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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

動物倫理とポストモダン思想

倫理学 動物倫理

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 ゲイリー・シュタイナーの主張は以前にも本人が書いた短い記事を訳して紹介したが、何しろ短かい記事だったのでシュタイナーの主張がわかりづらかったかもしれない。今回は、シュタイナーが著書『動物と、ポストモダニズムの限界』で行っている主張の要点を私なりに短くまとめて紹介しよう。

 シュタイナーはポストモダニズム思想が動物倫理の問題について行っている主張を手厳しく批判している人である。『動物と、ポストモダニズムの限界』で特に批判の対象となっているのはジャック・デリダデリダに影響された思想家たちだ。…で、私はデリダの本をはじめとしてシュタイナーの批判対象となっている思想家たちの本はほとんど読んだことがない。なので、シュタイナーの批判がアンフェアなものであるとしても私には判断できないし、シュタイナーの主張をまとめている(かつ、私の主張も結構入っている)この記事もアンフェアなものである可能性はかなり高いだろう。ただ、デリダの思想に影響されたらしい人々が動物倫理に関して行ってきた主張を学会などで多少なりとも見聞してきたという経験に鑑みて判断すると、シュタイナーの批判は概ね的を得ていると思う*1

 

 このブログでも何度も書いてきたことだが、「動物は道徳的配慮の対象となる」「動物は道徳的地位を持つ」という考え方は英語圏の倫理学においてはいまやスタンダードとなっている考え方だ。動物は"どの程度の"道徳的配慮の対象となるか、動物は"どのような"道徳的地位を持つかという論点については論者によってまちまちだが、"なぜ"動物は道徳的配慮の対象となったり道徳的地位を持ったりするかという理由については大体の論者の意見が共通していると思われる。その理由とは、「動物は苦痛を感じる」ということや「動物は"生き続けたい"という欲求を持っている」ということにある。正当な理由もなく他の人間に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている人の命を奪うことは非倫理的である、ということはほとんどの人が同意するだろう。また、例えば相手の性別や人種が自分と違うからという理由で相手に苦痛を与えたり相手の命を奪うことを正当化する主張は、性差別や人種差別として非難の対象になるだろう。それと同じことは、動物に対しても当てはまる。つまり、理由もなく動物に苦痛を与えたり"生き続けたい"と思っている動物の命を奪うことは非倫理的であるし、動物は人間とは生物種が違うからという理由でそのことを正当化するのは「種差別(speciesism)」として非難の対象になるべきなのだ。

「問題となるのはのは、彼ら(動物たち)に理性はあるか?ではなく、彼らは喋れるか?ということでもなく、彼らは苦しむことができるか?」と言ったのは功利主義の父とも呼ばれるジェレミー・ベンサムであるし、現代において動物倫理を主張している人として最も有名なのはベンサムと同じく功利主義者であるピーター・シンガーだろう。しかし、誤解されがちなのだが、動物が苦痛を感じるということに注目して問題視するのはなにも功利主義だけではない。カント主義的な「動物の権利」を主張して功利主義に対抗するトム・リーガンにせよ、同じく功利主義に批判的でケイパビリティ・アプローチを主張するマーサ・ヌスバウムにせよ誰にせよ、少なくとも英語圏の倫理学者たちの大半は理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的であるとするだろう。…それも当たり前の話で、「自分がしてもらいたくないと思うことは、他人にもするな」という「黄金律」はほとんどの道徳思想に反映されているものであり、理由もなく他人に苦痛を与えることを許容する道徳思想はほぼ存在しないはずだ。相手が人間ではなく動物になった途端に功利主義以外の倫理学理論は理由もなく苦痛を与えることを問題視しなくなる、という(なぜか一般に流布している)発想の方が奇妙なのである。

 

 それで本題のポストモダン思想なのだが、ポストモダン思想は上述したような動物倫理の考え方を否定するようだ。「動物は人間と同じように苦痛を感じるのであり、理由もなく他人に苦痛を与えることは非倫理的であるから、理由もなく動物に苦痛を与えることも非倫理的である」という発想は「動物は人間と共通している部分から道徳的配慮の対象になる」と言っているようなものであり、つまり「人間と共通していないものは道徳的配慮の対象にならない」と言っているようなものであり結局は人間中心主義的な発想を脱していないからダメなのだ、とポストモダン思想は主張する。そもそも道徳的配慮の対象になる要件としてなんらかの能力を想定すること自体が、その能力を持っていないとされる存在を道徳的配慮の対象外とするので暴力的である。例えば、「理性」という物差しは、歴史的には動物のみならず女性や有色人種への差別や排除を正当化することに使われてきた…「白人男性は理性的な存在から互いに配慮しなければならないが、女や有色人種共には白人男性のような理性はないのだから彼女らは配慮の対象にならない」と言ったイデオロギーである。そして、ポストモダン思想によると、「苦痛を感じる」ことを理由にして動物を道徳的配慮の対象とすることは、「理性」を物差しにした差別を再生産するのと同じようなことなのだ。「人間や動物は苦痛を感じるから道徳的配慮の対象となる」という思想は、裏を返せば、「人間や動物以外の存在は苦痛を感じないので道徳的配慮の対象としなくていい」ということになる。そして、人間と動物との共通点に注目するのではなく、苦痛を感じるという「能力(capacity)」ではなく「受動性(passivity)」に注目することや、動物が人間とは異なる独自の生を生きる「他者」であることを認めること、動物が「脆弱さ(vulnerability)」や持った存在であるということに私たちが「開かれて」いたりすることが、動物に対する真に道徳的な態度へと私たちを導くのだ。さらに、植物や水や石などの「苦痛を感じない」とされている存在も動物たちと同じく私たちにとっての他者なのであり、実は苦痛を感じていたり脆弱さを持っているという可能性も認めなければならない…といった風にポストモダン思想の主張は続く。

 だが、この種類の主張を行っている人たちは本人たち自身も自分の主張を真に受けていない、とシュタイナーは批判する。例えばデリダは苦痛を感じるということは「能力」ではなく「受動性」の問題であるとして、植物とか水とかも苦痛を感じているという"可能性"を口にはする…だが、実際にはその可能性がどれほどのものであるかということや、植物とか水とかが苦痛を感じるということは厳密には何を意味するのか等、自分の主張の詳細をはっきりさせることをしない。そもそも思い付き的に口に出すだけで植物とか水とかについての話をそれ以上深めることもしない。動物たちが人間とは「異なる生」を生きているということや動物たちが「脆弱さ」を持った存在であるという主張についても、その「異なる生」や「脆弱さ」ということが具体的にはどのようなものであるかということを少し考えていけば、動物たちがなんらかの認識能力や感覚能力を持っているという経験的・科学的な事実に行き着くはずだし、つまり人間と共通している部分が問題になっているということに気が付くはずだ…とシュタイナーは論じる。ポストモダン思想は動物倫理の主張を差別的であるといって批判するが、自分たちの行っている主張も少し掘り下げてみれば自分たちが差別的であると批判しているのと同じところに行き着くはずなのだ。

 

 また、ポストモダン思想は「権利」や「道徳的原理」や「義務」などの諸々の考えを否定する。「権利」というものはそもそも理性中心的な概念であり、権利を持たない存在に対する差別を常に伴ってきて、女性や有色人種の迫害を正当化することにつながったので暴力的なのでダメである。「道徳的原理」というものを人に押し付けることは暴力であるし、なんらかの原理に基づいて行動すれば良いというのは思考停止であるし、その原理の枠外に置かれる存在に対する差別である。「義務」についても、そもそもこの世には無限の非倫理的な事象が存在しているのであって、限られた範囲で義務を負って事足れしとしようとするのは傲慢で愚かである…などなど。そして、(多くの動物倫理学では義務として主張される)菜食主義は、植物が痛みを感じているという可能性を無視して「食べてはダメな存在」と「食べていい存在」との線引きを行っている点で悪であるし、権利という概念や道徳的原理という概念や義務という概念などなどを伴っているので暴力で悪である…というのがデリダをはじめとしたポストモダン思想家たちが主張することである。菜食主義やその他の形の動物への道徳的配慮を実践したところで動物やその他の存在に対して暴力を行う可能性は完璧には排除できないのだ、だとすれば道徳的原理だとか道徳的義務なんて考えずに好きに生きて好きなものを食べる方がむしろ誠実で道徳的で優れているのだ…といったところが彼らの言い分であるようだ。

