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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見)

togetter.com

 

 上記のTogetterは私のツイートをセルフまとめしたものだが、この話題について、ブログでもちょっと書いてみたい。

 

 動物を道徳的配慮の対象とする倫理学理論(や政治哲学などその他の規範理論)の多くは「ある存在は幸福や快楽などのポジティブな感情や感覚を経験することが可能である、ある存在は苦痛や不快などのネガティブな感情や感覚を経験することが可能である」とすれば「何らかの行為をしたり意思決定を行う際には、その存在が経験する幸福や苦痛に対して、何らかの配慮をするべきである」と主張している。それぞれの存在が経験する幸福や苦痛に対してどのように配慮するべきか、たとえば人間が経験できる幸福の質は動物が経験できる幸福の質よりも優れていると見なして人間の幸福を優先するべきか、といったことは理論や場合によって変わってくる。しかし、「人間の幸福は、それを経験しているのが"人間だから"優先するべきである」または「動物の幸福は、それを経験しているのが"動物だから"人間ほどの配慮をしなくてもよい」という主張は、事態の本質とは関係のない理由に基づいて配慮の多寡を決めていることになり、合理的な区別とはいえず、人種差別や性差別のように根拠のない非合理的な差別である"種差別"として否定される。

 よく誤解されがちだが、人間や動物の持つ幸福や不快などを経験できることに着目して、幸福や不快などを経験できるからという理由で動物は道徳的地位を持つと見なすことは、なにも功利主義に限られない。たとえば、功利主義を批判する政治哲学者のウィル・キムリッカが共著者である著書『人と動物との政治共同体』権利論に基づいて書かれたものであるが、この本の中では、「動物は"なぜ"権利を持つか」という理由としては、動物が「内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己」であること、「喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在」であること、そして「自分の生が良くなったり悪くなったりすることを内面で感じられる主観的経験を持つ存在」であることが挙げられている。キムリッカと同じく功利主義を批判する政治哲学者であるマーサ・ヌスバウムによるケイパビリティ理論においても、幸福や苦痛という経験は重視されている。幸福や不快の比較考量についてどのように考えるか、別個の存在が感じる幸福や苦痛のトレードオフをどの程度まで認めるか(あるいは全く認めないか)、場合によっては全体の幸福のために一部の個体の幸福を無視することは認められるか否か、といったことについては権利論や功利主義やケイパビリティ理論はそれぞれに違った回答をするが、いずれにせよ、幸福や不快という経験は重要視されているのである。日本では動物倫理の主張といえばピーター・シンガー功利主義ばかりが紹介されがちで権利論があまり紹介されないことが理由なのかもしれないが、動物が苦痛を感じることに注目することはすなわち功利主義だ、みたいに勘違いする人が多かったりするのだがそうではないのである。

 

 また、シンガーの議論に関してよくある誤解が以下のようなものだ。

 

sunakago.hateblo.jp

 

ここでは「幸福」が、シンプルに「苦痛ではないこと」として捉えられているのだ。彼は「幸福=苦痛ではないこと」を感じることの条件として「苦しむ能力」を挙げている。

 

はっきり言って偽善ではないかとさえ感じられるほどのこの熱い倫理観は、しかしあるときにはひどく冷たいものとなる。「苦しむ能力」を倫理の適用範囲として用いる彼は、植物人間の命を絶つことや胎児を中絶することなどをためらいなく許容する。なぜなら、それは苦しむことができないからだ。 

 

 上記のTogetterでも書いたが、まず、シンガーの理論によって「植物人間の命を絶つこと」が肯定されるのは、該当の植物人間が「意識が無く痛覚やその他の感覚も一切機能しておらず、また将来回復する見込みもない」という非常な重症である上に、その植物人間に親戚や知人が一切おらず、また植物人間の命を絶つことが明るみに出て社会不安などの間接的な影響が生じる可能性も0%である、という時でしかない。シンガーの議論に対する反論として植物人間の事例を持ち出す人は多いが、ここまで異常で例外的な事例において直感に反する結論が導き出されることを指摘されても、それで反論になると考える方が不思議だろう。

 胎児にしても、シンガーの公式FAQを読めばわかるように(ここで取り上げられているのは胎児ではなく新生児の殺害に関する事例だが)、様々な事情や状況が考慮されたうえで認められる場合とそうでない場合があるとしており、「ためらいなく許容される」からは程遠いと言えるだろう。

 

 シンガーの議論についてよくある誤解のもう一つは、「苦痛を感じない存在に対しては何をしてもよいのか」「たとえば感覚は持たないが悲しみや喜びは経験できるロボットが存在するとしても、そのロボットは配慮の対象とならないのか」というものだ。上記のTogetterで取り上げた記事でも、シンガーの議論に「痛覚主義」と誤った呼称を与えている。だが、シンガーの主張の原理は「利益に対する平等な配慮」であり、苦痛を感じないとしてもその他の経験をすることでなんらかの幸福や不快を経験することができる存在は「利益」を持つ存在として配慮の対象になる。たとえば、科学技術がすごく発達して悲しみや喜びを経験できるロボットなり人工知能なりが登場するようになれば、当然、そのロボットや人工知能は道徳的配慮の対象となるだろう(そんなロボットや人工知能が登場することがどれくらい現実的なのか、わざわざロボットや人工知能が悲しみを感じられるようにすることに何の意味があるかはわからないが)。シンガーの主著である『実践の倫理』が苦痛ばかり重視しており感覚を持たない存在の利益を無視しているように読めるのは、現在の私たちが生きる現実の世界では「感覚は持たないが、悲しみや喜びを経験することはできる」という存在は考えづらい、おそらくそんな存在はいないがために、現実の世界に対処するための応用倫理の本においてそのような非現実的な存在に関して議論することにはあまり意味がないからだろう。

 

 話を戻すが、シンガーや功利主義にせよ、権利論やケパビリティ論にせよ、幸福や不快を経験できる存在は道徳的配慮の対象となる。苦痛という点に話を絞れば、もし犬や猫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし魚や昆虫が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となるし、もし木や石が苦痛を経験することができるとすれば彼らに苦痛を与えることは道徳的な問題となる。「ある存在が苦痛を経験することができるとすれば、その存在に苦痛を与えることは道徳的な問題となる」ことは価値判断に関する原則の問題だ。

 そして、このような価値判断を行うことに関わってくるのが、「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断だ。上述の Togetterでも引用しているゲイリー・ヴァーナーの文章でも論じられているように、動物の問題に限らず大概の道徳問題や政策などに関わる価値判断は「●●であれば■■すべきである」という形を取るのであり、「●●であれば〜」ということが事実の領域である以上、「〜■■すべきである」という価値判断も「事実はどのようなものであるか」ということによって左右されることになる。

 一般論として、どのような領域においても「事実はどのようなものであるか」ということに関する私たちの知識や理解は、データの不足や人間の認識能力に生来的に備わる限界などのために、完璧ではなく限られたものとしかならない。「事実はどのようなものであるか」ということについて充分な知識や理解がないために、本来なら価値判断においてもっと望ましい答えが存在していたのにそれを理解することができなかった、ということもあるだろう。人間は全知全能でない以上それは仕方がないことであるとも言える。…だが、事実に関する私たちの知識に限界があるとしても、それは程度問題だ。参照するデータの量が増えるにつれて、またデータを扱うためのアプローチの方法を洗練させて進歩させるにつれて、一般論としてはどんな領域でも、「事実はどのようなものであるか」ということについての私たちの知識は増して理解は深まっていくだろう。

「では、どの存在が(どのような)苦痛を経験するのか」という事実判断については、心の哲学や認識論などの哲学的な側面も関わってくるとはいえ、基本的には科学的知識の問題となるだろう。動物への道徳的配慮について論じている著書の多くも「ある存在が痛みを経験しているかどうかについて、当事者でない他者がそれを理解することができるかどうか」という初歩的な哲学的議論から始めたうえで、動物の苦痛の有無に関する科学的な議論が参照されることになる。…たとえばシンガーの『実践の倫理』では「どのような動物が苦痛を経験するか」また「どのような動物が自己意識を持つか」ということについて、様々な科学的知識を参照しながら論じられている。自己意識については、1993年に出版された第二版では大型霊長類やイルカ・クジラなどは非常に高い確率で自己意識を持っているであろうこと、また程度の差はあれどその他の哺乳類も自己意識を持っている可能性は高いであろうとしている(その他の動物が自己意識を持っている可能性も否定されてはいない)。そして、2011年に出版された第三版では18年で進歩した科学的知識が反映されて、鳥類やタコや魚が自己意識を持つ可能性について積極的に取り上げられるようになっている。『実践の倫理』の他に書かれたエッセイでも、シンガーは昆虫が痛覚や意識を持つ可能性について最近の研究を参照しながら検討している。

 ヴァーナーの本ではシンガー以上に科学的知識について紙面が割かれており、生理学や解剖学や動物行動学など、動物の感覚や自己意識の理解に関する様々な分野の研究を集めてレビューして、ヴァーナーなりにまとめている。たとえば、脊椎動物と無脊椎動物が苦痛を感じる可能性については、以下のような表にまとめられている(見づらい写真になってしまったが)。

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 …だが、どれだけ科学的知識を参照したとしても、人間は全知全能でない以上は「どのような存在が苦痛を感じるか」ということを100%の精度を持って絶対正確に理解することはできない、と言うことはできるだろう。植物の専門家である植物学者が植物は苦痛を感じないと言ったとしても、科学は絶対ではないし植物学者は神様でないから疑ってかかることはできる。動物が苦痛を感じるかどうかということについての科学的研究も、「人間が持っているような、あるはそれに類似した、生理学的・解剖学的特徴を持っているか」「刺激に対して苦痛を感じているように見える反応をしているか」といった、人間との類似を基にしたアナロジーに頼らざるをえない部分はどうしても出てくるかもしれない。…このような事情をふまえて「動物が苦痛を感じるかどうかの理解の仕方は、結局、人間中心主義的にならざるをえない」と言うことはできるかもしれない。更に、「人間中心主義的な理解の仕方に基づいているんだったら、"動物に苦痛を与えてはならない"という主張も人間中心主義的だ。人間中心主義を批判する主張が人間中心主義的だなんて矛盾だ偽善だ自己欺瞞だ」みたいなことを主張する人も多い。先に引用したブログ記事でも、このようなことが書かれている。

 

