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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

19世紀アメリカにおける子供の権利と動物の権利

動物愛護運動 歴史 社会運動

humanitiesctr.cas2.lehigh.edu

 

 前回に引き続き、動物愛護運動の歴史を書いた本に関する記事を紹介。

「政治的なケアと、子供と動物に対する配慮:歴史的視点」

 

(前略)

「感傷と野蛮:アメリカの歴史における動物と子供の境界を崩す」と題された講演の冒頭で、スーザン・ピアソン(Susan Pearson)教授は「子供は考える対象として良い」というは言った。この言葉は人類学者のクロード・レヴィ・ストロースの有名な格言である「動物は考える対象として良い(animals are good to think with)」をもじったものだ。人間以外の動物と同じように、子供の存在…子供の存在論的な地位、子供というカテゴリー…は人間という存在の概念の基盤を生産的に問題化することに使うことができる。人間という存在の(他の生物種に比べた)優位性や、(自然であり安定した実体物としての)自律は、過去20年間に渡ってポスト・ヒューマニズム学者たちの議論の対象とされてきた。ノースウェスタン大学の歴史家であるピアソンは、子供たちと動物たちは "存在(beings)"ではなく"存在になりつつあるもの(becomings)"であると見なされるべきだ、と論じる。子供と動物は絶えず流動的である生物学的な性質や文化構築的な性質を持っているために、精密的な歴史的分析を通じれば、人間性そのものが持っているとされる特別な地位の土台を崩すことができるのだ。

 ピアソン教授の講演の内容は、彼女の著書『身を守ることができない者たちの権利:金メッキ時代のアメリカにおける動物と子供の保護(Rights of the Defenseless:  Protecting Animals and Children in Gilded Age America)』に由来している。この素晴らしく刺激的な著作は、1874年のニューヨーク市にて里親による虐待からレスキューされて政府の庇護と責任の下に置かれた、メアリ・エレン・ウィルソンという名の一人の少女の物語から始まっている*1。メアリ・エレンをレスキューした人たちのアイデンティティこそが、この物語を重要にしている。地方の慈善団体は子供を家から引き離す権力を持っていなかったし、ニューヨークの警察も虐待と育児放棄の確たる証拠が無い限りは手を出せなかった。最終的に、メアリ・エレンを合法的に家から引き離して彼女に安全を与えることに成功したのは、アメリカ動物虐待防止協会(American Society for the Prevention of Cruelty to Animals, ASPCA)だったのである。「子供は一つの動物である」と、彼女のレスキューを支持する声明にてASPCAの会長は言った(訳注:会長の名前はヘンリー・バーグ, Henry Bergh)。「人間としての正義が子供には与えられないとしても、少なくとも街中にいる野良犬が持っている権利は子供にも与えられるべきだ」。

 子供に対する育児放棄や子供が受けた苦痛と動物に対する虐待とをASPCAが関連付けたことは、ピアソンの大胆な著作の基礎となっている。反-虐待団体が子供と動物の両方の虐待に対して警察権力を発揮し始めたのにつれて、19世紀後半のアメリカでは、他者の苦痛に対する同情と自分の身を守る力を持たない存在を政府が守るであろうという期待とが組み合わさったレトリックとイデオロギーが発展していった。ピアソンはそれを「感傷主義的リベラリズム(Sentimental liberalism)」と呼んでいる。ASPCAの事件簿から児童文学まで広範囲に渡る資料を調査したピアソンの研究は、金メッキ時代の中産階級の家庭では子供とペットに対する家族の愛とケアが文化的に同一視されていて生物種の境界が曖昧になっていたことを明らかにしている。この興味深いポスト-ヒューマニズムな時代の観察に加えて、「権利に対する意識(rights consciousness)」(他者に依存する存在も、保護に値するという考え)がそれまでは「個人的な問題」であると思われていた物事に対する近代国家の権力と介入範囲を増させたことも、ピアソンは取り上げている*2*3

 ピアソンの研究は、究極的には政治文化についての研究である。子供と動物に対して同等の道徳的責任を見出してケアを行う慣習を社会が発達させることは、どんな意味を持つのか?そのような同情や感傷は、弱くて他者に依存した存在を政府が保護することについての有効な根拠となるのか?現在のアメリカや世界全体の人間たちの間において増し続ける物質的な不平等に対して、前述したような心の習慣は批判に耐えられる答えとなるのか?講演が終わった後にも、これらの質問や他の質問に関する議論をピアソン教授の講演は聴衆たちに引き起こし続けたのであった。

 

 

 

The Rights of the Defenseless: Protecting Animals and Children in Gilded Age America

The Rights of the Defenseless: Protecting Animals and Children in Gilded Age America

 

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*1:

メアリ・エレン・ウィルソン事件 - Wikipedia

*2:訳注:権利というものは他者に依存しない独立した存在が自発的に主張するものである、といった価値観が変わっていき、子供や動物などの他者に依存している存在の権利が認められるようになっていく様子が『身を守ることができない者たちの権利』では描かれている

*3:訳注:『身を守ることができない者たちの権利』は、国家の権力や介入範囲が増すことは悪いことである、とは論じていないのでそこには注意してほしい

イギリスにおける動物愛護運動の歴史

動物愛護運動 社会運動 歴史

www.csmonitor.com

 

 

 クリスチャン・サイエンス・モニター誌に掲載された書評を紹介する。

書評:『動物たちのために』 by ランディ・ドティンガ (Randy Dotinga)

 

 

 数世紀前のイギリスで行われていた動物たちに対するショッキングな虐待は、歴史からは忘れられた。しかし、動物に対する虐待行為は、ぞっとするような遺産を英語の中に残している。

「コックピット(cockpit)」という単語は、もともとは闘鶏たちが死ぬまで戦う空間(闘鶏場)の事を示す言葉であった。「ブルドッグ(bulldog)」…今日のピット・ブルの先祖である…は、血に飢えた農民や貴族たちの群集の前で怒り狂った牛を攻撃していた。現在では卑屈や恥じ入りなどの表情を示す言葉である「ハングドッグ (hangdog, 吊るされた犬)」という単語でさえも、動物裁判を受けさせられた犬の哀れな末路にその起源を持つのだ。

 現代と同じように、当時でも多くの人々は自分の家にいるペットたちのことは熱愛していたが、「世界で最も残酷な国」であると言われていたイギリスの街中で動物たちに行なわれている恐るべき行為について気にかける人は僅かであった。しかし、人間たちは思いやりを持つようになり始めた。動物たちは単なる財産以上の存在であると見なすようになり始めたのだ。そして、動物虐待を行うことが個人の権利であるとは見なされなくなった。

