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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

倫理学と進化、客観的な道徳的真実の存在などについてのピーター・シンガーの文章

倫理学

 

 今回紹介するのは倫理学者のピーター・シンガーがABC放送局のホームページに6年前に掲載した文章。1981年に発表されたシンガーの著書『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』が出版から30周年で新版が出たことを記念する的な文章。

 記事のタイトルとは裏腹に、進化論について書かれているのは前半と終盤のわずかな範囲で、シンガーの倫理学的立場の変遷についての話が主となっている。

 哲学的な話なので翻訳には全く自信なし。

 

www.abc.net.au

 

倫理学と進化:『拡大する輪』出版から30年」 by ピーター・シンガー

 

社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

 人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

 彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『拡大する輪』を書かせるきっかけとなった。『拡大する輪』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『拡大する輪』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

 社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

 その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

 30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。自分たちが主張している科学的な突破口は、哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず哲学者たちの思考の代替物となるものである…と一部の科学者たちが主張していたことが、哲学者たちの軽蔑の原因であるかもしれない。この点については『拡大する輪』の第3章「乗っ取り宣言」で言及している。

 科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『拡大する輪』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

 だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『拡大する輪』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

 対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

 しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

  そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

 もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

 現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

 もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

 更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

 このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

 このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

 私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

 1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

 では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)思慮分別の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

 シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

 しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

 論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

 だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『拡大する輪』の第3章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

 ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

 論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

 例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『拡大する輪』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

 このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

 だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

 この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

 私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

 この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる思慮分別の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

 しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

 そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

 その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

 私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

 客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

 

 

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「環境運動の不都合な真実」by ジョシュア・ゴールドスティン & スティーブン・ピンカー

時事問題 社会運動

www.bostonglobe.com

 

 今回紹介するのは、国際関係学者のジョシュア・ゴールドスティンと心理学者のスティーブン・ピンカーが2015年の11月にBoston Globe誌に掲載した記事*1

 地球温暖化問題を解決するという環境保護運動の目標を否定する記事ではなく、環境保護運動の一部はイデオロギーのために事実を直視することができずに誤った戦略を行ってしまっている、という点を指摘する記事である*2

 

 

「環境運動の不都合な真実」by ジョシュア・ゴールドスティン & スティーブン・ピンカー

 

 

 共和党の議員たちは、票を得るための手頃な方法として気候変動を否定している。「私は科学者ではないが…」という前置きは(訳注:2010年頃の共和党のスローガン的な言葉であった)「石油をどんどん掘れ!(Drill, Baby, Drill)」に代わる言葉となっている*3。しかし、事実を否定することは環境運動の多くにも蔓延している。気候変動が人類にもたらす脅威に世界の目を向けさせたことについては、環境運動家たちは多大な称賛に値している。だが、気候変動という問題はあまりにも巨大であるからこそ、この問題を解決するための計画が断固として必要である。伝統的な環境運動家たちは解決策を提示することよりも自分たちの大義を主張することに気を取られてしまっており、大義を主張をするために環境運動家たち自身もいくつかの不都合な真実を否定してしまっているのだ。

 第一の不都合な真実とは、今のところ化石燃料は人類にとって善いものであるということだ。産業革命は先進国の平均余命を2倍に伸ばして裕福さを20倍にまで増殖させた。発展途上国に工業化が普及するのに伴って、何十億人もの人々が貧困から抜け出しているのだ…より多くの食料が得られて、より長寿で健康に生きられて、より良い教育を得られて、より少ない数の赤ん坊を育てている…安価な化石燃料のおかげで。インドのような貧しい国では、上述したような進歩を促進するために、市民たちは安定性のある電力を望んでいるしそれを提供できない政府を選挙で辞めさせるつもりでもいる。化石燃料を燃やすのは止めろとアメリカの環境運動家たちが世界に向けて言う時には、インド人たちが望んでいて手に入れるべきでもある繁栄をもたらすための代替案を提示する必要があるだろう。

 このことは第二の不都合な真実をもたらす。世界で最も豊富で拡張可能な無炭素エネルギーは原子力である、ということだ。今日の世界では、原子力発電所が建てられないとすれば化石燃料発電所が建てられることになるし、世界の大半では石炭が燃やされることになる。しかし、原子力の使用は停滞しているし、縮小すらもしている。

 原子力は諸々の心理的なスイッチを押してしまうので…毒に対する恐怖、大惨事を想像することの容易さ、慣れ親しんでいない人工物への疑念…化石燃料に比べて理不尽に高い基準が課されてしまう。炭鉱での災害で何十人もの人々が犠牲になったり、深海の原油が流出して海を広大な範囲に汚染したりしても、石炭や石油に関わる産業を閉鎖しようとする人はいない。一方で、2011年に日本の福島原子力発電所で起こった事故は誰も殺さなかったが、ドイツに原子力発電所を閉鎖させてしまった。ドイツでは汚れた石炭が静かに取って代わった。フランスですら…自国の電力の4分の3を原子力で賄っており、また原子力事故が一度も起きたことのない国であるのだが…環境運動家からの圧力のために、多くの原子力発電所を閉鎖することを計画中である。

 今日では原子力は比較的高価であるが、その理由の大部分は、原子力が膨大な規制のハードルを越えなければならないのに比べて化石燃料のハードルは低いからである。最新の第四世代原子炉の配置までには10年かかるが、現在の原子炉が出している廃棄物を燃やすので、より安価で安全に運転されることになるだろう。

 原子力がなければ、温暖化の危機を解決するために必要な電力の数は単純に足りなくなる。太陽光発電風力発電は迅速に成長しているが、それでもまだ電力の総生産量における割合は太陽光は1%で風力は4%であるし、世界における需要を満たす程の速さで生産量を増やすことはできない。さらに、太陽光や風力などのエネルギー源は途切れのある間欠的なものであって、未だに基礎科学の段階であるバッテリー技術が大きく進歩しない限りは、充分に送電することができないであろう。もしこの問題が解決されたとしても、再生可能エネルギーがもたらすであろうと見込まれているエネルギーを三倍に見積もるべきではない。現在の化石燃料による電力を補って、原子力発電を退場させて、天井知らずに増え続ける発展途上国の電力需要を満たす…その全てを再生可能エネルギーで行うことは不可能なのだ。

 この議論は、ジェームズ・ハンセンやステュアート・ブランドなどの現実主義的な環境運動家によって熱心に主張されてきたものである。しかし、グリーンピースやシエラ・クラブなどの最も規模が多くて声も大きい集団は反原子力に固執し続けている。

 第三の不都合な真実は、気候変動の問題はイデオロギーを超えなければいけないということだ。この真実を否定するものとしても特に有害であるのは、気候変動に対処するためには不平等・企業の強欲・レイシズム・政治的な腐敗などの積年の社会病理を解決しなければならない、という政治的な左派たちの自惚れである。ナオミ・クラインによる"全てを変える(Change Everything)"キャンペーンは、地球温暖化の問題を左派による諸々の社会運動を前進させるための好機であると見なしている*4。左派による各種の社会運動の目標についてあなたがどのように考えているとしても、そして私たちもその目標の多くには同意しているとはいえ、気候変動がもたらす大惨事を防ぐことの優先順位が他の問題によって誤魔化されるべきではないのだ。

 人々からの指示を得ようとするために、憎むべき敵こそが問題の原因であるという物語も左派は語っている。コーク兄弟、エクソンモービル、そして共和党がこの物語の悪役に抜擢されたがっているようだ*5。だが、もしこれらの悪魔どもが奇跡的に消滅したとしても、もっと良い燃料を見つけるまでは私たちが化石燃料を燃やし続けることに変わりはないのだ。