大澤信亮はその著書『神的批評』のなかでピーター・シンガーを参照し、それを批判しつつも突き詰めようとする。彼はまず、「何をもって他者が『苦しんでいる』と判断し得るのか」と問いかける。「暴力を振るったときに叫び声を上げるからか。神経系統に人間に近しいものがあるからか――そのように進んでいくとき、私たちは、究極的に、誰が苦しみ、誰が苦しまないのか、決定できない。植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」。これは重要な批判だ。というのもシンガーは「苦しむ能力」を規定するとき、たしかに「神経系統に人間に近しいものがある」という点から始めているからだ。人間中心主義を遠ざけるために持ち出された「苦しむ能力」もまた、実は極めて「人間的」なものにほかならない。大澤はこの盲点を突いた上で、次のようにまとめる。

 

…上述したTogetter記事でも書いているが、私はこのような主張をかなり不毛で非生産的なものだと思っている。前述したように、人間は全知全能でない以上は事実について完全に理解することはできなくても、データと適切な方法さえあればある程度までは理解を得ることはできるし、知識を更新して理解を深めることは可能だ。動物やその他の存在の苦痛の有無を人間とのアナロジーによって考えるのは、知識や認識能力に限界がある私たちが他者の苦痛の有無を理解するうえで、おそらくそれが最善の方法であるからだろう。

 人間同士の倫理問題や政策判断においてであれば「検討しなければならない事実について100%の精度では理解が得られないから、事実を一切無視して判断をする」とか「事実がAである可能性は99%だが、1%の確率で事実はBかもしれないので、事実について決定できないので価値判断ができない」という主張はかなり馬鹿らしいものとして扱われるだろう。しかし、動物倫理の問題ではこの馬鹿らしい主張が有効な反論になると思う人がなぜか多いらしく、「動物が苦痛を感じていて植物が苦痛を感じていないなんて確実には言えないんだから、動物への配慮なんて偽善なんだし無視していいんだ」という結論を導き出す人が多かったりする。しかし、「植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで」と考えるのは自由だが、植物や石ころの苦しみの"固有の表現"とやらをまだ発見できていないからといって、既に発見されている動物の苦しみを無視していいということにはならないだろう。 

 植物ではなく昆虫の事例についての話となるが、ゲイリー・フランシオーンの文章を引用して、この記事を締めくくろう。

 

 最後に、植物に関する質問の類例として、以下の質問を取り上げよう。「昆虫についてはどうなんだ?…彼らは感覚を持っているのか?」

私が知る限り、昆虫が感覚を持つかどうかについて確信を持って答えられる人はいない。昆虫に対しては、私は"疑わしきは相手の利益に"というスタンスである。私は自宅の中にいる昆虫を殺さないし、外を歩いている時にも決して彼らを踏まないように試みている。昆虫という事例に関しては、線を引くのは難しいかもしれない。だが、そのことは、多数派の事例においても線を引けないということを…意味しない。アメリカ一国だけでも、我々は毎年に少なくとも100億匹の動物を殺害して食べている。さらに、この数字には、我々が殺害して食べている海の生き物たちが含まれていない。貝類が感覚を持つかどうかについては疑問の余地があるかもしれないが、全ての牛、豚、鶏、七面鳥、魚、その他の動物たちが感覚を持つことについては疑いがない。私たちが乳や卵を採取している動物たちも、疑いの余地なく、感覚ある存在であるのだ。

 昆虫が感覚をもつかどうかについて私たちが知らないかもしれないという事実は、その他の動物たちの感覚についても疑いが存在するということを意味しない。そのような疑いは存在しないのだ。そして、昆虫が感覚を持つかどうかについて私たちは知らないのだから、感覚があると疑いなくわかっている動物たちの肉を食べたり彼らから採取する製品を利用したり私たちの"資源"として利用する目的で彼らを生み出すことの道徳性について評価することもできない、という主張をすることは、言うまでもなく、馬鹿げたことなのだ。

 

 

 

動物への配慮の科学―アニマルウェルフェアをめざして

動物への配慮の科学―アニマルウェルフェアをめざして

 

 

 

 

社会運動において意見を発信する側はどうするべきか、そして意見を受け取る側はどうあるべきか

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上述の、先日に自分で書いた記事に付け足す形で思うところを書きたい。

 

 先日の記事でも紹介したが、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』では、活動家としての著者の経験と心理学の様々な知見に基づきながら「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニック論じられている本である。

 なぜそのようなアドバイスやテクニックが必要になるかというと、人間の心理には様々なバイアスや自己欺瞞が働いているからだ。(私も心理学の専門家ではないので、以下はごくごく粗雑な一般論になるが)腕や足や臓器などの人間の体というものはその体の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものだが、体と同様に、頭や心というものもその頭や心の持ち主が世界を生き延びていくために発達してきて存在しているものである。つまり、頭や心というものはあくまでその頭や心の持ち主本人が生きるために存在するものであって、「事実を正確に理解して追求する」とか「道徳的に正しく生きる」ことを目的として存在しているのではない。だから、人間の頭や心というものは、時には事実を無視したり道徳的な正しさを拒否したりするものだ。たとえば、相手に事実を指摘されたり正論を言われたりしたとしても、その事実や正論は自分にとって不利益になるものであったり、自分の意見や行動を変えるという労力を要求するものであったり、あるいは自分が正しい行為を行っていないとか差別に加担していることなどを指摘して自分を非難するものであるように思われた場合には、それらの事実や正論を理解したり認識したりすることを拒否して、何としてでも相手の主張を否定して自分を正当化する…そのように、人間の心理は働きがちである。

 だが、単純に事実を指摘したり正論を主張しているだけでは相手の心を変えることができない場合でも、主張の仕方やアプローチを変えることによって相手に自分の主張を伝えて相手の心を変えることができる可能性は存在する。『心を変える』の紙面の大半も、相手の心を変えるための効果的なアプローチとはどのようなものであるか、ということに割かれている。「相手を非難しているように聞こえる主張の仕方をしない」「自分が相手の行動や意見を変えようとしていることを気取られずに、さりげなく主張する」「自分が相手の味方であることや、相手と同じ属性を持つ仲間であることをアピールする」「相手ではなく、第三者(企業や国家など)の悪徳を強調して、相手の正義感に訴える」などなど。…こうして羅列するとちょっと下らなく思えてしまうかもしれないが、『心を変える』の中では様々な具体例と共に紹介されているので説得力が感じられるし、またいずれのアドバイスも心理学の専門的な論文に基づいたものである。

 

 とにかく、「女性や同性愛者に対する差別を無くす」「戦争や貧困の犠牲となっている外国の子供たちを助ける」「動物を助ける」などのいずれの社会運動も、ざくっと言ってしまえば 「弱者を助けたり、不正な状況を正しいものへと改善する」ことが「目的」であり、「弱者の存在や不正な状況の存在を自分たち以外の人々に訴えて、それらを助けることや改善することについて自分たち以外の人々を同意させる」ことは「手段」である。重要なのは「目的」であり、「目的」は正しさや道徳に基づいたものであるべきだとしても、「手段」はその限りではない。むしろ「手段」の部分に正しさや道徳を持ち込んだ場合には非効率的になったり逆効果になったりするかもしれない。「手段」の部分では、何よりも効果や効率を追求するべきだ…というのがクーニーのスタンスだろう。

 

 しかし、運動をする立場の人々からすれば、相手の心を変えるために自分たちが主張の仕方を変えなければいけない、という時点で納得がいかない場合も多いだろう。特に、性的少数派や人種的少数派などのマイノリティの当事者本人たちが運動を行っている場合には、この気持ちは強くなると思われる。そもそもの目的が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正な状況を、正しいものへと改善する」ことであるとして、運動を行って主張を発しているマイノリティたちは現状の不正な状況の「被害者」であり、運動によって発せられる主張の受け手であるマジョリティたちは「加害者」であると言える。この場合、単に正論を言っても通じないから主張の仕方を変えて相手の気分を害さないようにしながら自分たちの主張を伝えようとする、ということ自体が、「加害者に対して被害者が気を使って下手に出なければならない」という構図になるのであり、運動の当事者であるマイノリティたちは屈辱感や理不尽感を抱くかもしれない。そもそも「マイノリティがマジョリティに気を使って下手に出なければならない」ということ自体が「マジョリティがマイノリティを抑圧している不正」に由来しているものであることを考えれば、不正な状況を改善するための運動の中で不正な状況が再生産される、といった不条理な感覚もあるかもしれない。それよりも、マジョリティなんかに媚びへつらわずに断固として正論を主張することの方が「正しい」と感じられるかもしれない。マジョリティに気を使った主張をしようとすることは敗北主義である、マジョリティに気を使うことそれ自体が不正を再生産する、現状の本質的な解決を目指すにはやはり徹底的に正論を主張して戦い続けるべきだ…などなどの意見が出てくるのも無理はないかもしれない。

 …とはいえ、やっぱり、社会運動によって現状を変えるためにはマジョリティたちの意見を変えなければいけない。そして、ただ正論を主張するだけでは多くの場合にはマジョリティたちの意見を変えることはできない、ということもこれはもう残念ながら事実なのだ。運動が変えようとしている対象である「マジョリティがマイノリティを抑圧している状況」があるために「マイノリティがマジョリティに気を使わなければマジョリティを同意させられないという状況」が存在しているのであり、そして前者の状況が変わらない限りには後者の状況も存在し続けるだろう。結局のところ、"現状を変える"という「目的」と"現状を変えるためにマジョリティを自分たちに同意させる"という「手段」は別々に考えるしかないのだろうし、「手段」の部分では理不尽や不正にも多少は目を瞑るしかないのかもしれない。

 

 …と、ここまでは「社会運動によって意見を発する側」はどうするべきか、という話を取り上げてきたが、「社会運動からの意見を受け取る側」としての私たち…意見や主張の聞き手としての私たちはどうあるべきか、ということについても考えなければならないだろう。

 このテーマについては、似たようなことが話題になる度に読み返しているブログ記事があるので、紹介して引用したい。重要なポイントがよくまとめられている記事であると思う。

 

d.hatena.ne.jp

 

 

…これはマジョリティの(とくに、自分は"ふつうである"と考える人間によくある)発想である。上記は「はてな匿名ダイアリー」の記事であるため発言者のバックボーンは不明だが、僕と同じように(本件に関しては)マジョリティの立場にある、ないしそれを志向している人によるものではないかと思う。僕ともいくつか考えの重なる部分がある(まあ、こういう分析は往々にして外れる。もし「こうしたほうがマジョリティの受けがいいのに」というマイノリティなら、申し訳ないんですけど、その主張はやめたほうがいい)。


そこで今回は、自らをして安泰な場所に憩わせ、またその自らの安寧のために他者を不安定な場所に押しやってしまうことにも気づかず、さらにはそれに抗議する声を自分の権利の侵害と感じ、不快を覚えてしまうような思考を抱いてしまいがちな「マジョリティとしての我々」が考えるべき事柄として、以下、永江良一訳によるジョン・スチュアート・ミルの自由についての 第2章 思想と言論の自由について より、CC BY-SA 2.0 JPの条件で引用する。