「今日では、非常に多くの人たちが保護された犬や猫やウサギや馬と暮らしているが、動物たちが保護されて生き延びられることは、究極的には当時のイギリスの改革者たちのおかげである」と、キャサリン・シェヴロー(Kathryn Shevelow)は著書『動物たちのために:動物愛護運動の誕生(For the Love of Animals: The Rise of the Animal Protection Movement)』の中で書いている。彼女によると、当時のイギリスで改革を行っていた男女たちは「初めて、動物たちの苦境に対処する法律を施行したのだ」。

『動物たちのために』は、自分の身を守ることができない生き物たちをケアすることは義務であるという感覚をイギリス人たちがいかに発展させてきたかについて、鋭くて目を見開かせるような視点を提供してくれる。鮮やかな逸話を通じて、イギリスに存在していた膨大な矛盾と、動物の権利運動を創立した様々な人たちの記憶に残るような肖像画で彩られた旅へとシェヴローは読者を連れて行ってくれるのだ。

 シェイクスピアの時代からその数世紀後まで、貴族たちは甘やかされた愛玩用子犬やファンシーな見た目をした鳥たちを熱愛する一方で、ほとんど飢え死にかけている雑種犬が街を徘徊していたり子供たちが公衆の面前で猫を拷問していることは無視していた*1。闘鶏や"いじめ(baiting)"…アヒルから猿までの様々な動物達に、獰猛な犬をけしかけること…は、全ての階級にとって人気なエンターテインメントであった。

『動物たちのために』にて書かれている様々な動物虐待の逸話は気を滅入らせるようなものであるが、シェヴローは、動物虐待の逸話を避けるためにはどの章を読み飛ばせばいいかというアドバイスも読者に向けて書いている。幸いなことに、本の中には読者が喜んで読めることも書かれている。果てしなく続く嘲笑にも関わらず、動物たちのために声を発した活動家たちの物語もその中に含まれている。

 動物愛護運動の初期には、動物たちは言葉を喋ることができないから愚かである、という一般に普及していた考えに疑問を呈した、マーガレット・キャヴェンディッシュという名の風変わりな公爵夫人が登場する*2。人間たちが行う数多くの愚かな物事を考えれば、言葉を喋られるかどうかは知性の存在を示すサインにはならない、と彼女は論じたのだ。しかし、彼女の苦労(と、彼女が行っていたフェミニズムの苦労)にも関わらず、後世の批判者たちは「狂ったマッジ」という不名誉な称号を彼女に授けたのであった。

 その後も、同じようなことが続いた。聖書は動物虐待を批判している、という思い切った解釈を行った大臣がいたが、彼は狂っていると呼ばれた。牛いじめを禁止しようとした国会議員は、人間が楽しく時を過ごすということが理解できない道徳主義的なおせっかい屋であると呼ばれた。「牛いじめの次は何を禁止するんだ、キツネ狩りか?」と批判者たちは言ったのだ(確かにキツネ狩りも禁止されることになったが、それは2004年までかかった)*3

 馬に対する虐待を禁止する法律について国会で議論が行なわれている時、馬の次は犬に対する虐待が禁止されるかもしれないと誰かが言うと、議員たちは喜びの叫びを上げた。しかし、さらに広い考え…猫を保護するという考え…は、野次の笑いを引き起こしたのであった。

 だが、動物の権利を主張する声は影響力を増していった。聖書や哲学、奴隷制度反対運動を含む様々な改革運動から、運動家たちは動物に慈悲を与える理由を見出したのである。

 半分人間で半分動物の怪物たちや複雑な機械で出来た動物たちなどに対するヨーロッパ人たちの熱狂を記すことで、シェヴローは著書の内容を彩っている。また、彼女は独特な性格をした数多くの人々を改革運動家の中から発見している。例えば、菜食主義者であったが家ほどの大きさにまで太っていた人や、リチャード・"一触即発のマーティン”などだ(Richard "Hair-Trigger Martin")*4。マーティンはアイルランドの動物愛護運動の指導者であり、自分の飼い犬ですらなかった穏やかなウルフハウンド犬のために、その犬を冷血にも殺害した男に対して決闘を挑んだ人間でもある。

 「騒ぎを起こしてヘマをやる愚か者だ」という非難にも関わらず、マーティンは影響力の強い団体である動物虐待防止協会(SPCA)を創立した。1840年には動物虐待防止協会はイギリス王室からの認可を得て英国王立動物虐待防止協会となり(RSPCA)、それは今日に至るまで有効である*5

 イギリスにおける動物の権利運動の発展を徹底的に追跡する一方で、他の場所で起こった出来事についてはシェヴローは短いページでしか扱っていない。イギリスで行われた運動がアメリカにおける動物の権利運動にどのような影響を与えたかは、アメリカの読者自身が調べる必要がある。

 一部の読者は『動物のために』を少しアカデミック的に過ぎると感じるかもしれない。また、椅子に座った可愛いらしい犬のカバー写真は抜け目のないマーケティング用のものであり、本の内容とは何も関係ないことにも読者は気付くだろう。

 とはいえ、『動物のために』は示唆に富んでおり読者にインスピレーションを与える本である。この数世紀で動物の扱いがどれほど変わったか…そして、何が変わっていないか…を、読者に思い出させてくれる。非常に多くの人々が動物たちを大切にするようになったが、それでも、動物たちは未だに虐待や残虐行為の被害者であり続けている。しかし、反対派たちからの強烈な攻撃に立ち向かい続けた人々の努力のおかげで、正義と寛容はこれからも動物たちの側にあり続けるのだ。

 

 

 

For the Love of Animals: The Rise of the Animal Protection Movement

For the Love of Animals: The Rise of the Animal Protection Movement

 

 

*1:愛玩用子犬 =  Lap dog, 犬種という意味も含まれている

ラップ・ドッグ - Wikipedia

*2:マーガレット・キャヴェンディッシュについての参考サイト。作家、科学者、フェミニストとしても有名

マーガレット・キャベンディシュ ( 小説 ) - Yukihisa Fujita Mystery World - Yahoo!ブログ

 

*3:

http://www.geocities.jp/britishnews2005/merumaga/2foxhunting.html

*4:リチャード・マーティンについて日本語で紹介されている記事

動物保護 マーチン法 - ドーベルマン ボルドーブログ日記

*5:

英国動物虐待防止協会 - Wikipedia

動物倫理・功利主義における「置き換え可能性」の議論

動物倫理 倫理学 肉食

 

www.irishtimes.com

 

 今回紹介するのは The Irish TImes というサイトに掲載された、功利主義系の倫理学者タティアナ・ヴィサクのインタビュー記事。ピーター・シンガーの『実践の倫理』などでも取り上げられている、動物や人間の生命の「置き換え可能性(replaceability, 代替可能性)」に関するヴィサクの主張について短くまとめられている。かなり抽象的な話題ではある。

 