 では、環境運動家たちは何を求めるべきなのか?第一に、政府は低炭素エネルギー技術を研究して発展させるための計画をアポロ計画並みの労力で実行する必要がある。バッテリー、原子力、液体バイオ燃料、そしてカーボンキャプチャーのための画期的な技術革新が必要とされているのだ。これらの最終的な公共善のために必要とされている資金は膨大であり、民間企業が行うにはリスクが大きすぎて報酬は少なすぎる。だが、政府なら簡単に資金を出すことができるだろう。

 第二に必要なのは炭素税である。個人や企業が大気中に炭素を排出することに課金をするのだ。このような税金は自然保護・脱炭素化・研究開発へのインセンティブを与えるであろうということに、経済学者たちは政治的立場を超えて同意している。特定の産業や製品を規制することよりも遥かに効率的にインセンティブを与えるのだ(産業革命より前の時代の生活スタイルに戻るように人々に説教することが与えるインセンティブについては、言うまでもないだろう)。炭素税がなければ、化石燃料…特に豊富であり、運搬が容易であり、エネルギーが圧縮されている燃料…を使用することには利点が多過ぎるのだ。だが、市民気候ロビー(Citizens' Climate Lobby)による大々的なキャンペーンにも関わらず、本来なら容易であるはずの炭素税という政策は政治家たちにも大衆にも目を向けられていない。

 今日では、気候変動を防ぐための社会運動はあまりにも多くの弾を放ち過ぎている。大臣を辞職させる、禁欲主義を力説する、資本主義を終わらせる、敵を悪魔のように見せる、終末の日を予言する、全てを変える。こんな手当たり次第のキャンペーンには道徳的痛快さがあるのかもしれないが、このようなキャンペーンのいずれも破滅的な気候変動は防げない、という最も不都合な真実を認識することから人々を遠ざけてしまっている。ひとまず運動に"一時停止"ボタンを押して、算数を行ってから、実際に問題を解決することができる政策群の組み合わせを実現するために改めて動き出すべきだろう。 

 

*1:

ピンカーのゴールドスティンのコンビによる記事は以前にも紹介している

2016年4月の世界における戦争と暴力の状況 (ジョシュア・ゴールドスティンとスティーブン・ピンカーの記事) - 道徳的動物日記

*2:ゴールドスティンは著書『Winning War on War』にて、「平和運動は"(経済格差の撤廃、ジェンダーの平等、反グローバリズムなどの)正義が達成されなければ、本当の平和も達成されない"というイデオロギーに結びつくことが多く、戦争反対とは別の論点を運動に持ち込んで"企業や資本主義やグローバリズムが戦争を起こす"などの誤った前提を広めたり、国連の平和維持活動や各国からの人道支援などが実際に平和を達成することに貢献をしているという事実が無視されがちになる」と、この記事で環境運動に指摘しているのと同様の問題を平和運動に指摘している。

 

Winning the War on War: The Decline of Armed Conflict Worldwide

Winning the War on War: The Decline of Armed Conflict Worldwide

 

 

*3:

参考サイト

"DRILL BABY DRILL"・・・今年のナンバーワン・ワード | 人力でGO

Drill, Baby, Drill - YS Journal アメリカからの雑感

*4:

 

This Changes Everything

This Changes Everything

 

 参考サイト

ナオミ・クラインの新刊書。資本主義の害毒 | social-issues.org online community

第29巻 気候vs資本主義 | Democracy Now!

ジョセフ・ヒースのナオミ・クライン批判(セルフまとめ) - Togetterまとめ

*5:コーク兄弟についての参考サイト

コーク(Koch)兄弟についての考察 宮田智之 | 現代アメリカ | 東京財団

「シンシナティ動物園の問題はゴリラを射殺したことではなく、動物園であることそのものだ」 by ローリー・グルーエン

動物倫理 動物園

www.washingtonpost.com

 

 今回紹介するのは、倫理学者のローリー・グルーエン(Lori Gruen)がワシントン・ポストに投稿した記事。グルーエンは霊長類保護に関するプロジェクトにも積極的に関わっている人のようであり、最近では動物や人間を監禁状態に置くことに関係する倫理問題を取り上げた論文集『 Ethics of Captivity(監禁の倫理)』を編集している。

 

 

The Ethics of Captivity

The Ethics of Captivity

 

 

 

シンシナティ動物園の問題はゴリラを射殺したことではなく、動物園であることそのものだ」  by ローリー・グルーエン

 

 シンシナティ動物園にて、柵を潜り抜けた4歳の男児がゴリラの囲いの中に落ちてしまい、絶滅危惧種のゴリラであるハランべが射殺された*1。この事件は大きなトラウマを残す出来事だった…男児にとっても、殺されずに済んだゴリラたちにとっても、目撃者たちにとっても、動物園のスタッフにとっても、そして檻に囚われている動物たちの苦境を悩ましく思っている人たちにとっても。このような悲劇が起きると、誰かが責められなければならないと感じてしまうものである。だが、非難の矛先は見当外れの方向を指している。真犯人は動物園そのものなのだ。

 動物保護団体の人々の多くが、ハランべは男児にとって脅威ではなかったと考えている。ゴリラは攻撃的にならない傾向があるし、もしハランべにそのつもりがあったなら200キロ近くの体重があるゴリラはあっという間に男児を傷付けることができたのであり、好奇心旺盛な生き物と10分間も関わっていなかっただろう。だが、動物保護団体の人々は現場にはいなかった。

 動物園のスタッフたちは、ハランべを射殺する前に彼を子供から引き離すための方策を十分に取っていたのだろうか?雌のゴリラを囮で釣って子供から離れさせることができたのに、なぜハランべは引き離せなかったのだろうか?一部の活動家たちは、ハランべの射殺は動物園のスタッフたちが無能で臆病なために起こったのだと主張している。しかし、シンシナティ動物園のスタッフたちや、別の動物園でハランべを幼児の頃から育てていたスタッフたちは、今回の事件に困惑して途方に暮れている。もしかしたら、一部のスタッフは射殺という軽率な手段に反論したのかもしれない。詳細はまだ分からないところだ。

 男児の母親を責めている人々もいる。どうして母親は自分の息子が野生動物たちの囲いの中に落ちるのを放置したのだ?なぜ母親は息子を制御していなかったのか?囲いを潜り抜けるには相当の時間がかかった筈だが、一体どれ程の時間、母親は息子を監督者がいない状態でうろつかせていたのだ?母親を自称する女性がソーシャルメディアに投稿した内容では、ハランべの死に対する自責の念は示されておらず、ただ神を讃えて彼女の息子を救った動物園の当局者への感謝の意が書かれているだけだった

*2。一部の人々は、母親はネグレクトを行っていたと法律的に認定されるべきだと主張しているし、絶滅危惧種の動物を死に至らしめた咎で訴えられるべきだとも主張している。しかし、彼女は子供を動物園に連れてくる何百万人もの母親の一人に過ぎない。この事件は酷い事故だったが、野生動物を眺めることが娯楽であると子供に教えているのは彼女だけではないのだ。

 私にとっては、責めるられべきは誰なのか、ということは問題ではない。そもそも、人間の子供一人の命と絶滅危惧種の動物一体の命との間で選択を下さなければならない、という状況が起こってしまうこと自体が問題なのだ。野生動物を監禁状態に置くことそのものが問題をはらんでいる。私たちが動物園に動物たちを閉じ込めているからこそ、今回のような悲劇的な選択が行われたのだ。

  ヨーロッパの動物園で定期的に行われている "間引き"の慣習に比べると、アメリカの動物園における動物の殺害数は少ない。とはいえ、動物園が死を引き起こす場所であることには変わらない。ハランべの生命は意図的・直接的に終わらせられたが、動物園に居る動物たちの多くは、監禁されていることそのものによって寿命を短くさせられている。シーワールドのクジラたちがその実例を示している。ゾウも、動物園では若いうちに死んでしまう*3。では、なぜ動物園は存在しているのだろうか?