 

"(…中略…)しかし、この武器は、事の本質から、広まっている意見に攻撃を加える人に与えられていません。彼らは、身の安全を確保してその武器を使うことができないばかりか、できたにせよ、自分の主義主張に報復を受けることにしかならないでしょう。一般に、広く受け入れられている意見と相容れない意見は、考え抜いた温和な言葉づかいや、不必要に気分を害することを細心の注意を払って避けることによってしか、聞いてもらえないのです。こういう注意からほんの少しはずれただけでも、地歩を失わずにすむことはほとんどありません。

いっぽう広く受け入れられた意見の側では計りようのないほどの悪罵を浴びせ、反対意見を明言したり、あるいは反対意見を明言している人の意見を聴くのを、まったくもって人々に思いとどまらせているのです。だから、真実と正義の利益のためには、この罵倒する言い回しの使用を抑制することが、他の何ものにもまして重要なのです。それで、例えば、どちらか選ばなければならないのなら、宗教への罵倒攻撃よりも、不信心への罵倒攻撃を阻止するほうがずっと必要なのです。 "

 

最後にもうひとつ。

 

"数学と物理学を除く分野では、反対論者と活発に議論したときに必要になるのと同じ思考の過程を他人から強制されるか、自ら経ていないかぎり、知識と呼ぶに値する意見を確立することはできない。このため、反対論がない場合、それを作りだすことが不可欠なのだが、きわめて困難でもあるので、そうした反対論を自ら提起する人があらわれたとき、その機会を無視するのは愚かを通り越した最悪の行為ではないだろうか。主流の意見に異議を唱える人がいるか、法律や世論の力で押さえつけられなければそうする人がいるのであれば、そうした人に感謝し、心を開いて反対意見を聞くようにすべきではないだろうか。そして、自分たちの確信を確かなもの、活き活きとしたものにすることを重視するのであれば、自分たちではるかに苦労して行わなければならない作業を行ってくれる人がいることを喜ぼうではないか。"

ジョン・スチュアート・ミル 自由論 (日経BPラシックス)

 
 ミルはこうも言っている。

 

「しばらく多様性を見慣れなくなれば、人類はたちまち多様性を理解できなくなるでしょう」(前掲の永江訳 第3章)

 

我々は、自身に向けられた抗議や違和感の表明を、攻撃としてではなく、自らと自らの社会に与えられた将来の再検討の機会と捉えるべきであると、そう繰り返し主張しておきたい。

 

自らの幅を狭めることのないように。

 

  …私が前述したように、人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていないこと、そして現に不正な状況が存在しておりそれを変えるためには多くの人々の意見を変えなければならないということを踏まえれば、社会運動などで意見を発する側は自分の意見が効果的に相手に伝わるように努めるべきであるし、「過剰な批判」が逆効果になる場合があるとすればやっぱり過剰な批判ではなく別の仕方をするべきであるようには思われる。

 だが、社会運動などで発信される意見を受け取る側である私たちは、多くの場合にはマジョリティであり、不正な状況の中で加害者的な立場や不当に優位な立場に立っていたり、不正な状況を放置していたことに何らかの責任がある存在であったりする。そんな私たちが自分の立場に甘えて、相手に対して「お前の意見が正論であるかどうかにかかわらず、お前の批判の仕方が過剰だから気に食わない、お前の意見を受け入れるつもりをなくした」とか「お前が言っていることは事実であるかもしれないが、まるで自分が悪人であると糾弾されているようで傷付いた、もう知らないし聞きたくない」とか、あるいは「お前の主張の仕方は穏当だが、以前にお前の仲間が過激な主張をしていて不愉快だった、だからお前の主張を理解するつもりもない」とか言うことは、さすがに認めがたいだろう。

「人間の頭や心というものは必ずしも事実や正論をそのまま受け入れるようにはできていない」とは書いてきたが、それだって程度問題だ。相手の意見の主張の仕方が同じであっても、聞き手である私たちが態度を変えるだけで、事実や正論が受け入れられるようになる場合もある。「自分にとって多少は不愉快であったり不都合なことが出てくるかもしれないが、ひとまず相手の話を最後まで聞いてみて、その主張が正しいかどうかについて考えてみよう」と決心して、理性的に相手の主張に耳を傾けてみるだけでも、相手側は余計な小細工やアピールをせずにストレートに主張を行うことができるようになって生産的だ。…そもそも、心理学的なテクニックをいくら用いたとしても、マジョリティである私たちが「自分たちにとって不都合であったり不快なことを聞く気は一切ない、自分たちの意見や行動を一切変える気はない、相手がどれだけ穏当で配慮がされた主張をしたとしても必ず粗を探して非難してやる」という態度で居続けるとすれば無意味だろう。意見を発信する側が工夫や配慮をする必要があるのは確かなのだが、意見を受け取る側である私たちが相手に歩み寄る必要があるのもまた確かなのだ。

 

「いやいや、そもそも相手の意見を聞かなければならないという責任や義務が私たちにはない、誰かが社会運動をして意見を発信するのは勝手にやっていればいいと思うが私がそれに耳を傾けなければならないという義務はない」と言われるとどうしようもないが、まあ民主主義社会に生きる市民がそんな甘ったれていて自分勝手な態度を取ることは許されない、と言ってしまってもいいかもしれない。不正な状況に抗議してそれを変えようと意見を発した少数の人々がいたこと、そして大勢の人々がその意見に耳を傾けてきてその意見に同意してきたことによって、私たちの世の中は善くなり続けてきたはずだ。そしてこれから先にも世の中が更に善くなるように私たちは努め続けるべきであるはずだし、自分から積極的に意見を発する側には立たないとしても、せめて意見の聞き手としては誠実であり続けて、市民的責任を果たすように心掛けるべきだろう。

 

 

自由論 (日経BPクラシックス)

自由論 (日経BPクラシックス)

 

 

 

社会運動を効果的に行うためにはどうすればいいのか?

 

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

 

 

 

 今回は、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』について軽く紹介しよう。

 

 クーニーは主に動物愛護運動を行っている社会活動家であり、  Wikipediaによると、Mercery for AnimalsThe Humane Leagueなどの動物愛護団体の運営に関わっているようだ。『心を変える』は、クーニー自身が動物愛護運動で培ってきた経験と社会心理学の知見を合わせて書かれた本であり、「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニックが論じられている本だ。

 ポイントとなるのは「効果的」というところである。現行の社会構造や慣習のために苦しんでいる弱者(国内/国外の貧困層、難民や戦争の犠牲者、被差別者、動物など)を救うために社会を変えようとすることを目指す運動を社会運動と定義すれば、運動が成功を収めれば弱者は救われる一方で運動が失敗した場合には弱者は現在と同じように苦しみ続けることになる。特に、一部の国々の人々や動物たちなどには現在進行形で死がもたらされているのであり、彼らにとっては社会運動の成否はまさに生死に関わる問題であるのだ。…このような事情をふまえれば、社会運動を行っている人々は自己満足や視野狭窄に陥らないようにするべきであり、成功を目指して効果的な運動を行うことを心がけるべきである、というのがクーニーのスタンスだ。

 

 この本の紙面の大半は「他人の心を変えるにはどうすれば良いか」ということについて割かれており、自分たち以外の人々を社会問題に注目させる・自分たちの意見や主張を自分たち以外の人々に受け入れさせるための心理学的・実践的なテクニックが論じられている。

 ごくごく一般論として、人間は理性や論理だけで動く生き物ではなく、感情というものを持っている。単に正論を主張し続けたり議論に打ち勝つだけでは他人の意見や考え方を変えることは難しいのであり、理性の背後にある感情を刺激することこそが他人を変えるための近道なのだ。だが、人間の心理というものには自己欺瞞や認知的不協和や公正世界信念などの様々な事象がはたらくのであり、一筋縄ではいかない。たとえば、ある意見に対して「この意見は自分のことを非難している」と感じた人は防衛的になり、その意見を否定して認めないことに全力を尽くすようになってしまうものである。このことをふまえれば、「市場に出回っているチョコレートのほとんどは、児童労働を行っている途上国のカカオ畑から採れたカカオを原材料としている」とか「畜産品の生産過程では大量の苦痛が動物に生じている」とかいうことを訴えてそれらの問題を解決することを目指す運動であっても、自分たちの主張をストレートに訴えてしまうと、普段からチョコレートや畜産品を食べている多くの人々は自分が非難されているように感じてしまい、運動に対して否定的になってしまう。このことを避けるためには、個々人の消費者を糾弾しているように聞こえるような訴え方をするのではなく、チョコレートや畜産品を生産して流通させている企業や業界を非難の対象とするような訴え方をするべきであり、「企業や業界はチョコレートや畜産品の生産過程の実像や現場で生じている倫理的問題を隠すことで、消費者たちをも騙している」という点を強調して消費者の正義感を刺激したり、運動家たちは消費者の味方であると思わせたりすることが効果的である…などなど。

 個人レベルでのミクロな説得や対話を効果的に行う方法から、SNSなどのメディアの利用をしてマクロに主張を発信する方法まで、様々な場面でのテクニックやアドバイスが『心を変える』には書かれている。著者のクーニー自身の専門は心理学ではないようだが、専門的な心理学の論文が大量に引用・参照されており、充分に信頼できると思わされる内容だ。

 

 …が、私にとって特に興味深かったのは本の前半であり、運動家たち自身の心理について書かれている箇所である。運動の対象となる一般の人々に様々な心理傾向が存在しているのと同様に、運動家たち自身にも様々な心理傾向が存在している。多くの運動家たちが自己満足や視野狭窄に陥って効果的な運動を行うことに失敗するのも、これらの心理傾向が原因である、とクーニーは論じているのだ。

 たとえば、人の外見というものは相手に対する印象を大きく左右するものである。同じ意見を主張するとしても、汚くてだらしない格好をしたひとが主張した場合よりも小綺麗でフォーマルな格好をした人が主張した方がその意見の説得力はずっと増すだろう。だが、左派の活動家の多くはヒッピー的でカウンターカルチャー的な価値観を抱いており、自分の外見にあまり気を使わず、フォーマルな格好をすることを嫌悪している。外見に気を使わないことをむしろ誇りにしている人たちにとっては、フォーマルな外見をしている方が抗議活動や討論の場で有利に働き自分たちの運動を成功させやすくなるとしても、その事実を理解して実践することは難しいものだ。このことは外見というものがアイデンティティと密接に結び付いているために生じる心理的傾向であるが、効果的な運動を追求するためには、この種の心理的傾向は克服しなければならない。ちょっと長くなるが、この話題について、本文から引用して訳して紹介しよう。

