道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「動物の権利」と「人権」は対立する?

 

togetter.com

 

 くどいようだが、この件に関するはてなTwitterなどでの反応を眺めての雑感。

 

 今回の件に限らず、動物の権利運動に対する批判としてちらほら見られるのが、「動物に権利を与えると人権という概念の理念が損なわれる」あるいは「動物に対して道徳的配慮を行うようになると、人間全体に対する道徳的配慮が後退する」といったものだ。

 だが、このような批判は理論的にも事実的・歴史的にも間違っているように思われる。

 

 理論的に言えば、動物の権利運動のスタンダードなロジックはその他の権利運動・反差別運動とほぼ同じものであるといえる。たとえば反レイシズム運動が批判の対象とする「人種差別」とは、「白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しない」などのことであると表現できる。フェミニズム運動が批判の対象とする「性差別」とは、「男性の利益を“男性だから”という理由で 優先して、女性には“女性だから”という理由で配慮しない」ことであると表現できる。そして、動物の権利運動が批判の対象とする「種差別」とは、「人間の利益を“人間だから”という理由で優先して、動物には“動物だから”という理由で配慮しない」ことを指す。

 動物の権利運動に対して、「いいや、人間は“人間である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“人間である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても、反論として成立しない。それは、反レイシズム運動に対して「いいや、白人は“白人である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“白人である”という理由で権利を持っているのだ」と言っても反論にならないことや、フェミニズム運動に対して「いいや、男性は“男性である”という理由で配慮の対象とされるのであり、“男性である”という理由で権利を持っているのだ」 と言っても反論にならないことと同じだ。

 それに対して、「“なぜ“人間は権利を持っていて動物は権利を持たないか」ということを説明することによって反論しようとしてくるかもしれない。だがDNAを持ち出しても同語反復となるし、知能や言語能力、権利主張能力や契約能力などを持ち出すと限界事例の人たち(乳幼児や重度の精神障碍者など)にも人権がないことになってしまう。「人間は肉を食べるように進化した」などと言い出しても自然主義的誤謬だし、「差別かもしれないがそれの何が悪いんだ、私は差別を肯定する」などと開き直ってもそれはただの思考停止だ。結局、この問題についてまともに理論的に考える気のある人なら、動物にも人間と同様に何らかの権利(または、道徳的地位)を認めざるを得なくなるだろう。「じゃあ参政権まで動物に与えるのか」とか「じゃあ細菌や植物にも権利を認めなくてはならないのか」とか言い出す人も出てくるだろうが、そのテの反論に対する答えはこのブログの「動物倫理」タグの記事でいくらでも書いたり訳したりしてきた。

・・・ともかく、権利という概念や「なぜ人間は道徳的配慮の対象とされるべきなのか?」ということについて考えていけば、それを動物にも拡大しないことを正当化するのはかなり難しいということが明白になる。また、「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“人間だから”という理由で全ての人間に権利が与えられているのだから、そこに動物を持ち込んで人権という概念を貶めるべきでない」というのも筋が悪い。フェミニズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“男性だから”という理由で全ての男性に権利が与えられているのだから、そこに女性を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた男性がいっぱいいただろうし、反レイシズム運動に対しては「理屈に筋が通っていなかろうが、せっかく現に“白人だから”という理由で全ての白人に権利が与えられているのだから、そこに黒人を持ち込んで権利という概念を貶めるべきでない」と思っていた白人がいっぱいいただろう。

 懸念事項としては、動物の道徳的地位を主張する理論のなかでも最も代表的なピーター・シンガーの理論には障碍者差別の要素があるとの批判がなされているということと、マイノリティの文化を弾圧するために動物の権利が持ち出される場合があるということだろうか。しかし、前者については(そもそもシンガーの理論は障碍者差別であるという批判が妥当であるかどうかは置いておいても)、動物の道徳的地位と障碍者の道徳的地位を結び付けたり包摂して論じたりする理論も多数存在する(日本語で読めるものとしてはマーサ・ヌスバウムの著書『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』などがある)。後者についても、多文化主義の代表的な論客であるウィル・キムリッカは著書『人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論 』にて動物の権利についても主張しているし、女性の権利を初めとした他の人権であってもマイノリティの文化を弾圧するために持ち出される場合はある、ということも指摘している。

 

  また、歴史的・事実的な問題としても、動物の権利運動が他の反差別運動・権利運動を後退させたり、ある国で動物の権利なり道徳的地位なりが制度的に認められることがマイノリティの人権を損なう、ということはないように思われる。

 ナチス政権下における動物愛護政策などの例外があるとはいえ、基本的には、マイノリティへの人権拡大と動物への権利や保護の拡大は歩調を合わせていることの方が多い。たとえば、スティーブン・ピンカーの著書『暴力の人類史』では、アフリカ系アメリカ人などの人種マイノリティ・女性・児童・同性愛者などのマイノリティの権利が特に20世紀後半に各国で認められるようになり、それらのマイノリティに対する暴力が減少していったことを「権利革命」現象と称して論じており、そして動物保護運動や動物の権利運動も他のマイノリティの権利に関する運動と同時並行的に起こったことが記されている。また、たとえばアメリカの最初期の動物の権利団体の創始者たちは奴隷解放運動や女性の権利運動にも関わっていたし、動物の権利団体から派生する形で児童の権利団体が創設された。現代においても、欧州やアメリカの都市部など、基本的にはリベラルでマイノリティの権利保護に対する意識が高い地域の方が動物保護政策や動物の権利運動に対する意識も高いといえる(スイスでロブスターの福祉に関する法律が制定されたことに対して「行き過ぎたポリコレ」「ポリコレの行き着く先だ」という反応が散見されたが、ポリティカル・コレクトネスとは基本的にはマイノリティの保護・権利擁護を目指すものであることをふまえれば、このような反応自体が動物の権利概念と人権概念との親和性を示しているともいえるだろう)。シンガーは『輪の拡大』にて個人や社会が道徳について理性的に取り組めば取り組むほど道徳的配慮の対象はマイノリティや動物へと拡大していくと説いたが、『暴力の人類史』やマイケル・シャーマーの『道徳の弧』は歴史的事実を記しながらシンガーの主張を立証した本であると見なすことができる。

 上記したようなことをふまえれば、「動物の権利を支持すると、人間のマイノリティの権利が後退する」といったゼロサムゲーム的な社会運動観や権利観は持つ必要がないであろうと思われる。

 

 私はいわゆるインターセクショナリティ理論は嫌いであるし、「ある特定のマイノリティの権利を支持していたり、ある特定の社会運動に取り組んでいる人は、その他のマイノリティの権利や社会運動も積極的に支持しなければならない」というタイプの言説は苦手である。ある人がどういう問題に対して意識的・積極的に取り組むかというのはその人の個人的な生い立ちや人生経験や興味関心などに左右されるものだし、全ての問題に関心を持って積極的に取り組まなければ本物の左派/フェミニストではない、というタイプの主張は非生産的な気がする。

