道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

ひとこと感想:『ステレオタイプの科学:「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか』

 

 

 本の題名だけ見ると、わたしたちが"他人"に対してどのようなステレオタイプを抱いているか、わたしたちが抱く「偏見」の正体はなんであるか、ということを扱った本のようにも思えてしまうが、……実際には副題に書かれている「社会の刷り込み」のほうが本題であり、ステレオタイプがわたしたち"自身"に対して抱く影響について書かれている。つまり、「女性は男性に比べて数学の成績が良くない」「白人の方が黒人よりも成績が良い」といった社会通念がテスト問題を解くときに女性や黒人の集中力に作用して成績にもたらす影響…その名も「ステレオタイプ脅威」に関する議論がメインとなっている。著者たちは、この「ステレオタイプ脅威」を最初に実験で再現して論文化した社会心理学者だ。

ステレオタイプ脅威」はきわめて社会心理学的な概念であり、進化心理学的な概念とはある意味で対極的な概念だ。たとえば現行の社会では「女性は男性に比べて数学の成績が良くない」となっているとして、社会心理学ならその理由を「"女性は男性に比べて数学の成績が良くない"というステレオタイプ脅威がテスト問題を解く女性のパフォーマンスに影響を与えることで、女性の成績が下がり、結果として"女性は男性に比べて数学の成績が良くない"という通念がさらに強まるのだ」と説明することになる("予言の自己成就"的な考え方でもあり、実に社会学っぽい)。一方で進化心理学なら「実際に、女性は男性に比べて数学が先天的に得意ではないのだ」とか「女性と男性との間に数学の能力の本質的な差はないが、女性には理数系を避けて人文系を志向する先天的な傾向があるので、結果的に男性の方が数学の成績が高い状況になっている」という風な説明をするだろう。

 どっちにも一理あって「そうかもしれない」と思えるかもしれないし、どっちも胡散臭い説明かもしれない。この本ではステレオタイプ脅威の存在を示す様々な実験の内容がちゃんと示されてはいる。それでも、現実の社会における複雑な事象に対して、限定された環境で得られる実験結果を安易に適用し過ぎているきらいがある。進化心理学的な仮説の退け方もちょっと粗雑な気がする。

ステレオタイプ脅威」は実在しており、だからこそ平等や公正を実現するために学校や企業や社会は「ステレオタイプ脅威」を排除するための施策を行わなければいけない、という主張は真っ当であり文句の付けようもないが……女性と男性との成績格差や白人と黒人との成績格差がそれだけで説明できるかというと、やはり違うだろうとは思う。先天的な差を持ち出さなくても、家庭やコミュニティの環境や学習に関する規範、興味関心の志向性などの方がずっと影響していそうなものだ。

 案の定、「ステレオタイプ脅威」という概念や実験の手法などには批判も行われているようである*1

 

ひとこと感想:『格差は心を壊す:比較という呪縛』

 

 

 タイトル通り、経済の格差がわたしたちの心や健康にもたらす悪影響について論じて、経済格差が広がると社会的分断も広まって政治にも文化にも悪影響が生じて自然環境も悪くなって…と、とにかく「格差」がもたらす悪影響をひたすら羅列した本。

 外国のこのテの本ではたまにあるスタイルなのだが、2ページに1個か2個かの割合で、なんらかの研究結果が紹介される。だから情報量はすごくて贅沢な本ではあるのだが、羅列感が強くなり、読み物としては単調でちょっと面白くない。わたしが以前から「経済格差の悪影響」に興味を持っていてそれに関する本をいくつか読んできたために、「知ってるよ」という情報が大半であったこともマイナスだ。能力主義の幻想とか「人間は利己的である」という幻想に対して反論する章の内容も、他の本で言われ尽くされていることではあったし。

 とはいえ、経済格差がもたらす悪影響をここまで大量に示されると、圧巻の説得力はある(「他の原因で生じているかもしれない悪影響をなんでもかんでも無理矢理に経済のせいにしていないか?」と思わなくもないけど)。

 

 経済格差を問題する議論については、「金持ちが1000万円稼いで貧乏人が200万円しか稼げない社会より、金持ちが3000万円稼いで貧乏人も300万円稼げる社会の方が、後者の方が経済格差が広がっていてもみんな豊かになるんだからいいだろう。大事なのは効率性や生産性であって、平等を絶対視するべきではない」というタイプの反論をすることができる。わたしも、原理的には、このタイプの反論は間違ってはいないと思う。しかし、この本に限らずにアンガス・ディートンの『大脱出』とかロバート・フランクの諸々の本とかは、経済格差によって生じる民主主義の機能不全や人々の心身に対する悪影響を示しているのだ。お金だけの問題じゃないのである。