 シュタイナーは上述したような主張は「責任逃れ(evasion)」のための議論に過ぎない、と一蹴している*2。アラスデア・コクレーンという哲学者は、「権利」という概念は理性中心主義的で差別を肯定してきた暴力的な発想だから捨てるべきだ、という発想はことわざで言うところの「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ、と批判している*3*4。「権利」という概念が過去には女性や有色人種に対する差別を正当化してきたものであっても、それまで権利を与えられてこなかった人々に権利を与えたり権利という概念の内容を見直したり調整することはできるはずだし、実際問題として権利(人権)という概念が存在していることは多くのマイノリティを救っているはずだ。権利という概念を本気で無くしてしまった場合に世の中はどうなるか、ポストモダン思想家たちが真剣に考えているとは言い難い。同じことは「道徳的原理」という概念や「義務」という概念にも当てはまるだろう。それらの概念にはこれまでに何らかの限界や問題点が存在してきたかもしれないが、だからといって一括して否定する必要はなくて、その限界や問題点を見直して調節することを行えばいいのである。何よりも問題なのは、ポストモダン思想は私たちの思考や行動の基準や指針となる様々な概念の否定はするが、代わりになるような概念を何も提供しないことだ。…ポストモダン思想が倫理や政治の問題に適応された場合には、私たちが普段倫理や政治について考える時に用いる概念(権利、義務、原理などなど…)が何もかも「暴力」や「悪」であるとして否定されてしまう。それらの概念によって導き出された行動や思想(「マイノリティの権利を尊重しよう」とか「動物に与える苦痛を減らすために菜食主義を実践しよう」)も、暴力で悪である概念を使って導き出されたものなので暴力で悪だということになる。つまり、何もかもが悪いということになってしまうので、逆説的に何をやっても良いということになってしまう。もし世界中の人々がポストモダン思想を本気で真に受けて実践するとなれば、世界はそうとう酷いことになるだろう。

 

 以前に訳した記事から、シュタイナーの文章を引用しよう。

 

…私たちは動物たちにどのような義務を負っているのかということについての明白で定言的な主張を、ポストモダンの思想家たちは行おうとしない。ポストモダンの思想家たちは、私が「気分を良くするための倫理学(feel-good ethics)」と呼んでいるものに安住しているのだ。道徳的な不正義に対する嫌悪を表現することを私たちに許しながら、それ程までに嫌悪している不正義に対抗するための具体的なことは全く要求せず、快適な領域から私たちを押し出さない倫理学…それが「気分を良くするための倫理学」だ。ポストモダニズムはレトリックとして魅力的になるほど道徳的に無力となる。

*5

 

  英語圏の倫理学…というか、まともな議論を行っている人たち同士なら普通そうなるのだが…では「動物に権利を持つ」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要がある」と主張する人たちと「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」と主張する人たちとの論争はいまでも続いており、両方の側が自分の主張の前提や結論をはっきりさせながら論じ合っている。動物倫理に関する点においてポストモダン思想が最も悪質なのは、ポストモダン思想が実質的に導き出すはずの「動物に権利はない」「私たちは動物に対して道徳的に配慮する必要はない」といった主張を明言することをしない、ということにある。

 実のところ、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」「動物の殺害はよくないことだ」といった程度の気持ちは私たちの多くが抱いているものだろう。しかし、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張には私たちの多くが反感を抱くだろうし、否定しようとするだろう。菜食主義までいかずとも、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的である」「動物の殺害は不正である」という前提が導き出すことになる様々な具体的な結論の多くに対して、私たちは反感を抱いて否定したいと思うだろう。しかし、倫理学や道徳とは、私たちの感情や気持ち…多くの場合には、利己的なエゴや欲求、あるいは文化的な偏見に影響されているもの…に反することも行うように要求するものなのだ。

 …だが、ポストモダン思想は「他者」や「脆弱さ」などの曖昧な概念を持ち出すことで、私たちがなんとなく抱いている「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」という気持ちをなんとなく肯定してくれる。ただし、その「他者」とか「脆弱さ」とかいう概念が指し示すところを考えていった結果私たちはどのように行動するべきであるのか、私たちはどのような義務を背負っているのか、ということについては深入りせずにはっきりさせない。一方で、「苦痛を基準にすることは暴力的だ」「権利とか道徳的原理といった概念は悪である」ということははっきりと主張するので、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張に対して私たちが抱いている反感…あるいは、菜食主義者たちに対して私たちが抱いている反感…も肯定してくれる。要するに、私たちは動物のために何かをしようとしないままでも善人のままでいられるし、むしろ動物のために何かをしようとする連中の方が悪人なのだと非難することもできる。ポストモダン思想がウケるのは、一見した時の斬新さとか深遠さとは裏腹に、私たちを快適な領域(comford zone)から押し出さずに安楽な気持ちのままでいさせてくれる思想だからである。

 

 

 

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

Animals and the Limits of Postmodernism (Critical Perspectives on Animals)

 

 

 

*1:デリダの動物倫理論がまとめて論じられている記事としては、これが参考になるだろうか

twishort.com

twishort.com

*2:なにしろ私もデリダに詳しくないのでアレなのだが、デリダの主張は無責任さ(irresponsibility)につながるものであるという事実をデリダ主義者たちは躍起になって否定している、とシュタイナーは主張している(P.126-127)。

*3:出展は以下のコクレーンの著書から。コクレーンが言及しているのは厳密にはポストモダン思想ではなく、フェミニズム倫理学が「権利」という概念を理性中心主義的=男性中心主義的なものであるとして否定していることについてだが、そもそもフェミニズム倫理学ポストモダン思想に強く影響を受けている。

 

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

An Introduction to Animals and Political Theory (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

*4:この諺の説明としては以下のサイトの文章が印象的で参考になる。

blog.goo.ne.jp

この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

読書メモ:進化論 vs 道徳的実在論

倫理学 心理学 文化と倫理

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代倫理学』の第7章の題名は「実践理性の起源と統一(Origins and the Unity of Practical Reason)」であり、進化論と"客観的な道徳的真実が存在する"という考え方(道徳的実在論)との関わりが議論される。

 シジウィックとダーウィンは同時代人だったが、ダーウィンがシジウィックの主張に懐疑的であったように、「客観的で普遍的な道徳的真実(道徳的義務や道徳的原則など)が存在する」という考え方と進化論は相性が悪い。進化論的には、人間が持つ道徳感情や道徳的行為とはあくまで当人が長生きしてより多くの子孫を残すことに都合の良いものが身に付いている訳で、それが「客観的で普遍的な道徳的真実」とやらを反映していなければならないという理由は全くない。人間は狩猟採集民の時代から高度に社会的な生き物であった以上は、一般に道徳的とされる感情…恥や罪の感情とか、限定された範囲での利他心など…を身に付けていないと集団の中でやっていけなくて長生きもできず子孫を残せないので、ある程度の道徳的感情は進化によって生得的に身に付いているだろうが、「合理的博愛の公理」や倫理学的な利他主義が要求するような道徳的義務…自分自身や家族や友人などの自分にとって身近な人と、遠く離れた他人や人間以外の生物とを、等しく道徳的配慮の対象とすること…に呼応するような感情が進化によって身に付けられる理由は存在しないはずだ。私たちが身に付けている心理は真実追求的なものであるとは限らないし、そうではない場合の方がむしろ多いのである*1

