、別の集団の「男性たち」というグループだ。だからこそ、男性たちは、女性たちを含む自分の集団を守るために自らの生命を危険に晒すのである。

 社会において男性たちが優位であるように見えるとしたら、その理由の一部は、富や知識や権力の大半は実際に男性たちによって創造されてきたこと、女性たちは(能力ではなく関心や傾向のために)それらの創造に貢献してこなかったことに由来している。また、「男の世界」に属する物事に高い評価を与えて報酬を吊り上げなければ、そこに男性たちを飛び込ませることができず、他の文化に比べて非効率的な文化となって淘汰されてしまう、ということもある。

 いずれにせよ、ジェンダー不平等は、男性たちに対する女性への陰謀ではなく、男性と女性の両方を効率的に利用する文化進化のメカニズムによって作られてきたのである。

 

 バウマイスターも、富・知識・財産に関心のある女性たちがその世界から弾かれてきたという事実が存在してきたことは認めている。ただし、それは現時点で効率的に動くシステムに変更をもたらすことを拒む現状維持バイアスによって説明できる、ともしている。女性に対する「抑圧」が歴史上に存在してきたことは否定できないとしても、それはあくまで二次的なものである、と論じているのだ。

 一方で、「女性の目」に基づいて世界を分析するフェミニズムは、主観性のバイアスにより抑圧の存在を実際以上に過大評価してしまう。

 1970年代頃から、フェミニズムによって「社会における様々な分野に女性の数が少ないのは、構造的な女性差別が原因だ」という考え方が浸透したことにより、欧米の先進国では多くの領域で女性に対する優遇措置が取られるようになった。教育の場でも、男の子は後回しにされて、女の子を応援して自信を身に付けさせることが優先されるようになった。

 しかし、たとえば政治や自然科学を志す女性たちの数が少ない原因は女性差別ではなく彼女たち自身の志向や傾向に存在するとしたら、いくら優遇措置を取ったところでその効果には限界がある。

 さらに、女性に対して優遇措置をとるということは、男性たちからすればその領域にコミットしても得られるメリットが少なくなるということだ。そのために、本来ならその領域で活躍していたかもしれない男性たちが立ち去ってしまい、結果として、その領域の効率性や生産性が下がってしまうかもしれない。文化進化論の観点からすれば、そのような優遇措置をとる集団は、やがて他の集団に負けてしまう可能性が高いのである。

 

 ジェンダーに関する議論は、フェミニズムのものにせよ「男性学」や「弱者男性論」のものにせよ、自身が性役割に苦しんでいたり性規範を不愉快に思っている人たちによって主導されることが多い。そのため、性規範や性役割のミクロなデメリットが強調されてそれらを解体する必要性が論じられることが多く、性規範や性役割が社会にもたらすマクロなメリットについては無視されてしまいがちだ。

 一方で、バウマイスターの議論では、消耗品として文化から使い捨てられる「負け犬」男性たちに対する同情は強く感じられるものの、男性が「男らしさ」への渇望を捨てて社会から競争が失われたり、いざという時に自分を犠牲にして身近な人や社会を守ろうとする人がいなくなることについての懸念も強く示されている。性役割ジェンダー不平等の「罪」だけでなく「功」についても紙幅を割いているところが、文化進化論の枠組みを採用したこの本ならではのオリジナリティだと言えるだろう。

 

 とはいえ、バウマイスターの議論にもいろいろと懸念点はある。

 前回に紹介したように、この本の冒頭では「男性と女性は対立している、という見方は採用しない」という主張が打ち出されるが、最後まで読んでみると、かなり「男性寄り」で自己憐憫的な議論がされている感は否めない。

 たとえば、「男性は女性と対立していない」ということの根拠として持ち出されるのが、女性参政権運動では男性の多数派も女性に参政権を与えることに賛成したということであったり、男性によって発明・発展させられてきた医療によって女性たちも救われてきたということであったりする。これらの議論は、率直に言って、恩着せがましくて面の皮が厚いものであるように思われる。

 また、政治や経済や発明などの領域から女性が弾かれてきた理由を「現状維持バイアス」や「二次的なもの」として説明している点にも、不安がのこるところだ。

 たとえば2018年に発覚した日本の大学の医学部不正入試問題などは、女性への排除が現代でも意識的に行われていることを明らかに示す事例であるように思われる。アファーマティブ・アクションなどによって女性を優遇しすぎることが非効率的であるとしても、女性の排除を継続することで能力がある女性たちを活用する機会を失いつづけることは、さらに非効率的であるだろう。実際、現代の先進国を比較しても、女性が政治やビジネスの領域で支障なく活躍できている国は、そうでない国に比べて生産性や効率性が高くなっているように思われる。それにも関わらず女性の排除を継続している国や領域が存在しているという点は、効率の観点だけからは説明できないはずだ。

 結局のところ、フェミニズムが指摘するような「女性に対する抑圧」や「ミソジニー」などの問題が多かれ少なかれ存在することは否定できないのである。その影響力や規模は、バウマイスターが想定しているよりもずっと大きいものであるはずだ。

 

男性と女性は対立していない

 

 

 昨日からロイ・バウマイスターの『Is There Anything Good About Men? :How Cultures Flourish by Exploiting Men(男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか)』を読みはじめた。

 

