道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

読書メモ:『進化倫理学入門』

 

進化倫理学入門

進化倫理学入門

 

 

 前半は進化心理学や人類学などが道徳に関してもたらす客観的知見の概説やおさらい、後半はそれらの知見が倫理学においてどのような含意を持ったりどのように扱われたりどのような影響を与えるかということについてのメタ倫理学に関する議論、という構成。

 いちおう道徳心理学の本もそれなり読んでいる身としては前半はついていけたが、なにしろ私はメタ倫理学が苦手なので、後半はなかなか厳しかった。タイトルには「入門」と付いているが、多くの人にとってはなかなか敷居の高い本ではあると思う。

 全体的なバランスはちゃんと取れており、「進化心理は道徳や規範とは何の関係もない」という極端な進化心理学否定派の主張も「進化によって備わった適応的な行為が正しいのだ」といった極端な自然主義的誤謬派も、どちら側もたしなめられている。また、「人間の道徳的感覚や"善悪""正しさ"という概念は全て進化の産物なのだから、進化論の知見は道徳や倫理の存在を無効化する」という道徳的反実在論と、それに反対する道徳的実在論との議論も終盤で取り上げている。これもまた難しい。

 でもまあ進化と道徳に関する議論は一見想像するよりもずっと複雑で難しいということはわかるので、この本を読んだら、どちら側の主張をするにせよ単純で無責任なことは言えなくなるはずだ。そういう点では広く読まれるべき本かもしれない。

 

 

読書メモ:『モンテーニュ私記 - よく生き、よく死ぬために』

 

モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために

モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために

 

 

 この本からではなく、この本で引用されているモンテーニュの『エセー』文章で気に入ったものを孫引き。

 

私は自分の生活のために使えなかった幸福などは物の数とも思っていません。私は自分がどんな人間であっても、紙の上とは別なところで幸福でありたいと思っています。私の技術と腕前は、この私自身を立派に活かすために使って来ましたし、勉強の方は、書くことでなく作ることを覚えるために充てて来ました。私は一切の努力を傾けて自分の生活を作って来たのです。それが私の仕事であり、作品なのです。

 

汝のなすべきことをなせ、そして汝自身を知れ、というこの偉大な掟は、しばしばプラトンのなかに援用されている。この掟の二つの項はどちらも広くわれわれの義務のすべてを含み、それぞれが他の項を同じように含んでいる。自分のことをなさなければならない者は、まず自分が何者であって、何が自分に固有のものであるかを知ることが第一の務めであることを知るだろう。

 

妻や、子供や、財産、そしてできることなら、なんといっても健康を持つことが必要である。しかし、われわれの幸福がそれに左右されるほどそれに縛られるようではいけない。まったくわれわれだけの、まったく自由な店裏の部屋を自由に取っておいて、そこにわれわれの真の自由と、主要な隠れ家と、孤独を築くようにしなければならない。そのなかでわれわれはつねに自分自身と話し合い、外とのどんな付き合いや会話もそこに入り込んで来ないような私的な話し合いをしなければならない。

 

私はたしかに物事のいっそう完全な理解を持ちたいとは思っているが、しかしあれほど高価な代償を払ってまでそれを買いたいとは思わない。私の意図は残された余生を穏やかに過ごすことであって、あくせくと過ごすことではない。私が頭を絞ってでもやってみたいと思うようなものはなに一つない。学問にどれだけ大きな価値があっても、やはり同じことである。私が本に求めるのは、正しい娯楽によって快楽を得ようとすることだけである。私が勉強するのも、私自身の認識を扱っている学問、すなわち、よく死に、よく生きることを私に教えてくれる学問だけを求めて勉強するのである。

 

スポーツチームへの支持と政治的党派性の共通点、ほか(読書メモ:『反共感論:社会はいかに判断を誤るか』)

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

 

 

 この本のメインとなる論旨については、以前に別の記事で紹介しているので、今回は細かいところだけメモする*1

 