 この章では、シャロン・ストリート(Sharon Street)による、道徳的価値の実在論に対する「ダーウィン的なジレンマ」の議論が特に取り上げられている。

 

彼女は、客観的な道徳的真実の存在を擁護する人は不愉快な(uncongential)二つの可能性に直面することになる、と論じる。第一の可能性は、進化的な(淘汰)圧力は、真実を客観的に評価する心構えを持つ存在を選択する傾向を全く持たないということだ。この場合には、我々の評価的な判断(evaluative judgment)の大半は正当化されないということを客観主義者たちは認めざるを得なくなる。第二の可能性は、客観的な道徳的真実を認識することができる人を存在を進化的な(淘汰)圧力は選択してきたということだ。だが、ストリートによると、この可能性は進化の機能についての科学的な理解に反している。

(p.179)

 

 第一の可能性を認めると進化は道徳的真実とは全く関係がないということになり、ほとんど有り得ないような類稀なる偶然が進化の歴史上において起こったと仮定しない限りは、私たちは道徳的な真実を客観的に評価する能力を身に付けていないと考えなければならないはずだ。 

 第二の可能性が科学的にあり得ないということは、上述したように、客観的な道徳的真実を理解する能力は私たちの遺伝的成功とは全く関係ない…自分の生存や繁殖にとって益にならない相手にも道徳的に振る舞うことを要求するわけで、むしろ遺伝的成功に反している…ことに由来する。進化的な圧力は、自分自身を生存させることや子孫を生存させることに寄与する能力は身に付けさせるだろうが、それに関係しないような「真実を認識する能力」をわざわざ身に付けさせることはないはずだ。

 

 …が、シジウィックや著者らにとっては、「進化は私たちにどのような道徳的感情を身に付けさせたか」「私たちが持っている評価的な判断能力の進化的な基礎は何であるか」ということは大した問題ではない。シジウィックは直観主義者であるが、日常レベルの直観や社会における常識道徳はより深遠な道徳的原理…自明で客観的な道徳的真実…によって正当化されなけばならないと論じている。では、進化によって身に付いた道徳的な感情や評価的判断能力は客観的な道徳的真実とは関係がないとすれば、どうすれば私たちは客観的な道徳的真実を認識することができると言うのだろうか?…理性を用いることによって認識するのだ、とシジウィックや著者らは論じる。

 

道徳的真実を認識するという特定の能力は私たちの繁殖的な成功を増させない、とストリートは正しくも指摘している。だが、理性を用いる能力(capacity to reason, 推論を行う能力)には私たちの繁殖的な成功を増させる傾向があるはずだ。

…(中略)…理性は私たちの生存を妨げるような諸々の問題を解決することを可能にしたために、私たちは理性的な存在になったのかもしれない。しかし、理性を用いることが可能になってからは、私たちの生存に寄与しないような真実を理解して発見することが私たちには避けられなくなったのかもしれないのだ。このことは数学や物理学に関するいくつかの複雑な真実について当てはまるかもしれない。また、パーフィットが示唆しているように、私たちにとっての規範的で認識的な信念のいくつかにも当てはまるかもしれない。例えば、ある議論が妥当であり前提が真である時にはその結論も真であらなければならないという信念であり、その事実は議論の結論を信じるということへの決定的な理由を私たちに与えるのである。

(p.182)

 

 進化が私たちに身に付けた感情や直観ではなく、進化が私たちに身に付けた理性や推論能力こそが普遍的な利他主義的などの道徳的な原則に沿った行為を行うことを可能にした…ということは著者らだけでなく様々な論者も主張している。この章では(他の章と同じく)パーフィットの主張が特に取り上げられているが、日本で最も馴染み深いのは進化心理学者のスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』で行った議論であろう(もっとも、そのピンカーの議論自体が、『普遍的な観点から』の著者の一人であるピーター・シンガーが『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』で行った議論を下敷きにしたものである。また、この本では言及されていないが、心理学者のマイケル・シャーマーも理性的な思考(科学的思考)が人々の道徳的能力を発展させたと論じている)*2

 

 上述した部分がこの章のキモであり、残りの部分では、日常的な道徳的判断や常識道徳の多くは進化心理学的な事情を反映したものであり、理性的な道徳判断とは相反するものも多く存在するということが論じられる。例えば、近親相姦や同性愛は本人たちの同意があるなどのどんな条件にもかかわらずに常に不正であるという反応、なんらかの行為を「行った」結果として誰かが傷付くことは不正であるように強く感じられるがなんらかの行為を「行わなかった」結果として誰かが傷付くことはそれほどの不正であるように感じられないという「行為-非行為」に非対称性があるという感覚などは、私たちの進化の歴史における事情に影響されて身に付いた感覚であり、理性によって導き出される道徳判断とは別物である。そして、私たちの日常的な道徳的判断や常識道徳の背後にある進化心理的な影響を一つ一つ明らかにしてそれらの非合理性を暴露していくことは、非合理的な進化心理に影響されない功利主義を採用することへと私たちを導いていく*3

 

 一方で、世界各地の文化における道徳ルールの中には、進化的な成功(生存や繁殖の成功)とは相反するようなものも存在する。例えば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」という「黄金律」はキリスト教イスラム教だけでなく儒教仏教ヒンドゥー教の教えにも存在する*4。黄金律の教えはシジウィックが客観的な道徳的真実であると見なしている「合理的博愛の公理」と非常に近い。しかし、黄金律が要求する道徳的行為を実践するとなると、血縁利他主義や群淘汰の理論を採用したとしても生存や繁殖には不利になると言わざるを得ないだろう。進化的な事情とはむしろ相反するにも関わらず黄金律が古来から各々の地域で独自に採用されていることは、数学や科学の普遍的な真理が古来から各々の地域でそれぞれの人々が理性を用いることで独自に発見されてきたように、道徳的な真実も人々が理性を用いることによって各々の地域で独自に発見されてきたということを表している、と考えられるだろう。

 

私たちは、注意深い省察を行う工程の結果として、シジウィックが言うところの「普遍的な観点」へと私たちを導く直観を形成するのだ。

(p.193)

 

 信頼できる直観を形成する工程には以下の三つの要素が必要になる、と著者らは論じる。

 

1・(その直観が)自明であるという確信を導く、注意深い省察

2・他の注意深い思考家との、独立した合意

3・その直観は真実追求的ではない心理的工程の結果である、という妥当な説明が存在していないこと

(p.195)

 

 

 …要するに、進化は私たちに理性的思考能力を身に付けさせてくれたのでそれを用いて妥当な道徳的判断を行ったり道徳的真実を認識したりするべきだが、理性的思考能力以外の進化的な感情や直観は信用ならないものである、感情よりも理性を優先すべき、というのがこの章の主な主張である。いつも思うのだが、シジウィックは「直観主義者」であるはずなのに(著者らの解説を読む限りでは)全然直観的な議論をしていないので話がややこしくなっている。

 

 この章の終わりには前章で論じられた「実践理性の二元性」の問題を解決するための議論がされる。物事の理由には「動機付け的な理由(motivating reason)」と「規範的な理由(normative reason)」の二つがあるのであり、その二つは混同せずにきっちり分けて理解して、利己主義は前者で利他主義は後者で、道徳においては後者を採用すべき、という議論である。動機付けとなる理由と規範的な理由が一致する場合もあれば相反する場合もあるだろうが、後者の場合には規範的な理由が求める行為を行うべきだ、ということになる。パーフィットは著者らの主張に近いところまで行っていたが「動機付けとなる理由」を切り捨てることができず、「実践理性の二元性」の問題を解決することができなかったらしい。それは、彼が「反省的均衡」を行ってしまったために日常的・直観的な判断を捨て切ることがパーフィットにはできなかったためである…そして、そもそも「反省的均衡」に批判的な著者らはパーフィットのように日和ることもなく堂々と「実践理性の二元性」を解決した、とのことである。

 