 

 また、この本では「格差が激しい社会では格差の下側の人だけでなく格差の上側の人の心身にも悪影響が生じる」ということが強調されている。

 格差の激しい社会ほど、能力主義が蔓延して、地位や序列に対するこだわりが強くなる。そのために人々は他人に対して心を打ち明けてのびのびと接することが難しくなるし、格差の上側にいる人も自分の地位がいつ奪われるかという不安を抱えて生きてしまうことになる。そして、ヴェブレンが論じたような顕示的消費が拡大することにより、人々は無意味なものを買うためのお金を稼ぐことに躍起になって消耗する。

 

 なお、経済格差がひどい国の代表は言うまでもなくアメリカであるが、この本のなかでは日本(と北欧とドイツ)が経済格差の少ない国の代表格のように扱われている。そのために日本の読者としてはちょっとハシゴを外されるというか、「うそん」という感じになっている。

 

 この本のなかでは第七章「上流の文化はすべて一流であるという誤解」がいちばん面白かった。

『暴力の人類史』でもおなじみ、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』でなされていた議論が紙幅を割いて紹介されるところがいい。

 また、「エリートの美的感覚は本当に客観的で優れているのか」という節も、なかなか示唆的な内容となっている。

 

審美的な感覚の世界は、階級的な偏見や差別に全くとらわれない自由な領域である。一般大衆の好みは、“下品”、やぼ、低俗、どぎつい、けばけばしい、感傷的などと評されることが多い。しかし、エリートの美的趣味は、本当に洗練されたものであり、後天的に身についた条件反射というより、客観的な美的感覚に基づいたものだと主張する人がいる。あるアクセントが“不恰好だ”と見なされる一方で、別の言葉遣いやテーブル・ナイフの持ち方が “エレガントだ”と考えられている。

こうしたどうでもよい差別は社会的差別というよりも美的感覚の問題だというのは、全くのごまかしだ。階級差別のある社会では、階層の低い人々の特徴は何であれ見下される傾向にある。行動上の特徴、皮膚の色、宗教、言語についても、社会的地位に関連する場合は同じことが言える。

(p.331)

 

 日本の場合では「箸の持ち方」に関する議論がすぐに連想できるだろう。他の国に比べたら階級の差が少ないはずの日本ではあるが、「金持ちというものは人格的にも精神的にも優れていることが多いし、貧乏人というものは人格的に精神的にも問題があるものだ」という言説は昔からよく耳に入ってくる。

 また、お正月などに放映される「格付け」番組とそのなかでのもGACKTの扱いも、考えてみると「エリートなら審美的感覚も優れているはずだ」という俗情を巧みにエンタメ化したものだと言えるかもしれない。

スティーブン・ピンカーとブラック・ライヴズ・マター

togetter.com

↑ 自分でまとめたこの件について、思うところをちょっと書いておこう。

 

●今回はスティーブン・ピンカーという大物がターゲットになったことで話題になったが、アメリカのアカデミアにおける「キャンセル・カルチャー」の問題はいまに始まったことではない。今回はBLMが直接のきっかけとなっているだろうが、他にも「セクシズム」や「イスラモフォビア」などの咎で、これまでにも様々な学者たちの講演がキャンセルさせられたり謝罪要求をされたり、大学を追われたりしてきたいう経緯がある*1。今回については、除名といってもアメリ言語学会そのものからではなく「フェロー」の立場や「メディアエクスパート」の立場からの除名を求める運動ではあるが、言語学とはほぼ関係皆無の数年前のツイートを取り沙汰してポジションを奪うことが許されてしまうのなら、萎縮効果は明白だろう。だからこそ、ノーム・チョムスキーやジョナサン・ハイトというピンカーの論敵も含めた多くの学者が、ピンカーへの除名請求に反対しているのだ*2

 

●「キャンセル・カルチャー」はBLM以前から存在しているとはいえ、実際に人が死んだことがきっかけとなって火が付いた運動であるということや肌の色による人種差別という露骨な要素が問題となっているぶん、他の運動に比べても「逆らいにくい」雰囲気が強いようだ。ちょっとでも反論をするだけで「悪人」とのレッテルが付けられてしまう傾向が、フェミニズムやイスラモフォビアの問題に比べてもさらに強いのだろう。

 日本での反応を見ていても「たしかにピンカーの言動は差別的だと言えなくもない面はあるし…」とか「差別だとは言えないとしても無神経だし、時代の流れにあっていないよね」的なコメントをちらほらと目にする。しかし、「無神経」であることとか「時代の流れにあっていない」などのなあなあな理由で、学問の自由を萎縮・抑圧しようとする潮流が看過されてしまうことこそが問題なのだ。そして、言うまでもなく、「時代の流れにあっていない」からといって「差別的」であるとは限らない。"差別"や"被害者"の定義は時代に流れとともにどんどん拡大していくので対象となる事象も増していく、という傾向はあるだろうが、その傾向がそもそもおかしいという話である*3