・効果的利他主義に対する「国際的な貧困は、資本主義やグローバリーゼーションの構造がある限り無くならない。対処療法的な慈善や援助は無意味で偽善だ」的な批判関しては、以前にもこのブログで取り上げたことがある*2。この本の中では、スコット・アレクサンダーという人による“「人間対自然」の問題と「人間対人間」の問題”(p.129)という区別が紹介されていた。「人間対自然」の問題(貧困国の子供たちの病気や飢餓など)は対策が明確で実施しやすい一方で、「人間対人間」(グローバル資本主義構造など)の問題はそもそも賛否が分かれる問題であり対策方法も不明で結果が出るかどうかは不確実だ。このことを考えると、「人間対自然」の問題に注ぎ込んだ方が効果的である。…また、なんでも政治的に考えることが好きな左派が「人間対人間」の問題にばかり注目してしまう理由にもなっているかもしれない。

 

・カーライルが経済学を「陰気な科学」と称したのは、奴隷制度に反対する経済学者を嘲笑する文脈であった、というのは初めて知った(p.139)*3。なかなか皮肉で印象に残る。

 

バートランド・ラッセルは、「新聞を読むときには自国名を他の国の名前に置き換えると、客観的で冷静に読める」と言ったそうだ(「アメリカ」を「ボリビア」に置き換える、など)。国際問題を考えるときに実践してみるとよいだろう。

 

・マーサ・ヌスバウムは社会を変えるエネルギーとして「怒り」という感情を高く評価していたが、この本では共感と同じく怒りの感情も否定的に論じられている。

 

・政治的見解とスポーツチームに対する見解の共通点についての一節。

 

…私たちは、理性的熟慮を行使した結果、レッドソックスヤンキースを応援するわけでもなければ、そうすべきでもない。応援することでチームに対する忠誠を表現しているのである。ヘルスケア、地球温暖化などに関する人々の姿勢も、おそらくは同様に自分の見解の明快な表現ではなく、自分が応援しているチームへの歓声や、相手チームに対するブーイングのようなものと見なすべきなのかもしれない。ならば、地球温暖化に対する誰かの見解に、事実に基づいていないとしてクレームをつけることは的はずれになろう。それはあたかも、「レッドソックスファンのチームに対する愛情は、レッドソックスのここ数シーズンの成績の現実的な評価を反映していない」として、クレームをつけるようなものなのだ。

政治的見解と、スポーツチームに関する見解には、興味深い共通点が一つある。それは、それらの見解が、実際には現実と関係しないというものである。炒り卵の作り方に関して間違った理論を信じていれば、焦げた炒り卵ができあがるだろう。日常の道徳がなっていなければ、身内を傷つける結果になるだろう。だがたとえば、自分の支持する政党に敵対する政党のリーダーがブタと交わったと、あるいはイランとの武器取引でヘマをしたと考えていたならどうだろう?一握りのエリートから成る強力なコミュニティーに属していない限り、自分の信念は世界に何ら影響を与えない。このことは、一律課税、地球温暖化、進化などに関する信念にも当てはまる。それらの信念は必ずしも真実に基づいているわけではない。なぜなら、それらが真であるか否かは、自分の生活にいかなる影響も及ぼさないからである。(p.284-285)

 

 昔に手に取った『Personality and the Foundations of Political Behavior』という本では、パーソナリティのビッグファイブ尺度における「誠実性」が高い人が最も得票率や政治参加率が低い、ということが論じられていた*4。一般的なイメージでは真面目な人ほど政治参加率は高そうに思えてしまうが、現実の自分や身近な人の生活とは直接的には関わらず、結果も不確実な政治というものにコミットする優先順位は、真面目な人のなかではむしろ低くなるのだ。考えてみれば、政治に関するトークに熱心な人のビッグファイブを勝手に推定してみると、良くも悪くも「誠実性」以外の尺度が高そうな人ばっかりだ。政治とは重要なものだが、私たちの普段の日常生活からは微妙な距離がある。この微妙な距離こそが、政治に関するいろんな問題をややこしくするものかもしれない。

「お前の意見は感情的だ」という批判がダメな理由

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

 

 

 心理学者のポール・ブルームによる『反共感論』については、原著が出版される前にブルームがネット上で公開していた記事についてこのブログで紹介したことがあるピーター・シンガーによる『反共感論』の書評も翻訳して紹介した。また、ブルームと同様に道徳的判断における理性の役割を強調する論者であるジョシュア・グリーンについての記事もいくつか書いている。