規範倫理や応用倫理において反省的均衡を用いる人たちは、概して、一貫性のある規範理論と一般に受け入れている道徳判断のうちの大半(少なくとも多く)との間の均衡を達成しようとするべきだと想定している。だが、そんな想定をする必要はないのだ。自分自身の利益になることを行うことは合理的である、という一般に受け入られた見解を彼らは否定すればよいのであり(自分自身の利益になることを行うことについての強い動機付け的な理由が人々には存在するかもしれないとしてもだ)、二つの可能な行為のうち片方は物事を人々にとって分け隔てなく善くするとすれば(things go impartially better)その行為を行うことについての決定的な理由を私たちは持っている、ということを認めればよいのである。

(p.199)

 

 

 次の章からは功利主義の理論の詳細へと議論が移行し、功利主義の対象となる「善」とはなんぞや、ということで選好充足功利主義と快楽功利主義がそれぞれに取り上げられることになる…。

 

*1:著者らは言及していないが、道徳的な感情が真実追求的なものではないどころかむしろ真実追求と多くの場合には相反する、という議論についてはこの本が特に面白い。

 

だれもが偽善者になる本当の理由

だれもが偽善者になる本当の理由

 

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:この部分の議論は、日本語で読める文献としてはジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』で行なわれている議論にかなり近い。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

黄金律 - Wikipedia

読書メモ:実践理性の二元性

倫理学

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 第6章は「倫理学における最も難しい問題(The Profoundest Problem of Ethics)」という題名で、先の章にも出てきた「実践理性の二元性」の問題が改めて取り上げられる。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。  

*1

 

 利己主義と利他主義功利主義、合理的博愛の公理)はどちらも行為の理由として充分に合理的であり、ある場面でとる行為の選択肢として利己主義的な選択肢と利他主義的な選択肢との両方が存在する場合には、どちらの行為を選ぶべきという決定的な理由は存在しない、というのがシジウィックが悩まされていた「実践理性の二元性」の問題である。

 

 この問題の解決策としてまず思いつくのは「利他的な行為はそれを行った本人も幸福にする」「利他的な行為には利己的なメリットもある」ということだ。実際に、自分のことばかり気にかけている人よりも利他的な人は多くの場合には幸福である。…が、利他的でありながら不幸な人もいるし、他人のことを顧みない利己主義を実践しながら幸福に生きている人も多く存在する。利己主義的な人は利他的な行為をすることで自分自身が成長する機会を失っているなどとも言えるだろうが、それも程度問題だろう。また、家族や友人などの身近な人のために利他的な行為をしてそれらの人々を喜ばせることは利他的な行為をした人自身も喜ばせるだろうが、功利主義や合理的博愛の原理は、遠くにいる全くあずかり知らぬ他人のために自己犠牲的な行為をすることも要求する。それどころか、自己利益だけでなく身近な人に対する共感などの感情に逆らってでも他人のために行為することを要求する場合もある。日常的な意味で利他的な行為や感情と、倫理学的な原理としての利他主義は一致しない場合があるのだ。ともかく、「利他的な行為は利己的なメリットがある」場合は確かに存在しているだろうが、その範囲は限られているのであり、そして倫理学的な利他主義は「利己的なメリットがない」場合でも利他的に行為することを要求するのだ。

 理性は私たちの欲求と相反する、という考え方はギリシア哲学の時代に遡ることのできるものである(この本では「ギュゲスの指輪」の例をめぐるグラウコンとソクラテスの議論が取り上げられている)*2。しかし、デレク・パーフィットが『On What Matters』で行った議論やトマス・ネーゲルが『利他主義の可能性』で行っている議論を取り上げながら、「私たちには利他的に行為するべき理由が存在する」という可能性を著者らは探る。ネーゲルの議論は以下のようなもので、シジウィックの「自愛の公理」にも関わるものである。

 

ネーゲルはこの本の中で、以下の2つを擁護している。

  1. 理由は根底的には無時制である。いくつかの出来事は、それが未来のことであっても、つねにそれを促進する理由がある。
  2. 理由は根底的には非人称である。いくつかの出来事は、それが他人のことであっても、誰にでもそれを促進する理由がある。

大雑把には、われわれは未来の自分のことを考慮すべきだし、それとおなじように他人のことも考慮すべきなんだよというようなことが論じられている。

*3

 

 パーフィットネーゲルと似たような議論を行っているが、パーフィットは「私たちは自分自身にとって最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的利己主義と「私たちは分け隔てなくすべての人にとって(impartially)最善となる行為を行う理由を最大に持っている」という合理的公平主義(Rational Impartialism)の両方を否定して、真実はその中間にあるとしている。例えば、自分がちょっとした苦痛を感じることか100万人の人が死んだり地獄のような苦しみを味わうことかのどちらかを選ばなければならないとすれば、自分がちょっとした苦痛を感じることの方を選ぶべきという決定的な理由があるということは明白だろう。だが、自分の指を失うことと数人の他人の命が失われることとの間では、前者を選ぶべきだという理由はあまり決定的なものでなくなるかもしれない。パーフィットは自分自身の主張を「広い価値に基づいた客観主義(wide value-based objective view)」と呼んでいる。

 

私たちに行える行為のうちの一つは分け隔てなくすべての人にとって物事を善い状況にするが、別の行為は自分自身か自分の身近な人々にとって物事を善い状況にするとすれば、多くの場合には、どちらの行為についても、その行為を選択するのに充分な理由が存在している。

(p.161)

 

 ここでは「多くの場合(often)」や「充分な(sufficient)」という言葉が使われているのがポイントである。数人の生命を救うことよりも自分一人の生命を救うことや、他人の生命を救うことよりも自分が大怪我を負うことを回避することを選択するのには十分な理由があるだろうが、100万人の他人が地獄のような苦痛を感じることよりも自分一人がちょっとした苦痛を感じることを選択するのには決定的な理由があるだろう。利己的な行為と利他的な行為を行うことのどちらにも充分な理由が存在する状況と、どちらかの行為を行うべきという決定的な理由が存在する状況とには、どこかで線引きがされるはずである…その線引きはどこで行われるのか、ということは明白ではないのだが。

 

「実践理性の二元性」がなぜ問題かというと、ある行為を行うことを道徳が要求するとしても、その道徳的な行為を行う理由が損じない場合や、その行為を行わない理由や非道徳的な理由が存在するという場合があるとすれば、道徳の意義は弱まる(undermine)からだ。道徳的(利他的)な行為を行うべきという決定的な理由がある状況に遭遇しても、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとすれば、私は非道徳的な人間であるとして非難の対象になるだろう。しかし、道徳的(利他的)な行為と非道徳的(利己的)な行為の両方を行う理由が充分に存在するという状況に遭遇して、私は常に非道徳的(利己的)な行為を選択しているとしても、私の場合ほどには非難の対象とならないだろう。ともかく、道徳を意義あるものとするためには「実践理性の二元性」の問題を解消して、利己的な行為ではなく利他的な行為を行うべきという決定的な理由が存在することを確かめなければならないのである。

 

 この章の後半ではデビッド・ブリンクやデビッド・ゴティエといった哲学者たちによる、「合理的な利己主義は道徳的な行為をすること(道徳的であること)を必然的に要求する」といった主張の哲学的なバージョンが取り上げられている。ゴティエが『合意による道徳』で行っている主張は以下のようなもの。

 

道徳的義務は合理性に基礎を持つのだろうか? そうであることをわれわれは証明しようと思う。 われわれは、 理性が持つ実践的役割は個人の利益に関係しているがそれを超越することを示し、 それにより、 義務を利益に優先して命ずる行動原理が合理的に正当化されうることを示す。 われわれは、 道徳は個人の利益の追求に合理的な制約を課すものであるという 道徳の伝統的な概念を弁護する。

ホッブズ路線を継承し、 ゲーム理論の成果を利用して、 社会の成員が合意した道徳に従い自己利益の追求に一定の制約を課すことが、 個人の利益追求にとっては合理的であると論じる。

*4

 

