道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「一部に過激な奴がいるからお前らの主張は全て否定する」的な主張について

 

togetter.com

 上記のTogetter記事などを見ての、諸々の反応に対する雑感。

 

 ひとくちに「社会運動」と言ってもその定義の仕方は色々とあるだろう。とはいえ、ひとまず、社会運動とは「ある社会問題への対策を政治的・制度的に実現させるために、その社会問題について市井の人々を注目させて、市井の人々の考え方や価値観を変化させることを目指す政治手段」である、と定義しておこう。

 

 社会運動が政治手段であるとすれば、アニマルライツ運動に限らず、どんな社会運動においても「メッセージの発信の仕方」や「主張を効果的に広めるための戦略」というものが重要になることは確かだ。ただし、「効果的な戦略」を知識としては理解していたとしても、運動を行う人々のアイデンティティや優先順位などの問題のために、「効果的な戦略」を素直に行うことは難しいものである。…この問題については、以前の記事で『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること』という洋書を紹介しながら述べたことがある。↓

 

davitrice.hatenadiary.jp 

 

 他方で、民主主義の社会に生きる市民としては、社会運動を行っている人々に対して「我々が聞いてあげたくなるような方法でメッセージを発信しろ」「我々がその社会問題に関心を持ってもいいと思いたくなるような、効果的な運動方法を採用しろ」と要求するべきではない。

 民主主義社会に生きている以上、大半の社会問題について我々は多かれ少なかれ何らかの責任を負っているはずである。社会運動を行なっている人々に対して「私たちの気分を害しない方法で主張を行うなら耳を傾けてやってもいいが、すこしでも私たちの気分を害するのならその社会問題について注目したり問題の改善について協力するつもりはない」と言い立てるばかりな、物事を知ろうとしたり判断しようとしたりする主体性も放棄した「お客さま」みたいな態度は、少なくとも民主主義社会の一員としてはあまりに無責任であり道義的にも認められない…という風なことも、別の記事で書いたことがある。↓

 

davitrice.hatenadiary.jp

 要するに、「運動を行う側」の人々にはプラグマティックな理由から「効果的な戦略」を追求することが求められる一方で、「運動を行われる側」の人々には社会問題について知ろうとしたり判断しようとすることが道義的に求められる、ということだ。

 しかし、少なくとも日本のインターネットを見ていると、「自分たちの気分を害する主張について理解したり賛同したりするつもりはない」「少しでも自分たちの気持ちを害する主張であれば、その主張の理論の妥当性や正当性の有無などに関わらず、その主張を否定する」というような態度の人々は相変わらず数多くいる。

「海外に比べて日本でリベラルが支持されないのは、日本のリベラルの運動戦略が下手クソだからだ」というような主張は毎日のように見かける。しかし、正直にいって、日本で政治問題や社会問題についての進歩が見られない原因の大半は「意見を発信する側」の発信の仕方ではなく「意見を受信する側」の態度にあるように思える。

 

「ある社会運動が発信している主張は正しかったり、何らかの正当性があるかもしれない。だが、その社会運動を行なっている中の一部の人や一部の団体は過激で不当な方法で主張を行なっているから、その主張を認めることはできない」という主張、より簡潔に言えば「一部に過激な奴がいるから、お前らの主張は全て否定する」という主張も、少なくとも日本のインターネットではあちこちで見かけられる。動物愛護に限らず、フェミニズムレイシズム・地域差別の問題に関しても見飽きた反応であると言えるだろう。

 このタイプの主張を相手にする価値は全くない、と私は思っている。その理由は以下の2つだ。

 

1:「過激な奴」は見つけようと思えば無限に見つけられる

 

 現在のように数多くの人が意見を発信している時代では、どんなタイプの主張に関しても、過激であったり不当な方法や表現で発信する人は存在すると言える。特にTwitterはどんな人でも容易に意見を発信できるうえ、キーワードやハッシュタグなどで検索すれば自分が調べたいと思っている意見もすぐに見つかるから、見つけようと思えば「過激な奴」は無限に見つけられる。

 ある主張が自分にとって不愉快であったり、自分の趣味や習慣を批判されたり否定されることにつながるものであったとしよう。そして、その主張の理屈や理論には正当性があり、どうにも反論できないものであるとしよう。通常であれば、不愉快であってもその主張を受け入れたり、自分の趣味や習慣について考え直すきっかけになるかもしれない。しかし、「一部に過激な奴がいるからお前らの主張は全て否定する」という主張を行うことを自分に認めてしまうと、どんな主張をされた時でもTwitterで検索して「過激な奴」を見つければその主張を否定できてしまうことになる。最悪の場合には、自分でアカウントを偽造して気に入らない陣営の「過激な奴」を捏造することも可能である。