 

●署名運動のなかで槍玉に挙げられている、以下のツイートについて。

 

 

 批判されているのは「元記事の要約の仕方が間違っている」こと、そして「警察による人種差別の問題を矮小化している」ということだ。

 しかし、アメリカの警察が他の人種よりも黒人を多く殺害しているという事象の原因が「人種差別」であるとは必ずしも言い切れない(あるいは、「人種差別」は一因ではあるが他にも原因がある)という指摘は、数年前からちらほらとなされているところである*4。とはいえそういう反論をしている人が明らかに右翼的な人物であるという問題もあったりするし、わたしとしても自分で訳しておきながら「この議論はちょっと詭弁っぽいな」と思わなくもなかったりはする。

 ……しかし、「レイシズム」や「セクシズム」という概念の厄介なところは、「現在の社会には人種差別や性差別が存在する」ということ自体には疑問の余地がないとしても、個々の事象において人種差別や性差別がどのような経路でどのように関わっているか(そして、他の要因がどのように関わっているか)を明確に論じるのが難しいということだ。そこの細かな検証や議論を抜きにして、人種や性別が関わるどんな問題についても「レイシズムが原因だ」「セクシズムが原因だ」と言いだしたら反証可能性のない陰謀論に堕してしまう。とはいえ、どんな場面においても告発や問題提起に対して「え〜でもそれって本当にレイシズム/セクシズムが原因と言えるの〜?証明できるの〜?」と言い出す輩がいるとしたら、そいつは差別の問題を矮小化したがっている人間であることはミエミエだろう。……しかし、告発や問題提起を批判なく全面的に受け入れることもやっぱり問題であり、問題となっている事象について"冷静"で"批判的"に議論を行える場所はどこかに確保しておかなければならない。そしてアカデミアとはまさに物事について冷静で批判的に議論するために存在している制度なのであり、そこにキャンセル・カルチャーを持ち込んで主流派の見解に異議を唱えたり批判を行ったりする人を排除することは、他の業界においてよりもずっと深刻な問題となるのだ。

 

●Togetterの方に印象的なコメントがあったので、引用しよう。

 

これはかなりヤバい話、かつ決して他人事ではない。言語学だけでなく、人間を対象とした学問はどうしても科学的事実と価値判断が分離しきれない部分があるわけだが、そこを攻撃の起点にして「差別を矮小化」していると批判することで、自由に気に入らない人間を科学界から追放することが出来てしまう。

何がやばいかって、「差別を矮小化」していると批判される可能性を防ぐためには、「差別構造を喧伝」する方向にバイアスかける必要があるってこと。科学者は、研究の仮定やら解釈に多少の価値判断を入れることが出来るし、それ自体は仕方ないのだが、それが全員一方向に揃えるような強制力が働くようになる。

これによって、科学的事実とは直接関係のない価値判断がなぜかその分野の総意となり、しかもそれは科学による反証可能性がない。いまや欧米が殆どの学問を牽引している以上、日本のアカデミアもそれに従うしかなくなり、反対すればパージされる危険性もある。

 

 ピンカーについて批判的な人々の意見を勝手にまとめてしまうと、「ピンカーはデータを示して"現在は過去よりも良くなっている"ということは言うけれど、現在にまだ存在している社会問題に対するコミットメントは怠っているよね。だから、"現在は過去よりも良くなっている"という彼の主張も、差別問題を矮小化するためのものとしか思えない」というようなものになるだろう。

 しかし、そもそもピンカーが本当に「社会問題に対するコミットメントは怠っている」かどうかにも疑問の余地があるだろう。どの「社会問題」がコミットメントするに足る重大な問題であるか、という価値判断は人それぞれであるだろうし。また、高名な大学教授だからといって「社会問題に対するコミットメント」を行う義務があると言えるかどうかもわからない。……そして、ピンカーが社会問題に対するコミットメントを怠っているかどうかと、「データを見れば、現在は過去よりも良くなっている」という意見や命題の真偽とは、全くの別の話なのだ。わたしは同調圧力というものがとにかく嫌いなので、「意見の真偽とは別に、その意見を言う人が普段から"正しい振る舞い"をしていなければ、意見が認められない」という風潮がイヤである。