 しかし、ゴティエの議論も「実践倫理の二元性」の問題に対する本質的な解答にはならない、と著者らは論じる。ゴティエの理論は一定の状況や条件の下でしか成立せず、「義務を利益に優先する」ことは長期的に見れば自己利益をプラスにする場合もあるだろうがマイナスにする場合もあるだろうし、「自己利益の追求に一定の制約」を課さなくても個人の利益追求を最大化できる場合も存在するだろう。社会契約を守っているふりをして陰ではこっそり社会契約を破って自分の利益を追求している人の存在についても、ゴティエの理論は本質的には対処できていない(そのような人は結局は社会契約を破っていることがどこかでバレて自己利益を損なう羽目になるだろう、というのがゴティエの言い分であるようだが、実際にそうなるかは不確実だ)。また、社会契約論では、将来世代の人々や動物などの社会契約に参加できない存在に対する道徳的義務をよくても間接的にしか主張できないが、功利主義や合理的博愛の原理では彼らも直接的な道徳的配慮の対象となるのだ。

 

 結局、この章では「実践理性の二元性」の問題は解消されずに、続く章へと持ち越されることになる…。

 

 

合意による道徳

合意による道徳

 

 

読書メモ:シジウィックによる倫理学の三つの公理

倫理学

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『普遍的な観点から:シジウィックと現代功利主義』の第5章では、シジウィックが自明であり直観的に認識できる真実と見なしている倫理学の三つの公理が取り上げられる。「ある状況についてどう行動するべきか」「私たちにはどのような義務があるか」という具体的なことはこれらの公理自体から引き出すことはできず、他の方法(シジウィックによると功利主義の方法)が必要となるのだが、ともかく道徳はこの三つの公理に基づいたものであるべきものなのだ。尚、シジウィックは以下の三つの公理は自明であるとしているが、功利主義が自明であるとは主張していない。

 例によって以前に自分が訳した記事や他の人の記事を引用しながら紹介していく。

 

ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)思慮分別の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

 シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。

*1

 

 この本ではそれぞれが「正義の公理(The Axiom of Justice)」「自愛の公理( The Axiom of Prudence)」「合理的博愛の公理(The Axiom of Rational Benevolence)」と書かれている。公理といっても、「合理的博愛の公理」は他の二つの公理から推論で導き出されるものであるようだ。そして、常識道徳における様々な義務(「嘘をつかない」「約束を守る」など)や日常的な道徳判断は、突き詰めればこの三つの公理によって正当化されるべきものなのである。

 

「正義の公理」は倫理学の用語で言うところの「普遍化可能性」であり、 R.M.ヘアによる道徳判断の分析と重なるところが大きい。

 

 指令主義によると、「~すべきだ」という道徳判断は、 このように「~せよ」という命令を含んでいるが、 それに加えて普遍化可能性 (universalisability) という特徴を持つとされる。 これは要するに、われわれは道徳判断に関しては、 等しい状況においては等しい判断を下すことが要求されるということである。 たとえば、 ある状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」 と言うならば、状況Aと重要な点でよく似ている状況Bにおいて、 太郎が花子に「人の物を盗むべきだ」と言うと、太郎は矛盾を犯すことになる。 また、太郎と花子に道徳的観点からして決定的な違いがないとしたら、 状況Aにおいて太郎が花子に「人の物を盗むべきではない」と言い、 同時に太郎が自分に「人に物を盗むべきだ」と言い聞かせることも、 やはり論理的な矛盾を犯していることになる。 この特徴は普通の命令にはないとされ、 普通の命令文と道徳判断とを区別するメルクマール(指標)になる。

*2

 

 ヘアは、道徳判断が普遍的指令的なものであるとすれば、そのことは選好功利主義…関係者全ての立場に立ってみて考えれば、全員分の選好を最大限に満たす行為を支持するべきだということになるから…を導くと主張した。この本ではヘアの主張には論理の飛躍があるとするジョン・マッキーの反論も取り上げられている。

 シジウィックによる「正義の公理」の議論がヘアの「普遍的指令主義」の議論とどれだけ重なっているかには議論の余地がある。ヘアは「〜べき」という道徳用語の分析にこだわっているが「シジウィックにとって問題なのは、私たちが使う言葉ではなく、私たちが最も行う理由のあることは何なのかということである」(p.126)。

 

「自愛の公理」は先の引用にも書かれているように「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」というものだが、これだけだと自分のことしか言っておらず、他人についてどうすべきかということが示されていないので道徳的な原則としては妙な感じがあする。どうやら、利己主義的な原則でもあれば、他人に対して配慮する場合にも適用すべき道徳的な原則でもあるようだ。このややこしさは、シジウィックによる倫理学の議論では利己主義の可能性が捨てきれないことに由来している。

 

彼は自分は功利主義者であると言いながらも、 功利主義と(倫理的)利己主義どちらも、 実践的原理として捨てがたいと悩んでいたようだ (このことを「実践理性の二元性」と呼ぶ)。*3

 

 この「実践理性の二元性」の問題、またシジウィックとヘアのそれぞれによる利己主義の扱い方の違いについては奥野満理子『シジウィックと現代功利主義』の英訳版が参照されている。…図書館で貸し出し中だったので私は読めていないが。

 ともかく、この「自愛の原理」に対してはバーナード・ウィリアムズやマイケル・スロート(Michael Slote)やラリー・テムキン(Larry Temkin)の反論が取り上げられている。

 スロートは、同じ出来事であっても、それが人生のどの時期に起こるかによってその出来事の道徳的重要さは変わってくるということを指摘する。例えば、政治家としての最初の二十年は成功していて素晴らしい成果を残したが後半の二十年では落ちぶれて成果が残せないようになり惨めに過ごしていた人と、政治家としての最初の二十年は何ら成果を残せずに惨めに過ごしていたが後半の二十年では素晴らしい成果を残すことができた人とでは、後者の方が幸福であり素晴らしい人生であると多くの人が判断するだろう。また、青春時代(in prime)に幸福に過ごすことは子供時代や老年時代に幸福に過ごすことよりもずっと重要なことである、とスロートは論じているようだ。

 4歳の頃にどれだけ幸福な経験をしてもその後の人生に影響はあまりないだろうが、20歳の頃にした素晴らしい経験をすれば人生最良の経験としてその後の人生でも思い出し続けることができるだろう、だから青春時代を道徳的に重要視する理由はある、とは著者らも書いている。しかし、それは同じ経験でも得られる幸福量はその経験をする時代によって違うという間接的な理由であり、重要なのはあくまでも幸福そのものである。そもそものスロートの議論はアリストテレス的な目的論的な人生観に基づいて論じられているものであり、能力が最高に達している時期は本人の幸福に関わらずにその時期自体を重要視するべきであるとしているようだが、ダーウィンの進化論以後の時代にそんな目的論的な人間観を採用する理由はないというが著者らの見解である。

 また、「人生の前半よりも後半に幸福な出来事が起きた方が良い」という考えには、ダニエル・カーネマンらが指摘したようなバイアスが反映されている可能性がある。

 

…例として出てくる彼の研究にこのようなものがあります。まず、痛みを伴う治療の間、患者に苦痛の強さの変化を記録してもらいます。そして治療の後に、全体的にどれくらい苦痛だったかを評価してもらいます。これを比較して分かったのは、全体的な評価は、一番痛かった時の痛さと、治療の終わりの時点でどれだけ痛かったかに大きく影響される一方、苦痛だった時間の長さにほとんど影響されない事でした。リアルタイムで体験した苦痛を「合計」するのと、後になって思い出す苦痛の「合計」は、必ずしも一致しないという事です。*4

 

 