 

…私たちの外見がどのようなものであるか、どんな服を着るかということは、私たちの自己アイデンティティと密接に結び付いている。 また、私たちの外見がどのようなものでありどんな服を着ているかということは、私たちがどれだけ他人を説得することができるかということにも大きな影響を与えるのであり、そのために、私たちがどれだけ効果的に社会変革をもたらすことができるかということにも大きな影響を与えるのだ。環境(や動物や人々)を守ることについて効果的になるために自己アイデンティティの一側面を捨てることは、そのような決断を下したことがない人が思っているよりもずっと難しいことである。

あなたが、外見や服装について自分たちなりのスタイルを持っているサブカルチャーの一員である場合には、外見や服装を変えることは更に難しくなるだろう。この場合、外見を変えることは自己アイデンティティの一部を捨てることに済まず、集団アイデンティティを示す社会的な記号を捨てることも意味するからだ。あるアナーキストが、ドレッドヘアーを切ってつぎはぎだらけの黒い服を処分して、代わりにカーキパンツを履いてセーターベストを着たとすれば、彼は効果的に人々を説得できるようになり自分の主張のキャンペーンにも成功するようになるだろう。だが、彼は、自分が仲間のアナーキストたちから離れてしまったような気持ちも少しばかり抱くはずだ。彼は自分のことをアナーキストであると"感じられ"なくなるかもしれない…そして、自分を自分たらしめていたものの一部を失ってしまったように感じるかもしれない。(昔はアナーキストらしい格好をしていた)私が髭を剃って普通の服を着ることを決断するまでには一年かかったし、最終的に髪も短くするまでにはさらに数年かかったものだ。

自分たちとは異なった外見をしているからという理由で他人に対して偏見を抱く人たちのために、私たちの方がファッションの趣味や髪型などを変えなければならない、ということは不公平に感じられるものだ。そもそも、外見に基づいて人を判断することも("ルッキズム"と呼ぶ人もいる)、それ自体が社会問題ではないのか?だが、それが公平であるか不公平であるかに関わらず、そのような偏見は現実に存在しているのだし、これからも長年に渡って存在し続けるだろう。自分たちの活動においてメインとなっている問題について人々に影響を与えることが可能になる程度の説得力がある外見に変わることをしないとすれば、もはや私たちは一つの問題に対して戦っているのではなく、二つの問題に対して同時に戦うことになる…そして、最もあり得るのは、どちらの戦いにも負けてしまうということだ。外見を変えるという心理的には難しいが実行すること自体は簡単である行為は、私たちの人生の質を重大に下げる訳ではないが、私たちが外見を変えることは(そして、そのうえで思慮に富んだ活動やキャンペーンを行うことは)他の人々や動物や生態系にとっては本当に生死を分ける問題となるのだ。

私たちの外見が私たちの活動に与える結果について考えるだけでなく、私たちの感情が私たちの活動に与える結果についても考えなければならない。着たいものを好きに着ることは許されることであるように思えても運動にとっての最善の結果にはつながらないことと同じように、私たちが感じたことを何でも発言したり行動に移したりすることは、許されるように思えても、大半の場合には運動にとって最善の結果にはつながらないのだ。

(p.13-14)

 

 

 クーニーの主張の本筋からは外れるが、「ある社会問題や差別を解決するための運動を有効に実践するために採用される戦略(外見を小綺麗にする、など)」が、その戦略を採用すること自体が別の社会問題や差別(ルッキズム、など)であるとして批判されて否定されて、結局有効な戦略が取れなくなる、ということは社会運動に付き物のジレンマであるかもしれない。日本の事例で私がまず思い出すのは、学生団体のSEALDsが反戦運動を行う際に「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」というレトリックを用いたらフェミニズム的な観点から批判された、という事例だ*1

 

 

togetter.com

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 これは厄介な問題で、たとえば「同性愛者の権利を守る運動」や「外国人に対する差別に反対する運動」などの事例においても、それらの運動の個別のテーマは同性愛者や外国人であるとしても、多くの場合には、「同性愛者の権利は守られなければならない」「外国人に対する差別は不当である」という主張の背景には「人権は守られなければならない」「全ての差別は不当である」という普遍的な原則があるはずだ。その運動の個別のテーマは同性愛者であるとしても、仮にその運動の過程で別の人々の権利を侵害するとすれば、「同性愛者の権利は守られなければならない」という主張の背後にある「人権は守られなければならない」という原則に運動自体が違反することになり、その運動は矛盾して一貫性のないものになってしまう。外部の人々はその運動に説得力を感じなくなるだろうし、運動内部の人々も自己矛盾に苦しむことになるだろう。

 一方で、何を「権利の侵害」や「差別」とするかということ自体にも、理論や価値観によって見解の差が生じてくる。「汚い格好をしている人々の主張に対して説得力を感じない」ことは、差別であると考える人もいるかもしれないが、妥当で当然の反応であると考える人もいるだろう。そして、差別であることは否定できないが悪質度は低く、生死にかかわる問題に比べると大した問題ではない差別である、と考える人もいるかもしれない。優先順位をふまえれば、誰かの生死に関わる問題に対処するための運動においてルッキズムを用いることは問題ではない、という価値観もあるだろう。

 ここにあるジレンマは、ある運動をするうえでその運動のテーマではない別の問題に対してあまりに鈍感過ぎることは運動の説得力を失わせるし倫理的にも認めがたいが、他の問題をあまりにも意識し過ぎてしまうと運動を有効に行うことができなくなってしまうということだ。社会運動界隈でよく登場するインターセクショナリティピンクウオッシュといった言葉には「ある社会問題に対処するうえで別の問題を無視することはできない」「ある社会問題に注目する一方で別の社会問題を見過ごすことは、一貫性がなく矛盾している」といった意識が反映されているのかもしれないが、「移民に対する差別に反対しなければ"真の"フェミニストとは言えない」「イスラエルを非難しないLGBT運動はパレスチナ人に対する抑圧に加担している」といったように、社会運動に参加したりその運動を支持するうえで要求される基準を過剰に引き上げて、運動の潜在的な支持者や参加者を失わせているように思える。クーニーの言葉を借りれば、本来なら一つの問題に対して戦えば済むところを複数の問題に対して同時に戦いを挑んでしまっているのであり、結局は勝ち目のない戦いを自ら招き寄せてしまっているということになるのかもしれない。

 

 

*1:このレトリックが実際にどれだけ効果的であったかはさておいて

"女のヒステリー"と動物愛護運動

 ヒマなので、昔自分で書いた修士論文の内容の一部を参考にしながら、記事を書いてみようと思う。私はアメリカ史を専門にしていた訳ではないので歴史に関する文章については事実誤認とか間違いが含まれているかもしれないが、そこはまあ勘弁してほしい。

 

 アメリカで動物愛護運動が最初に活性化したのは19世紀の後半、南北戦争が終了してからだ。奴隷解放運動とそれに連なる諸々の社会改良運動・人道主義運動は戦争の前からも行われており、戦争後も、混乱・荒廃した社会を再建して道徳や秩序を取り戻そうとする人道主義運動は盛んに行われていた。そして、動物愛護運動も社会改良運動・人道主義運動の一環として行われていたのである。…アメリカの動物愛護運動は第二世界大戦の前後に一時勢いを失うが、20世紀の後半には再び勢いを取り戻した。従来の運動は基本的には犬猫の保護や毛皮への反対や家庭内・街中での動物虐待の防止などを目的とするものであったが、1970年代にはピーター・シンガーの『動物の解放』が出版されたことなどをきっかけとして、畜産や動物実験などの産業における動物の利用を禁止・撤廃しようとする「動物の権利運動」も登場するようになった。「動物愛護運動」と「動物の権利運動」は区別して論じられることも多いが、今回は一まとめに「動物愛護運動」として記すことにする*1

 

 19世紀から現在に至るまで、アメリカの動物愛護運動の特徴の一つは、運動の構成員の多くが女性であるということだ*2。「…(アメリカの動物愛護運動の)最も強烈な特徴の一つとして、女性が多数派を占めることがある。19世紀後半から現在にかけて、女性は動物の権利運動の前面に立ってきた」(Gaarder 2011, 1)。その理由は様々であると考えられるが、その一つには、19世紀後半のアメリカでは、女性には社会的な性役割として"優しさ"が要請されていたということがある。「女性は男性の定義する政治世界の不正や不道徳とは別の世界にいながら、女性の道徳心を公的な場に提供すること」(エヴァンス 1997, 208)を求められていたのだ。動物愛護運動だけでなく、禁酒運動や児童保護運動などのその他の社会改良運動の構成員の多くも女性であったのだが、女性たち自身も「母性的な価値観こそが公的な行為の元となるべきだという要求」(エヴァンス1997, 210)を発していた。禁酒運動や動物愛護運動は子供への教育や秩序ある家庭というイメージに結び付けられて、家庭や子供という“母親の領域”を守るためのものとして行なわれていたのだ*3

 社会的な性役割の他にも、心理学的な事象として、女性は男性よりも動物に対する愛着や同情やケアの感情を抱くことが大きい、ということの影響は強いだろう*4

 

 社会運動を行ううえで、「女性」や「母親」のイメージを有利に使用することはできる。たとえば19世紀の運動では、子供への動物愛護教育を普及するための活動や女性向けの製品であった羽根帽子の不買運動を行ううえで、運動家の女性たちは“母親としての子供への関心”や“女性にあるべき優しさ”といったイメージを使い、自分たち以外の女性の心を動かすことで、成果を挙げてきた(Beers 2006, 81)。

 また、どんな社会運動でもそうであると言えるが、動物愛護運動は人々の理性と感情の双方に訴えることで支持者を増やして目的を達成しようとする運動である。「動物に対する差別は、人種差別や性差別と同種のものであり、許されない」と論理的に相手を説得したり論破することで支持者を増やそうとする場合もあれば、動物たちが様々な苦痛を受けていることを強調して動物の苦痛に対する同情やケアの気持ちを呼び起こすことで支持者を増やそうとする場合もある。そして、一般的には、女性は同情やケアなどの「感情」と結び付けられることが多い。

 

 だが、運動の構成員の多くが女性であることや「女性的」というイメージが付いていることは、運動にとって足枷となる場合もある。運動の目的と利害が相反する敵対者たちが、女性は「感情的」であるために「理性的」な男性に劣る存在であるという価値観やイメージを利用して「動物愛護運動は女が感情に任せて行う運動だから理性的な主張ではない、理性的な人ならば動物愛護を否定するべきだ」といったことを主張することができてしまうからだ。