 まだ読んでいる途中なので詳しくは紹介できないが、この本は、ジェンダーの問題について進化心理学や文化進化論的な考え方から論じたものである。男性と女性との間にはリスク追求的-リスク回避的であったりシステム思考的-共感的であったりなどの志向や傾向の違いが生得的に存在することを前提としたうえで、両性のそれぞれの特徴を効率的に“利用(Exploit) ”する仕組みを発達させた文化が他の文化との競争に勝ち残ってきたことで、現行の社会制度ができあがってきた、というような議論をバウマイスターは行なっているのだ。

 この議論の詳しい内容についてはまた後日に紹介することにして、今回は、この本の第一章で展開されている、ジェンダーの問題に関して論じられるとき採用されがちな「男性と女性は対立している」という枠組みに対する批判を紹介しよう。

 

 ジェンダーに関する議論は、男性と女性のどちらかが「加害者」でありどちらかが「被害者」である、という風に展開されがちだ。

 従来のフェミニズムの理論では、男女の賃金格差や政治におけるジェンダーギャップは、社会は「家父長制」によって成り立っているために男性が厚遇されて女性が冷遇されていることが原因で生じる、と説明されてきた。

「家父長制_論においては、男性たちは結託して陰謀をはたらいて女性を排除することで利益や権力を独占している、とみなされる。そして、女性は男性によって抑圧されている存在なのであるから、男性が不当に占めている利益や権力を奪い返すべきである、と論じられるのだ。

 フェミニズムが「女性」という集団と「男性」という集団との対立を強調してきたことは、副作用として、「いいや、実際には女性の方が男性を搾取しているのであり、男性の方が犠牲者なのだ」という主張を一部の男性に行わせることになった。

 二つの性別は対立しているという考え方をいちど採用してしまうと、「自分の側の方が被害者である」というかたちでしか自分たちの利益や権利を主張することはできなくなる、ということだ。

 現在の日本のインターネットにおいては、男性の「被害者性」を主張するタイプの論客が複数存在しており、彼らはnoteなどを利用してけっこうな小銭を稼げているようである。

 

 バウマイスターの議論では、「男性」と「女性」のほかに「文化」とう第三者を加えて論じることで、男女の対立という枠組みが回避されている。

 むしろ、男性も女性も、それぞれの特徴を文化によって利用されているという点では同じであるのだ。

 ただし、その「利用のされ方」は同じではない。男性は女性よりもリスク追求的で競争的であるために、危険ではあるが給与の高い仕事を選びやすい。政治家になろうとする人には女性よりも男性の方が多いのも同様の理由に基づく。権力をめぐる競争は、勝ち残りさえすれば多くの利益が得られるが、負けてしまうと何も得られない。リスク回避的な人々は、そのようなリスキーな世界には飛び込みたがらない、ということだ。

 そして、政治システムや資本主義市場などの文化は、男性のリスク追求志向を利用することで発展してきた。

 

 だが、男性の方がリスク追求的な傾向があるということは、「勝者」と同時にそれ以上の数の「敗者」も生み出されている、ということでもある。

 

 フェミニズムとは、「女性の目」から世界を見つめなおす考え方でもある。

 そして、ビジネスや政治の世界でトップに立っている男性たちのことは女性の目に映るかもしれないが、労働災害や戦争で死んだり警察に捕まって投獄されたりしている男性のことは、彼女たちの眼には映らない*1。つまり、「下」には目を向けないで、「上」ばかりを見上げているということだ。そのために、「女性の目」だけで世界を見ていれば、「家父長制」は実在するように感じられてしまうのである。

 この問題は、たとえばジョナサン・ハイトが感情的な被害者意識の問題として指摘していたり、ジョセフ・ヒースが「じぶん学」の問題と指摘していたりすることと、同様のものであるだろう。

 結局のところ、「当事者」としての意識や立場というものは、問題について冷静で客観的に考えて事実についての理解を得られることに寄与するとは限らない(むしろ、逆効果を与えることの方が多い)。

 バウマイスターは、社会科学において「抑圧」や「偏見」といった事柄に関する主張がなされるときには、他の事柄に関する主張でなされているような「他の仮説を検証する」という過程が省かれがちであることも指摘している。

 ついでに書いておくと、最近になって流行しているらしい「分析フェミニズム哲学」も、「女性の目」という主観性を哲学の世界に持ち込んでいるということに、ほかのフェミニズム理論と同じような問題があるように思われる*2

 そして、「女性の目」には男性の有利性や男性が握っている権力しか映らないために、男性が自分たちの苦難や不利益を訴えても、耳が傾けられない。

 だからこそ、フェミニズムに対する反動として、「男性の権利」論や「弱者男性論」が発達することになったわけである。

 

 だが、実際のところ、異性に対して対立的な態度をとろうとする人はごく一部に過ぎない。大半の男性は女性のことを理解したり女性と適切な関係を築いたりすればどうすればいいかということを気にかけているものであるし、男性の苦難や不利益に共感を示す女性だって多くいるのだ。

 このブログではフェミニズムに対して批判的な記事をよく書いているが、「弱者男性論」に対して批判的な記事もいくつか書いてきた*3。特に日本のインターネットにおける「弱者男性論」をわたしが嫌っている主たる理由は、それが大半のフェミニズム理論以上に針小棒大的であったり事実に基づいていなかったりしていて、さらには弱者男性論者たちはそのことに自分で気が付いておきながら小銭稼ぎのために男女間の対立を煽る記事を量産し続けているフシがある、ということだ。このような行為は道徳的に不当であるだけでなく、そこでなされている議論はつまらなくて知的好奇心をそそらない。おもしろい議論やためになる議論というものには、事実を志向することや書き手自身が誠実であろうとすることが必要とされるものなのだ。