 他方で、人間には現在の出来事に集中している時には後から起こる出来事の影響を過小評価する傾向もあるし、短期的には幸福度をもたらすが長期的な幸福度はほとんど変えないような事象を過大評価するバイアスもある。「より一般的に、カーネマンの研究は、人生におけるある時間は別の時間よりも重要であるということについて"私たちが典型的かつ自然的に考える"ことに私たちはあまり影響を受けるべきでない、ということを示唆している。私たちの典型的で自然的な感情は間違っているかもしれないのだ」(p.133)。時間と幸福に関する私たちの直観は人間の平均寿命が今よりもずっと短かった狩猟採集民の時代に培われた進化的な心理に左右されている可能性が高いが、そんな直観に影響されずに理性的に「自愛の原理」によって判断するべき…というのが著者らの考えである。理性的に考えた結果、何らかの妥当な理由があれば、将来より現在を優先すること(またはその逆)も認められる。「現在は現在であるから大切」という無根拠な考えや、現在の自分と未来の自分とをまるで断絶された別人であるかのように扱うことが非合理でダメなのである。

 

「合理的博愛の公理」の節では、バーナード・ウィリアムズやジョン・ロールズによる功利主義批判が取り上げられて再反論されている。功利主義は「普遍的な観点」を要求するが、それぞれの人々が自分の人生について抱いている「計画」や「integrity(個人の一貫性、全一生)」を無視して普遍的な観点のために行動することを要求するのはおかしい…というのがウィリアムズによる功利主義の批判である。しかし、個人の計画やintergrityを道徳的に重要視しなければならない自明な理由はない、というのが著者らの反論だ。南北戦争前のアメリカの奴隷主は奴隷解放は自分という人間の人生における計画やintegrityを大いに損なうと思っていただろうが、そんな奴隷主の言い分を聞く必要はないだろう。結局のところ「計画」や「integrity」と自己利益やワガママとの間の明白な違いはないのであり、道徳的な判断が自己利益を諦めて他人のために行動することを要求する場合があのはある意味では当たり前のことなのだ。

 ウィリアムズ、ロールズノージックらは功利主義は個人の個別性(separatedness)を無視している、また誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすることを要求する、と批判する。しかし、シジウィックやヘアによる正義の原理・普遍主義には「関係者全員の立場に立つこと」が含まれているのであり、個人の個別性は初めから考慮されているのだ。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」がそれほど問題であるかどうかということについては、パーフィットによる思考実験を改変したものを用いて反論されている。

 

あなたは、地震によって崩れた建物の残骸で生存者を探している。あなたは瓦礫に挟まった二人の人を発見する。二人とも意識は不明だが生きている。ホワイトを助けて彼女の生命を救う唯一の方法は、彼女の側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけることだが、その瓦礫はブラックの足に落ちて彼の足指の骨を壊してしまうだろう。しかし、瓦礫を押しのければあなたはホワイトとブラックの両方を助けることができて、二人の生命を救える。ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけなければ、ブラックに怪我を負わせずに彼を救うことはできるが、ホワイトは死んでしまう。

(p.139)

 

 この事例において、ホワイトの側にあるコンクリートの瓦礫を押しのけてブラックに怪我を負わせることは許容されるだろうし、ブラックに怪我を負わせないためにホワイトを見殺しにすることはおかしいだろう。「誰かにとっての幸福を生み出すために別の誰かを犠牲にすること」は必ずしも否定されることではないのである。

 

 他にも、道徳的な行為として要求することの程度が大きすぎるという問題を持つ「最大限帰結主義(Maximising consequentialism)」と、これだけすれば道徳的に充分だという閾値が低すぎるという問題を持つ「最小限帰結主義(Satisficing consequentialism)」について取り上げられている。著者らは最小限帰結主義は最大限帰結主義以上に道徳理論として欠陥があると見なしているようだ。

 

 シジウィックは常識道徳を「二つ以上の原則が衝突した場合にどうするかが定まらないので、決定性がない」と否定しているが、彼が自明であるとする3つの公理もそれだけでは具体的な原則を導くことができず、別の方法が必要となる。この、常識道徳を否定しながら自分の公理は正しいと主張するシジウィックの議論がフェアであるかどうかということについても第5章では論じられており、著者らはシジウィックの論法には問題がないとするが、細かくて面倒くさいので省略。

 

 

シジウィックと現代功利主義

シジウィックと現代功利主義

 

 

 

読書メモ:反省的均衡と基礎付け主義

倫理学

 

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

 第4章では、道徳的な原則を正当化する方法についての議論がされている。

 シジウィックは、私たちが正しい道徳的原則を推論によって導こうとする際には「明白で正確な言葉を用いること」「注意深い反省によって自明さを確認すること」「複数の原則が矛盾する際には、どちらかが間違っていると考えて見直すこと」「自分の判断が間違っている可能性が示された時には、その可能性を受け止めて、自分の判断を疑うこと」などの条件が必要である、と主張しているらしい。そして、これらの条件を満たして推論している二人の判断が矛盾した場合には、少なくともどちらか一人は間違っていると考えるべきであり、どちらの側が間違っているかということを確認することが必要となる。そして、上記の条件を満たした推論は信頼できる道徳的結論へと適切に私たちを導いてくれるはずだ、というのがシジウィックの主張であるようだ。

 著者らは、道徳的な原則の正当化の方法として「基礎付け主義(Foundationalism)」と「反省的均衡(Reflective equilibrium)」との二つを対比して論じている。

 知識に関する基礎付け主義の代表はデカルトであり、全ての知識は自明で疑いようのないものに基礎付けられている、私たちが現在持っている知識を遡っていけば最終的にはそれ自体が疑いようのない知識に辿り着く、という考え方である(「我思う、ゆえに我有り」)。反省的均衡は「整合説」と呼ばれる考え方であり、ある知識が正しいか否かは他の全ての知識と矛盾なく整合するかどうかによって決まる、という考え方である。反省的均衡を有名にしたのはジョン・ロールズであるが、面倒臭いのでロールズの主張した反省的均衡はどのようなものであるかは以下の引用を参照。

 

ごく通俗的な用法では、反省的均衡は次のような手順で行なわれるとされる。
  • われわれが道徳に関して持つさまざまな直観 (considered judgment 熟慮された判断) から、ある抽象的な道徳原理を導き出す。 (たとえば、「妊娠中絶はかまわない」と 「胎児は人格ではない」という直観から 「人格でない生命を殺すのはかまわない」 という抽象的原理を導きだす)
  • その道徳原理とさまざまな直観を照らし合わせた場合、 その原理によってそれらを整合的に説明できるかを考える。 (「植物人間が人格でないとすれば、 植物人間を殺すのはかまわないか」)
  • 当の道徳原理といくつかの直観が衝突する場合は、 新たな道徳原理を作り出すか、 あるいは衝突する直観が不合理なものであるとして その直観を放棄する。

反省的均衡は、このような仕方で抽象的な道徳原理を作り出す一方で、 直観同士の矛盾をなくし、 整合的な集合となることを目指すものである。 

*1

 

 しかし、直観を重視する反省的均衡の理論は、そもそもの直観が間違っていた場合には全く誤った道徳的原則を生み出し続けてしまう、という批判がR.M.ヘアなどによって行われている*2。反省的均衡は循環的な過程であるために、一見すると熟慮された道徳的判断であると思われるものが導かれたとしても、その道徳的判断が本当に正しいのかどうかは反省的均衡の過程の外側から確かめるしかないのだ。それができなければ反省的均衡は文化や個人によって相対的であり、自己利益などに影響されているかもしれない頼りない道徳的判断しか生み出せないものになってしまう。英語と中国語といった異なる言語はそれぞれの独自のルールによってそれぞれに整合しているという言語における整合説は、ある言語のルールについてその言語の観点の外側から批判する必要というものは存在しないので問題がない。しかし、道徳においては、自分たちとは異なるルールによって整合している倫理観に対しても矛盾している/問題があると批判する必要が出てくるのであり、反省的均衡における相対主義の要素は道徳理論としては問題含みなのである。