 他にもこのブログの様々な場面で書いてきた通り、私は、道徳や政治における判断については「理性」を重視する立場だ*1

 しかし、様々な場面での議論を眺めていると、自分のことを「理性」の側に立っているという風に称しながら他者の主張を「感情」的だと批判する人たちが、どうにも快く思えない。本来なら自分も支持できるような主張を行なっているはずの「理性」側の人々には賛同できず、むしろ、「感情」的だと批判されている側の人々に同情や共感を抱いてしまう場面が多い。

『反共感論』を再読しながら考えていたのだが、個人が「判断」を行う際には感情を抑制して理性を尊重することは重要なのであるが、「議論」の場において理性/感情の二項対立を持ち込むことは筋悪である、という風に思うようになった。今回の記事では、現状の私の考えを整理してみたい。

 

 たとえば、自分自身の利害に関わることでは、感情に左右されずに理性的に判断するようにこころがけた方が良いだろう。身体的な健康や人間関係にかかわる事柄にせよ、キャリア選択やお金の投資などの経済的な事柄にせよ、特に結果が出るのがかなり先であったり影響が長期に及んだりする場合には、感情は判断の指標として適切でないことが多い。基本的に感情とは短絡的で視野の狭いものであり、賢明な判断を行うためには、事実やデータを参照して長期的な結果について予測するなどの理性的な営みが必要となるのだ。
 他人の利害にかかわる判断であれば、なおさら理性が重要となるだろう。自分の浅慮によって危害を受けるのが自分だけであれば自己責任で済ませられるが、他人に対して経済的なり健康的な危害を与えかねない判断をする際には、倫理的責任が発生する。また、身近な人をケアするにせよ遠く離れた外国の人々を援助するにせよ理性を行使した方がより効果的に相手に利益を与える判断を行うことができる。ブルームやピンカーの著書が道徳に関するものであることや、シンガーによる効果的利他主義の提唱など、理性を強調する議論が倫理に関する話題とセットになりがちなのは、このことが理由だ。
 医療や立法に関わる仕事をしておらず、募金やボランティアなどをしようとも思っていない人なら、他人の利害に関わる判断をする機会は限られるかもしれない。しかし、民主主義社会に暮らしており投票権も持っている人であれば、選挙の際には誰もが投票を通じて(または、「投票しない」と選択することを通じて)誰もが他人の利害に関わる判断を行うことになる。そもそも、倫理と政治は隣接した分野であるのだ。かくして、政治学者であるジョセフ・ヒースも『啓蒙思想2.0』などの著作で理性の重要性を説くことになる。
 倫理とも仕事とも関わらないビジネスなどの場における判断においても理性的な判断を重視すべきであることは、言うまでもないだろう。…上述したように、個人が行う判断や意思決定という点においては理性は感情よりも重要な役割を果たすべきである、と言い切ってよい。たまに「いや、理性が致命的な判断を導くこともある。理性ではなく感情に従った判断の方が賢明で真っ当なのだ」と主張する人もあらわれるが、特殊な事例を一般化した議論を行ったり「理性」に対して悪印象なレッテル貼りをする藁人形論法を行ったりなど、論証に難のある場合が多い*2「感情的な判断よりも、理性的な判断の方が優れている」という主張は、基本的に正しいのである。

 