 バウマイスターのように進化心理学の視点からフェミニズムジェンダー論を捉えなおしたり批判したりするアカデミックな論客は他にも多く存在するが、たとえば「男性女性と同様に不利益を被っている」という主張をする人や「男性は女性とは別のかたちで不利益を被っている」と主張する人は多くいても、「男性の方が女性と同様に不利益を被っている」とまで主張する人はほとんどいないようだ。まじめに考えれば、そういう結論にたどり着くということだろう。

 

*1:バウマイスターは、同じ罪状でも男性の方が有罪になりやすかったり刑が重くなりやすかったりしやすい、ということを指摘している。

*2:

gendai.ismedia.jp

「分析フェミニズム哲学」のなかでも有名なケイト・マンの議論を紹介している記事。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

「人生の意味」の進化心理学

 

 

 

 

 ダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』の白眉は、やはり、第七章の「マズローと新しいピラミッド」だろう。

 この本について紹介している他のブログの記事やTogetterまとめでも、この章がメインとして扱われている*1

 画像もいろいろとネットに転がっているので、貼り付けてしまおう。上が「マズローのピラミッド」で、下が「ケンリックのピラミッド」だ。

 

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 なお、「ケンリックのピラミッド」は「生活史理論」によって補強されるものである、ということには言及しておくべきだろう。

 生活史理論は、「どんな動物の生涯も二つないし三つの段階に分けられ、それぞれで投資におけるトレードオフが異なる」 (p.237)という発想に基づく。人間の場合は「身体的努力」期、「繁殖努力」期、「子育て努力」期に分けられる。そして、ピラミッドのうちのどの動機がどれだけ強力になるかは、自分がいまどんなライフステージに立っているかということによっても変わってくるのだ。

 

 ケンリックによるマズローに対する批判のなかでも興味深いのが、以下のようなものである。

 

これから数章にわたって論じることになるが、交配という同期は、人間の性質に見られる多くのポジティブな要素ーー音楽や詩をつくったり、慈善活動に参加したり、次の世代のために世界をよくすることーーの背後にある究極の原動力だ。発達心理学者たちは、人間は年をとるにつれて他人の幸福に関心を移すようになると指摘している。してみれば、個人的な喜びの追求としばしば同義になるマズロー自己実現という概念は、もっと高いところにある動機、すなわち、他人の面倒を見ることへの過程にある、自己中心的な段階にすぎないと言えるだろう。

こうして新しく建てなおされた動機のピラミッドは、どん底にある泥だらけのレンガと、星に近い上部のきれいなレンガが、構造的につながっていることを明らかにしてくれる。それによって私たちは、セックスと自己実現という、まったく違うトピックのあいだに強力な関係性を見いだせるのだ。そのピラミッドはまた、人生がもつ高邁な意味を示唆し、目先の欲望から社会における相互関係の重視という高みへと私たちを導くものでもある。

(p.160 -161)

 

環境を軽視するというマズローの傾向は、人間主義運動に見られたある偏見に関係している(ちなみに、その運動にはマズローの著作も大いに影響を与えた)。人間主義を標榜する心理学者たちは、時として、どう見てもひとりよがりとしか思えないほど個人的な現象を重視するーー世界の見え方がお気に召さないなら、考え方を変えればいい。つまり、何事も自分次第というわけだ。自身の心を見つめ、独自の考えにふけり、自分の好きなことをするのは、ある基準においてはけっこうなことだ。だが突き詰めて言えば、人間はそのようにできてはいない。私たちはそこまで自己中心的じゃないのだ。また、周囲の人々と一線を画していると思っている場合でも、それは別に高次の存在になっているのではない。大人になっても他者の要求に気を配れない人は、実は自己実現ができているのではなく、病的な状態であるだけかもしれないのだ。

(p.163)

 

 ここでケンリックが直接の批判としているのは、マズローと、それに影響された自己啓発の理論であるだろう。

 また、配偶者や子ども、社会的地位・社会的承認が人間の幸福にとって重要であるとするケンリックの主張は、ポジティブ心理学における諸々の研究にも連なるところがある。ケンリックの主張はセックスや配偶者の獲得と維持に関する欲求が人間の行動や思考に与える影響をやや強く捉え過ぎている感があり、その点ではなんでもかんでもを性淘汰で説明しようとしてしまうジェフリー・ミラーを思わせるところがあるが、ミラーに比べるとケンリックの方がまだバランスが取れてはいる。

 さらに、ケンリックはマズローのピラミッドのことを「保存に値するもの」と評価しており、それを打ち壊すのではなくあくまで「改築」をしている、という点は重要だ。低次なものにせよ高次なものにせよ「欲求」は人間の幸福や生き方を左右するほどに強い影響を与えるものである、という考え方をしているという点ではケンリックもマズローも軌を一にしているのである。

 

 ポジティブ心理学とは進化心理学だけでなく古代ギリシアの徳倫理や仏教などの思想をも参照する総合的な学問でもある。

 たとえば仏教やストア派などでは欲求を断ち切ったりすることや欲求が人生に影響を与えないようにコントロールしたりすることが重視される。欲求とはせいぜいが生物学的なインセンティブ・システムを維持するための「必要悪」であり、それに振り回されずにエウダイモニアを追求して良き人生を過ごすことが、幸福の秘訣であるとされるのだ。