「倫理的なステーキは存在するのか?」

 

 動物の断片を食べることがこれほどまでに一般的になっている社会、これほどまでに多くの人々が食肉の生産に関わっている経済の下では、菜食主義を擁護する主張を行うことは難しいかもしれない。

 まず行われるであろう反対…「仕事を失う人たちのことはどうする?」「肉で摂っていた栄養はどう補う?」…を乗り越えたとしても、作物を栽培することの機会費用に関する、より細かい議論に直面することだろう。

 今週にアイルランドのダブリンで行われるイベントで講演する予定である、ドイツの哲学者タティアナ・ヴィサク(Tatjana Visak)は、上述したような菜食主義に対する反論を全て知っている。彼女は『Killing Happy Animals : Explorations in Utilitarian Ethics(幸福な動物を殺す:功利主義倫理学における探求)』の著者である。その著書にて、全ての生き物たちが権利を持っていることをヴィサクは示唆しており、道徳的な意思決定を行う際に粗雑な功利主義計算を行うことに対して警告を発している*1。ヴィサクの主張は、オーストラリアの哲学者であり彼女と同じく菜食主義者であるピーター・シンガーの主張と衝突している。シンガーは、人間以外の動物たちは "置き換え可能(replaceable)"であると論じたのだ。ある動物を殺すことは、同等に幸福である動物を生み出して殺される動物の代わりに生きさせられるとしたら認められる、という主張である*2

 記念碑的な著作である『動物の解放』が出版された40年前から現在に至るまで、シンガーの主張は変化を経ていったが、「ある牛が早死にすることは悲劇ではない…牛が1年生きるとしても10年生きるとしても、牛たちには自分が達成したり獲得したいと望むものは何もないからだ」というシンガーの主張は現在でも議論を呼ぶものだ(早死に = premature death, 寿命がくる前に死ぬこと)。

 ヴィサクはシンガーの論理に同意しない。現状における動物たちの扱いを思えば、ヴィサクはかなりラディカルな立場を擁護しているように聞こえる。「死は、個体が何らかの計画を抱いているかどうかに関係なく、その個体が将来感じるであろう幸福(welfare)を奪うために、悪いのです」。

 

Q:「動物にとって優しい畜産(animal-friendly animal husbandry)」という概念は語義矛盾していますか?

 

A:一般的には、「動物にとって優しい畜産」という概念は、通常の畜産の慣習に比べると動物に引き起こされる苦痛が少しだけ小さい畜産の慣習を指すときに使われます。例えば、通常の畜産の場合よりも広い空間で生きることが動物たちに保証されているなどです。より小さな苦痛は、より大きな苦痛に比べれば動物たちにとって善いことであるのは確かです。しかし、基本的には「動物にとって優しい畜産」でも動物たちは大いに苦しみます。

 例えば、オーガニックに育てられる仔牛でさえも、一般的には生まれた後すぐに母親から引き離されます。通常は牛の親子の間の絆は強いものであるために、このことは仔牛と母牛の両方に激しい苦痛を引き起こします。

 監禁されていて人間に操作されていることが原因で、農場で生きる動物にはストレスと退屈と様々な病気が頻繁に起こります。それとは別に、一般的には農場の動物たちは若い年齢で殺されます。これが「動物にとって優しい」と言えるでしょうか?私はそうは思いませんね。

 

Q:もし、肉として生産される動物たちが屠殺されるまでは快適な人生を過ごすことが確実に保証できるとすれば、そもそも生まれなくて全く存在しないよりも生まれてくることの方が動物たちにとって善いことなのではないでしょうか?

 

A:厳密に言うと、生まれてくることが「動物たちにとって善い」こととなるのは不可能である、と私は考えています。ある出来事が私にとって有益であるということは、その出来事が起こらなかった場合に比べて出来事が起こった場合の方が私の幸福度が高くなるということによってのみ決まります(幸福度が高くなる = better off)。つまり、その出来事が起こったために、出来事が起こらなかった場合に比べて人生における私の幸福のレベルが高くなっているということです(人生における幸福のレベル = lifetime welfare level)。

 生まれてこなかったために存在することがなかった個体には、人生における幸福のレベルが存在しません。そのために、生まれてこなかった場合と生まれてきた場合を比較することは不可能なのです。ですから、ある特定の幸福のレベルを持って存在していることは、存在しない場合に比べて個体の幸福度を高くすることも低くすることもできないのです。

 幸福度の高い動物が存在しなかったとすれば世界における幸福の総量が低くなっていた、と論じる人もいるかもしれません(世界 = universe)。そして、その主張は事実です。しかし、私は、世界における幸福の総量を考慮するべきであるとは考えません。多くの子供を生んで彼らに快適な人生を過ごさせることは世界における幸福の総量を増加させるとしても、そのことはより多くの子供を生む理由にはならない、と私は考えます。

 私たちには世界を害することも世界に益を与えることもできません。私たちが害したり益を与えたりできるのは、感覚を持った個体たちだけです。そのために、私たちの道徳的義務の対象は感覚を持った個体たちだけに限定されているのです。

 

Q:ピーター・シンガーは、動物たちに自己意識があるかどうかはこの議論の結論に違いをもたらす、と論じています。自己意識を行う能力に欠けている動物たちは置き換え可能である、と彼は言っているのです。あなたはどう思いますか?

 

A:他の条件が全て等しければ、世界における幸福の総量を増加させるということだけでも、幸福度の高い個体を追加で生まれさせて存在させることの理由となる、とシンガーは論じています。私とは違った考えです。シンガーは幸福の量について考慮しているので、世界における幸福の総量に変化がもたらされないとすれば、一部の動物を苦痛なく殺して他の動物に置き換えることは認められると彼は考えています。

 シンガーはその哲学者としての業績を通じて、少なくとも自己意識を持つ個体を置き換え可能性な存在の枠内から排除する理由を求め続けていました。現在では、自己意識を持つかどうかに関わらず原則としては全ての個体が置き換え可能である、とシンガーは認めています。

 過去にシンガーが論じていたように、生き続けたいという欲求を持っていて未来についての計画を持つ個体にとっての死はそうでない個体にとっての死よりも重大な危害である、と論じる人もいます。それらの欲求や計画を持つためには一定以上の認識能力が必要とされますし、感覚のある動物たちの一部はこれらの能力を欠いていると思われます。現在のシンガーは、未来についての計画は死がもたらす危害には関わらないと考えていますし、この点については私も同意しています。

 ある個体が自分が早死にすることを知っているという場合には、未来への計画を持つことは死のもたらす危害に影響を与えます(訳注:未来という概念を認識できるために自分が死ぬことを理解できる動物は、そうでない動物に比べて死に対する恐怖などを持つので死がもたらす危害が増える、ということだと思われる)。しかし、予期することができず、かつ、苦痛をもたらさない死について論じる場合には、未来への計画を持つかどうかは無関係です。死ななければ幸福な人生を生き続けたであろう個体が早死にすることは、その個体に危害を与えます。なぜなら、幸福な人生を短い間過ごすことよりも幸福な人生を長い間過ごすことの方が、その個体にとっては善いことであるからです。

 

Q:動物には権利がありますか?