「自分たちで自浄作用を働かして、自陣営の過激な奴を批判したり排除したりするべきである」という批判も、一見するともっともらしいが、無茶な批判である。大半の団体には、所属している構成員のSNSなどでの発言をコントロールする強制力は持っていない。さらに、団体に所属せずに個人で社会運動を行なっている人も多く、そういう人を何かから「排除」することは物理的に不可能である。相互批判を行なったとして「過激」な人の過激さがなくなるという保証もない。

 

2:「過激」の定義は人それぞれであり、無限に拡大することができる

 

 例えばアニマルライツ運動の場合、「肉屋を襲撃する」や「農場に忍び込んで家畜を助け出す」などの実力行使に及ぶことはまあ過激だなと思う。「肉フェスの最中に会場の真ん中で屠殺や工場畜産の画像を提示する」こともやや実力行使の感があって過激だと思うが、「肉フェス会場の外側で屠殺や工場畜産の画像を提示する」ことはさほど過激であるとは思わない。事前に許可を取ったデモで屠殺や工場畜産の画像を提示する」ことは全く過激ではないと思う。

 だが、上記はいずれも私の感性に基づいた判断である。大学生の頃に当時の同級生に質問してみたら、「デモを行うこと」自体が過激である、と判断する人が多かった(アニマルライツに限らず、フェミニズムや反レイシズムの主張であってもデモを行なっている時点で過激、ということだ)。また、事前にシラバスなどにも記載したうえで、環境倫理の授業でアニマルライツを取り上げることや政治学の授業で自公政権の長期化などの問題を取り上げることすら、「教員が授業で政治的主張を行うことなんて過激だ」と感じる同級生もちらほらいた。日本人が政治問題や社会問題についてナイーブであることはよく指摘されるが、「過激に感じる人がいるかもしれない主張は行わない」という戦略を採用してしまうと、おそらくどんな方法でも何かを主張することは全くできなくなってしまうだろう。

 ついでに言うと、「意見を主張するのはいいが、その意見を押し付けることは認められない」という主張も似たようなものだ。「押し付け」の定義は人それぞれであり、公道のデモで主張することが「押し付け」であると感じる人もいれば、掲示板に意見を書き込むことすら「押し付け」であると感じる人もいたりするからだ。

 

 

 …繰り返しになるが、ある主張が不愉快であったり不当に思えたのなら、まずはその主張の論理や論拠を確かめて、主張の正当性を吟味するべきだ。そして、反論できるならすればいいし、反論できないのであれば大人しく「相手の主張が正しい」ことを認めればいい。相手の主張の中身ではなく主張の方法をあげつらうことで相手の主張を否定しようとすることは、やはり不誠実で無責任なことであるだろう。

 

 

動物の権利運動は部落差別?

 

otapol.com

 

 上記の記事とか、それ以前からよく言われている「動物の権利運動は部落差別だ」的な主張に対する一般論的な反論。

 

 多くの社会運動では、現行の社会で認められている社会制度を不当だとして、その制度に規制をかけたり撤廃したりすることが目標とされる。そして、運動がある程度以上の成功を収めた場合、運動の標的となる制度に関わる職業にも影響が出てくる。奴隷制反対運動の場合は奴隷農園の主は奴隷を使用することができなくなり、農園の運営が難しくなったり閉鎖せざるを得なくなったことも多々あっただろう。死刑執行人を生業としている人がいる国で死刑廃止運動が成功すれば、死刑執行人は失職する。農園を閉鎖した農場主にせよ失職した死刑執行人にせよ、本人や関係者たちからすれば「社会運動のせいで自分が不利益を被った」ということになり、苦々しい思いを抱くかもしれない。

 しかし、「ある制度は不正であるから、制限・廃止すべきである」という主張に対して「その制度に関連する仕事に従事している人がいるのだから、その制度は廃止するべきではない」と主張しても、それは反論になっていない。「関連する仕事に従事している人」の存在を理由として制度を存続させることが認められるとすれば、どれだけ不正な制度であっても撤廃することができなくなってしまうからだ。

 歴史上の過去の社会には身分差別的・人種差別的・性差別的...などの様々な差別的な制度が存在してきた。それらの制度が廃止されるたびにその制度に関連する仕事に従事している人の職業は失われてきただろうが、振り返ってみて「誰かの仕事を奪うことになったのだから、身分差別的・人種差別的・性差別的な制度は廃止されるべきでなかった」と言う人はそうそういないだろう。