 よく挙げられる理由の一つは、動物園は絶滅危惧種の野生動物を護り保全している、というものだ。生物種保全を行っている動物園は少数であるが…問題のシンシナティ動物園はその少数の中の一つである。生物種保全のための努力は賞賛に値するものであるし、今回の悲劇を受けてシンシナティ動物園がこれまで以上にローランドゴリラの保護に取り組んでくれることを私は望んでいる。ローランドゴリラたちの生息地は、他のあまりにも多くの野生動物たちの生息地と同じように、危機に瀕しているのだ。

 しかし、監禁された動物たちを"自然に帰す"ことはできない。ハランべのように、生まれた時から監禁状態で育てられた大型動物の場合は特にそうである。敏感で、賢く、寿命の長い生き物であるゴリラが、自然の中における自由を味わう機会もなく閉じ込められ続けることを運命付けられている。動物園に居る動物たちとは、せいぜいが、野生に暮らす同種の動物たちを代表するためのシンボルであるのだ。だが、動物園を訪れる客たちを楽しませるために、そのシンボルも歪められている。動物園は、素晴らしい野生動物たちについての私たちの理解を歪めてしまうし、動物たちは人間の目的のために存在しているのだという認識を与えてしまう。

 もし今回の事件について誰かを責めなければいけないとしたら、私たちは自分たちが暮らす社会そのものに目を向けるべきかもしれない。つまり、動物を監禁する制度を支持する社会だ。サンクチュアリという場所で飼われている野生動物たちは、大声をあげている群衆に見られることもなく、自分たち自身のせいではない危険に晒されることもなく生きることができる。もし動物園が今よりもサンクチュアリに近い場所であったならば、誰もハランべを殺すことを選択する必要はなかったであろう。サンクチュアリとは野生動物の幸福が最優先に配慮されている場所であり、動物たちは尊厳を持って扱われている。4歳の男児とその家族たちはIMAXの映画館でゴリラを眺めることもできたのだ。人間たちは好奇心を安全に満たせることができたし、ゴリラたちは尊厳を持って平和に生きることができていただろう。

 

 

 グルーエンに関する、当ブログの過去記事。

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

「原爆の夏から70周年」 by マイケル・シャーマー(世界的な核兵器廃絶の展望についての議論)

時事問題 歴史

www.scientificamerican.com

 

 今回紹介するのは、マイケル・シャーマー(Michael Shermer)がサイエンティフィック・アメリカン(Scientific American)に掲載した記事「原爆の夏から70周年(The 70th Anniversary of the Summer of The Bomb)」。2015年の8月6日に発表された記事である。

 

「原爆の夏から70周年」 by マイケル・シャーマー

 

 7月16日。8月6日。8月9日。9月2日。70年目の原爆の夏(Summer of the Bomb)が近づいている。ニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾「ガジェット」を用いた人類初の核実験が行われた日付、日本の広島市に「リトル・ボーイ」が落とされた日付、長崎市で「ファットマン」が爆発した日付、そして日本が降伏して第二世界大戦が終わった日付だ。

 それぞれの結果は、それまでの人類の歴史で目にされてきたどんなことからもかけ離れていた。 7月16日に行われたトリニティ実験では、TNT20キロトン(18100メートルトン)の爆発力を持ったプルトニウム爆弾が30メートルの鉄塔の頂上に落とされ、12キロメートルの高さのキノコ雲が待機中に巻き起こり(現代の民間機が飛ぶのと同じ高さだ)、トリニタイトと呼ばれる放射能ガラス(溶けた石英が砂と混ざり合った鉱物)で一杯になった76メートル幅のクレーターが残された。爆発の音はテキサスのエル・パソにまで届いた。8月6日に530メートルの高度から投下されて広島で爆発したリトル・ボーイはガンバレル型のウラン235爆弾であり、TNT13キロトンに相当するエネルギーを持っていた。リトル・ボーイは広島市の建物の69パーセントを含んだ爆発範囲を全て更地にしてしまい、推計7万人から8万人の人々を殺害した(更に7万人を負傷せさた)。8月9日に爆発したファットマンは爆縮型プルトニウム爆弾であり、TNT21キロトンの爆発は長崎市の44パーセントを破壊し推計3万5千人から4万人の死者を残し6万人を負傷させた。それ以降も日本が降伏しなかったとすれば、マンハッタン計画の指揮者のレズリー・グローブスは8月19日にまた一つ爆弾を落とす準備が出来ていたし、9月にもう三つ、そして10月に更なる三つの爆弾を落とす準備がされていた。ハリー・トルーマンは「未だかつて地球上で起きたことのない空からの破壊の雨」と日本を脅したが、彼は大袈裟に言っていた訳ではなかったのだ*1。(核兵器の威力と破壊性について理屈抜きの感覚を味わいたいなら、アメリカ公共放送サービス(PBS)のドキュメンタリー『 The Bomb 』を視聴するといい…この題材について私が観た中でも最も優れた映画だ*2。映画を製作したローンウルフメディア社は、それまで未公開であった映像を入試しデジタル技術で改良した。その映像の厳粛さには息を飲まされる。)

 

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(訳注:トリニティ実験を写した唯一のカラー写真、撮影者は実験に参加した科学者のジャック・アビー) 

 

 70年後の現在では、9カ国が核兵器を所有している(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国、インド、パキスタンイスラエル、そして北朝鮮)。また、アメリカや他の国々は、イランが10番目の核兵器保有国となることを制するために、低濃縮ウラニウムの生産量の98%と遠心分離機の備蓄数を削減させる暫定合意を結んでいる。70年後の現在も、私たちは核兵器と共に暮らしているのだ。私たちは楽観的になるべきだろうか、それとも悲観的になるべきなのだろうか?楽観的になるのに充分な理由がある、と私は考えている。

 

 第一に、核の抑止力は現在のところ機能している。別の核保有国に対して先制攻撃を始めたとして何か利益を得られる核保有国は存在しないために、相互確実破壊(mutual assured destruction, MAD)という戦略は有効に機能しているのだ。両方の国に報復のための能力が備わっているために、先制攻撃の結果は両方の国(と残りの世界の大半)の徹底的な壊滅となる可能性が最も高い。もちろん、核の抑止力が永続的な解決策になると考えるのは馬鹿げている。失敗した場合の代償はあまりにも高いのだ。西洋を核で壊滅させて世界をカリフ制の時代に戻してやろうと考えている狂信的なイスラム教徒のテロリストや『博士の異常な愛情』に出てくるような偏執狂的な将軍たちは、ハリウッドの脚本家たちが生み出した人物であるとは限らない*3 。だから、私たちはより持続的な解決策を考える必要がある。

 

 第二に、信じようが信じまいが、世界における核兵器の数は減っている。イランや北朝鮮のような国が核による威嚇を行っているのにも関わらず、世界における核兵器の保有数の推計値は、最大であった1986年の7万発から今日の1万5700発にまで減少したのだ(私の著書『 The Moral Arc』の66ページにも掲載されている、下記のグラフを参照)。アメリカ科学者連盟の発表によると、アメリカの7200発とロシアの7500発が現在の核の保有数のうち94パーセントを占めている*4。更に希望が湧くのは、現在の世界には操作が可能になっている状態の核弾頭は4100発しか存在しないことである。その大半はロシアの1780発とアメリカの1900発で、フランスの290発とイギリスの150発がそれに続く。世界が粉々に爆破させられてしまう脅威に対しては、1945年以降では現在が最も安全な状態であるのだ。

 

 

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(訳注:縦軸は核保有数、横軸は年号。黒線がアメリカ、点線がロシア、太線が世界全体の核保有の合計を示している。)

 

 第三に、9か国という核保有国の数は世界全体の国々の合計数のたった5パーセントであるという事実が注目に値する。つまり、残りの95パーセントの国々は核が無くてもうまくやっていけているのだ。