 運動が盛んになるにつれて「いまはこういう風潮だから」というなあなあな理由で色んな物事が決まっていくのもイヤだ。……とはいえ、社会運動とはそういうものであるし、民主主義社会が変わるためには時流や勢いの力が同調圧力が不可欠であることも否めないだろう。なので、政治なり法律なり社交界なりがなしくずしに変わっていくことは仕方がないかなとは思うし、良い面もいっぱいあるだろうとは思う(映画業界も"なあなあ"で変わっていくことに対しては抵抗したくなるが)。……しかし、アカデミアが同調圧力やなあなあで変わることだけは、認められない。特に文系のアカデミアでは差別問題に"敏感"な人も多いし、マイノリティへの配慮を欠かさない心優しい善人も多いのだろうが、たとえ善意を理由にしていようが、意見の多様性や反主流派の価値観をアカデミアから排除することは本末転倒なのだ。

 

わたしがこれまでに書いてきたピンカーに関する記事の例:

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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*1:ピンカーの件と同じくわたしが4年前にTogtterにまとめた、リチャード・ドーキンスの件とか。また、アメリカのアカデミアのポリコレパージの問題については、数年前に記事を集中的に訳して投稿していた。

togetter.com

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econ101.jp

*2:騒動の直後に出された、チョムスキーやハイトその他多数の学者が署名している、「公正と公開討議についての書簡」

harpers.org

*3:

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*4:

davitrice.hatenadiary.jp

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tarafuku10working.hatenablog.com

フェミニズムを素直に受け入れ過ぎ(ひとこと感想:『女性のいない民主主義』)

 

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

 

 日本の民主主義における「女性不在」の問題について、参政権や政策、投票行動や立候補などの問題に細かく分別しながら、「ジェンダー論」や「フェミニズム」という分析枠組みを用いて問い直す本だ。古典的でベーシックな政治学の用語や理論に関する説明をしつつ、既存の政治学ジェンダーや女性という問題をいかに無視してきたか、という批判が主となっている。

 著者の主軸というか得意分野はジェンダー論よりも政治学の方にあるらしく、政治学の理論や用語の整理の仕方は実に上手である。また、ジェンダー論やフェミニズムに関しても、論者によって意見が大きく分かれるような内容や突飛な内容にはあまり踏み込まずに、あくまでベーシックでけっこう古典的なタイプのフェミニズム的枠組みを採用している。そのために内容は無難なものとなっており、この本で展開されている主張の大半については「まあそうだな」と納得できるものとなっている。「ジェンダー規範」に関する議論というものは深掘りすればするほどどんどんと反論不可能な陰謀論に堕していって非生産的なものになっていくのだが、この著書では浅い部分の議論にとどめているところが成功の秘訣だ。日本における女性議員の少なさの議論についても、ジェンダー規範の問題に触れつつも結局は「日本の女性議員数が他の先進国よりも低い水準にあることの原因として見逃せないのは、ジェンダー・クオータが導入されてこなかったことにある」(p.200)と制度の問題に着地させているところが穏当で好感が抱ける。

 一方で、たとえばシュンペーターやロバート・ダールなどの大昔の人々の理論について「女性の参政権という問題を無視しているために民主主義の尺度は不当だ」と批判するのは、そりゃそうだけどいまさらそれを言ってどうなるの、という感じである。ほかにも「その問題はもうみんな知っているよ」ということを殊更にあげつらっている箇所が目立つ。女性が政治討論に参加しづらい理由の説明にレベッカ・ソルニットの「マンスプレイニング」概念を用いているところも気にくわない。「既存の政治学理論に対するジェンダー論・フェミニズム的観点からの批判」に紙幅を割くあまり、「日本の政治における女性不在」の問題について分析しているページ数が少なくなってしまっているところも残念だ。

 また、フェミニズムジェンダー論の標準的見解をあまりに素直にそのまま受け入れているので、全体的にリアリティや生々しさが欠ける。「フェミニズムジェンダー論ではこういう風な主張がされているけど、でも、本当にそうか?」という再批判や葛藤をした様子が全く感じられないのだ(特に、「おわりに」にてアニタ・サーキシアンの議論が持ち出されるところはかなり白けてしまう)。そのため、(わたしのように)元々からフェミニズムジェンダー論に対してうがった見方をしている読者を説得することはできないし、かと言ってフェミニズムに好意的な読者からすれば知っていることばかり書かれているということになってしまっている。

 

 著者の「素直さ」については、「おわりに」に書かれている以下の部分が関係しているのかなと思う。

 

誰にとっても、自分とは違う角度から世界を捉える視点に接することは、新鮮な驚きをもたらすに違いない。ジェンダーの視点を導入すると、これまでは見えなかった男女の不平等が浮き彫りになる。今までは民主的に見えていた日本の政治が、あまり民主的に見えなくなる。男性として、極めて標準的な、「主流派」の政治学の伝統の中で育った著者にとって、フェミニズムとの出会いは、そうした驚きの連続であった。