 しかし、ここまでは「自分はどう判断するべきか」ということについての議論だ。

 私が見たところ、「感情/理性」という二項対立の問題が複雑になるのは、「他人はどう判断するべきか」あるいは「他人はどう判断しているか」ということについて、誰かが主張をしはじめたときである。つまり、一人で行う判断から、他人の判断について誰かが口を出すことで議論がスタートしたときに、物事はこじれだすのだ。  感情/理性の問題が紛糾するのは、「理性」の側に立っている人が他人の判断を「感情的だ」と批判したことがきっかけである場合が大半だ。その批判が的を得ているかどうかは、場合による。実際に理性をほとんど行使せずに感情に任せた判断をしている人もいるだろうが、理性は行使しているが「問題となっている物事のどの側面を重視するか」や「リスクとリターンのどちらに重みを置くか」ということの優先順位などが批判者とは異なっているだけ、という場合も多々ある。後者の場合には、批判された人は反論をするだろう。また、前者の場合であっても、批判の仕方やタイミングが不当であることは往々にしてあるのだ。
 さらに、「理性」の側に立っている批判者たちの判断も実はさほど理性的ではない、という場面も多い。「かわいそうランキング」という言葉を用いて他人の判断を批判する人たちの判断にも偏りがあることについては、以前にも書いた。「表現の自由の支持を標榜する人たちが他人の主張を「お気持ち」だとして批判する場面もよく見かけるが、批判されている人たちは表現の自由と他の要素(女性や人種的マイノリティが表現によって受ける精神的・社会的な被害、など)との双方を考慮している一方で、批判している人たちの方は表現の自由のみを重要視した原理主義な主張を行っている場合も多いようだ。
 ワクチンの副作用や放射能などのリスク評価をめぐる議論となると、事態はさらに複雑になる。誤った科学的知識に基づいた主張や科学的知識を無視した主張が拡散されると、不特定多数の人が被害を受ける事態になりかねないことは確かだ。しかし、ワクチン接種や原子力発電所の問題においては科学的知識だけが問題となるのではなく、政策や民主的手続きなどに関する政治的・倫理的な論点も存在する。ここでも、「感情的」だと批判されている側がより複雑で広い視野で問題を捉えているのに対して、「理性的」だと主張している側は自然科学的なリスク評価にしか注目していない、という捻れた構造になっている場面がありえる。

 反ワクチンや放射能をめぐる議論では、「感情的」だとされている側の主張を哲学や社会学などの人文系の学問に携わる人が擁護して、自然科学系や経済学系の側の人々に批判・嘲笑されることが多々ある。私自身も、大概の場面では後者の主張に同意する側だ。とはいえ、「理性」派が「感情」派の主張をあまりに浅薄に捉えて短絡な批判をするために、擁護や反論が必要とされる場面があるのは事実だろう。そして、他の学問分野に比べても物事について総合的かつメタ的な視野で捉えることに長けている人文系の学問がその役割を担うのは、自然なことである。…とはいえ、人文系による反ワクチンや反原発の擁護が、結果的に、悪意があり人々の経済的利害や生命にもかかわるデマの拡散を間接的に支えてしまうことにもなってしまう。

 また、人文系の学問に携わる人々にたまに見られるのが、「理性的な判断なんて幻想である、すべての判断は感情的なものだ」「純粋な科学的判断などありえない、すべての判断には政治的な要素が存在する」というタイプの「開き直り」的な主張である*3。…だが、このような「開き直り」こそが人文系の主張の説得力を失わせて、「理性」派が「感情」派を軽んじることに根拠を与えてしまっている面もある。

 

 かように事態は複雑だが、その原因は、人間の心理的傾向の中でもごくシンプルで基本的なものであるように思われる。つまり「自分の判断は考えたうえでの理性的なものであるように感じられるが、(自分と一致しない)他人の判断は考えなしの感情的な判断のように思えてしまう」ということだ。

 人間には、実のところは感情的な要素が強い判断であるとしても、自分の判断にはもっともな理由があると後付けで合理化する傾向が備わっている*4。そして、特に相手が自分とは異なる意見を持っていたり自分とは敵陣営であったりする場合には、相手の主張を過小評価して非・理性的なものだとみなす傾向も備わっているだろう。「他人の目にあるおがくずは見えるのに、自分の目の中にある丸太は見えない」という傾向は普遍的なものなのである*5

 対話や理解を目的にした建設的な議論を行いたいのなら、自分の側に存在するかもしれないバイアスについてまず検討した方がよいだろう。自分の主張を理想化して実際以上に「理性」的なものだと見なしていないか、または相手の主張を過小評価して「感情」的なものだと見なしていないか、議論を始める前にまず自己省察をしてみるのが賢明な態度だと言えるのだろう。

 …しかし、「論破」を目的としたり第三者に対するパフォーマンスを目的とした議論である場合には、このような自己省察をすることはむしろ自分を不利にしてしまう。最初から妥協するつもりもなく自分の意見を繰り返し続けて、相手の意見は愚かであると批判し続けたほうが、議論のオーディエンスである第三者に対して「自分の方が正しい」と思わせやすい。長々と書いてきたが、実のところ、根本的な原因はこの辺りにあるのかもしれない。