 

 動物の権利を主張するアニマルライツ運動や動物の福祉の拡大を目標とするアニマルウェルフェア運動では、畜産業・皮革製品業・動物実験制度・ ペット流通・動物園・動物を利用する一部の宗教的行事...などなどの動物を利用する様々な制度・産業・慣習が不正であるとして批判され、それらに規制をかけたり撤廃したりすることが目指される。

 現状を見ると、畜産業や動物実験などの完全な撤廃はまだまだ実現性が薄く、仮に将来的には撤廃されるとしてもかなり未来のことになるだろう。しかし、動物の福祉に配慮するために各種の制度にかけられる規制は、現在進行形で拡大していると言える。アニマルウェルフェアに対する意識が特に高いヨーロッパ諸国では、畜産動物が飼育される環境についても屠殺方法についても様々な規制がかかっている。日本においては畜産や屠殺の場におけるアニマルウェルフェアの実現はまだまだ発展途上であるようだが、悪質ブリーダーが問題視されるなどペット業界に対する世間の目は厳しくなっており法規制の動きも見受けられる。皮革製品や動物実験や動物園や動物を利用する宗教的行事などについても、それらに関連する製品やイベントをボイコットしたりそれらに対して抗議したりする運動は広がり続けているし、それらの制度への規制が過去よりも厳しくなる傾向にあることは日本でも外国でも確かだろう。

 ある制度や産業が撤廃されずとも、それらに規制がかかるだけでも、その制度や産業の規模が小さくなったり今までのような利益をあげることができなくなったりしてその制度や産業に関連する雇用の数が減ってしまい、結果としてその制度に関連する仕事に就いていた人が失職することもあるかもしれない。とはいえ、奴隷制度や死刑制度についての場合と同じく、「畜産や屠殺などの制度に関連する仕事に従事している人がいるのだから、畜産や屠殺などに関する制度は規制されたり廃止されたりするべきではない」という理屈は通じない。

 

 要するに、「ある制度は不正だから撤廃/規制されるべきだ」という主張に反論したいのなら「この制度は正当であるので撤廃/規制されるべきでない」と論じて主張するべきなのであり、制度の不当さ/正当さの問題を棚上げして「この制度を撤廃/規制すると関連する人の仕事が奪われるから撤廃/規制されるべきでない」と主張するのは筋が悪い、ということだ。

 

 さて、畜産制度に対するアニマルライツやアニマルウェルフェアを推進する立場からの主張とは、基本的には「畜産製品を生産するために家畜を飼育すること」及び「家畜を屠殺すること」を撤廃/規制することに分けられる。

 このうち、「家畜を屠殺すること」の撤廃を求める主張に対しては、日本においては「部落差別である」と批判されることが多い。

 しかし、「部落差別である」という批判が通じるのは、アニマルライツ運動の側が屠畜"制度"ではなく個人としての屠畜業者を非難した場合や、運動の場において部落差別的な言葉を使った場合などに過ぎない。

「畜産制度は動物の権利を侵害して動物を搾取する不正な制度だから、撤廃されるべきである」という主張に対して、「日本において部落差別が存在してきた/いまなお存在すること」や「屠畜業は被差別部落と密接な関わりがあること」などを持ち出しても、本質的には何ら反論にならない。そのような反論は、突き詰めてみれば“「部落差別」という不正をさらに増すことを防ぐために、「動物の搾取」という別の不正を看過せよ”と主張しているに過ぎないからだ。そのような主張に対しては「どちらの不正も看過せず、解決するべきである」としか答えようがない。

 

「動物はおかずだ」デモに関して(2)

 

buzz-plus.com

 出勤前に取り急ぎ、昨日の記事の続き。

 

「動物はおかずだデモ」はデモの名前からして「動物はごはんじゃないデモ」のカウンターである。また、単なるカウンターではなく、「動物はごはんじゃない」デモに対するパロディや皮肉を意識しているようだ。それは、以下のようにふざけたトーンやダジャレなどが声明文に混ざっていることから判断できる。

 

「あい肉、そうは肉問屋がおろさない。 」

 「罪を肉んで人を肉まず! けなしてはならない。中指を立ててはならない。けなす口があるなら、肉を頬張れ! 中指ではなくフランクフルトを立てよ! 右の肉を叩かれたら左の肉を出せ! 肉に勝利を!我々は心から、肉を焼く熱と光を願求禮讃するものである」

 