 

 第四に、1964年以降、核兵器開発の計画を開始したがその後に中止した国の数は、計画を開始してそのまま完成させた国の数よりも多い。前者には西ドイツ、スイス、スウェーデン、オーストラリア、韓国、台湾、ブラジル、イラクアルジェリアルーマニア南アフリカ、そしてリビアが含まれている。核兵器を保有しないことを妥当にする理由は数多くあるが、その一つは核兵器にかかる費用が非常に高いということだ。クレイグ・ネルソンの2014年の著書『The Age of Radiance: The Epic Rise and Dramatic Fall of the Atomic Era(輝きの時代:原子力時代の劇的な興亡の叙事詩)』によると、冷戦時代のアメリカとソビエト連邦は12万5000発の核兵器を製造するために5兆5千億ドルという計り知れないほどの費用をかけており、またアメリカは現在でも核兵器計画のために年に350億ドルを支払い続けている*5

 

 第五に、「核兵器ゼロ」を達成するための重要な努力は現在も進行中である。その中には、ヘンリー・キッシンジャージョージ・シュルツ、サム・ナン、そしてウィリアム・ペリーなどの冷戦を戦った人々によって示された計画も含まれている*6。彼らのような専門家たちやグローバル・ゼロのような組織の多くが、私たちが核兵器ゼロの世界を達成するための様々な方法を提案してきた*7。新書『 The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』にて、私はこれらの提案を要約しており、私たちの道徳の長い弧において核兵器ゼロがいかに論理的に達成されるかということを示している*8。以下では、私の議論を手短に紹介しよう。

 

 

 1:核兵器保有数の減少の継続。これまでの傾向に従いながら、世界における核兵器の保有数を2020年までに1000発にまで減らして、2030年までには100発以下に減らすのだ。100発以下とは、核兵器保有国の間での最小限抑止(相互確実破壊という戦略を調節したもの)を維持するには充分な火力である。そして、もし間違いが起こったり狂人が登場して核戦争になったとしても、文明を全滅させるのには足りない火力でもある。

 

 2:先制攻撃の禁止。すべての「先制攻撃」戦略を国際法で違法とする。核兵器の使用は自衛上の目的でしか認められないようにするのだ。この法律に違反して先制攻撃を行った国があれば、国際的な非難や経済制裁の対象として、核による報復や場合によっては侵略も行いその国の政府を倒壊させて、その国の指導者たちを人道に対する罪で裁判にかけるのである。

 

3:核を保有する大国同士で協定を結ぶ。核兵器を保有しているか獲得しようと試みており、核兵器を使用する意思も持っている小国やテロリストに対して、大国同士の同盟は強固な抑止力となるだろう。

 

4:核兵器を「使用すること」のタブーを「保有すること」のタブーへと移行させる。タブーという心理的メカニズムは、すべての種類の人間の行動について効率的に抑止させることができる。第二世界大戦で毒ガスが使用されるのを防いだのにも、タブーが有効に働いていた。化学兵器生物兵器に対するタブーの背後にある心理は、核兵器に対するタブーにも容易く移転する。核兵器が引き起こす殺人的な高熱と放射能は、毒ガスや致命的な病気と同様に、それらが引き起こす地獄の中で無差別に人を襲う不可視の殺人者である。人々が核兵器に対して抱く反感は、脳の中で嫌悪感という感情と結び付いているのかもしれない。心理学者たちは、目にすることができない病気の感染・有害な毒物・不快を催す物質(吐瀉物や糞便など)などに関連付けられた感情が嫌悪感であることを確認してきた。…嫌悪感とは、生存にとって危険な物質から遠ざかるように身体に指示するためのものとして進化してきた反応であるのだ。

 

5:経済的相互依存。二国間での貿易が増えれば、その二国が戦う可能性は低くなる。これは完全な相関関係でなく、例外も存在する。しかし、経済的に相互依存し合っている国々の間では、戦争が起きるほどにまで政治的な緊張が悪化する可能性は低くなる。戦争には費用がかかる。経済制裁、通商停止、経済封鎖などはコストがかかるのだ(プーチンがクリミアを侵略したことがロシアの経済にもたらした効果を見ればいい)。そして、戦争が起これば両方の国でビジネスが停滞することになる。良くも悪くも、民主主義の国では政治家たちは金持ちの利益を気にしなければいけない。金持ちは商売にかかるコストが出来る限り低く保たれることを望むが、戦争となると商売のコストは引き上げられるのだ。このようにして、北朝鮮やイランなどの国々が経済貿易に招き入れられたなら、彼らも核兵器を保有する大国と共依存することになる。そうすれば、北朝鮮やイランもそもそも核兵器を開発する必要性を感じなくなるだろうし、核兵器を使用する必要性はそれ以上に薄くなるだろう。

 

核兵器ゼロへの最も危険性の低い道」とでも呼べる方法を探求するためのシナリオは何十本もある。イスラエル首相のベンジャミン・ネタニヤフはイランの核兵器開発に対して懸念を抱いているが、イランの前大統領(訳注:マフムード・アフマディネジャド)が「イスラエルは地図から抹消されるべきだ」と発言したことを踏まえると、ネタニヤフの懸念は理解できるものだ。それでも、バラク・オバマ大統領が追求しているような種類の外交政策が主な理由となって、過去20年間において核兵器は劇的に減少しているのだ。北朝鮮が核を保有するのを防げなかったのは確かだが、全体としてはオバマが行っているような戦略は他の選択肢よりも優れたものである。何にせよイランは核兵器を保有することになるかもしれないが、イランや北朝鮮経済制裁を行うよりも彼らを世界の国々のコミュニティに仲間入りさせる方が核戦争を予防する可能性は高くなるのだ。

 

 長い目で見れば、私たちは抑止力という罠から抜け出すことが可能である。いまだに脅威が存続していることをふまえると、私たちは核兵器ゼロの世界に向けて早急に行動を開始するべきだ。もしかすれば、原爆の夏の100周年目には世界に原爆はもう存在していないかもしれない。

 

「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー

動物倫理 動物 生物学、動物行動学など 肉食
 
 
 今回紹介する記事は、Project Syndicateに掲載された倫理学ピーター・シンガーのコラム「Are Insects Conscious?」。

「昆虫に意識はあるか?」 by ピーター・シンガー 

 

 昨年の夏、私が栽培していたルッコラの葉にモンシロチョウが卵を産んだ。まもなく、そのルッコラは葉の緑色に上手く迷彩した青虫だらけとなった。私は他にもルッコラを育てていて、その一部は離れたところにあったのだが、サラダにするには充分な量の葉が既に育っていた。そして殺虫剤も使いたくなかったので、私は青虫たちを放置することにした。すぐに、ルッコラの葉は一つ残らず茎まで食べ尽くされてしまった。もはや食べるものがなくなった青虫たちは蛹になることもできずに飢えて死んでしまった。 

 私が目にしたのは、私が長い間知識としては受け入れてきた物事の縮図だ。進化は非個体的な自然過程であり、進化が生み出した個々の生き物の幸福に進化それ自体は配慮を行わない。世界は全知全能である神によって造られたのであり…全知全能だから世界で起きていることを全て見ているはずだ…そして神は善であり崇拝に価するという信仰と、彼らが目にする実際の世界とを神学者たちはどうやって辻褄を合わせているのだろうかと、私は疑問に思う時がある。 

 人間が苦痛を感じるのはアダムの原罪を私たちの全員が受け継いでる筈だからだ、とキリスト教徒たちは伝統的に論じてきた。だが、青虫はアダムの子孫ではない。この問題へのデカルトの解決策とは、動物が苦痛を感じる能力を持つことを否定する、というものだった。しかし、犬や馬については、デカルトの考えを受け入れられる人はほとんどいないだろう。デカルトが存命していた当時ですら受け入られていなかったのだ。今日では、哺乳類や鳥類についての解剖学・生理学・行動学などの科学的な研究が、デカルトの主張に対する反証となっている。しかし、少なくとも青虫には苦痛を感じる能力はない、という望みを持つことはできるのではないだろうか? 