 著者らによると、ノーマン・ダニエルス(Norman Daniels)による「広い反省的均衡(Wider Reflective equilibrium)」は上述の問題に対応できる *3。広い反省的均衡は規範的な道徳理論に強い役割を持たせることを認めており、理論や原理によって私たちの直観的な道徳的判断を修正することを(ロールズによる反省的均衡よりも強く)認めているようだ。ただし、著者らによればダニエルスの主張する反省的均衡はもはやロールズの反省的均衡とはほぼ別物である。また、規範的な道徳理論に照らし合わせてみると私たちの直観が全て間違っていた場合には、私たちの直観を全て捨てて規範的な道徳理論に従うべきであるということになるが、そうなるとそもそも反省的均衡を採用する意味がなくなってくる。結局、反省的均衡としての特徴を保つためには、直観にある程度以上の役割を持たせる必要があるかもしれない。だが、広い反省的均衡を突き詰めて様々な道徳理論同士を突き合わせていけば、客観的な道徳的真実が理性によって導き出されるかもしれないのだ。

「基礎付け主義」は「強い基礎付け主義」と「弱い基礎付け主義」とに分けることができる。強い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理は訂正の余地もなく自明である。弱い基礎付け主義では、基礎となる道徳原理について"なぜ"そのような原理があるのかという理由を省察することが認められるし、間違いや矛盾などを指摘された場合には自分が基礎であると思っている道徳原理について考え直すことも必要とされる。基礎付け主義はドグマティックであるとして批判/否定されることが多いのだが、必ずしもそうではないというのが著者らの主張である。

 シジウィックの主張は反省的均衡であるか基礎付け主義であるかということは分かりづらく、長らく議論の対象となっていたようだが、そもそも「広い反省的均衡」と「弱い基礎付け主義」との間の実質的な違いはほとんどなく、シジウィックは広い反省的均衡支持者でもあり弱い基礎付け主義者でもある、というのが著者らの結論である。道徳理論にも役割を持たせた広い反省的均衡を行い続けて行けば基礎となる道徳的真実が導き出されるかもしれず、そうすると反省的均衡と基礎付け主義は一致するかもしれないのだ。

 シジウィック自身が「道徳的真実は直観によって認識することができる」という考え方をしているのでややこしいのだが、この場合の道徳的真実はロールズの反省的均衡で導き出されるような道徳的原理のように相対的で主観的なものではなく、客観的なものである。また、「直観によって認識する」という営みも言葉のイメージとは裏腹にかなり理性的な営みであるようだ。

 …まあとにかくシジウィックのみならず著者らも客観的な道徳的真実は存在していると主張する側であり、その立場から、世間では評判の良い反省的均衡を批判しているということであるようだ。T.M.スキャンロンは反省的均衡のことを「唯一擁護できる方法である、反省的均衡の代替案に見えるものがあってもそれは幻想だ」(p.98)と批判しているらしいが、そんなことはないという話。

 

 

Justice and Justification: Reflective Equilibrium in Theory and Practice (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)

Justice and Justification: Reflective Equilibrium in Theory and Practice (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)

 

 

*1:REFLECTIVE EQUILIBRIUM

*2:ヘアによる批判についてはこの記事の後半を参照。

メモ・功利主義と思考実験、功利主義と直観 - 道徳的動物日記

*3:伊勢田哲治による「広い反照的均衡と多元主義的基礎づけ主義」ではダニエルスの考え方やシンガーの主張などが説明されている…わたしはまだこの論文をちゃんと読めていないが。http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6834/1/WREと基礎づけ主義.pdf

「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー (デレク・パーフィットの On What Matters について)

倫理学

dailynous.com

 

 哲学者のデレク・パーフィット(Derek Parfit)が元旦に逝去したが、パーフィット著作『On What Matters(問題となることについて)』について書かれた、ピーター・シンガー(Peter Singer)が2011年の1月にProject Syndicateに発表した記事を紹介する。私は『On What Matters』は100ページくらい読んだところで挫折したし、同じくパーフィット著作である『理由と人格(Reasons and Persons)』も邦訳は値段が高いせいで持っていないのだが…

 

www.project-syndicate.org

 

 

 

「問題となることは存在するのか?」 by ピーター・シンガー 

 

 

 道徳判断は真か偽かであり得るだろうか?あるいは、倫理学とは根本的には純粋に主観的な問題なのであり、個人が選択するものであるか、もしくはその人が暮らす社会の文化によって相対的であるものなのだろうか?その答えは、つい最近に明らかになったところであるかもしれない。

 道徳判断の真実を確認する方法は存在しないように思われるため、道徳判断は感情や態度の表明以外のものでは有り得ない、と論理実証主義者たちは1930年代に主張した。それ以来、道徳的な判断は客観的な真実を述べるという見方は哲学者たちの間では時代遅れなものとなっている。論理実証主義者によると、例えば私たちが「あなたは子供を叩くべきでない」と言うときには、あなたが子供を叩いていることに対する不賛成(disapproval, 非難)を表明することや子供を叩くのを止めるようにあなたを促すということが、私たちが実際のところ行っていることなのだ。あなたが子供を叩くことが不正であるか不正でないかという問題に対する真実は存在しないのである。

 倫理学におけるこの見方にはしばしば異議が唱えられてきたが、その異議の多くは神の命令に訴える宗教思想家たちによるものだった。大部分が世俗化している西洋哲学の世界では、宗教思想家たちの議論が訴えられる程度は限られている。他にも、宗教に訴えずに倫理学における客観的な真実を擁護しようとする主張は存在したが、支配的な哲学的潮流に逆らってそれらの主張を普及させることはほんの僅かにしかできなかった。

 しかしながら、重要な哲学的事件が先月(2010年12月)に起こった。長らく待望されていたデレク・パーフィット著作『On What Matters(問題となることについて)』が出版されたのである。オックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジの名誉教授であるパーフィットは、これまでに一冊の本しか書いてこなかった。1984年に出版された『Reasons and Persons(理由と人格)』であり、この著作は絶賛を受けたものだ。パーフィットが行っている完全に世俗的な議論や他の立場に対する包括的な反論は、この数十年で初めて、倫理学における客観主義を拒否している側の人々を守勢に立たせたのだ。

 『問題となることについて』は読むのをためらうような長さの本である。二部作の分厚い本であり、合計すれば1400ページ以上を数える、密度の高い議論がされている本だ。だが、議論の核心は最初の400ページで書かれており、知的好奇心のある読者にとっては乗り越えられないほどの難局という程のものでもない…特に、常に明晰であろうと試み続けて、単純な単語が代わりに使える時には曖昧な単語を使うことを絶対にしないという英語圏の哲学の最良の伝統にパーフィットも身を置いていることをふまえれば。一つ一つの文章は複雑ではなく、議論は明白であり、多くの場合にパーフィットは鮮やかな具体例を用いて自分の論点を示している。だから、「何が問題となるか(What matters)」ということはそれほど理解したいと思っておらず、むしろ客観的な意味で何かが本当に問題となることが有り得るのか(anything really can matter)ということを理解したいと思っている全ての人にとって、パーフィットの本は知的な恵みであるだろう。

 多くの人は、合理性とは常に道具的なものであると考えている。理性は私たちが望むものを手に入れるための方法を教えることはできるが、私たちのそもそもの望みや欲求は理性の範囲の外にあるものだ。そうではない、とパーフィットは論じる。1+1=2という真実を私たちが認識することができるように、いつか先の時間に自分が激しい苦痛を受けることを避ける理由を自分が持つということも私たちは認識することができるのだ。未来のある時間に自分が激しい苦痛を受けるかどうかということについて現在の自分が気にしているかどうか、そのことに関する欲求を自分が持っているかどうかに関わらず、未来の苦痛を避ける理由を私たちは持っているのである。また、他人が激しい苦痛を受けることを防ぐ理由も私たちは持っているのだ(もっとも、常に決定的な理由である訳ではないのだが)。このような自明な規範的真実が、倫理学における客観性を擁護するパーフィットの主張の基礎となっている。

 倫理学における客観主義に対する主要な反論の一つは、何が正しくて何が不正であるかということについて人々の間には深刻な意見の不一致があること、その意見の不一致は無知でなく混乱していないはずの哲学者たちの間にも存在しているということだ。私たちは何をすべきであるかということについて、イマニュエル・カントとジェレミー・ベンサムのような偉大な思想家たちの意見が一致しないとすれば、その問題に対する客観的に真実な答えが存在することは有り得るのだろうか?