「動物はおかずだ」デモに関しては元の記事に対するTwitterはてなブックマークのコメントを見ると賛否両論のようであり、苦言を呈している人も多くいる一方で、評価している人も多数いる。表会見を見てみると、やはり、「動物はおかずだ」デモのジョークやパロディの側面を評価しているようだ。

 

 特にインターネットいう場所では真面目な道徳的・政治的主張や問題提起は左右問わず敬遠されたり批判されたりしやすい一方で、ジョークやパロディの形でされる主張は肯定的な評価を受けやすい。ジョークやパロディは物事を相対化していて一歩引いたメタ的な立場から見ているように受け取られて、知的でスマートなように思われる。

 しかし、少数派が行う権利運動や社会運動に対して多数派がパロディやジョークを作成してその運動の問題提起を無効化しようとする、という反応は歴史を通じて見られてきたことだ。例えば、19世紀の欧米で行われてきた奴隷制廃止運動に対しても風刺画が作成されてきた。

 

www.pinterest.com

 上記のリンクに掲載されている風刺画も、19世紀当時の人々からすればパロディやジョークであり、奴隷制廃止運動を相対化したスマートで知的な答えとしてもてはやされていたかもしれない。だが、現代の社会に生きる我々からすれば、上記のような風刺はスマートでも相対化でもなんでもなく、既得権を脅かされていたマジョリティの醜悪な自己防衛反応に過ぎないことが理解できる。

 動物の権利運動にするパロディやジョーク、それに対する肯定的反応も、将来的には上記の風刺画と同じようなものと見なされるかもしれない。

「動物はおかずだ」デモに関して(1)

 

 

(仕事の休憩時間に取り急ぎ書いた)

 

上記の記事に関して、まず気になったのは以下の箇所。

 「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」

「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」

 

 一般的に言って、ある社会で行われる権利運動とは「その社会で認められていない、ある属性のある種の権利を、認めさせるように要求する運動」と言えるだろう。

 過去のアメリカで行われた奴隷制廃止運動であれば、奴隷とされている人々(黒人)が自由に生きる権利や財産を持つ権利などを要求させる運動であった。サフラジェット運動は女性の参政権を要求する運動であったし、「子どもが親から虐待されない権利」や「子どもの自己決定権」なども子どもの権利運動の結果として認められていったものだ。   

 そして、「現状の社会で認められていない権利」を要求する運動の大半は、「現状の社会で認められている権利」の一部を、直接的・間接的に否定する運動でもある。奴隷制廃止運動の場合は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする権利」を否定することになった。女性の参政権を認めると「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」や「女性の政治的意見が反映されていない社会に暮らす権利」は失われることになる。子どもの権利を要求するということは、親や大人たちが子どもを虐待したり子供をコントロールするという権利を否定するということだ。  

 もちろん、現代の社会に暮らす我々からすれば「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「子どもを虐待する権利」は不当な権利であり到底認められないものだと判断できる。女性の参政権がなかった社会でも「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う権利」が明文化されていたわけではないし、子どもの権利運動に反対していた人も「自分には子どもを虐待する権利があるのだ」と堂々と主張していたわけではなかっただろう。

 だが、明文化されていなかったり当人たちの自覚がないほど当たり前のものとしてその社会に存在する制度や慣習も、カウンターとしての権利運動が起こることによって「不当に認められている権利」として明るみに出る。要するに、権利運動とは「正当な権利」を認めさせるために、現行の社会で認められている「不当な権利」を否定する運動といえるのだ。  

 

 アニマルライツ運動の場合は、主張される「正当な権利」は「動物が畜産場に閉じ込められて育てられない権利」や「動物が屠殺されない権利」などだ。そして、「人間が肉を食べる権利」はこれらの権利に対置する「不当な権利」となり、認められないものとなる。  

 そのため、アニマルライツ運動に対して「肉を食べる権利を否定するな」と反論することは、奴隷制廃止運動に対して「奴隷を持つ権利を否定するな」と反論するのと同程度に的外れなことだ。  

 現在の社会では、「人の食べるものにケチを付けることは許されない」「自分が好きなものを自由に食べることは当然の権利だ」といった価値観は当たり前のものとして自明視されている。だが、過去の社会では自明視されていた価値観であっても、時代の変化や社会運動などを経て人々の考えが変わり、もはや誰もその価値観を正しいとは思わなくなる、ということは歴史の常だ。「肉を食べる権利」や「好きなものを自由に食べる権利」だって、いつ自明なものでなくなるかわからない。

トロッコ問題批判批判

 

 先日に森村進の『幸福とは何か』 (ちくまプリマー新書、2018年)を読んでいたら、後半の方で以下のような記述があった*1

 