 以前には、科学者たちは昆虫は中央脳を持たないと説明してきた。脳の代わりにそれぞれ独立した神経節が昆虫の身体の各部位をコントロールしている、と言われてきたのだ。もしその説が正しければ、昆虫に意識があるということは想像するのすら難しくなる。 

 しかし、米国科学アカデミー紀要に最近掲載された論文は上述のモデルを否定している*1マッコーリー大学の認知科学者であるアンドリュー・バロンと哲学者のコリン・クレインは、主観的な経験は私たちが認識している以上に多くの動物たちに普及している…そして、私たちが認識している上に旧くから進化の過程で存在してきた、と論じている。 

 主観的な経験(subjective experiences)とは、意識の最も基本的な形態である。ある生物が主観的な経験をすることが可能であるなら、"その生物である"ことというなにかが存在する…そして、その"なにか"には快適か苦痛な経験をすることが含まれている可能性もある*2。対照的に、自動のロボットカーには衝突を避けるため障害物を感知できる探知機が備わっており、そのような障害物を避けるための行動をとることもできるのだが、"ロボットカーである"ことは存在しない。  

 人間の場合、主観的な経験と高度な意識は区別することができる。高度な意識とは自己意識などであり、大脳皮質の機能を要求するものだ。主観的な経験には大脳皮質ではなく中脳が関わっており、大脳皮質に多大な損傷を受けたとしても主観的な経験は継続することができるのだ。 

 昆虫は中枢神経節を持っており、それは哺乳類にとっての中脳と同様のものだ。中枢神経節は感覚情報の処理、目標を選ぶこと、そして行動を指示することなどに関わっている。また、主観的な経験を持つためのキャパシティを提供する可能性も持つ。 

 昆虫というカテゴリの中には非常に多くの多様な種類の生き物が含まれている。ミツバチは100万個近くの神経細胞を持っているが、人間の新皮質は200億個の神経細胞を持つことや、ゴンドウクジラは370億個の神経細胞を持つことが最近明らかになったのと比べると少ないかもしれない*3。だが、花や水や巣の候補地などについての方角や距離に関する情報を伝達するために有名な「ミツバチのダンス」を踊ったり相手のダンスを理解したりするのには、100万個の神経細胞は充分な数なのである。青虫には、少なくとも人間の知る限り、ミツバチのような能力もない。しかし、飢えることに苦痛を感じることができる程度の意識を青虫が持っている可能性はまだ残っている。
 植物についてはどうなんだ?これは、動物は苦痛を感じるのだから彼らを食べるのはやめようと私が提案する時によく投げかけられる質問である。 植物が驚くべき能力を持っていることはよく主張されるが、適切な実験状況で再現可能な観察結果としては、植物が主観的な経験を持っていることを私たちに認めさせるものは現時点では存在していない。バロンとクレインは、植物は意識を持つことを可能にする機構を持っていないと主張している。同様のことはクラゲや回虫などの単純な動物にも当てはまる。他方で、甲殻類や蜘蛛などは、昆虫と同様に、意識を持つことを可能にする機構を持っている。 

 もし昆虫が主観的な経験を持つとしたら、私たちが考えていたかもしれないよりも遥かに多くの意識が世界には存在することになる。スミソニアン協会の推計によると、およそ100京匹(10 の 18 乗、10,000,000,000,000,000,000)の昆虫の個体が世界には同時に生きているのだ*4。 

 彼らについて私たちがどのように考えるかは、彼らの主観的な経験とはどのようなものに成り得るかということについて私たちがどのように信じるか、ということにかかってくる。このことについては生物の機構を比較したとしても得られる情報はあまりない。もしかしたら、青虫たちは私のルッコラで饗宴を開催することで充分な幸福を味わったために、その惨めな死にも関わらず彼らの一生は生きるに値するものであったかもしれない。
 だが、その反対の場合も少なくとも同じだけ有り得る。 モンシロチョウのような非常に多産な動物の場合、彼女らの子供の多くは孵化した瞬間から飢え続けることになるのだ。

 

 西洋では、進行方向にいる蟻を踏んでしまわないようにホウキで払うジャイナ教の僧侶たちに対して微笑んでしまう人々が多い。しかし、微笑むのではなく、論理的な結論に基づいた同情を実践する僧侶たちを私たちは賞賛するべきなのだ。

 だからと言って、私たちは昆虫の権利を主張するための運動を行うべきである、ということにはならない。権利運動を行う程には、昆虫が持つ主観的な経験とはどのようなものであるかということについて私たちはまだ充分に知っていない。また、いずれにせよ、世界は昆虫の権利運動を真剣に受け止めてくれるには程遠い。まず、真摯な配慮の対象を脊椎動物へと拡大することを完遂する必要があるだろう。脊椎動物が苦痛を感じることには、昆虫と比べて遥かに疑いが少ないのだから。

 

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

*1:What insects can tell us about the origins of consciousness

*2:訳注:原文は以下のとおり。

"If a being is capable of having subjective experiences, then there is something that it is like to be that being, and this “something” could include having pleasant or painful experiences. "

訳者としては、トマス・ネーゲルの「コウモリあるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」を連想した。

 

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

 

*3:Quantitative relationships in delphinid neocortex

*4:Encyclopedia Smithsonian: Numbers of Insects

「弾劾の政治」 by クリスティアン・ウィリアムス

時事問題 社会運動 フェミニズム

towardfreedom.com

 

 今回紹介するのはクリスティアン・ウィリアムス(Kristian Williams)の「弾劾の政治(The Politics of Denuncation)という記事。

 ウィリアムスはアナーキストの研究者だが、本人のホームページを見るとコミックに関する研究も行っているようだ*1。活動家でもあるようで、この記事も活動家して最近のフェミニズム運動や社会運動一般の独善的・排他的な傾向を批判する、という趣旨の記事。正直言って読みにくいしあまり論理的な文章でもないと思うが、社会運動一般に対する指摘として的を得ている部分も多いと思うので訳して紹介することにした。翻訳もところどころキツいところがあったので原文を読む方を推奨する。

 また、この記事を書いたために著者は一部の活動家から目の敵にされることになり、ポートランド州立大学でスピーチを行おうとしたら妨害された、という後日談的な事件についての記事も以前に訳している。

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「弾劾の政治」 by クリスティアン・ウィリアムス

 

 2013年の2月28日に行われた「家父長制と運動」と題された会合にて、ラディカルな組織運動の文脈でドメスティック・バイオレンスやその他の虐待に取り組もうと試みることについて、私の友人が彼女自身の実体験に基づいたいくつかの質問を投げかけようとした。

「なぜ、私たちが見てきたようなラディカルなサブカルチャーでは、説明責任のプロセス(accountability process)がこれ程にも頻繁に失われるのでしょうか?」と彼女は質問した。「サバイバー(訳注:性的暴力事件等の被害者)が癒えることを支援することと、加害者が責任を釈明できるように保つこと(holding perpretrators accountable)との間には緊張関係があるのでしょうか?」

 

 その時点で、まさに文字通り、彼女の発言は途絶えさせられた。観衆とパネリストの両方を合わせた群衆から怒りの叫びが湧き上がった。あっという間に彼女の声を聞くことは不可能になり、数秒後、彼女は喋ろうとすることそのものを止めてしまった。

 