 しかし、少なくとも理論的に見れば、動物の権利や道徳的地位を積極的に否定したり消極的にも肯定しないことは、マイノリティの権利を支持したり左派でありたいと思っている人々にとってはまずいことであると思う。種差別に対する批判はロジックのレベルでは性差別や人種差別に対する批判と同型であるし、動物の権利運動に対して投げかけられる批判や非難は多かれ少なかれ人間のマイノリティの権利運動に対しても転用できるものだからだ。

 

 最後に、以前にも紹介した、動物の権利の支持者でもありフェミニストであるローリー・グルーエンがアメリカでの黒人男性サミュエル・デュボースの射殺事件とアフリカでのライオン「セシル」射殺事件について書いた文章を抜粋して紹介しておこう。

 

 …ショックや悲しみに恐怖の感情がメディアで表現されたのとほぼ同時に、それらの感情に対する批判が登場した。その批判はいつも通りのものだった:白人は黒人よりもライオンのことを気にかける、人々は黒人男性よりも黒人女性の方を気にかける、家畜よりも野生動物の方を気にかける、貧困や暴力や差別による日々の苦しみよりも殺人の方を気にかける、などなど。

 

「ある一つの不正義に対して抗議することは、その不正義を他の不正義に比べて特別扱いすることだ」というゼロサムゲーム的な考え方について、私は常々疑い深く思っている。これは、社会を変革するための努力を貶める、手軽で的外れな言説だ。世の中を良くしようと戦っている人たち同士が争っていたら、誰が得するだろうか?自分自身が保持している人種的な特権や性的な特権を手放す気の無い、世の中を理想的でない状態のままにしていたいと思っている人が得をするのだ。…

 

  

動物倫理入門

動物倫理入門

 

 

 

 

左派は動物の権利を支持するべきか?

 

 

togetter.com

 

 このTogetterに関わる論点として、数年前に要約して翻訳して紹介した ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンの論文「動物の権利、多文化主義、左派」から一部抜粋して紹介してみよう(手抜き記事である)。

 


 現在、米国の動物の権利運動は「左派の孤児」と表現される境遇になっている。進歩的左派は女性・同性愛者・障害者・移民・人種マイノリティ・先住民などの権利を守るために、社会的正義や少数者の市民権を主張する運動を行ってきたが、動物の問題はラディカルな環境運動のなかで多少注目される程度で、左派の運動のなかでは無視されてきた。この傾向は19世紀から続いてきたものであり、左派は動物に対する人間の暴力を無視し続けてきた歴史がある。

 

・・・現在では、フェミニズム運動・障害者運動・多文化主義運動などの影響により、左派は「人間の価値は合理性や知性や能力にある」という考え方を拒否するようになり、人間の様々な生き方に価値を見出すようになった。

 左派の考えがこのように変わったことは、本来なら、動物のための運動に繋がるはずである。動物と人間とを別け隔てる能力である合理性や知性を重視するデカルト的な考えが否定され、感情や依存性や脆 弱さなど、人間だけでなく動物も備えているような要素が新しく注目されるようになった。他者とのケア関係を価値を見出す「ケアの倫理」、多種多様な生き方 を開花させることに価値を見出す「ケイパビリティ」の考え、人々が独立していることではなく依存していることに価値を見出す障害学理論など、新しい考え方のいずれもが、動物に対しても適用することのできる考え方であるし、実際に動物に対して適用した理論家たちも存在する。しかし、左派の大半は、依然として動物に対する人間による暴力を無視している。

 左派が動物の問題を無視している理由の一つとして考えられるのが、人間を動物よりも特別視する一神教の考えを、意識的には否定していても、育った文化のために影響を受けてしまっている、ということである。もう一つの理由として、動物の権利の考えを実践しようとすると、肉料理や革靴を消費することを諦めるなど、自分自身の生活に不便で苦痛をもたらす変化を導入することになるから、そのような不都合を避けるために動物の権利の考えを無視してしまう、ということである。動物の権利に関係する文化的な影響や個人的な生活の影響は、同性愛者や障害者の権利に関係する影響よりも大きいものと思われる。左派といえども、人間を特別視する文化や自己利益には影響を受けてしまうのであるから、自分たちが主張している理論にもかかわらず動物の問題を無視してしまう。

 しかし、動物の権利を拒否する理由として、文化的影響や自己利益ではない、 左派ならではの理由も存在すると考えられる。それは、「動物の権利を擁護することは、その他の社会的弱者による闘争を侵害してしまうことに繋がる」という認識である。以下では、この認識が妥当であるかどうかを確かめ、左派が動物の権利を無視することを正当化する理由が本当に存在するのかどうかを議論しよう。

 

・・・「入れ替え/排除 (Displacement)」と「矮小化」が、左派が動物の権利を警戒する理由として考えられる。

 

 入れ替え/排除:左派が動物の権利の問題に時間や資源を投入すると、人種差別など他の問題についての闘争に費やされる時間や資源が失われる、という懸念。これは、他の多くの マイノリティの運動に対しても投げかけられてきた、ありがちな批判でもある。例えば、階級闘争をしている運動家は、女性差別や人種差別に反対する運動家に 対して、時間や資源を流用しているとして批判していた。

 しかし、現在の左派の多くは、社会正義を求める闘争はゼロサムゲームではないと見なしており、ある不正義を新しく取り上げることは、それまで取り上げられていた不正義を目立たなくさせるのではなく、正義一般の存在感を社会で目立たせることに繋がる、と考えている。また、多くの不正義は同じようなイデオロギーや構造に基づいて行われており、それぞれに繋がっているのだから、ある不正義を新しく取り上げることは、不正義全般と戦うのに有益である。他の運動を批判するのではなく、運動同士の共通点や交差点に注目して連帯するべきだ、というのが現在の左派の考えであり、動物の権利運動家は自分たちの考えを左派の考えの延長線上にあると見なしている。

 

 矮小化:左派の行動の対象に動物を含めることは、現在培われている正義を貶め、人間に対する不正義の深刻さを矮小化させる、という懸念。動物の「抑圧」や「奴隷化」について声を上げることは、人間に対する「抑圧」や「奴隷化」の深刻さを貶めてしまう、という考えである。

  この「矮小化」という懸念は、二つの種類に分けられる。一つ目の懸念は哲学的なものであり、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも実際に高いのだか ら、人間に対するそれと比べて重要性の低い動物に対する虐待や差別の問題と人間の問題を結び付けようとすることは、人間の問題の矮小化である、という考えである。しかし、人間の道徳的地位は動物の道徳的地位よりも高いという主張は、先述した理性中心主義やマルクス的な能力主義ユダヤ-キリスト教的な考えであ り、現在の左派には受け入れられるものではない。