 

A:私たちが何らかの行為をするための規範的な理由は、その全てが最終的には幸福に基づいている…自分たち自身の幸福と他の存在の幸福の両方を含んだ幸福です…と、私は考えています。生きる権利を含む法律的な権利を豚や牛などの動物に認めることは、彼らの幸福を増させる方法として効率的なものかもしれません。私たちが生み出して存在させる動物たちの数は現在よりも遥かに少なくなるでしょうが、存在することになる動物たちは現在私が生み出している動物たちよりもずっと幸福な人生を過ごすことになるでしょう。

 

 

 

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

Killing Happy Animals: Explorations in Utilitarian Ethics (The Palgrave Macmillan Animal Ethics Series)

 

 

 

The Ethics of Killing Animals

The Ethics of Killing Animals

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp

*1:訳注:ヴィサク自身は功利主義者で、(法律上の権利・社会通念上の権利はともかく)道徳的権利の存在を認めてもいないようなので、この解説はちょっとミスリード気味

*2:訳注:『実践の倫理』の第3版(未邦訳)に基づいて、シンガーの主張について解説しよう。

 まず、『実践の倫理』で「置き換え可能性の議論(replaceability argument, 代替可能性による議論)」が取り上げられるのは、畜産制度を批判するシンガーの議論に対する畜産制度を擁護する側の反論として、である。具体的には『雑食動物のジレンマ』の著者マイケル・ポーランや19世紀の哲学者レスリー・スティーヴンの議論が取り上げられている。

「畜産制度があるから家畜たちは存在するのであり、畜産制度がなければ家畜たちは存在しない。家畜の幸福に配慮した畜産制度なら、ある家畜を一匹殺しても同じだけ幸福な家畜を一匹生み出すことでその死を埋め合わせることができるから問題がない」という主張について、総量功利主義かつ快楽功利主義を主張する人は基本的にはこの主張を受け入れなければならないとしつつも、シンガーは「置き換え可能性の議論」を認めた場合に起こる問題点を以下のように挙げている。

 そもそも、現状の畜産は「家畜の幸福に配慮した畜産制度」からは全く程遠いので「置き換え可能性の議論」では擁護できない。

 また、「幸せな存在の数は増えれば増えるほど良い」という主張を認めると、人間と動物の幸福について平等に配慮するとすれば、人間をほとんど絶滅させてその代わりに幸福な小型動物を大量に増やしたほうが良くなる、ということになってしまう。

 幸福な動物を増やすために人間の数を減らすことを回避するために、人間の幸福を動物の幸福よりも高く価値付けたとしても、畜産制度は認められない。なぜなら、肉食を撤廃して全人類が菜食主義者になった方が、地球上に暮らす人間の総数が増えるからである。

 更に、動物が置き換え可能なら人間も置き換え可能であることを認めるべきである。すると、遺伝子操作して自己意識や未来についての認識を制限した人間を意図的に生み出す人間工場(臓器のスペアとして利用するなど)も認められることになってしまう。

 …これらの問題点を認めつつも、『実践の倫理』の第3版ではシンガーは「置き換え可能性の議論」を否定しない。第1版では、哲学者のヘンリー・ソルトによる「存在する場合と存在しない場合との比較はできない」という議論をシンガーも認めていたが、第2版では「現在ではこの点について、以前ほどの確信が私には持てない」と書かれており、第3版では存在する場合と存在しない場合の比較は可能であると認めるようになっている。

 この後は『理由と人格』や『On What Matters』などの著書がある哲学者のデレク・パーフィットや、反出生主義で有名なデビッド・ベネターの議論などが取り上げられて、様々な思考実験が繰り広げられて細かな議論がされるのだが、まとめきれないので今回は省略する。

 

 http://nationalhumanitiescenter.org/on-the-human/2011/02/taking-life-animals/

↑『実践の倫理』第3版の該当箇所の原文はインターネット上で無料公開されているので(数多くの哲学者による反論コメントと、それに対するシンガーのレスポンスも付いている)、気になる人はそちらも参照してほしい。

アメリカにおける動物愛護運動の歴史

動物愛護運動 歴史 動物倫理 社会運動

www.csmonitor.com

 

 今回紹介するのは、2014年の4月にクリスチャン・サイエンス・モニター誌のホームページに掲載された、アメリカの歴史家 ダイアン・ビアーズ(Diane Beers) へのインタビュー記事。

 ビアーズはアメリカの動物愛護運動の歴史についての本『For the Prevention of  Cruelty : The History and Legacy of Animal Rights Activism in United States(虐待を予防するために:アメリカにおける動物運動の歴史と遺産)』の著者であり、今回のインタビュー記事も著書の内容に関わるものである。インタビュー当時のアメリカでは水族館テーマーパークのシーワールドにおけるシャチの虐待問題が話題になっており、このインタビューでもシーワールドの問題が触れられている*1。記事の導入部分は省略して、インタビュー部分だけを訳した。

 記事内では基本的にAnimal Rights Movementという言葉が使われているが、指し示されている運動の対象には狭義の意味での「動物の権利運動」だけでなく「動物の福祉運動」も含まれているので、意味合い的に近い「動物愛護運動」として訳している*2

 

「馬の擁護からシャチの保護まで:今日のシーワールド論争に関して、動物愛護運動歴史家のダイアン・ビアーズへのインタビュー」

 

 

Q:アメリカでは動物愛護運動はどのようにして始まったのでしょうか?

 

A:動物愛護運動が始まった当初から、社会では動物に対する虐待(cruelty)が広く行われていると運動家たちは考えており、彼らは全ての形の虐待に対して様々な戦略を用いて戦いました。

 動物の問題についての関心が南北戦争以前から存在していたという証拠は確かにありますが、組織的な動物愛護運動は南北戦争の直後から登場しました。 

 アメリカの最初の公式な動物愛護団体は1866年に設立したニューヨークのアメリカ動物虐待防止協会( American Society for the Prevention of Cruelty to Animals)ですが、同様の団体がペンシルバニアマサチューセッツにも同時期に存在しました。

 動物愛護団体の登場の背景には様々な要因がありますし、工業化もそれに含まれています。人々が自然から離れていくにつれて、動物との関係へのノスタルジアが発達していったのです。また、中産階級が台頭したことにより、ペットを飼うことが以前よりも一般的になったことも理由の一つです。

 

Q:19世紀の歴史では、進化論と奴隷制撤廃運動(abolition movement)のどちらもが主要な役割を果たしていました。それらは、動物の権利に対する人々の関心にも影響を与えましたか?