 19世紀の生体解剖反対運動から現代における動物実験反対運動まで、動物愛護運動の主要な標的の一つは医学や科学である。そして、医学者や科学者たちは自分たちが理性の側に立っていると強調し、女性たちは感情的なヒステリーに陥っていると "診断"することで、動物愛護の主張に反対してきた。

 たとえば、生体解剖反対運動においては、医学者は自らを医学を発展させ人々を救うという道徳的な行為を実践する存在であると自認した上で、生体解剖への反対は動物への同情のために医学・科学の発展を無視する運動である、と反論した。さらに、医学者たちは動物愛護運動家たちの動機を女性の身体に由来する精神病に還元した。

 

 「科学者たちは、医学への動物の利用に反対する人々をもの笑いの種にした。……当時、最も闘争的だったのはニューヨーク在住の医師、ジェイムズ・ウォーバスだろう。一九一〇年、動物研究の熱心な支持者であったウォーバスは、イヌ好きも度がすぎると悲惨な結果になると警告し、動物に愛情を抱くのは精神病、それも性的な精神病であるとほのめかしていた。そして自身の主張を裏づけるために、女性を「母親タイプ」と「娼婦タイプ」のふたつに分けたあるドイツ人研究者の研究を引き合いに出して、イヌを撫でまわす女性は母親タイプには属さないといさめた。」(ブラム2001, 161)。

 

 当時の医学者たちは「女性の精神の健康は彼女の出産器官に結び付いている」(Beers 2006, 124)としていたのであり、「普及していた理論では“ヒステリー”や“鬱病”とされている曖昧な疾病への正しい処方は、卵巣摘出や子宮摘出などである」(Beers 2006, 124)と考えていた。動物に過度な愛情を抱く「動物愛好症」はヒステリーや鬱病のように女性器と関連した精神病であり、動物愛護運動に興じる女性たちはこの動物愛好症の患者である、と医学者たちは主張したのだ。

 

 

 …現代の医学者や科学者や19世紀のような疑似科学的・女性差別的な「ヒステリー」論を主張することはさすがに少ないだろうが、程度の差はあれど、「この主張や運動は女が行っているものだから感情的で短絡的なものだ、俺の方が理性的で正しい主張をしているんだ」という類の主張は現代でも散見される。アメリカの動物愛護運動に限らず、たとえば日本の反原発運動や反放射能運動に対しても、この類の反論を見かけることがある。

 そして、運動が「感情的」なものとされることで運動の主張が否定されたり運動の説得力が奪われたりする、ということは運動家たちにとっても頭の痛い問題だ。対処法の一つとしては、議論になった際にも勝利することのできるような洗練された理論を発達させて、運動は「感情」ではなく「理性」に基づいたものであると自分たちの側から強調することだ。私の考えによると、シンガーの『動物の解放』が出版されたことが重要であったことの理由の一つは、感情的な要素を否定しつつ徹底的に理性的な理論を提供することで動物愛護運動のイメージを「感情」から「理性」の側にぐっと近付けたことにある*5。また、男性の哲学者といういかにも理性的な人によって権威のお墨付きを得ることができた、ということ自体も重要であるのかもしれない。

 だが、「自分たちの運動は感情的なものではない、一から十まで理性に基づいた運動だ」と主張するとすれば、多くの運動家たちにとっては自己矛盾をきたすことになる。実際問題、運動をする中で知識や理論を学んだり考えを洗練させていくことがあるとはいえ、多くの人にとって動物愛護運動に参加する最初のきっかけは動物への同情やケアなどの「感情」であることは否めないからだ。

 

 エミリー・ガーダーの著作『女性と動物の権利運動(Women and Animal Right Movement)』は現在のアメリカなどで動物の権利運動を行っている多数の女性運動家へのインタビューを通じて書かれた本であり、女性の運動家たちが抱えている悩みやジレンマが描かれている。女性であるという理由で「感情的」だとラベルを貼られて自分の主張が否定されることは不当に感じるが、しかし自分の感情を否定したくもない、場合によっては「感情的」や「女性的」というイメージを戦略的に使用することもある…などなど。たとえば、ある運動家は、「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)と証言している。

 

 

 …例によってまとまりがない記事になってしまったが、社会運動における「感情」と「理性」の関係とか、女性の運動家に向けられがちなレッテルや差別などについて考えたり研究したりするうえで、(アメリカの)動物愛護運動の事例は大いに参考になる、と言えるかしれない。

 なにか実践的な教訓を引き出すとすれば、自分が何か批判された時に「お前の主張は感情的だ、俺の主張は理性的だ、だから俺の方が正しい」みたいな反論をする時には慎重になるべきだ、ということだろうか。そういう反論を行う前に、本当に相手の主張は感情的で自分の主張は理性的であるかと慎重に考えるべきであるし、自分にとって不都合・不愉快な主張に対して無意識のうちに「感情的」というラベルを貼って切り捨てていないかということをよくよく検討すべきだろう。「お前は女だからヒステリーで感情的だ」みたいな主張をするのは差別であるので言語道断である。

 

 

Women and the Animal Rights Movement

Women and the Animal Rights Movement

 

 

 

 

参考文献:

Beers, Diane. For the Prevention of Cruelty: The History and Legacy of Animal Rights Activism in the United States.  Athens, Ohio: Swallow PressOhio University Press, 2006.

Gaarder, Emily. Women and the Animal Rights Movement. New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 2011.

Pearson, Susan. The Rights of the Defenseless: Protecting Animals and Children in Gilded Age America. Chicago: University of Chicago Press, 2011.

エヴァンス, サラ. 竹俣初美, 小櫓山ルイ,矢口祐人・訳.『アメリカの女性の歴史 自由のために生まれて』. 明石書店,1997.

ブラム, デボラ.寺西のぶ子・訳.『なぜサルを殺すのかー動物実験とアニマルライト』. 白揚社, 2001.

*1:「動物愛護運動」と動物の権利運動」、また「動物の福祉運動」と言った言葉の定義の問題はなかなかややこしい。以下の記事が多少なりとも参考になるかもしれない。

動物の権利運動と動物福祉 ー 規制か、撤廃か? 動物の権利運動における畜産をめぐる論争 - 道徳的動物日記

*2:アメリカ以外の国の動物愛護運動では男性が多かったり男女半々である…ということではなく、単に私はアメリカ以外の国の動物愛護運動の男女比についての情報を持っていないのでこう言う書き方になったというだけである。日本の動物愛護運動にしても私が関わった範囲では女性の方が多いように思われるし、おそらく一般的な傾向であるような気がする。

*3:しかし、動物愛護団体の構成員の多くが女性であり、団体の創設そのもの体に女性が関わっていた場合でも、世間的な見栄えを考慮して団体の代表者は男性となる場合が多かった。女性は“道徳の守護者”として見なされつつも、社会的な重責任を努める立場は努められないと見なされていたからだ。結局、女性が動物愛護団体の代表者になることが認められるようになったのは1950年代以降である(Beers 2006, 81)。 

*4:動物への態度に関する男女の性差に関する心理学的研究としては、ハロルド・ハーツォグの研究などを参照できる。

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.2752/089279391787057170

Anthrozoo?s 2007.qxp:Layout 1

ハーツォグの著書でも、動物への態度に関する男女の性差について書かれている箇所がある。

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

マーサ・ヌスバウムによる動物の「繁栄・開花」/「可能力アプローチ」論と、その問題点

 

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

 

 

 ドナルドソンとキムリッカの『人と動物の政治共同体』を読んだついでに、同じく政治哲学の視点から動物を扱っている、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』の第6章「"同情と慈愛"を超えて」も、ぱらぱらと読み返してみた。

 

『正義のフロンティア』は「障害者・外国人・動物という境界を超えて」という副題の通り、ジョン・ロールズの『正義論』のような社会契約の枠組みでは排除されたり上手く扱えない立場の存在について、政治哲学的に配慮の対象とする方法を探る、的な本である。

 通常の社会契約論では動物は配慮の対象にならないというのは、考えてみれば明白である。ほとんどの動物は人間のような合理的な道徳的主体ではなく、互恵性や協力をする能力やルールを守る能力を持たないために、契約能力がないからだ。それらの能力を持っている動物はいるとしても限られているし、人間が持つ複雑な能力に比べればかなり限定的であったり異なる種類のものであったりするし、例えばある生物種の動物同士の間では互恵性や協力が存在するとしてもその動物が人間との間に互恵性や協力を結べるとは限らない。社会契約には「資源が限られている状態でお互いが争い合うと相互に傷付いてどちらも損をするから、お互いの利益のために契約を結ぼう」という相互利益の観点から行う側面もあり、そしてある資源(食料や居場所など)をめぐって人間と動物が競争する状況にある事例は十分に想像できるが、大半の場合には人間は動物に対して圧倒的に強くて有利な状況にあるので、相互利益の観点から行う契約も成立しない。人間は自分が傷付くことなく動物を排除することができるから、わざわざ契約を結んで妥協してやる必要がないのだ。そんなこんなで、社会契約論によって動物を配慮の対象に入れることは難しい、とヌスバウムは論じる。「動物に対して残酷な人々は人間に対しても残酷になるだろうから、人間同士の間の残酷を防ぐために動物に対する残酷も防ぐべきである」とか「動物も苦痛を感じる以上は動物に対して残酷になるべきではないし、社会契約の当事者に対して負うのとは異なる種類の義務(同情や慈愛の義務など)は存在する」などの間接的であったり曖昧な道徳的義務は主張できるかもしれないが、動物を直接の対象とする道徳的義務を社会契約論から明白に論じることは困難であるのだ。尚、社会契約論において障害者を配慮の対象に入れようとする時にも、動物の場合と同様の様々な難点が生じることも指摘されている*1

 しかし、社会契約の当事者にはなれないとしても、動物たちはそれぞれの動物なりに「善(Good)」を持っている存在である。「善を持っている」というのは、要するに、あることが起こったり物事がある方向に変わったらその当人にとって良かったり嬉しかったり快適に感じられること、あるいは悪かったり苦痛だったり不快に感じられることが存在する、というような意味だ。また、動物たちはそれぞれの生物種に基づいた仕方で「繁栄・開花(Flourishing)」をするための「可能力・潜在能力(Capability)」を持っている。適切な環境があれば犬は走り回って群れで遊んだと犬らしい行動をとるし、牛にせよライオンにせよイルカにせよ、動物たちにはそれぞれにその生物らしく生きて「繁栄・開花」する可能性を抱えているのだ。ある動物が自分の「可能力」を「繁栄・開花」することは、その動物にとって善である。そして、動物たちがその種らしく生きているところを目にした時、私たち人間は、驚嘆を覚えて感心する。また、何らかの環境や状況のために動物たちが自分たちの種らしい生き方をできない場合には、そのことは良くないことだという倫理的判断を私たち人間は下す。これらの事柄をふまえると、動物たちが「繁栄・開花」するための「可能力」を害しないようにしたり積極的に維持や保証をしてやることは道徳的義務だということができるし、動物が社会契約の当事者になれないからといって動物の「可能力」を無視する理由はない。これがヌスバウムの「可能力アプローチ」である。「このアプローチにおいて重要なのは、動物には幅広く機能するための可能力が、そして繁栄・開花した生活つまり各々の生き物の尊厳に見合った生活にとってもっとも本質的な可能力が、権原としてあるということである。動物は正義に規定された権原を有している」(p. 446)*2