 二つ目の懸念は哲学的なものではなく、社会正義の問題に動物の権利が関わるようになったときに起きるかもしれない事態に対する懸念である。動物の権利が社会的に受け入られるようになり、人間と動物との道徳的な境界が曖昧になると、抑圧された人や社会的弱者の権利の根拠が崩れしまうかもしれない、という考えである。社会的弱者が存在を認められる権利は、常に危険に晒されているからこそ、常に守 られていなければいけない。人間と動物を分け隔てる道徳的なヒエラルキーは、「人間であるから」という理由で社会的弱者の権利を認めさせることができるので、必要である。哲学的には擁護できない考えだとしても、人間の動物に対する優位を認めることは社会的弱者の権利を認めさせるのに最も有効な手段であるという主張は、多くの人が妥当だと考える。

 しかし、証拠は逆のことを示唆する。人間と動物とを分別すればするほど、移民などの外集団の人間 が非人間化されるのである。「人間は動物よりも優れている」という信念は「ある人間の集団は他の人間たちよりも優れている」という信念に繋がっている。そのことは心理学の研究でも実証されている。人間の心理的な機能の多くは、動物に対するネガティブな態度と外集団の非人間化を繋げさせる。逆に、動物の感情 や特徴を認められる人たちには、外集団の人間についても平等を認められる人が多い。人間と動物との地位の分断を抑えることは、人間集団間での偏見を減らして平等を促進することに繋がる。人間を特別視させるイデオロギーを批判することが社会的弱者の立場を弱めることに繋がる、という証拠はないのである。

  「入れ替え/排除」と「矮小化」のどちらの懸念も、実際に懸念されている事態が起きるかどうかは疑わしい。そして、懸念されている事態が起きるという証拠はないが、逆の証拠は存在する。これは、現代の左派が理論の前提としている、人間の価値についての考えと「不正義は相互に繋がっている」という考えから予測できることである。 正義・権力・抑圧・ケア・民主主義などについての左派の意見から動物を排除すべきだという考えは、左派の理論そのものと反しているのである。

 

・・・マイノリティ集団は、自分たちの動物に関する慣習に対する批判の全てを、マジョリティが差別を正当化するために偽善的なダブルスタンダードを唱えている、と認識することが多い。しかし、上述したように、動物の権利団体の主たる批判対象はマジョリティの慣習である。畜産や動物実験など、強力な企業や権力と結びついている慣習を批判しているために、動物の権利団体は嘲笑されて周辺化・犯罪化されている。動物の権利団体は、マイノリティによる慣習についてコメントを求められる際に、動物の問題を特定の文化や人種に対する差別に結びつけることを否定する。しかし、人種差別や文化差別の存在する現状では、動物の権利運動がマジョリティに利用され、マジョリティの慣習に対する批判を無視されてマイノリティの慣習に対する批判だけ取り上げられる危険性が常に存在する。動物の権利団体はこのような危険に備えていなければならない。

 ただし、マジョリティに利用されるという危険は、動物の権利に限ったものではない。動物の権利をマイノリティ差別に利用する右翼団体は、女性の権利・ゲイの権利・子供の権利もマイノリティ差別に利用してきた。女性の権利やゲイの権利に配慮を示してきた記録も無いような右翼団体が、イスラム系移民を差別するときには女性の権利やゲイの権利を持ち出すのである。しかし、女性の権利やゲイの権利が差別に利用された時にも、左派は女性の権利やゲイの権利についての主張を弱めたわけではなく、右翼団体や文化差別を批判しながら、権利の普遍性を改めて主張してきた。例えば、女性の権利を主張する人たちは女性の権利を主張するための道徳的な基盤は全ての社会に存在すると主張して、ある集団にはジェンダー平等が達成できるための文化的DNAが存在しているが別の集団にはそのような文化的DNAは存在していないという本質主義的な見方を否定してきた。また、左派は自分たちの運動の恣意性やダブルスタンダードを抑制するためのチェック・アンド・バランス機能を構築するようにしており、西洋主義やエリート主義を抑制して多種多様な人々の意見を包括するための継続的な努力がなされている。このような左派による努力の末、例えばフェミニズムにおいては、ポストコロニアルフェミニズムや多文化フェミニズムなどの新たなフェミニズムが誕生している。

 動物の権利についても、左派はポストコロニアルな動物の権利理論を主張することができる筈であるし、実際に多くの著者がポストコロニアルフェミニズムを参考にしながら動物への抑圧に対する反対と人間への抑圧に対する反対を結び付けるための議論を主張している。上述したように、ある権利の主張がある集団に対する差別や文化帝国主義に利用されるという危険は動物の権利に限らないし、他の権利と同じように動物の権利においても、文化帝国主義や人種差別の危険に対抗するための措置をとることができる。にもかかわらず、左派は動物の権利の問題に関わることを拒む。左派による人間の権利へのスタンスと動物の権利へのスタンスの非対称性を考えると、左派は単に動物の問題を重大な問題だとは見なしておらず、人間による動物に対する暴力に無関心であるのだと考えられる。

 

・・・擁護に価する全ての多文化主義の考え方がそうであるように、多文化主義的な動物の権利論も、マジョリティの慣習を脱中心化・脱神聖化して、多文化間の交流への道を開き、進歩的な主張の道具化を防ぎ、倫理的な説明責任から免れている特権や権力の行使を白日の下に晒す。このような動物の権利論は、左派による規範的・方法的なコミットメントから自然に発生するものである。人間による動物への暴力を左派が無視し続けることについて、正当な根拠を見出すことはもはや難しい。

 

弱者男性論とか女性だけの街とかについての雑感

 

 Twitterはてななどで「弱者男性」論を見かけたり、また先日の「女性だけの街」に関する議論などを見かけた際には、モヤモヤすることが多い。モヤモヤを吐き出すために雑感を書いてみた(あまり論理的ではない、感覚に頼ったくどい文章になってしまったが)。

 

・「弱者男性」論もさまざまであり、私もすべての「弱者男性」論に目を通したり体系的に整理したりした訳ではないが、その多くは男性が抱く「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを強調し、またその中の一部は「女性の苦しみだけを取り上げて女性に対する優遇を主張して、男性の苦しみを無視したり弱者である男性に対して攻撃を加えている」としてフェミニズムを攻撃する傾向があるように思える。