*1:スティーブン・ピンカーやジョセフ・ヒース、マイケル・シャーマーなど英語圏の理性重視派の学者たちの主張についても、折に触れて取り上げている。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:一時期流行った行動経済学も最近に流行りだしているポピュラー進化心理学も「様々な場面における判断において人間はいかに感情に支配されているか」を強調しがちな学問であり、理性の無力さを指摘もするが、「理性より感情に任せた方が自分にとっても他人にとっても良い結果となる」とまで主張することは少ないだろう。むしろ、いかに他人の感情をハックして自分にとって都合の良い判断をさせるか、という方向に議論がいきがちだ。

*3: フェミニズムや社会運動界隈から生まれた「トーンポリシング」という単語も、このような開き直りの一種である、と私は考えている

*4:ジョナサン・ハイトが「象と象使い」「理性の尻尾を振る直観的な犬」の比喩で表現していることだ

*5:この比喩も、ハイトが著作のなかで用いていた。また、同様の議論は『誰もが偽善者になる本当の理由』でも詳しい。このような心理的傾向自体が理性で克服できるかどうかについては論者によっても温度差があり、ハイトは「理性は感情の奴隷だ」と言いがちな一方で、ブルームやグリーンやヒースなどはハイトの主張は極端であると批判している。

「自己責任論」を批判するのはいいけれど…(読書メモ:『高学歴女子の貧困』)

 

 

 貧困状態にある高学歴女性が現状を綴る私的なレポートやエッセイ的な文章と、高学歴な女性が男性よりも貧困になりやすい構造や女子と高等教育との歴史などについての分析を行う文章などが混在する本。

 タイトルは「高学歴女子」に的を絞っており、女性ならではの苦労や制度的・慣習的な障壁について書かれている部分が本書のメインとはなっているのだが、博士号の取得のしづらさや研究職への就業の困難さなど、男女問わず高学歴全般に関わる問題も扱われている。そういう点では、生活や就労に苦しんだことのある高学歴男性であっても、我が身のことに引き付けながら読めるかもしれない。

 博士課程に進んだ人々の就業率や収入の低さなど、数字で表せられる論点についてはネットでも散々取り上げられているのでいまさら本で読んでも仕方がないという感じはあったが、数字で表せない部分の分析については興味深い箇所もあった。たとえば、以下の箇所。

 

教育を通じた階層の上昇移動をモデル化した、ラルフ・H・ターナーという学者の「庇護移動」という概念に照らせば、「引き立てられる」ことの重要性を理解することはさほど難しいことではない。曰く、エリートの地位とは「勝ち取る」ものではなく「授けられる」ものであり、エリートの選抜基準とは、その候補者のなかにエリートらしい性質、つまり態度や関心が認められるかどうかに置かれている、というのだ。

そのような基準で選ばれるからには、そこで選ばれた候補者は、彼らを選び出したエリート自身の若い頃にそっくりな姿でなければならないことになる(エリートがしばしば保守的なのは、このためなのだと考えられよう)。

(「第二章:なぜ、女性の貧困は男性よりも深刻化しやすいのか?」大理奈穂子、p.87-88)

 

  上記の引用箇所は、この本の文脈では「年長者の男性の割合が高いアカデミアでは、女性よりも男性の方が年長者から引き立てられやすく、学会発表などにおいても出世においても女性の方が不利となる」という文脈で書かれている。とはいえ、女性が指導教員をしているゼミや女性の多い学問分野では逆のことが起こり得るだろう*1。個人的にも、大学においても企業においても自分自身が目上の人から「庇護される」ようなキャラクターでは全くなくてそのせいで色々と苦労しているので、共感できた。

 

 さて、この本のAmazonレビューを見てみると、かなり辛口の評価が多数寄せられている。それらの評価を要約してみると「"高学歴な私が貧困になるなんておかしい"という傲慢が見える」「社会に適応したり一般的な労働で稼ごうとするなどの努力もできない甘ったれが、現状や制度についてぐちぐちと文句を垂れて流しているだけの本だ」というところだろうか。…実際、特に第四章のエッセイを読んでいると「制度の問題ではなくて、本人の社会適応能力や意志や人間性の問題だよなあ」と思わされてしまうところが多々あった。一般的な仕事に就職して真っ当に頑張っている人からすれば「世の中ナメているんじゃないよ」と思われても仕方ないだろう、という気がする。世の中をナメている男性よりも世の中をナメている女性の方が貧困になったり生活が困難になるリスクが高い、ということであればそこに性差別を見出して論じることはできるかもしれないが。