想像もしない角度から自分の世界観を覆されることは、反省を迫られる体験であると同時に、刺激に満ちた体験でもあった。

(……中略)

一度、ジェンダーの視点をあらゆることに適用できることが分かると、世界の見え方が違ってくる。

(……中略)

ジェンダーの視点から眺めることで、世界の見え方がこれほど変わるのならば、そのことを最初から知っておきたかった。

(p.208-209)

 

 著者の生まれは1980年ということでわたしより一回り上だから、もしかしたら世代的な問題かもしれないが、現代の日本で文系の学問に携わっておきながらある時期までフェミニズムジェンダー論に触れることがない、ということがちょっと信じられない。一般教養の科目にもあるだろうし、図書館の本棚にも並んでいるし、文学や映画にも関わってくるし、テレビで取り上げられることはあまりないとしてもネットをすればいやでも見かけるものだろう。ましてや、著者が通った大学は東大だ。

 ……とはいえ、自分が大学院にいた頃を思い返してみると、博士課程まで進学するような学生ほど自分が専攻しているもの以外の学問になんの興味もなかったり、「最短コース」で博士論文を書くようにするために論文に役立たない余計な理論はシャットアウトする、という人はいたような気がする。また、政治学に限らず哲学などでもそうなののだが、「主流派」に浸っていた人がたまたまフェミニズムやポストコロニアリズムとか人種問題とかの観点からの批判に触れてしまいショックを受けて"懺悔"して全面降伏する、というルートをたどっていそうな人はちらほらと見かけるものだ。

 修士課程までは終了したとはいえ何かしらの学問の「主流派」とか「専門性」とかにはけっきょく触れられずじまいだったわたしとしては、アカデミアの大半がこういう人たちで占められているらしいことには未だに不思議さを感じたりする。

労働から逃避したところで幸せになれるの?(読書メモ:『隠された奴隷制』)

 

隠された奴隷制 (集英社新書)

隠された奴隷制 (集英社新書)

 

 

 本のタイトルはマルクスの『資本論』に出てくるキーワードであり、この本の内容もマルクス主義的なものだ。

 第一章〜第三章では、ロックやモンテスキューからはじまってアダム・スミスヴォルテールヘーゲルなどの哲学者たちが「奴隷制(黒人奴隷制)」についてどんなことを言っていたか、というあらましが紹介される。そして、第四章では、マルクスの書いた「隠された奴隷制」とは何を意味していたのか、という詳細が明らかにされる。

 第五章や第六章では現代社会の労働や資本主義について話が移る。この本の結論としては、一見すると自由で自発的に生きている現代の賃労働者たちが働く環境も、けっきょくは「隠された奴隷制」であるに過ぎない、というものだ。

 個人的な感想としては、第四章までには思想史的な面白さがあった一方で、第五章以降はお決まりの新自由主義批判やアナキズム賛歌という感じで面白みがなかった。マルクス主義なら現代の労働環境についてはそりゃこういうこと言うだろうな、としか思わないし、終章の章題「私たちには自らを解放する絶対的な権利がある」も、そう言われてもそれができないんだから苦労しているんだよ、という感じである。

 

 前半の章を読んでいて特に印象に残るのは、過去の哲学者たちが黒人奴隷に対していかにひどいことを言っていたか、ということだ。特にモンテスキューの言っていることがひどい。一方でアダム・スミスヴォルテールなんかは黒人奴隷に対して同情的であったり黒人を讃えていたりして、さすがと言う感じだ(讃えることに対しても「高貴な野蛮人」的な幻想だ、と批判することはできるが、当時の時代的制約を考えるとそこまで言うのは完璧主義的過ぎて酷だろう)。

 また、アダム・スミス奴隷制は非人道的であるだけでなく非合理的で非経済的であるとも論じている。スミスの議論のなかでも特にわたしの印象に残ったのは、以下の箇所だ。

 

財産を取得できない人は、できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない。奴隷自身の生活資料を購買するのに足りるだけの量以上の仕事は、暴力によって彼からしぼりとることしかできないのであって、彼自身の利害関心によってではない。

(p.64)

 

 奴隷制を批判する一方でスミスは「自由」な労働者たちによる労働を讃えるわけだが、その自由であるはずの賃金労働者たちはけっきょく色々と搾取されていて不自由である、というのがヘーゲルマルクスの批判だ。たとえば、ヘーゲルは、労働者たちが「広範な自由の感得と享受が不可能になること、そしてことに、市民社会の精神的長所の感得と享受が不可能になること」(p.98-99)を指摘している。そして、マルクスは、賃金労働者もかたちを変えた奴隷でしかないことを示す。