 その次の週に起こった不信用と相互告発のムードは、20年間に渡りラディカルな組織運動を行ってきた私も初めて経験するようなものだった。数人が、具体的な罪を犯したとして非難された(私の友人もその一人だ。彼女は会合の「セーフ・スペース」のポリシーを侵害し、観衆の人々の「辛い感情を引き起こし」(triggering)」、彼女の発言には「家父長制のメカニズム」が用いられていた、として非難された)。別の人々は、明示はされていないが虐待的で性差別的な行動を行ったとして呼び出された。そして遥かに多くの人々が、有罪とされた人々の行為を支持していたか擁護していたか容認していたということにされた。

  

 争議は続き、少なくとも一つの政治的組織運動が破壊されることになった。そして、驚くほど多くの活動家たちが(その多くは10年以上活動してきた人たちである)、政治運動をそのものを止めてしまうことを口に出していた。友人や恋人を失った人もいるが、彼らが行った何らかの行為が理由ではなく、事態について抱いた感情が別れた理由だ。複数の人々が(興味深いことにその大半は女性だ)、論争について何か発言をすること自体を恐れていると私に打ち明けた。台本にない発言をしてしまうことで、彼女ら自身も悪いフェミニストであると弾劾されてしまうことを恐れていたのだ。

 

疑問

 

 虐待的な行動にいかに取り組むかということと相互が釈明をできるように保つことの間には特に関係性があるはずだ、という疑問が論争の最中に提起されるだろうと思った人もいるかもしれない。しかし、会合の後に匿名の「家父長制と運動」運営者たちが発表した声明では、そのような疑問が提起されることそのものが禁じられていた。

 

サバイバーが必要とすることに関わる言説を「政治的な意見の不一致」または「政治的な議論」と意味づけようとすることそれ自体が性差別的である、と我々は考えています…このような議論からは主観的な語りは欠けるべきであるかのように装い、また議論そのものは実際の権力に関することではないから人々は議論の場では平等であるかのように装い、この議論そのものがすでに人種やジェンダーの影響を受けているのでは無いかのように装うからです。この議論には中立的か客観的な合理性が存在すると示唆している点でも問題です。むしろ、議論そのものや議論の内容とは、支配的な権力の動態によって社会的に左右された結果なのです。

 

  客観性、平等、非歴史性、人種とジェンダーの中立性、そして権力の不在…これらの全てが政治的な枠組みによって成り立つものであるとしたら、そもそも政治的な議論が可能であると考えることすら難しくなる。ジェンダーに関する議論に限らない、全ての政治的な議論においてだ。他方で、もし政治的な議論がこれらの条件に依存しているとしたら、政治的な議論は不可能であるどころか不必要になってしまう。政治的な議論とは真実を巡る論争であり、歴史・アイデンティティ・不平等・権力に関する事実が問題となる。議論が、政治を形作り意味や意義を与えるのである。引用した声明の2文目は1文目と矛盾している。この論争に関する議論は政治的であり得るはずがない、なぜならこの議論は必ず政治的であるからだ。

 

声明は続く。

 

この「議論」は直接的な結果をもたらすのであり、物理的な身体が関わっているのです。サバイバーとしてもフェミニストとしても、私たちは自分自身の身体について気をつけなければいけません。自分自身の安全、自分自身の幸福に気をつけるのです。同様に、私たちの身体の周辺にあるニーズ(needs)、安全、幸福が「政治的な議論」の対象にされてしまいます。私たちにとっては「議論」の利点とやらよりも重大なものが賭けられているのです。私たちの身体、安全、健康、個人的な自律、幸福が賭けられているのです。私たちを犠牲にして「政治的な議論」を行おうとする人に私たちは同意しません。議論の結果は私たちの生死に関わるものとなるのかもしれないのです。

 

 これは事実だ。説明責任についての議論には深刻な結果が存在する。原則だけでなく、生命も賭けられている。だが、そのことはこの問題について議論をしない理由なのではなく、むしろ、まさに私たちが議論をしなければならない理由であるのだ。

 

 政治が何かを意味するとすれば、私たちが下す判断には結果が…時には、文字通り生死に関わる結果が …存在するということだ。戦争、気候変動、移民、警察、健康保険、労働条件…これら全ての領域で、ジェンダーと同じように「身体、安全、健康、個人的な自律、幸福が賭けられている」。それこそが、政治が問題となる理由だ。

 

誤謬

 

 フェミニズムを政治よりも上位に位置づけようとするために、実のところ、運営者の声明はまさに具体的な種類の政治を行っている。「家父長制と運動」の運営者たちは、権威的にかつ匿名的に語ることで、特定の疑問は禁止であると断言している。彼女ら自身が行った会合について(遡って)疑問を投げかけることだけではなく、どのような場合でもその疑問を禁止しているようである。それらの疑問には一つしか答えがないと想定されているのであり、その答えは既に知られているから、それらの疑問を投げかけることは許されないのだ。その答えとは、事実上、「サバイバーが言うことはすべて正しい」ということである。   

 

 この理論の下では、サバイバーだけが要求を行う権利を持っているのであり、他の人々は疑問の余地なく加害者に対する懲罰を認めなければならない義務を負っている。ここでは、被害者による全ての主張を事実として扱う、ということが明白な前提となっている。そして、多くの場合は特定の主張が行われる必要すらない。ある人の行動を…そして、彼の人格そのものを…「性差別主義」「女性嫌悪的」「家父長的」「人を黙らせる」「人に危険を引き起こす」「安全ではない」「虐待的である」と形容すれば、それで充分なのである。そして「悪は悪であり、悪さがマシであることはなく、悪さの間に差異はない」という原則(on the principle that bad does not allow for better or worse)の下では、これらの単語は好きなように入れ替えて使用できる。結局、証明される可能性もあれば反証される可能性もある告発を行うことが要点なのではない。判決を下すことが要点なのだ。そして、悪し様に言われた人のことを、多くの人々の集団が嫌いになり、 彼が何をしたとされているかということを知っている振りすらすることもなく、彼を罰することが可能になってしまう。彼が加害者であると「告発された」こと が大切なのであり、他のことは関係ないのだ。

 

 このような手法は、実際の人間の生活の複雑さに蓋を閉じて見えなくしてしまう…それこそが、この手法の魅力であるのだが。私たち全員が演じている様々な役割、私たち全員が体現しながら生きている緊張関係、私たちを抑圧する権力のシステムを維持することに私たち全員が関わっているということ、などの複雑さを見えなくさせるのだ。  

 

 この図式のもとでは、あるサバイバーが同時に加害者であることは有り得ず、ある加害者が他の誰かの暴力のサバイバーであることも有り得ない。もちろん、過去に被害を受けたことは現在の加害を正当化もしないし許しもしないが、ここで用いられている二分法は事態をあまりにも狭く定義している。同様の理由で、将来の癒やしや成長の可能性もこの二分法は先回りして潰してしまっている。

 

 代わりにこの図式がもたらしているのは、二分法の再保証だ。サバイバーと加害者を、私たちが時には演じることのある役割や時には立つことのある立場として見なすのではなく、特定の種類の人々は本質的にサバイバーや加害者なのでありそれらのカテゴリに永久に囚われている…という二分法である。そして、社会的慣習やステレオタイプに基づいた二つの成分に(付随的にではなく)ジェンダー化される。それぞれの人には役割が割り当てられているのであり、物語における彼らの立場のためにある程度まで矮小化される。ある人は加害者でしかなく、別の人は被害者でしかない。それぞれが、自分が起こした苦しみか自分が耐えた苦しみによって定義される…だが、両方はあり得ない。

 

 二重の変動が起こることになる。権力の形態や社会的階層のシステムとしての家父長制は消滅し、その代わりに、ある男性の個人としての振る舞いや思考までもが家父長制を擬人化したものだということにされる。同時に、加害者とサバイバーの両方が脱人格化されて、彼女らの生の物語や文脈は抜き取られてしまい、ある種の道徳劇における記号的な役割にされてしまうのだ。

 