 

 社会問題を分析する本としては当たり前であるが、この本では「制度」に関する言及が多々ある。特に、"…問題の所在を「社会や制度の側」に見ることをせず、すべて「本人のせいーー女であるせい」ということにしてうやむやにしようと"することを批判するなど(p.44)、いわゆる「自己責任論」に対する批判が通底している。

 労働や経済の問題を論じるうえでは個人レベルに問題を矮小化する自己責任論は筋悪であり、制度などに注目した大局的な議論を行うべきである、という点には私も同意する。しかし、制度の問題点を指摘する客観的な分析も、それ自体が真っ当であったとして、甘えや社会不適応性が露骨に全面に出ている主観的なエッセイと並列して掲載されていると、厚かましさを感じるというか「やっぱり自己責任の要素も重要だよなあ」と思わされてしまうものである。

 とはいえ、私自身も社会に適応するのがかなりヘタクソなタイプであるし、「高学歴な俺が貧困になるなんておかしい」と内心で思っている気持ちがなくはないし、「世の中をナメている」といつ批判されてもおかしくないような人間だ。なので、この本に掲載されているエッセイについてもどちらかといえば共感や同情が抱けた。…しかし、元々から社会不適応であったり甘えたメンタルの持ち主が「自己責任論批判」という武器を手に入れてしまうと、自分のことを棚上げして社会に責任をなすりつけることが正当化されてしまうので社会不適応性や甘えがさらに強くなる、という現象はたしかに存在すると思う。社会問題について客観的に考えるときには「自己責任論」を批判することは正しくても、自分の問題について考えるときには多少は自己責任論を受け入れるくらいのスタンスの方が、真っ当で健全な考えができるものかもしれない*2

 

*1:もちろん、そのようなゼミや学問分野の数が少ないこと自体が、総合的に見れば女性の方が不利となっている理由ではあるのだが。

*2:「自己責任論」批判の良し悪しについては、以下の記事でも触れている。

davitrice.hatenadiary.jp

「研究」ってそんなに魅力的か?(読書メモ:『在野研究ビギナーズ』)

 

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

 

 

 私自身、「在野」にありながら学術書や洋書を読んだりその内容をまとめてブログにして発信したり、という活動をしている。だから自分の活動の参考になるかと思って読んでみたが、結論から言うと not for me だった。この本に寄稿している著者たちの大半とは趣味関心や「やりたいこと」や性質が違い過ぎているし、また、仮に参考にしようと思っても真似できなくて参考にできない部分が多過ぎる。

 自分にとってはあまり参考にならない本、ということなのでまた別の誰かにとっては参考になるのかもしれず、批判する気などはないのだが、せっかく読んだので「なぜ自分にとってはあまり参考にならなかったのか、自分にとっては受け付けられなかったか」という点だけはメモとして残しておこう。

 

 この本に寄稿している「在野研究者」たちの大半は、現在は大学に所属せずに会社員や公務員などとして働きながらも論文を投稿している人たちである。業績など見てみても、一般向けの著作を出している人もちらほらとはいるが、学会誌への論文投稿が主となっているようだ。本文を読んでいても、学生時代から修士までは進んで学会などにも参加しており、現在も大学に所属はしていないというだけでアカデミアの人々とは繋がっている、というタイプの人が大半である。さらに言うと、寄稿されているエッセイを読んで伝わる感じからすれば、学生の頃から教員や他の学生との相性が良くて論文を書いたり学会で発表をすることに充実感を抱くなど、元々から大学・アカデミアという場所との相性が良かったり大学・アカデミアに対して好意的であるタイプの人であることが基本なようだ。

 …しかし、学生の頃から勉強は好きであっても研究という行為やアカデミアという場所に対する魅力がどうしても感じられなかった自分としては、そもそもの志向性や人間性からして全く合わないように感じられてしまった。特に「合わないなあ」と思わされたのが、以下の引用箇所のようなところだ*1