 

A:ダーウィンは、特別であり他の動物からは区別されているという立場から人間を突き落としました。人間は生命の木の一部なのであり他の生物から区別されていない、ということをダーウィンは示しました。そして、私たちは自分たちが思っているほど動物たちから離れた存在ではないということも示したのです。

 奴隷制に関して言うと、動物愛護運動の創始者の多くはそれ以前から他の社会正義の問題にも関わっていました。一般的には、奴隷制に対する反対・女性の権利・刑法の改正・子供の福祉・都市改革などが社会正義運動の対象に含まれていました。

 現代でも過去でも動物愛護運動に対する通説として最もよくあるものは、動物愛護運動は人間の問題に関わっておらず、むしろ反人間的な運動でさえあるというものです。どの時代の動物愛護運動について論じたとしても、この通説は全く間違っているということを私の研究は明らかにしています。

 

Q:時代を通じて、動物愛護運動はどのように発展していったのでしょうか?

 

A:一部のキャンペーンは非常な成功を収めましたが、それらの成功は特定の時代状況に関わるものでした。

 例えば、最初期のキャンペーンの一つは、ニューヨーク市における使役馬の虐待を対象にして行われました。もちろん、やがて自動車が使役馬に取って代わり、使役馬はいなくなりました。しかし、そのことは使役馬の虐待防止キャンペーンの業績を傷付けません。

 全体的に言うと、動物愛護運動は、ある特定の種類の虐待が新しく登場した時…映画における動物の酷使など…に発展する能力と、広範囲の虐待の問題に対処する意志と能力のどちらも持っています。

 

Q:PETAが行っているよう大胆な活動(in-your-face avtivism)については多くの人が知っています。初期の活動家たちは、PETAが行っているような種類の抗議活動を行いましたか?

 

A:アメリカ動物虐待防止協会の創始者であるヘンリー・バーグ(Henry Bergh)は、活動家たちはメディアが活動に注目するまで待つのではなく、自分たちの活動の目的を強調した挑発的な直接行為を行うことを通じてメディアをハイジャックするべきだと論じました。

 バーグが最初に有名になった(そして悪名高くなった)のは、ニューヨーク市で最も混雑していた大通りに一日中にも渡る交通渋滞を引き起こしたことからです。バーグは、過剰に乗客を乗せた乗合馬車の運転手に対して、乗客を降ろして疲れ切った馬たちを解放することを要求したのです。

 街の別の場所では、バーグはある船の乗組員全員を逮捕しました。ニューヨークのレストランに届けられる予定であったウミガメの輸送方法が残酷であったことが逮捕の理由です*3

 ウミガメは動物ではなく魚であるという理由で、裁判官は訴えを却下しました。しかし、バーグはその裁判に勝つことは最初から考えていませんでした。裁判に勝つことではなく、メディアを扇動することを彼は考えていたのです。

 バーグの計画は成功しました。ほとんどすべての市新聞がウミガメの話題を取り上げて、ニューヨークヘラルド紙はウミガメを支持する動物たちの証人で一杯になった裁判所という愉快な風刺画を載せました。数日のうちにその風刺画はアメリカ中の新聞に転載されて、およそ50万人の読者が目にしました。

 そして、アメリカ動物虐待防止協会の会員数と寄付金の金額が急増したのです。

 

Q:シーワールドについて起こっている議論と、動物愛護運動の初期の歴史には関係があると考えますか?

 

A:現代でも過去でも、複数の戦略を用いたキャンペーンを行って多様な目標を追求することは、動物愛護運動の特徴となっています。

 現在と過去の違いとは、運動の方だけではなく動物虐待の方も発達しているということです。しかし、一般的には、現代の大衆は過去よりも動物虐待の問題について注意を払っており憤慨する傾向も高くなっています。

 動物愛護運動は、動物に倫理的な配慮を払うことを支持する方向に人々の態度を向かわせるということに大いに貢献してきました。今日では、多くの人にとって動物は…少なくとも、全ての動物ではなくても多くの動物が…単なる財産以上の存在であるのです。

 

Q:シーワールドについて起こっている議論の多くでは、人間たちの娯楽のために動物を使用することは適切であるかどうかということが中心的な論点となっています。この論点については、過去にも問題になってきましたか?

 

A:ヘンリー・バーグは、サーカスを設立した興行師のP・T・バーナムに対して、彼の動物に対する扱い全般と彼がサーカスのために動物を訓練する方法に反対するキャンペーンを行いました*4

 例えば、サーカスでは熊の足裏の肉趾を焼くことで熊をダンスさせていましたし、ライオンを鞭打って追いやることでライオンを椅子に座らせていました。

 その後、20世紀の初頭には、野性動物に人間のための芸をさせることに対して作家のジャック・ロンドンがバーグと同じくらいに憤慨しました。ロンドンは、動物たちの芝居は「冷血で、意識的に行われる故意の虐待行為」を代表していると言いました。「芸術としての虐待行為が、訓練された動物たちの世界で完璧な花を咲かせているのだ」。  

 ロンドンは、人間に使われる動物の問題に関わる小説を生涯に渡って書き続けました。その結果として、動物愛護団体ジャック・ロンドン・クラブを組織しました。ジャック・ロンドン・クラブは75万人という注目すべき数の会員を集めて、1925年には主要なサーカスに動物に芝居をさせることを止めさせるという注目すべき勝利を達成しました。

 しかし、サーカスの側も大衆に向けてキャンペーンを行ったために、動物愛護運動の勝利は永続しませんでした。大恐慌が起こったことも、大衆が現実から逃れるための安価な娯楽としてサーカスが流行する機会をもたらしたのです。

  

Q:動物愛護運動の次の目標は何でしょうか?全体としての動物愛護運動はどこに向かっていると考えますか?