 一方で、ケンリックのようなタイプの進化心理学者にかかると、人間の行うほとんどすべての行動や思考までもが「欲求」に還元して説明されてしまう。そのために、原理的に、人生において欲求をコントロールすることは不可能になるはずだ。「食欲や性欲などの低次の欲求をコントロールしようとすることは、高次の欲求を達成しようとしているための手段に過ぎないのであるから、欲求に動かされているという点では変わりはない」という風に説明できてしまうからである。

 特にストア派の哲学では、「地位」や「他人」に対する欲求や執着を捨てて自己の心の平穏を保つことに専念するべきであると説かれて、その方法も伝授される。つまり、ストア派の哲学はマズローと同じく「自己実現」をゴールとしているが、マズローのピラミッドの中間にある「愛と所属」はむしろ遠ざけるべきものだとしているのだ。もちろん、ケンリックのピラミッドとストア派の理想も一致しない。一方で、たとえば中庸や諸価値のバランス取りを重視するアリストテレス的なエウダイモニアの発想なら、ケンリックのピラミッドとも相反しないかもしれない。

 

 下記の「深い合理性」に関するケンリックの議論には、一定の説得力を感じられる一方で、「理屈と軟膏はどこへでもつく」という感じもある。

 どうにも、「合理性」という概念には、広くなったり深くなったりするほどに空虚で無意味な概念へと近付いていく、という特徴があるように思われる。

 

深い合理性という観点から見ると、意思決定にはたしかに心理的バイアスが反映されてはいても、そうしたバイアスは決して気まぐれなものでも、不合理なものでもない。それどころか、その心理的バイアスとは、目先の個人的な満足ではなく、遺伝子の長期的な成功を最大化させることを目指す、心的および情緒的メカニズムの産物であるのだ。また、私たちの考えの中心にはモジュール性の概念が据えられている。つまりこの理論では、単一の合理的な意思決定者が効用の最大化というルールに基づいて機能しているわけではなく、私たちの頭の中には問題を経済的に取り扱う多くの下位自己があると仮定しているのだ。各々の下位自己は、人生において出会う代表的な脅威や好機に対応するべく、様々なコストや利益に注意を払い、それらに対しそれぞれ違う価値づけをしている。

(p. 233 -234)

 

 ところで、「ケンリックのピラミッド」と並ぶこの本の見所は、「人生の意味」という問題について進化心理学の観点から取り組んでいるところだろう。

  本書の「はじめに」では、以下のように問題が提起されている。

 

実のところ本書は、私たちが抱く一番大きな問題、つまり人生の意味とは何かという疑問について論じたものだ。この疑問を言い換えると、人生や宇宙や世の中のあらゆるものがどんなふうに関連しあっているのかという話になることもある。この大問題については、進化、認知、複雑性に関する現代の科学的な洞察をいくつか組み合わせることで、実際に答えが出はじめているようだ。でも、それだけでは不十分かもしれない。というのも多くの場合に私たちが知りたいのは、「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」ということだからだ。これまた先に劣らず重要な問題で、だからこそ実に多くの人たちが自己啓発本を読んだり、宗教団体に参加したり、瞑想の仕方を習ったり、精神分析に通ったりするんだろう。

(p.10)

 

「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」という問題に関する回答は、本書の「おわりに」にて提示されている。それは、シンプルではあるがやや曖昧なものでもある。

 ケンリックは、この問いにどう答えるべきかと悩みながら息子の世話を焼いている最中に、「たとえ自分の人生に何が起ころうとも、子供たちの要求は常にほかのどんな要求にも優先するのだ」(p.283)ということに気が付くのだ。

 

快楽を求めて行ったその他多くの行為と違って、息子たちのために費やした時間について、私はこれっぽっちも後悔したり失望したことはない。息子たちの要求に応えることが幸せな陶酔感をもたらしたわけではないが、本当に満たされた気持ちに間違いなくしてくれる人生で唯一のことではあった。進化や行動に関する知見から考えれば、別に驚く必要はない。結局、人間は我を忘れるような喜びを朝から晩まで求めるようにではなく、他の人間を支える網の目に組み込まれるようにできているのだ。実際、進化生物学には血族選択と互恵的利他行動という二つの根本原理がある(前者はなぜ私たちが家族の面倒を見たがるかを説明したもので、後者はなぜ人が友人や同僚のために苦労したがるかを解明したもの)。それ以外にも性淘汰と親の差別的投資という重要な原理があり、通常は誇示行動とセックスに関係すると考えられているが、それらでさえ人間の男女双方にとって、親になる資格を獲得するプロセスと密接に結びついている。

私はなにも、みんなどんどん繁殖すべきだとか、人口過剰問題なんか無視すればいいとか、フェイスブックでさっさと「友達」を五〇〇人つくれと言っているわけではない。むしろ私が言いたいのは、すでに仲良くなった仲間たちの世話をやくという自然な喜びを楽しみなさいということだ。家族や友人と過ごす時間は、人生の中心的業務から気をそらしてしまうものと考えることもできる。でももっとゆったりと構えて、あなたの脳が持つ社会的メカニズムに、そのような体験を満喫させる機会だと考えることだってできるのだ。

(p.283 - 284)

 