幸福とは何かを考えるにあたって、私は本書でさまざまの思考実験を利用してきましたが、その中には非現実的な例も少なくありませんでした。この方法は現代の哲学、特に分析哲学と呼ばれている著作の中ではごくありふれたものです。しかし世の中にはそれに反発する人も少なくありません。彼らは「そんな自体は実際には発生しない」とか「その例におていは<これこれしかじか>と前提されているが、<これこれしかじか>ということが当事者にどうして確信できるのか?」などと言って、思考実験に向かい合おうとしません。思考実験は地に足のついた思考の敵だ、と彼らは信じているのでしょう。 

 

『幸福とは何か』ではトロッコ問題はほとんど出てこなかったが、上記のような批判は、特にトロッコ問題に対して向けられがちだ。典型的なのは、以下のブログでも取り上げられている以下のようなツイートだ。

 

chieosanai.hatenablog.com

 

 私が上記のようなツイートを不愉快に感じる理由の一つが、まさに私自身が上記のような答え方をしていた時期がある、という点にある。大学院の少人数授業で先生がトロッコ問題を出してきた時に「1人か5人かを選ばなければならない、という状況を生み出したトロッコの設計者や、ひいては社会全体の責任に注目しなければならない」的なことを答えて悦に入っていた記憶があるのだ*2。…私や上記のツイート主に限らず、ある程度は知恵のまわる学生(特に左派的な傾向を持った学生)にとっては「問題ある状況を産み出した設計者や権力者、社会の責任を問え」式の答えはすぐに思いつくことのできる鉄板の答えと言えるだろう。しかし、このような答え方はメタ的な理屈をつけることで思考から逃げようとするための方便に過ぎない、と今の私は思っている。

 

 トロッコ問題のような思考実験の目的のひとつは、非日常的なまでに抽象化された極端で特殊な事例を想定することで、普段の状況では意識しづらい自分の価値観や判断の根拠をあぶり出す、ということにある。

 普段の生活で私たちが直面する現実の状況やニュースで見たりする実際の事例には、様々な要素が絡み合っているものだ。トレードオフの問題に話を絞っても、トロッコ問題のように目に見えるかたちで「少数の命か、多数の命か」を選択する状況はほとんど存在しないだろう。災害現場などにおいてはそのような特殊な状況が生じ得るとしても「防災工事にもっとそんな予算を割いてなければそのような事態は起きなかった」や「災害対応のガイドラインがもっとしっかりしていればもっと早く現場に到着できていて全員分の命が救えていた」など、現場における判断以前の大局的な要素の方が重要になってくる。「多数派の命か少数派の命か、という選択をする事態が生じないように対策をすべきだった」というのは誰にでも言える正論ではあるが、当たり障りのない正論を言う余地がある事例では、自分の価値観や判断について深く考える必要がなくなってしまう。…要するに、現実の事例はノイズや逃げ道が多過ぎるからこそ、思考実験が必要とされるのだ。

 余分な条件を捨象して、問題にしたい事柄を考えることに特化した状況を想定できることが、思考実験の利点だ。トロッコ問題の場合は、トレードオフや取捨選択の判断について考えたり、行為と結果のどちらを重視するかと言う判断について考えるのに最適化した題材だといえる。また、線路を切り替えるか歩道橋から人を突き落とすかなど、大まかな状況は一緒だが意図的に細部を変更した複数の事例について考えることで、自分の道徳判断の根拠の曖昧さや一貫性のなさが明らかになるかもしれないし、普段は意識していなかった問題点も明らかになるかもしれない。そして、場合によっては自分の判断に修正を加える必要を自覚するかもしれないし、「改めて考えてみると自分がこれまでに下していた判断の根拠は曖昧で不適切だった、より適切で一貫性のある判断ができるように倫理学理論を学んでみよう」という風に学習へと誘われるかもしれない。

 現実の世界では、よほど特殊な職業についていない限りは「少数の命か、多数の命か」といった選択に直面することはないだろう。しかし、たとえば医療資源の配分の問題のように、トレードオフが発生する状況は現実の世界でもたびたび起こる。普通の人はトレードオフについて直接的に判断を下すことはないとしても、政策を決定する議員を選挙で選出するなどの形で、間接的に判断に関与することになるかもしれない*3。となると、思考実験を通じて「トレードオフの発生する問題について自分はどう判断するか」ということを普段から考えておくことや、自分の判断の問題点や矛盾を明らかにすることには意義があるはずだ。…しかし、自分の判断の根拠を明らかにしたり場合によっては自分の判断の問題点を認めて判断を変えることは、知的に負荷がかかる作業であるし、感情的にも不愉快なものである。思考実験を提示されたときに問題の前提などを問い直すことで答えを回避する戦略も、見かけは知的かもしれないが、実際には批判的思考に伴う不愉快さから逃げているだけかもしれない。