 

社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えずくり返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。

(p.141)

 

 五章における「自己責任論」批判や「新自由主義」批判については、特筆すべきものはない。その批判が間違っている間違っていない以前に、「その話はもう百万回くらい聞かされたよ」といううんざり感が先だつ。

 六章では経済史学者のケネス・ポメランツのあとに、アナーキズム系の人類学者であるジェームズ・スコットやデビッド・グレーバーの主張が紹介される。そして、ここでアナーキズムや人類学という言ってしまえば胡散臭い主張にはしってしまうことで、四章までは淡々と思想史を整理していたこの本は途端に現実味をなくして夢物語のような主張を行うようになってしまう。たとえば、以下のような箇所だ。

 

今一度、スコットが挙げる「底流政治」の具体例を書き写してみよう。それは、「だらだら仕事、密漁、こそ泥、空とぼけ、サボり、逃避、常習欠勤、不法占拠、逃散といった行為」だった。それにハートとネグリの「脱出」の具体例を重ねてみる。「妨害行為や共同作業からの離脱、さまざまな対抗文化の実践、全般化された不服従」。

私たちに密漁や不法占拠をする機会があるかどうかわからないが、だらだら仕事、空とぼけ、サボり、常習欠勤、不服従、といった行為なら、今すぐにでもできそうな気がする。これが現在もっとも手近で現実的な資本主義からの「脱出」の方法であり、ハートとネグリに言わせれば、労働者による「階級闘争」の一形態なのである。

(p.221)

 

 終章の末尾にはこんなことが書かれている。

 

しかし、一日の労働時間を短縮すること、これはユートピアではない。自分たちが暮らしていくために必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ一時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

(p.251)

 

 言っていることは、一概に間違っているとは言えない。また、長時間労働によって過労死する人が続出する日本社会の労働環境の問題を、著者が真剣に憂慮していることは伝わってくる。要するに「自己責任論は資本家にとって都合のいいイデオロギーであり、労働者は一見すると自由であっても資本主義のもとでは搾取される奴隷に過ぎない。だから、自己責任論を真に受けず、仕事に責任感をもったりコミットしたりし過ぎないようにして、"いつでも逃げてもいいんだ""労働に縛られる必要はないんだ"と思えるようになろう」というのが、この本のメッセージであるのだろう。

 …しかし、博士課程を出て教授にまでなれた著者にこんなことを言われても、「所詮は一般労働者の現状を他人事だと思っているから好き勝手に言えるんだろう」と思わなくはない。

 

 たとえば、労働を通じた自己実現や仕事へのコミットメントを避けるだけでなく、「労働によって自己実現したり労働へのコミットメントが大事だという考え方は、雇い主の側である資本階級にとって都合のいいイデオロギーだ」というタイプの主張は、マルクス主義アナーキズム人類学を通過しなくとも、現代に生きるちょっと賢くしてちょっとひねくれている若者たちならTwitterで日々つぶやいているようなものである。

 問題なのは、だからと言って労働から逃避したり労働へのコミットメントを避けたところで当人が幸せになるとは限らない、ということだ。過労死するほどの長時間労働をしている人なら、そりゃ労働から逃げたりコミットメントを減らしたりするべきだろう。しかし、日本で長時間労働が慢性化しているとしても、長時間労働をしている人たちのみんながみんな過労死ラインで働いているわけではない。そして、マルクス主義的には「奴隷制」と断定される賃金労働であっても、それにコミットして昇給したり役職を得たりして家族を築いたり自己実現をしたりできる人の方が、労働へのコミットメントを避けて労働から逃げ続けたがために昇給もできずうだつのあがらないまま底辺を這いつづける人よりも幸せになる……というのは、充分あり得る話である。

 アダム・スミスが過去の黒人奴隷について書いたような「できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない」という働き方をしている人は、現代のわたしの周りにもちらほらといる。スコットが挙げるような「だらだら仕事」や「サボり」だって、わざわざアナーキストにいわれなくても、現代の大半の労働者が隙あらばやろうとしていることだろう。資本家もバカではないのでだらだら仕事やサボりを監視して懲罰を食らわす仕組みを作り続けるが、一部の賢い労働者はその仕組みの合間を縫って新たなかたちでのサボりを実現する。