 

A:近年では、一般的には、動物愛護運動と他の社会運動は共に協働する方法を探っているように思えます。…それぞれに異なった社会正義運動が、互いの共通点を見出せる問題に向けて同盟を築いているのです。

 一つの例としては、屠畜場をめぐる問題に対処するために、環境活動家と労働者の権利運動家と動物愛護運動家が力を合わせています*5

 全ての種類の抑圧と搾取は繋がっています。その繋がりを暴いて有効に対処することが社会正義運動には可能なのか?私たちはやがてその答えを見ることでしょう。

 

 

For the Prevention of Cruelty: The History and Legacy of Animal Rights Activism in the United States

For the Prevention of Cruelty: The History and Legacy of Animal Rights Activism in the United States

 

 

 

関連記事:

davitrice.hatenadiary.jp


 

*1:

natgeo.nikkeibp.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:アメリカ動物虐待防止協会は逮捕の権限を持っている

アメリカ動物虐待防止協会 - Wikipedia

*4:P・T・バーナム - Wikipedia

*5:アメリカでは、移民を悪質な労働環境の屠畜場で酷使することが問題とされる場合がある

http://www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf158.html

退行的左翼とイスラム教

時事問題 宗教

www.wikiwand.com

 

togetter.com

 

 上にリンクを貼った記事などでも紹介されたり言及されたりしているが、近頃の英語圏の無神論者や反PC界隈のメディアやブログ等を読んでいると、 Regressive Left 退行的左翼 という言葉を目にする機会がある。

 退行的左翼について私なりに簡単に説明すると、本来なら左派には容認できない物事(人権や自由の侵害・女性や性的少数派に対する性的虐待や性差別など)を、多文化主義や反植民地主義アイデンティティポリティクスなどの左派的な原則を尊重するあまりに容認してしまう左翼のことである。

 

 上の記事でも説明されている通り、この言葉を最初に使い出したのは 元イスラム原理主義者であり現在はイスラム原理主義に反対している活動をしている Maajid Nawaz(マージド・ナワズ)であるようだ。英語版Wikipediaによると、エジプトで原理主義者の活動をしていたナワズは逮捕されて投獄されたが、人権に関する本を読んだりアムネスティ・インターナショナルと関わっているうちに原理主義から離れて、原理主義的なイスラム社会を世俗化させる運動を行うようになったらしい*1キリスト教イスラム教を強く批判する無神論者として有名なサム・ハリスとも共著を出している*2*3

 

www.thedailybeast.com

 

 上述の記事は、ナワズが書いた「イギリスの左翼によるイスラム原理主義の偽善的な称賛」というタイトルの記事である。アメリカの左派が自国内のキリスト教原理主義者や宗教的右翼に対して熱心に戦っているのに比べて、イギリスやヨーロッパの左派はイスラム原理主義者を容赦して野放しにしている、とナワズは記事の中で批判している。ムスリムはヨーロッパではマイノリティであること、イスラム圏を批判することは西洋中心的で植民地主義的であると思われること、イスラム教を批判することは自国の極右を調子付かせてしまうこと、などが左派がイスラム教を批判することを躊躇う理由であるが、だからといってイスラム国がヤジディー教徒の女性を奴隷化したりシリアで同性愛者を殺害することを容認するべきではない、とナワズは書いている*4。退行的左翼はイスラム圏で起こる悪いことを何でもかんでもイスラエルや西洋のせいにするが、それは間違っているし、「ムスリムが文明的になることは期待できない」と言っているようなものだ。また、退行的左翼は西洋やマジョリティに対して怒りを表現するムスリムの声は聞きたがるが、(ナワズのように)イスラム原理主義に疑問を示したり批判したりするムスリムの声は聞きたがらない…と記事の中でナワズは書いている。また、イギリスの代表的な左派メディアであるガーディアン誌(Guardian)が特に批判されている。 

 

  ナワズと対談しているサム・ハリスや、生物学者であり無神論者で宗教批判者として有名なリチャード・ドーキンスやジェリー・コインも、退行的左翼を批判している。コインのブログ記事は以前にも何度か訳しているが、最近の記事でも退行的左翼とガーディアン誌に対する批判が書かれているので、少し紹介してみよう*5

 

 

The Guardian publishes the ultimate abasement of the Left: an anonymous writer flagellates himself for criticizing Islamwhyevolutionistrue.wordpress.com

 

 

 上述の記事にて、コインは最近のガーディアン誌の記事を取り上げている*6。その記事は匿名の著者によって書かれたもので、もともとはリベラルなイギリス人男性だった著者が、インターネットで "オルタナ右翼 (Alt-RIght)"の発言に触れているうちに影響を受けて危うく自分もオルタナ右翼の一員になるところだったが何とか正気に戻れた…という体験談である。

 コインは、この記事自体にガーディアン誌や退行的左翼の偏ったイデオロギーが表れている、と論じる。例えば、イスラム教を批判する無神論者のサム・ハリスと、(オルタナ右翼の代表的な存在であり差別的な言動で有名な)マイロ・ヤノプルスが一緒くたにされていることをコインは批判している*7。以下はコインの記事からの引用である。

 

 

「宗教を批判することが"右翼"で"教化"であると書かれているが、笑わずにはいられないじゃないか。…光を見た著者は、自分の罪を告白しなければいけなかったわけだ。無神論者の哲学者のピーター・ボグホシアンが言ったように、退行的左翼には宗教の特徴が含まれている。白人の男性であること(または、イスラム教を批判すること)が原罪だというわけだ。深く恥じ入らなければなくて、他の退行的左翼たちに告白しなければならなくて、長く激しい自己処罰を自分自身に課さなければ許されない罪だというわけだ。 」

 

「ほら見ろ、ブレクジットで"EU離脱"に投票されたことはとてもレイシストなことだと書かれている(間違った投票だったとは私も思うが、レイシストな投票ではないだろう)。フェミニズムを批判したり男性の権利を主張することもレイシストだ。そして、イスラム教を批判することは特にレイシストなんだ。」

 

「一体この男性はどんな世界に生きているんだろう?この男性は"これらの物事について、相手のことをレイシストや差別主義者だと呼ばずに議論をすることはできるはずだ"という考えを否定している(そして、そんな考えを持ってしまった自分を処罰している)。相手のことをレイシストや差別主義者だと呼ばなければならないというわけだ。結局のところ、相手をレイシストと呼ぶことこそが退行的左翼たちの最後の武器だからだ。他の左翼たちは自分がレイシストだと呼ばれることをどんなコストを払ってでも避けようとする、ということを退行的左翼たちは知っているのだ。レイシストだと呼べば、相手を黙らせることができる。それにしても、考え方や概念を批判するとどうしてレイシストになるのか知りたいものだ。

 とはいえ、退行的左翼の教会では、レイシストであることを告白すれば(少なくともしばらくの間は)罪が許される。だから、この匿名の著者はガーディアンの読者たちに告白したわけだ。…」

 

「この記事がジョークであるように思えてきただろうか?普通の人ならジョークだと思うだろうが、ガーディアンの読者たちは普通じゃない。二つ以上のリベラルな価値観(負け犬に対する配慮と、言論の自由に対する配慮と、女性の権利に対する配慮)が衝突した時に起こる認知的不協和のために、この匿名の著者は臆病者になってしまい、言論の自由を捨ててしまうことで自分の認知的不況を解決しようとしてしまったのだ。この著者は、サム・ハリス(や他の人)によるイスラム教に対する批判と、個人としてのイスラム教徒に対して行われる差別である本当のイスラモフォビアを区別することもできていない。イスラム教は人種じゃなくて、特定の信仰であるということもわかっていない(もちろん、イスラム教にも多様な分派はあるのだが)。著者はこれから妻に告白して("辛い会話"になるだろうと書かれているが、一体この妻はどんな女性なんだろう?)、イスラム教の教義は西洋文明とは両立しないかもれないと考えることすらタブーであると妻に言うだろう。考えられてはならない考え方があるし、論じられてはならない議論があるのだ。言うまでもなく、それらの全てが、レイシストであると見なされることに対する恐怖から来ているのだ。