(長らくフリーターをやっていて体力も弱い方でコミュ力もあまりなくスキルもあまりないから稼金能力がなく甲斐性がない男性である)私自身も、「自分が男性であるということ」に由来するプレッシャーや苦しみを割と味わってきた方ではある。男性学の本は昔からちらほら読んできたし、心理学の観点から男性の孤独感・プレッシャーについて分析した洋書をわざわざ買って読んでブログ記事として紹介したりもしてきた(男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』)。また、一部のフェミニズムジェンダー論では男性の苦しみを積極的に無視・軽視したり、「男性は男性であるというだけで女性に比べて下駄を履かされているのだから弱音を吐いてよい立場ではない」という風な主張がされていることも確かである。そのような議論に対する批判も書いたことがある(男性が自殺するのは「支配欲」が原因だって?)。

 しかしまあ、上述したような主張を行うのはフェミニストジェンダー論者の間でも多数派ではないだろうし、基本的には、「女性特有の苦しみも男性特有の苦しみのどちらも社会的性差の押し付けや性別役割分業の構造などから生じているのだから、社会的性差や性別役割分業の問題を解決すれば、男女ともに苦しみから解放される」といった認識を抱いている人の方が多いはずだ。「フェミニストは男性の苦しみについて積極的にはケアせず女性の苦しみばかり強調する」というタイプの批判については、フェミニズムは(基本的には)女性自身たちによる女性のための運動であるのだから、男性に対して不当に攻撃を加えてきた場合には批判されるべきではあるとはいえ、消極的に男性を放置する分については仕方ないし認められると思う。男性の苦しみについてはやはりまず男性自身が訴えるべきであると思うし、その際にも女性に対して不当な攻撃をするべきではない。

 

・「男性差別」という現象は存在するだろうが、女性差別や他の差別について当てはまる議論がそのまま男性差別に当てはまる、ということは少ないように思える。少なくとも、女性に対する差別をそのまま鏡写しにした差別が男性に対して起こっている、ということはないだろう。

 たとえば、最近のTwitterでは、(性犯罪の危険に晒されたくないという理由で)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らしたツイートに対して「それはアパルトヘイトと同様の主張だ」という指摘するコメントが付いたことから、論争・炎上が起こった。しかし、現実問題として性暴力の加害者の大多数は男性であり被害者の大多数は女性であるということをふまえれば、(性暴力の被害経験があったりその脅威に晒されている女性が)「女性だけの街に住みたい」という願望を漏らすのも理解できるし、少なくとも、悪意のある差別発言と見なす気にはなれない。

 また、たとえば実際にアパルトヘイトホロコーストが起こったという歴史的事実をふまえてみると、ヨーロッパ人や白人が「白人だけの街に住みたい」「ユダヤ人がいない町に住みたい」とつぶやいたとすれば、仮につぶやいた本人が主観的に本気で黒人を恐れていたりユダヤ人の犯罪率は高いと認識していたりしても、あるいは仮に統計的にそれらの人種の犯罪率なり暴力性が有意に高いとしても、そのような発言が黒人やユダヤ人に対して与える恐怖や脅威を考えれば、問題のある言説や差別発言として批判の対象とされるべきだろう。しかし、件の「女性だけの街に住みたい」という発言に関しては、少なくとも私は(自分自身が男性であるにも関わらず)恐怖や脅威を感じなかった。というのも、アパルトヘイトにあたるような隔離政策やホロコーストのような虐殺が「女性」という属性から「男性」という属性に対して行われたことは歴史的にほぼ皆無であるし、今後の世界でもおそらく有り得ないだろうと思うからだ。実際、私以外の男性でも、「女性だけの街に住みたい」発言について、不快感を抱いた人は多いだろうが、本気で脅威や恐怖を感じた人は少ないだろうと思う。炎上をまとめたTogetterなどを読んでも、「普段からフェミニストっぽい主張をしているアカウントが叩きやすい隙のあるツイートを漏らしたから、水に落ちた犬をここぞとばかりに叩いている」という感が強かった。

 女性特有の苦しみの一部には、「性暴力のリスクに晒されて生きなければならないこと」を始めとして、(主に)「男性」という属性が「女性」という属性に対して直接的に危害を与えるがゆえに生じる苦しみも含まれている(もちろん、実際に性暴力を行う男性はごく一部だが)。一般論として性暴力の被害者に対していまだに世間は冷淡であること、あるいは性暴力予防の措置を社会が十分にとっていないことなどなどを考慮すれば、女性特有の苦しみ(の少なくとも一部)は、実際に社会に存在する女性差別の結果であると言えるはずだ。だから、世間の価値観なり社会構造なりを何らかの形で変えて女性差別を減らす・無くすことで、女性の苦しみには対策が取れるはずである。・・・一方で、「女性」という属性の存在が「男性」という属性の存在に対して直接的に攻撃を行うがゆえに生じている苦しみというものは少ないように思える。「女性にパートナーとして選ばれないから苦しい」というタイプの苦しみなどはあるかもしれないが、それにしたって女性による男性に対する攻撃の結果だとは言えないし、女性側の不作為などの責任を問う訳にもいかない。総じて、男性特有の苦しみは女性特有の苦しみに比べて実存的な部分が大きく、本人が何とかしなければならないところがあるように思う。

 

フェミニズムジェンダー論に対してよくある批判の一つが「男性と女性との違いはすべて社会構築的なものであると論じ、生物学的性差の存在を認めない」というものだ。そして、この種類の批判は私自身も何度か訳して紹介してきている(「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」「『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係 」「フェミニストはいつフェミニストでなくなるか?」)。

 男性の暴力性の高さについては、進化心理学や犯罪学等の学問においてはかなり立証されている。私自身、生物学的性差というものは人間の行動や社会関係にかなり強く影響を与えていると思っているし、男性が行う性暴力やその他の暴力の要因ともなっていると考える。

 一般的に、ある人がどの人種に属するかという生物学的事実はその人の行動を説明しない。一部の能力や体質などに多少は遺伝差があるとしても、たとえば「○○という人種は生物学的特質として××という犯罪を犯しやすい」という主張が立証されているということはないはずだ。だから、もしある社会で特定の人種が特定の犯罪を犯しやすいとすれば、それは社会の制度や構造に由来しているはずだし(その人種は経済的に不利な立場に立たされていたり、就職の際にその人種は差別されて真っ当な職に就くのが難しいから、非合法な手段で金を稼がなければならない、などなど)、その制度や構造を改善することを行うべきだろう。・・・だが、男性という属性が犯罪を犯しやすいということには、社会の制度や構造とは別の生物学的性差も関係している。何が言いたいかというと、人種という属性に関する議論を性別という属性に関する議論にそのまま反映することはできないだろう、ということだ。

 もちろん、「男性はみんな潜在的に犯罪者だから隔離されるべきだ」とか「男性は暴力性が高いのだから女性に比べて行動を制限されるべきだ」というようなことを主張したい訳ではない。しかし、「生物学的性差の存在を認めない」としてフェミニズムジェンダー論を批判する一方で性暴力やその他の暴力に関する議論では生物学的性差を無視する、というのも欺瞞であるように思える。

 

 

男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争

男はなぜ暴力をふるうのか―進化から見たレイプ・殺人・戦争

 

 

 

ある人が保守であるかリベラルであるかは生理的なもの?