 そして、私たちの吟味(sccrutiny)の対象は虐待から虐待者へと移行し、行為から行為者へと移行することになる。すでに行われた危害を癒す方法を見つける代わりに、その危害の責任者である男性の人格を審判することに私たちは集団的な労力が費やされる。被害者への支援が加害者への辛辣な批判と同一されて置き換えられてしまう。このように道徳的な憤りを表現することは、無罪であるという宣言や問題となっている人の美徳を示す証拠を上回るのだ。そのようにして、彼女らは奇妙に義務的な方法を見つけることになる。私たちはある特定の人が擁護できない行為に手を染めたかどうかを知りたいのではなく、彼が台無しになってしまったかどうかを知りたいのだ。そして、彼を「容認」するか「擁護」するか「支持」する人も、あるいは彼のことを好きに思っている人さえも…あるいは、単に彼を弾劾することを怠った人も…非難の分け前を受けなければいけない、と考えることにも何らかの意味が通るようになってしまう。そして、「正しい」側に並ぶことへの強烈な衝動がもたらされることになる。他の人たちと同じように自分までもが呼び出されて非難される前に、弾劾に同調してしまえばいいのだ。

 

含意

 

 ここには自滅的なイデオロギーが働いている。性的暴行、ドメスティック・バイオレンスやその他の家父長制の影響を取り巻く問題に対処する能力を増加させるのではなく、むしろそのような能力が減少した運動をもたらす。議論において特定の疑問を禁止することは、学習や改善を向上させはしない。公然と人を辱めるムードは、悪事を犯した人に対して、罪を認めることや罪を償うことを行わない方に導く強烈なインセンティブを与える。人々の感情が昂ぶった環境は、説明責任を果たそうとする人や支援を行う人にとって物事を難しくするし、説明責任のプロセスに参加することに意欲的な人に汚名を着せることになる。そして、特定のイデオロギーを発展させるための政治的なシンボルとして、サバイバーを矮小化して彼女の経験やニーズが利用されることになるかもしれないのだ。

 

 権威・説明責任・懲罰・排斥に関わる疑問を考慮することを禁止するという、非常に権威主義的な政治も関わっている。実質的にはフェミニストたちの慣習の独占が主張されており、他のフェミニストの観点は排除されている。そして彼女らは自分と同意しない人を黙らせるのだ…「家父長制と運動」の会合で文字通り黙らさせられた人のエピソードが示しているように。

 

  私が描写してきたような状況では、これらの動向はフェミニズムの名の下に行われてきた。だが、このような傾向がフェミニズムだけに止まると考える理由はどこにもない。同様の戦略は、アイデンティティ・ポリティクスのどのような派閥にも実行可能であるし、自分たちからブルジョワジーの影響を取り除くことを目指しているイデオロギー的なセクトや暴力的な文化を完全に脱出したいと願っている平和主義者や文明からの脱出を目指している環境主義者たちにも実行可能であるし、人伝えに聞いた他人の短所を非難することでラディカリズムを成り立たせている全ての人たちに実行可能だ。

 

 相互に欠点を見つけあうことは政治的な同調を執拗に必要とすることを更に過剰にし、敵に包囲されていて孤立しているという感覚は…一方では独善的なある種の競争性と、他方ではマゾヒスティックな罪の気持ちと合わさって…私たちが見てきたような相互を傷付け合う争議が起こることを保証してしまう。ポートランドだけでなく、オークランド、ミネアポリス、ニューヨークなどでも同様の事態が起きることになるのだ。

 

 全体主義的な衝動は表出されており、それはあまりにも破壊的であることが明らかになっている。ある部分では私たちが意見の不一致・論争・暴力に対処する手段を見つけることに常に失敗し続けているからであるし、お互いの説明責任を保つことに失敗し続けているからである。それらに対処する手段を持っていないので、私たちは…あまりにも頻繁に…イデオロギー的純度のテスト、友人集団間の部族主義、同調圧力、辱めて追放すること、攻撃的な影口やインターネットでの罵倒戦争などに頼ってしまう。このような行動は、長い間私たちの政治文化の一部となってしまっている。

 

 そうすると、人々を惹きつけようとするのではなく追い出そうとする私たちの傾向に驚くべきではない。だが、私たちが人を追い出そうとするとき、有意義な行動をするための能力は減少してしまう。懐疑と排斥のサイクルが登場することになる。私たちが能力を失い、社会全体に影響を与えることへの興味さえも失ってしまうにつれて、私たちは自分たちの自身の集団内での考えやアイデンティティに更に集中してしまうことになる。私たちは悪意を持ってお互いを監視して、誰かが違反をしたときには…あるいは、単に誰かに腹を立てられただけでも…仲間からの支持を失ったその人を追い出してしまう。私たちの集団が更に小さくなり続けるにつれて、些細な違いの重大さが増し続けて、更なる疑惑・非難・そして排斥へと導かれる…そして、さらに集団は小さくなる。

 

 言い換えるなら、私たちは運動ではなく舞台(scene)のように振る舞うのだ…それも、特に排他的で、狭量で、非友好的な舞台だ。
   

ヴィジョン

 

 ここで起こっている問題は、政治的な運動が持つべきヴィジョンからはあまりにもかけ離れている。

 

 あるヴィジョンでは、ある運動とそれに関わっている人々は全ての物事において非の打ち所がなく、人々が見習うべき模範例として存在しているのであり、光り輝く丘の町であって、現在存在している社会の欠点からは離れたところに存在している。このような理想を達成するためには、私たちはヤギの群れからヒツジを取り出さなければならず、悪い人々から良い人々を、その他全ての人々から本物のフェミニストを取り出さなければならない。このような見解は、ほとんど自動的に、自分たちの内集団のドグマに従う傾向を生み出す。ただ正しいことを行うだけでは充分ではないのだ。ある人は正しい思考で考えていなければいけないし、正しい人々の眼鏡に適わなければいけない。

 

 対照的に、別のヴィジョンによると、運動は人々を惹き付けなければいけない。傷ついた人たち、悪い行為を行ったことのある人たち、自分自身の政治をまだ探している途中の人たちも惹き付けなければいけない。そのため、性的暴行や他の虐待に立ち向かうためには、実際にそれらの行為を行っている人と関わることが要求される。私たちは、抑圧に対して立ち向かうのと同様に、抑圧を行っている人に取り組む必要もあるのだ。

 

 どちらのアプローチも簡単ではない。性差別的な社会の中でフェミニストの慣習を発展させるという困難に直面するであろう。だが、フェミニストの慣習を生み出した人たちは家父長制の悪徳から自由である人々であると見なすヴィジョンと、私たちの全員が抵抗している力によって形作られるのであり私たちを抑圧する権力のシステムに私たちも連座しているという認識から物事を始めるヴィジョンとが存在する。前者は主に排斥を行うことによって家父長制を打ち砕こうとするが、後者は変容によって家父長制を打ち砕こうとする。

 

 言い換えると、私たちが直面している問題はこれだ。私たちの政治は純潔さを目指しているのか、それとも変化を目指しているのか?