 しかし、サボったりダラダラしたりしていても、最低でも8時間は職場に拘束されることに変わりはない(最近ではリモートワークの浸透でそれも変わりつつあるが)。大概の人間には良心があるし、サボったりダラダラしたりしてやり甲斐のない無益な時間を毎日過ごすということは労働そのものの辛さとは別のストレスを発生させるものだ。それよりも、多少は仕事にコミットしてちょっとは残業するくらいの方が、職場の人間関係もよくなったり自分の精神も安定したりして、結果としてそちらの方が幸せになることが多いだろう。サボっていたら社会的立場も上がらないし、大人になってもただ仕事時間中にダラダラすることだけを考えて生きている人間は浅薄で中身のない人間に成り下がる。趣味や副業や投資などの他のかたちで成果を出したり自己実現をしたりできている人であったり、あるいはベーシック・インカムが実現できている社会であったら話は別かもしれないが、そうでない場合はたとえ「奴隷制」であっても労働から逃避することは得策ではない。だいたいの人は後悔する羽目になるし、そうでなくても周りの人からは愛想を尽かされるようなことになるだろう。

 労働や仕事というものには、やりすぎたら幸せになれないがやらなくても幸せになれない、というジレンマが付きまとう。市井で働いている人の多くはそのジレンマを日々体感しながら生きているのだ。そのような人たちにとっては、長時間労働による過労死という極端なケースにばかり注目して労働者たちを憐れみ「自己責任論の虚偽」なんかを諭してくれる経済学教授のセリフも、アナーキスト社会を夢想する人類学者のアジテーションも、何の役にも立たない。こういう議論をありがたく思えるのは、若い学生かその延長線上な人生を生きているアカデミシャンか、いつまでも若者気分なアダルトチャイルドくらいのものである。

ひとこと感想:『日本人のためのイスラエル入門』

 

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

日本人のためのイスラエル入門 (ちくま新書)

  • 作者:洋, 大隅
  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書
 

 

 著者はアカデミックな人物ではなく、外務省に入って在イスラエル日本大使館公使を数年間務めた経験のある外交官。というわけでこの本の内容もアカデミックなものではない。イザヤ・ベンダサン山本七平)の本が引用されていたり、俗っぽくてステレオタイプ的な「ユダヤ人論」や「日本人論」が多かったりするのは気になるところだ。

 しかし、「入門」というタイトルは伊達ではなく、近年のイスラエルの政治・経済・社会の状況がまんべんなくまとめられている。イスラエルといえば建国の歴史的経緯とパレスチナや中東諸国との紛争ばかりが取り上げられがちだが、いろんな本やニュースで散々聞かされているその話題は最小限に抑えている。その代わりに、「一般的なイスラエル人の国民性はどのようなものであるか」という話題に紙幅を割いたり、「徴兵の経験がイスラエル人のキャリアやコミュニティに及ぼす影響」について記したりなどと、しばらく現地に住んで社会生活を送っていた人ならではの地に足の着いた話題が論じられているところが特徴だ。「スタートアップ・ネーション」としての、近年のイスラエルの経済面での特異性や強みについて論じている箇所も参考になった。

 徴兵制度の存在や経済合理性ありきの理系に偏重した教育がなされているところなどは、韓国やシンガポールを思い出す。小国が経済的に発展して世界で存在感を放つためにはそうならざるを得ないものかもしれない。そして、ユダヤ教超正統派の存在もあって少子化に悩まされない点は、他の先進国にはないイスラエル独自の強みと言えそうだ(とはいえ、徴兵を拒否する権限も持つ超正統派が人口に占める割合が増えることはイスラエルに社会分断をもたらすリスク要因でもある、ということもこの本では指摘されているのだが)。

 しかしまあ上述した通り内容にはアカデミズムのかけらもなく、著者の駐在体験に基づいた個人的な感想や独断としか思えないものも多くて、その内容がどこまで信頼できるかどうかはわからない。「イスラエルが平和になって徴兵制がなくなったらイスラエル人という共同意識がなくなって国家がバラバラになってしまう」みたいなことを論じている箇所も(p.127)、よその国のことだからって好き勝手なこと言うな、と呆れてしまった。終盤で日本の多神教の伝統がどうこうと言い出して比較文明論を述べはじめるところも失笑ものだ。……しかし、たとえば外交官としてどこかの国に数年間駐在して仕事をするうえで、その対象の国や自分の出身国についてのアカデミックな意味で"正確"な知識は必ずしも必要とはされない、むしろ生活や仕事や社交のためにチューニングされた多少雑で大雑把な知識の方が有用である、ということなのであろう。

ひとこと感想:『家族と仕事:日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』

 

 

 日本社会の少子化の原因を、日本の労働・雇用の環境や福祉制度などの特殊性に注目しながら分析する本。少子化の解決には男女共働きと育児との両立支援が必須となるが、女性の社会進出は「大きな政府」で社会民主主義路線な北欧諸国でも「小さな政府」で自由主義路線なアメリカでも成功しているのに日本(やドイツやイタリアなどの保守主義的国家)では成功していないということから「大きな政府/小さな政府」という二元論を棄却して、日本に独自の問題を冷静に見つめる……というあらましだ。 