 

 アメリカの政治家科学者兼心理学者のJohn R HibbingがPsychology Todayに投稿した記事を訳して紹介。なお、私は同様のテーマについて論じられた著作『Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences』も数年前に読んだことがある。

 ジョセフ・ヒースやジョシュア・グリーンなどの著書や記事を読んだあとでは「保守もリベラルも、どちらの政治的立場も感情や生物学的特徴などの非合理な要素に基づいている(だから、どちらが理性的だとかどちらが正しいとは言えない)」というタイプの主張にはやや眉に唾を付けて受け入れているところがあるのだが、まあ興味深い内容ではあるので紹介することにした。元記事の投稿は2014年1月。

 

www.psychologytoday.com

 

「政治と、ミミズを食べること」 by John R Hibbing

 

 右はディック・チェイニーやアン・カーターから左はバーニー・サンダースやレイチェル・マド―まで、政治的見解や意見とは様々だ。しかし、そもそも、なぜ人々は特定の意見を持っているのだろうか?最近の研究は、人々の間の生物学的な傾向の違いがそれぞれの政治的信念を形成するのに一役買っているかもしれない、ということを示唆している。

 社会的な文脈や経済的な文脈が政治的意見に関係していることは明白であるが、収入、人種、育ちだけが政治的意見を決定する訳では全くない。ウォーレン・バフェットエドワード・ケネディなど多くの裕福な人が左寄りの政治的立場を支持しているし、クラレンス・トーマスやハーマン・ケインのようにアフリカ系アメリカ人であっても右寄りの政治的立場に立つ人は多い。また、推計によるとアメリカのゲイ男性のうち20%は共和党を支持している。重要な政治的問題に関する両親の立場も、その子供の政治的立場とは僅かにしか関係がない。ある人が社会文化的にどのような立場にいるということがその人の政治的立場を示すということはそれほど多くないのである。

 しかし、生物学なら政治的立場を特定することができるかもしれない。人々はそれぞれに異なった出来事や状況に対して感情を刺激されるとすれば、人々の間で異なる反応パターンがそれぞれの政治的立場に関連しているのかもしれないのだ。たとえば、死刑賛成・愛国心の表明・正当防衛法・国防費の大幅な増加・移民の増加への反対や新しいライフスタイルへの反対など、一般的に政治的右派に結び付く物事の多くは、外集団・規範逸脱者・病原体・そして未知の者からもたらされる脅威から身を守りたいという欲求に基づいている可能性がある。このことをふまえて、上記の物事に関して右寄りの意見を持っている人々とは、不快か脅威的かまたは煩わしい画像に対して他の人々よりも敏感に反応する傾向を持つ人々であるかもしれない、と私たちは考えた。

 私がミミズを食べる写真をある人に見せた際に、その人はどれ程の感情的刺激を受けるか、ということを調べたいとしよう。昔なら、その画像が感情を刺激したかどうか実験の参加者たちに直接教えてもらおうとしたかもしれない。しかし、多くの場合にその人本人は自分の感情的反応について必ずしも最良に判断できる訳ではない、ということが現代ではわかっている。一部の人は、自分の中にあるイメージを投影するために答えを歪めるかもしれない(たとえば、男性は不快な刺激に対する反応を過少に評価することが知られている)。また、一部の人々は単に自己省察が下手であるかもしれない。

 生理学的な測定方法なら、ある人がどれほどの感情的刺激を受けたかということをより客観的に判断することができる。最もよく使われているのが皮膚コンダクタンスだ。噓発見器などにも使われたこの技術は、ある人が本当のことを言っているかどうかを確かめる方法としては疑わしいが、交感神経系の動作を測定する方法としては世界的に認められているものである。交感神経系とは、ハグをしたり、パンチしたり、鼻にしわを寄せたり、逃げ去ったりするよう身体を準備させるための部分だ。

 私と同僚は、ランダムに選ばれた数百人の大人たちの生物学的反応を測定した。このような研究を行ったことがある人なら、測定された反応の度合いが人によって大幅に異なっていたことに驚くはずだ。全く同じ画像を見せられても、ある人々は強い生物学的反応を示したが、別の人々は中くらいの反応を示したし、また全く反応を示さない人々もいたのだ。

 このような反応の違いは、政治的意見の違いに関係しているのだろうか?実験を行った全てのグループにおいて、不快で脅威的な画像に対してより強い反応が測定された人々は社会問題や国防問題について保守的な政治的立場に立っている可能性が有意に高い、ということが確認された。また、生理学的反応は経済的な問題に関する人々の選好とは関連性がないようであることも興味深い。つまり、不快さや脅威に対する反応度が平均よりも高いことは、リック・サントラムのような社会保守派の特徴ではあるかもしれないが、ロン・ポールのようなリバタリアンの特徴ではないのだ。とはいえ、不安になるような画像を見た際の生理学的反応の強度と、(たとえば)減税を支持することとが相関する理由を考えるのは難しいから、この結果はもっともなものである。

 このような結果はパターンとして何度も繰り返し発見されたが、しかしそれはあくまでパターンである。全ての社会保守派が他の人々よりも強く生物学的反応をしている訳ではないし、全ての政治的左派の生物学的反応が希薄な訳でもない。政治的信念とは、一つの尺度に還元して測るにはあまりに複雑でニュアンスに富んだものであるのだ。しかし、不快な出来事または脅威に感じられるような出来事に対する生物学的反応は、私たちの政治的信念を形作る重要な一因であるように思われる。上述した研究結果は、未知のものや予期せぬものや潜在的に負の影響を及ぼすであろうものに対する志向は進歩派と社会保守派との間で(神経学的にか、または他の仕方で)異なっているということを示す、多数の国々で行われた他の研究の結果とも一致しているのだ。

 この研究結果を見て、「保守派には生物学的に何らかの問題があるのだ」と主張したくなる誘惑にリベラルなら駆られるかもしれないし、「リベラルには何かが欠けているのだという疑惑が証明された」と保守派なら悦に入りたくなるかもしれない。しかし、実際のところはもっと複雑だ。結局のところ、脅威に対する反応があまりにも欠けていると危害や死のリスクが生じてしまうが、あまりにも反応が強すぎると、相互に利益のある交易を他人と行うことや長年に渡って生じている問題に対して新たなアプローチで解決を試みることが実質的に不可能になってしまうのだ。