 要するに、「ケンリックのピラミッド」の頂上部に近い動機や欲求を満たせば満たすほど、人生の意味は感じられやすくなる、ということである。

 なお、「人生の意味」とはややずれるかもしれないが、ポジティブん心理学の本を開いてみると、子どもがいることが「幸福」につながるかどうかは五分五分である、といった調査結果が示されていることが多い(その一方で、配偶者がいることはかなり多くの場合に幸福につながる、とされている)。

 とはいえ、物事について「浅い合理性」で考えてしまうと、「子どもを作ろうとしても、その子が不幸に育ったり親に逆らったりいじめの加害者や被害者になったり身体障害を負って生まれてきたり精神障害になったりするかもしれない」などなどのリスクばかりに注目してしまうことになりがちだ。また、「浅い合理性」に基づいた思考では短期的で即物的な快楽ばかりを重視してしまうがために長期的で持続的な生き甲斐というものについて考えることができないので、「独り身だと時間があって責任はなくて好きなことができて充分楽しいのに、なんでわざわざ結婚をしたり子どもをつくったりして自分の自由や快楽を制限しなくてはならないのか?」という風に考えてしまいがちである。

 ……しかし、ケンリックの議論はシンプルながらも説得力があり、結婚したり子どもを持ったりすることの意義を現時点で理解できない人に対する、程よい啓発や警告になっているように思える。実際、わたしが『野蛮な進化心理学』をはじめて読んだときには、「いまのままのキャリアじゃ家庭を持てるという見込みはないし、現時点だとそれで問題ないように感じられているけど、のちのちに後悔してしまう可能性があるな」という危機感を抱くことができたものだ。

 さらに、たとえば反出生主義が理論としては筋が通っても多くの人から説得力を感じられず実践もされない理由の一部も、「ケンリックのピラミッド」によって説明することができるかもしれない。

 

 さて、哲学的には、「人生の意味」に対するケンリックの回答は不充分なものである。その回答は、あくまで「意義深い人生を送れている、と自分が感じられるようなるためにはどうすればいいか?」という問いにしか答えられておらず、「自分が意義深い人生を送るためにはどうすればいいか?」という問いそのものには答えられていないからだ。

 とはいえ、人生の意味という問いに対して本気で回答しようとするなら、「意味」とはなにかということについての厄介で錯綜した哲学的議論に向き合わなければならない。そこまでくると、そもそも進化心理学者には役者不足な問題となって、哲学者の出番ということになるだろう。

 ……といいつも、たとえば『幸福と人生の意味の哲学』『若者のための〈死〉の倫理学 』など、「人生の意味」について哲学的な観点から本気で取り組もうとした議論を読んでみたところで、問題意識を深刻にし過ぎたために逆に「深さ」や「感動」を安直に求めた議論になっている感が強く、すくなくともわたしは白けてしまい参考にもならなかった。

 ジョシュア・グリーンは『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』のなかで功利主義を擁護しながらも、道徳に関する普遍的な真理が存在するという主張を展開することは避けて、あくまで「実用主義」の観点から功利主義の利点を強調していた*2。同様に、「人生の意味」という問題に関しても、哲学的な真理を求めようとしたがために袋小路に入った不毛な議論を行うよりかは、実用主義的に考えた方がよさそうだ。

 

 ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説:古代の知恵と現代科学の知恵』では、 ケンリックやマズローと同じく、「人生の意味」についての心理学的な観点からの回答が試みられている。

 ハイトはケンリックに比べて哲学的な議論についての造詣も深いだけに、問題の設定や定義に関して慎重で丁寧だ。

 また、ハイトの議論はケンリックの議論に比べて幅広い要素に目配りされたものであり、結論もやや複雑なものとなっているが、そのぶん説得力が増したものとなっている*3

 

 

青年期における実存主義において、私はその二つの二次的質問をごちゃまぜにしていた。人生目的という問いに対して科学的な答えを採用したことで、人生における目的を見つけることは除外されたと考えた。多くの宗教がその二つの問いは分離できないものであると説いているため、犯しやすい誤りであった。もし、神が「神の」計画の一部としてあなたを創造したと信じるなら、自分の役割を適切に全うするためにいかに生きるべきかを見つけ出すことができるだろう。『人生を導く5つの目的』は、人生目的という問いに対する神学的な答えの中から、いかに人生における目的を見つけるかを読者に教えてくれる40日のコースである。

しかしながら、それら二つの問いは分割できる。一つ目は人生についての外側からの問いである。人、地球、星などを、「なぜそれらは存在しているのか」という問いの対象と見なし、神学者、物理学者、生物学者によって適切に探求される。二つ目の問いは、人生についての内側からの問いである。主体としての「いかにして意味や目的の感覚を見出すことができるのか?」という問いであり、神学者、哲学者、心理学者によって適切に探求される。二つ目の問いは実に経験的、つまり科学的な手段によって研究されうる事実としての問いである。だがなぜ活力、献身、意味に満ちた人生を送る人がいる一方、人生が空虚で定まらないものであると感じる人がいるのだろうか?この章の残りの部分では、人生目的は無視して、人生における目的の感覚を生じさせる要因を探し求めていく。

(p. 314 -315)

 