 森村も以下のように書いている。

 思考実験をしない人は、自分の見解にとって都合が悪い判断と向き合おうとしないため思考が独善的になりがちです。

 

 また、学校の授業やゼミなどの教育の現場においてトロッコ問題などの思考実験が提示されることに対しては、「学生に対して教授が持っている権力性」などに注目した批判がされたり、不愉快さを伴う思考を学生がさせられること自体が問題である、といった批判もされがちだ。だが、この種類の批判は、大学での授業にトリガー警告を求める風潮と根を同じくしているもののように思える。トロッコ問題のバリエーションの歩道橋問題に対して「太った男を突き落とす、というのは体型差別で不謹慎だ」という批判がされることもあるが、これも思考実験に伴う不愉快さからなんとか逃れたいための理屈という感じがある。

 とはいえ、トロッコ問題に対する批判さがある程度の正当性を持っていることもあるだろう。しかし、トロッコ問題の設定や出題者の権力性などなどをいくら批判したところで、トロッコ問題が提示している問題が解決する訳ではない、ということも理解してほしいところだ。

 

 

 

*1:読了後に図書館に返却してしまっており、ページ数は失念

*2:具体的にどう答えていたかは忘れた

*3:トレードオフを選択させられること自体が不正な状況だ、パイを大きくしてトレードオフの状況を発生させなくすればいいのだ」的な回答もありがちだが、その種類の意見に対する私の感想はこちら

狩猟にまつわる倫理的問題

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑ 倫理学者のゲイリー・ヴァーナーの論文「環境倫理、狩猟、動物の位置付け(Environmental Ethics, Hunting, and the Place of Animals)」を要約した上記の記事など、このブログでは英語圏倫理学者が狩猟について書いた文章を要約したり翻訳したりした記事をこれまでにもいくつか公開してきた*1。今回の記事では、反・種差別的な動物倫理学の立場から狩猟について言えることを、ヴァーナーの記事などを参考にしながら簡単にまとめてみよう。

 

 ヴァーナーは狩猟という行為をその目的に応じて「セラピー的狩猟」「生存のための狩猟」「スポーツ・ハンティング」という三つのカテゴリに分けている*2。「セラピー的狩猟」は自然界の動物の個体数を調節して生態系や生物多様性などを守ることを目的とする狩猟であり、「生存のための狩猟」は食料確保など人間が生きるために必要とされる狩猟のことだ。「スポーツ・ハンティング」は自然保護を目的ともしなければ生きるために必要とされない狩猟のことであり、ヴァーナーの定義では宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟もこのカテゴリに含まれる。

 

 とりあえず「生存のための狩猟」は置いておいて、他の2つのカテゴリの狩猟について考えよう。一般的な人々が持つ常識や道徳観念、また種差別を批判しないタイプの倫理学などにおいては、「セラピー的狩猟」に対する批判はほとんどないように思える。いわゆる「スポーツ・ハンティング」には眉をひそめるとしても宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟は認める、という人も多いだろう。そのような価値判断の背景には「生態系や生物多様性には価値がある」「宗教的な儀式や文化的慣習には価値がある」という前提があると考えられる。狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることも、生物多様性や文化的慣習を守るという目的のためには許容される、ということだ。

 しかし、種差別を批判するタイプの倫理学においては、狩猟によって動物が苦痛を感じたり死んだりすることそれ自体が重大な道徳的問題として扱われる。反種差別的な観点からすれば、宗教的な儀式や文化的慣習として行われる狩猟はほとんど例外なく認められないだろう。宗教や文化を理由として人間を殺害したり傷付けたりすることが認められないと考えるのであれば、宗教や文化を理由として動物を殺害したり傷付けたりすることも認められない、と考えなければ種差別であるからだ。

 セラピー的狩猟に関しては、やや扱いが難しくなる。狩猟による自然保全を行わなかったために生態系が乱れてしまい、結果的により多くの動物が飢餓などにあい苦痛を感じたりしながら死んでしまう、という可能性があるからだ。カント的な義務論で考えれば、将来の悲惨を防ぐために狩猟を行うことは目的のための手段として動物を扱うことになるから認められない、ということになるだろう。一方で、功利主義の理論で考えれば、将来に大多数の動物に生じる悲惨を防ぐために現在の少数の動物を殺害するという行為は認められる可能性がある。…ただし、いずれにしても「生態系」や「生物多様性」それ自体に価値があるとは判断されない、という点がポイントだ。まず考慮されるべきは人間や動物の利益であって、生態系や生物多様性には間接的な価値しか認められないのである*3