 これらの研究結果に対する適切な反応とは、特定のイデオロギーの目標に沿うものにするために研究結果を歪めるのではなく、自分と政治的に対立している相手が抱いている見解は相手が誤った情報を信じていたり物事について慎重に勉強しなかった結果のものであるとは限らないかもしれない、という可能性を認識することである。対立する相手が自分にとって不快な見解を抱いていることは、少なくとも部分的には、(おそらく、遺伝、発達、人生の初期で起こったことの組み合わせの結果として)左派の人々と右派の人々は世界を異なった仕方で認識していることに由来しているのだ。社会保守派の人々の多くに対しては強い生物学反応を引き起こす出来事が、左派の人々の多くに対してはほとんど反応を引き起こさない。このように異なる知覚や経験が、大規模な社会を運営することについての異なる意見を生み出したとしても、何ら不思議なことではないだろう。

 

 

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

Predisposed: Liberals, Conservatives, and the Biology of Political Differences

 

 

 

 

 

 

配偶者選択が政治的分断を悪化させる?

 

 今回はThe Atlanticに掲載されたアメリカの進化心理学者のAvi Tucshmanの記事を訳して紹介。数年前に読んだTucshmanの著書の『Our Political Nature(私たちの政治的な本性)』でもこの記事と同様の話題が含まれていた。なお記事が公開されたのは2014年2月なので、トランプ大統領ではなくオバマ大統領の時代である。

 

www.theatlantic.com

 

「アメリカはなぜこれほどまでに政治的分極化しているか:教育と進化」 by Avi Tucshman

 

 一般教書演説にて、オバマ大統領は国会がいかに「敵意に満ちた議論に費やされてしまっか」ということを嘆いた。そのような議論は、この数年において「民主主義の最も基礎的な機能を実行すること」すらも妨げているのだ。左派の政治家たちと右派の政治家を分断する巨大な政治的亀裂は狭まる様子がなく、今秋の中間選挙も過剰な論争に満ちたものとなるだろう。このような状況であるから、いまから11月までの間で議会は何も決めることができないだろう、とほとんどの有識者が予測している。アメリカにおける政治的分断は、なぜかくも危険なレベルにまで達したのか?

 政治的分断についての有名な理論が、ビル・ビショップの大分割(Big Sort)仮説だ。過去40年間のアメリカ人たちは、自分と同じように生きて、自分と同じように考えて、そして自分と同じ政党に投票する人たちが暮らすコミュニティへと分割され続けている、とビショップは主張する。たとえば、1976年の時点では、大統領候補が対立候補に20%以上の差をつけて勝利した群は全国の群のうち25%を少し上回るほどだった。しかし、2004年の時点で、その数は50%近くにまで上昇したのだ。

 ビショップの主張は、どのような事態が起こっているかということについての納得いく解説ではある。しかし、なぜそのような事態が起こっているのか?その根本にある理由は、人口統計学と人類学の研究結果によって明確に理解することができるようになった。教育と進化こそが、政治的分断の原因であるのだ。

 20世紀後半における大分割現象の加速は、アメリカにおいて教育の機会が大規模に増加したことと同時に起こっている。たとえば、1960年から2008年にかけて、学士号を取得した女性の割合は約5倍にまで増加した。人々の学歴が劇的に高くなったことは、予期せぬ二つの副作用を引き起こした。第一に、人々はより教育を受けるほどより政治的に分断されるということが研究によって示されている。より教育を受けたリベラルはよりリベラル的になる一方で、より教育を受けた保守はより保守的になるのだ。第二に、大学の学位を持つ人々はそうではない人々よりも多くの自由を味わえるが、その自由には社会階層の移動及び地理的な移動の自由も含まれている。1980年代から1990年代にかけて、大学で教育を受けたアメリカ人たちの45%が卒業後5年以内に新しい州へと引っ越している。一方で、高校までしか教育を受けていないアメリカ人は19%しか引っ越していない。

 同時に、進化の力が移動の自由を得た人々を同質的な集団へと引き寄せている。配偶者選択において、政治的志向は重要な役割を果たすからだ。社会全体を見ると、ほとんどの生物学的特徴及び社会的特徴について、配偶者同士は互いに似通う傾向がある…少なくとも、ランダムに選ばれた二人よりかは僅かに似ている。これらの特徴には、肌の色から耳たぶの大きさまで、年収から外向性などの主要な性格的側面までの、全てが含まれている。とはいえ、ほとんどの事柄において、配偶者同士の統計的関連性はきわめて弱い。しかし、配偶者同士の間で最も強く相関関係がある事柄は、政治的志向なのだ(相関係数は0.65である)。学校でのお祈りや中絶の是非などの道徳的問題に関して、配偶者同士は似た意見を持っていることが多いが、それは結婚して一緒に暮らしている間に互いに似通うからではない。 “同じ羽色の鳥は群をなす(類は友を呼ぶ)”からなのだ。生物学者たちが同類交配と呼ぶ現象である。

 政治科学者のPeter Hatemi,、Rose McDermott、Casey Klofstadたちはアメリカ社会のコンピューターシミュレーションを行い、1980年代以降の人々の同質性に具体的な数字を割り出そうとした。彼らのシミュレーションは、政治的志向はやや遺伝性がある特徴である、という事実を考慮に入れている。プログラムを起動してみると、人々の間の右派―左派の差は、最初の5世代の間で大幅に広がった。次の10世代では差は僅かにしか広がらず、その後で均衡状態に達した。この時点で、極端な政治的志向を持つ人々の割合は4.5%から11.2%に増加する一方、中道的な政治的志向を持つ人々の割合は17%も低下した。つまり、同じ羽色の鳥たちが番うことで、アメリカの政治的分断は更に拡大したのだ。

 政治的イデオロギーの同質性と生殖との緩やかな相互作用は既に発生しており、アメリカにおける予期せぬ政治的分断の一因となっている可能性が高い。政治的分断が発生し始めた1980年代の時点で、それぞれ別政党の大統領候補と国会議員の組み合わせに投票した有権者の割合は25%だった。2012年では、その割合は11%にまで急落した。そして、衆議院議員たちの投票の分極化は過去最高になっており、南北戦争直後の19世紀の最高値すらも上回っている。

 この陰鬱な研究結果における希望の光は、私たちの政治的立場は不変に固定されたものではないということだ。私たちの政治的志向の分散のうち、個人間の遺伝的差異に由来しているものは半数だけだ。残りの半分は環境に由来する。だから、私たちを分断させる危険がある政治的態度を乗り越えることは確かに可能なのだ。そのためには、まず、私たち人間の政治的な本性を理解しなければならない。人々の間のイデオロギーの多様性を事実に基づいて理解し、イデオロギーではなくプラグマティズムに対するコミットメントを改めて確立しなければならないのである。