豊かで、幸せで、満たされていて、そして意味のある人生を送るために、何ができるのだろうか?人生における目的という問いに対する答えは何だろう?私たちがこうして分割されているように、多種多様に分割された私たちという生物種について理解することによってのみ、その答えは見出すことができるのではなかろうか。私たちは、個人淘汰によって、資源や快楽や名声のために闘う利己的な生物へと形成された。また群淘汰によって、より大きな何かに自己を犠牲にすることを望む群生物として形成された。私たちは、愛や愛着を必要とする社会的な生物であり、仕事でバイタル・エンゲージメント状態に入ることが可能な効力感を必要とする産業的な生物である。私たちは、象使いであると同時に象でもあり、精神的健康はその二者が一緒に機能して、互いに他方の強みを活用することに依存している。私は、「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。しかし古代の知恵と現代科学を利用して、人生における目的という問いに対する説得力のある答えを見出すことはできる。幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えた上で、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物が成長するために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。あなたと他者、あなたと仕事、そしてあなたとそれよりも大きな何かとのあいだに正しい関係性を築くように努力することには価値がある。もしこれらの正しい関係を得られれば、人生の目的と意味の感覚はおのずと湧いてくるだろう。

(p. 341  - 342)

 

 これまでにわたしが読んできた、「人生の意味」という問題に関して書かれた文章のなかでは、ハイトが『しあわせ仮説』で行なった上記の議論が、もっとも優れたものであるように思われる。

"「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。"と言い切ってしまっている点にも、深く同意できるところだ。

 

*1:

goldhead.hatenablog.com

togetter.com

*2:

s-scrap.com

*3:群淘汰を肯定していることには賛否両論があるだろうが。

有徳に生きることと、幸福に生きることの関係

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

 ジュリア・アナスの『徳は知なり:幸福に生きるための倫理学』については過去にも紹介記事を書いているが、今回は、徳と幸福について論じられている八章と九章の議論を集中的に紹介しよう。

 

 この本の八章では、古代ギリシャにおける「幸福(エウダイモニア)」の概念について説明が行われている。

 アナスによると、エウダイモニックな幸福に関する思考とは、人生についての「日常的な視点」と「組織的な視点」を包括することから始まる。

 普段のわたしたちは、自分がする行為の意味を「朝に起きるのは、仕事に行くためだ」といったように、直線的な時系列で単純に考える。しかし、「そもそも、なぜわたしは仕事をしているのだろう?」と深く考えるときもある。その問いは、「仕事をしている理由はよいキャリアを得たいからだ、よいキャリアを得たい理由は自分と家族に上流層の暮らしを味あわせたいからだ、その理由は……」という風に続くことが多いだろう。このとき、人生における目標は入れ子状になっていることに気が付く。そして、日常における諸々の行為は、人生における目標を達成するためのものとして統一的に捉えられることが可能になるのである。

 また、人生における目標について深く内省すると、自分が抱えているいくつかの大目標が相互に矛盾することに気が付くかもしれない(「キャリアの階段を駆け上がりたい」という目標と「愛する家族との生活を大切にしたい」という目標など)。また、言語化するのも難しい曖昧な目標を抱いていることに気が付くこともある。その場合には、様々な目標を統一的ではっきりとしたものにするために、目標を調整したり再編成を行ったりすることになるだろう。

 

こうして、あることを別のことのために行うということについての日常的な思考は、私の人生全体を組織立てて考えることに切れ目なくつながっている。これは私の人生についての包括的な思考である。私は達成しようとしているさまざまな目標をもっており、私がすでに歩んでいるこの一つの人生のなかでそれらの目標を達成するためには、それらを組織立てて統一性をもたせなければならないということが、私にはわかってくる。また、それは活動につながる思考である。私が自分の目標をどのように組織立てるのかは、私の生き方と行為の仕方を形作る。この思考は、それらを単に記録するものではない。行為を直線的に考えるときには、私は自分の生き方を観察することができるにすぎない。しかし、行為を組織立てて考えるときには、私はある課題に、すなわち私がそこに向かって努力しているもろもろの目標を組織立て、私の人生全体を形作るという課題に直面することになるのである。

私の人生が全体として目指しているもの、これこそが古代の倫理学理論のなかで「テロス」すなわち「人生の全体目標」と呼ばれるものにほかならない。

(p.206)

 

 そして、「なんのために〜をするのか」という問いは、繰り返していくうちにやがて「人生の目標とは、幸福(エウダイモニア)である」という終点にたどり着くはずだ。「幸福になるために〜する」という考えは成立する一方で、「〜するために幸福になる」という考えは成立しないからだ。

 ただし、その目標は外側から「幸福とはこのようなものであり、だからあなたはこのようにしてそれを追求するべきである」と定められるものではなく、それぞれの人が自分の人生をふまえて自分なりに形作っていくものである。

 

エウダイモニア主義者の考えでは、心のなかではっきりとそう思っていようがいまいが、私たちは幸福を求めている。なぜなら、私たちは、自分のただ一つの人生を歩むなかで、自分の数々の目標をどのように調整すればよいのかについて、誰でもそれとなく考えているからである。幸福は、それぞれの人にとって、あなたの幸福として、よく生きることをあなたがどのように達成するかの問題として位置づけられる。それは、外から押しつけられる何らかの計画ではなく、自分の人生についてのあなた自身の考えから生まれる要求とは別に、何らかの理論によって課される要求でもない。それと同時に、幸福は単に、あなたがそうあってほしいと思っているものでもない。幸福の追求の仕方には優劣がある。というのも、人生の数々の目標や目的をどのように組織立てるか、またそれらを全体的に達成する人生をどのようにして歩もうとするのかについては、うまいやり方もあれば下手なやり方もあるということは明らかだからである。