 

 ヌスバウムは、守られて尊重されるべき、動物の「可能力」のリストを以下のように挙げている。ただし、このリストが絶対唯一のものであるとはヌスバウムも主張しておらず、あくまで一つの例としての大まかで一般的なリストとされている。

 

(1)生命:「功利主義のアプローチは感覚性にのみ焦点を合せるため、動物の自覚的な利害関心のひとつが持続する生命である場合を除いては、生命への権原を動物に与えない。可能力アプローチでは、そのような自覚的な利害関心があるか否かにかかわらず、苦痛と老衰によって死が危害となるまでは、すべての動物にはそれぞれの生命を維持する権利資格がある」(p.447)。…私の見解によれば、動物の利害関心に「持続する生命」が含まれないとしても、動物が幸福を感じ続けられるなら(幸福の総量が増加するために)その動物を生き続けさせるべきである、という主張を功利主義が行う場合もあるはずである。「持続する生命」に対する利害関心を重要視するのは功利主義の特徴というよりもパーソン論の特徴であるはずだ(パーソン論の中には功利主義以外のものも含まれるし、パーソン論を採用しない功利主義が存在する可能性もあるはず)。ともかく、ヌスバウムは「虫や、他の感覚性が無かあるいは最小限の生命の形態を扱う場合には、この権原はそれほど頑強ではない」(p.447)としている。感覚性にこだわる功利主義を批判する一方でヌスバウムも感覚性を重視しているのであり、曖昧な感じがする。また、年老いており苦痛を感じ続けている動物を、十分な考慮を行ったうえで安楽死することも認めており、生命を絶対視している訳でもないようだ。

 功利主義には「動物を殺すことによって人間が得られる利益や効用の方が上回るのなら、動物を殺すことは認められる」という結論が導き出される可能性が常に存在しており、動物に多大な苦痛や死を与えている制度である食肉産業すらも肯定してしまう危険性が常に存在している、ということをヌスバウムは指摘する。一方で、可能力アプローチでは利益や効用の計算を度外視して動物の生命を尊重することを求めるし、「搾取しかつ虐げる仕事には、権原がない」(p.448)として食肉産業を否定することができる。そのために可能力アプローチの方が優れている、とヌスバウムは主張している*3

 

(2)身体の健康:健康的な生活に対する権原。このことをふまえると、動物を殺さないとしても不健康な状態にさせ続ける動物園や水族館は問題とされる。

 

(3)身体の不可侵性:怪我をさせられないことや、その他の形で身体に介入されないこと。動物に暴力を振るうことはもちろんダメだし、人間の都合のために動物を改造すること(見た目を良くするために犬の尻尾を切る、家具を傷付かないようにするために猫の爪を切ることなど)も、その動物がその種らしく繁栄・開花することを妨げるのでダメである。

 ただし、「…不妊手術は個々の動物の生活に特段の影響を及ぼさないが、個体数の過剰増加とその結果生じる食料不足と餓死放置、これらを防止することによって、将来の動物の生活をよりよくするだろう」(p.450)ということでOKとされている。人間に対する強制的な不妊手術は「人間の生活において特に重要な、ある特定の自由と選択への権原を侵害する」(p.450-451)から問題だが、動物の場合にはそうでないとされているのだ*4

 

(4)感覚・想像・思考:人間の場合には、教育が保証されることや言論や芸術的表現の自由、また宗教の自由などの権原があるとされる。動物の場合には宗教や言論への権原は必要とされないが、楽しい経験を過ごすことへの権原は必要とされるし、退屈な生活を強制されない権原も持つ。つまり、ほとんどの動物園(や工場畜産)のように生活に刺激のなく移動の自由も保証されていない、ストレスと退屈さに満ちた環境は道徳的に否定される。また、ペットとして飼われる犬や猫のトイレ・トレーニング、また人間による訓練がなければその種らしく走り回ることができない多くの品種の馬などの事例では、それらの動物には教育への権原があるとされる。

 

(5)感情:身体的な苦痛を受けない権原のみならず、悲しみや孤独や恐怖といった負の感情を抱かされない権原も動物は持っている。動物に様々な負の感情を引き起こす、心理学的な動物実験は問題とされる。また、愛着やケアなどのポジティブな感情への権原も動物は持っているとされる。

 

(6)実践理性:人間だけでなく動物もそれぞれの種なりの理性を持っているので、それを発揮するための環境への権原がある。

 

(7)連帯:「…動物に特徴的な形態の絆及び相互関係に携わること」(p.453)への権原。群れで生きることが最適な動物には群れで生きることへの権原があるし、親子関係や友情関係への権原もある。ただし、野生の動物の群れでは年老いた個体や雌などの弱者が虐待されることも多いが、群れとしての自然なあり方は維持されるべきだがあまりにもひどい暴力は制御されるべきだとされている。

 

(8)ほかの種との共生:たとえば、人間と共に生きることで幸せになれる家畜動物には人間と共に生きることへの権原がある。

 

(9)遊び:退屈にならないことへの権原や移動の自由への権原があることの延長線上で、その動物の種ごとの遊びができるための適切な環境への権原も動物は持つ。

 

(10)自分の環境の管理:人間の場合には政治的なものと物質的なものがあるが、動物の場合にも、自分たちの利害が様々な意思決定の場で考慮されることへの権原があるとされる。動物たち本人は意思決定に参加できないとしても、後見人として動物たちの利害を代表する人間が参加すればよい。

 

 この他にも様々な可能力がリストに追加される可能性がある、とされている。

 

 

 …さて、ここで、功利主義者のピーター・シンガーによる、ヌスバウムへの批判を紹介しよう。

 

www.utilitarian.net

 

 ヌスバウム功利主義が特に動物の問題において一定以上の貢献を成し遂げてきたことを明記しつつ、功利主義における理論的な問題点を様々に取り上げて批判しており、シンガーはそれに対する反論を行なっている。しかし、ここではそのことは脇に置いておいて、ヌスバウムの「可能力アプローチ」に対してシンガーが向けている批判を紹介したい。

 

 可能力アプローチはアリストテレス的な「自然法」倫理の変種と言えるものであり、「自然法」倫理が抱えているのと同様の問題を可能力アプローチも抱えている。つまり、「自然であることは善いことだ」「人間(動物)にとっての自然的な性質なら、それは人間(動物)にとって善いことだ」という発想が根底にあるのだ。これは、「ナイフの目的は切ることにあるので、善いナイフとは鋭いナイフである」という理屈を人間や動物にも当てはめて「人間(動物)はある目的のために存在しているのであり、善い人間(動物)とはその目的を達成する人間(動物)である」という目的論的な人間観が抱かれていたアリストテレスの時代には説得力があったかもしれないが、現代に通じる理屈ではない。自然科学的に考えれば、人間(や動物)が持つ様々な性質は、価値中立的であり何らかの目的や意志が介在しない自然淘汰のプロセスによって進化してきたものであるからだ。

 ヌスバウム自身もこの問題は意識しており、「自然であることは善いことである」という主張を否定しようとしているとはいえ、動物や人間にとって「繁栄・開花」することは善であるという彼女の主張が「自然であることは善いことである」という主張からいかにして区別されるかは明白ではない。たとえば、人間にとって「繁栄・開花」することが善いことであるとすれば、大量の女性を集めてハーレムを作り自分の子供を孕ませまくる男性は、人間という種らしい行為を行っているために他の誰よりも「繁栄・開花」していると言えるだろうし、その男性のハーレムに参加できている女性も「繁栄・開花」していると言えるかもしれない。人間は狩猟採集民時代から他集団に対する戦争や虐殺を行ってきたが、戦争や虐殺を行うことは人間の「繁栄・開花」のために必要なのか?もっと穏当な例を挙げるとすれば、例えば人間は泳ぐことができるが、「泳ぐ」ことは人間にとっての「繁栄・開花」なのか?プールや海が近くていつでも泳げる人間は「繁栄・開花」している人間であって、近くに泳ぐ場所がない人間は「繁栄・開花」していないのか?…いや、泳いだりハーレムを作ったり虐殺したりするようなことが「繁栄・開花」をしていることであるとはとても言えない、とヌスバウムが主張するとすれば、彼女は「可能力」や「繁栄・開花」という言葉に対して、「その種らしい行為をすること」以外の別の価値判断に基づいた意味をこっそり導入しているということになるのだ。

 実際、上述してきたように、ヌスバウムは「人間が食肉産業を運営することによって動物を殺すことは、人間の可能力を繁栄・開花させていることとは言えない」「動物の個体数が増えることを防止するためには、動物の不妊手術を行うことは認められる」「動物の群れにおける自然なあり方であっても、個体に対する重大な危害が看過される訳ではない」といったように、「繁栄・開花」論だけでは導き出せないような、様々な価値判断を行っている。動物のその種としての性質が何でもかんでも「繁栄・開花」することが必ずしも善であるとされているわけではないのだ。だが、あるタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くて別のタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くないのか、異なる「可能力」が衝突してトレードオフが生じた際に片方が選ばれるべき理由は "なぜ"であるのか、あるいはその種らしい自然な行為であっても善ではないので「繁栄・開花」と呼ぶことはできないのは "なぜ"であるのか、…その "なぜ"をヌスバウムは明示していないことが問題となる。そして、シンガーによると、ヌスバウムは彼女が散々に否定している功利主義に頼るしかないのである。たとえば、「その可能力が繁栄・開花すればその動物の選好は満たされる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物の選好は満たされないために、その可能力が繁栄・開花することは善である」あるいは「その可能力が繁栄・開花すればその動物は幸福を感じることができる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物は苦痛を感じてしまうために、その可能力が繁栄・開花することは善である」という風に定義すれば、選好や幸福とは関係のない性質や能力までをも可能力だとみなして「繁栄・開花」せよと主張する必要は無くなるし、異なる可能力が衝突した際にも選択を行うための基準として幸福や選好を参照することができる。しかし、こうなると可能力アプローチは功利主義の一種に過ぎなくなるだろう。…結局のところ、ヌスバウム功利主義を否定しつつ「可能力アプローチ」を主張したいのなら、ある「可能力」が「繁栄・開花」することは重要で善であり他の「可能力」が「繁栄・開花」することは重要ではなく善ではないということは "なぜ"であるかということを示すための基準を明示しなければならないのである。