 

研究の楽しさとしてまず挙げたいのが、論文や学術書を読む喜びである。…(中略)…諸外国の研究者や数世紀前の泰斗と、論文を介してコミュニケーションできるのも好ましい。時空を超えて、同じ研究関心を持っていたらしいと知ると、心震える。人によっては、これこそが研究の醍醐味だという。そして、先人たちの積み重ねのおかげで、「巨人の肩の上」に立ち、一人では到達できないはるか彼方まで見渡せる。だから、何度でも栞のノブを掴む。

(第二章:「趣味の研究」、工藤郁子、p.32-33)

 

 私が修士でリタイアして博士課程に進まなかった理由のひとつは、学術書や論文書を通じて最新の知見を学んだり物事について考える方法を深めることには楽しさややりがいを感じても、自分が学んだことを論文という形にして新規性を持たせて他人に対して発表する行為に対する楽しさややりがいは感じられなかった、ということにある。ついでに言うと指導教官との相性もよくなかったし、アカデミアの内部にある有形無形のルールや独特の雰囲気や所属する人々のタイプの偏りなどなどが性格的や生理的に無理だった、ということもある。だから、論文を書くというプレッシャーやアカデミアで他の人々に認められなければならないというプレッシャーがなく、自分のペースで好きなものを読んで書きたいときに好きな文章を書く、という現在の在野での「勉強」の方が楽しく感じられる。逆に言えば、在野所属になってからでもわざわざ研究行為を行ったりアカデミアと関わり続けたいと思えることが理解できない、ということだ*2

 

rmaruy.hatenablog.com

 

 上記の記事はいま私が書いているこの記事なんかよりもずっと良く整理されて書かれているとは思うが、全体的に研究者に対する憧れや賛辞が過剰である気がするし、「勉強者」と「研究者」という分け方をされるとどうにも「格下 - 格上」という感じになってしまい、素直に受け取れない。

 また、上記の記事では"研究者の行っている研究が、世間にとってどのような「価値」をもつのかを考えるヒントを与えること"や"研究内容を広く非専門家に伝えるためのメディアを提供すること"が、「勉強者」の行う「研究支援」と表現されているが、この表現はあまりに謙虚過ぎる。むしろ、このような行為は「啓蒙」と表現されるべきなのだ。

 私がこのブログを書き続けている目的としても、啓蒙活動という要素が大きな部分を占めている。心理学や社会科学などの経験的な学問の知見、あるいは倫理学や哲学などの非経験的な学問の考え方…特に、ネットで検索してもなかなか出てこない知見や英語圏では話題になっていても日本語ではまだマイナーな知見について紹介したり、ネットでの主流派となっていたり根拠のないレトリックやクリシェを通じて定着してしまっている発想やイデオロギーのカウンターとなる考え方を紹介しよう、ということは意識しながらブログを書き続けている*3。…だから、自分が勉強した結果をアウトプットすることによって世の中のバランスを少しでも整えたり人々の意見や考え方を少しでも変えてやろうというモチベーションはあるのだが、研究者を支援してやろうという気持ちは一切ない。

 研究者であるから啓蒙活動ができないということはないだろうし、自分が所属している大学やアカデミアの外に向けて啓蒙活動を行なっている、あるいはゼミや一般教養の授業を通じて教え子たちに啓蒙活動を行なっている大学教員は多数いるだろう。しかし、時間やリソース的にどうしても先端的な専門知識を扱った論文の執筆に専念する必要があったり、また、研究活動に対する啓蒙活動の比重が上がり過ぎるとアカデミア内で軽んじられたり評価が下がったりしてしまうという側面もあるようだ。さらに言えば、特に文系の学問(その中でも規範的主張を行う学問)では、アカデミア内で主流派とされる意見や是とされる意見に偏向が生じてしまい、アカデミアの外にいる方がむしろ非主流派の意見を気兼ねなく紹介して人々の意見を広げやすくなる、というメリットもある*4。なにより、在野での啓蒙活動は「アカデミア内で重要とされていること」や「新規性の有無など、論文として認められるために必要な条件」などを気にすることなく、自分が大事だと思うことを自分で選んで自分の文体で書いて自分の好きな方法で発信することができる。…素朴かもしれないが、論文執筆や研究活動では時として失われがちな、学ぶことやそれをアウトプットすることに関わる本質的な楽しさが啓蒙活動にはある、と私は思っている。また、啓蒙活動を行うために必要とされるインプットのリソースは研究活動の成果であり、その点だけを取れば啓蒙活動は研究活動に寄生・依存した活動であるのは確かなのだが、だからといって勉強者が研究者に対してへり下る必要はないだろう。