(p.211)

 

 ただし、エウダイモニア主義者のいう「幸福」とは、単なる快楽や快感ではないし、心理学や社会科学の研究で数値化されるような類いのものではない。また、幸福は、生まれ持った性質はいま自分が生きている状況や環境に左右される類いのものではない。エウダイモニックな幸福とは、人生に対して向き合い問題に対処していくうえでの「態度」や「生き方」のうちに存在するものであるようだ。

 

……エウダイモニア主義者の考えでは、幸福は、あなたが自分の人生をどのように歩むのか、あなたの人生に含まれる素材をあなたがどのように扱うのかの問題である。幸福は、あなたが何をもっているかの問題ではなく、美しいか、健康であるか、力があるか、裕福であるかの問題でもない。幸福な人生は、単にこうしたものをもっている人生ではないのである。実際、いま挙げたものをすべてもっていながら、少しも幸福に生きていない人もたくさんいる。幸福な人生とは、もしあなたがそれらのものをもっているなら、それらのものをうまく扱いながら生きる人生であり、もし病気や貧困や地位の喪失が降りかかるとするなら、それらにうまく対処しながら生きる人生なのである。

(p.216 - 217)

 

幸福は活動にかかわるものである。つまり、幸福は、何を行うにしてもそれをどのように行うかの問題であり、 自分の人生について深く考え始めるときに、置かれている環境がどのようなものであっても、とにかくその環境のもとでどのように生きるかの問題なのであある。私が倫理的内省を始めるときに、私の人生には、手を加えるための素材とみなさなければならないものが数多くある。倫理面から見てこのとき最初の一歩となるのは、自分の置かれた状況から注意をそらすことではなく、ましてやそれを無視することでもなく、その状況の本質は何かを理解し、できるかぎり自分のことを知り、それからこのような環境のもとでもっともよく生きるにはどうすればよいかを考えることである。

(p. 218 -219)

 

 この後には、エウダイモニア的な幸福論の最大のライバルであるヘドニスティックな幸福論として、快楽・欲求充足・生活満足度のそれぞれを幸福と同一視する各議論が提出されて、反論される。「エウダイモニア主義者の考える幸福は、快楽を排除しないが、幸福は快楽そのものでありうるという見解は退ける」(p.240)のだ。

 

 第九章の「徳と幸福」では、エウダイモニックな幸福概念が徳と結び付いている理由が論じられる。

 幸福をヘドニスティックに捉えてしまうと、「徳と幸福は結びついている」という考え方は欺瞞的なものになってしまうだろう。人を騙したり既得権益にしがみ付いたり社会問題や身近な人の苦難から目を背けたり卑怯に立ち回ったりなどなど、不道徳な生き方をする人であっても、快楽や快感を得ながら生きることはできるからだ(というより、不道徳な人の方がより多くの快楽を得ながら生きている、という事例は多いだろう)。

 その一方で、徳と幸福は結びついている、という考え方には常識的で理にかなった部分もある。

 

私たちは、自分の子どもが狡猾な人や臆病な人ではなく、正直な人や勇敢な人に成長してほしいと思い、子どもを育てるときに、(できるかぎり)このような徳を身につけさせようとする。そうするのは、単に自分のために、つまり親が自分の利益を追求するときに、子どもを当てにすることができるようにするためではなく、子ども自身のために、つまり狡猾な人や臆病な人であるよりも、正直な人や勇敢な人である方が、よりよい人生を歩むにちがいないと考えるからなのである。

それゆえ、幸福な人生について考えているときに、私たちが自分自身にも子どもにも徳を身につけさせたいと思うのは、常識以外の何ものでもない。これは、幸福に生きることにとって徳が必要条件であることも、十分条件であることも示していない。むしろそれは、有徳に生きることは幸福に生きることを少なくとも部分的に作り上げるという予想が、控えめに言っても理にかなっていると私たちが考えていることを示している。

(p.244)

 

 ヘドニスティックな幸福概念の提唱者たちが幸福と徳の結びつきを見失ってしまうのは、彼らが、快楽や快感という静的で受動的なものとしてしか幸福を捉えられないからである。「徳はそれ自体として、動きをともなうことと前向きであることを本質とする」(p.248)。ヘドニスティックな幸福は自分の人生を取り巻く「環境」という偶然の要素に左右されてしまうことになるが、エウダイモニックな幸福は動的で実践的なものであり、環境への対処や向き合い方のなかに存在する。

 そして、徳は、環境に向き合って自分の人生を切り開くためのエネルギーを与えるものであるのだ。「幸福に生きるためには、幸福それ自体にそなわる活動力と内的な駆動力と同じくらいの力をもった何かを私たちは必要とするのであり、徳はそれを私たちに与えるのである」(p.253)。

 

 また、アナスによると、徳は「技能」である。そして、徳は訓練や経験や熟慮を経て、ひとりの人生のうちで「発達」させていく概念だ。

 そして、正直さにせよ勇敢さにせよ、徳を発達させていく過程においては、人生に置いてなにが大切であるかという「価値付け」を行わなければいけないタイミングが生じる。

 たとえば、勇敢さという徳が発揮されるときには、「安寧で快適に過ごすこと」を犠牲にしなければいけない場合がある。適切に勇敢であるためには、「安寧や快適を犠牲にしてでも守らなければならない価値とはどのようなものであり、人生について勇敢さが求められる場面とはどのようなものか」ということについての理解を深めなければならない。