 この記事は信用に値しないものだが、ガーディアンがこの記事を出版したという事実は退行的左翼主義の危険を表している。それは権威主義の危険だ。"レイシストの言論"だとして言論の自由が抑圧される危険であり、退行的左翼たちが力を持ったとすれば、他の左翼たちも自分がレイシストであり差別主義者であると呼ばれることを恐れて厄介な問題について議論をしなくなるという危険だ。」

 

  

quillette.com

 

 

 上の記事は Quillette というサイトに掲載された「言論の自由イスラム教:左派は最も弱い人々を裏切った」とタイトルの記事。この記事でも、イスラモフォビアと呼ばれることを恐れた左派がイスラム圏で行なわれている非道(世俗的・穏健なイスラム教徒に対するイスラム原理主義による迫害など)を等閑視していることや、イスラム教の問題点について議論することが差別であると封殺されていることが批判されている。

 

 

  ………まとまりのない記事となってしまったが、「退行的左翼」という言葉の使われ方がどんな感じであるかは示すことができたと思う。

*1:

Maajid Nawaz - Wikipedia

*2:ナワズとハリスの共著『イスラムと、寛容の未来:一つの対話』

 

Islam and the Future of Tolerance: A Dialogue

Islam and the Future of Tolerance: A Dialogue

 

 

*3:ナワズの TEDトーク

www.ted.com

*4:

www.afpbb.com

www.afpbb.com

*5:以前に訳したコインの記事の一つ

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

www.theguardian.com

*7:ヤノプルスについて日本語で紹介されている記事

miyearnzzlabo.com

opus-english.com

実用的な道徳理論としての功利主義 (『モラル・トライブズ』の著者へのインタビュー記事)

倫理学

news.harvard.edu

 Havard gazette というサイトに掲載された、心理学者兼道徳哲学者のジョシュア・グリーンのインタビュー記事について、後半だけ紹介。省略箇所に合わせてちょっと意訳もしている。これだけじゃなんのことかわからない人も多いと思うので気になったら他の記事を参照してほしい*1

 

「道徳エンジンとしての"深遠な実用主義」by ジョシュア・グリーン

 

(記事の前半では、先天的な道徳感情や各共同体の文化規範に依存した日常道徳とは「共同体の悲劇」に対処するためのものであるが、現代ではそれぞれに異なる文化からやってきて異なる日常道徳を持った人たちが相互に関わるようになったために「共通道徳の悲劇」が起こるようになっており、「共通道徳の悲劇」に対処するためには日常道徳をメタ的な立場から扱うメタ-道徳である「深遠な実用主義(deep pragmatism)」が必要とされる、という話がされている)

 

(前略)

 

 …この問題を解決するためには私たちは「深遠な実用主義」を適用しなければならない、とグリーンは論じる。「深遠な実用主義」とは、功利主義の創始者たちであるジェレミー・ベンサムジョン・スチュアート・ミルのアイデアに基づいた考えである。

「物事について最終的に問題となるのは人々の経験の質…私たちの幸福と苦痛である、とベンサムとミルは論じました」とグリーンは言う。「経験とは、規範におけるヒッグス粒子なのです…経験は、私たちが価値を見出す物事の内の非常に多くを価値付けている価値なのです。例えば、私たちが"正直さ(honesty)"に価値を見出す理由とは何でしょうか?正直さはそれ自体に価値がある、と言うことはできるかもしれません。しかし、正直さが一般的に有益なものでないとすれば、私たちは正直さに今ほど直感的なレベルで価値を見出しはしないのではないでしょうか?人々が不正直である場合、危害が引き起こされます。不正直は、私たちの人生の経験に負の影響を与えるのです。」

 しかし、深遠な実用主義をどのように実践すれば良いのだろうか?その具体的な例として、グリーンは中絶を巡る議論について話をした。

「左派の人々は、女性には"選択する権利"があると言います。そして、右派の人々は胎児には"生きる権利"があると言います。これはどちらも客観的で合理的であるかのように聞こえますが、その議論の表面よりも奥を見てみましょう。

 妊娠9ヶ月の女性には"選択する権利"があるか?大半のプロ-チョイスは"いいえ"と答えます。しかし、妊娠1ヶ月と9ヶ月の間で、何が変わるのでしょうか?胎児が苦痛を感じるかどうか?胎児が意識を持つかどうか?しかし、私たちの食べる動物たちの多くは…または、自分では食べないが他人が個人的な選択として食べることを認めている動物たちの多くは…苦痛を感じるし意識を持つようにも見える、などなどが問題になります。このことは、女性の"選択する権利"を論理的に首尾一貫して擁護することはできない、ということを意味していません。しかし、女性には"選択する権利"があるとただ単に宣言するだけよりもずっと難しい作業ではあるのです。」

 反-中絶派の議論については、グリーンは以下のように言う。彼らの議論は、最終的には、胎児には受精の瞬間から魂が吹き込まれているという形而上学的な信念に落ち着くことになる。…そして、その形而上学的な主張には何の証拠もないのだ。

 グリーンが提案する代替案とは、"権利"について果てしなく議論することを回避して(権利とは究極的には直感レベルの感情に由来しているものだ、とグリーンは論じている)、その代わりに"結果"に焦点を当てることだ。

 中絶が違法となったら、あるいは厳しく制限されたとすれば、何が起こるだろうか?幸せに養子となった赤ん坊の数が増えるのか?赤ん坊をケアすることのできない(あるいは、ケアする意志のない)両親の元に生まれ落ちる赤ん坊の数が増えるのか?中絶の数は減るのか、それとも、これまでと同じ割合の中絶が影に隠れて行われ続けられるのだろうか?