 

 

 

 

 

「マルクーゼはいかにして今日の学生たちを親世代よりも不寛容にさせたか」 by エイプリル・ケリー・ウォスナー

時事問題 社会運動 学問論

heterodoxacademy.org

 

 今回紹介するのは、昨年にHeterodox Academyに掲載された、エイプリル・ケリー・ウォスナー(April Kelly-Woessner)という人の記事。ウォスナーは政治科学者で、高等教育と政治の関係について論文を書いているようだ*1

 

 

「マルクーゼはいかにして今日の学生たちを親世代よりも不寛容にさせたか」 by エイプリル・ケリー・ウォスナー

 

 マッカーシズムの時代に政治的寛容についての本を書いたサミュエル・ストウファーは、アメリカ人たちとは概して不寛容な集団である、という結論を書いた*2。しかし、若い人々は彼らの両親たちの世代よりも寛容であるという調査結果もあったので、世代が交代することと教育の量が増加することにより時が経るにつれてアメリカ人たちは寛容になり続けるであろう、ともストウファーは結論付けた。だが、ストウファーは新左翼の登場は予期していなかった。私は、新左翼表現の自由に関する私たちの考えを改変させてアメリカの若い世代における政治的寛容を著しく低下させた、と論じている。スタンリー・ロットマンとの最新の著書『The End of the Expriment』の中で1章を割いて主張した議論だ*3。以下では私の研究結果の概要を述べよう。

 まず、若者たちは彼らの親世代よりも政治的な寛容さが減少しているが、この事態は社会科学者たちが60年以上に渡って観察してきた傾向とは逆行している、ということを論じよう。政治的寛容の一般的な定義とは、人気のない集団(unpopular groups)にも市民的自由や基本的な民主的権利を与えることについて快く思えることである。つまり、ある人が寛容であるためには、彼にとっての政治的な敵対者が民主主義のプロセスに充分に参加する権利を承認しなければならない。一般的には、人気のない集団や自分が嫌っている集団に関して、その集団の人たちが政治的権利を行使すること・公的に発言すること・大学で教えること・公共図書館に彼らの本を置くこと等を認められるかどうかを質問することで、人々の政治的な寛容さを計測することができる。

 実のところ、アメリカ人たちの寛容さは増していない。むしろ、過去に嫌っていた集団から新しい集団へと嫌う対象が移行したのだ。例えば、一般社会調査(General Social Surver, 以下では GSS)によると現代で最も好かれていない集団とは「アメリカ合州国に対する憎悪を説くイスラム教聖職者たち」であり、2番目に好かれていない集団は「黒人は遺伝的に劣っている、と信じている人たち」である。特に重要なのは、これらの集団に対する寛容度は40代の人々に比べて20代や30代の人々の方が実際に低い、ということだ。2012年のGSSによると、反アメリカ的な憎悪を説くイスラム教聖職者に最も寛容なのは40代の人々であり、そのような集団がコミュニティにおいて公の場で意見を述べることは認められるべきではないと答えた人の割合は43%だった。30代の人々では、上述した集団の発言を禁じることを認める人の割合は52パーセントであり、20代になるとその割合は60%にまで跳ね上がる。また、軍国主義者・共産主義者・人種差別主義者に対しても、若者たちは中年と比べて不寛容であった。この傾向は同性愛者や無神論者に対する寛容には当てはまらないが、それは若者たちはこれらの集団を好んでいるからである(政治的寛容とは誰かを好きであるかどうかの指標ではないが、嫌いな人々に対して政治的自由を認めるかどうかの指標ではある)。

 第二に、若者たちの不寛容は昔の人々の不寛容とは違った要素が理由でもたらされていると論じよう。その要素とは新左翼イデオロギーである。「新左翼の父」と呼ばれているヘルベルト・マルクーゼは、進歩的な社会目標に反対する人の政治的な表現を否定する哲学を生み出した。1965年の評論「抑圧的寛容(Repressive Tolerance)」の中で、マルクーゼは以下のように書いている*4

「恐怖や苦悩のない世界を達成するための機会を妨害するか、そうでなければ破壊するようなものであるために寛容に扱われるべきでない政策・状況・行動様式までもが、寛容に扱われている。この種類の寛容は、真正なリベラルが抗議している対象であるマジョリティによる暴政を強化するのだ ... 開放的寛容(Liberating Torelance)とは、右派の運動に対する不寛容と左派の運動に対する寛容を意味することになるであろう。」

 

「開放的寛容」という考えの下では、左派が不寛容であると見なしている考えは抑圧されることになる。「不寛容への不寛容」というジョージ・オーウェル的な議論であるのだが、近年では人々はこの考えに引き付けられているようであり、言論の自由や学問の自由、そして民主主義の基本的な規範への私たちのコミットメントを改変している。40歳以下の人に限定して見てみると、不寛容は「社会正義」への志向と相関しているのだ。つまり、政府は貧しい人や黒人が成功できるように援助する責任があると考えている人たちは不寛容である、ということを私は発見したのだ。重要なのは、黒人以外の集団に対する寛容を見た時にもこの傾向が存在している、ということだ。40代以上の人々に関しては、社会正義に関する態度と寛容さの間には相関は無い。この差異は古典的リベラリズムから新左翼へと価値観が移行したことを反映している、と私は論じている。年長の世代にとっては、社会正義を支持することは言論の自由を否定することを要請しない。つまり、左派的な社会観と政治的寛容との間の緊張関係は最近に登場したものであるのだ。

 第三に、不寛容そのものが社会的な善として分類し直されている、ということを論じよう。60年間に渡って、ほとんど全ての社会科学者は不寛容をネガティブな社会病理の一つとして扱っていた。しかし、現代では自由は安全のためではなく平等のために抑圧されているのであり、左派は不寛容がもたらす有害な効果を以前よりも気にしなくなっているようである。実のところ、左派は不寛容という概念そのものを書き換えてしまった。例えば、政治科学者のアリソン・ハレルは「多文化的寛容」という単語を使っているが、ハレルによると、「多文化的寛容」の定義とは「不愉快に思われるような集団の言論の自由を支持すること」には意欲的であっても「憎悪を促進する集団」の言論の自由を支持することには意欲的でないことである*5。言い換えるなら、自分の不寛容は他者を憎悪から守るためであると言いさえすれば、個人が政治的な敵対者の権利を制限することを多文化的寛容は認めるのだ。これこそがマルクーゼが「開放的寛容」という言葉で意味しているものである。実際に「不寛容への不寛容」という考えは多くの大学で定着してしまっている。言論コード、礼節コード、そしてハラスメントや差別に関する広範囲で大ざっぱな指針などが具体例だ。学生たちは頻繁に抗議運動を行い、憎悪を促進する人間であると学生たちに見なされた人が大学で発言することを禁止している。

 そのような事態は文明的に見えるような場所を作る効果があるかもしれないが、否定的な結果も生じている。実のところ、すべての集団への寛容には正の相関がある。右翼集団の表現に左翼が反対している、という単純な状況ではない。むしろ、ある一つの集団に対して不寛容な人は別の集団に対しても不寛容である傾向があるし、政治的なコミュニケーション一般に対しても不寛容な傾向があるのだ。

 これらの事態は、高等教育における「思想の自由市場」にはどのような影響を与えるだろうか?一方では、私と共著者は「普及した教化(widespread indoctrination,  訳注:学校教育を通じて特定の価値観やイデオロギーを教え込まれること)」と呼ばれるものが存在する証拠はほとんど発見できなかった*6。むしろ、4年間大学に通った学生たちが卒業する時に抱いている政治的価値観や政治的態度は、彼らが入学した時のものと非常に似通っているのだ。しかし、政治が問題ではないとは言えない。自分とは反対の観点の意見を聞くことや寛容を行使することへの意欲をある人がどれだけ持っているかは、その人が反態度的(counter-attidunal)なメッセージにどれだけ触れてきたかによって予測することができる*7。言い換えると、私たち自身の観点に反対する観点からの意見を聞くことは私たちをより寛容にさせるのだ。とすれば、高等教育においてイデオロギー多様性が欠けていることは、不寛容を増加させることになる…特に左派の学生たちの間で。この問題は、2015年のアイオワ州の州都デモインで行ったスピーチでオバマ大統領が力強く論じたことだ*8

 政治的な考えの全ての基準を代表させることに大学が失敗しているのなら、自分たちとは同様でない人々に対する寛容を学生たちが学ぶ可能性は少なくなる。この事態と、新左翼の「開放的寛容」の伝統が合わさることにより、物事の審理(inquiry)や議論よりも怒りや権威(orthodoxy)の方が価値を持ってしまう環境が作り出されたのだ。