 

 

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

Our Political Nature: The Evolutionary Origins of What Divides Us

 

 

アニマルライツとフェミニズム

 

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

 

 

 

 ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか

 

上記のSutaro氏の記事にも書かれているように、Twitterにてフェミニストのシュナムル氏が「ハーゲンダッツを食べた」という旨の発言をしたことに対して、ヴィーガンRac氏が「フェミニストなのに乳製品を肯定するのか」と批判しことをきっかけに、ヴィーガニズムフェミニズムに関わる議論がにわかに巻き起こったようだ。その議論にはいわゆるTwitter論客も多数参加していたようだが(そして、その大半は反・ヴィーガニズムの主張をしていたようだが)、私はTwitterでの議論とは基本的に不毛なものであると思っているので参加しなかった。しかし、フェミニズムアニマルライツ(の理論及び運動)との関りは私の学生時代の研究のテーマでもあったので、この議論自体には親しみがある。参考までに書籍や論文の情報を紹介したり、このテーマに関する私の雑感を書いてみよう(ただし、論文を書いたのは数年前だし、論文も参考書籍もすべて実家において来てしまったので、内容はうろ覚え)。

 

 とりあえず、日本語で(タダで)読める論文としては鬼頭葉子氏と白石(那須)千鶴氏の論文がある。

 

動物倫理とフェミニズム

 

暴力・女性・動物:「動物の権利」とフェミニズム

 

 翻訳本としては、このテーマについての元祖的な存在であるキャロル・アダムズの『肉食という性の政治学ーフェミニズム・ベジタリアニズム批評』が翻訳されている。また、ローリー・グルーエンの『動物倫理入門』では動物倫理に関する様々な事例と立場が紹介されているが、著者のグルーエン自身がエコロジカル・フェミニストフェミニスト倫理学的な立場の人物であるということもあり、それらの立場についても紙幅を割いて紹介されている*1

 

 洋書としては、キャロル・アダムズとフェミニスト倫理学者のジョゼフィーン・ドノヴァンの共著であるThe Feminist Care Tradition in Animal Ethics:A Readerが、フェミニズムの立場から動物倫理の問題にアプローチした様々な論文が収録されており、最も網羅的というか代表的な感じ。理論ではなく運動に関する本としては、アニマルライツ運動を行っている女性たちのインタビューに基づいて書かれたWomen and the Animal Rights Movementがある。

 

・アダムズの『肉食という性の政治学フェミニズム・ベジタリアニズム批評』はいわゆるラディカル・フェミニズムの立場から書かれた本で、肉食というシステムが家父長制の維持といかに関わってきたかということや、家畜と女性はどのように同一視されて貶められてきたか、肉を食うことが「男らしさ」と繋げて称えられる一方で菜食主義は女性的なイメージと結び付けられて批判されてきた…などなどのことが論じられている。…が、内容としてこじつけや牽強付会な主張も多くて、読んでいて正直言ってトンデモ本に近い感じもしなくはなかった(といっても、私には大概のラディカル・フェミニズムやクリティカル・セオリーの主張はこじつけでトンデモに思えるので、アダムズの議論自体が他のそのテの理論に比べて特に酷いということはないと思うが)。

 

・アダムズの議論には無理が多いとはいえ、「女性」と「動物」を同一視することで女性を貶める、という言説が歴史的に用いられてきたことは確かである。有名な出来事としては、18世紀末に初期のフェミニストのメアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を出版したのに対して、ウルストンクラフトの主張を貶めるために『獣の権利の擁護』というパロディが書かれたことがある。女性と動物を同一視して貶める言説に対して、伝統的にフェミニストたちは「いいや、私たちは動物ではなく(男性と同じ)人間だ」と主張して反論してきたわけだが、発想を逆転させて、動物を女性と共に男性・家父長制に貶められてきた共通の仲間と見なして共闘する、というのがアダムズらの主張の根幹だ。

 

・ドノヴァンやグルーエンらが行っている主張は、よりスタンダードなフェミニスト倫理学に近いものである。フェミニスト倫理学は「ケアの倫理学」と呼ばれる理論とも重なっているのだが、基本的には、「倫理は感情ではなく理性に基づくべきである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった主張をする。なぜこのような主張がフェミニスト的かというと、「理性」や「自律」といった概念は伝統的に「男性的」と見なされて称えられてきた一方で「感情」や「依存」は「女性的」と見なされて貶められてきたから、理性を批判して感情を肯定することで男性中心主義的な発想を逆転させる、といった感じの理由である。

 動物倫理の議論においてフェミニスト倫理やケア倫理が持ち出される際にも、基本的には、「理性的」であるとされる主流の理論に対するカウンター的な議論が行われる。「功利主義は全体のために少数を切り捨てる恐れがあるから論外」「権利という概念自体がそもそも自律的な存在を前提とする男性的なものであるから、“動物の権利”を主張する理論も不適切」「また、功利主義や権利論では動物が苦痛を感じる能力や自身の生に対して利害を抱くための知能を持っているか否かが重視されるが、そのような発想は能力による生の選別につながるから問題である」といった批判をしたうえで、動物が感じる苦痛に対する「共感」や「ケア」の感情、あるいは人間と動物の間にある関係性を重視したうえで動物への道徳的配慮を説く、というのが基本だ。

 

 私としては、フェミニスト倫理・ケアの倫理に対しては基本的にかなり否定的である。このブログでも倫理学道徳心理学について様々に紹介してきたが、人間の感情と理性に関する心理学や哲学の知見を学べ学ぶほど、理性ではなく感情に基づいて道徳を築こうとすることの不安定さや危険さ(そして、逆説的に、「理性的な」倫理学理論がいかに有益で優れているかということ)が理解できる。例えば心理学者のポール・ブルームは「共感」の持つ危険性を口酸っぱく強調しているし、心理学と倫理学の双方について研究しているジョシュア・グリーンも、感情と理性との二重課程理論の見地や進化心理学・実験心理学の見地を踏まえたうえで、感情を抑止し理性を強調する功利主義が最善だと論じている。特に進化心理学の知見を参照すれば人間の持つ感情というものがいかに部族的で恣意的かということが理解できるはずなのだが、フェミニストの多くはそもそも科学的知見というものを重視しない傾向にあるので(とりわけ進化心理学は嫌われている)、心理学からのフィードバックが反映されて理論が改められたり更新されるということがないように思える。