 つまり、徳の発達が深まれば深まるほど、自分の人生において価値のある事柄に対する自分の理解も深まっていく。そして、自分にとって幸福とはどのようなものであるか、ということへの見解も明確になっていくのだ。

 

この点は、個々の徳ではなく、徳全体について考えるならば、さらにはっきりする。性格の全体が発達するとき、それが全体的に統一性のあるかたちに向かって発達するかぎりは、幸福感も同じように統一性をもつようになる。性格が発達し、衝突する諸価値に関連するもろもろの徳を相互に結びつけるようになれば、そのような衝突する諸価値に対する肩入れは弱まる。理想的な発達を遂げた場合には、自分の人生のなかで価値のあるもの、追い求めるに値するものに関する統一的な見方が、すなわち自分の幸福に関する明確な考えーーそれは性格の統一的な発達を促進するものであると同時に、その発達によって深まるものでもある ーーが生まれる。

(p.270)

 

以上のすべてのポイントは、幸福な人生を魅力的に描き出している。本書の説明に従えば、幸福な人生は、私たちがそれを実現するために奮闘し、実現したあとはそこでくつろぐような、ある種の楽しい状態ではない。それではまるで、引退し、そこにたどり着くために自分がしてきた仕事を忘れることを目的として、好みに合わない仕事に日々取り組んでいるようなものである。むしろ幸福は、つまり幸福に生きることは、常に進行中の活動にほかならない。それは進行中のプロジェクトである。それゆえ、本書の説明は、いい気持ちを感じていることや、欲しいものを手に入れることや、満足していることという観点からの説明とはまったく異なる。それは、受動的な経験ではなく、活動と従事を強調する幸福の説明である。

(p.275)

 

 このブログでは、ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』をはじめとしてポジティブ心理学の考え方について何度か紹介してきたが、ポジティブ心理学者たちの大半は、古代ギリシアの哲学者の徳倫理を参考にしながら、ヘドニスティックな幸福感を否定してエウダイモニックな幸福感を唱えているものである。そして、アナスの『徳は知なり』では、ハイトやマーティン・セリグマン、ミハイ・チクセントミハイなどのポジティブ心理学者たちの著作が参考文献に挙げられている。哲学に関する研究と心理学に関する研究が、それぞれに影響を与えているということなのだ。

 

 実際、セリグマンによる「幸福の方程式」は、アナスによる「エウダイモニア」の説明に通底するところがある。

 

H(幸福)=S(生物学的な設定点)+C(生活条件)+V(自発的活動)

 

 セリグマンの本が手元にないので『しあわせ仮説』におけるハイトの説明を参照しれみると、「いくら自発的活動を行っても、幸福はどうしても生活条件に左右される面がある」ということが指摘されている。

 たとえば、「騒音」「長い通勤時間」「コントロールの欠如」「外見の悪さや体型の欠点から生じる恥ずかしさ」「良好でない人間関係」などは、ほぼすべての人にとって、幸福に生きることに対して大なり小なり支障を生じさせるものだ。

 

幸福の方程式におけるCは現実であり、外界には重要なものもある。世の中には努力して手に入れる価値があるものがあり、ポジティブ心理学は、それが何であるかを見つけるための手助けとなるだろう。もちろん仏陀は、騒音や交通量、コントロールの欠如、体型的な欠点に対して完全に適応できたであろうが、生身の人にとって、仏陀のようになることは、古代インドにおいてさえ常に困難なことであった。

(p.143)

 

 ……とはいえ、チクセントミハイが論じたような「フロー体験」を自発的活動から得ることの重要性をハイトとアナスの両方が強調している、という点は示唆的だ。

 また、ハイトによると、「バイタル・エンゲージメント」にはフロー体験と「自分の人生の意味づけに合致していること」との両方が必要とされる。これも、「人生における統一的な見解と目標」を強調する、アナスによるエウダイモニアの説明と一致している。喜びや没頭などの体験的な側面だけでなく、理性的で認知的な側面も、「自分は幸福な人生を過ごしている」と思えるようになるためには欠かせない、ということなのだ。

 

 さらに、ポジティブ心理学では、個人の特徴や性格や適性から成り立つ「強み」も重要視される。すべての人に向いている仕事や生き方というものはなく、万人が幸福に至る道は存在しないということを理解したうえで、自分の強みを発揮して生き生きと活躍できるような仕事や生き方を探して実践することが大切である、と強調されるのである。

 これもまた、アナスによる「徳」の説明と一致するものだ。徳倫理はしばしばエリート主義的になりがちであり、また勇敢さや正直さなどの全ての徳を身に付けた「ザ・有徳者」の存在を想定してしまいがちである。

 だが、アナスによると、徳とはどこかで「完成」に至ったり「正解」があったりするものではない。そうではなく、人それぞれに修練を積んだり熟慮したりしながら、常に実践することで当人のうちで発達していく、動的で終わりのない事柄が「徳」であるのだ。

 そして、全ての人が全ての徳を身に付けることも想定されておらず、自分が過ごしてきた人生のかたちや自分の生まれ持った性格などをふまえながら自分に向いた徳を発達させることが重要だ、という主張もアナスの議論には含意されているようである。彼女は徳の習得をピアノやテニスのような「技能」の習得に類推させて論じているが、ピアノが下手くそでもテニスなら一流の人がいてその逆もいる、ということだ。