 

 …その他、ヌスバウム功利主義に対して「効用の比較不可能性」「洗脳・適応的選好形成を排除できない」「非道徳的な結論を導き出す可能性を排除できない」「人間の個別性を考慮しない」といったお馴染みの批判を行っている。これらに対しては上記の記事でもシンガーが反論を行っているし、他の様々な論者が書いた著作でも、功利主義の立場からの反論を参照することができる(なので、ここでは取り上げない)。

 

 …読み返していて思ったが、『人と動物の政治共同体』に比べると遥かにマシであるとはいえ、『正義のフロンティア』もかなり場当たり的で曖昧な理論を用いた議論を行っており、動物をめぐる問題において生じることが明確であるはずのトレードオフやその他の困難について、耳触りの良い綺麗事を並び立てることで目を逸らしている節がある。おそらく倫理学に比べて政治哲学は扱う問題が複雑で具体的になり過ぎるし、配慮しなければならない事柄が多すぎるために、功利主義のように一貫した理論を主張するよりも曖昧で総花的な議論を行わざるをえない傾向があるのかもしれない。でもやっぱり読んでいてイライラするので、政治哲学よりは倫理学の本を読んでいる方が楽しい。

 

 

 

 

 

*1:『人と動物の政治共同体』では、動物たちの行動や能力の一部を恣意的かつ大袈裟に取り上げたり「規範」や「主体」といった言葉の意味をかなり拡大解釈することで、動物たちにも「規範に従う能力」とか「利害を表明する能力」とか「主体」とか「主権」とかが存在するのでありそのために動物は政治的な配慮の対象となったりするし動物たち自身も政治的主体であるのだ、という議論が行われていた。以前の記事でも書いたが、これはかなり無理があり説得力に乏しい議論であるように思われる。社会契約に動物を参加させるのは難しい、ということを早々に認めるヌスバウムの議論の方が妥当であり潔いように思われる

*2:ヌスバウムの議論において、動物たちが「善」を持っていることと、私たちが動物たちの「繁栄・開花」に驚嘆することと、どちらがどれくらい重要であるか、ということはややこしくて、理解しづらい。私が「正義」という(倫理学的というよりも政治哲学的な)概念をよく理解していないということも悪いのだが、ヌスバウムの議論を読んでいても、私たちが動物の繁栄・開花した生活に驚嘆を覚えるということがなぜ動物が正義の対象になることにつながるのか、という理屈がちょっとよくわからない。たとえば、人間の進化の歴史が現在存在するものとはちょっとだけ違っていたために他の動物の繁栄・開花の仕方について感嘆する能力を人間が備えていなかったとすれば、動物は正義の対象とならないということになりそうだ。あるいは、極端に金銭主義的な物質主義的であるために自然や美しい物事に対して感嘆するということを忘れてしまった人々ばかりが暮らす国では、動物に対して人々が感嘆することもないので動物は正義の対象とならない、ということになるかもしれない。だが、人間が感嘆するかどうかということがそこまで重要で本質的なことであるようにはとても思えない

*3:功利主義は、計算の結果、食肉産業や奴隷制などの非道徳的な制度を認めてしまうかもしれない」という危険性はよく指摘されることだが、食肉産業が動物に与える苦痛や奴隷制が奴隷に与える苦痛の重大さとそれらの制度によって得られる利益の相対的な軽小さについて真剣に計算してみれば、功利主義がそれらの非道徳的な制度を認めてしまうことはありえないし、そのような危険性は杞憂である、というのが功利主義の側の言い分だ

*4:私も動物への不妊手術は認められて人間への(強制的な)不妊手術が認められないことには同意するが、それは、セックスを奪われることは動物にとって大した危害ではなく、そして個体数の過剰増加を防ぐことは大きな利益になる、と考えているからだ。人間の場合には「自分のセックスや妊娠の機会は無理矢理奪われてしまった」と意識することができてしまうし、動物とは違ってセックスができなかったり子供が作れなくてもセックスをすることや子供がいる生活について想像をして自分の現状と比較することが人間にはできてしまうことなどのために、人間に対する強制的な不妊手術は動物の場合とは異なって様々な苦痛を引き起こすだろう。…しかし、動物がセックスできなかったり妊娠できなかったりすることがその動物のその種らしい「繁栄・開花」を損なわない、という理屈にはとても納得できない。セックスや妊娠がその種らしい「繁栄・開花」でないとすれば、他のほとんどの行為も「繁栄・開花」ではなくなるだろう。この点に関しては、ヌスバウムは自分の理論の問題点から目をそらすために無茶苦茶な主張を行っているように思える

野生動物と境界動物:『人と動物の政治共同体』(3)

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 今回の記事では、『人と動物の政治共同体』の第6章と第7章をざっと紹介しよう。第8章の「結論」は改めて紹介する必要もないと思うので、『人と動物の政治共同体』の紹介記事は今回で終わり。

 

 第6章「野生動物の主権」では、章の題名通り、野生動物の問題が扱われている。著者らは、既存の動物倫理学は野生動物に対して「危害を与えてはならない」という消極的義務は主張してきたが野生動物に対して介入して何かをしてやるという積極的義務は主張してこなかったのであり、要するに野生動物の問題に関しては「放っておけ」ということ以上の議論ができてこなかった、という点を批判する*1。例えば倫理学的な動物の権利論では道徳的行為を行える道徳的主体とそうでない存在ははっきり分かれているのであり、道徳的主体である私たちは野生動物を傷付けなかったり有害な人間の活動(狩猟や自然破壊など)から野生動物を守る義務があるし、私たちが野生動物を傷付けるとすればそれは道徳的に間違った行為である。だが、野生動物たちは道徳的主体ではなく、例えばオオカミがウサギを傷付けて捕食したとしてもオオカミは道徳的主体ではないのでオオカミの行為も道徳的に間違った行為とならない。要するに野生動物同士の関係は道徳的に正しくも間違っていないニュートラルなものなので、それに介入する道徳的義務も存在しないとされる。場合によっては傷付いていたり苦境に陥っている野生動物を助ける「援助の義務」というものが存在するとされるかもしれないが、それは野生動物を傷付けないという消極的義務に比べるとかなり例外的で弱いものとされるし、私たちの身近な存在(身近にいる人や家畜動物)に対する「援助の義務」と比べて私たちから離れたところに存在する野生動物に対する「援助の義務」はずっと弱いものとされる。

 動物倫理学において野生動物に対する積極的介入が忌避されてきたのには、もちろん理由がある。例えば、私たちは野生動物に対して消極的義務のみならず積極的義務があるということをひとたび認めたとすれば、ウサギが傷付くことを防ぐためにオオカミがウサギを捕食する行為も防がなければいけなくなるのか、そもそもどうやってオオカミの捕食行為を防ぐのか、その場合は餌を得られないオオカミはどうなるのか、食物連鎖とか生態系とかが崩れて予期せぬ被害が出ないか…という風に、現実的に解決不可能な問題が際限なく登場することになる。功利主義者の場合でも、権利論者のように「道徳的主体/そうでない存在」という区分に固執することはないとはいえ、「自然や生態系に関して人間は完全な知識を持っていない以上、野生に対する人間の介入が最終的にどのような結果をもたらすかは予測不可能であるし、多くの場合には安易な介入は動物たちが受ける苦痛を増やす結果になる」という理由に基づいて多くの場合には野生に対する介入に反対するだろう*2。また、野生動物に対する介入は野生動物の自然な存在の仕方を傷つける、といった議論もある。

 既存の動物倫理学に不満を抱いており、場合によって野生動物に対する積極的介入も行われるべきだと考えている著者らは「主権」という概念を導入することで独自の理論を打ち立てようとする。「野生動物のコミュニティには"主権"があるのであり、私たちは野生動物たちの主権を尊重して多くの場合には野生動物の独立を尊重し介入を行うべきでないが、人間の主権国家に対しても場合によって積極的援助をする道徳的義務があるのと同様に、場合によっては野生動物の主権コミュニティに対しても積極的援助をする道徳的義務がある」という感じの主張を行っている。

「野生動物たちは自己統治ができないから主権を持つ存在であると見なすことはできない」といった反論に対しては、主権を持つために必要とされる条件が人間に都合よく恣意的に設定されている、見方によっては野生動物たちも自己統治を行っているということはできる、という再反論を行っている。積極的援助をいつ行うべきかということについては、人間の主権国家に対する積極的援助について色々と論点があるように難しいのだが、大災害のように野生動物のコミュニティそのものの崩壊の危険がある時などには行うべきだとされている。また、知識のある科学者や自然保護活動家による自然保全のプロジェクトを行うことはOKとされているし、専門知識はない個人であっても野生動物に長らく関わっており自分の行為が間接的な悪影響を生み出さないことが確信できる場合には野生動物を餌付けしたり治療したりすることもOKとされている。…紹介の仕方がかなり雑になっているが、これは、著者らの他の議論と同じくこの議論もかなり場当たり的で説得力に乏しいものであるように私には思えるために、解説する気が失せているからである。

 他にも、(人間の主権国家に対して別の主権国家が不正義や非道を行った場合には保障や謝罪が必要とされることと同じように)過去に人間が野生動物に行ってきた不正義とか非道とかを反省して未来志向の正義を目指す義務があるとか、野生動物と接触するコミュニティでは現在のように野生動物に対してのみ一方的にリスクを押し付ける(野生動物が交通事故で死ぬことに対して対策を取らなかったり、クマなどの"危険"な動物が人間のコミュニティに現れた場合にはすぐに殺害してしまったり、など)ことは間違っているのであり、環境を整備することで野生動物との不幸な遭遇が起こらないようにしたり、人間側も野生動物に害を与えられることについてのリスクを甘受する必要がある、といったことが論じられている。「主権」があると言っても当然野生動物は政治や国際会議などには参加できないわけだが、野生動物の利害を代表する役割の人間が代わりに意思決定に参加することで補おう、といったことも論じられている。

 