 

*1:ついでに言うと、以下の引用箇所に限らず、ポエミーな文章やレトリカルな文章に白けさせられるという場面が多々あった。

*2:この本は人文書としては異例の売れ行きであるようだが、在野での「勉強」ではなく「研究」に惹かれている人がそこまで多いというのも、私にはちょっと想像がつかない。また、寄稿されている文章を読んでいて思ったのが、本人の能力やモチベーションや金銭的・時間的な余裕はもちろんのこと「アカデミアとの物理的距離/精神的距離」もかなり重要になってくるということだ。さらに身も蓋もないことを言うと、当たり前のことかもしれないが、本人の能力も重要になってくる。卒業した大学や大学院にせよ、現在就労している会社やそのほかの職場にせよ、「良いところ」に行けている人が多いのだ。だから、在野研究者志望者たちにとってこの本が実際のところどれほど参考になるかどうかには疑問もある。普通の大学を卒業して普通のところで働いている人には真似できない部分も多いからだ。

*3:もちろん、社会的意義などは深く考えず単に「この文章やこの本は面白かったから紹介しよう」という程度の動機で記事を書くことも多々ある。

*4:よく言われることだが、このメリットは「トンデモ」な歴史学的主張を行なったり「似非科学」に接近してしまう、というデメリットと裏表の関係にあることは確かだ。これについては、注意するにこしたことはないだろう。

再読メモ:『結婚の条件』

 

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

 

 

 フェミニストの学者が、当時(2002年〜2003年)の日本の女性の結婚にまつわる悲喜劇や結婚観について書いた、軽めのエッセー集のような本。学部生の頃に手を取ってみて面白かった記憶があったのだが、最近は「女性の上昇婚志向」についての議論が(ごく一部で)話題ということもあり、なんとなく思い出して手にとってパラパラと読んでみた。

 フェミニストによる著作であるが、あらゆる女性の結婚観やライフスタイルを何から何まで擁護するというものでもなく、教え子である女子学生たち(と男子学生たち)の甘ったれた結婚観には皮肉を浴びせ、考えなしに専業主婦になったために後悔している女性たちについても手厳しく書いている。とはいえ、女性たちが上昇婚を志向せざるをえない理由について同情的に分析されている箇所も多い。経済的・社会制度的な分析ももちろんされているが、特徴的なのは、女性たちの家庭環境や親の影響について考慮していること。女性の学者である著者が、女子学生たちや知人女性から実際に見聞した意見やエピソードに基づいて分析されているだけあって、リアリティが感じられる点がよい。いかにも"社会学"的な分析や精神分析的な発想など、根拠のない理論が多々持ち出される点はイマイチだが。

 

 しかし、リーマンショックが起こる数年前に書かれただけあって、当時の日本はまだ豊かだったんだなと思わされる箇所も多い。著者は女性の結婚願望を「生存」・「依存」・「保存」の3種類に分類しているが、当時であれば「依存」のための結婚を志向していたであろう女性も、今の状況では「生存」のための結婚へと願望をスケールダウンせざるを得なくなっている場合が多いだろう。男女ともに、結婚観はよりシビアなものになっているはずだ。

 また、実際の社会の状況や一般的な人々のエピソードに基づいてた書かれた本を読んでみると、ネットで行われる男女論はやはり抽象論や極論に偏りがちなものだなと再認識させられる。特に最近は、男性側にせよ女性側にせよ、「自分の性別は被害者である」という意識が激しいものが目にあまる。結婚や恋愛に関わる論争とは誰にとっても当事者性が強くなりすぎるからこそ、一歩引いた俯瞰的な立場からの議論が必要とされるものなのだろう。