 

 いわゆる「動物倫理」は環境倫理学のサブカテゴリーとして扱われがちである。しかし、生態系や生物多様性に本質的な価値を認める一方で種差別は否定しない、という「自然保全」中心的なスタンスをとる環境倫理学者も多い。また、生態系や生物多様性に本質的な価値を認めず、かといって動物たちの利益も考慮しない、良く言えば「プラグマティズム」で悪く言えば「人間中心的」な主張をする環境倫理学者も多々いる。そのため、動物倫理学的な考えと環境倫理学的な考えは必ずしも一致しないのだ。

 倫理学者だけでなく、実際に自然保全を行う人たちの間でも、自然保全中心的か人間中心的か反種差別的か、というバリエーションなりグラデーションなりは存在すると思われる。

 

 結局のところ、重要なのは「何のために狩猟を行うか」という目的と、そのための手段としてどこまでの行為を認めたりどれほどのコストを支払うか、というところだ。…たとえば、ある場所の生態系の手段を守る方法として「金銭的コストがかからない狩猟」と「金銭的コストや人間側の負担などがかかるが、動物を殺害せずに済む手段」という両方の手段が存在する時である。おそらく、現在の社会ではほとんどの場合で前者の手段が採用されるだろう。しかし、それはこの社会に種差別が浸透し過ぎた結果なのであり、本来なら人間側に相当のコストや負担がかかっても避けられることが可能な場合には狩猟は回避すべきである、と考えることもできるだろう。狩猟が避けられない場合としても、殺害する動物の数をより減らしたり動物に与える苦痛をより減らすための努力は欠かせない、と考えられる。

 このことは「生存のための狩猟」に対しても当てはまる。たとえば、菜食主義への反論として「野菜や穀物を栽培するための農業においても害獣駆除は不可欠だ」という議論が持ち出されることが多い。しかし、ある程度の害獣駆除は不可欠だとしても、回避できる駆除まで行なっていないか、駆除の方法は適切か、といったことは常に問われ続けるべきである。

 

 

 

*1:たとえば、以下の二つの記事

davitrice.hatenadiary.jp

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*2:ある狩猟行為はこれら三つのカテゴリのどれか一つにしか収まらない、というわけではなく、ある狩猟行為がセラピー的狩猟であると同時にスポーツ・ハンティングでもある、という場合もあり得る

*3:この記事でも同様の議論がされている。

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文系インテリが進歩や科学を嫌う理由(「啓蒙をめぐる戦争」の要約【その4】)

 

 前回前々回前々々回の続き。

 

 これまでは『現代の啓蒙(Enlightment Wars)』に寄せられた具体的な批判に答えてきたピンカーだが、記事の後半では「『現代の啓蒙』はなぜ一部の人々をここまで猛烈に怒らたのか?」という疑問を呈して、自らそれに答えようとする。

 

 ピンカーが挙げる理由の一つは、文芸批評家に代表される文系インテリたちのスノビズムだ。多くの文芸インテリはニーチェ的なロマンチシズムを抱く傾向があり、歴史的・芸術的な偉業(訳注:すごい文芸作品とか芸術作品など)だけを本物の価値があるものだとして褒めそやして、子供の死亡率や栄養状態や識字率の改善など、数字で明白に示されるような物事には興味を抱かない。

 1959年、物理学者でもあり小説家でもあったC.P.スノーが著書『二つの文化と科学革命』のなかで自然科学の発展が途上国の人々の苦痛を減少させる可能性を強調したとき、文芸評論家のF・R・リーヴィスはスノーを攻撃した。人間らしく生きるためには偉大な文学が必要なのだ、というのがリーヴィスの言い分であった。ピンカー自身も、「人類の最良の日は未来にあるのか?」という論題でディベートをした時に哲学者のアラン・ド・ボンから同様の論法で批判されたことがある*1。ド・ボンの出身国であるスイスは健康や幸福や教育や繁栄や平和などのいずれの点においてもで世界最高クラスの国ではあるが、それらの物事は国民がプルーストの著作の真価を理解してよく味わえることを保証するものではないのでスイスは他の国から羨望されるに値しない、というのがド・ボンの主張だったのだ。