「もちろん、どちらの側にもバイアスはあります。どちらの側も、自分たちの主張する道がとられなければ酷いことが起こる、と主張するでしょう」とグリーンは言う。「しかし、意見の不一致は同じくらい苛烈であるとしても、(訳注:深遠な実用主義-功利主義と、"権利"についての議論との)違いは、最終的には答えが見出されるということにあります。その議論は証拠によって審査することができるのです。ですから、10歩進んで9歩下がるとしても、議論を進歩させることができるのです。」

 

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

 

 

アシュリー治療と「人間の尊厳」に関する、ピーター・シンガーの文章

生命倫理 倫理学

www.nytimes.com

 

 今回紹介するのは倫理学者のピーター・シンガーが2007年のニューヨーク・タイムス誌に掲載した記事。日本では「アシュリー事件」として有名な、アシュリー・Xに対する治療について肯定的に論じた記事である*1

 尚、この記事が掲載された5年後の2012年にも、シンガーはアシュリー事件に関する記事を英国のガーディアン誌に掲載している。議論の趣旨は変わっていないが情報がアップデートされているので気になる人はこちらも読んでほしい*2

 

 

「便利な真実」 by ピーター・シンガー*3

 

 ある若い女の子の身長と体重を通常以下に抑え続けるためにホルモン治療をして、彼女の子宮や乳房が発達しないようにそれらを切除するということは倫理的であり得るだろうか?この治療はアシュリーという名前でのみ知られる重度の知的障害を持った女の子に対して行われたが、アシュリーの両親や治療を行った医者や治療を承認したシアトル小児病院の倫理委員会に対する批判を招き寄せることになった。

 アシュリーは9歳( *当時)であるが、彼女の精神年齢は生後3ヶ月のそれを超えたことがない。彼女は歩くこともできず、話すこともできず、おもちゃを掴むこともできなければベッドの中の自分の位置を変えることもできない。アシュリーの両親は、彼女が自分たちのことを認識できているかどうかにも自信がない。アシュリーは通常の寿命を過ごすことができるだろうと予測されているが、彼女の精神的な状態が発達することはないのだ。

 アシュリーの両親は、彼女に治療を施したのは自分たちの都合のためではなく彼女の人生の質を上げるためだとブログで説明している。アシュリーが小さく軽いままであれば、両親が彼女を頻繁に動かすことや他の二人の子供と一緒に自分たちが行くところにアシュリーを連れていくことは可能であり続ける。子宮摘出は彼女が月経で生理痛を感じることを免れさせる。(彼女の家系では大きくなる傾向にある)乳房の成長を止めるための手術は、アシュリーがベッドで横になっている時にも胸の周りに紐をかけられて車椅子に結ばれている時にも、彼女をより快適にするのだ。

 アシュリー自身の人生を改善することと、アシュリーを扱うことが両親にとって簡単になるようにすることとの境目はほとんど存在しないとしても、前述した両親の主張は妥当である。自分たち家族の生活にアシュリーが加わることを可能にすることを彼女の両親が行うことは、アシュリー自身にとっても利益となるからだ。

 アシュリー治療に対する反論は、生命倫理学に携わっている人にとっては見慣れた三つの形をとっている。まず、一部の人はアシュリー治療は「不自然だ」と言う。…これは、大概の場合には「うげっ!  (Yuck !)」と嫌悪感を示すこと以上の意味を持たない苦情だ。私たちが自然のままでいる場合よりも寿命を延ばしたり健康を良くしたりする他のどんな医療処置も、不自然であると言って否定することは可能である。人類の歴史の大半において、アシュリーのような子供は捨てられてオオカミやジャッカルの犠牲になってきた。重度の障害を持つ赤ん坊にとって捨てられることは「自然」な運命かもしれないが、自然だからといってそれが善いという理由にはならないのだ。

 第二に、アシュリー治療を認めることは、両親の都合のために子供に対して医学的な改造を行うことが広範に行われる世界へと続く滑りやすい坂道の一歩目を踏み出してしまうことである、と一部の人々は見なしている。しかし、アシュリー治療を認めた倫理委員会は、その医療処置はアシュリー自身にとっての最善の利益であると確信していたのだ。倫理委員会に示されてきた証拠を見聞していない人が委員会の結論を批判しようとしても、その主張の根拠は弱くなるだろう。

 いずれにせよ、「最善の利益」という原則は医療処置の審査基準として正しいものである。その治療が子供たちの利益になるとすれば、アシュリーと同程度に重度の障害を持った子供たちの親たちが同様の治療へのアクセスを持つべきではない理由は存在しない。滑りやすい坂道が存在するとしても、少数の重度な障害を持った子供たちの成長を弱まらせることではなく、それよりもずっと広範に行われている、注意欠陥多動性障害と診断されて「問題がある」とされた子供たちに対する薬物の使用の方が遥かに重大なリスクをもたらしているのだ。

 最後に、尊厳(dignity)を持ってアシュリーを扱う、という論点が存在する。ロサンゼルスタイムス誌によるアシュリー治療の報道は、以下の一文から始まっている。「これはアシュリーの尊厳に関わる問題だ。この事例を調べている人の全てが、少なくともこの一点については同意しているようである」。より健康で発達の状況により適した身体を持っている方が彼女はより多くの尊厳を持つはずだ、とアシュリーの両親はブログに書いているが、批判者たちはアシュリー治療は彼女の尊厳を侵害していると考えている。

 しかし、私たちはこの議論の前提を否定するべきである。父であり祖父である身として、三ヶ月の赤ん坊は可愛らしいと私は思う。だが、その赤ん坊に尊厳があるとは思わない。そして、その赤ん坊が大きくなって年を取ったとしても、精神の状態が同じレベルのままであるとすれば、赤ん坊の尊厳には何も変化がもたらされないのだ。

 ここから、問題は哲学的に興味深くなる。人間に対しては…その精神年齢が幼児以上になることがない人も含めて…私たちはいつでも尊厳を見つけようとする。しかし、私たちはその尊厳を犬や猫には見つけようとしない。犬や猫は人間の幼児よりも発達した精神レベルを明らかに持っているのにも関わらずだ。犬猫と人間を比較するというだけでも、一部の場所では激怒を引き起こすことになる。 しかし、なぜ、尊厳があるかどうかは常に特定の生物種の一員であるかどうかということにだけ関わらなければならないのであり、個々の存在が持つ特徴には関わるべきではないのだろうか?

 アシュリーの人生について重要なことは、彼女が苦しむべきでないということであり、彼女の能力で感じることが可能な楽しい経験は感じることができるようにされるべきであるということだ*4。また、アシュリーが大切で尊い(precious)理由は、彼女がどのような人間であるかということにはあまり関わりがなく、彼女の両親やきょうだいが彼女を愛してケアしていることにある。人間の尊厳についての高尚で高慢な語り(lofty talk)は、アシュリーと同様の子供たちが彼らとその両親の両方にとって最大の利益となる治療を受けることを妨げるべきではないのだ。

 

 

 

実践の倫理

実践の倫理

 

 

 

*1:

www.afpbb.com

*2:

www.theguardian.com

*3:タイトルの意味はよく分からないが、アル・ゴアの「不都合な真実 Inconvenient Truth」のもじり?

*4:What matters in Ashley’s life is that she should not suffer, and that she should be able to enjoy whatever she is capable of enjoying.