 第7章の「デニズンとしての境界動物」では、ハトや野良猫やネズミなど、人間の生活圏に存在していて人間の行動に依存した生活を送っているが家畜として飼われている訳ではなく自立して生きている動物たちである「境界動物」について論じられている。著者らは「境界動物」には家畜動物に保証されているような「シティズンシップ」を与えることはできないが、それに準ずる「デニズンシップ」を与えるべきだと論じている。境界動物は野生動物に比べて人間との関わりが強く、人間が境界動物たちに対して負っている義務も野生動物に対して負っているそれに比べて強いので、野生動物たちに対してよりもさらに積極的な介入を行ってやる必要がある。しかし、シティズンシップを持つ家畜動物に対してほどの義務はデニズンである境界動物たちに対しては負っていない。じゃあその義務の具体的な中身はなんであるかというと各種の境界動物の性質やその動物と人間との関係性によって色々だが、餌場や居住地を保障してやることとか境界動物に対して人間が生じさせる可能性のある諸々のリスクを排除することや、境界動物と人間社会が有効的な関係を築くためには境界動物に関わる人たちも境界動物が人間に迷惑をかけて嫌われることがないように配慮しなければならないとか、そんな感じである。

 

*1:「クレア・パーマーが「レッセ・フェール的直感」として、動物の権利論の深層にある問題だと指摘している事柄である

*2:ただし、自然への介入が動物の苦痛を減少させることが一定以上の精度で予測される場合には、功利主義は自然への介入を行うことを支持することになる。以下のゲイリー・ヴァーナーの議論を参照。

davitrice.hatenadiary.jp

また、著者らはジェフ・マクマーン(Jeff McMahan)がニューヨークタイムス誌に発表した記事「肉食者たち(The Meat Eaters)」も取り上げている。この記事の主張は、捕食によって自然界に生じている苦痛を考慮すれば、すべての肉食動物たちを段階的に絶滅させたり遺伝子介入によって草食動物に変化させたりすることで、肉食動物をこの世からなくして草食動物のみを存在させることによって自然界から捕食行為を無くしてしまうことを行うべき道徳的理由は存在する、というものだ。もちろん、現時点では科学技術能力や遺伝知識の限界などのために不可能であるとはいえ、科学が発達してその行為(を予防するつもりの苦痛よりも多くの苦痛を生じさせてしまう結果を生み出すこともなく行うこと)が可能になった時点で、人間は肉食動物を草食動物に置き換えるべきであるのだ。記事内では、遺伝子介入一般に対する忌避感に基づいた反論や「生物種には特別な価値があるから、絶滅を起こすことは道徳的に問題だ」という反論もあらかじめ想定された上で再反論されている。現実性はともかく、なかなか興味深くて鋭い議論であるように思える。

https://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/09/19/the-meat-eaters/

『歴史の終わり』はトランプの出現を予期していた?

 

 

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

 

 

 

 1992年に出版されたフランシス・フクヤマの著書『歴史の終わりと最後の人間(The End of History and the Last Man)』は、現在となっては本国のアメリカでも日本でも否定的に受け止められることが多いようだ*1。『歴史の終わり』で行なわれている主張でも特に代表的なのが、共産主義やその他の権威主義・非民主・抑圧的な政治体制は矛盾が含まれており持続性のない失敗した政治体制であることがいまや明らかになったのであり、西側資本主義の西洋社会に代表されるような経済的・政治的自由主義を伴う民主主義体制こそが人類が辿り着いた最良の政治体制である、民主主義を超える政治体制が生み出されることはこの先もないだろう、といった主張だ。だが、『歴史の終わり』の出版後、イラクにおけるアメリカ主導の民主化が失敗したりその後も中東で民主化運動が失敗したりいくつかの国家が民主主義から権威主義へと逆流していったりしたことなどのために、この主張は説得力がないものと見なされるようになってしまった。

 

aeon.co

 Paul Sagarという人が書いた上述の記事でも、フクヤマは極端な自由資本主義イデオロギーを唱えてジョージ・W・ブッシュネオコン政権にお墨付きを与えてしまった思想家として、主に左派の人々から(時には右派からも)激しい批判を受け続けており、イラク戦争以後に世界に起こった事象を見れば『歴史の終わり』の議論は的外れで馬鹿馬鹿しいものだったと嘲笑もされている、ということが指摘されている。

 だが、フクヤマに対するこのような批判の大半は『歴史の終わり』を誤読しているものだ、とSagarは論じている。そもそもフクヤマが主張している「歴史の終わり」論はヘーゲル弁証法の議論に基づいた観念的・哲学的レベルな議論であり、「大文字の歴史」( big-H history )と称される近代化のプロセスといった抽象的な事柄について書かれたものなのだ。弁証法の結果として自由民主主義が最良の政治体制あることが明らかになり「大文字の歴史」は終わったとしても、もちろん現実の「小文字の歴史(history)」は依然として続くのであり、そして「大文字の歴史」が弁証法を通じて一定の方向に進歩し続けるのと違い「小文字の歴史」では様々な偶発的な出来事が起こり続けるのであって、現実のレベルで民主主義を否定したり民主主義がうまく機能しない国家があらわれることを『歴史の終わり』は特に否定していないのである。要するに、「最良の政治体制は何であるか」ということについてのイデオロギー論争や社会科学的な論争に(ソビエトの崩壊を機として)決着がついたことを「歴史の終わり」と称しているのであって、世界中の国家が民主主義を受け入れるだろうとか民主主義を否定する国家は今後現れないだろうとかそういう主張をしている訳ではないのである。

 

 そして、「大文字の歴史」に関するフクヤマヘーゲル主義的な主張が妥当であるかどうかはさておいて、『歴史の終わり』ではまた別の注目すべき議論がされていたことをSagarは指摘している。『歴史の終わり』は、政治体制に関する議論のみならず、「優越願望(プライド、気概)」と「対等願望」という人間の心理についての議論も行っている本であった。自分は他人よりも優れているということを証明して他人よりも良い待遇や尊敬を持って扱われたいという「優越願望」と、人は皆が差別なく平等に扱われるべきであり特定の立場にいる人が他の人よりも良い扱いを受けることは許せず、また自分も他人と同じくらいの待遇を受けて人として承認をされたいという「対等願望」という二つの心理は人間に普遍的に備わっているのであり、この二つの心理は歴史を通じて様々な社会においてイデオロギーや政治体制として表れてきたのであって、「優越願望」と「対等願望」はこれまでも抗争を続けており前者が優勢であったのだが最終的には「対等願望」を反映する自由民主主義が勝利することになった、というのがフクヤマの議論である。

 だが、人間の普遍的な心理である「優越願望」は自由民主義体制においても結局は消えることはないのであり、スポーツや芸術などの形によって発散することはできるがそれにも限度はある。民主主義社会の内側で溜まった「優越願望」のエネルギーが、誰もが対等に扱われる民主主義を退屈で間違ったものであるとして自己否定を行うことで、せっかく辿り着いた「大文字の歴史」の流れは逆流する危険性がある、とフクヤマは指摘していたのだ。特に厄介なのは、それまでは他の人々よりも良い待遇を受けていたのが平等主義が広まることによって相対的に地位が転落していた人々であり、そのような人々は自分が当然のものとして見なしていた承認も奪われて騙されしまったように感じて、民主主義の否定に走るだろう。平和と繁栄を特徴とする自由民主主義社会に生きる人々が、まさにその平和と繁栄を否定し始めるのである。ソビエトが崩壊した以上はもはや共産主義の説得力は失われているので、民主主義を否定する人々はファシスト的な右翼を支持せざるをえない。…そして、先の大統領選でドナルド・トランプに投票したアメリカの白人たちの行動原理はまさにコレなのである、トランプ当選に代表されるようなポピュリズムファシズムがやがてアメリカに登場することをフクヤマは25年前の時点で予見していたのだ、というのがSagarの主張だ*2

 

 …とはいえ、最近のフクヤマ本人がトランプの当選やアメリカ政治について発言している内容は、Sagarが論じている内容とはまた異なっている。フクヤマが最近著した連作『政治の起源(The Origins of Political Order)』と『政治の秩序と政治の衰退(Political Order and Political Decay)』は、世界各国の政治経済体制の歴史を追った比較政治史的な著作であり、『歴史の終わり』で行われていたような哲学的な議論はほとんどされていない*3ヘーゲルマルクスやコジェーブの哲学を参考にした「大きな歴史」論にせよ、ニーチェの哲学を参考にした「優越願望/対等願望」論にせよ、『歴史の終わり』で行なわれている議論は哲学的なお話としては面白くて興味深いかもしれないが、記述的主張としての正確さとか学問的議論としての厳密さにはやっぱり問題があるだろう。他方で、『政治の起源』や『政治の秩序と政治の衰退』で行なわれている議論は政治学や経済学やその他の社会科学を参考にしたものであり、『歴史の終わり』に比べても学術性が高くて信頼できるものであるように思われる*4

 

 

www.foreignaffairs.com

www.politico.com

 

 上記の二つの記事は、どちらもトランプ当選後にフクヤマ本人によって書かれた記事である。フクヤマが指摘しているのは、アメリカの政治システムは利益誘導型のロビイスト政治が行き過ぎていることと民主主義的なアカウンタビリティを保証するためのチェック&バランスの機能があまりに強くなり過ぎたために機能不全を起こしており、様々な社会問題を有効に解決するための政治的決定を行うことが実質的にほぼ不可能になっている、ということだ。トランプのようなポピュリストが当選したのも、機能不全した政治システムに業を煮やした有権者たちの反動であるのだ(しかし、民主主義の機能不全に対してポピュリズムも有効な解決策であるとは言えない、とフクヤマは論じている)。…『歴史の終わり』で「自由民主主義は最良の政治体制である」と主張していたフクヤマは、『政治の起源』以後でも民主主義の利点を認めているが、少なくとも現在のアメリカの民主主義が最良のものであるとはとても言えないということを『政治の秩序と政治の衰退』で論じている。民主主義が有効に機能するのはどのような場合であるか、また民主主義が失敗したり他の政治体制の方が優れていたりするのはどのような場合であるかということについて、抽象的な哲学ではなく具体的な社会科学に基づいて論じる議論を、近年のフクヤマは行っているのである。

 

 

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davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 

*1:私も最近『歴史の終わり』を読んだばかりなのだが、日本語版のWikipedia記事は(独自研究という指摘がされているとはいえ)フクヤマの議論を熱心に解説しており、なかなか参考になる

*2:ちなみに、偶然かもしれないが『歴史の終わり』には「優越願望」に突き動かされる人間の代表として(実業家時代の)ドナルド・トランプの名前がすでに登場している、ということもSagarは指摘している

*3:『政治の起源』の内容を紹介する記事はこちら、『政治の秩序と政治の衰退』を読んでいた当時の私のメモがこちら

*4:『政治の起源』では進化心理学についても紙面が割かれている