 このような文芸主義は、人々の状態を改善するためにエンジニアやビジネスマンや公務員たちが行なっている卑俗な仕事をあざ笑ってしまいがちだ。ビジネスマンや公務員たちは近代的・資本主義的な制度の枠組みのなかで労働しており、数々の点で人類の状態を向上させてきた実績からも近代的・資本主義的な制度の価値は立証されているはずだ。しかし、多くのインテリたちは「批判理論」や「ラディカルな否定」や「疑いの解釈学」的なスタンスをとって、現代の西洋は堕落していると見なす。具体的にどのようなものでは定かでないがとにかく現在とはまったく違った形の社会制度が西洋的なものに取って代わらなければならない、と彼らは主張するのである。

 自然科学と人文科学は「知識の統合」という啓蒙主義的な理念に従いやがて「第三の文化」に統合されるだろう、とスノーは論じたが、リーヴィスはこの主張にも憤慨した。昔から今に至るまで、人文学と自然科学を架橋しようとする試みは人文学者の怒りを買ってきたのだ。理系と文系の知識を統合するための学際的な会合が開催されても、自然科学者が「視覚についての神経科学が芸術についての理解をもたらす可能性」とか「量的研究が音楽の普遍性についての理解をもたらす可能性」とかを提案すると、人文学者たちは怒り出してしまう。そして、ナチスを相手にするかのような勢いで、低俗な還元主義者のレッテルを自然科学者に貼るのだ。『現代の啓蒙』も歴史学政治学や哲学による分析を量的研究や認知科学進化心理学の知見でさらに豊かにしようと試みた本だが、主に文系インテリからの轟々たる非難にさらされることになった。

 

 精神医学者のスコット・アレクサンダーのエッセイでは、人々の思考形式を二種類に分けることで、現代の政治的争いが分析されている。一方の人々は「誤りの理論」で思考しており(Mistake theorists)、彼らは科学や工学や医学のように政治を扱う。現在の社会に生じている問題を病気のようにとらえて、人々は「最も正確な診断や、処方箋は何であるか」をめぐって論争している、と考えるのだ。ある人々の診断や処方箋は適切なものであるとしても、別の人々は的外れな診断をしてしまい、何ら効果がなかったり副作用の多すぎる処方箋を提案しているかもしれない。しかし、互いの診断や処方箋を分析しあって問題を指摘し合うことで、やがては適切な診断や処方箋が採択されることが見込めるだろう。…他方の人々は「争いの理論」で思考しており(Conflict theorists)、彼らは政治を戦争のように扱う。政治とはそれぞれの利害を持つ別々の立場の人々による恒久的な争いである、と見なしているのだ。エリートをさらに豊かにするものとして国家を機能させるか、それとも人民を助けるものとして機能させるか、その決定権をめぐる争いである。

 現代の世界では様々な論点において妥協の余地のない対立が発生している。議論や言論の自由の価値、人種差別主義の性質とは何か、民主主義の長所と短所、テクノクラティックな解決策と革命的な解決策のどちらが望ましいか、知的な分析と道徳的な情熱のどちらが望ましいか、などなどの論点だ。これらの対立の原因は「誤りの理論」と「争いの理論」の思考形式の違いで説明できる、とアレクサンダーは論じている。

『現代の啓蒙』は「誤りの理論」に基づいて書かれたものであるし、「進歩とは知識の適用である」という理念こそが啓蒙主義の本質である、とも論じている*2。しかし、「争いの理論」においては、知識による進歩なんてエリートたちの特権をさらに強めるための言い訳に過ぎなくなる。進歩とは、権力争いによってしか生じないものとされているのだ。

「誤りの理論」で考える人と「争いの理論」で考える人が妥協するのは、ひどく難しい。誤りの理論では互いの目標が一致していると見なされて、「君の診断や処方箋にはこのような点で問題がある」と批判し合うことで、より正確な診断や適切な処方箋についての合意や妥協が目指される。しかし、何事もメタレベルな権力争いで考えようとする争いの理論においては、そもそも合意や妥協は必要とされない。自分とは異なる立場の人々の主張を理解しようとしたり、相手と文脈や用語を共有すること自体が、敗北を意味してしまうからだ。

 

 

*1:日本語では、ディベートを書籍化した本の内容をshorebirdさんが要約した記事が読める。

*2:余談だが、ジョエル・モキールの『経済発展の文化:近代経済の起源』 では、「人間は知識によって自然界を理解してコントロールすることができ、自然界から有益なものを発見して利用することができる」「知識を通じて自然を征服することによって、人間社会を発展させて進歩させることは可能である」という信念自体が自然科学を発展させて、ひいては近代経済を生み出すことになった、ということが論じられていた。

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