 また、フェミニスト倫理やケアの倫理における動物についての議論にもあまり感心しない。たしかにピーター・シンガー功利主義には障碍者差別の側面があるとはよく批判されるし、功利主義ではない動物の権利論も動物の知能を重視する側面があるため能力差別のようにも聞こえるから印象が悪いという側面はあるが、しかし功利主義にせよ権利論にせよ主張が一貫しており各事例においても具体的な解答が出せる、という利点がある。一方、「感情」なり「関係性」なりを強調するフェミニスト倫理は限界事例の問題や生のトレードオフといった気まずく不愉快な話題に踏み込まなくて済むので口当たりは良いが、一貫した理論がないためにどの論文を読んでも場当たり的で恣意的な側面が強く、動物に対して人間はどう接するべきかとか動物に対する社会政策はどうあるべきかといった具体的な行動指針を論じる際にも役にも立たない。「権利」を男性的な概念だと言って否定するのも「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ。結局、主流の理論を批判して否定するのはいいが生産的な代案を導くことができない、ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」の一種であるように思える。

 

・理論ではなく、社会運動としての動物の権利運動とフェミニズムの関りについては、以前に別記事で書いたことがある。要するに、動物の権利運動の参加者は昔から女性が多かったので「女のヒステリー」とレッテルを貼られて貶められることが多く、それに対して「いいや、私たちの運動は理性に基づいたものである」と対抗するかあえて感情的なイメージを押し出すかといったジレンマが運動内部に存在する、という話だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*1:『動物倫理入門』についての私の記事はこちら:

davitrice.hatenadiary.jp

「かわいそうランキング」についての雑感

 

 一年くらい前から、Twitterはてブなどで「かわいそうランキング」という単語を目にする機会がある。TLなどに流れてくるのをざっと見た感じでは、「反ポリコレ」「反フェミニズム」、「弱者男性論者」といったクラスタの人々が特によく用いる単語であるようだ。「かわいそうランキング」という言葉のそもそもの提唱者は白饅頭氏であるようだが(有料記事であるため私は未読)、白饅頭氏の議論をまとめた街河ヒカリ氏の定義によると、「かわいそうランキングとは、弱者救済の優先順位や弱者救済にかける質量が決定されるときに使われる序列であり、人から「かわいそう」という感情を抱かれる弱者ほど上位に置かれ、「かわいそう」という感情を抱かれない弱者ほど下位に置かれる。また、かわいそうランキングには人の認知バイアスが伴う。」という現象や概念を指す単語であるらしい。

 

 人々が弱者を救済する運動を行う際や社会問題について考慮する際、あるいは社会政策を決定する際や募金先を選ぶ際などに理性ではなく感情を重視した判断をしてしまい、そのために共感を引き起こしやすい属性を持つ存在は手厚く配慮される一方でそのような属性を持たない存在に対する配慮は不当に少なくなるといった問題、また、感情移入をしやすい少数に対して配慮が集まる一方で感情移入が難しい多数に対する配慮が集まらないという問題は、欧米の倫理学道徳心理学などの業界でも以前から議論されてきた。「大勢の人が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時よりも、一人の少女が苦しんでいるから助けが必要だと伝えた時の方が寄付金が集まりやすい」という「身元が分かる被害者効果」についてのポール・スロヴィックの議論は有名である。私のこのブログでも、「心理学者ポール・ブルームの反・共感論」という記事で、感情に基づいた判断は理性に基づいた判断に比べてバイアスがかかっているために救済の対象が偏ってしまう・救済の仕方が恣意的で非効率なものになってしまう、という議論を紹介したことがある。倫理学ピーター・シンガーによるブルームの本の書評記事(「共感の罠」)でも同様の議論がされている。また、別サイトではシンガーによる「効果的利他主義」の主張のあらましを紹介した(「オペラの素晴らしさか、生命を救うことか?選択するのは貴方だ」)。スロヴィックやブルームやシンガーが問題視している事柄と、「かわいそうランキング」という概念が問題視している事柄は、一見した感じでは共通しているように思える。

 

 しかし、Twitterなどで散見した限りでは、「かわいそうランキング」という言葉を用いる人の多くは『「女性」「LGBT」「人種的マイノリティ」という属性を持つ人たち(場合によっては「イルカ」や「猫」など人間からの人気が高い動物も含まれる)に対する救済が、「弱者男性」や「日本人の庶民」に対する救済よりも優先されていること』という現象のみを問題視してその言葉を用いることが多いようだ。一方で、ブルームやシンガーなどの議論では『自国民に対する救済が外国人に対する救済よりも優先されること』や『人間に対する救済が動物に対する救済よりも優先されること』も問題視され、批判されることになる。

 

 この違いは、「かわいそうランキング」の議論ではあくまで「かわいそう」という感情だけが問題視されているのに比べて、ブルームやシンガーの議論では広い範囲での「共感」や「感情」が問題視されている、ということから生じているように思われる。「かわいそうランキング」の議論では、主に女性やマイノリティといった「わかりやすい弱者」に対して湧く「かわいそう」という感情だけが、恣意的で非合理的なものであると批判され、弱者男性といった「わかりづらい弱者」に対しても配慮せよと説かれる。一方で、ブルームやシンガーの議論では、たとえば「愛国心」や「身内贔屓」といった感情も、「かわいそう」という感情と同様に恣意的で非合理的なものであるとされる。感情を排して理性的に考えれば、自国民の救済を外国人の救済よりも常に優先する理由はないし(特に、一般的に途上国や紛争地帯の人々は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える外国人の数は同額の金額で救える自国民よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、外国人の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)、人間の救済を動物の救済よりも優先する理由はない(特に、一般的に家畜などの動物は先進国の人々と比べて大きな苦痛を感じている場合が多く、ある一定の金額で救える動物の数は同額の金額で救える人間よりも多数である場合も多いことを踏まえれば、動物の救済を優先すべき場合の方が多いかもしれない)。自国民の救済や人間の救済を優先であると私たちが判断しがちなのは、理性に基づいて考えた結果ではなく、自分が属する集団や生物種を優先すべきだという感情(あるいは、外国人嫌悪や食欲などの感情)に基づいたものであるかもしれない。となれば、「かわいそう」という感情に基づいた判断が疑われて批判されるべきであるのと同じように、それらの判断も疑われて批判されるべきであるだろう。

 

 特にシンガーの「効果的利他主義」の議論に慣れ親しんだ身からすれば、「かわいそうランキング」という単語を用いる人たちの多くが「“かわいそう”とされないために救済の手が差し伸べられない弱者男性や日本人マジョリティ」へ救済を施すことを熱心に主張するわりに、(「かわいそう」以外の感情のために救済の手が差し伸べられない)外国人や動物に対する救済については冷淡であったりむしろ批判的であるのは、かなり恣意的で都合のよい話であるように思える。「かわいそう」という感情だけを批判の対象として、身内贔屓などのその他の感情を不問にすることを正当化するのは難しいだろう。

 

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

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