 結論としては、無限定的で長時間労働な働き方をするメンバーシップ型な総合職正社員を前提とした男性稼ぎ手モデル、そして福祉を家族と企業に委ねる政策が長く続いた結果として女性の社会進出や両立支援が阻害されて少子化がどんどん進行してしまったので、それを是正する必要がある…という感じの主張がなされている。

 日本型雇用の問題点とか非正規雇用の増加の問題点とか女性にとっての働きづらさとか男女の家事分担の不公平性とか、多くの人々が関心を抱いていたり悩まされていたりしてネットでもよく取り上げられるような話題の数々が論じられているが、さすが社会学の専門家だけあって、それぞれの話題をうまく関連させながらも的確に分析して一本筋の通った議論をすることに成功している。

 たとえば、ケアワークを市場や政府に担わせることを拒否する「家族主義」を唱えてきたせいでアメリカや北欧諸国に比べても育児も介護もキツくなり家族が壊れてしまった、という皮肉な結果が示されている点がなかなか面白い。「二項対立で考えない」ということを強調しながらも決して事なかれ主義的で両論併記な内容にはなっておらず、メンバーシップ型の雇用からジョブ型雇用への移行が急務であると論じられていたり「女性は家庭に入れ、と言って少子化を解決しようとするのは現代では不可能」という旨のことが書かれていたりなど、言うべきことはきっぱり言っている点が好ましい本である。

 また、この本の本題からはズレるが、「家事」に対する男女の価値観のすれ違いについて書かれているところが印象深かった。

 

結婚後、夫に家事負担を引き受けてほしい女性は、結婚相手の一人暮らし経験を気にするかもしれない。つまり、一人暮らしの経験が長い男性はその分だけ自分で家事をしてきたわけだから、結婚しても家事を率先して引き受けるだろうし、それなりの品質の家事をしてくれるだろう、と考えるわけだ。しかし必ずしもそうとは限らない。というのは、実家にいて母親から質の高い家事サービスを受けているうちは「食事や掃除の質はこうあるべき」という水準が高くキープされているかもしれないが、一人暮らしを長く続けていくうちにその水準がどんどん下がってしまい、食事も栄養の偏った簡単なもので済ませたり、掃除もいい加減にしかしない、という状態で落ち着いてしまう可能性があるからだ。

何にせよ、やっかいなのは夫婦で家事サービスの質に対する希望水準が一致しないときである。長い一人暮らし経験のなかで希望水準が下がってしまった夫が提供する、質の低い家事サービスに妻が苛立つケースは容易に想像できる。逆に、実家暮らしで専業主婦の母親がしてくれた質の高い家事サービスをそのままフルタイムで働く妻に期待してしまう夫に対して、妻が苛立つケースもありそうである。もちろん妻の側が夫に期待する家事の品質があまりに高すぎる場合にも、こういった不一致が生じることはいうまでもない。

仕事(賃労働)においては、労働の質についての希望水準の不一致は自然と解消されることが多い。……(中略)しかし夫婦のあいだではそういった調整が働きにくい。夫婦どちらの側も、自分の基準のほうが妥当だと思いがちである。商取引と違い、公平な条件で他の人と比べたうえで適正な基準が共有されるようなプロセスは不在である。……(中略)自分の家事の品質に対して妻にケチをつけられたと感じる夫からすれば、「友人の○〇君はもっと家事が下手だけど、奥さんは文句なんていってこないよ」と言いたくなるわけだ。

(p.182-183)

 

 ところで、育った家庭の環境を始めとする諸々の事情から、日本に30年以上住んでおりながらもわたしには「日本型雇用」や「総合職正社員」や「男性稼ぎ手モデル」というものにさっぱり馴染みがない。わたしの家族はそれらとは無縁の働き方をしていた(している)し、周りの知人でもそういう働き方をしている人は少ないし(非正規雇用の知り合いが多いという点もあるが)、自分もまあこれからも「総合職正社員」には縁がないだろうと思う。だから、ある時期までの日本社会ではスタンダードであり当たり前とされていたこれらの制度やモデルも、わたしにとっては縁遠い他人事だ。せいぜいが、昔の漫画や映画などに登場するサラリーマンのキャラクターなどを見て「これが日本人のスタンダードな働き方なんだな」と察するくらいである。

 というわけで、この本は自分にとっては微妙に異郷な世界における「常識」を、当たり前のものとはせずに基礎的なところから解説して分析してくれる、という点でもタメになった。