 この種類の議論に対するパーフィットの応答は、倫理学における客観主義の擁護よりも更に大胆な主張を行うことへと彼を導いている。パーフィットは、私たちが何をすべきかということについての三つの主要な理論を取り上げている…カントから導き出される理論、ホッブズやロックやルソーからジョン・ロールズやT.M.スキャンロンという現代の哲学者たちへと連なる社会契約の伝統から導き出される理論、そしてベンサム功利主義から導き出される理論である。また、カント主義の理論と社会契約の理論は擁護が可能になるように改訂される必要がある、とパーフィットは論じている。

 そして、これらの改訂された理論は特定の種類の帰結主義と一致する、とパーフィットは論じる。それは、大きな分類で見れば功利主義と同じ分類に含まれている理論である。パーフィットが正しければ、一見するとそれぞれ矛盾しているように見える複数の道徳理論の間には、実は私たちの皆が思っているよりも遥かに小さな意見の不一致しか存在しないのだ。パーフィットの鮮やかな表現によれば、それぞれの理論の擁護者たちは「同じ山を別の道から登っている」のである。

『On What Matters(問題となることについて)』という題名が提起している疑問の答えを求めている読者たちは、失望するかもしれない。パーフィットの本当の関心は、主観主義とニヒリズムに対して争うことにある。客観主義が正しいと示すことができない限りは何も問題とならない、とパーフィットは信じているのだ。

 パーフィットが「何が問題となるか」という問題に答える段になっては、彼の答えは驚くほどに明白なものであるように聞こえるかもしれない。例えば、現在において最も問題となっていることは「私たちのような豊かな人々が贅沢の一部を諦めること、地球の大気の温度の向上を止めること、また他の方法で地球に配慮して、知的な生活が存続することを地球が支え続けられるようにすること」である、とパーフィットは言う。

 その結論には私たちの多くが既にたどり着いている。私たちがパーフィットの業績から得られることは、上述のような道徳的主張や他の道徳的主張を客観的な真実であるとして擁護することができるという可能性なのだ。

 

 

 

On What Matters: Two-volume set (The Berkeley Tanner Lectures)

On What Matters: Two-volume set (The Berkeley Tanner Lectures)

 

 

 

Does Anything Really Matter?: Parfit on Objectivity

Does Anything Really Matter?: Parfit on Objectivity

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書メモ:知覚直観主義(道徳的個別主義)と常識道徳

倫理学

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

  

 第3章のタイトルは「Intuition and the Morality of Common Sense(直観と常識道徳)」であり、シジウィックによる直観主義の議論について、現代における直観主義者の主張を取り上げながら論じられている。

 シジウィックは直観主義を三つのカテゴリに分けている。一つ目は「超-直観的(Ultra-Intuitonal)」な直観主義、「知覚的直観主義(Perceptional Intuitionism)」と呼ばれるものであり、ある個別の場面における道徳的な判断は一般的なルールや道徳的な推論を行わずとも直観によって判断することができる、という考え方である。二つ目は「常識道徳(Morality of Common Sense)」であり、通常の人々が日常的に行う直観的な道徳的判断には一般的なルールが暗黙のうちに含まれている、という考え方である。三つ目は、常識的な道徳判断が"なぜ"正しいのかということの根拠を探り、場合によってはより正しい原則によって常識的な道徳判断を調整することも求める「哲学的直観主義(Philosophical Intuitionism)」である。この章では「知覚的直観主義」と「常識道徳」が否定的に取り上げられている。

 ただし、「直観主義」という単語には複数の意味が含まれており、広い意味での直観主義は「道徳的な真実は直観によって認識することができる」という認識論に関する主張であるが、狭い意味での直観主義は「ある行為が正であるか不正であるかは、行為の帰結に関係なく、直観的な道徳規則などによって判断される」というような義務論的な規範理論としての主張である。基本的には、シジウィックは広い意味での直観主義を主張してはいるが狭い意味での直観主義は否定しているようだ。

 著者らは、シジウィックによる直観主義に対する批判を取り上げた後に、知覚的直観主義と常識道徳のそれぞれに対応する現代の倫理学者の主張を取り上げて批判している。知覚的直観主義の現代版としては「道徳的個別主義(Moral Particuralism)」を主張するジョナサン・ダンシー(Jonathan Dancy)が、「常識道徳」の現代版としては「一見自明な義務(Prima Facie Duty)」を論じるW.D.ロス(W.D. Ross)やバーナード・ガート(Barnard Gert)が取り上げられている。

 道徳における一般的なルールや普遍的な基準の存在を否定して個別の事例における直観的な判断で事足りるとする知覚直観主義(現代における道徳的個別主義)では、道徳的判断の正否がそれぞれの場面における個人の主観に左右されてしまい、それはあまりにも恣意的なものである、と著者らは批判する。ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っているとされることはあるだろうが、その道徳的判断は"なぜ"ある場面においては正しくて別の場面では"なぜ"間違っているのか、ということは客観的な言葉で説明されなければならないはずだ。そして、結局のところ、"なぜ"という理由を理解するためには何らかのルールや基準に基づいた説明が必要となるはずだろう…というのが著者らの主張である。もし知覚直観主義(道徳的個別主義)が基準やルールに基づく説明を一切否定するとすればそれは恣意的で頼りない理論であるし、基準やルールに基づく説明を導入するとすればもはや知覚直観主義(道徳的個別主義)としての特徴は無くなってしまうだろう。

 直観的な道徳的判断に含まれている一般的な規則について論じる「常識道徳」や「一見自明」の議論にしても、二つ以上の規則が衝突して矛盾した場合や一般的な規則が通じないような特殊な場面では私たちはどのように道徳的判断を行うべきか、ということについての答えが得られないという難点がある。一般的な規則は一見すると自明で絶対的なものであるように思えても、実際にはそれらの規則を生み出して正当化するようなより普遍的な基準や原則があると考えた方が妥当であるし、一般的な規則では対応できない場合にはより上位の普遍的な原則に立ち返って道徳的判断を行う必要があるだろう。

 結局のところ、「知覚的直観主義」も「常識道徳」もそれのみで直観的な道徳判断を正当化するには恣意的で物足りないものであり、"なぜ"直観的な道徳判断や道徳規則が正しいか(あるいは、間違っているのか)ということをより上位の基準や原則に基づいて論じる「哲学的直観主義」が必要とされてくるのである。

 …そして、そもそも常識道徳は「意識せずに功利主義的」(p.92)なのであり、常識道徳に含まれている一般的なルールとして挙げられる「他人に対する慈愛を持つこと」や「嘘をつかないこと」なども、なぜそれが道徳的なルールとされているかという理由を少し考えれば帰結主義的な回答が得られるはずだ。例えば、嘘をついて相手を騙さなければ犯罪の被害に遭うことが確実に見込まれているなどの特殊な場面においては「嘘をつかないこと」という規則を破ることは正当化される、という主張には多くの人がそれこそ直観的・常識的に同意するが、それも人々が帰結的な判断を行っているからであろう。道徳的個別主義は「ある場面においては正しいとされる理由を持つ道徳的判断が、似ているが違う要素のある別の場面では別の理由によって間違っている」ということを論じるが、ある道徳的判断の正否が二つの場面において変わってくる理由も、異なる場面において同じ道徳的判断をすることがもたらす結果の違いによって論じることができるだろう。このようにして、次章からは著者らとシジウィックは帰結主義功利主義の正当性を擁護していくのである…。

 

 

Moral Reasons

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